[chapter:序章]
[chapter:序章]
午後になって太陽もようやく傾きを増し、だんだんと気温も落ち着いてきた。
花屋の店先にぶら下がったミストシャワーは霧を出し続けて、かすかに虹を作っている。
その下で遊んでいた小学生の姿も既になく、少し水量をさげようかな、そんなことを思いつつ羽柴が顔を上げるのと同じタイミングでシンが口を開いた。
「羽柴さ」
「むつき」
シンが呼びかけようとしたのを、羽柴は言葉を遮り、名前を呼ぶように遠まわしに強要した。
しばし見つめあう。
やがて折れたのはシンだった。
「――……むつき」
低く、小さく、ぽつん、と転がすようにシンは口にする。
名前を呼ばれた羽柴は、目を丸くして、それからくすぐったくなって小さく笑う。
「うん」
その笑顔に、シンは沈黙し、それから静かに小さくため息をついた。
「……あなたは意外に頑固ですね」
「シンは意外に優しいよね」
む、とするシンをちらりとみて、羽柴は思わず笑ってしまう。
腕組みをしてぷい、と横を向くシンを見ながら、羽柴は書類に目を落とす。
「そろそろお墓参りの人が増えるかな」
仕入れる花についてつぶやく羽柴に、シンは小さくため息をついた。
「――……ああ、もうそんな時期ですか」
こぼれて落ちた吐息のような声音の中に、どことなく嫌そうな響きを感じる。ふと気になって羽柴は顔を上げた。
「何かあるの?」
「いいえ」
シンが無表情で即答してきた。
何かあるな。そんな事を思いながら、羽柴は口をへの字にする。
教えてくれてもいいじゃないか、けれども聞くのもしゃくだし、この様子では聞いたところで貝のように口を開かないだろう。
――少しぐらい自分の事を教えてくれてもいいじゃないか。
シンは、羽柴の命が終わるから、と一方的についてきて、片時もそばから離れようとせず、プライベートなどないようなものなのに、自分のこととなると口を閉ざす。それをどうにも不公平に感じてしまう。
反面、そうは思うが、相手が言いたがらない事情を無遠慮に聞くのもどうか、と迷い、結局結論を出せないまま、羽柴は中断していた仕事を再開する。
――けれどもこれはのちに、この時、無理矢理にでも聞いておけば良かった、と後悔の元となる発端の話となる。
+++
体が重い。
シンは思わずため息をつきたくなり、その吐息をおもてに出さないように噛み砕く。
――お盆は、死者の魂が家へと還る。
人間の世界には、生きた人間と死者の魂であふれ返り、満員電車で身動きが取れなくなるように、死神の感覚が混乱する。
生と死が混在し、その中で防衛本能が働くように死神としての能力や感覚が閉じる。
故に、死神としての力がほぼ全般的に減退し、鈍麻する。
簡単に言えば、死が察知しにくくなり、飛べなくなり、大鎌ですら扱いにくくなる。
ここのところ、シンも調子に違和感を覚えていたが、先ほどの羽柴のつぶやきで、ようやく思い出した。
――まったく面倒なことだ。
羽柴はシンの事情など知らず、鼻歌を歌いながら商店街の掲示板に、『商店街の夏祭り』の掲示物を貼っている。
「楽しみにだなー。シンは祭りとか行ったことある?」
「いいえ」
できればどこかでじっとしていたい。
しかし、羽柴は商店街の出店の手伝いに出るらしく、アクティブに過ごす気満々に見えた。
掲示板にお知らせを貼り終えた羽柴が歩き出し、シンもその背中をついて歩く。
今朝ほどから浮かびにくくなっていた。
その理由に気づいてしまえば、無理に浮かぶのが逆に面倒になり、仕方なく足で歩いて、羽柴について歩くことにしたのだ。
問題は、この鈍いようで鋭い羽柴だった。
人間に自分の弱みなどさらしたくない。
それにこの人間ときたら、体調が思わしくないと知れば、あれこれ心配して、普段以上にうるさくシンの世話をやこうとするのは目に見えていた。
うっとうしいし、心配されるのは不愉快だ。
なので、シンとしてはできれば羽柴の近くにいたくない。
しかし、死を察知する能力が鈍くなっており、いつもより距離を近づけないと分からない。
羽柴の死期を遅滞なく悟らねばならず、反面、予定外の事件や事故からはその命を守らねばならない。でなければ代償にシンが消滅することになる。
まったく難儀なことだ、と考えていると、前から歩いてきた死者とすれ違う。うつむいて歩く死者は真っ直ぐ家を目指しているようで、シンに気を止めることもない。周囲の人間も、死者に気づいている者はいない。
その背中をなんとなく見送って、そちらに気を取られていたシンは、羽柴の探るような視線に気づくのが遅れた。
「今日は飛ばないの?」
不意に飛んできた鋭い質問に、ぐ、とシンは言葉につまる。
「……あなたには関係ないでしょう」
突き放したように言えば、羽柴はむっとした表情を浮かべて、口を尖らせた。
「この間からさあ、ちょっと変だよね」
――この変に勘が鋭い人間に隠しきれるわけがない。そう感じながらも、余計なお世話だ。という思いが、シンのプライドを刺激する。
下手な事は口にするものか、と口をつぐんで質問に無視を貫く。
店に戻ると、羽柴がシンの表情をのぞきこむように顔を近づけてきた。
その真っ直ぐな眼差しから視線を逸らす。
羽柴からは、目隠しをしているシンの表情はよく見えないはずだが、それでも何か察知したのか、確信を持った声音でシンに問いかけてきた。
「何か隠してるよね?」
鋭い反応に、シンはうんざりする。
そして話題を変えた。
「……私のことより、自分のことを心配なさい」
「なんで?」
「予定外に死なれたら困るからです」
「だからそんなに簡単に死なないって」
羽柴が口を尖らせた。
それを見ながら、シンも渋面を作る。これだから人間は困る。
あっさりと、自分の死を否定した羽柴を見おろす。
立ってしまえば、ふたりの間には頭ひとつ以上の身長差があるが、羽柴はそれをものともしない。
シンを見返すように見上げて、じっとシンを見つめてくる。真っ黒な瞳孔と、薄い紫色の光彩は、苦手な猫の視線に似ていた。
それをなんだか不愉快に感じながら、シンはわずかに体をかがめると、手を伸ばして、その髪をつまんで、つい、と軽く引っ張る。
色素の薄い、明るい茶髪は細く、蛍光灯の明かりを照り返す。
人間には見えないのだろうが、
「――死の気配は色濃いですよ」
顔を近づけてつぶやく。
細いその髪の先まで、死の気配を感じる。
この距離で感じるその気配に、間違いはあり得ない。
羽柴は、自分の髪をつまんで、近い距離で顔をのぞきこんでくるシンをぽかんと見上げたあと、はっと息をのんで慌てた様子で一歩離れた。
シンも手を離せば、さら、と髪は流れて落ちる。
「ち、ちかい!!」
元々近づいてきたのはそちらではないか。そう思いながらも、シンは事務的に謝罪の言葉を口にする。
「……これは失礼」
そのまま踵を返すと、ここ最近の居場所である壁際へと歩き、床に座って腕組みをする。そしてそのまま壁に寄りかかる。
「……少し休みます」
だから少し静かにしていて下さい。遠回しにシンが言えば、羽柴はわずかに眉をひそめた。
「そ、そう……」
面倒なことこの上ないが、この時期が終わるまでの辛抱だ。と、シンは体を縮こませるように丸めて目を閉じた。