ダイニングテーブル
処女作「セピア」の続編です。
「セピア」の主人公、リエコが何故、あの時「僕」との恋に走ったのか。作者自身が興味を持ち、キャラクターの
一人歩きするままに筆を進めた物語です。
一見、美人で完璧なリエコの、心の奥底にある淋しさに迫ります。
煙草が手放せずにいるシホは、狭い喫茶店で珈琲と煙の香りに包まれていた。
一日中デスクに向かい、取引相場とにらめっこ。
夕方六時を過ぎると、開放されたようにひとりオフィスを出る。
仕事には遣り甲斐を感じている。勤続十年、無遅刻無欠席で社内の評価は高い。
それでも・・・とシホは思う。
「足りないんだよなー。」
電話の相手は、四年前に結婚退職した親友のリエコだ。
シホは、週末何の予定も入っていない手帳を眺めながら、携帯電話を持ち替えた。
リエコは年上の優しい夫に庇護されながら、趣味で撮りつづけていた写真が評価され
現在は写真学校の講師をしている。
美人で、気が利き、頭もよく、幸せな結婚生活を手に入れ、その上才能まで持ち合わせた親友に、
シホはいささか嫉妬を覚えることもしばしばだった。
「シュウジさん元気ー?」
細巻きの煙草をくゆらせながら、シホは嫌みったらしく語尾を延ばした。
「元気よ。あなたに会いたがってるわ。週末遊びにいらっしゃいよ。」
まったく、鈴を転がすような声しちゃってさ…
心の中でシホは悪たれをつきながらも、行きたいと答えた。
リエコの家は、日のあたる高台に建っていた。
白を基調とした、センスの良い注文住宅で、新築祝いのパーティーに呼ばれたシホは
仕事で行けない代わりに、出張先のパリからリエコの好きな銘柄のチョコレートを送った。
車で坂を登りつめると、家の前にリエコが出て、シホを待っていた。
その白く、清楚な姿にシホはきゅんとする。
リエコという人は、昔からこういうところがあるのだ。
車をわきに寄せ、お土産といってクリスマスローズの苗を渡す。
リエコは嬉しいわと受け取りながら、
「そろそろ来る頃だと思って待っていたのよ。」
と笑った。
長いまつげに縁取られた瞳は、以前と少しも変わらず優しげに輝いている。
シンプルでセンスの良い上質な服を着て、いかにも幸せでございますという風なリエコの姿に
シホは嫉妬するよりむしろ、笑いがこみ上げてきた。
…完敗。
心の中で手をあげた。
きれいに整頓され、良い香りのする玄関に通されると、今度はリエコの夫が出迎えてくれた。
「シホちゃん。いらっしゃい。」
リビングへ案内される。
少し家具を新調したのよというリエコ。黙ってにこやかに珈琲を淹れるリエコの夫。
「あなたが来るからとっておきのお菓子を作ったのよ。」
リエコはお菓子を焼くのもうまかった。
目の前に出されたフルーツケーキには、シホの好きな無花果の白ワイン煮が詰まっている。
夫の淹れた珈琲を、手際よく美しいカップに注ぎ、シホの目の前に運びながらリエコはさらに続けた。
「お昼ご飯も、夜ご飯も、それから明日の朝ご飯も食べていってね。」
リエコは、本当に嬉しそうに言った。
ひとしきり、三人はシホの仕事の愚痴で盛り上がり、誰かいい人いないかなーというシホの
自虐的な呟きで笑った。
「煙草吸いたいでしょう?」
リエコは、シホ自身も気がつかなかったことをすぐに察知して、どうぞ、とある部屋へ
シホを案内した。
「では僕も一服するかな。」
リエコの夫、シュウジはシホについて、小さな部屋へ入ってきた。
その部屋には、小さいのに大きな窓がついていて、古く、座り心地の良い革張りのソファがひとつ
部屋の中央に置かれていた。
シュウジは窓を細く開けると、好きなだけどうぞと笑い、自分も外国製の煙草をふかした。
リエコが昔、たったひとつだけ許せないのと言ったことがある。
それは、夫が煙草をやめられないことだと…
「ここ、シュウジさんのリフレッシュルーム?」
シホは、煙草に火をつけながら聞いた。
「そうそう。リエコは本当に煙草が苦手だからね。」
シュウジは目がなくなるほどにっこりと微笑んだ。
閉めていた扉がガチャリと開く。
「買い物へ行くわ。サラダに入れるパプリカを忘れちゃったから…戻ったらランチにしましょう。」
リエコは細くドアをあけて言った。嫌煙家のしぐさだ。
シュウジは、はいよと返事をして、シホに向かって唇をへの字に曲げて見せた。
パプリカのサラダも、シホの好物だった。
小さな部屋は居心地がよく、シュウジがこの部屋で読む本や、コレクションしている
外国製の煙草を見たりして過ごした。
珈琲が冷め、淹れ直そうと思いたったシホは
「キッチンをお借りしますね。」
と、ドアノブに手をかけた。
それを合図に、シュウジがシホの腕をつかむ。
シホが振り向くと、シュウジは不意に、シホの唇に自分の唇を重ねた。
シホは、予感していた。
リエコとシュウジが結婚する大分前、シホはシュウジと付き合っていたのだ。
それはごく短い恋だった。
リエコにシュウジを紹介され、三人で二度、三度食事をし、軽く飲んだ事があった。
ある日、シュウジはリエコを先に送り、なぜかその後、シホを送ると言っってくれたことがあった。
タクシーの中で、酔った勢いに任せ、シホの方からシュウジにキスを求め、
そのまま二人はシュウジの部屋へ向かったのだ。
煙草の香りのするシーツでは、リエコは一度も抱かれてくれたことがないとぼやいて
シュウジはその後も、シホを幾度か自分の部屋へ呼んだ。
二人とも、いずれは後腐れなく別れるのだと分っていたし、
シュウジとリエコが正式に婚約をするまでのほんの短い間、逢瀬を重ねた。
シホはたった一度だけ、その部屋にピアスを忘れたことがある。それは密かな、悪戯だった。
煙草の香りがするシュウジの寝室に、リエコが入ることはないと聞いていたし、
少なからず私も胸を痛めているのよ…と、シホのシュウジに対する小さな小さな逆襲のつもりだった。
数日後に結婚を控えたリエコから、連絡があり、いつものカフェで待ち合わせた時、
かすかにリエコの表情が曇っていたことに、シホは気づいていた。
「マリッジブルー?いやぁねぇ…」
そう言って誤魔化したシホに、リエコは笑って言った。
「そうね。でもシュウジさんは私以外とは結婚しないと思うわ。つまり、ここで結婚しなければ
一生ひとりなのは、私ではなくてシュウジさんだと思うの。」
にこやかに、でもはっきりとシホの目を見て、リエコはそう言った。
シホは、そうかもしれないわね、と煙草に火をつけ、注意深く煙を吐いた。
「ねぇ、リエコ。唯一あなたの前で煙草を吸うことを許されているのは誰?」
「あなたよ。これから先もずっと、あなたひとりだけ許します。」
それから一週間もしないうちに、リエコは、他の披露宴に出席する招待客でさえ
その美しさに思わず足をとめるような花嫁姿で、シュウジと結婚したのだった。
その頃には、シュウジとシホは、既にどちらともなく連絡を取らなくなり、
披露宴の席で顔をあわせても、何事もなかったようにお互い談笑する間になっていた。
あれから四年…
シホは、さっきシュウジに軽く噛まれた唇に、甘い痺れを感じていた。
きっとリエコは知っていて、二人っきりにしたに違いない…そう思えてならなかった。
試しているのだろうか。シホは胸が痛んだ。
程なくリエコの帰宅を知らせるチャイムが鳴る。
インターフォン越しに、荷物が多いから来てとリエコの声がし、シュウジは何事もなかったような顔で玄関へ向かった。
「パプリカ以外にも、あなたの好きなものが目に付いて目に付いて、こんなに買ってきちゃったわ。」
楽しそうに、息を弾ませるリエコ。
その隣で目を細めているシュウジがいる…と、シホは思っていた。
ところが、シュウジはシホの瞳をじっと捉えて、二人はしばらく見つめあう形になった。
シホはドギマギして、私も手伝おうか?とリエコに声をかける。
「いいのよ。お客様なんだから、まだシュウジさんの部屋でリフレッシュしてて?」
シュウジは、だそうですよ。と言って、再びシホをあの部屋へ誘った。
背後に視線を感じたシホが振り返ると、リエコはなんともつかめない表情をして二人を見送っていた。
再び、シュウジと二人きりの部屋でシホは煙草に火をつける。
「また、二人で会えないか。」
声をひそめて、シュウジが囁いた。
シホは、ゆっくり深呼吸をするように、深く煙を吸い込んでふぅーっと吐き出した。
「あんなに美しいリエコを裏切って?」
「あぁ。」
シュウジはそれだけ言って、片手をポケットに突っ込み、もう片方の手でおいでと言う風に
手招きして見せた。
それはシホの好きなしぐさで、一度だけベッドの中でシュウジに言った事がある。
「あなたが、そうやって手だけでおいでって言うでしょう?私、あれが好き…。」
「おまたせ!!」
程なく、リエコの明るい声がした。
サーモンとディルの冷たいパスタ、トマトとモツァレラチーズのブルスケッタに、
赤いパプリカが入ったミモザサラダ、キンキンに冷えたドイツワインが用意されている。
丸いダイニングテーブルに、ちょうどシュウジを囲むような形で、三人分の食事が並んでいた。
リエコがそれぞれのグラスにワインを注ぐ。
「私たちに」
そう言ってグラスを掲げるリエコ。
「乾杯」
悪びれる風もなく、目を細めるシュウジ。
ダイニングテーブルの下… 絶妙なタイミングでシュウジの手が、シホの膝にのびる。
シホはその度に、シュウジの手を握り返す。
長い不倫になるのだろう。
シホは、リエコの美しい横顔をちらりと覗き見して、優越感を感じ始めていた。
「セピア」に登場するリエコという人物が、作者はとても好きです。
美人で理知的で、それでいてか弱さや、危うさも持っていて…
前書きにも書きましたが、リエコという人物像をもう少し掘り下げたくて、リエコの親友、シホを登場させました。
私がシホだったら、こんな風に思うかもしれない。
書いているうちに、映画かドラマを見ているような気分になり、楽しく書けました。
処女作の「セピア」と併せて読んでいただけると嬉しいです。