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彼女が(元)夫を殺すまで  作者: はくちゅうむ
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そして彼女は泡になる


 足音が聞こえた。

 さく、さく、と草根を踏み分けて刻まれる一定のリズム。荒い呼吸の合間を縫って鼓膜を揺らすその音に、否応がなく思考が乱れる。


 逃げなければ。


 そう思えば思うほど、足がもつれてうまく進めない。息が苦しい。肺が痛い。心臓がうるさい。うだるような熱が体を包んでいた。だというのに、底冷えする夜が指先からじわじわと這い上がって、寒いのか暑いのかもよくわからない。限界だ。そんなものとっくにわかっている。

 さく、さく、さく。

 煩わしい。割り込む音があまりにも耳につく。


 月明りすら遮るほどに鬱蒼と木々が生い茂る森の中だった。無我夢中で駆け回ったせいで、手足は傷だらけ、純白の衣装は見る影もなく破けてしまっている。深まる夜の冷気が剥き出しの肌に突き刺さる。いつの間にか靴を落としていた。足の裏の感覚はとっくにない。

 痛みも感情も、ガラス一枚を隔てたずっと向こうにあるような気がした。爆発しそうな心臓すら自分のものではないような気がする。

 数歩先も覚束ない闇の中だ。魔法の灯もないのに、足音は正確に私の後を追う。ただ無性に焦りが募って、自覚がないだけで爪先から頭のてっぺんまで溜まった疲労が魔力防壁の構築のための公式すらぐちゃぐちゃにかき乱していく。

 夜明けが遠い。このままここで諦めて倒れてしまった方が楽だとわかっていた。ただの意地だけで突き進むにはあまりにも絶望的な力量差がある。狩人と獲物、この構図は覆らない。今だって、本当ならすぐにでも追いつけるはずなのだ。さく、さく、さく、と。草花を足蹴にする音が規則正しく耳に届く。絶望が体の芯に回ったとき、私が自分から諦めるその瞬間を待っている。膝をつき、意識を手放したら最後、私は一生あの化け物から逃げられない。

 滲む視界がぼやけ始めていた。酸素が足りない。魔法を、せめて足止めを。そう思うのに、発動のための動力源が足りない。人も木も花も神でさえも平等に汚染していくこの森の呪いに抵抗する間に使い切ってしまった。

 見通しが甘かった。一千年前から変わらずこの土地に留まる呪いと瘴気は、生態を変え美しい花々でさえ禍々しい姿に変えた。神とてこの呪いの前では歪まずにいられない。だからここを選んだ。あの傲慢な化け物は、愚かな人間の戯れに付き合ってやろうと、簡単に誘いに乗った。


 唇を噛む。


 束の間の鋭利な痛みが、少しだけ意識を現実世界に連れ戻してくれる。

 さく、さく、さく。

 絶え間なく響くその足音を振り切るように、速度を上げる。目指すは森の果て。そこには一千年前の戦乱の痕を色濃く残す、世界の割れ目のような亀裂がある。この森を汚染し、今なお帝国を呪う瘴気の源だ。

 がむしゃらに発動した魔法とも呼べないような魔力の搾りかすを、嘲笑うように化け物は避ける。これでは駄目だ。もっと高度な魔法を。時間稼ぎを。辿り着く前に力尽きるわけにはいかない。逃げ切るのだ。急げ、早く、もっと早く!

 脳裏に焼き付いて離れない光景だけが、私を突き動かす。

 穢れのない白で統一された大神殿が、唯一血の海に沈んだ日。

 私の大切な人たちが、尊厳など初めから存在しなかったかのようにぞんざいな手つきで吹き飛ばされ、細切れにされ、物言わぬ肉塊となり果てた瞬間のこと。

 取り戻すのだ。全てが狂う前に戻って、やり直すしかない。あの人たちが創るはずだった未来を、あんなふうに奪わせていいわけがない。やり直す。そのためならなんだってする。この身一つで世界が変わるというなら、喜んで差し出すに決まっている。


 要らない。

 こんな指など要らない。

 手も、腕も、足も、肩も、どんな臓器だってくれてやる。


 逃げ切るのだ。聖女と崇められ、花嫁だと祀り上げられた身体は特別製だ。放出できる魔力がなくなったとしても、私の全身を造る魔力が残っている。この国を守る結界に割いている魔力はまだ使えない。気休め程度の時間稼ぎでも、驕ったあの化け物が油断する材料になるならば上々だ。


 爪の先ですら魔法の媒体になる。今だけはこの体に感謝する。痛みに鈍くなっていてよかった。正気に戻ればきっと耐えられない激痛も、今この瞬間はただ通り抜ける刺激に過ぎないから。

 風の刃で指を斬り落とす。靄がかかって重たい脳を無理やり動かして、式を組む。転移魔法。視界の先の小枝と位置を入れ替える。あの化け物から少しでも離れて、できるだけ早く、早く、辿り着かなければならない。

 髪を捨てる。長く伸ばした髪は自慢だった。ミルクを入れたばかりのコーヒーのような、滑らかに色の境界線が交わる少し不思議な茶髪は、姉妹のように育ってきた侍女頭のフレイが毎日欠かさず手入れしてくれた髪だった。でももう、フレイはいない。この髪を梳いて整えて、満足げに微笑む人はいない。

 落とし穴のような子供だましに引っかかってくれるわけがないのはわかっていた。無意味でも、一瞬の邪魔になればいいのだ。その隙に前へ前へと進める。小さな煩わしさが積み重なって時間稼ぎになる。

 左腕を使う。分身魔法。続けて複数回の転移。分身と己の位置をかき混ぜる。右腕を使う。視界を奪う深い霧を生み出す。幻惑魔法を重ねれば、音が不自然に響き方向感覚が狂う世界の完成だ。息を吐く音と共に霧は霧散したけれど、その間に転移魔法で前へ進む。

 突然視界が曇る。霧だ。同じ魔法で返されている。あの化け物との根本的な魔力量の差では、容易に払えないだろう。きつく噛みしめた唇から鉄の味が広がった。地面に滴り落ちる血の一滴ですら魔法の動力源になる。影を生み出す魔法。拳に力を込めて、霧の中を突き進む。

 あと少し、もう少しなのだ。こんなところで終わるわけにはいかない。

 肉を抉る。骨を引きずり出す。細胞の一つまで使い尽くす。

 足は要らない。魔法さえ使えれば、私は前に進める。

 目が潰れるほどの光を生み出す。突風の魔法が、束の間霧を払いのける。道が見える。目印さえおいてしまえば、転移魔法が届く。入れ替える。前に進む。分身を生み出す。影で惑わす。わずかな隙を作る間に、私の身体は消耗していく。


 間に合うかは、賭けだった。

 そして今、私は賭けに勝った。


 人間としての形を保てないほどにボロボロでも、私は生きている。割れ目を前に、自然と笑みがこぼれた。

 終わりだ、などと化け物がいう。その体ではもう何もできまい。大人しく諦めろ。元通りきれいにしてやる。そんな言葉を並べ立てる。ちゃんちゃらおかしい。何も終わっていない。私は負けていない。ただ、背を押す小さな風さえ生み出せればいい。


 妖精王の花嫁だと言われた。

 数百年ぶりに生まれた、魂の適合者。神の伴侶たる器。

 生まれた瞬間から呪いのように付きまとう運命が刻まれたこの瞳は、神の身体そのもの。一千年前、妖精王が人間の魔導士に奪われた魔力の源。神性を示す黄金を散りばめた星屑の海のような瞳を、抉り出す。手などなくても、私にはまだ残った肉と、魔法がある。


 媒体は、妖精王の花嫁となるはずだったこの身すべて。

 忌々しい運命すらつぎ込んで。

 黄金の毛並みの醜悪な化け物が、美しい顔に焦りを浮かべて手を伸ばしていた。でももう遅い。その魔法が届くより先に、私の魔法が発動する。

 それは、本来であれば、花嫁であり聖女でもあった私が知っているべきではない禁忌だ。

 この時のために温存していた魔力を引き出す。聖女として、この国を守護する結界に割いていた魔力。この結界を維持できなくなった瞬間、帝国はその脆弱な柔肌を外界に晒す。



 天蓋のような夜空の下に、視界を目いっぱい覆う巨大な魔法陣が描き出された。

 禁忌と呼ぶにはあまりにも柔らかな光が、暗くなった視界を優しく照らし出す。

 重力に従い、割れ目に落ちて行ったはずの身体が強い力で引き上げられた。吸い込まれる、そう思った瞬間、私の意識は闇の中に沈んだ。





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