第70話 パスワード消失
「あの、ラ・ミストラルにステイしている左草未来です。覚えていらっしゃいますか?」
「Oups! あ、失礼。覚えてるわよ。ナガサキから来た人ね」
「そうです。マクドナルドにお入りになるんですか?」
あの日、後から未来がスタッフに聞いたところでは、このマダムは半年に一度来店される常連とのことだった。マダムはもじもじしながら答える。
「入ったんだけど出て来たのよ。カードが使えなくて」
「はい?」
「カルトブルーのパスワードを忘れちゃってね。2回間違えたから、もう後はないと思って止めたの。お腹空いたわ」
マダムは淋しそうに笑う。
未来もカルトブルーのことは知っている。銀行口座直結の、いわゆるデビットカードのことで、パリ市民はいろいろな支払いを大抵これで済ます。大変便利で大切なものだけど、そのパスワードを忘れたって?
「マダム、ちょっと待ってて下さい」
未来は離れて立っている千沙の元へ駈け寄った。
「千沙、あの人、お店の常連さんなんだけど、マック奢ってあげたいんだ。一緒に食べてもいいよね」
「え、はい。いいけど未来が奢るの?」
「うん。カードのパスワード忘れちゃったんだって」
「えー」
「それで、なんでだか知らないけど、日本語ペラペラだから安心して」
未来が千沙を連れてマダムの元に歩み寄る。
「あの、私の友だちです。彼女も長崎から旅行に来ました。私が払いますから、一緒にどうですか?」
マダムは目を見開いた。
「それはごめんなさい。今度返すから、今日は立て替えてくれる? 私、一度食べてみたかったのよね、マクドナルドって。ああ、そうそう私、自己紹介まだだったわね。シルヴィー・ルフェーブルです。日本風に言うと、ルフェーブル シルヴィーね。シルヴィーでいいわよ。ムッシュ・ヴェントにもそう呼ばれているから」
未来はにっこりした。
「はいマダム・シルヴィー。私のことはミクって呼んで下さい。じゃあ、入りましょうか」
+++
パリのマクドナルドはオーダーがサイネージシステムのような大きなタッチパネルである。言語を選べ、日本語も入っているので千沙でも簡単にオーダーできる。支払いはカードが基本だ。しかし、ご当地メニューもあり、そこが悩みどころだった。
「未来、知らないのがいっぱいあるんだけど」
「あ、なるべく知ってるのがいいと思うよ。すごい甘いのとかあるし」
「ふうん」
千沙は迷った挙句、冒険を避け『トリプルチーズバーガーセット』にタッチした。飲み物はスプライト。これなら安心だ。支払いはデビットカード。高校生の千沙はまだクレジットカードを持てなかったのだ。
マダム・ルフェーブルのオーダーは未来がまとめて支払っている。マシンから発行されたレシートをカウンターに持って行くと商品が用意されていた。三人は明るい窓の傍のテーブル席に陣取り、落ち着いたところでマダムが口を開いた。
「ミク、本当にごめんなさいね。歳取ると駄目ね。いつも使ってるパスワードが突然判らなくなるなんて。いつもは指が覚えていて、意識しなくてもキーを叩いているのに、いきなり『あれ?』って頭の中が真っ白にフラッシュしたのよ。考えても思い出せなくて、ありそうな番号を入力してみたんだけど、考えれば考えるほど数字が数字じゃないみたいに思えて来てパニックよ。認知症かしらね。銀行に行ってカードを作り変えてもらわないと。あら、意外と美味しいわね、これ」
ポテトを摘みながらマダム・ルフェーブルは本気で落ち込んでいる。それを見て未来が千沙をつついた。
「千沙。失くしたパスワード、探せる?」
「はい?」
マダムの話を他所に、チーズの美味しさに感動していた千沙は我に返った。




