太閤たちの伊勢参り
天文11年(1542年)秋、近衛と鷹司の太閤が揃って伊勢参りをすると言い出した。
その年の夏に将軍家と細川京兆家の戦いが終わったばかりである。特に、この戦いは各地の仏教勢力が細川方についており、大和の興福寺や長島の願証寺など、まだまだ不穏な勢力があったのだ。
京から伊勢参りをするには、いろいろな行き方があるが、この時計画されたのは近江から鈴鹿へ入り、安濃津で伊勢街道に合流する道であった。
近江の大津のすぐ北は叡山がある。鈴鹿山中は盗賊で有名であり、北伊勢に出れば一向宗の長島が近い。
関白忠冬は幕府に協力を依頼したが、足利将軍家は、細川の追討や若狭の混乱で手一杯の状況であった。朝廷でも格別の二人を守るために忠冬はとんでもない策を捻り出した。
安全な道が無いのなら、作れば良いと言うのである。
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太閤達のお伊勢参りについては、北伊勢の関氏や長野工藤氏には、伊勢国司である北畠家と幕府政所、両方からの知らせがあった。つまり、朝廷ルートと幕府ルートの両方から知らせが来たのだ。かなり気を使われたと言ってよい。
お伊勢参りのために今の道を拡張し、峠を切り開いて新しく道を作るとあった。
太閤達の道は、大津から草津へ。草津から野洲川沿いに甲賀を通り、鈴鹿峠を越えて関に出る。その後安濃津へと繋げるという。
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当初、動きの鈍かった両家であったが、「このために街道を改修する。ついては街道筋の大名で話し合いを持ちたい」との呼びかけの書状が三好家、六角家の連名で届き、山科まで出向く事になった。山科に到着し、工事現場に着いて驚愕した。
20㍍程の真っ直ぐな道が延々と続いているのだ。(現代の自動車道の幅が一車線だいたい3㍍強)道には牛や馬が引く車が行き来しており、土やら石やらを運んでいる。人を何人も乗せた車もあり、その間を馬に乗った武士が駆け抜けて行く。見ている内にも道が延びていく。
「この道を一冬で伊勢の神宮まで通さねばならぬ」
管領代として名が高い六角定頼がうめく様に言葉を吐き出す。実質的に山城国を任されている三好元長は、既に窶れている。
「幕府は細川の追討で手一杯じゃ。我らで差配せねばならぬ」
「銭は朝廷より下賜される。この普請に費やしても有り余る程じゃ。新しき普請の仕方も朝廷の指導がある。この方式で来年の春。人の差配は大変じゃが、遅くても夏には道が通るであろう」
「だか、一番の問題は、そこでは無いのじゃ」
この夏に細川京兆家を撃ち破った立役者の二人が顔色を無くしている。長野工藤氏の不倶戴天の敵、北畠も様子がおかしい。この未曾有の大普請も問題ではないと言う。
長野稙藤が質問する。
「はて、光室承亀様。この普請自体が問題でないとしたら何が問題なのでしょう?」
懐かしい名前で呼ばれた六角定頼は苦笑いする。
「江月斎でよい。この街道は、朝廷の道という事なのじゃ」
まだ飲み込めていない関と長野に、三好と六角で詳しく教える。この街道は朝廷主導の国道であり、伝馬制の道である。駅伝制ともいわれ、一定間隔で「駅」が置かれる。この駅には馬や馬車などが置かれる。
「なるほど、たいそうな事で」
新しい物が入って来るのは大抵面倒な者である。その駅とやらの新しい仕組みに慣れるのも大変であろうと考えた稙藤は、それが心配のタネかと合点した。
「何か早合点したな?よし、手っ取り早く話そう。先ずはこの道は、お上の道じゃ、損なってはならぬ」
「は?」
「途中に関を設けるなどもならぬ。山賊などが出ればそこの領主の咎となる。下手を打てば朝敵だわい」
つまり、この途方も無い道の管理責任を問われるのだ。元々彼らの領地には、東海道などの街道が通っているが、今はロクに整備されていないし、盗賊も跋扈している。特に鈴鹿の山中は盗賊が出るので有名である。
「三好、六角、関、長野に北畠。この中でワシが一番長い。今から頭が痛いわい」
側で聞いていた関盛雄は、もはや声も出ない。集まった大名では一番の小国でもあり、発言を控えていたが、これ程の大事とは思いもよらなかった。
三好や六角、北畠などに比べれば、吹けば飛ぶ様な小領主。国人領主とも言える長野に比べても、こちらはまだ豪族の域を出ていない。
その弱小勢力が、一番盗賊が出る区域の担当となるのだ。
「もちろん、お伊勢参りは一度で終わりでは無い。太閤様達のお参りが終われば、皇族がたのお参りもあり得る」
「既に、ご希望されている方々が何名かあり申す」
「もしも、この方々に万が一が起ころう者なら……」
誰かの下腹がギュルギュルと鳴ったが、誰もそれを咎めなかった。
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「さらに頭が痛いのが、やんごとなき方々のお泊りなのじゃが……」
長野稙藤がハッと頭を上げる。まさかと、いう顔で自分を指差している。
「そう、やんごとなき方々のお相手をするのはお主らじゃぞ?」
「三好殿は出立の地ゆえ、お泊りは無いじゃろう。だが、ワシの所、草津辺りで先ずは一泊するであろうな」
「さらに甲賀で一泊、関で一泊、安濃津で一泊」
指折り数える北畠晴具の声に苦虫を噛み潰したような表情をする長野稙藤。万端の警備体制を取らねばならぬ上に自分は指揮が出来ないのだ。
「やんごとなき方々がお泊まりするのに、領主が顔を出さぬ訳にはいかぬぞ?」
「関殿は作法を教えてくれる公家に伝手があるかの?」
「それよりも官位を整えねばならぬ。」
もちろん、顔を見せればいいという訳でも無い。それなりの持てなしをせねばならぬ。道中も付き従い、領国を出るまで万事事なきを得ねばならない。これが今後、ずっと続くのである。三好や六角は兎も角、伊勢に関しては、
「もはや戦どころでは、ごさらぬ」
関の呟きに頷く他にない稙藤であった。
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この後、関家は北畠に臣従する。
当初、関家の家中では当主の弱腰を非難する者が多かったが、街道の工事が進み、鈴鹿郡の工事が始まるとその規模に驚愕し、さらにはなだれ込んで来た普請の工人達から話を聞くと、むしろ英断であったと評価が逆転した。
南北を挟まれた長野氏も「太閤達の伊勢参り」後に北畠へと下った。
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京都三条大橋を起点に東へ向かう東海道は草津宿から甲賀を通り、鈴鹿峠を抜ける。京から伊勢参りに向かうには、関宿で東海道と別れ、安濃津へと向かうのだが、安濃津から船で東海道に向かう者も多かった。
古来から木曽三川は暴れ川で知られており、伊勢湾を船で渡る事も多かったからである。
太閤達の伊勢参りにより整備された、安濃津から関宿への伊勢別街道は商人達にも喜ばれ、大いに利用される事になるが、代わりに安濃津から北の伊勢街道は寂れる事になる。
これは桑名宿の商人だけでなく、北伊勢の小領主達や長島一向宗にも打撃を与える事になる。
本編はホノボノベースの物語になってます。
そちらもよろしくお願いします。
鷹司家戦国奮闘記
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