第16話 眼科医の災難
「朔! 帰ったのか?」
伏魔殿の奥から、犬の鳴き声に混じって男性の声が聞こえる。朔の父親らしい。
「はいよ。来てくれたよ、探偵さん」
「おお!通してくれ! こっちは手が離せない」
「ったく…。水取さん、こちらへどうぞ」
千沙は朔について廊下からリビングに入る。リビングのソファの上では…
一頭のゴールデンレトリバーが朔の父親にのしかかろうとして、父親がその前足を手で支えた状態で膠着している。手を取り合ってダンスを踊っているように見えなくもない。
「オヤジ、何やってんだよ」
「何やってるもねぇよ。うう、休診時間だから戻ってきたら、リキがいきなり飛びかかって来てこうなったんだよ、力強いし体重あるから四つになったままだ、くそ」
呆気に取られる千沙に朔が説明する。
「家の反対側はさ、オヤジの眼科診療所になってんだ。また夕方から診察するんだけど、今は丁度休診時間で、その間はオヤジが戻って来て休憩して昼メシ食うんだよ」
「さ、朔! 悠長なこと言ってねえで何とかしろ、これ」
リキと呼ばれたワンコも必死で眼科医を押さえつけているように見える。今にもヨダレが落ちそうだ。
「リキ、それ、獲物じゃないぜ」
朔は軽く言うと、リキの前両足を手に取って外した。リキは息を荒げてその場に寝そべり、朔の父親も豊かなお腹を上下させ、そのまま伸びている。
「オヤジ、みっともないカッコ見せるなよ。こちらがオヤジが頼んだ美容室から来てくれた探偵さん」
「た、探偵って…、あ、あたしはそこまでじゃないです」
千沙は慌てて手を振って否定する。しかし朔は意に介さず続けた。
「んでもって、高校で同じクラスの水取さん。えっと、確か、千沙さんだっけ?」
「は、はい。水取千沙です」
ようやく上体を起こした眼科医がぺこりと頭を下げる。
「朔の同級生ってか? そりゃまた奇縁だね。美容室のお嬢さん?」
「えっと、叔母の家が美容室で、あたしは下宿生なんです」
「ほう。それで叔母様のお手伝いってわけか。えーっと事情は聞いて頂いてますね?」
「はい。ワンちゃんが飼主さんの記憶を失ったとか」
「そうなんですよ。リキは朔が生まれた時からウチにいるんですが、先月、急にいなくなっちゃってね。貼紙とかしてようやく帰ってきたら、私に吠えまくるんですよねぇ。朔にはそうでもないんですけど、まあ、歳も歳なんでアルツみたいなものなんだと思うようにしていますが、犬がそんなことなるのかってよく判らんのですけどね、何とか思い出してもらわんと毎日リキとプロレスごっこする訳にもいかんので」
眼科医は苦笑いした。リキは朔に頭を撫でられ大人しくなっている。朔も口を開いた。
「そういう訳で水取さん、何とかリキの記憶を取り戻して欲しいんだ」
「うーん。リキは誰かに保護されてたとか、でしたっけ」
「そうなんですよ。割と近所でね、中田さんっていうお宅です」
千沙は考えた。保護されたところで何か変なもの食べたとか? 確か、茗荷を食べると物忘れするようになるって聞いたことがある。
「あの、そこでお話聞くことって出来ますか?」
朔と父親は顔を見合わせる。
「オヤジ、知ってんだろ? 中田さん。医者仲間だし」
「まあな。去年引っ越して来られた時に、自治会への挨拶とか一緒に行ったからな」
「じゃ、電話しといてよ。俺、水取さんと一緒に行って来るわ」
「お、おう。じゃあリキをケージに入れておいてくれ。このままじゃメシも食えん」
「はいはい。リキ、お出で」
朔に連れられたリキは大人しい。朔についてトボトボとリビングを出て行った。朔の父親に会釈した千沙は、慌てて朔を追う。そして千沙と朔は入ったばかりの伏魔殿からまた外に出た。




