木綿栽培の開始
室町時代、日本の主な繊維は麻であった。絹や木綿は明や朝鮮からの輸入に頼っていたのだ。
麻の服は夏は過ごしやすいが、冬には寒かった。だが、絹や木綿は輸入品だったため、高価であった。
「銭の次は、衣服を日の本で作りましょうぞ」
在富は明からタネと栽培方法を入手して、大宰府近辺で栽培を始めた。幸いそれほど難しいものではなく、安定した生産が出来るようになった。
布は古くより調布と呼ばれ、税の一種としても扱われていたので、農民達の反発も少なかった。
年貢として納める米の代わりに木綿でもよい。それ程手がかかる訳でも無かったために綿花栽培は見る間に広まって行った。
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綿花を栽培しても、次はそれを糸に加工しなければならない。だが、在富は水力を使った工場を作ってしまった。
「各村は綿花をここまで運んで来れば、後はこちらで荷を確認し、銭を払います」
幾つもの村から運ばれた綿花は山のように積まれたが、職人などを含めても20人程しかいない工場であっという間に糸へと加工されて行く。
在富がこの工場を作ったのは検非違使に兵を出した各家だけであった。
綿花の栽培は尼子や大友などにも広まったが、糸への加工で圧倒的な差を付けられてしまった。
工場が無い地域では手作業になる為、在富の工場とは約500人対1人程の生産性の差が出たのだ。
綿花はかさ張るため、荷として運んでもそれ程の旨味は無い。
他家では、工場の秘密を探ったが、在富が再現した機械はそもそも鋳銭司の職人達の加工技術が必要であった。
そもそもネジの作り方も広まっていない時代。簡易な歯車はあったが、ウォームギアなど理解も出来なかったのだ。
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出来上がった糸を前に、ほくほく顔をした在富。
「大陸の糸に比べたら、かなり品質は落ちますが、自分達で着るならこれでも十分な品質ですな」
「いやいや、これ程の量があるのなら、大陸の糸とも対抗出来るまする!」
忠冬や在富がやる事に、もはや驚く事も無くなった大内義隆も山と積まれた糸を前に、ニコニコとしている。海外との貿易を任されている義隆はこの糸の価値を理解していたのだ。
この後、徐々に品質を高めていった日ノ本の繊維製品は、ヨーロッパへも流れて行き、南蛮船の東アジア進出を早め、ヨーロッパの植民地政策に影響を及ぼす事になる。
本編はホノボノベースの物語になってます。
そちらもよろしくお願いします。
鷹司家戦国奮闘記
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