第76話 お兄ちゃんの時んごと
千沙をこっそり見送った後、高岸さんと梢は動物病院を訪れていた。最近出来たばかりの、動物病院としては大きな病院で、一般の病院のように内科、外科、循環器科、皮膚科のように専門科に分かれている。高岸さん一人では心許ないという事で、梢が付き添ったのだ。
梢は受付で初診の手続きをし、内科の整理券を受け取り、クロスケのケージを床に置いて順番を待っていた。待合室は共通なので、様々な動物の声が聞こえ賑やかだ。10分程経って、ディスプレイにクロスケの受付番号が表示された。診察室は『B』とある。梢と高岸さんは診察室Bにノックして入る。中にはクリップボードを手にした若い医師が立っていた。
「えーっと、ネコちゃんですね。お名前は~ クロスケ君ですか」
高岸さんが肯く。梢はケージを診察台の上に載せた。
「じゃあ出して頂けますか。えっと飼主さん、高岸さんはどちらで?」
「ウチばい」
高岸さんはケージの入口を開け、中に向かって声を掛ける。
「クロスケ、出て来んねぇ」
クロスケが頭を出した所を、獣医師が素早く抱き上げ、診察台にトンと下ろす。そして受付で記入した症状をクリップボードで確認した。
「ふうん、元気がない…ですか。年齢は不明なんですね。何か最近変わったことはありますか?」
獣医師は高岸さんに聞いた。
「クロスケは最近お仕事しとんばい」
「お仕事?」
これじゃ訳が判らないだろう。梢が後から付け加えた。
「4歳の女の子の家に毎日遊びに行くんですよ。保育園帰りに迎えに来てくれるんです。日曜はお休みですけど」
「へぇそりゃなかなかのハードワークですね。その頃の子どもって遠慮はありませんからね」
「でも優しく接していますよ。ちゃんとおやつもあげて」
梢は更に言い募るが獣医師はクロスケの瞳を覗き込んだり骨格を手で触ったりしている。そして、
「あのう、週休二日制にしてあげられませんか」
「え?」
高岸さんが低い声で聞き直した。獣医師はクロスケを撫でながら続ける。
「ネコちゃんってのんびり屋に見えて結構気を遣うんです。クロスケ君も診察する私に気遣いしてくれているのが判ります。ネコと人間ってそもそも別の動物ですからいろんなサイクルも違うんですよね。だからきっとクロスケ君がお子さんに合わせているんだと思います。それはそれで家ネコの役目でもあるんですが、間に1日フリーの日を設けてあげると、心理的にぐっと楽になると思います。身体的には特に異常がないので、それで暫く様子を見てあげて下さい。なかなか優しい男の子ですよ、彼は。ついでにちょっと身体を解しておきますね。マッサージみたいなものです」
梢は小さな胸の痛みを感じた。それだけだったのか。そういう風にはちっとも考えなかったな、私も高岸さんも。ネコ特有の病気かと思った。そうだよね、同じ生き物なんだから、人と同じような視点で見てあげたらいいんだ。梢は獣医師のやさしさが心に沁みた。そして、クロスケをマッサージしている獣医師をチラ見する。ユニフォームには名前が縫い付けられている。
『長沖 睦』
ん? 梢の頭の中で何かが光った。千沙ちゃんの彼氏、長沖君だよね。
すると獣医師も梢の方をちらっと見た。目が合う。
あ…
慌てて目を逸らせた獣医師は高岸さんに話し掛ける。
「あぁ、えっと、気持ちがゆったりするお薬を出しておきますので、ごはんに混ぜてあげて下さい。詳しいことは薬局でお話しますので。心配は要りません、そんなきつくないし、まあネコだましみたいなもんですから。今日はこれで終わりですけど、念のため、一週間後にまた来て下さい」
その視線は、クロスケにも高岸さんにも変わらぬ優しさで注がれている。私には? さっき目が合った時のあの光は違う意味が含まれていたのだろうか。看護師に呼ばれ、慌てて背を向けた獣医師に頭を下げて、梢はまたケージを持って外に出た。
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薬局で薬を貰い、諸注意を聞いて高岸さんが戻ってくる。
「梢ちゃん、有難う。ウチだけで大丈夫だって思うたばってん、梢ちゃんにも来てもろうて良かことでした」
「え?」
「なんか見えた気がしたばい、梢ちゃんのお兄ちゃんの時ん、千沙ちゃんのごと。あん先生と梢ちゃんは、よか話たい。来週は梢ちゃんがクロスケば、こけぇ連れて来てくれん」
「えー?」
梢はエスパー婆さまの配慮に、思わず赤くなって下を向いた。ケージの中では、クロスケが大きな欠伸をしている。




