紫陽花が染まる頃
事故で死にかけていた千歌を助けたのは、恐ろしいほど美しい吸血鬼だった。そうして千歌は、短い期間ながら吸血鬼と怪異の夜の世界へと足を踏み入れることになる。
彼女の気高さに、憧れと尊敬を超えた思いを抱く千歌。そして千歌の知的好奇心、行動力、聡明さに心打たれる彼女。二人は互いに惹かれ合うが、しかし、彼女は千歌を人の世に返すことにした。
自らの思いが、彼女を殺さぬうちに……。
心にすっぽりと空いた穴がなにかもわからず、わけもわからないまま、ただ泣きたくなる。
悲しいからか、寂しいからか、今の感情すらも定かではなくて。
そして、そう感じることがまた、たまらなく悲しいのだ。
何かを思い出そうとする度、脳裏に浮かびかけては泡のように弾けて消えて、泣きたくなる感情だけが残る。
私はただ嘆くしかなかった。失ったものが何かもわからないまま、泣き叫ばなければならなかった。
六月の雨音が私の慟哭を遮って、誰に届きもしないというのに。
「さようなら、千歌。人の世に戻りなさい」
「いやだ! こうするなら、どうして私を拾った! どうして私をあのまま死なせなかった! 私を……私を捨てるな!」
「そうね。これは私のエゴ。だから謝りはしないわ、千歌。そして……もう二度と会うこともないでしょう」
彼女が私にキスした。舌にほんの痛みが走り、血の味が口に広がる。初めて受ける吸血はどうしようもなく甘くて、何も考えられなくなる。
けれどわかるのだ。私の中の、大事な記憶、この一週間の彼女の表情、声、仕草。そのすべてが消えていくのが、わかるのだ。
必死に暴れようとしても、吸血鬼の恐ろしい力は、私に一切の抵抗を許さず、私から何もかもを奪っていく。
そしてその代わりの偽の記憶が、行っていない学校や帰っていない家、喋ってない友人たち、ありもしないありふれた日常が、私の愛を侵食するのだ。
なにかが、大事だったはずなのに。この一週間、誰かといたはずなのに。私にはもう、なにもわからなかった。大事にしまっていた宝物入れを開けて、何も入っていないみたいだった。私の中の価値あるものは奪いつくされてしまった。
「さようなら。私の愛した人」
そういって霞のように消える女の手を、無意識につかもうとして空を切った。女は夢幻のように消えてしまった。
ぽつりぽつりと涙のように雨が落ちてきて、たちまち土砂降りになる。
私は雨に打たれて、なにか、喪失感に浸るだけだった。