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あの方を手放して国が傾かないと思っているのですか?  作者: 秋月 もみじ


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第10話 宰相の椅子


 宰相の椅子は、二十年間同じ場所にあった。今日、それが動いた。


 王宮の国王執務室。フリードリヒ三世は、ゲルハルト公爵を前にして立っていた。椅子に座ることすら許さなかった。


「ゲルハルト。お前には二十年、この国の舵取りを任せてきた」


「は──陛下」


 ゲルハルトの声が掠れている。昨夜から眠れていないのだろう。目の下に深い隈があった。


「二十年の働きは認めている。財政改革も、南方の反乱の鎮圧も、お前がいなければ成し遂げられなかった」


 褒めている。だが──その声は温かくなかった。


「だが」


 国王の一語で、部屋の空気が凍った。


「お前はフリーデ嬢の功績を知りながら、五年間黙っていた。太子の虚偽報告を看過し、国の要を守る人間を見殺しにした。それは保身だ。宰相としての保身が、国家を危うくした」


 ゲルハルトが膝をついた。白髪の頭が深く下がる。


「陛下……申し開きの言葉も、ございません」


「申し開きは求めていない。──宰相の任を解く」


 静かな一言だった。叫ぶでもなく、怒鳴るでもなく。ただ事実を述べるように。


 ゲルハルトの肩が震えた。二十年の重みが、一瞬で崩れていく。


「……御意」


 老宰相は額を床に押しつけたまま、動かなかった。


 フリードリヒはその姿を見下ろし、そして──ほんの一瞬だけ、目を閉じた。


(わしも同罪だ。気づくのが遅すぎた)


 だが、遅すぎることを理由に何もしないわけにはいかない。


「レオンハルトを呼べ。内政の暫定責任者として任命する」


 従者が走った。


 程なくして現れた第二王子レオンハルトは、父の前で背筋を伸ばした。兄クラウスとは対照的な、地味だが誠実な目をした青年だ。


「レオンハルト。お前に内政を預ける。宰相職の暫定代行だ」


「……私で、よろしいのですか。兄上の方が──」


「兄には別の話がある。お前は実務に向いている。やれるな」


 レオンハルトが一瞬逡巡し、そして頷いた。


「──お任せください」


 その声は、兄のように朗々とはしていなかった。だが、静かな確信があった。


 レオンハルトが退室した後、フリードリヒは窓の外を見た。冬の王都。屋根に薄い雪が積もっている。


(あの子は──兄とは違う道を歩けるだろうか)


 クラウスのことは、まだ片づいていない。だが、まずは国を回す人間を置かなければ。応急処置が先だ。



 帝国。


 宰相罷免の知らせがフリーデに届いたのは、翌日の昼だった。商人ネットワーク経由の非公式情報。王宮の内部事情が一日で帝国に届くのだから、商人の情報網は伝書鳩より速い。


「……ゲルハルト宰相が」


 書斎の椅子に座ったまま、フリーデは知らせを読み返した。


 複雑だった。簡単には言葉にできない感情が、胸の中で渦を巻いている。


 ゲルハルト宰相は──悪い人ではなかった。少なくとも、能力のない人間ではなかった。二十年間宰相を務めた実績は本物だ。かつて財政が破綻しかけた時、徹夜で予算を組み直した人だと聞いている。あの人なりの正義は、あったのだろう。


 ただ、保身を選んだ。若い令嬢の功績を黙殺する方が、王太子の機嫌を損ねるよりも楽だった。安全だった。合理的だった。


(……わかる。わかってしまうのだ。組織の中で生き延びるために、見て見ぬふりをすることの合理性は)


 だからこそ──許せなかった。わかるからこそ。


 合理的な判断として他人の功績を握り潰す。それが「仕方のないこと」として通る世界を、私は五年間生きてきた。息を潜めて、名前を消されながら。


(もう、あの世界には戻らない。戻れない。戻りたくない)


 知らせの紙を畳んで、引き出しにしまった。


 同時にもう一つ思ったことがある。第二王子レオンハルトが暫定で内政を引き継いだ、と。


(レオンハルト殿下……あの方は兄とは違う。書類を自分で読む人だった)


 王宮にいた頃、レオンハルトとは数度しか会話したことがない。だが、交易路の報告書について質問してきたのは、殿下ではなくレオンハルトだった。


(あの国にも、まだ希望はあるのかもしれない)



 その日の夕刻。


 ヴォルフが国境の巡回から戻った。盗賊の一団が国境付近の村落を襲撃しており、将軍自ら討伐に出たのだという。


「将軍が自ら? 部下に任せればよいのでは」


「国境の安全は交易構想の前提だ。自分の目で確認する必要があった」


 そういう男なのだ。机上の戦略だけでは済まない。自分の足で現場を見る。その姿勢は──尊敬に値する。だが。


 報告を聞きに行った時、フリーデは将軍の左腕に巻かれた包帯に気づいた。軍服の袖から、白い布が覗いている。


「……その腕」


「大したことはない」


「大したことがあるかないかは、見せてから判断させてください」


 フリーデの声が、自分でも驚くほど鋭かった。ほとんど命令口調だ。将軍に向かって。


 ヴォルフが一瞬目を見開いて──黙って従った。包帯を解くと、左前腕に刀傷。浅くはない。筋肉まで達している。だが骨には届いていない。


「軍医には診せました」


「それは結構。ですが包帯の巻き方が雑です。北部では冬の負傷に感染症が多い。清潔な布で巻き直させてください」


 自分が何をしているのかわからなかった。なぜ包帯の巻き方にまで口を出しているのか。将軍には軍医がついている。私が口を挟む必要はない。


「……仕事のパートナーとして、当然の確認です」


 言い訳が口を衝いて出た。手が──震えていた。小さく、だが確実に。


(なぜ。なぜ手が震えるの。ただの切り傷でしょう。仕事相手が怪我をしたから確認しているだけ。計画の実行に支障が出るか確認しているだけ。それ以上の意味は──)


 ない。ないはずだ。


 だったらなぜ、最初に知らせを聞いた時、血の気が引いたのだろう。なぜ、包帯を見た瞬間に頭が真っ白になったのだろう。


 ヴォルフは黙ってフリーデの手を見た。震えている手を。計算書を何百枚と書いてきた、正確な線を引く指が、今は震えている。


 何か言おうとして──やめた。口を一文字に結んで、それから静かに言った。


「……ありがとう」


 低い声。今までで一番、柔らかい声だった。


 フリーデは頷いて、何も言わず部屋を出た。


 ──だが、自分の書斎には戻らなかった。


 厨房に向かった。帝国の宮殿の厨房は、王宮のそれより小さいが清潔だった。料理人に声をかけて、蜂蜜と生姜を借りた。


 北部の飲み物を作った。あの夜、ヴォルフが差し入れてくれたのと同じものを。


 カップを二つ。一つを自分用に。もう一つを、ヴォルフの執務室の机に──黙って置いた。


 将軍は不在だった。だから、顔を合わせずに済んだ。


 書斎に戻って、自分のカップを口に運ぶ。蜂蜜の甘さ。生姜の辛み。故郷の味。


(……お返し。差し入れのお返しをしただけ。それ以上の意味はない)


 だが、もう一つのカップの行方が気になって、その夜は何度も廊下を見に行った。


 翌朝、ヴォルフの机の上のカップは空になっていた。


 それを見た時の安堵を──フリーデは、計算で説明できなかった。

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