第6話 北風到来
「えっと、あの、お母さん、あの…」
予期せぬ事態に千沙は上手く舌が回らない。樹里は全く我関せずの態度でビートルのステアリングを握っている。絹が前を見たまま言った。
「この人のこと? 千沙は知らなくて当然よ。会ったことも教えたこともないし、妹って言っても、お父さんが一緒ってだけだから。だけどたまたま同業者だったからさ、時々お世話してるのよ」
「お世話してるのはこっちでしょ」
樹里もぼそっと言う。
「あはは、丁度長崎市内に住んでるからさ、送り迎えを頼んだの。今日泊まる旅館から学校までも送迎してもらうのよ。どうせヒマだろうしね」
「うるさいわ」
樹里は不愛想な合の手を入れる。
「千沙も深く考えないでよ。試験に差し障っても困るからさ、単なるドライバーよ、今日のところは」
お父さんが一緒? 千沙が幼い頃に亡くなったと言う祖父のことだろう。それって浮気ってこと? 残念ながら千沙の祖母、つまり絹の母も千沙が生まれる前に亡くなっているので聞くことも出来ない。ウチの家系のミステリーって、お父さんが行方不明って事だけじゃないんだ。単なるドライバーって言われてもそうは行かないよ。千沙はざわつく。
「千沙」
突然運転席から声がした。
「は、はい」
「江戸時代の中頃に、節約節約って言った幕府のイベントは何だ?」
「あ、えっと、か、寛政の改革?」
「うん。誰がやった?」
「ま、松平定信」
「そうだ。上手くいったのか?」
「い、いえ、失敗しました」
「なんでだ?」
「あ、えっと、厳しすぎって言うか、いろいろうるさくて」
「うん、それを皮肉った歌があったよな」
矢継ぎ早である。
「えーと、白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき ?」
「よく覚えてるな。その歌の季語は?」
「き、季語? え? 季語ってあったかな、魚? でもいつの季語…かな?」
「いいところで悩んでる。季語はないよ。俳句じゃないんだから。じゃあそういう歌をなんて言う?」
「あ。きょ、狂歌?」
ルームミラーの中で樹里はニヤッとした。
「大丈夫だ。北蘭高校なんて怖くない。その調子を明日まで維持しろ」
「はっ、はい」
いきなり何なんだ? この人、美容師じゃなくて学校の先生? え?
水色のビートルは海岸沿いから内陸部に入り、長いトンネルを抜けて市街地にやって来た。量販店が並ぶ国道をしばらく走った後、坂道に入る。まるで等高線のようにクネクネ曲がる道路からは所々で市街地の風景が見下ろせる。
やっぱり長崎って坂の街なんだ。千沙はかつて遠足で観光バスに乗った時の車窓風景を思い出した。
「旅館ってどうしても観光地の近くにあるからさ、長崎駅の近くとかこう言う山の上ばかりなんだよ」
ステアリングを握りながら樹里が言い訳をする。
「これが受験じゃなければいろいろ見に行けるんだけどねえ」
絹の言葉に千沙は申し訳ない思いを募らせる。樹里が続けた。
「ビジネスホテルなら所々にあるんだけど、姪っ子に固いベッドとコンビニご飯で受験しろって言えないしさ」
一応気遣ってくれているんだ。千沙はますます小さくなる。ビートルはヘアピンカーブを曲がり、急坂を登った。
「千沙、長崎県が比較的温暖なのは、何の影響が大きい?」
「え? か、火山?」
「そりゃないだろ。恐ろしい。もっと大きな、母親みたいな自然だよ」
「あ! あの、対馬海流?」
「ご名答。頑張れよ。明日朝7時半に迎えに来るから」
すぐにビートルは速度を落とし、大きな旅館の玄関前で停車した。
「は、はいっ。よろしくお願いします!」
気がつけば、北風にすっかり巻かれている千沙であった。