9.七月十日(金)⑤
天才物理学者、アインシュタインは言った。
熱いストーブの上に手を置いた一分は一時間に、可愛い女の子と座っている一時間は一分に感じられる。それが相対性理論だと。
俺はただの中学生で相対性理論を正しく理解出来る程賢くは無い。ただ十二天とのタンデムに限定すればアインシュタインの理論を完全に理解したと言っても良いのではないだろうか。
ペダルを漕いでいたのはおよそ十五分間と言ったところだ。スマートフォンに表示された時刻や沈む夕日がそれを教えてくれた。だけれどその僅か十五分があっという間に過ぎ去っていった。
横乗りで上品に座った十二天から香る甘い匂いが鼻腔を満たす。回された細い腕に段差の度キュッっと力が入るのがわかる。弾みによりささやかながらに確かに存在を主張する柔らかさが時折背中に触れる。
左後ろにすらりと伸びる白い脚、背中越しの声、耳の後ろの息遣い。全ての事象がまるで一発の打上花火に凝縮されたかの様に花が咲いて散っていった。
「乗せてくれてありがとね」
自転車から降りた十二天が言う。お礼を言いたいのは此方の方だ。平静を装ってどういたしましてと返すのが精一杯だった。
「じゃあ買いにいこっか」
「おう」
女子と二人で買い物。これはデートと言っても過言では無いのではないだろうか。まぁホームセンターなのだけれど。
「結構いろんな物が売ってるんだね」
「ホームセンター来るのは初めてか?」
「そうだね、多分関東にはこっち程無いよ」
確かに女子中学生が電車を乗り継いでホームセンターに行く姿は想像出来ない。それにこの辺りは農家もそれなりの数が居るから農業用資材やDIYの材料を軽トラに乗って買いに来る人がまぁまぁいる。華やかな都心でお爺さんが軽トラに乗って買い物している姿を想像すると何だかシュールで吹き出してしまいそうになった。
「まぁホームセンターじゃないと買えない物ってそこまで多くないしな。DIYとかする人でも無いとそっちじゃ需要無いのかも」
「そうそう。でも食べ物から生活用品、家具の類まで売ってるの見ると便利そうだなって思うよ」
「薬局とかもそうだよな。薬だけじゃなくて色々置いてるし」
「薬局はスーパーとコンビニの中間って感じがするよね」
そんな話をしながら歩いていると目当ての塗装資材コーナーに到着した。
「どういうの買うのが良いんだろうね」
「ラッカースプレーってやつが良いんじゃないか」
「水性と油性ってどう違うのかな」
「ちょっと調べてみるよ」
スマートフォンで調べてみたところ耐久性は油性を落とすには専用の溶剤がいるらしい。水性も落とすのは大変そうだが、油性に比べたらいくらかマシだ。
「どっちでも乾けば雨が降ったくらいじゃ落ちなそうだ。油性の方が落とすのが大変だから水性の方が良いんじゃないか」
「じゃあ水性にしよう。何本買おうかな」
「見た感じ大きめの缶でも一面二度塗りすれば一畳も塗れないらしい」
「屋上の広さを考えると一畳じゃとても収まらないけど、塗らない部分の方が多いくらいだし二本もあれば良いかな」
「どうせ落とすんだし、とりあえず一回塗るだけにするとしてそのぐらいでいいと思う」
もし足りなくなればまた侵入して描きに行けば良いだけだ。それに一本千円近くするスプレーを買ったは良いが余らせましたなんてことになれば勿体無い。
「じゃあこの水性の方を二本買うね」
十二天はそう言うとスプレー缶を手に取りレジへ向かい歩き出した。後を追い後姿を眺めているといくら俺には小さくなったとはいえ男物の服だ。細身の十二天には丈は合っていても幅には随分とゆとりがある。
幸いレジ運んでおらずスムーズに会計することが出来た。十二天の財布はクラスの女子が話題に上げているのを耳にするくらいには名の知れたブランドの物だった。
思えば親類があれだけ大きな家に住んでいるのだし、二千円近い買い物をさも当たり前の様にするくらいにはお金に困っていないのかも知れない。
「まだ結構時間あるけどこれからどうしようか」
時刻は七時半前、今から学校へ向かうには早過ぎる。
「そうだな。そう言えば晩飯ってどうする気なんだ」
「ごはん?今日も食べないつもりでいたけど」
昨日も夕飯を食べていない筈だ。十二天が細身なのは食生活のせいなのだろうか。
「あんまり食わないのも身体に悪いぞ」
「じゃあ何か食べに行く?」
「そうしようか、何か食べたいものあるか?」
「すぐ近くにマクドナルドがあったでしょう?そこに行きたいな」
価格帯を考えれば確かに手頃ではあるが、全国どこにでもあるのにマクドナルドで良いのだろうか。
「無理して道中目についたところで選ばなくても良いぞ。移動する時間の余裕もあるし」
「ううん、マクドナルドが良い」
「そこまで言うならマックに行こうか」
意外とジャンクフードが好きなのだろうか。それともスプレー缶を買ったのに更に贅沢は出来ないという判断だろうか。
マクドナルドのM字は既に見えている。二人乗りするまでも無い程目と鼻先なので、残念ながら自転車を押して歩くことになった。
「どうしてマックが良かったんだ?」
「私マクドナルドって行ったことが無くてさ」
「マジで?」
咄嗟に口に出してしまった。嘘を吐いているとは思わないが、こんな田舎にさえあるのに関東で暮らしながら今まで行ったことが無いと言うのはにわかに信じがたい。
「マジだよ」
「厳しい家だったのか?」
「外食は殆どしなかったね」
仮に家族で外食に行かなかったとしても、中学生にもなればこうして放課後に食べに行くことくらい出来ただろうにとは思うものの、今までそうしなかった事に理由があるとすれば余り踏み込むべきではなさそうだ。
「そうなんだ」
「うん、だから食べてみたかったの」
「そんなとんでもなく美味しいもんじゃないぞ」
マックは親が料理をするのが面倒だったりする時に車から降りずに買えるからと買ってきたり、友達と出かけた際に安く済ませられるから行くものだと思っている。過度に期待している様ならやんわりそれを打ち砕いておくのも優しさかもしれない。
「行ったことなくても流石にそれくらいわかるよ」
けらけらと笑いながら言う十二天、これなら余計な事を言わなくても大丈夫だろう。
続く