第68話 Departure
春休みに入り、バタバタと用意を整えた千沙が、パリへ旅立つ日を迎えていた。千沙の手首にはブレスレットが見える。長崎駅前のバスターミナルで、千沙は樹里と共に空港リムジンバスに乗車するところだ。
朔は時間を聞いて見送りにやって来た。
「千沙ちゃん、気をつけてね」
「う、うん、有難う」
「大丈夫だよ。飛行機も空港もカタコト英語が通じるよ。空港からは左草さんが一緒なんでしょ」
「う、うん」
千沙がそっと手首を押さえている。今日は朔もブレスレットを巻いて来たのだ。普段は恥ずかしくて身につけられなかったが、今日付けないでいつ付けると、思い切って巻いて来た。すると千沙の手首にも同じ模様の組紐が見える。良かった、千沙を守れ、組紐の千鳥たち。朔と千沙は視線を交わす。
「じゃ、い、行って来る」
「行ってらっしゃい」
朔は千沙の手をそっと握り、そして離した。千沙はコクンと頷くと、乗場ドアを通り抜け、樹里に続いてバスのステップを登る。朔は千沙の動きを追いかけた。乗場との仕切りガラスの向こうの、そのまた向こうのバスの窓ガラス越しに小さく手を振る千沙が見える。『大丈夫だよ』なんて言ったものの、本当に大丈夫なものなのか、海外に行ったことがない朔には判らない。けど、それしか言ってあげられない。朔はもどかしさを感じていた。学校行事以外で県外に出たことのない千沙にとって、ヨーロッパへの一人旅は大冒険もいいところだ。ここでじっと見ているだけなのは、とても辛い。
すぐにバスの発車アナウンスが響き渡った。朔は手を振る。
ピィー
音とともにバスのスイングドアが閉まった。エンジン音が高まり、ゆっくりとバスは動き出す。朔は大きく手を挙げる。千沙の姿はすぐに見えなくなり、バスのお尻は駅前通りへと消えて行った。
行ってしまった…。朔は聊か肩を落とす。
「大丈夫よ、心配だろうけど」
突然背後から声が聞こえた。
「あ、梢さん」
いつの間に来たのだろう。朔の少し後ろに梢が立っていたのだ。
「え? いつの間に」
「さっきからずっといたんだけど、割り込むのも悪いような気がしてね、ちょっと離れてたのよ」
梢は笑った。
「羽田までは樹里さんが一緒でしょ? 羽田は日本語通じるし、JALの直行便だから機内も心配ないし、パリだって前の人について行って同じ事すれば入国も難しくないし、全然大丈夫よ。千沙ちゃんっていざとなったらパワーが出るタイプだから」
「は、はい」
朔は畏まる。心のうちを読まれているみたいだ。
「じゃ、私はこれで」
梢は振り返って少し離れたベンチの方へ歩いていく。そこにはベンチに腰掛けた高岸さんがいた。うわ、千沙ちゃんの応援団が勢揃いだ。俺だけが目立って、なんか悪かったかな。朔はその前を目礼して通り抜ける。高岸さんが声を掛けた。
「女は意外と強かもんばい。心配せんでよか」
「は、はい」
なんか恥ずかし。朔はそそくさとバスターミナルを出た。
+++
「じゃあ高岸さん、行きましょうか」
「うん。付き合わせて済まんねぇ」
梢は高岸さんの脇に置いてあった、ペット用のケージを持ち上げた。ケージの中ではクロスケが寝そべっている。
「なして元気がなかとか」
「明佳ちゃんと一緒に働き過ぎでしょうか」
「千沙ちゃんば彼氏も、一緒に診てもろうた方がよかかもなぁ」
二人は笑いながらバスターミナルから歩道橋を渡り、タクシー乗り場へとゆっくり歩いて行った。




