第11話 名前
傷は、塞がっていく。体の傷は。
ヴォルフの左腕の刀傷は、順調に回復していた。三日で包帯が取れ、一週間で動きに支障がなくなった。軍人の体は頑丈にできている。
フリーデはその回復を──仕事のパートナーとして──確認していた。毎朝、会議室に入る時にちらりと左腕を見る。包帯が小さくなっているか。動きに違和感はないか。
(確認しているだけ。計画に支障がないか、確認しているだけ)
そう自分に言い聞かせるのが、日課になっていた。日課になっている時点で、それはもう「確認」ではないのかもしれないが──フリーデはその思考を意識的に遮断した。
帝国滞在一ヶ月半。冬が本格的に到来していた。ノイシュタットの街は雪に覆われ、窓の外は白一色だ。朝は暖炉に火を入れないと部屋にいられない。故郷の冬に似ている。それだけで──少しだけ、安心する。
ヴォルフの腕が治り、会議は通常通りに再開された。だが──フリーデの方が、どこかおかしかった。
数字に集中できない。
五年間、一度もなかったことだ。帳簿を開けば世界が消える。数字の世界に入れば、感情など存在しない。それがフリーデの武器であり、盾であり、唯一の居場所だった。
その盾に、ひびが入り始めている。会議中にヴォルフの声を聞くと、指が止まる。将軍が席を立つと、目が追ってしまう。計算書の数字ではなく、将軍のメモの端の花の落書きを思い出してしまう。
(……なんで。こんなの、おかしい)
理由はわかっていた。わかっていて、認めたくなかった。認めたら戻れない場所に行ってしまう。
◇
ある夜、父に手紙を書いた。書斎の蝋燭が揺れる中、何度も書き直した。最初の三枚は丸めて捨てた。四枚目で、ようやく言葉が形になった。
『お父様
帝国での仕事は順調です。交易構想は完成し、実行段階に入ろうとしています。ここでは私の計算が正しく評価されています。名前を消されることもありません。
評価されています。認められています。必要とされています。
でも──それだけでいいのか、わからなくなりました。
評価と、必要と、もう一つ、何か別のものが欲しいような気がします。でもそれが何なのか、私にはうまく言葉にできません。お父様ならわかりますか。数字では計算できないものの話です。
フリーデ』
書き終えて、ペンを置いた。手紙を読み返す。
(こんな手紙、お父様は困るだろうな。数字で計算できないものの話なんて。あの人は数字より寡黙だから)
でも──父ならわかるかもしれない。母を早くに亡くし、一人で私を育ててくれた人だ。数字では測れないものを、あの人は知っている。
封をして、使者に預けた。故郷の北部まで、一週間。返事が届く頃には──何かが変わっているかもしれない。
◇
翌日。会議が終わった後、ヴォルフと二人で図面の片付けをしていた。
他の文官は退室し、会議室には二人だけ。窓の外は雪。暖炉の炎が小さく揺れている。
「フリーデ」
──心臓が、跳ねた。
ヴォルフが、敬称なしで名前を呼んだ。今まで一度もなかったことだ。「フリーデ嬢」か「ノルトシュタイン嬢」か。必ず敬称がついていた。
だが今──「フリーデ」と。
ヴォルフ自身も気づいたのだろう。一瞬の沈黙の後、表情が僅かに強張った。
「……フリーデ嬢」
言い直した。声が、ほんの少しだけ低くなった。
「この図面は明日も使う。保管しておいてくれ」
何事もなかったかのように、そう言った。
フリーデは図面を受け取った。指先が触れた。将軍の指は硬くて温かかった。
「……はい。保管しておきます」
自分の声が平坦であることを確認して、安堵した。動揺していないふりは、五年間で完璧に身についている。
──聞こえていなかった、ということにした。
ヴォルフが「フリーデ」と呼んだことは。一瞬だけ敬称を落としたことは。あの低い声が、妙に耳に残っていることは。
聞こえていたら、どう反応すればいいかわからないから。
◇
その夜。
使者が飛び込んできた。
「フリーデ様。ヴァイセン王国の第一王太子クラウス殿下が、帝国に向かっていると──」
手が止まった。
「クラウス殿下が?」
「はい。非公式の訪問で、三日後にノイシュタットに到着する見込みです。フリーデ様との面会を求めているそうです」
(……今更)
胸の底に、冷たいものが沈んだ。
クラウスが来る。あの人が。五年間私の名前を書類から消し続けた人が。婚約を破棄して聖女を選んだ人が。
今更何を言いに来るのか。「戻ってこい」と言うのだろう。国が傾いているから。交易路が途絶えたから。飢饉が止まらないから。
私の能力が必要だから。
(また──「便利だから」なのか。能力が要るから呼び戻す。それは評価ではない。利用だ)
トラウマが、体の奥から這い上がってくる。五年間の、透明な日々。名前を消された日々。殿下の功績として報告されるたびに、胸の奥が少しずつ削れていった日々。
書類棚の前で朝を迎えた夜。インクで染まった指を隠して舞踏会に出た夜。殿下が社交界で賞賛を受けている横で、壁際に立っていた夜。
あの感覚を──もう二度と味わいたくない。
(でも──もし、あの時。殿下ではなく、誰か一人でも「これはフリーデの仕事だ」と言ってくれていたら)
……言ってくれた人は、いた。
今、ここに。
公式記録に名前を残してくれた人。「計算を信じる」と言ってくれた人。故郷の飲み物を調べて差し入れてくれた人。
窓の外で、帝国の旗が夜風に翻っていた。
(ヴォルフ将軍は──私が王国に戻ると聞いたら、どう思うのだろう)
「止めはしない」と言うだろうか。あの人は、そういう人だ。他人の判断を尊重する。強制しない。命令しない。「信じる」と言うだけで、「従え」とは言わない。
──だからこそ、怖い。
止めてほしいのか、と聞かれたら。「行くな」と言ってほしいのか、と。
(……答えが出たら、もう「仕事のパートナー」ではいられない)
仕事の関係。利害の一致。能力の補完。──そういう言葉で自分を守ってきた。でも、その言葉の壁が、日に日に薄くなっている。
フリーデは窓のカーテンを閉めて、暗くなった部屋で一人、膝を抱えた。
数字では解けない問題が、目の前にあった。
──いや。
数字では解けない問題が、胸の真ん中にあった。




