第1話 国王の嘆き
「──フリーデ・フォン・ノルトシュタイン。本日をもって、そなたとの婚約を破棄する」
大広間に、クラウス殿下の声が落ちた。
よく通る声だ。社交の場で鍛え上げた、人を惹きつける朗々とした声。この五年間、何度聞いたか知れない。
──ああ、この声で政策の報告をしていたのは、いつも私だったな。
そんなことを考えている自分に、少し呆れた。婚約破棄を告げられた瞬間に、頭に浮かんだのが書類のことだなんて。恋心の一つでも浮かべばまだ救いがあるのに。
(我ながら、退屈な女だ)
大広間の高い天井にシャンデリアの灯が揺れている。百人はいるだろう貴族たちの顔が、こちらを向いていた。驚き、好奇心、憐れみ──色とりどりの表情。まるで社交界の見世物だ。
「聖女マリエルこそ、王太子妃にふさわしい。フリーデ、そなたには感謝している。だが──」
「承知いたしました」
殿下の言葉を遮ったつもりはなかった。ただ、続きを聞く必要がなかっただけだ。
感謝。その一語が、五年間の全てを覆い隠す便利な言葉として使われたことだけが、少しだけ──ほんの少しだけ、喉の奥が痛かった。
ざわり、と大広間が揺れた。
居並ぶ貴族たちの視線が刺さる。涙を流すと思ったのだろう。取り乱して殿下に縋りつくと思ったのだろう。
(残念。私は数字と書類にしか興味のない、退屈な女なの)
背筋を伸ばし、静かに一礼した。ドレスの裾が床に触れる音だけが、妙に大きく聞こえた。
「五年間、お世話になりました」
それだけ言って、踵を返す。
広間の空気が止まった。クラウス殿下が何か言いかけたのが気配でわかった。声が──ほんの一瞬、詰まったのも。
振り返らなかった。振り返る理由がない。
殿下の隣に、聖女マリエル様が寄り添うのが視界の端に映った。白い手がそっと殿下の腕に添えられる。清楚な微笑み。淡い金の髪。
なるほど、あの方なら殿下の自尊心を満たすだろう。「あなたは素晴らしい」「あなたについていきます」──殿下が欲しかったのは、きっとそういう言葉だ。
私には、できなかったことだ。
いや──違う。しなかったのだ。できなかったのではなく、する気がなかった。
殿下の自尊心を満たす暇があれば、北部五領の備蓄量を計算していた。交易路の季節変動係数を弾いていた。東部鉱山の利権調停案を三通り書いていた。
書類棚の前で夜明けを迎えたことなど、数え切れない。インクで指が染まったまま、そのまま舞踏会に出たこともある。殿下はいつも「身なりに気を配れ」と眉をひそめた。
──そういう女だったから、こうなった。
わかっている。わかっていて、後悔はしない。
◇
大広間の最奥、玉座に腰を下ろした国王フリードリヒ三世は、その一部始終を見ていた。
見ていて──拳を、握りしめていた。
「ゲルハルト」
隣に控える宰相の名を、低く呼ぶ。
「は……陛下」
「あの方を手放して、国が傾かないと思っているのですか」
宰相ゲルハルトの顔から、血の気が引いた。
フリードリヒの声は大広間には届かない。玉座から十歩も離れれば、喧騒にかき消される程度のものだった。
だが、その声に込められた重さに、老宰相は言葉を返せなかった。
「……陛下、聖女様の加護があれば──」
「加護で交易路が引けるか。加護で飢饉が防げるか」
ゲルハルトが口を閉じた。
フリードリヒは、去っていくフリーデの背中を見つめた。乱れのない足取り。裾を引きずることもなく、一度も振り返ることもなく。
(あの娘は、泣かぬのか)
いや──泣く暇がなかったのだろう。この五年間、ずっと。
北部の飢饉対策が軌道に乗ったとき、報告書に「太子殿下の英断により」と書いてあった。あれを書いたのが、果たしてクラウスだったのかどうか。
今更、考え始めている自分が愚かだった。
「ゲルハルト」
「は……陛下」
「過去五年分の政策書類を、全て執務室に運ばせろ。──北部、南部、東部、全てだ」
「……全て、でございますか」
「全てだ」
宰相が頷き、額に汗を浮かべたまま退がった。
フリードリヒは玉座の肘掛けを指で叩いた。規則正しいリズム。苛立ちを紛らわせるための、長年の癖だった。
◇
王宮の長い回廊を、フリーデは一人で歩いた。
石造りの天井は高く、靴音がやけに響く。五年間通い慣れた道だ。政策局の書類棚の配置も、宰相の執務室の茶器が何処に置いてあるかも、全部覚えている。
もう、必要のない記憶。
大きな窓から差し込む夕陽が、回廊を橙色に染めていた。ちょうど五年前も、この回廊を歩いた。あのときは婚約の挨拶で、緊張で足が震えていたのを覚えている。
「……五年、か」
呟いた声は、自分でも驚くほど平坦だった。
(泣きたいわけではない。怒っているわけでもない)
ただ、空っぽだった。
北部五領の飢饉対策。南部の交易路再整備。東部鉱山の利権調停。全部、片付けてきた。誰にも知られず、殿下の名前で、殿下の功績として。
やるべきことは、やった。それだけだ。
──それだけ。
回廊の突き当たりで、迎えの馬車が待っていた。辺境伯家の紋章──北の星を抱く盾の意匠が入った、見慣れた馬車。御者のディートリヒが帽子を取って黙礼し、扉を開けた。
何も聞かない。その沈黙が、今はとにかくありがたかった。
乗り込む瞬間、ふと振り返った。王宮の尖塔が夕陽に黒く浮かんでいる。あの塔の書庫で、何枚の報告書を仕上げただろう。
(さようなら)
心の中で呟いて、扉を閉じた。
馬車が動き出す。石畳の振動が座席を通じて伝わり、やがて規則正しい揺れに変わった。
窓の外を、王都の街並みが流れていく。大通りの喧騒、市場の匂い、子どもたちの声。城門を抜けると、急に静かになった。
北部へ向かう街道。故郷の辺境伯領へ続く、長い道。
街道沿いの木々が、もう色づき始めている。北部の秋は早い。あと一月もすれば初雪が降る。
(──そういえば、今年の北部の冬支度、引き継ぎの書類は置いてきたけど)
反射的に計算を始めかけて、首を横に振った。もう、私の仕事ではない。
(お父様はきっと、何も聞かずに「おかえり」って言うんだろうな)
少しだけ、口の端が上がった。
五年ぶりの帰郷。書類棚ではなく、空の広い場所へ帰る。
フリーデは窓の外に目をやり、膝の上で手を組んで、静かに息を吸った。
秋の空気は、王都よりも少しだけ冷たくて──少しだけ、優しかった。




