表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの方を手放して国が傾かないと思っているのですか?  作者: 秋月 もみじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/15

第11話 名前


 傷は、塞がっていく。体の傷は。


 ヴォルフの左腕の刀傷は、順調に回復していた。三日で包帯が取れ、一週間で動きに支障がなくなった。軍人の体は頑丈にできている。


 フリーデはその回復を──仕事のパートナーとして──確認していた。毎朝、会議室に入る時にちらりと左腕を見る。包帯が小さくなっているか。動きに違和感はないか。


(確認しているだけ。計画に支障がないか、確認しているだけ)


 そう自分に言い聞かせるのが、日課になっていた。日課になっている時点で、それはもう「確認」ではないのかもしれないが──フリーデはその思考を意識的に遮断した。


 帝国滞在一ヶ月半。冬が本格的に到来していた。ノイシュタットの街は雪に覆われ、窓の外は白一色だ。朝は暖炉に火を入れないと部屋にいられない。故郷の冬に似ている。それだけで──少しだけ、安心する。


 ヴォルフの腕が治り、会議は通常通りに再開された。だが──フリーデの方が、どこかおかしかった。


 数字に集中できない。


 五年間、一度もなかったことだ。帳簿を開けば世界が消える。数字の世界に入れば、感情など存在しない。それがフリーデの武器であり、盾であり、唯一の居場所だった。


 その盾に、ひびが入り始めている。会議中にヴォルフの声を聞くと、指が止まる。将軍が席を立つと、目が追ってしまう。計算書の数字ではなく、将軍のメモの端の花の落書きを思い出してしまう。


(……なんで。こんなの、おかしい)


 理由はわかっていた。わかっていて、認めたくなかった。認めたら戻れない場所に行ってしまう。



 ある夜、父に手紙を書いた。書斎の蝋燭が揺れる中、何度も書き直した。最初の三枚は丸めて捨てた。四枚目で、ようやく言葉が形になった。


『お父様


 帝国での仕事は順調です。交易構想は完成し、実行段階に入ろうとしています。ここでは私の計算が正しく評価されています。名前を消されることもありません。


 評価されています。認められています。必要とされています。


 でも──それだけでいいのか、わからなくなりました。


 評価と、必要と、もう一つ、何か別のものが欲しいような気がします。でもそれが何なのか、私にはうまく言葉にできません。お父様ならわかりますか。数字では計算できないものの話です。


  フリーデ』


 書き終えて、ペンを置いた。手紙を読み返す。


(こんな手紙、お父様は困るだろうな。数字で計算できないものの話なんて。あの人は数字より寡黙だから)


 でも──父ならわかるかもしれない。母を早くに亡くし、一人で私を育ててくれた人だ。数字では測れないものを、あの人は知っている。


 封をして、使者に預けた。故郷の北部まで、一週間。返事が届く頃には──何かが変わっているかもしれない。



 翌日。会議が終わった後、ヴォルフと二人で図面の片付けをしていた。


 他の文官は退室し、会議室には二人だけ。窓の外は雪。暖炉の炎が小さく揺れている。


「フリーデ」


 ──心臓が、跳ねた。


 ヴォルフが、敬称なしで名前を呼んだ。今まで一度もなかったことだ。「フリーデ嬢」か「ノルトシュタイン嬢」か。必ず敬称がついていた。


 だが今──「フリーデ」と。


 ヴォルフ自身も気づいたのだろう。一瞬の沈黙の後、表情が僅かに強張った。


「……フリーデ嬢」


 言い直した。声が、ほんの少しだけ低くなった。


「この図面は明日も使う。保管しておいてくれ」


 何事もなかったかのように、そう言った。


 フリーデは図面を受け取った。指先が触れた。将軍の指は硬くて温かかった。


「……はい。保管しておきます」


 自分の声が平坦であることを確認して、安堵した。動揺していないふりは、五年間で完璧に身についている。


 ──聞こえていなかった、ということにした。


 ヴォルフが「フリーデ」と呼んだことは。一瞬だけ敬称を落としたことは。あの低い声が、妙に耳に残っていることは。


 聞こえていたら、どう反応すればいいかわからないから。



 その夜。


 使者が飛び込んできた。


「フリーデ様。ヴァイセン王国の第一王太子クラウス殿下が、帝国に向かっていると──」


 手が止まった。


「クラウス殿下が?」


「はい。非公式の訪問で、三日後にノイシュタットに到着する見込みです。フリーデ様との面会を求めているそうです」


(……今更)


 胸の底に、冷たいものが沈んだ。


 クラウスが来る。あの人が。五年間私の名前を書類から消し続けた人が。婚約を破棄して聖女を選んだ人が。


 今更何を言いに来るのか。「戻ってこい」と言うのだろう。国が傾いているから。交易路が途絶えたから。飢饉が止まらないから。


 私の能力が必要だから。


(また──「便利だから」なのか。能力が要るから呼び戻す。それは評価ではない。利用だ)


 トラウマが、体の奥から這い上がってくる。五年間の、透明な日々。名前を消された日々。殿下の功績として報告されるたびに、胸の奥が少しずつ削れていった日々。


 書類棚の前で朝を迎えた夜。インクで染まった指を隠して舞踏会に出た夜。殿下が社交界で賞賛を受けている横で、壁際に立っていた夜。


 あの感覚を──もう二度と味わいたくない。


(でも──もし、あの時。殿下ではなく、誰か一人でも「これはフリーデの仕事だ」と言ってくれていたら)


 ……言ってくれた人は、いた。


 今、ここに。


 公式記録に名前を残してくれた人。「計算を信じる」と言ってくれた人。故郷の飲み物を調べて差し入れてくれた人。


 窓の外で、帝国の旗が夜風に翻っていた。


(ヴォルフ将軍は──私が王国に戻ると聞いたら、どう思うのだろう)


 「止めはしない」と言うだろうか。あの人は、そういう人だ。他人の判断を尊重する。強制しない。命令しない。「信じる」と言うだけで、「従え」とは言わない。


 ──だからこそ、怖い。


 止めてほしいのか、と聞かれたら。「行くな」と言ってほしいのか、と。


(……答えが出たら、もう「仕事のパートナー」ではいられない)


 仕事の関係。利害の一致。能力の補完。──そういう言葉で自分を守ってきた。でも、その言葉の壁が、日に日に薄くなっている。


 フリーデは窓のカーテンを閉めて、暗くなった部屋で一人、膝を抱えた。


 数字では解けない問題が、目の前にあった。


 ──いや。


 数字では解けない問題が、胸の真ん中にあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ