タンポポゴム
カザフスタン原産のタンポポにはゴムの木と同じような樹脂が取れる。日本のタンポポでも茎を折ると白い液体が出るが、その液体からゴム樹脂が取れるのがロシアタンポポなのだ。
ゴムの木や石油から作るよりはコスト高になるのであまり使われていないが、第二次世界大戦の時は欧米でも栽培されてゴムの原料にされていた。
カザフスタンは明国の向こう側なので時間と手間は掛かったが、何とか苗木として輸入出来た。タンポポの育成自体は難しい事はなく、苗を株分けで増やしていった。
米の栽培が難しい地域に、商品作物の一つとしてタンポポを育てさせた。綿花やタンポポ、チャノキなど複数の商品作物がある事により、どれかに病気などの被害が出ても他の作物で補う事が出来る様になったのだ。
生ゴムの材料が手に入ったが、硫化には少し手間取った。忠冬の能力では、ゴムの木の処理などは見つかったのだが、タンポポゴムの処理方法が見つからず、自分達で試行錯誤するしかなかったからだ。
「こうやって苦労すると先人の凄さがわかるな」
「うん。これでもゴールが分かっている分、楽をさせて貰っているんだからなあ」
完成したゴムは量が少なく、庶民が利用出来る物では無かったが、防水シートとして、船や長櫃などに使われる事になる。
「後さ、ゴム製品と言えばアレなんだけど、どうよ?」
「うーん。時代的に梅毒が心配になるしなあ。だけど、ゴムの生産量から言っても普及させるのは難しいぞ?」
「しかし、南蛮航路が拓かれたら、ゴムの輸入も出来るだろ?」
「まあ、お前の目的は置いて置くとして、手術用のゴム手袋なども欲しいからな。研究はして置くよ」
医療ではスポイトや聴診器、注射器や止血帯などゴムの出番も結構多い。防水シートの次はそちらからゴムの利用法を考える事にした。
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医療器具の開発の為、医師を八幡に呼ぶ事にした。武蔵国にいた田代三喜に声を掛けたが、本人の招聘は叶わず、弟子が来る事になった。
「ここで曲直瀬道三とか来ないかな?」
「いやいや、彼はまだ修行中だから」
道三ではなかったが、八幡に来た弟子は一人ではなく、足利学校などからも最新の医療器具の話を聞いて八幡へ来たのだった。
彼らの一部は足利と八幡を往復する事になった。当時、田代三喜の治療法と八幡で作られた医療器具の使用法をすり合わせ、新しい医療の模索が始まったのだった。
足利と八幡を往復する彼らは、旅の途中で治療をしたり土地の医者と交流したりするので、足利と八幡の間に医師のネットワークが築かれる事になったのは予想外の事だった。
八幡製の医療器具は医師のネットワークにより評判が広まり、医師だけで無く、薬師や僧侶なども八幡を訪れ、日ノ本の医療の拠点としても八幡は重要な場所となって行くのであった。
本編はホノボノベースの物語になってます。
そちらもよろしくお願いします。
鷹司家戦国奮闘記
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