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鷹司忠冬のやらかし  作者: 若竹
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西海の覇者、大内 その1

 享禄3年(1530年)、京都三千院の門跡であった彦胤入道(げんいんにゅうどう)が還俗し、寛恒(ひろつね)親王となって大宰府の長官である大宰帥(だざいのそつ)に就く。実際に九州へは赴任しなかったが、次官の大宰大弐(だざいのだいに)には九州北部の大大名、大内(おおうち)義隆(よしたか)が任じられた。


 元々、大内氏は幕府の対外貿易を差配しており、その利益は莫大であった。


 いわゆる勘合貿易は、足利義満が日本国王として始めたもので、足利幕府の権益であったが、大内氏が遣明船派遣の管掌権を永久的に保証されていた。また、朝鮮王朝からも「通信府」右符印を授かるなど、特別の待遇を受けている。そしてこの時代、倭寇を介した密貿易も盛んに行われており、その多くも大内氏が関与していたのだ。


 親王の大宰帥任官は、この対外貿易の利権に食い込む為と思われ、また実際に朝廷の窮状を救う一助になった。


 また、大内氏もこの任官により九州支配の大義名分が立ち、権威を高めて領国の支配を磐石にしていく。


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 北九州と山陽道の西半分を支配下にしていた大内家だが、山陰地方の尼子家とは仲が悪い。永正12年(1515)に尼子が大内を攻めだしてからは明確な敵対関係にあった。また、永正17年(1520年)の検非違使の復活で、より対立を深めてしまい、翌年には、石見を奪い取られてしまう。


 将軍側についた大内と細川側についた尼子は各地で小競り合いを起こすようになる。この尼子との対立で活躍したのが多治比(たじひ)(丹比)元就である。この元就に毛利家の家督相続の話が持ち上がる。


 しかし、当時の大内家当主、義興(よしおき)がこの騒動の影に尼子の調略を察知した。すぐさま仲裁に入り、元就に大江を名乗らせるとともに京の検非違使へと派遣する。


 その翌年、義興は家督を義隆に譲る。検非違使の運用の件や、尼子からの石見返還を幕府や朝廷に訴えた件など、京との行き来に忙しくなったのだ。年齢もあり、後見が出来るうちにと領国経営を義隆に任せた。


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 大永2年(1522年)近衛稙家(たねいえ)から鋳銭司(じゅせんし)の打診が来る。使者は鷹司家を継いだばかりの忠冬(ただふゆ)だ。若くとも摂関家の当主である。この時の対応は次期当主であり、年も近い義隆が行った。


 古くより周防国、長門国は鋳銭司が置かれた国である。また官位を売って献金を求めるのかとも思ったが、最近の朝廷は検非違使の復活など、今までとは少し動きが違う。とりあえず話を聞く事にする。すると、その内容に腰を抜かした。


 新たな日銭(にっせん)(日本製の貨幣)を鋳造するという。今の日の本は明銭や宋銭を使っており、貨幣は明からの輸入に頼っていたのだ。


 その他、明からは、生糸や綿糸、織物などの繊維製品、また陶磁器や、仏教の経典などの書籍、スパイスなどを輸入していた。


 日の本からは、銅、硫黄、金、銀などの鉱物や刀剣、漆器、蒔絵などの工芸品を輸出していた。


 京の木銭(もくせん)の噂も大内に伝わって来ていた。


 元々は鷹司家が普請の時に飯を配るのに使っていた木札らしいが、今はその木札が銭として流通していると。


 表では、新しき銭として話題だが、裏を返すと銭が足りていないのだ。


 金属製の貨幣は使われていくうちにすり減る。すり減った貨幣は悪銭、または鐚銭(びたせん)と呼ばれた。悪銭は嫌われ、通常以下の値打ちで使われる。酷いと悪銭4枚で良銭1枚分とされた。そもそも明より輸入した明銭も悪銭が多い。


 日の本でも貨幣を作った歴史がある。また、私鋳銭と言って、自分の所で銭を作っている勢力もある。ようはニセ金であるが、悪銭よりも歓迎されている。作る技術が無い訳では無いのだ。


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 実は、日の本から輸出している銅には金銀が含まれているのだという。明や朝鮮は、日の本から輸入した粗銅から金銀を取り出し、差益を得ていたと言う。これを防がねばならぬと。


 大内の領国にも、長登(ながと)石塔(せきとう)など多くの鉱山があるが、日本中の粗銅から金銀を取り出す事が必要であると。しかも、銅から金銀を抜く方法は金山や銀山でも活用できるのだという。


 そこで鋳銭司を復活させ、日本中の金銀銅を一度、鋳銭司を通し印の入った延棒にしてからでないと、輸出できない仕組みにするのだとか。


「まぁ、ある程度の抜け荷もあるでおじゃろ。それはそれで懲罰の大義となるでのう……」


 鷹司の若当主は涼しい顔をして怖い事を言う。第一は尼子が奪った石見の銀山が価値を失う事をさしているのだろう。今後、尼子は大内を通さねば銀を売る事が出来なくなる。


 が、何より今現在、日の本で一番多くの抜け荷を扱っているのは、倭寇とつながりの多い大内家なのだ。


 背中に冷たいモノを感じながら、義隆はなんとか任官を避けられないかと逃げ道を探る。鋳銭司を受ければ、抜けられない深みに捉われてしまう。直感で、そう感じたのだ。


「銭の鋳造でも大事でございますな。しかし、日の本の銅を溶かすとなると、当家の森が丸裸となってしまいますが……」

「それなら、安心せよ。妙案があるのじゃ」


 鉱山の運用にも多量の燃料が必要だが、これも大内の領国内に燃える石が多量に埋まっており、これは木炭よりも高い熱で燃えるのだという。


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 大内義隆はただの戦国武将ではない。百済の第26代の王、聖明王の血を引く大内家の当主なのだ。


 聖明王の第3王子である琳聖太子は推古天皇の時代に日本に渡り、聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという。


 平安時代末期には多々良氏は周防(すおう)の実力者となり、「周防介(すおうのすけ)」に任じられた。それが今の大内氏なのである。いわば小国の王族と言ってもよい。


 他国との貿易を行っており、銭の重みも商人以上に知っている。いや、この時代に貨幣の実質を理解できている商人などほとんど居ないだろう。


 その開明の王として、危険を察していた。金銭の力を。魔力を。そして、それを司る責任を。欲望に捉われた亡者の声が聞こえて来る気がした。


 尼子が、大友が、少弐が、河野が。有象無象が利を求めて襲い掛かってくる幻影が見えた。


 が、開明の王として、その利益をも理解してしまったのだ。義隆の利だけでなく、大内の利だけでなく、日の本の利も莫大なものになると。


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 脂汗を流す義隆を上座から眺めていた忠冬は、おもむろに立ち上がると義隆の脇まで歩み寄る。肩を抱くように身を寄せるとこう(ささや)いた。


「実はの、近ごろ茶碗焼きに凝っておじゃる。備前(びぜん)もよろしいが、(はぎ)では陶器に向いた土があるとか。ぜひ、焼いてみたいモノでおじゃる」


 この時期、まだ萩で陶器は作られていない。忠冬は萩で陶器が作れると言う。義隆の脳裏には明からの輸入品に陶磁器があるのが浮かぶ。当然、国産(大内領内での生産)が叶えば、大きな利となる。


 だが、義隆はゾゾゾッと総毛立った。先の燃える石といい、萩の土といい、どこまで探られているのか?


「じゅ、鋳銭司のお話、あ、ありがたく……」

「ありがたく?」

「お、お受け致し申す……」

「オーホッホッホ!そちは、よい選択をしたのう!」

 

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 朝廷からの使者を見送った義隆は、十歳も老けて見えたという。また、他の家臣は義興が「悪鬼羅刹」と呟くのを聞いたともいう。





本編は、ほのぼのベースの物語になってます。

そちらもよろしくお願いします。


鷹司家戦国奮闘記

https://ncode.syosetu.com/n6967he/

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