第54話 店長の苦悩
パリ15区の美容室 ラ・ミストラル(Le Mistral)の店長、ムッシュ・ヴェントは時々ふらりと外へ出て仕事をさぼる。下宿生・左草未来の高校の先輩とやらがパリに遊びに来てから、その頻度も増えた。店のスタイリストたちからは、『日本人は勤勉じゃなかったのか』と皮肉の嵐である。店長はその都度、未来たちが心配だから様子を見に行っていると言い訳し、実際は1km余を歩いてセーヌ川の河畔でボケっとしている。
「二つの幸せと一つの未来…か」
何度も口に出すこのフレーズ。突然過去からやって来て、己の覚悟を問うているようだ。勿論自分がここにこのままずるずる居る訳にゆかないことは解っている。だから2枚目の『1さち』コインがやって来た夜、ムッシュは妻にメールを送信したのだ。内容は詫びと決意表明。具体策は何も書けなかったが。
妻からの返信は数時間後にあった。思ったより落ち着いている。呆れていると言う方が正しいかも知れない。以来、何度かメールのやり取りをする中で、現状も判って来た。あちらの商売もどうやら考え時だそうだ。まさに頃合いだろう。具体策も幾つかの案が浮かんだ。ネットで調べれば、離れていても大抵のことは判る。
新しい物件とリフォーム。ま、その費用はこちらで出せる。それ位の蓄えは出来ている。
問題はこちらの店の俺の跡継ぎだ。スタイリストの誰かを抜擢する手はある。しかし、店長と言う立場は結構面倒だ。腕が立つスタイリストであればよいと言うものではない。チームをまとめる統率力と共に、社長との駆け引きも必要なのだ。あの爺さん、ケチな上にクソ元気だからな…。ムッシュ・ヴェントは橋の欄干にもたれ、川を行く小舟に目をやった。
「ちょっと、あんた」
突然背後から声がする。ムッシュは振り返った。目の前には杖を手にした老女が一人、自分を見上げている。
「まだ若いとは言わないけど、少なくとも私よりは若いんだから、思い詰めちゃ駄目よ。人生はね、幸せと不幸せが公平に来るのよ。神様はちゃーんと見てらっしゃる。いいこと? 今は不幸のどん底って思うかも知れないけど、どん底って思うならそれ以上沈みやしないわよ。私だってこの80年でどれだけどん底って思ったことか。それでもこうやって生きて来れたのはね、次はきっと幸せが来る番だって信じてたからよ。あんたにも次はきっと幸せが来るから。私には見えるのよ。だからさっさと歩きなさい。前を見て、上を見て歩きなさい」
どうやら散歩中のお婆様が、項垂れて川面を見つめるムッシュを、行き詰まった中年男と思い込んだらしい。
「あ、いや、そんな訳じゃないんですよ。ちょっと仕事のことで頭痛かっただけでして」
言い訳をするムッシュを、老女はギロッと睨む。
「あんたね、仕事なんてこの世界の、いいえ、地球の歴史から見たらほんのちっぽけなシミにもならない話なのよ。恐竜やマンモスから命からがら逃げまどっていた古代の人たちを考えてみなさい。あんたには安心して寝る場所もあるし、お店に行けば、取り敢えず食べるものはある。お日様に笑われるわよ」
「は。仰せの通りです。命に関わるようなことにはならんです」
「でしょ。元気出していきなさい!」
老女は節くれだった手で、ムッシュの背中をポンと叩くと、杖を突いて歩き出した。
「有難うございます、マダム」
ムッシュはその背中に呼びかけ、老女は後ろ手をひらひらと振った。
ふうむ。次は幸せが来る…か。符牒のようなことを仰る。魔女の預言かも知れん。恐竜が人類を追いかけていた時代があったかどうかは疑問だが、この街にはまだまだこのようなお節介、ではなく親切なお年寄りが居ると言うことだ。まあお説教することが長寿の秘訣かも知れんが…。ムッシュは顎髭を撫でる。パリジェンヌと言うものは幾つになっても変わらねえ。お客でも来るあのマダムだって、きっとあんな風な婆さんになるんだろうな… お?
ムッシュ・ヴェントは手を打った。
「そうか!その手があるじゃないか。クソジジイの社長にも充分張り合える」
魔女、いや、行きずりの婆さんのお陰だな。ムッシュはニンマリすると美容室への帰り道を急いだ。




