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鷹司忠冬のやらかし  作者: 若竹
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西海の覇者、大内 その2

「それでは、始めましょうか」


 鷹司卿が京へと戻るその船で、陰陽師の勘解由小路(かでのこうじ)在富(ありとみ)がやって来た。義隆(よしたか)が断れると思っていなかった証拠である。


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 在富は、周防国(すおうのくに)に鋳造場の場所を指定し、広大な土地に縄張りを張った。京から職人を呼び寄せると次々に建物が出来ていく。聞けば大内裏の大壁を作った者達だと言う。


 彼らは、三和土(たたき)を改良したという人造石を使い、建物や道を素早く作って行く。道がある程度通ると、京から荷運び用の馬車や牛車が運ばれて来る。


「そこのけ!柱が通るぞ!」

「ありゃあ!デッカい柱じゃのう!」

「あっちからは大石が運ばれて来るぞ!」


 人では運ぶのに何人も必要とする大石や大きな柱が牛や馬を使って運ばれる。港や工場には、車へ荷を載せる大きな木組みも作られた。


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 大内家は、在富にも急かされ、筑前と豊前にまたがる炭鉱の開発に手を付けた。元々地面に石炭が転がっていた土地。新しい工法で鉱山の設備もすぐに出来あがる。即座に石炭の出荷が始まった。


「こりゃ、ええのう」

「煙くもないし、あったけえ」

「大きな蓮根の炭かと思うたが、燃える石から出来とるらしいのう」

「なんでも、一度粉にした石を糊で固めたらしいんよ」


 石炭は暖をとるためにも使われた。石炭焜炉と呼ばれた暖房器具と練炭が普及し、一部の地域では、木炭の消費を減らすほど使われた。


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 長門国(ながとのくに)秋吉台(あきよしだい)からは石灰石を掘り出し、人造石の材料などに利用する。京の職人から三和土の秘伝を教わった職人たちが領国内を整備する。


「これは、歩きやすい道じゃのう」

「泥が跳ねる事もないぞ!」


 三和土仕上げが出来ない道も、小石を敷き詰めた道へ変わった。車で大量の小石が運ばれてくるのだ。簡易舗装ではあるが、道が泥濘(ぬかる)む事も減った。


「どけ!どけー!」

「お武家様が走って来るぞー!」

「鐘を鳴らせー!」

「馬が来るぞー!」

「賊退治じゃー!」


 道の整備は治安向上にも繋がった。各村に狼煙台が設置され、賊が出ても馬に乗った武士が急行する。各地を巡回する武士団も編成され、街道沿いの野盗も追い払われた。


 抜け目のない商人は馬車を借り、巡回する武士団に付いて行った。武士に便宜を図ることで安全を確保したのだか、巡回武士団専属の商人も現れた。


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 全国から金属が集まり、それをことごとく溶かす事で、周防の鋳銭司(じゅせんし)に、一気に冶金(やきん)の知見が溜まって行く。そこに在富も度々訪れ、あれもこれもと細かい指導を行った。


 ふんだんに集まった銅で鍬などの農機具を作り、周りの農家に貸し出した。貸し出した農機具は収穫が終われば返却してもらう。帰ってきた農機具の金属を調べ、硬かったか、柔らかかったか、粘りが足りなかったかなど、詳細に調べた。


「ありゃあ、これは歯が割れたか。硬くしすぎたかのう」

「いや、これは石に当たって歯が欠けたんで」

「ふむ、粘りが足りんかったかの?」


 事前に書き残しておいた配分と見比べれば、どんな配合をすればどんな性質になるか判明した。今までは鍛治師の感覚に頼っていたが、在富は記録を付けさせ、それを提出させ、まとめた表を鋳銭司の鍛治師に共有した。鍛治師は、それを元に配分を調整して行ったのだ。


「こんな時は胡麻油で冷やす方がいい」

「この色になったら、相槌を始めるんじゃ」


 鍛治師達も知識の共有の便利さに気付いて秘伝を教え合い、腕を上げていった。


「こう言うのは、鋳物で作るのが楽じゃな」

「あらかた鋳物で作って置いて、後で歯を付けてはどうじゃろう?」


 鋳銭司は貨幣を作る役柄から鋳造が主になる。研究目的で集められた鍛治師達は鋳物の技術も学び、幅広い知識を付けていった。


 この時代、家具や農機具を作る鍛治は野鍛治と呼ばれ、刀鍛冶より一段下に見られていた。鋳銭司が研究目的で始めた農機具制作だが、その鍛冶師の中から器具の形などを研究する者も出た。


 周防で作られた農機具は優秀さで知られ、周防鍬の名を残す事になる。


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 在富は、京から持って来た新しい農産物も配った。同時に京から連れてきた農業指導者を各村に派遣して、育成法などを伝授した。


 この数年前から、京では荒地となっていた右京の開墾が盛んになっていた。狩衣姿の指導者たちは、公家の息子達である。各家で右京の開墾を任されて鷹司の(令和時代の)農学知識を身につけた者たちだった。


「ほほほ、そんなに遠くでは声が届かぬ。もっと近う寄れ」

「ありがとうございやす……」

「こちらも、少し前までは食い詰め者だったのじゃ。遠慮はいらぬ」

「それでも恐れ多くて……」

「腹が空くのに公家も百姓もない。わしが鍬を振るって見せようか?」

「ひええ!お待ち下されぇ!」


 農機具の支給に合わせ、彼らの指導もあって、米を始め雑穀や野菜などの収穫率も高まった。


「平気で(こえ)をいじるお公家さまなんぞ、初めて見ましたわい」

「ほほほ。土も肥も見ただけでは、ようわからぬからの」

「畑に灰をばら撒いた時は肝が冷えました」

「あれは常ならぬ策。やる前には相談せよ」


 彼らの前には収穫された作物が山の様になっていた。


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 大内の領民に新しい農法が行き渡ると、尼子や大友など、周辺の雰囲気が変わった。


「今年も大内では豊作じゃと」

「見た事の無い作物も多いそうな」


 それまでは、ただ(いが)み合うだけであったのが、大内を(うらや)むようになったのだ。大内に近い場所こそ大内を羨んだ。


「土起こしから殿様が面倒見てくれるそうじゃ」

「種や苗も配って頂けるんじゃと!」

金属(かね)を使った鍬を貸してくれるそうな」


 農民に差など無い。あるのは殿様の差だと噂した。大内と敵対していた大名家の領国は不穏となり、領主達は国内を奔走した。


「大内ではお公家さまが教えを授けてくれるそうじゃ」

「うちの殿様では坊様も呼べまい」


 強硬(きょうこう)な国人領主が領内への対応にしくじり、一揆が起こる所も現れた。徐々に大内の領内に逃げ込んでくる民も出始めた。


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 義興(よしおき)は本当の方術(ほうじゅつ)を見た思いだった。在富は丁寧に説明してくれる。一つ一つの手順は単純で何の不思議も無い。だが、それが組み合わされると、今まで手が届かなかった事が実現するのだ。


 そして、民の笑顔が増えて行く。


 これが、真の国づくりなのだ。そう、腹に落ちた。


 幼いころより兵を率いて駆けずり回ってきた。家臣を懲罰し、大友や少弐と戦った。朝敵にもなった。将軍を助け公卿に列せられた。日明貿易の特権を与えられた。


 だが、民の顔など気にした事があっただろうか?


 民を豊かにする。そうすると国が豊かになる。国が豊かになれば余裕ができる。兵はその余裕で動かすだけでいいのだ。


 何度目の来訪の時だろうか?周防にやってきた在富に、義興がそう告げると、それが「富国強兵」と言うのだと教えられた。


 義興は享禄元年(1528年)の年の暮れに隠居する。52歳。既に家督は嫡男の義隆に任せてあったが、後見役も辞めて京へ移り住んだ。


 その後は京で多くの書物を書き残し、それは大内家の財産となった。



本編は、ほのぼのベースの物語になってます。

そちらもよろしくお願いします。


鷹司家戦国奮闘記

https://ncode.syosetu.com/n6967he/

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