第五十八話 ーー『金色の麦と、誰にも知られぬ夜』
麦畑が風に揺れている。
まるで大地そのものが黄金に染まったような光景だった。
鳥も、風も、農夫たちも、その年が「良い年」であることを肌で感じていた。
──そして、領主ロヴェールも。
城の高台から見下ろすその光景に、ロヴェールは思わず眉をしかめていた。
「……実に、困った」
豊作は喜ばしい。民にとっても、街にとっても。
だが、市場の論理は冷たい。
供給が増えれば、価格は下がる。農民たちが努力の末に得た麦が、銅貨数枚で買いたたかれることもある。
「例年通りの価格で買い取って、備蓄に回すべきか……だが、そんな先例も制度もない」
領主としての名を守るべきか、未来の飢饉に備えて動くべきか──
答えのない問いに、ロヴェールはとうとう筆を置いた。
その夜、彼は一人、馬にまたがる。
向かう先は、街はずれの丘に建つ、星を読む女の元。
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リュミは、領主の訪問に驚いたそぶりも見せず、静かに灯を増やした。
「珍しい方ですね、こんな夜に。……麦の星を見に?」
ロヴェールは眉をひそめる。
「なぜ、それを?」
「風が早いのです。今年は麦の花がいつもより先に咲く。土の星も膨らんでいます」
リュミは、星霊盤に指をすべらせながら言った。
淡い光の線が、円盤の中で交差し、揺れていた。
「ですが……風の行き先は、まだ定まっていません。豊作の星と、不穏の星が隣り合っている」
「それは……暴落の兆しだということか?」
「“流れ”としては、そう読めます。でも、領主さま──星が示すのは“可能性”です。何を選ぶかは、あなた次第です」
ロヴェールは黙って盤を見つめた。
その沈黙のうちに、彼は吐き出すように言った。
「私は、民の信を得ねばならぬ立場だ。だが同時に、この街の十年、百年をも見据えねばならぬ。民の喜びも、怒りも……私の一挙手一投足で変わってしまう」
「では、お尋ねしても?」
リュミは、星霊盤から目を離さずに問う。
「あなたが“恐れていること”は、なんですか? 失敗ですか、それとも──正しいことをして恨まれることですか?」
ロヴェールの目が、かすかに揺れた。
「……後者だ」
そう言った後、彼はようやく、胸の内を言葉にした。
「私は正しい決断をしたい。だが、それを“わかってもらえない”ことが……なにより恐ろしい」
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「星は、こう語っています」
リュミが、星霊盤の中心に指を置いた。
「“備えは今生きる者を救わないかもしれないが、未来を守る灯りになる”」
「……灯り」
「誰も見ようとしない灯りを、ひとりで守るのは、孤独ですね。でも、星は知っています。あなたがそれを選ぶ勇気を持っていると」
ロヴェールは、しばらく何も言わなかった。
夜風が丘を渡る音だけが、静かに小屋の中に吹き込んでくる。
やがて、彼は立ち上がり、マントの裾を払った。
「……私は民の理解を得られぬかもしれぬ。だが、貯蔵庫の改修を命じる。備蓄の記録も残させる」
「未来の誰かが、それを見つけられるように?」
ロヴェールは少しだけ笑った。
「いいや。誰も見つけなくていい。ただ、飢えぬために」
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数か月後、麦は金に染まった。
市場の価格は一時混乱したが、領主が定めた「備蓄用の買い取り価格」により、多くの農家が安堵の収穫を迎えた。
それを「英断」と称える者もいれば、「気まぐれ」と言う者もいた。
だが、領主の名はどこにも刻まれなかった。ただ、倉庫の中に麦の山が積まれただけだった。
リュミはその報せを、空を仰いで聞いた。
そして、星霊盤をひと撫でする。
「……星も、少しは安心したかしら」
星の下には、今日も誰かが、誰かのために選ぶ夜がある。