第十八話 ーー「わたしに戻る夜」
丘の上にある小さな占い小屋に、その女性が現れたのは、雨上がりの夕暮れだった。
肩までの髪は軽く湿り、手には小さな布袋。靴には泥がついていた。
「……こんな場所に、占い師がいるって聞いて。誰にも言わずに来たの。ちょっとだけ……黙って出てきちゃった」
彼女は名を「ミナ」と名乗った。年の頃は三十を少し過ぎたくらい。二人の子どもの母親であり、夫は漁に出る船乗りだという。
「毎日、朝から晩まで、洗濯と掃除と食事の支度。下の子が熱を出せば、上の子の世話は後回し。やっと寝かせて、自分の時間が取れたかと思えば、もう日付が変わってて……」
ミナの声は穏やかだった。でも、その目の奥には深い疲れが潜んでいる。
「占いって……未来が見えるんでしょう? 私、このままでいいのかな。誰かの“お母さん”で、“妻”で……“わたし”って、何だったんだろうって、最近ときどき思うの」
リュミはゆっくりうなずき、《星霊盤》に手をかざした。
淡く浮かび上がった星の軌道が、静かに回りはじめる。
「星に、あなた自身の“光”を尋ねてみますね」
盤上に浮かぶ星々のうち、ひとつだけが、わずかに脈打つように明るさを増した。
「……これは、“あなたが昔、胸に抱いていた想い”を示す星です。ミナさんがまだ誰かのためではなく、“自分”のために描いていた未来が、ここに映っています」
ミナは、驚いたように眉をあげた。
「そんなもの……もう、忘れてたはずなのに」
「忘れていたわけではないと思います。たくさんの“やるべきこと”に埋もれて、見えなくなっていただけです。星はずっと、あなたの心に寄り添っていましたよ」
ミナはそっと視線を落とした。
「昔……わたし、刺繍が好きだったの。何でもない布に、少しずつ色が重なって、花や動物が浮かび上がってくるのが楽しくて。結婚して子どもができて、針を持つ時間なんてもう無いけど……」
リュミは笑みを浮かべる。
「では、未来をひとつ占ってみましょう」
彼女の指が星霊盤の縁に触れると、星たちは柔らかな弧を描いた。
一筋の光が、未来の方角をさす。
「星は、“少しだけ、自分の時間を持ちなさい”と伝えています。たとえば週に一度でも、ほんの十五分でも。そうすれば、あなたの中にある“わたし”の光が、少しずつ息を吹き返すでしょう」
ミナは、ぽつりとつぶやいた。
「でも……そんな時間を取ったら、家族に悪いような気がして」
「その優しさも、あなたの大切な光です。でも――優しさは、燃やし尽くすものではなく、“灯し続けるもの”だと、星は教えてくれます」
外では風が吹き、どこかで木の葉が揺れる音がした。
しばらくの沈黙のあと、ミナはふっと小さく笑った。
「……ありがとう。なんだか、もう少しだけ頑張れそうな気がする」
リュミはうなずく。
「また、星が見えなくなったときは、いつでも来てください」
ミナは立ち上がり、小屋をあとにする。
帰り道の靴音は、来たときよりも少しだけ軽やかだった。
その背を、星霊盤が静かに見送っていた。
“誰かのため”を生きるあなたに、“自分のため”のひとときが戻るように――。