第5話 赤子の体と、煤まじりの空気と
――鼻が痛い。
目が覚めた瞬間に感じたのは、そんな違和感だった。
空気が重い。湿っているのに乾いているような、変な感覚。
息を吸うと、
金属を焼いた匂い、湿った土の匂い、油の甘い匂い、
そして細かい粉塵が喉に刺さる。
(……これ、坑道の匂いか?)
前世で読んだ鉱山作業者のブログに
「鉄と土と油が混ざった、生暖かい埃の匂いがする」と書いてあったのを思い出した。
まさにそのまんまだ。
ただし――赤子の肺には刺激が強すぎた。
呼吸をするだけで胸がきゅっと縮む。
喉がむずむずして、息をしたくなくなる。
こんな世界で生まれたばかりの俺は、ただ泣くしかなかった。
泣き声が坑道に反響し、まるで別の赤子が泣いているみたいに聞こえる。
それが怖くて、さらに泣いた。
(……にしても、なんで俺、赤子なんだ?)
記憶はある。
俺は三十代後半だった。
仕事は地味だが誠実にやって、
人間関係のストレスを抱えつつも、
ようやく自分の生活が整い始めた時期だった。
筋トレも続けて、体は軽くなり、
食生活も改善し、
「やっとまともな人生が手に入ってきた」と思っていた。
あのときの俺は、未来を諦めていなかった。
年齢を理由に諦めないと決めて、
静かに努力して、自分を立て直し始めていた。
なのに、だ。
気がつけば、泣きじゃくる赤ん坊の身体に意識が落ちていた。
(……タイミング悪すぎだろ)
呆れる気持ちすらあったが、
体は泣くことしかできなかった。
喉も、肺も、筋肉も、小さすぎる。
そんなとき、誰かが近づいてきた。
重い足音。
鉄の靴底が岩床に響く音。
火の揺らぎが影を大きくする。
そして、抱き上げられた。
腕は太く、肌は熱く、胸元から鉄と煤の匂いが強く立ち上る。
さっきまで苦しかったのに、不思議と落ち着いた。
たぶん、この人が“鍛冶師”だ。
赤子の体は正直で、安心した瞬間に泣き止んだ。
俺の手がその鍛冶師の髭に触れたとき、
周りの空気が柔らかく変わった。
驚きと、少しの笑い。
(そうか……この世界の人か)
言葉は聞き取れないが、
敵意はなく、むしろ“戸惑いながらも気遣う”気配があった。
そのあと、夫婦の家へ連れていかれる間、
俺は赤子の小さな目で世界を必死に追った。
坑道の埃は赤子には刺すようで、
目を開けているだけで涙がにじんだ。
けれど、夫婦の家に入った瞬間、
空気が明らかに違った。
湿り気はあるが、粉塵が少なく、
火床の煙も入ってこない。
外気を取り込む換気口のせいか、匂いも柔らかい。
(……ここは呼吸がしやすい)
赤子の体が勝手に緊張を解いた。
夫婦――研師の二人は明るく、どこか朗らかで、
抱かれるたびに安心感が増していった。
そして気づいた。
(俺……泣く必要がなくなってきてるな)
前世の癖もある。
俺は“状況をまず把握するタイプ”だった。
天邪鬼で、皮肉屋で、でも結局は現実主義者。
感情よりも状況判断に意識が向いてしまう。
だから赤子のくせに、光を追い、音を追い、
目に入るものを全部観察していた。
火の揺れは綺麗だった。
岩の模様は独特だ。
夫婦の声は温かい。
鍛冶師の声は低くて落ち着く。
(……悪くない人生のスタートかもしれん)
悔しさはまだ胸にあった。
前の人生で積み上げ始めた“誇り”や“未来”を手放すのは、簡単なことじゃない。
けれど、
この世界でなら――もしかしたら、また誰かを守れるかもしれない。
そんな気がした。
小さな手で火床の光を掴もうとしたのは、
その直感のせいだろう。
俺の第二の人生は、煤と光と、誰かの腕の中から再び始まった。
もうストックなくなったのです…




