03:プロポーズと空虚な自分
クレイグの『商談』はうまくいったそうだ。
王子を救った褒美として、期限付きだがいくつかの特権を得たと言う。
「すべてがうまくいったのに、どうして不機嫌そうな顔をしているのですか」
クレイグの執務室。
黒っぽい男物の服に着替えたエイナは、定位置の壁際に立ったまま尋ねた。
「わからないのか?」
執務机に頬杖をついて座っているクレイグは、ワイングラスを苛立たし気に音を立てて置いた。
「王子がお前に妻になれと言っただろう」
「その話ですか。社交辞令を真に受けているのですか?」
暗殺者を捉えた後の商談が終わり、王城を出ようとしたとき、わざわざ王子が2人の元へとやって来た。
金髪碧眼で中性的な顔立ちの王子は、多くの令嬢を魅了する。
しかしエイナは男性の顔の良さに興味はなく、綺麗な顔だなあとぼんやり思うだけだった。
王子は2人に対して改めて礼を述べた後、エイナの手を取って言った。
「身を挺して余を守る姿に感動した。それに、余を前にして自然体でいてくれる女性は初めてだ。エイナ殿、余の妻になってほしい」
自然な動作で手の甲にキスをした。
エイナは王族の冗談だと思い、曖昧に笑ってごまかした。
この求婚のことを、クレイグは帰りの馬車でぐちぐち言い、家に着いてからもぐちぐち言い、仕事が終わったあとの今も、酒を飲みながらこうしてぐちぐちと言っていた。
「クレイグ様、ぐちぐちと言うのは結構ですが、時計を見ていただけますか?」
クレイグはハッとして柱時計を見る。
その針は、もうすぐ頂点で交わろうとしていた。
「ご覧の通り、私の契約期間が間もなく終了します。明日の朝、契約満了の書類を取りに行きますから、用意をお願いします」
「――気が早いだろう。まだ数分ある」
「そうですね。それまで祝杯のお付き合いをしますよ」
エイナ自身は飲まない。晩酌するクレイグの愚痴に付き合う、という意味だ。
しばらく、クレイグは無言でワインを口に運んだ。
彼がワイングラスにワインを注ぐ音と、暖炉の薪が燃える音、柱時計が時を刻む静かな音が部屋に満ちる。
「エイナ」
クレイグが名前を呼ぶ。
エイナは主人の方を向いて、続く言葉を待った。
ボーン、ボーン、ボーン……
柱時計が12時を告げた。
12回の鐘が鳴り終わるのを待って、クレイグが言った。
「俺の妻になってほしい」
「またその話ですか」
「契約期間は終わった。主人と護衛の軽口じゃない。クレイグ・ハートウッドが、エイナ・ルミエールに言っている」
クレイグは立ち上がり、ゆっくりとエイナの前に移動した。
片膝を折ってひざまずき、エイナの左手を取る。
「俺と生涯を共にしてほしい。愛している、エイナ」
クレイグはいつもの笑い顔ではなく、真剣な表情でエイナを見上げていた。
彼女は戸惑い、熱いまなざしを注ぐ彼を見る。
「冗談にしては、やりすぎ……」
「本気だ」
クレイグは内ポケットから指輪を取り出した。
彼女の左手を掴みなおし、薬指に入れようとする。
「やっ……!」
エイナは反射的に手をひっこめた。右手で左手を隠すように包み、数歩後ずさってクレイグから距離を取る。
クレイグは立ち上がり、困った顔でエイナを見た。
「なぜ……」
「目的を教えてください」
エイナはクレイグを注意深く見る。
「私を妻にして、無料で護衛を続けさせるつもりですか?」
「そんな些細な金にこだわっていない」
「乱暴したいのですか?」
「嫌なら一生指を触れないと誓う」
「そうまでして、どうして私を?」
「好きだからだ」
クレイグはエイナの目をまっすぐ見て言う。
エイナは視線をさまよわせる。
この男は仕事で嘘をつき、真顔で騙し、金品や権利を巻き上げてきた。業界一の嫌われ者として名を馳せるほど、汚いやり口でのし上がってきた。
しかしエイナは、ひとりの時に見せる彼の疲れた表情を知っていた。その横顔をじっと見てしまうこの気持ちがなんなのか、とっくにわかっていた。
彼が折に触れて冗談で愛をささやくとき、エイナは邪険にしながらも、内心では嬉しく思っていた。
本気だったらいいのに、と何度も夢想した。
「エイナ」
クレイグはかすれた声で、懇願するように名前を呼ぶ。
その熱っぽい声の響きがエイナの心臓を震わせる。
仕事では平気で嘘をつく反面、仕事以外では人を傷付ける嘘はつかなかった。その点の信頼は、この1年でしっかり築かれていた。
このまま彼の手を取れば幸せになるだろう。
そんなことは、とっくにわかっている。
しかし一歩を踏み出す勇気が出ない。
彼の手を取ると、何かが決定的に変わりそうで怖かった。
暖炉の薪のはぜる音がする。
柱時計の振り子が静かな音で時を刻む。
クレイグは返事の言葉を辛抱強く待っていた。
エイナも彼が待っているとわかっていた。
自分自身が揺らぐ恐怖の中、勇気のかけらをすくい上げて、必死で大きく育てていく。
「私は……」
声が震え、続く言葉が喉で詰まる。
それでも何とか外へ出そうとする。
ふと、床を見た。
先日の襲撃犯が死んでいた場所だと思い出す。
この部屋では何人かが男と同じ末路をたどった。
両手の中で育てていた勇気が床に落ちて消えた。
血に汚れた手で、何をしようとしていたのか。
そんなものを得る資格など、とっくになくしているというのに。
――私に守るものなどない。自分自身さえ。
エイナは暗澹とした闇の中で、絶望に似た答えを見つけた。
自身を過剰に卑下しているつもりはない。
ただ事実として、自分は人の道理から外れた暗がりに生きる者だ。
いまさら些細な変化があったところで、闇から闇へと場所を移すだけ。困ることはない。
「お受けします」
エイナは答えた。白々しい笑顔を浮かべる。
クレイグは彼女の表情から、自分の好意を信じて受け入れたのではなく、諦めて身をゆだねたのだと理解していた。
「……ありがとう」
それでも、成立したことには変わりない。
エイナの左手をそっとすくい取り、脱力している薬指に、ダイヤの指輪を通す。
そしてエイナを優しく抱きしめた。
いまは形式だけでいい。ここから時間をかけて、信頼関係を築いていこう。クレイグは胸の中で固く決意した。