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カエルの帰還

作者: Rye

彼女があんまり穏やかな顔で見つめ返すので興味を引かれた。下衆な好奇心だとはわかっていたし、彼女は昔それをとても嫌がってひどく怒ったことがあったから、積極的に話しかけるつもりはなかったのに。


――幸せそうでなにより。


文字面だけでも充分に嫌味なセリフに、彼女は軽く会釈する。


――そちらもお元気そうで。


慇懃無礼な話し方は変わらないらしい。長く会っていなかった人の前にいると、最後に会ったときに戻ったような落ち着かない気持ちになる。懐かしくて物悲しく、それでいて面白みのある不思議な感覚。


――人生はどう? 順調?

――どんな質問ですか、それ。


彼女はそう言って視線を外し、愉快そうに笑った。それからまた穏やかな目で僕を見る。


――幸せですよ、概ね。


含みをもたせる言い方は相変わらずだ。干渉されるのを嫌がるくせに、自分からは話さない。適切な質問をすれば面白い答えが出てくるけれど、気に入らないなら烈火のごとく怒る。そういう激しさが面白く、その不安定さが面倒くさかった。


――概ね? なにかあるの?


ゆったりと笑ったまま、額に手を当てた。どんなに様子が変わっても癖は残るのだ。


――過去がいつまでも追いかけてきますから。


不意に笑顔が消え、射抜くような目をした。ああ、やっぱり話しかけるんじゃなかった。


――そっか。


苦笑して足元に視線を落とす。おろしたばかりのスニーカー。あの頃は手の届かなかったもの。


――そんなに怯えなくていいんですよ。攻撃しませんから。


彼女の声にも苦笑が混じり、なんだか二人ともずいぶん老けたな、と思った。


――私いま、幸せですけど。幸せになる法則を見つけただけなんですよ。

――へえ。教えてよ。


彼女は断定するような口調を崩さなかった。自分の正しさを微塵も疑わず、傷つけられることを怖がらず、人を切りつけて、そうして孤独になっても意思を曲げなかった。だって自分は正しいのだからと。


――合わない人とは合わない。好きじゃない人を好きにはなれない。理屈より感情を重んじる人と接する必要はない。


理解し合うことを諦めたら、人間関係は終わってしまう。あの頃彼女はたしかにそう言って、誰彼かまわず理解しようとした。そうしてきっと、理解されようと言葉を尽くした。周囲の戸惑いが怒りに変わっても、彼女は諦めようとしなかった――あの頃は。


――僕は、どんな人もそれぞれ面白いし、付き合う価値があると思ってるけどね。


彼女は昔からあまりにも視野が狭かった。この人の意識を変えようとした日のことを思い出す。思いつめた顔をして、僕を決して見ようとしなかった。


――愛の量には限りがあります。愛すべき人がいたらその人だけを愛して、それ以外の人には興味を持たない。そうじゃないと、愛したい人を充分に愛せないんです。

――無償の愛ってあると思うよ。

――ありませんよ、そんなもの。甘えた人間の戯言です。


柔らかな声音で刺々しい言葉を口にする。こんな芸当ができるようになったのか。嘘をつくのが嫌いだったし、そもそもそんなに器用ではなかったのに。


――戯言かあ。僕、まだ夢を見てたいんだけどなあ。

――そもそも無償であることと、無尽蔵に湧き出てくることは違いますよ。


この人の怒った顔をもう一度見てみたい。不意にそんな考えが浮かんで、その思いを打ち消した。誰かが彼女に怒られているのを遠巻きに眺めるのは楽しいけれど、仕事でもないのに自分が怒られるのは勘弁してほしい。


――君は僕たちに愛情を持ってくれてるって思ってたんだけど、違ったのかな。

――私もそう思っていましたけど、大いなる勘違いでしたね。


突然強く吹いた風に首をすくめ、彼女が駅を見上げた。

この坂を登れば駅に辿り着く。僕らはそこで別れて、きっと長い音信不通の時が訪れるのだろう。それじゃまた、と言って手を振ったあと、もしかしたら生涯もう二度と会わないのかもしれない。


――この駅、ずいぶん変わりましたね。学生時代はずっと工事してたのに。

――君が卒業してすぐ工事終わったんだよ。あの後一回も来なかったの?

――ええ、一度も。


そう言って駅に向かって歩き出す。あの頃は坂の途中に暗がりがあって、時折変質者が出ると噂があった。若い恋人たちがいちゃつく場所でもあって、見られたくないふりをして見せつける彼らの虚栄心が満ちていた。今はどこもすっかり明るく照らされて、卑猥さはなくなってしまった。


――みんなで集まろうって、何回も声かけられたでしょ? 来ればよかったのに。

――行きませんよ、そんなの。


心底呆れたような笑い声を上げる。


――みんなで集まろう、っていうのは、本当は好きな人とだけ集まりたいけど全員呼ばないと格好がつかないときの言い方でしょ。私が私の都合で参加しなかったって形にしておけば、あの人たちは嫌いな女に会わずに楽しく集えるんですもん。

――みんなそんなふうに思ってないよ。会いたがってたよ。

――みんな、って、具体的に誰のことですか?


彼女に好意的だった連中とそうでなかった連中の顔がいくつか浮かび、苦笑してしまう。たしかにそうだ。みんな、は全員のことではない。


――あの頃はあの頃で楽しかったって、思ってたいんだよ。それは相当数が同意することだと思う。あれからいろいろあって、きっとキャパも広がったし、受け入れられることも増えた。だからこそあの頃の人と会いたいんじゃないかなあ。


駅の中は光で溢れていた。赤い顔をした大学生たちが円を描くように並び、僕らの前に背を向けて立ちはだかる。若くて未熟な少年少女たち。想いが体から溢れ出しているのに、自分では上手に隠していると信じて疑わない年頃。集団を迂回しながら、自分たちもきっとそうだったんだと思った。


――君に会いたがっていた人はたくさんいるよ。あいつどうしてるかなって、会う度に言う奴とか。


改札までの長い道に差し掛かると、彼女は立ち止まって無表情で僕を見上げた。


――あなたは、私に会いたいと思ったことがあるんですか?

――そりゃもちろん。

――だったらどうして連絡してこなかったんですか?


彼女は瞳の色が人より薄いから、あまり強く見つめられると不安になる。あの頃誰かがそう言っていた。光の加減で琥珀色になりさえする。意思の強さと心の脆さが同居する、不気味で美しい瞳。


――連絡してほしかった?


彼女のペースに巻き込まれないように、慎重に距離を探る。今すぐ彼女と離れたい。だけどたぶんこの機会を逃したら、二度と会えない。逡巡の後、好奇心が勝つ。


――私、あれからずっと考えてたんです。あの時何ができたんだろうって。どうしたら楽しかったんだろうって。

――……答えは出たの?

――出ましたよ。


手を口元で擦り合わせ、彼女は遠い目をする。


――……私たちはきっと、とても美しい池にいたんです。


この話はいったいどこに行き着くのだろう。慎重に言葉を選ぶ彼女は今、僕がここにいることをどれくらい覚えているのだろうか。


――池の中にはとてもきれいな鯉が泳いでいて、楽しくて。時々空から鳥がやってきて、見の危険があるけど、基本的には優雅な世界で。

――……うん。

――私も鯉だと思ってたんです。だってみんなが鯉だったから。……おかしな話ですよね。みんながそうだからって、自分が同じだなんてナンセンスなのに。


肩からずり落ちたかばんを抱え直し、神経質に手を握りしめる。出会った頃は話すのがとても苦手そうだった。定型文を覚えるように「普通」の会話を少しずつ覚え、笑顔のタイミングを見計らい、そうやってゆっくりと大人になっていった人。


――泳いでるうちに気がつくんですよね。足が生えてきて、息苦しくなっていって。気がついたら私、池の外にいた。私は鯉じゃなくてオタマジャクシだったんだなって、後から気がついて。

――みにくいアヒルの子、みたいな?

――そうですね。でも、みにくいアヒルの子は成長して美しい白鳥になった。私は成長しても、みっともないカエルになっただけ。


悲しそうな目はあの頃のままだ。何かしなければと思うのに、彼女が望む救いを与えられない自分の限界を思い知らされる。


――……カエルだって可愛いよ。


苦し紛れに言ってみる。そんなことはないよ、君だって美しい錦鯉だった、と嘘をついてあげられなかった。


――そうなんですよ。だから私、今幸せなんです。カエルを愛してくれる人が見つかったから。


ようやく晴れやかな笑みを見せて、今度はまっすぐ僕を見る。銀の指環を右手で触りながら、心底安心しているようだった。


――よかったよ、君が幸せそうで。


拍子抜けしたけれど、心からよかったと思った。不幸が減ったのを知るのはいいことだ。吐息に混ぜて、彼女は笑った。


――嘘つき。


心底楽しそうに天井を見上げ、僕を責める。


――嘘じゃないよ。

――嘘ですよ。ずっと不幸でいてほしかったんでしょ。だからあなたは今ここにいて、私のことを観察してる。タイムカプセルみたいに、昔不幸だった人が不幸なままでいてくれたら、楽しかったあの頃に戻れるみたいに思っていたんじゃないですか。


そうじゃない、そんなことはない。否定の言葉はいくらでも思いつく。けれど、彼女はきっと、そう思い込むことで生きてこられた。昔の誰かを――もしかしたら僕のことを――恨むことで前に進んできたのかもしれない。


――……どうして今日、来たの?


泣き笑いのような表情を浮かべ、彼女は数回深呼吸を繰り返した。


――カエルは水辺を離れて生きられないんだって、干からびそうになって初めて気がついたんです。


手を伸ばして涙を拭う。彼女は抵抗しなかった。


――……君がカエルなら、僕は鮒なんだと思うよ。みっともなくボディペイントして、錦鯉みたいなフリしてずっと泳いでた。僕は陸には上がれなかったけど、君はもっと広い世界を知って戻ってきた。それはきっとすごいことだよ。


この人はどうしてこんなに真っ直ぐに人を見るんだろう。こんなふうに人を射抜かなければ、きっともっと生きやすいだろうに。


――今度会ったときは、君が一人で駆け抜けてきた時代の話を聞かせてくれる? 僕らの記憶の答え合わせじゃなくて、君だけの話。広い空の話や、砂漠や、水たまりのことなんかも。


そうだ、昔あるとき一瞬だけ、こんなふうに幼い笑顔を見せたことがあった。


――……ただいま。


彼女は意を決したように、悲しそうに、どこか嬉しそうに言った。


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