05:クレイグとセリオーン王子
エイナはクレイグの用意したドレスに着替えさせられた。
サーモンピンクというかわいらしさのある色だが、絹のような光沢があり、シルエットがタイトのためそこまで幼くは見えない。
髪をアップにして、真珠や銀細工のシンプルな装飾をつける。
身支度が終わり、メイドに手を引かれて玄関ホールへの階段をゆっくり降りていく。
そこにはすでにクレイグがいた。
クレイグは全体的に黒と藍色のシックな服を着る。
彼の胸元には真珠と銀細工のブローチがあり、エイナと意匠を合わせているのは明らかだった。
クレイグは腕を組み、妻が階段を降りて近付いてくる様をじっと見ていた。
メイドからエイナの腕を渡され、優しく手を取る。
「綺麗だ」
「ありがとうございます」
エイナは無感動に受け止める。
鏡の中の自分を見て綺麗だとは思っても、喜びにはつながらない。
これまでの人生、重要なのは金が得られるか、飯が食えるか、安全に寝られるか、それだけだった。
幸いなことに戦闘の才能があったため、体を売らずに生きて来られた。護衛として最低限の身だしなみを整える以外、見た目を気にしたことなど全くなかった。
綺麗という言葉をかけられても、実際に自分が美しく着飾られても、それを受け止める感情が育っていなかった。
クレイグは自分の言葉がエイナに響いていないことを感じ、寂しく思うが、諦める気持ちはなかった。
エイナの過去を詳しくは知らないが、まともな環境でなかったことは推測できる。感情も感覚も、これから2人で育んでいけばいい。
「出発しようか」
「はい」
「どこへ行くのかわかっているのか?」
「いいえ」
「もっと興味を持ってほしいのだが……まあいい。行くのは王城だ」
「そうですか」
新しい事業の話だろうか、とエイナはぼんやりと思う。
「仕事で行くんじゃない。王子に喧嘩を売りに行く」
「はい?」
「今までで一番高いものを売りに行くんだ。楽しみだな」
クレイグは歯を見せて笑った。少年のような、純粋な笑顔に見えた。
エイナは意味がわからないまま、クレイグに手をひかれて馬車に乗り込んだ。
…………
時刻は昼を少し過ぎた頃。
王城の客間にクレイグとエイナはいた。
表向きは、暗殺者から王子を守った件について改めて礼をしたい、という招待だった。
ノックの音が聞こえ、2人は立ち上がて入室者を待った。
従者に続いて入って来たのはセリオーン王子殿下。
白を基調とした軍服を着ており、羽織っている毛皮のコートは床に付くほど長い。
セリオーンは爽やかな笑顔を2人に向ける。
「堅苦しいのはよしてくれ。今日は余の感謝の気持ちを伝えるために招いたんだ」
コートをメイドに預けてソファに座ると、手で示して2人を着席させる。
紅茶が各人の前に出されると、メイドや護衛を全員下がらせた。
部屋には3人が残る。
セリオーンはエイナを見て微笑み、ちらっとクレイグを見てから言った。
「さて、余はエイナ殿をお招きしたと思ったが……クレイグくんだったかな、君はどうしてここに?」
セリオーンは22歳、クレイグは32歳だが、立場を強調するためにクレイグを軽く扱う。
クレイグは表情を変えることなく、冷ややかな笑顔のまま答えた。
「妻が招かれたため、夫として同席させていただきました」
「……妻?」
「はい。エイナ・ハートウッドは私の妻ですが」
クレイグとセリオーンの視線がぶつかり、平穏だった空気にピシッとひびが入る。
「エイナ殿のことを調べたのだが、彼女は未婚だと聞いているよ」
「殿下と会った日に結婚したのです。ちょうど行き違いのようでしたね」
クレイグの落ち着き払った声に、セリオーンの表情がわずかに険しくなる。
ようやく、彼も状況が飲み込めてきた。
つまり自分は、この成り上がりの男の手つきの女を奪おうとしている。
そして傲慢さを隠さぬ態度からみて、この男はたとえ王子の自分が相手であろうと、女を手放すつもりはないと見える。
セリオーンは足を組みなおして、ソファの背もたれに体重をあずけ、上から見下ろすようにして言った。
「ならば、余が求婚したとき、彼女は未婚であったのだな」
正面からの宣戦布告に、クレイグはまったく動じない。
セリオーンは朗々と述べる。
「クレイグくんは先日、余を賊の毒牙から救ってくれたな。正確にはその『手助け』だが。余は君へ褒美を与える事について許可を求められ、快諾した。その気持ちの中には少しばかり、こういう思いがあったのだ。『余とエイナ殿を会わせてくれた』という感謝の気持ちが」
セリオーンはクレイグの反応を見るが、笑みを浮かべてじっとこちらを見るだけで、何を考えているのかうかがえない。
泰然と構える相手を揺さぶるため、さらに踏み込んで言う。
「さて、クレイグくんはいくつかの事業を手掛けていると聞いている。国の事業にも今後、協力してくれるそうだね。我が国は領主間の連携に難があるから、民間の者が間を取り持ってくれて助かっている。一方で……」
声のトーンを意図的に低くし、表情をやや険しくさせて続ける。
「君ほどの事業規模になると、いち領主と遜色ないほどの財産と影響力を持っているように見える。民間事業者がここまで大きくなると思っていなかったから、そのあたりの法の整備はこれからだ。民間の力が大きくなりすぎると混乱を招きかねない。大きく発展した事業は、国が買い取ったり、規模の調整のために税を課そうと思っている」
「大胆な政策ですね」
クレイグは何の感情も乗せず言う。
セリオーンはここまで言っても微笑みを浮かべたままのクレイグに焦れ、腹が立つが、短く息をはいて落ち着きを取り戻す。
「それが秩序というものだ。近々、国内のいくつかの事業に対し、国営化や課税について試験的に導入しようと思っている。その候補はいまから作る予定だ。この政策は余が進めていて、命の恩人である君にはある程度の都合を――」
セリオーンの言葉にかぶせるように、クレイグは言い放つ。
「私の事業を盾にとって、エイナを奪おうという魂胆ですか」
「……なっ……そんっ」
虚を突かれたセリオーンは、あまりに失礼な態度と言葉にうまく返事ができない。
クレイグは背筋を伸ばしたまま、セリオーンをまっすぐ見据えて言う。
「殿下がどのような策に出るか楽しみにしていましたが、あまりに稚拙、あまりに姑息。残念です」
「き、貴様、誰に向かってそんな口をきいている!」
「都合が悪くなれば権威を持ち出すとは、器も小さいのですね」
激昂するセリオーンと対照的に、クレイグは微笑みすら浮かべて冷静な態度を崩さない。
「エイナは渡しません」
「余がハッタリを述べていると思っているな? お前の事業をすべて奪うこともできるのだぞ!」
「事業などまた興せばいい。2年いただければ同じ規模の事業を作って見せますよ。いくつでも」
「作った端から奪ってやる! いや、成功する前に潰してやる!」
「国の秩序のための政策に、私情を持ち込むのですか」
セリオーンはついに立ち上がり、剣を抜いた。
「不敬罪で処分されたいか!」
切っ先は床に向いたままだが、柄を握りしめる手は血管が浮かび、怒りで小刻みに震えている。クレイグを睨みつける目には明確な殺意があった。
クレイグは抜身の剣を見ても表情を変えず、セリオーンを見上げる。
「不敬だなんて、とんでもない。私は商人ですので、せっかちで無教養ですから、少々直接的な表現になってしまいました」
「屁理屈をッ……!」
「屁理屈はそちらです。理屈があるなら仰ればいい。ないから剣を抜いたのでしょう」
「減らず口を叩くな!」
「便宜を図る代わりに女を寄越せ、というのが理屈ですか? 殿下は道理に反していると気付いているのに、無理を通そうとしている」
セリオーンは言葉に詰まった。反論しようとするが、すでにクレイグの雰囲気に飲まれかけている。
いくら言ってもこの男には勝てないのではないか、という不安が心によぎる。
「違う、これはっ……」
「殿下」
クレイグはゆっくりと立ち上がった。
2人の身長も体格も同程度だが、クレイグの方が威圧感がある。それは10歳の年齢差と経験の差もあるが、この場の力関係がクレイグに傾きかけていることを示していた。
クレイグは笑顔をやめ、真剣な表情で言う。
「国の秩序が大切だと言う口で、無辜の民を殺すと言う。殿下はずいぶんと都合のいい思想をお持ちのようだ」
「なにが無辜の民だ、余をここまで愚弄して……!」
「ならばさっさと首を刎ねるなり投獄するなり、好きになさればいい。私は何の後ろ盾もない、剣すら握ったことのない無力な男です。ご自身の手を汚すのをためらうのなら、扉の外に待機する兵が合図を待っていますよ」
セリオーンは何も言えない。
「合図しないということは、殿下はまだ良心をお持ちということです。その良心は国を正しく導くために必要なものです。どうか一時の感情に任せて、手放されませんよう」
セリオーンはしばらくクレイグを睨んでいたが、視線を外し、剣を鞘に収めた。
怒りが冷めてくると同時に、クレイグの言葉が心に重くのしかかる。
『理屈があるなら仰ればいい。ないから剣を抜いたのでしょう』
その通りだった。エイナを欲するあまり、自身の立場や権力を振りかざしていた。
セリオーンは剣をソファに立てかけ、力なく座る。クレイグも座った。
ひとつ深呼吸して、セリオーンは落ち着いた声で言った。
「……すまない」
王族の謝罪の言葉に、クレイグは驚いた。
自分の非を認めることは、相手に付け入る隙を与える行為だ。
クレイグは無意識に計算を働かせるが、すぐに考えをやめた。
この謝罪は、まっすぐな心を持つセリオーンの、最大限の誠意だと感じた。クレイグはそれを受け入れることにした。
セリオーンは力なく笑い、エイナに向かって言う。
「エイナ殿、情けない姿を見せてしまった。余に失望していると思う」
「い、いえ……」
二人の成り行きをハラハラと見守っていたエイナは、急に意識を向けられて慌てて返事をした。
セリオーンは取り乱した恥ずかしさをごまかすためか、彼女に向かって口数多くしゃべる。
「実業家と護衛の関係で結婚したというから、彼が何か弱みを握って強引に迫ったか、もしくは女性としての感覚の低さに付け込んで無理やり同意させたかと思ったが、ここまで強い関係で結ばれていたとは思わなかった」
「いえ……」
エイナは曖昧に答えた。『強い関係で結ばれて』というのはセリオーンの勘違いだが、否定するとせっかく落ち着いた事態がややこしくなることは理解できた。
セリオーンは笑顔で右手を差し出した。
「もし困ったことがあれば、いつでも余を頼るといい」
「……はい」
エイナはちらっとクレイグを見て、クレイグが微笑んでいるのを確認してセリオーンと握手する。
セリオーンは憑き物が落ちたような、快活な笑みを見せた。
こうして、クレイグが王子に売った喧嘩は、無事に収束した。