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鷹司忠冬のやらかし  作者: 若竹
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三好家の恩人

 永正11年(1514年)、大内義興(よしおき)に日明貿易を恒久的な特権として与える御内書(ごないしょ)が与えられた。これに細川高国は猛烈に反発する。それまでは細川家だけの特権であったからだ。


「なんじゃ、これは!飼い犬に手を噛まれたとはこの事じゃ!」

「お館様!落ち着きなされませ!」

「ええぃ!邪魔するでない!」

「あぁ!能勢殿!誰か!誰か、おらぬか!」

「お館様がご乱心じゃ!」


 高国が大内を京に呼び寄せたのであるが、この御内書の件以降、高国との仲が冷えて行く。それと同時に大内の家臣達が国へ帰るようになった。


「義興様、すみませぬ。どうも国元が落ち着かず、一度戻らねば収拾がつかぬと……」

(それがし)の国元も、不穏な噂が絶えず……」

「どうも、尼子が蠢動しておるようでして…」

「うむむ。仕方がない。お主らは国元を固めよ」


 永正12年(1515年)、義興は石見守護となる。この年、石見は尼子に攻められていたが、統治の大義を得た事になる。


 永正13年(1516年)、義興が帰国する。石見をすぐに奪還し、再度上洛すると思われていたが、戦況は思うようにならなかった。


「義興様!安芸の国人達に尼子の手が回っておるようです!」

「武田や毛利にも怪しき動きあり。との事!」

「大友や松浦も何やら動いている様子」

「これは、尼子だけの策謀ではないな。もしや、管領の……」


 永正11年から13年にかけて急速に進む大内の苦境には疑問が多く、歴史研究者には幕府から大内家を遠ざけたかった細川京兆家の暗躍を指摘する者も多い。当時から澄元(すみもと)の動きを指摘する者が多いが、近年、高国が出した大友への手紙が発見されている。


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 永正14年(1517年)、大内が帰国し、高国陣営が弱体化したと判断した細川澄元(すみもと)は、密かに三好之長(ゆきなが)へ京都奪回を命じる。


「時は今ぞ!之長、京に戻るのじゃ!」

「まぁまぁ、急いては事を仕損じると申します。じっくり確実に行こうではありませぬか」

「何を呑気な事を!兵は神速を尊ぶものじゃ!」

「それも宜しいですが、ジリジリと攻め上がればその分、高国の苦しみも増すという物」

「ほう!面白き事を言うのう!」

「高国の焦る顔を思い浮かべませ」

「ほっほっほ!それも一興!之長!任せたぞ!」


 人に言いつけただけで戦に勝った気でいる澄元は上機嫌で去っていた。近頃お気に入りの侍女と遊ぶのであろう。


「……、やれやれ、また無茶を申しよる。戦続きで村の作付けにも困っておると言うに……」


 既に老境に入り始めた之長は、まず淡路の支配を確実にする。淡路に侵攻し、細川尚春(ひさはる)を捕縛。阿波にいる澄元に送ったが、澄元は尚春を殺害する。


 14年の秋には兵庫に上陸し、摂津有馬の池田氏と合流し、摂津の越水城を包囲した。城の包囲は翌年まで続くが、高国方の救援が失敗。二月には落城する。


「よし!之長!この勢いで、京を獲るぞ!」

「お待ち下さりませ!今、京は混乱の最中でございます!」

「高国の首を獲る好機ではないか!」

「京で乱防を働く管領。京の平穏を取り戻す管領。どちらが真の管領と呼ばれましょう?」

「分かった、分かった。お主の好きにせよ」


 澄元は早急な入洛を主張したが、ここでも之長は慎重策を取り、京の外から洛中の慰撫に務める。混乱を鎮め、実際に入洛を果たしたのは、四月の末、それも澄元は摂津に残し、三好一党だけの入洛であった。


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 ところが、五月一日、近江の坂本に逃れた高国が突然上洛する。高国が率いて来たのは、六角氏や朝倉氏、土岐氏など4万とも5万ともいわれる大軍勢であった。


 対する之長の兵は4千から5千と言われている。


 これがのちに言う「等持院の戦い」である。等持院は京の北西、金閣寺の近くにある寺院で、戦いはその南側で行われた。


 京の東から攻められて、京の西で合戦をしている事で分かるように、初めから腰が引けた戦いであった。


 局所では優勢な場所もあったようだが、衆寡敵せず。三好勢は一日も待たずに敗走する。


 この時、之長とその子息(芥川長光、長則)は忠冬に保護される。曇華院に逃げ込んだ三好新五郎(しんごろう)ら三好家一党は身の安全を保障されたにも関わらず、投降後に斬首された。


 之長が肥満で動けず逃げ損ねたために、返って助かったのだ。との記録がある。が、澄元の周辺が淡路に始まる之長の慎重な戦略を「尻が重い」と揶揄したのが間違って伝わったとも言われている。


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 (のち)に孫である三好元長(もとなが)が、鷹司邸でこう語った。


「あの時、既に父は亡くなっておりまして。三好家はお爺さまが頼りでした。叔父達もお爺さまと一緒におりました。屋台骨の三人です。忠冬様に助けて貰えなかったら、三好家はどうなっていたか分かりませぬ」


 永正17年(1520年)、等持院の戦いの傷を癒した三好家は、澄元に命じられ、再度京を目指す。三年前とは違い、淡路から発した軍勢は見る間に京へ達する。


 京を守るのは斯波(しば)家の兵、四千のみ。しかも斯波家は宮中警護を宣言し、細川の乱には介入しない旨を宣言した。


 京の民は澄元の軍勢による乱防獲りを覚悟したと言う。

 だが、三好家は検非違使の復活に協力する。


「高国が悔しがると思っただけでも価値がありましたが、そろそろ澄元(すみもと)の横暴にも付き合いきれなくなっていましたからな」


 どちらの細川も自分たちの主導権争いをするばかりで、上は将軍から下は土一揆まで、自分達の争いに利用した。之長とその一族はそんな戦いに辟易としていたのだ。


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 検非違使の復活後、三好家は足利将軍家の直臣となり、阿波、讃岐、淡路の三国の守護を任される。また、合わせて検非違使の主力となり、京の平穏を長く守った。





本編は、ほのぼのベースの物語になってます。

そちらもよろしくお願いします。


鷹司家戦国奮闘記

https://ncode.syosetu.com/n6967he/

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