検非違使の復活
永正4年(1507年)の「永正の錯乱」を切っ掛けに始まった「両細川の乱」は、将軍家をも巻き込んで長年の抗争となっていた。近畿を舞台とした抗争は、たびたび京の街に戦火をもたらす。
永正17年(1520年)、京は又も戦場となったが、時の関白二条尹房は突如として検非違使を復活させた。
当初、京を取り囲んでいた三好家を取り込み、治安維持を任せる事で都を荒らさせないために検非違使にしたもの。そう周囲に受け取られた。
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が、その名簿を見ると別当(長官)は鷹司忠冬で、次官は一条家と二条家から出しており、摂関家が任命されている。これだけならば政治的な権威づけのための人事と受け止められたが、その下の大尉には大内義興を筆頭に、六角定頼、北畠晴具、斯波義達と、当時の実力者が名を連ねていた。三好家はその下の少尉の一人であり、朝廷の本気を感じる人事となっていた。
大内義興は4年前に帰国したとは言え、将軍の後見人も務め山城守護にも任じられている。六角は高国側とも言えるが、京の隣にある近江の守護であり、北畠晴具は伊勢国司。朝廷の後押しさえあれば、彼らは細川家に遠慮する必要の無い実力者と言っていい。また、斯波義達はこの当時、上洛して禁中警固にあたっており、実質を認めたものと言える。
発足した直後、都の周りにまとまった軍勢は斯波家と三好家しかおらず、発足からしばらくの間は斯波家と三好家が実行部隊として動く事となる。翌月に合流した六角家や翌々月に合流した大内家、北畠家も含め各家は洛中洛外の治安維持に奔走したが、それまでの困窮も重なり京の荒廃は酷く、各家の兵達は朝廷から依頼される都大路や橋の補修などにも駆り出される事となった。
高国も澄元も頼りにしていた大名家が検非違使に人出を取られ動けない状況となった。何しろ出兵を命じても、検非違使の役目を盾に断られてしまうのだ。細川京兆家と言えど、摂関家の意向を上回る事はできなかったのである。さらには検非違使として集められた兵は実戦部隊でもある。下手に兵を起こせば両細川家の主戦力であった三好家と六角家が手を組み、本領から増援を送り込んでくる。
他家を動かし戦を起こしていた細川家は面目を失い、これから衰退して行く事となる。
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さて、検非違使の発足時、実は他の大名達も声を掛けられていた。ただし、提示されたのは大志・少志と言った低い官位であった。それでも武官であるし、自称官位の多いこの時代、正式な朝廷の官位なので、山名家、若狭武田家、赤松家、畠山家など近畿の大名達が応じ、家臣や陪臣を推薦した。
しかし、当時の武家は官位を貰っても領国から動く事はなく、箔付けになる程度の認識であった。ほとんどは政所執事の伊勢家を通して朝廷に献金して終わりにしていたのであった。むしろ、それが常識であったのだ。
ところが検非違使が発足してから三月、鷹司家の当主からの手紙が届く。
そこには「勤皇の心ざしありがたく思います。大内卿のお家の方も京で活躍され、大変頼もしい思いです。ところで、あなたのお家の方は顔も見えませんが、身体を損ねたのではないかと皆で心配しております」と書いてある。
ここで「当家は皆、元気にしております」などと返事をするようでは、大名失格である。「官位を貰っておいて、顔も見せずに済ますのか?」と読むのだ。それもそこらの公家ではない。摂関家の当主が顔を潰されたと怒っているのだ。各家、取るものもとりあえず三男四男に小物を付けて送り出した。
送り出された三男四男は顔色も無い。最悪は腹を切って詫びる為の人員だと覚悟している。死出の旅である。足取りは自然と重くなるが、これ以上遅くなればどんな叱責をされるか判ったものではない。必死に京を目指すのであった。
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ところが三男四男が京に着くと、にこやかに出迎えられた。鷹司の牡丹紋に各家の紋が上下に並んだノボリと、赤染の羽織を渡される。羽織は真っ赤なダンダラ模様。ド派手な衣装である。
連れてきた小物四人にもこの羽織を着せ、三男四男はノボリを背中に立てる。訳が分からず立ち尽くすお上りの一団に同じ服装の一団が近づく。お前達の先輩で指導役だと紹介される。
検非違使では、五人を最小単位として半組と呼ぶ。先に任務についている三好や斯波の組と組んで十人で一組、十人一組として什人組と呼ぶ。ノボリを背負っているのが什組の組長「什長」とその副長だと教えられる。
什人組が十集まって百人組となる。巡回する官は一千人と決まっているので、百人組は十ある事になる。
三好や斯波の兵が組長となるのかと思いきや、家格の問題でお前が組長だと言われる。ただし、しばらくは副長が組の面倒を見るから先輩と呼べとクギも刺される。
そのまま、洛中を巡回。一緒に歩いている先輩が、いろいろ注意をしてくれる。袖の下は罠であり、受け取ったら死罪になる。とか、食い物ならもらっても良いが、毒見をしていないから決まった店以外からはもらうな。などと教えてくれる。
緊張して歩いていると、京の住人達がペコペコお辞儀をしてくれる。先輩に言われて手を振れば、幼な子が笑い、京娘が歓声をあげてくれる。すっかり気を良くして帰って来れば、宿舎が用意されており、湯屋や食堂も使い放題だと言う。
先輩から、検非違使の仕事を覚えないと国に帰っても恥をかく。一通り身に納めてから帰郷したほうがいいと言われればその通りと頷くしかない。各家からやって来た者たちは諸事情を伝え、帰りが遅くなると連絡をするのだった。
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大名の三男四男ならば大抵は文を書けるが、国人領主の三男四男では苦手な者もいる。そんな場合でも、検非違使には案主と呼ばれる事務官がいて、代筆もしてくれるし、指導もしてくれる。
検非違使の巡回班は一小隊十人だが、百人、全部で一千人とキリがいい人数で、仕事で人数を数えているうちに自然と簡単な四則演算が出来るようになる。
巡回が終わると毎回報告書の提出が求められる。初めは走り書き程度でも許されていたが、次第に詳細な報告が求められ、数値なども聞かれるようになった。
出店があったと書いてあるが、どんな店だったのか。流れの牢人どもと書いてあるが何人だったのか。
田畑の実りが盗まれたとあるが、作物は何でどれぐらいの量か?
何時、何処で、誰が、何を、どうしたのか?
必死に報告を上げているうちに、この時代としては破格の出来る官吏に仕上がっていくのだった。
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当初、三好や斯波の軍勢に頼っていた検非違使だが、領国の農民も多く、いつまでも京に置いて置けない。役付ならいざ知らず、小物として使っている農民は国に帰す必要が出てきた。
検非違使側の都合もあり、帰国する農民達の代わりに各国から出てきた牢人たちを雇用する事になった。
実は発足から半年もすると、検非違使の噂は各地の武家に広まっていた。この時代、役職は相続するものであり、相続出来なければ他から奪い取るしかなかった。それが当たり前の時代に新しい役職が出来たのだ。本人だけでなく、扶養する側の親兄弟にも希望を与えたのだった。
細川京兆家の影響が強い地域でも、国人領主レベルになると忠誠心もそれなりとなる。部屋住みや食い詰め者などが京へ上っていった。
各地の武家が集まる事で摩擦も起きたが、多くの者は各国の違いを知り、国元の狭い世界しか知らなかった視野を大きく広げる事になった。
また、京は権力が複雑に絡み合っていて、どこに落とし穴があるか分かりづらい。下手な藪を突かない為に先輩が勘所を教え、検非違使所属の公家が礼儀作法を指導した。
国で食えなくて京に出てきた者が多かったが、二、三年もすると国に帰る者が出てきた。元々、国に帰る予定だった者もいたが、検非違使の仕事や京の作法を覚え、国元で外交や治安の仕事を新しく始める者もいた。
新しく京に来る者、京から帰る者が増えてくると伝手を頼って手紙をやり取りするなど、全国規模でのつながりを作り始めるのであった。
検非違使のツテを中心とした情報網が出来あがると、武家に必要な情報以外にも、農業や工業などの話が流通する様になった。
いち早く新しい技術を知る事ができる検非違使出身者はその土地で尊重される事となり、やがて検非違使は立身出世の道の一つと認識されるようになって行く。
義興の帰国時期をこっそり改定。
本編はホノボノベースの物語になってます。
そちらもよろしくお願いします。
鷹司家戦国奮闘記
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