第七十三話 ーー『“家”のない願い』
街の灯が恋しくなる夜だった。雨上がりの石畳を足早に歩く青年――名をジルという。
薄汚れた外套、鋭く研ぎ澄まされた視線、そして何より、肌に染みついた「盗人の匂い」。
ジルは盗賊団の手で育てられた孤児だった。血筋も名前も知らず、教えられたのは「奪えばいい」「裏切られる前に蹴落とせ」。
それが、生き延びるための唯一の真理だった。
だが、あの夜、ジルは初めて“手放した”。
仲間の一人が、逃げ場のない通りで少女の鞄を奪おうとしていた。咄嗟に彼は仲間の手を払いのけ、少女をかばった。
仲間は彼を見捨てた。少女は怯えながらも礼を言った。それだけのことなのに、ジルの胸はひどく痛んだ。
「……俺、なんであんなことを……」
数日後、迷いに導かれるように、彼は街外れの丘へと足を向けていた。噂に聞いた「星を読む女」――リュミ。
ジルは、自分のような人間が訪れてよい場所ではないとわかっていた。
けれど、ただひとつ聞きたかった。
「俺に、“帰れる場所”はあるのか」と。
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リュミの庵は、風に揺れる風鈴の音と、月明かりに照らされた静かな場所だった。
ジルは無言で椅子に座る。リュミは一瞥して、問いかけなかった。かわりに、静かに盤の前に座り、そっと手を翳す。
星霊盤の上に、淡い光が浮かぶ。円環を描く星々の中、ひとつ、家のような形をした星図が現れる――だが、それはすぐに砕け、光の粒となって消えていく。
次に現れたのは、二つの小さな星が、手を取り合うように揺れ動く像だった。
「……家を持たなかったのではなく、持ち方を教わらなかったのね」
リュミが、穏やかに言った。
「あなたにとっての“家”は、屋根や壁じゃない。誰かと心をつなぐ場所。あなたが選び、あなたが守るものよ」
ジルの心の奥に、小さな音がした。痛みではなく――希望だった。
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リュミの言葉は、ジルの中で静かに根を張った。
街に戻った彼は、かつてかばった少女――エマと再会する。彼女は市場で働きながら、盗られた家計をどうにか立て直していた。
ジルは言う。「俺、何か返したくて……何でもいい、働かせてくれないか」
最初は怪しまれたが、しばらくしてから、エマの家の裏にある古びた倉庫の修理を手伝うことになった。
重い荷を背負いながら、泥をかき、黙々と働く日々。
それは彼にとって、生まれて初めて“誰かのために積み上げる時間”だった。
ある日、エマが言った。
「おかしいよね。前より倉庫がきれいになったのに、なんだか“あったかく”なった気がするの」
ジルは、答えなかった。ただ、小さく笑った。
彼の手は今、確かに誰かとつながっていた。
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夕暮れ時、エマが倉庫の隅に座りながらぽつりと呟く。
「ねえ、ジル。あなたにとって“帰る家”って、どこだと思う?」
ジルは答えた。
「……誰かが、待っていてくれる場所だと思う」
彼の声は小さく、それでも迷いはなかった。
星霊盤の言葉は、今や彼の心の中にある。
もう、奪わなくていい。逃げなくていい。
彼は、選んだのだ。つなぐ手のあたたかさを。
“家”は、確かに――そこにあった。
静かな光が満ちる部屋で、黒衣の巫女リュミがあなたを迎える。
「ようこそ、星霊盤のもとへ。迷いや願いを、星に託してみませんか?」
盤の上にそっと光が灯る。
「恋、家族、自分のこと……問いがあるなら、聞かせてください。星々が応えてくれるはずです」