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第六十八話 ーー足を洗う、その先に

 石畳の影が伸びていく。

 その上を歩く青年の足取りは重く、古びた靴が一歩ごとに過去を思い出させた。


 名前はローク。まだ二十代半ば、けれど瞳の奥に年齢よりも濁ったものを宿していた。

 かつて、彼はスリだった。器用な指先とすばしこい足、そして何より「自分は誰にも必要とされていない」という諦めが、彼を罪へと向かわせた。


 そして捕まり、刑務所で三年。

 模範囚として早く出られたが――自由の空気は冷たかった。


 街に戻ってきても、誰も声をかけてくれない。かつての仲間には逃げられ、兄は「母さんがあんたの顔を見たら倒れる」と言い放った。


 市場で野菜を見ていたら、露店の主に「触るな、盗む気だろ」と怒鳴られた。


 「……もう戻ってこなけりゃよかったな」


 誰にも必要とされない人生なら、いっそ全部終わっていればよかった。

 でも――どこかで、心の底の何かが、まだ終わらせることを拒んでいた。


 ロークは静かに丘の上を見た。

 そこには、「星を読む女」が住んでいるという噂があった。

 望んでもいない未来なんて知る意味があるのか、とも思ったが、なぜかその夜は足が勝手にそちらへ向かっていた。







 リュミの庵は静かだった。

 庭先で風鈴が鳴り、夜の帳に包まれる中、ロークは重い扉を叩いた。


 リュミは何も言わず、彼を招き入れた。

 「……占いに来た。いや……違うな。俺、もうどうすりゃいいか分からなくて」


 リュミは静かにうなずくと、星霊盤の前に座るよう示す。

 ロークが座ると、彼女は手をかざし、盤の中心に淡く光が灯った。


 やがて星々が浮かび上がる。

 一つの小さな星が、他の星の影に隠れるように揺れていた。孤独、疎外、不信――それはローク自身の姿だった。


 だがその星は、少しずつ軌道を変え、やがてゆっくりと別の輪の中へと滑り込んでいく。

 静かな共鳴とともに、他の星がその動きを受け入れ、円環が再び整い始める。


 リュミが語る。

 「過去は消えない。でも、新しい輪に加わることはできる。……まず、あなたが誰の隣に立ちたいのかを決めて」


 ロークは息を飲んだ。誰の隣に――。

 思い浮かんだのは、まだ少年だった頃、自分が初めて盗んだ財布を落とした男の顔。

 彼は怒りもせず、ただ「大丈夫か?」と訊いてきた。それが、ずっと脳裏に残っていた。







 次の日、ロークはその男――市場の荷運びをしていたトリスという中年男のところを訪ねた。

 彼は最初、訝しげに眉をひそめたが、ロークが頭を下げると、静かに頷いた。


 「……お前の顔、覚えてる。だけどな、それが何だ? 真面目に働けるなら、使ってやらんこともない」


 それが、ロークにとっての最初の“赦し”だった。

 毎日、トリスの元で荷を担ぎ、泥に足を取られ、汗にまみれた。最初は誰も口をきいてくれなかったが、それでも逃げなかった。


 ある日、年配の仕入れ人が声をかけた。

 「お前……最近よく働いてるな。前は何してたんだ?」


 ロークは答えた。「……何もしてませんでした」


 それが嘘だと、誰もが分かっていた。けれど、それ以上を誰も訊かなかった。

 「そっか。なら、これからだな」と、その人は言った。


 それが、ロークにとって“受け入れられた”瞬間だった。







 夜、街の屋根の上に座り、ロークは空を見上げる。

 星が見えた。あのとき星霊盤に浮かんでいた、あの小さな星のように。


 「……俺が選んだのは、この街で、誰かの隣に立つってことだ」


 リュミの言葉が、まだ心に灯っている。

 過去は消えない。でも、踏みしめた足跡の上に、新しい歩みを重ねることはできる。


 街の光がまぶしくなってきた。

 帰る場所はまだない。でも、「ここにいていい」と思える瞬間が、今のロークにはある。


 それがきっと、“足を洗ったその先”にあった最初の灯だったのだ。


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