第26話 母の失せもの
「ただいま」
学校から帰って来た千沙は、スタジオ・ジュリの扉を開けた。
「おかえりーー」
「え? お母さん?」
待合席に座って千沙を出迎えたのは、母の絹だった。
「ど、どうしたの?」
シャンプー台から樹里が顔を覗かせる。
「絹姉、千沙がいなくなって淋しくなったんだってさ。逆ホームシックね」
「えー?」
「何言ってんのよ。親が娘を心配するのは当たり前でしょ。で、ゴールデンウィークはどうするの?帰ってくる?」
「え、いや…」
実は千沙はその日、クラスメイトからゴールデンウィークに一緒に遊びに行こうと誘われたところだった。
「はーん。もしやカレシ出来た?」
「え? ま、まさか…」
「なんだ」
絹が残念そうに言う。樹里はその姿を面白がった。
「そんなの親の知らないところでこっそりやるに決まってるじゃん、ねぇ」
「いえ、そ、そんなことないです」
「そうかなぁ。ちゃんとした候補者がいるのに、何やってんだかアイツは」
千沙は言えなかった。ゴールデンウィークに誘ってくれたのが朔だという事を。千沙も魂消たのだ。それって、デ、デートじゃないの? しかし長沖君は、家もお父さんもワンちゃんまで知ってるし、別に悪そうな人じゃないし、そう、友だちなんだから、と自分に言い聞かせて承知したのだ。
「まあそういう事情なら仕方ないねえ。お母さんは一人寂しく休日を過ごすわ」
口をすぼめて絹が言う。すかさず樹里が突っ込む。
「ゴールデンウィークも営業するくせによく言うよ」
「あれ。そうだっけ」
「観光客が血迷って入って来ることあるって、前に言ってたじゃん」
「あれ、そうだっけ」
母はそれで気が紛れるのだろうか。千沙には心に小さな擦り傷が出来た。
+++
その夜、絹はスタジオ・ジュリに泊まっていった。以前と同じイタリア料理店で賑やかに食事し、家に戻ってからは、千沙が宿題をする自室の隣のリビングで、また姉妹でお酒を飲んでいる。時折声が聞こえて来る。
「あんたには判んないわよ」
「そりゃそうだ。子どもいないもん」
「ほんっとにね!穴が開くんだよ」
絹の声が酔っぱらって時々大きい。あーあ、お母さん大丈夫かな。千沙も時々、聞き耳を立てる。
「あのね、これマジだからね。昨日までいたのに今日はいないってね、そいで帰っても来ないってね、ホントにポッカリ穴が開くのよ空間に。部屋はあるし、前のままなんだけど、覗いてもガランとしてるじゃない? 整理整頓されたままでさ。そうすると、見た瞬間に、心にもポカーッって穴が開くのよ。判るかい?」
「だから判んないって。って言うかその話何回目よ。認知症じゃないんだから」
「だってそればっか思うんだもん、家にいると」
「じゃあ毎日オンライン会議でもしたら」
「だからぁ、そう言う問題じゃないのよ。千沙が元気でここに居るのは判ってるの! 私の心の失せものなの!」
「はいはい…、そろそろ寝たら?」
「あー無慈悲な妹だなぁ」
心の失せもの…。
ノートにシャーペンを走らせながら、千沙の心に引っ掛かった一言。お母さん、だからここに来たのかな。『失せもの探します』を謳うスタジオ・ジュリに。
ガタガタと音がして、しばらくするとリビングは静かになった。千沙の部屋を小さくノックする音がする。入って来たのは布団を抱えた樹里だった。
「千沙、聞こえてたと思うけど、千沙は探さなくていいからね、お母さんの失せもの」
「え?」
「あれは絹姉が一人で探さなきゃいけない失せものだから」
「はい…」
「その代わり、今夜はお母さんの隣で眠りな。お布団敷いておくから」
「あ、有難うございます」
指でVサインを作って出て行く樹里に、千沙は心で最敬礼をした。千沙の心の擦り傷には瘡蓋が出来た。




