第七十四話 ーー『妻の心はどこに?』
風が街外れの丘を撫でてゆく午後、カズエルは人目を避けるように外套の襟を立てて歩いていた。日頃、法規や民意を扱う市政局の役人として、人の感情を俯瞰することに慣れていた彼も、今日ばかりは違った。
目的はただひとつ。丘の上に住むという、星を読む者――リュミのもとを訪れること。
彼の胸にあったのは、たったひとつの問いだった。
「私は……妻に、ちゃんと愛されているのだろうか?」
妻、アリーセは非の打ち所がない女性だった。料理も掃除も申し分なく、誰に対しても穏やかで、笑顔を忘れない。けれども、完璧さの裏にある“本音”が、どこにも見当たらない。ふとした瞬間に、「何を思っているのか分からない」と感じるのだった。
結婚して五年目の記念日が近づいていた。
けれど祝いたいという気持ちと同じくらい、彼は怯えていた。もし、妻がずっと「応え」ているだけで、本当の想いを秘めたままなら――。
リュミは静かに星霊盤を展げ、盤面に置いた彼の指先に目を向けた。
淡い光が、回転する盤上にひとつ、またひとつと浮かび上がる。整然と脈打つ双星。その奥に、遠く寄り添うように揺れる星がひとつあった。
「……言葉はなくとも、注がれているものがあるわ。それを受け取る余白、あなたにあるかしら?」
リュミの声は、静かでやさしい。でも、その言葉は心の奥に突き刺さった。
思い返せば、彼女の手料理に「美味しい」と言ったことがあったか? 仕事帰りに彼女の表情を気にしたことがあったか? 愛されているかどうかではなく、彼自身がどれだけ“受け取ろう”としてきたのか。
――ありがとう、と伝えることすら、怠っていた。
夜。帰宅した彼は、夕食を用意してくれていたアリーセに、静かに言った。
「……いつも、ありがとう」
ふと、彼女の手が止まり、視線をわずかに外した。
「……気づいてたのね」
それは、ようやくこぼれた心のしずく。彼女の唇が微かに震え、目元に灯る光が、彼の胸を優しく叩いた。
彼女は、愛していたのだ。ただ、何も言わずに。
だからこそ、彼は思った。
言葉にして、触れ続けていこうと。
彼の中で、ようやく――星が静かに、揺れをやめた。