六章 世界と魔法使い 後半
「二人は、カレンを想って、つい遣り過ぎてしまっただけなんだから、そんな剥れなくても」「ランル・リシェ。言い掛かりは許しませんよ。剥れてなどいません。二人に助けてもらわなければ引き分けに持ち込むことも出来なかった自らの不甲斐なさが許せないのです」「……二人は、見事な魔法だったね。コウさんから習ったのかな?」
表面上はすまし顔のカレンだが、お腹の中では仔炎竜と古炎竜が舞踊を楽しんでいるらしい。さぞ激しい踊りなのだろう。触らぬ竜に息吹なし、ということでカレンの立腹(?)に責任を感じているらしい姉妹に話を振ってみる。
「翠緑王は、なんだかんだで忙しそうだから、魔法団団長から基本を習ってる」「氷焔の師匠だけあって、師範としては百点、人格は十点。とギッタが言ってます」
つまり、教え方は上手いが、一切甘えを許してくれない厳しさがあるのだろう。老師は、人によって指南の仕方を変える。双子には、上からの押し付けが有効だと判断したようだ。
意外、というと失礼かもしれないが、姉妹は着実に基礎を積み上げていく方法に即しているようだ。基礎をおざなりにしたほうが能力を発揮できるリシェの才能は面白いね。と兄さんは僕を褒めて(?)くれたが。そんな僕の才能を伸ばしてくれた兄さんには、頭が上がらない。本当に、兄さんと出逢わなかったら、ただの偏屈な人間に育っていただろう。
「むぎむぎむぎむぎ」「まぎまぎまぎまぎ。とギッタが言ってます」「めぎめぎめぎめぎ、あの団長が特殊だとは思うけどー」「もぎもぎみぎみぎー。とギッタが言ってます」
二人にも、色々と思うところがあったようだ。反省、というよりは、地団駄を踏みそうな感じではあるが。エンさんのような巧者と闘うのは初めてだったのだろう。
一対三の闘いは、当初こそ互角だったが、闘いが進むにつれて、対応力とか即応力とか、分かり易い形で経験の差が如実に現れた。三人の攻撃に慣れたエンさんは、あっさりと俄仕込みの三人組の連携を圧倒し、翻弄した。窮地に陥ったカレンを支援する為、うっかり実力の一端を振るってしまうフラン姉妹。だが、そこで引き分けまで持っていけるのだから、エンさんは大したものである。そのまま負けてください、とのお願いは反故にされたわけだが、まぁ、それは仕方がないか。双子の想定以上の攻撃に、エンさんの鋭敏な本能が危険を察知したのだろう。
「ん~、二人って、エンさんやクーさんの魔力を封じたりとかは出来るのかな? 遺跡での戦いで、ガラン・クンがやってたんだけど」
「やぎっ、この侍従長やろー、あたしたちの技術の未熟さを露見しやがってー」「うさぎっ、このうらなり竜の実やろー、あたしたちの周期考えろー。とギッタが言ってます」「カレン様~、あの害獣が苛めんこ~」「あれ駆除っちゃらって~。と言ってギッタす」
カレンに抱き付くのが主目的なのか、気も漫ろで双子の言葉が崩れて、いや、蕩け掛かっている。それでも可愛い妹分の為に、上役の勘気を恐れず、直言するカレン。
「ーーランル・リシェ。大陸最強の魔法使いと二人を比べるなんて、意地悪が過ぎますよ」
スーラカイアの双子の能力を知らないカレンが、鮮やかな玲瓏の瞳で僕を窘める。
ごめんなさい。粋がって虚勢を張ってみたものの、実際には部下の顔色を窺わなくてはならない情けない男、それが侍従長である。どうも昔から、正面からのカレンの威圧に弱い。やはり、あれかな、心に疚しいことを抱えている人間には、状況によって幾らでも正しさを打擲できる人間には、気高さの塊のような少女は、目に毒なのかもしれない。
「カレンしゃにゃ~」「カレンにゃみゃ~。とギッタが言ってにゃす」「きゃ、ちょっ、二人ともっ、くすぐっ……、ゃあん、どこをっ触っているの……ですか……っ」
……クーさん水準に壊れてしまった姉妹の痴態も、直視できるものではなかった。
ふむ、竜にも角にも、僕を悪者にして三人の間の蟠りがなくなるのなら、重畳。と強がってみるが、やっぱり嫌われないに越したことはない。姉妹に嫌われない為には、カレンに嫌われる必要があり、カレンに嫌われない為には、姉妹と仲良くなる必要がある。
……無理です。嫌われない方法が思い浮かびません。世間では侍従長がずいぶん恐れられているようだけど、所詮本当の僕は、こんな程度のことも解決できない唐変木なんです。
「しっ、逃げろ、侍従長だ」「きゃ、隠れてっ、侍従長の竜嫁も一緒よ!」「きっと、あの双子も侍従長に騙されてるんだ」「くっそー、俺っちも竜人にゃ敵わねー、卑怯者めー」
現在、一行は世間の皆さまに避けられながら、大広場に向かっていた。
どうやら小心者は僕だけのようで、というか、未だに世間の反応を気にしている僕のほうがおかしいのだろうか。自分が何者であるか、それは自分だけが知っていればいい。と過去の、鋼の精神を持った英雄が言ったらしいのだが。まぁ、その彼は、罪を着せられて、冤罪で処刑されてしまうという、有名な悲劇の英雄なので、参考にするのは間違いか。
悩み多き少年の苦悩とは関係なく、予定は次々に消化されてゆく。開店したばかりの武具店(カレン要望)や店舗を覘きつつ、竜舎に寄って、最終目的地は竜書庫である。
……ああ、考えただけで憂鬱である。カレンと双子を連れていったら、スナはどんな行動に出るだろう。父親が三人の綺麗だったり可愛いかったりする女の子を連れて遣って来たら、娘は大好きな父親を惨殺してしまうかもしれない。いやいや、さすがにそれは考え過ぎだ。僕を拉致して、連峰に帰ってしまうくらいか。もしそうなったら、コウさんは僕を取り返しに来てくれるだろうか。と考えた瞬間、即座に否定する。コウさんとスナの再戦なんてことになったら、ヴァレイスナ連峰が更地になってしまうかもしれない。スナのほうが巧手で技量に優れているので、勝負は長引いて、被害が拡大する。結果的には、魔力量の差でコウさんが勝つらしいのだが、遺跡での暴発以上の惨劇が確約されている。
「間に合ったようですね」
カレンの陽気な声で、竜魔大戦(スナ×コウ)の妄想に沈んでいた僕の意識が戻ってくる。
八体の竜が踊っても大丈夫そうな大きな円形の広場。竜の都のお腹に位置するので「竜の胃袋」とも呼ばれている。大広場の中央に巨大な噴水があり、頂上部にはミースガルタンシェアリを模った雄々しき像が鎮座ましましている。無論、通常に発注して、この規模の彫像がこれ程短期間で完成するはずがない。みーを魔力で型取りして、風系統の魔法でコウさんお気に入りの巨岩を、ごりゅごりゅ削った、と後から説明されたが、詳しくはわからない。竜にも角にも、竜の像がちょこっと幼く見えるのはそういう理由なのである。
水を象徴する施設の上に炎竜を頂くのはどうかと思うのだが、苦情は来ていないので、そういう野暮は気にしない、と。僕としては、炎竜像を翠緑宮に、ここには氷竜像、いや、スナの像は竜書庫に設置したほうがいいかな。……あとでコウさんに水竜を知らないか聞いてみるか。って、いやいや、竜ならスナのほうが詳しいに決まっている。この後、竜書庫に行ったときにでも聞いてみるかな。竜書庫では、別行動が取れるといいのだけど。
普段なら噴水の周りで思い思いに寛いでいるが、今は皆、噴水から距離を取っている。何より、この人集り。いや、密集しているわけではないので、凄い人出、と言ったほうが正確か。五百人は下るまい。その人出を目当てに、広場の端では露店が盛況なようである。広場での出店許可は出していないのだが、まぁ、お目溢しというやつである。行き過ぎれば取り締まる必要があるだろうが、そうでないなら商人の魂を挫きたくない。出店数が増えるようなら、景観を崩さない程度の数での持ち回りを検討しよう。
今回のこともそうだが、カレンはこういった催しや世間の話題に通じている。カレン自身が言っていたことだが、仕事を熟しながら、並行して王宮内の女性陣の間に情報網を作り上げたというのは本当のことらしい。
男にはわからないかもしれないけれど、女同士の関係には色々大変なことがあるのよ。と溜め息混じりにカレンが語っていたが、女性間のそういったどろどろとしたものとは無縁そうに見えるカレンでも、細心しないといけないようだ。世間では、僕の所為(?)でややこしいことになっている彼女だが、翠緑宮の女性たちからは信頼を勝ち得ているようで、僕としてもちょっと安心。カレンの良い所が正しく理解されるのは嬉しい限りである。
考え込んでいると、ゆくりなく喧騒が遠ざかって、静かな熱が竜の胃袋を満たしてゆく。
「「「「「…………」」」」」「「「「「ーーーー」」」」」「「「「「っ」」」」」「「「「「!」」」」」
ーー高つ音。太陽は、空の高みに至って、四つ音の鐘が鳴り始める。
広場の北側に聳える大鐘楼が、青く透き通った空に晴れやかな音を響かせる。大広場に集まった人々の期待が最高潮に達する。話には聞いていたが、予想を遥かに超えていた。
彼らは遣って来た。彼らは遣って来る。彼らは現れる。彼らが現れる。
何というか、もはやわけがわからないが、とりあえず一番目立っていたのは噴水に向かって全力疾走の八体の雄姿。颯爽と人々の間を駆け抜けいくのは、竜の国の縁の下の力持ち、竜に踏まれてもへっちゃらほい、という触れ込みの魔法人形である。って、ミニレムの短い足が高速回転して、とんでもない速さで迫ってくる。うわっ、ミニレムって、あんなに速く走れたのか。ごめんなさい、いつものんびりさんなので、舐めてました。
八体のミニレムはそのままの勢いで、方角ごとに設置されている噴水内の円形の台に飛び乗って、大跳躍。水が止まった噴水の上部に着地すると、ぱかっ、と石の蓋を持ち上げて楽器を取り出した。そして再びの大跳躍で、台の上に同時に着地する。
二度目の四つ音の鐘が鳴り出すと、それぞれの楽器を演奏するミニレムたち。愉快で軽快な音楽を聴きながら大広場を見回してみれば。
ミニレム祭りだった。一列になった二十体程のミニレムが十隊くらい、二百体ほどのミニレムが大広場を所狭しと駆け回る。大鐘楼の下では、八体八列の六十四体が圧巻の同調具合で一糸乱れぬ謎舞踊を披露している。反対側の南では、組んず解れつの大道芸のミニレム。魔力操作なのか、建物の壁を走っているミニレム。あれは「王様のお菓子」だろうか、今日は外出できないコウさんの代わりに配っているようだ。
そして、西側の一角が騒がしくなった。
「きゃーっ、孤高さまよっ!」「孤高さまが降臨なされましたわ‼」「あ~、凛々しいあの御姿、きゃっ、鼻血が……」「ああっ麗しの孤高さま、あなたはなぜ孤高さまなの⁉」
……黄色い声を一身に受けるその容貌は、まさに孤高。西にある背の高い建物、あれは治水用の施設だったか、その頂上部に陣取るミニレムが独り、金管楽器を空に向かって高らかに吹いていた。あの楽器は慥か、魔法使いが改良したものだったはず。……というか、ミニレムに口はあっただろうか。いや、そんな野暮なことを言ってはいけない。下手なことを言えば、あの西側の三十人程の、孤高さま(ミニレム)の信者に何をされるかわからない。
ーー四つ音の鐘は竜の胃袋に余韻を残し、ミニレムの演奏が華を添える。
八体のミニレムが大跳躍をすると、数百体のミニレムが一斉に大広場から去ってゆく。建物の窓に飛び込んだり、石畳を持ち上げて中に飛び込んだり、普通に通りの向こうに消えて行ったりと、遣りたい放題である。額に五五の番号を刻んだ孤高さん(ミニレム)が、ばっ、と華麗に身を翻して、女性陣の賞賛に応えることなく、ただ去ってゆく。
乱れなく描かれる、完全な同調による放物線。最後に楽器を仕舞う為にミニレムが噴水の上部に完璧な着地を、つるっ、がっ、どぼんっ……。
あー、いや、今の擬音語は僕の心象で、実際には一瞬の出来事で。ミニレムが足を滑らせて頭部を打ちつけた、岩を砕くような鈍い音と、水面に落ちた、思ったよりも小さな水音が印象的だった。七体のミニレムが呆然とした様子で、不慮の事故に見舞われた仲間に顔を向けていたが。慌てて楽器を戻すと、泡を食ったように次々と水面に飛び込んでゆく。
二次遭難か、と憂慮したが、人々が騒ぎ始める頃には、若しや鍛錬を積んでいたのだろうか、そつのない連携でミニレムと楽器を水の中から運び出すことに成功していた。直後、元通り水を噴き出し始める噴水には目もくれず、七体のミニレムが蘇生(?)に励む。皆でぽんぽん仰向けのミニレムを叩いているが、あれは治癒魔法なのだろうか。よくわからないが、ミニレムの懸命な処置の甲斐あって、四八一と額に刻まれたミニレムの真っ黒だった目の部分に、真ん丸の光が灯る。
頭の上部右端が損傷して欠けているが、動作に支障はないようだ。だが、楽器のほうはそうもいかない。慌てて楽器に飛びついたミニレムが音を鳴らしてみるが、ぽよんっ、という萎びた音に、がくりと膝を突いて天を仰ぐ。その様は、まさに慟哭。表情のないミニレムだが、細かく震えながら楽器を抱える姿に、誰もがそれを疑うことはなかった。
ーー然しミニレムたちは信じていた。諦めなければ救いはあると。明けない夜はないと。希望の種は、小さな絆が運んできてくれる。それは些細なものかもしれないけど。ほら、風はもう吹き始めているのだから(ミニレムたちの謎寸劇の解説、ランル・リシェ)。
風の痕を辿るように、ミニレムの前に跪いて、語り掛ける青年が一人。
「僕は楽器造りの職人なんだ、まだ見習いだけどね。でも、大丈夫、ちゃんとまた弾けるように直してあげるよ」
若者が胸を叩いて請け負うと、感極まったらしいミニレムたちが彼に飛び掛かって押し潰してしまう。さすが職人だけあって、楽器は死守している。
「うわっ、ちょっと待って、これじゃ直せないよー」
ミニレムに揉みくちゃにされる若者の姿に。竜の民に色付いた笑いの花が咲く。
「ーー三人とも、視線はそのまま、楽しんでいる振りをして」
ゆっくりと後ろに下がって、笑顔を崩さず指示を出す。訝しむ双子だが、
「窃盗? 不審者?」
質しながらカレンが笑顔で頷くと、顔を見合わせた姉妹が応えてくれる。
「周囲を警戒せず、いつも通りいちゃつきながら、僕の後ろに付いてきて。魔法使いを追う」「言いたいことは色々あるけれど、今はよしておくわ。サン、ギッタ、あなた……っ」
カレンの言葉を先読みして、姉妹が彼女の二の腕辺りを抓る。
「駄目ですよ~、カレン様。あたしたちはカレン様の奴隷、じゃなくて、護衛」「その通りです。あたしたちは三人で一心同体。もはや分離は不可解、じゃなくて、不可能。とギッタが言ってます」「そういうわけで、もっと密着しましょう、そうしましょう」
余裕があるようで何より。双子の力は信用しているが、実戦ではどうなるかわからない。だが、彼女たちの言葉にあるように、カレンだけは絶対に死守してくれるだろう。
フラン姉妹の意志が固いことを気色取って、カレンは了承の二の腕抓り返し。
「ふゆっ」「ふやっ。とギッタが言ってます」
カレンが手加減した所為なのか、擽ったそうな声を出す双子。う~む、言葉は違うが、仕草はまったく同じだ。刺激に対する反応まで同じとは、恐れ入る。
これは僥倖。向かう先の、左斜めの支路から、巡回中らしき三人の竜騎士が見えた途端、
「譲りませんからね」
カレンは、僕の心肝を見透かして笑顔で釘を刺してくる。ああ、ばれてますか。三人娘と竜騎士たちで役割を交代してもらおうかと思っていたのだが、時間がないし仕方がない。
三人の先頭、ザーツネルさんが僕に気付く。魔法使いは背を向けている。こちらに来るように、と二度手で招く合図をする。合流してから、前方を指差して、短く告げる。
「魔法使い。尾行、僕らを追跡。戦闘時、助勢」「了解」
過たず状況を理解してくれたザーツネルさんが歩みを止めて、僕たちから距離を取ってくれる。相手は件の魔法使い。何があるかわからないので、慎重を期して彼らには後方支援に回ってもらう。状況の推移によって、伝令を出したり、竜の民の安全を図ったりと、重要な役割だが、ザーツネルさんなら任せても大丈夫だろう。
大広場から出て、竜の背骨方面の住宅街に向かってゆく。魔法使いは振り返らず、こちらを警戒しているようには見えないが、不自然な行動にならないよう姉妹に話し掛ける。
「カレンの腕に抱き付いたまま、器用に歩くものだね。えっと、まさか魔力操作とかしてる? あ、序でに聞いておくけど、魔法使いが魔法を使っている気配は?」
「むぎぃ、ここは翠緑王に倣ってやるの」「ぐびぃ、竜に百回唾を吐かれて、ふやけてしわしわになるといいのだー。とギッタが言ってます」「こっちもあっちも魔力無しなの」
コウさんやみーの真似なのだろうが、ちょっと切れがないな、と辛口の評価になってしまったので、双子の機嫌を損ねない為に笑って誤魔化す。
「さっきのミニレムだけど。実は耐用訓練とか実用訓練とかで色々やっていてね、五、六体で一班として、大陸で一番高い山に登ったり、別の大陸に小船で漕ぎ出したり、大陸外周を闊歩していたり、と大忙しみたいだ」「ーー竜の国の外、ということは、間者の役割も兼ねているのかしら」「ん~、フィア様にそのつもりはないだろうね。でも、僕たちの王様は、抜けているところがあるから。『竜の国の為になることをしてくるのです』と命じて、結果的にそうなることはあるかもしれない」「そうなると、他に……」
雑談に興じて、何やら考え込んでしまうカレンだが、状況の変化に対応する。
「右折したわね。あちらは、住宅街と組合の工房があったはず。人通りは少なくなるから、制服は目立ってしまう……かしら?」「高つ音の休憩時間を使った買い出し、は通用しなくなるし、目的を視察や査察に切り替えるか。カレンは僕の隣に。えっと、申し訳ないけど、サンとギッタは僕たちの後ろを、早く仕事を終わらせたいなぁ、って感じのふてぶてしさを醸しながら付いてきて。それと二人は魔法使いとの接触までは無言でお願いします」
歩きながら、ぺこりっと頭を下げると、んべっ、と僕に向かって舌を出してから、名残惜しそうにカレンの腕から離れる。カレンに目配せしてから、歩く速度を上げる。同時に動いた僕たち(ふたり)に、すぐさま合わせてくれた姉妹だが、阿吽の呼吸の〝目〟の二人に、殺意で装飾された嫉妬を投げ込んでくる。いや、純度混じりっけなしの敵意を向けられているのは、違わず僕だけなのだが。ああ、失敗した。姉妹に一言掛けてからにすれば良かった。
「僕たちって尾行に向いてないよね。そうだ、二人に『隠蔽』を、って、そうか、魔法を使ったら気取られてしまうか、……ああ、それに、後ろのザーツネルさんたちが僕たちを追えなくなるのか」「このまま追うしかないわ。竜の尻尾を踏んだのなら、竜の角まで、よ」「……えっと、わかってるかな、カレン。誰何、と確保まではするつもりだけど、先ずは話し合いからだよ?」「無論。でも相手が抵抗したなら、制圧や昏倒させる必要があるかもしれないでしょう。その覚悟で向かわなければ、痛い目を見ます」
是非そうなって欲しい、みたいな声色で言わないでください。〝サイカ〟に至る為には様々な経験を積まなくてはならないが、必要以上に機を求めるのは、賢い遣り方とは言えない。危なっかしくて仕様がないが、これには僕が〝サイカ〟に至るかを尋ねられたことも影響しているのだろう。あのときは気付けなかったが、今の時点で僕を〝サイカ〟に至らせることを里長が認めるはずがない。里長があの場で口にしたのは、僕だけでなくカレンや老師に思うところ、本旨があったからだと思うが。至高の〝サイカ〟の深甚で玄奥な内を量るなど、竜に周期を尋ねるようなもの。まったく、厄介の種を残してくれたものだ。
喧騒とは無縁の、落ち着いた雰囲気の生活路といった趣。水路を挟んで、右に工房、左に住宅街。竜の背骨付近には、騒音や臭いなどによる弊害の少ない、住人の生活を脅かさない種類の工房が立ち並んでいる。それ以外の、如何にも工房、という感じの職種は、竜地の氷竜や竜の右手や左手に。カレンの提案で、竜の宝珠を活用することになるだろう。
「カレンは、この先の袋小路のことは知らない、よね?」「主要路は地図を見て記憶したけれど、細かいところは実際に足を運んでみないとわからないから、知らないわ」「えっと、時間がないから説明は割愛。袋小路に追い込むよ」「仕掛けるのね、了解」
実は、設計段階の過誤で、本来水路が通っていなければならない場所に路はなく、地続きになっていたのだ。そのことに誰も気付かず、完成して水路から水が溢れて、やっとこ炙り出されて、応急処置でコウさんの魔法が遠方から放たれることになる。さて、これも氾濫というのだろうか、こちらの被害は最小限で済んだのだが、お察しの通り、慌ててぶっ放した攻撃魔法の、力加減というか魔力加減を誤った王様の一撃で、まぁ、何というか、魔法被害はそれなりだったとさ。と軽く言ってみたものの、「おしおき」二回だったことから、大変さの度合いを理解していただけるかと。
設計通りに造ってくれた魔法人形たちに罪はない。ミニレムと違って、命令や指示を熟すだけだった魔法人形は、人間だったら当然気付く過誤や違和感を思考の俎上に載せることはない。それだけミニレムが凄いということなのだが、ーーいや、今は境界線上の悩ましのミニレムのことを考えている場合ではない。
道だった場所には橋を架けるという案もあったが、利便性が薄いので組合の倉庫が建てられることになって竜の国唯一の袋小路が現出することとなった。と、そろそろ頃合いか。
「三、二、一……」「っ!」「「っ」」
魔法使いが十字路に差し掛かる前に走り出して、大声で指示を出す。
「左の道に逃げて行ったぞ! あっちは住宅街だ、増援を呼べ!」
僕の声に、振り返る素振りを見せた魔法使いだが、歩調を変えることなく自然な動作で右の道に、袋小路になっている工房方面へと消えてゆく。
「カレンは奥からお願い!」「……了解っ」
工房が密集している場所なので、道幅は馬車が悠々通れるくらいの広さがある。相手は魔法使いである。僕が最短距離で追走するという一番危険な役割を負うのは自明なことなのだが、カレンはーー、……あれ? カレンって僕に魔法が効かないこと知ってたっけ⁉ いやいや、今更そんなことを確認している間などない。カレンが回り込むように奥から、状況を把握して対処できる位置に向かうのを視認してから、先鋒として飛び込んでゆく。
「ーーっ!」「ーーっ⁉」「…………」「……。とギッタが言ってません」
予想外の事態に、いや、予想の範囲内ではあるが、そうくるとは思っていなかったので、妙に空しく響いたサンの言葉に突っ込みを入れるだけの余裕はなかった。
「奥の手を使います! サン、ギッタ、『結界』で防いで‼」
双子に指示を出したときには、すでにカレンの右手が振り上げられていた。彼女の剣質である、実直で豪胆な剣撃のように、振り下ろした手が苛烈に地面に叩き付けられる。
せぃっ、とカレンの、裂帛の気合いの余韻が響くが、それだけ。……叩き付けた手から、音は聞こえなかったし、周囲に変化はない。魔法を使ったのだろうが、詮索は後回し。
居回りを警戒するが、状況に変化はない。道に突入したときと同じく、人っ子一人いない。昼の休憩時間を過ぎたのか、職人たちの姿もない。
そう、魔法使いは居らず、忽然と姿を消してしまったのだ。無感動に見回すフラン姉妹の様子から、魔法使いはもう近くにいないようだと察しをつけるが、カレンの奥の手、或いは竜の手の結果が出るまで警戒は緩めないほうが良さそうだ。然なめりと思った通り、僕たちを追跡してくれていたザーツネルさんが駆け付けて。意味深な発言をする。
「侍従長……は、問題なさそうだな。双子は『結界』、被害者は俺だけか?」
偏頭痛を堪えるような仕草をしながら二人の隊員に確認するが、彼らは質問の意図がわからなかったようで、首を傾げている。
「緊急事態でしたのでーー、申し訳ございません」「いや、構わんよ。それで侍従次長、結果はどうだったのかな?」「……魔法使いを捕捉することは敵いませんでした」
意気消沈するカレンは、不自然さや不可解な部分に納得がいかない、というような苦い表情で、自分が行使した魔法の説明を行う。
「私が用いたのは、『探査』の応用、いえ、『探査』の劣化版のようなものです。周囲の魔力を感知することが出来ますが、魔力量の多い者や魔法を行使している、今回で言えば『浮遊』『飛翔』『隠蔽』『結界』を発動しているなど、魔力的なものしか察知できません。
この魔力探査の効力は、副産物のようなもので、もとは魔力量の多い者に衝撃を与える手段として。ーーこう、闘いの際、剣に魔力を叩き付けることで発生させます」
「なるほど、闘いの最中にこれを遣られたら効くな、って、そんな場合じゃなかったな」
「あの時機であれば、魔力強化や『飛翔』で撤退したとしても、『探査』に引っ掛かるはずです。『隠蔽』や『幻影』など魔法を行使していれば、見えなくとも、惑わされても、居場所を感知することは、出来るはずなのですが……」
カレンとザーツネルさんだけでなく、彼女の力になろうとフラン姉妹も必死に、魔法使いの消失の理由を考えている。魔法に疎い僕は、消失の考察は皆に任せて、別のことを考えていた。ザーツネルさんが、お手上げ、という感じで嘆息したので、尋ねる。
「ザーツネルさん。魔法使いにとって、僕は、どんな存在だと思いますか?」
質問の内容に面食らったようだったが、即座に答えてくれる。
「天敵……かな。遺跡で遭ったとき、そりゃ驚いたもんさ。魔法しか手段のない魔法使いからしたら、この世の害悪とか、邪竜とかに見えるかもしれないな」
懐旧に揺られて、笑みを零すザーツネルさんに、僕も同感して釣られそうになるが、言葉を継ぐことで無理やり抑え込む。
「魔法使いを見掛けたのは二度目。今回、僕以外にも魔法使いが見えていたことから、恐らく僕たちはここに誘導された」「私たちが行動を起こしたから、ではあるけれど。ここに目立ったものはなく、周囲は工房に住宅街、魔法使いの姿はない。ーーということは、遠ざけられた、ということになるのかしら」「そう、僕、乃至は僕たちを遠ざけたとするなら、ーーそれは準備が整った、ということだと思う」「……そうね」
然あらば魔法使いの、直接の目的は僕ではないということになる。そこで違和感に気付く。一度目に魔法使いを見たとき、僕はあの場に偶然居合わせただけだ。「竜饅事件」でみーを肩車して翠緑宮に遁走、という偶発以外の何物でもない出来事。それはギルースさんやフィヨルさん、そしてクーさんも同様だろう。だが一人だけ、いや、一竜だけ例外がいた。思い返してみれば「竜の半分こ」で、みーに竜饅を半分上げていた人たちは、慣れた様子だった。「竜の半分こ」が何日目なのかは知らぬが、初日ということはなかろう。
ぞくり、と斯かる可能性に至った瞬間、這い登るような悪寒に襲われた。
然てだに終わればいいが、そうもいかず無意識の内に口を、自分の手で塞ぎやる。不用意に言葉を漏らしてはならぬ。然のみやは、考えないわけにはいかない。たとい可能性の話であろうと、起こり得るのならば対策を練っておかねばならぬのだ。
「らっ、ランル・リシェっ、突然どうしたのですっ!」「おいっ、リシェ殿!」
ーー思考に余裕がなくなっている。自分が間違った方向に進もうとしたことを自覚する。抱えるものが大き過ぎて、自然と嘔吐いたような格好になっていた僕に二人が声を掛けてくれる。ザーツネルさんに肩を揺すられて、ゆっくりと体を起こす。
「……魔法使いの目標は僕ではありません。魔法使いの狙いは、恐らく、みー様です」
黙っていても仕方がないと、体の中の澱のようなものを言葉とともに吐き出してゆく。
「そういや、みー様が竜の国にいらっしゃることが当たり前になってたが、有り得ないくらい特別なことだったな」「そうですね。馴染んでしまっていましたが、史実に刻まれていない人と竜の交流。そこに興味を惹かれない者はいないでしょう。人の歴史が教えてくれます。そこに悪意が雑ざらない理由など……」「「「「「…………」」」」」
カレンの途切れた言葉の先を想像して、皆が押し黙る。だが、問題は、その先。
独りで抱え込もうか、という誘惑が、楽なほうへ流れようとする甘美で暖かなものを。
ーーっ‼ 不意に巻き起こった神経を焼き切るような苛立ちで、打擲し噛み砕き、破砕し殲滅し徹底的に磨り潰す。終ぞ感じたことのない、明確なる確信のような不安定。
「ーーふぅ」
何に対して苛立ったのか、自分でも分からない。然し、それは後回しである。物事というのは、独りで考えていると無秩序に出鱈目になってゆく。天秤に掛ける。僕が至らないことは、誰より自分がわかっている。優先されるべきは何か。時間は宝にして、躊躇は罪。
「ザーツネルさん。みー様を捕まえようとするとき、エンさんとクーさんと同等の団が事に当たったら、どうなると思いますか?」
自分でもわかる。暗く凝っている。潰れたような声で喋っているのかもしれない。
「そう……だな。『人化』したままでは、抵抗は難しい。となると、竜になって飛んで逃げるんじゃないかな」「そうですね。みー様は、これまで立ち会いや勝負でも友好的な相手としか戦ってきませんでした。これは想像に過ぎませんが、悪意を持った相手からは、無我夢中で逃げることになるかもしれません。そうなると、遣り過ぎてしまうかもしれない」「それは、みー様は人を傷付けて、落ち込んでしまわれるかもしれないけれど。相手が、不埒者が怪我を負うのは、自業自得でしょう?」
カレンの言う事は尤もである。然は然り乍ら、見るべきところはそこではない。声を出そうとして、掠れて消えた。頭の奥が痺れているが、今度はきちんと言葉にする。
「もし……、もし、みー様が暴れた場所が人通りの多いところであったなら。逃げる際に、竜の民を傷付け、殺めてしまうことになったら……。彼、または彼らの目的が、人と竜の分断にあるとしたら、どうでしょう」「「「っ!」」」「っ⁉」「「…………」」
まだだ。もっと、もっとだ、必要なことを、語らなくては、搾り出さなくてはならない。
「竜の国、竜の民にとって、竜との交流、良好な関係は、喜ばしいものです。でも、竜の恩恵の域外、他の国々や組織にとってもそうだとは限りません。いえ、そうでないもののほうが多いのかもしれない。いくら竜の国に害意がないと言っても、潜在的な恐怖が消えるわけではありません。それは、竜の国にしてもそう。たった一つの擦れ違いが、竜の民の心を引き裂いてしまうかもしれない。竜という存在には、それだけの影響力があります。そうなったとき、竜の国は、国として、破綻してしまうかもしれない……」
最悪の情景が脳裏を掠める。
涙に暮れたみーが、僕たちに背を向けて、北の洞窟に飛び去ってゆく。
竜の国は成らなかった。エンさんとクーさんは、コウさんの為に、皆で老師の居へ帰ってゆく。僕は、付いて行くことなんて出来ない、見送る側だ。
スナはどうするだろう。呆れて連峰に帰ってしまうだろうか。
誰を責めることなんて出来ない。すべて僕の力のなさが原因なのだ。
今更心付く。兄さんは、自分なら竜の狩場に国を造らない、と言っていた。その理由の一つが、人と竜の関係、だったのだろう。本来なら有り得ない関係。不安定で、成立しているようで、いつでも亀裂が入る要素に事欠かない。人と竜という種族の間に楔を打ってしまう。そんな途方もない過ちを犯すことになるかもしれないというのに、その問題の存在にさえ思い至ることがなかった。
「……くっ」
きっと兄さんは、他にも僕には見えていないものが見えている。
兄さんは、僕を止めようとしていた。でも、最後には、許してくれた。それは、僕を信じてくれたからだろうか。僕なら出来ると、認めてくれたからだろうか。
兄さんの幻影に縋ってはならない。特別視してはならないと、兄さん自身が教えてくれた。兄さんが、なぜ僕に会いにきてくれたのかを、もう一度刻み込め。
僕に出来ることはなんだろうか。一番得意な、逃げることを選択できないのなら。二番目に得意なことを行えばいい。かくあれかし、必要なら今すぐにでも。
頭の奥の痺れは治まらない。逆に悪化して、思考を、体を、心を蝕んでゆく。真っ白を通り越して、透明に、何もなくなってしまう。欠片を、残滓を集めている暇などない。
ああ、でも。……何もなくなってしまったのなら丁度良い。僕の貧しい想像力でも、最低最悪の場所は、見てくることが出来たのだから。
「ーーーー」
この程度で折れない自分になればいい。そういう存在が自分の中にいると、思い込めばいい。今は、演技では足りない。もっと根本から自分を偽る必要がある。
僕の中にある、その為に必要な情景。
過去の情景より、塗り替えられた現在の光景のほうが、僕を奏でてくれるはず。兄さんと出逢い、カレンと出逢い、コウさんと出逢い、みーと出逢った。すべての糧である。
ーー完全に思い出したわけじゃない。溶けてはいるが、無くなってはいない。僕が、可愛い、と言ったときの、竜の顔。子供の時分の僕の気持ちがわかる、ああ、確かにスナは可愛かった。あれは暖かかった。スナは冷たいから暖かくて、そこには理解が伴われていた。そのとき僕は、気付いたのかもしれない。何一つ気付いていないのに、理解だけが、存在だけが、そこにある。
音を鳴らそう。辿り着けないとわかっているから。音を鳴らそう(こころをひたそう)。
どうもみーには嫌われているらしい。まぁ、それはいいとして、少しは近付けただろうか。……炎の猛り、希求を隔つ。純粋が故に、魂に焦がれる。
スナとの邂逅。古いものが、新しいものより価値があるとは限らない。以前よりも音は深く深く、情景は深甚に響く。今の僕に、特別な存在があるとするなら、それはスナだろう。スナとの絆は、父娘という奇妙な形に結実したが、まぁ、この先どうなるかは竜でもわからない。……氷の宜い、理を兆す。清冽が故に、魂に縛られず。
音を鳴らそう。情景が鳴っているのか、僕が鳴っているのか。音は鳴らされた(さかいはひびわれた)。
「…………」「……。とギッタが言ってません」
ぴくっ、とフラン姉妹が愛嬌のある面の、目と耳を欹てる。僕の最悪の予測で凍え切った空気を暖めようと、カレンが双子に尋ねる。
「何か気付いたことでもあるの?」
「何を言ってるのか、あたしにもわからないけど、……竜がいる」「竜がいるのに、……竜がいない。あたしにもわからないけど、尋常じゃない……。とギッタが言ってます」
突き詰めれば、僕もフラン姉妹も、魔力異常という範疇で括られるのかもしれない。スーラカイアの双子は、境界が不安定。感受性に優れているというのも考え物だ。
「サン、ギッタ。上空から周囲の確認。カレンの責任に於いて、即座に実行」
状況を弁えているカレンを一瞥。次に竜騎士二人に視線を向ける。
「魔力込みで、足が速いのはどちらですか」「あ、俺のほうが……」「直ちに翠緑宮のフィア様に伝令。魔法使いのこと、みー様が狙われていることを伝え、僕に『遠観』を繋ぐよう進言してください。大広場まで走り、そこから大路に出て、これを使ってください」
竜の文様が描かれた、赤い札を渡す。竜の国で使われるのは初めてだろうが、移住の際の注意事項で知らせてある。馬車を接収することが出来るだろう。
「これって、竜札?」「御者や乗客が文句を言うようなら、この札が侍従長の物だと告げてください。レナンスさん、最速でお願いします」「は、はいっ」
名前で呼んだほうが効率がいいだろう。彼の表情から効果があったことを知る。カレンが来てから仕事に余裕ができ、周囲の人物の名を覚えることに充てていたことが役立つ。
「パーキスさんは兵舎に伝令。竜騎士に大広場に集まるよう伝えてください。途中で竜騎士や近衛などと接見したら、近衛隊の詰め所や闘技場に走らせ、大広場に集まるよう指示してください」
真剣な面持ちで頷いてから、黄金の秤隊らしく猪突猛進で去ってゆく。
「拠点は、大広場で良いのかしら。私たちも翠緑……」「フィア様の能力に鑑みて、竜の民の安全を優先する。順次探索に充てるなら、編成は僕たちで行うのが順当」
異常が見当たらないのなら、双子を戻す。カレンに手で指示を出す。腹に力を入れ、
「ミニレム! 召喚!」
魔法人形に呼び掛ける。石畳の一つと、袋小路の壁の一部が、ぱかっ、と開き、ミニレムが、ぴょこっ、と顔を出す。しゅたっ、と屋根の上に、五五を刻んだ孤高が参上する。
「手空きの者と、仕事を後回しに出来る者。近距離ではなく、遠距離から魔法使いの探索」
これまでミニレムからの、魔法使いの情報は上がっていない。ただ闇雲に探すだけでは見つからないだろう。孤高は静かに立ち去り、二体はわっしゃわっしゃと両手を振る。
「そういうわけで、ザーツネルさんは、竜騎士の編成をお願いします。魔法使いに対処可能な六人を一隊として、積極的な捜索に。それ以外は主要路の捜索と監視に。大広場に着くまでに振り分けを纏めておいてください」
十字路の向こう、その先の角からサーイが姿を見せる。こちらを見て表情を緩ませたが、僕を見て顔を強張らせる。情報を抱えていると判断し、命令する。
「駆け足!」
サーイが来るまでに片付けておくことにする。
「カレン及び双子は、老師の許へ向かい指示を仰ぐよう」「っ、私も捜索にーー」「黙れ」
文目も知らぬ者に拘う暇などない。とはいえ、カレンは有用であるので一喝する。
「個人の感情と、緊急時の対応の是非を混同するな。双子を老師の下に就けた理由が分からぬわけではあるまい」
底冷えする声に、失望を散らした、半端者を見る目。
押し黙るカレン。地上に戻ったフラン姉妹が懲りずに魔法で攻撃しているようだ。
僕の特性を干渉と捉えるなら、行動によってそれを助長し、回転という撹拌によって最大限の効果を発揮する。体を半回転させ、地面を踏み鳴らし、体を取り巻いているだろう魔法を手で掻きまわすよう振り払う。傲岸さを振り撒き、不必要な意思を挫く。
「細大漏らさず報告」
カレンや双子との遣り取りを見せた。サーイを脅す必要はないだろう。
人のことを言えた義理ではないが、制服が似合っていない。巨体と粗野な言行が目に付くが、長老のバーナスが補佐として使っているのだから、役目を与えれば熟すか。
「魔法使いと遭遇……じゃねぇ、いや、じゃなくて、魔法使いのほうから接触。誰何すっと奴はこう言いやがった。『魔法使い、とは心外ですね。私は呪術師です。名をエルタス・クラスタールと申します。どうぞお見知りおきを』ってな。でだ、捕まえようとっ、とはしてねぇけど、早く報告したほうがいいと思って、そのな……」
言い訳を始めたので、シーソ張りの無表情でサーイを黙らせる。得られるものは得た。
「呪術師? 名まで明かしたってことは、準備が整ったというのは確定かな。すでに行動を起こしていると見るべきか。それにしても、呪術師、呪術師……か」
聞き慣れない名称に首を傾げるザーツネル。氷焔で冒険者だった頃に、焚き火を囲いながら聞いた魔法使いの歴史。呪術師の話をコウから聞いていなかったら、僕も同じ反応だっただろう。事の重大性を認識させる為に、説明しておくか。
「呪術師、エルタス・クラスタール。恐らく、この者は呪術師の祖とされるソラタス・クラスタールの系譜なのでしょう。委細は省きますが、この者ーークラスタールは魔法の基礎を修めた、本物の呪術師と想定する必要があります。呪術師の特徴に、一つの呪術に特化している、というものがあります。警戒を怠らぬよう」
呪術師に関して詳し過ぎる僕に、様々な感情が向けられるが、知らぬが竜。
「サーイさんは、南の竜道に向かってください。衛兵や警備兵、職員がいれば彼らを使って構いません。フィア様に抜かりはないと思いますが、周囲の警戒と、必要があると判断すれば、偵察も行ってください。南の竜道は、外界とを繋ぐ最重要拠点の一つです。報告次第では、竜騎士を回すことになるかもしれません。あなたにもこれを渡しておきます」
二つの竜札を必要とする事態が発生するとは。斯くの如し、詮方なく予備の竜札を渡す。
「ほれ、サーイ、行くぞ。大広場に着くまでに仔細を話してやる」
ザーツネルがサーイの肩を叩き、行動を促す。語らずとも忖度してくれる、さすが頼れる兄貴分である。何故か困ったような顔で僕を見ているが、今はもう片方のことである。だが、必要なかったようだ。カレンは双子を連れて、すでに走り出している。
そして、誰もいなくなった。ーー、……。……、ーーん? んん?
「……ん? あ、えっと……」
誰もいなかった。あ、いや、僕が命令して、皆に対処に当たってもらった……はず。
何となく覚えているのだが、所々朧気だったりするわけなのだけど。どうやら集中し過ぎて、竜の領域に没入していたようで、また遣らかしてしまったらしい。あ~、まぁ、起こってしまったことは仕方がない。と居直ることにして、そこで重要なことに気付いた。
「えっと、僕は何をすればいいのかな?」
冒険者失格の烙印を押されて、エルネアの剣の本拠地から旅立ったときのことを思い出す。この度は、間抜けな人間の為に、風さえ吹いてくれなかった。
王弟、宰相、竜騎士隊長二名、竜官の長老二人。僕が大広場に着いたとき、喧騒の中心にいるのが見えたので、一直線に駆け寄る。気付いたザーツネルさんが報告してくれる。
「浸透隊を一、警戒隊を十二、出動させた。あと一人来たら、俺と二隊長も浸透隊として出る予定なわけだが」「「…………」」
黄金の秤隊の副隊長は、由有り気なものを見るような眼差しを僕に向けて、隊長二人がさり気なく僕から距離を取る。どうやら、先程の僕の醜態(じじゅうちょうのほんしょう?)は伝わっているらしい。
「カレンが泣きそうな顔をしていたから相談に乗った。後で慰めてやると良い」
後ろから、こつっ、とクーさんが頭を叩いてくる。痛いようで痛くない、微妙な一撃だ。
記憶を探ってみると、……カレンに酷く当たったような気がする。謝らないといけないわけだが、どうして、慰める、ということになるのだろう。クーさんの言い間違いか、勘違いかな。泣きそうな顔、というのもクーさんの誇張だと思うが、本当だったら上司失格である。これは、もう、カレンと役職を交代したほうが竜の国の為かもしれない。
「宰相、あれをご存知なんですか?」「あれは、人でなし侍従長。またの名を、碌でなし侍従長。集中し過ぎると発動する、とリシェは嘯いてはいるが、あたしたちの間では、単に本性を現しただけ、というのがすでに通説」
竜の国を造っているときに、過集中、でご迷惑をお掛けしたようだが、クーさんはまだ根に持っていたらしい。嘯く、とか、本性、とかの部分には異議があるが、加害者の僕に反駁の権利は与えられていないらしい。
「人じゃなし侍従長、も可」
まだ言い足りなかったようだ。人でなしと人じゃなしに違いはあるのだろうか、とどうでもいいことを考えて、いやいや、そんなことをしてる場合じゃない、と思い直す。
「シア様。シーソや子供たちが捜索に当たっているようなことはありますか?」
「あ、はい……、シーソはいつも通りで、あと、何人かが役に立ちたい、っていうか、恩返しがしたい、って息巻いて竜舎から出て行ったと……、聞いています」
恐らく事後報告だったのだろう。焦慮に駆られるシアをどうしたものかと悩む。子供たちの気持ちは嬉しいが、危険に身を晒すようなことで達成して欲しいとは思わない。裨益する方法も恩返しの方法も、幾らでもあるのだから、先走るようなことは望んでいない。然りとて、子供たちの純粋な想いを否定するかのような行動を取るべきかどうか。
「大丈夫です。あいつらは、あいつら自身の考えで決めて動いています。迷惑になるようなら切り捨て……」「同じ言葉をフィア様にも言えるなら考えなくもないですが、そうでないのなら、子供たちの件はシア様の責任に於いて対処していただけますか?」
最後まで言わせず、狡い言い方でシアを翻意させる。大切な姉の顔が浮かんだのだろう、少年の身に不相応のものを抱えて苦闘する、一途で不器用な王弟に必要なものは何かと考えて。好きなように動く為の許可を出すことしか出来ない、自分の不甲斐なさが恨めしい。
「呪術師のことは、聞き及んでいますか?」「ソラタス・クラスタール、だったか。まさか再び耳にする機会があるとは。そのエルタスとやらは、呪術師の祖の系譜に相応しい能力の持ち主らしいが、問題は他の協力者の有無」「そうですね。呪術師一人だけなら、邪竜鳴動してギザマル一匹、ということになるかもしれません。一度は竜の国を挙げて演習をする必要があったので、無駄にはならないでしょうが。でも、みー様に危害が及ぶ蓋然性があるとするならーー」
これ以上は言葉にするのを控える。言外に仄めかすと、クーさんが了解してくれる。
「……ふぅ」
手に汗を掻いている。やはり焦っているようだ。この事態を解決に導く為の、最大にして最強の一手から、未だ連絡がない。「遠観」の「窓」が現れないかと、うっかり探してしまいそうになる。最善手を考えようとすると、どうしてもコウさんの魔法込みで練ろうとしてしまう。それは悪いことではない、正しいことですらある。今まで、ひたすら頼り切っておきながら何を言っているのかと思うが、罪悪感めいたものが胸を軋ませる。
コウさんの魔法ありきの竜の国である。僕が未来に描いた最良の図は、彼女が魔法を使わずとも受け容れられて、笑っていられる世界である。老師は言った、一人を犠牲にしなければ助からない世界など滅びてしまえ、と。はぁ、まったく、本当に、悩ましの魔法使いである。もう少し僕に優しくしてくれても罰は当たらないと思うのだけど。
いやいや、思考がおかしな方向へ向かっている。頼り過ぎてはいけない、とわかっていても、翠緑王の能力と、みーの安否とを天秤にかけて……。はぁ、駄目だ、答えが出ないとわかっている問題に拘泥している場合ではない。過度の依存を戒める為に、これまで自分がしてきたことを、これからしたいと思うことを脳裏に焼き付ける。
「コウは、成果が出ていなかったらしく、意地になって明け方まで研究に没頭。翠緑宮を出てくるとき、枢要の参集まで寝ているよう寝床に放り込んできた」「カレンと双子が魔法を使ったとき、コウさんの反応がなかったので、そうじゃないかと思っていましたが。えっと、……その成果が出ていない研究って、もしかしなくても僕のことでしょうか?」「言いたいことは一つ。誰の所為でもなく、過ぎてしまったことを悔やんでも仕方がない」
重々しく頷くクーさん。堂々と責任放棄を勧めているように聞こえるが、彼女なりに気を使ってくれたのだろうか。斟酌すると、ーー責任の所在を明確にせず、皆で一緒に責任放棄をするのは一種の快楽であり、それが人類の知恵というものである(訳、ランル・リシェ)。意訳が過ぎるかもしれないが、どうだろう。
いやはや、とほほへなちょこすかたんこんこんちきあんぽんたんちゃらんぽらん、な気分である。大切なものを、大切なことを再確認して、自らを奮起させようとしていたが、がくりと力が抜けてしまう。まぁ、でも、張り詰めているより緩んでいたほうが物事に柔軟に対応できる、のかも。そこら辺は人に依るのだろうが、果たして僕はどちらだろう。どちらだったか。ーーそう、そうだ、どちらでもいいのだった。結果が出るのなら、そんなことは気にしない。ご大層な信念や矜持など、ぽいっ、と捨てられる。好い加減で、失敗ばかりの駄目な奴。それが等身大の僕だ。それでも何とかやってきたのが、僕なのだ。
「事情説明の時機と、この人集り。中途半端にするより、コウを待つのが妥当」「事ここに至っては、『遠観』で呼び掛けて、竜の民からも目撃情報を募ったほうがいいかもしれません。こうも開いてしまっている群衆では手が余るでしょうし、流言による混乱に留意しておかないと」「ん?」
前触れもなく、美味しい料理の匂いでも嗅ぎ取ったかのように鼻をひくつかせるクーさん。これが祝福の兆候かと思うと、どうかと思わないでもないが、まぁ、僕たちらしくていいんじゃないかと達観する。群衆に取り囲まれているが、僕たちの居回りに十分な空間があることを確認する。そのとき、ちらりと、人垣の向こうに見知った姿が、はっきりと見えたわけではないがーー。
「連絡するより、現地に行ったほうが早そうだったので、目に付いた人を全員連れてきたのです。いっぱい居たので、『飛翔』と『転移』と『風洞』を併用したのです」
コウさんエンさん老師カレン双子にオルエルさん、長老隊長サシスに纏め役、竜騎士近衛隊にわらわらと。緊急事態につき、大空を超高速移動させられたらしい面々が大変なことになっているが、一つだけ。みーが居ないことを確認してから大仰に手を振り上げる。
「我はランル・リシェ!」
衆目の関心が僕に集まったことを実見して、意を注ぐ為に、更に声を張り上げる。
「竜の国の侍従長の名に於いて命ずる! 道を空けよ‼」
大鐘楼の横の小路に向かって、炎の大剣を振り下ろすように力強く指し示す。
「「「「「…………」」」」」「……っ」
むべなるかな、僕の突飛な振る舞いは、翠緑王の登場に沸いていた人々に深く浸透してくれない。効果がないわけではない。僕への畏怖と嫌悪が先立ち、理解が追い付かず、行動に結び付いていない。ぐぅ、これではただの痛い人である。次善の策を模索していると、
「やべーぞ! こぞーん呪いぶっ放しやがった! 竜虫でぐじゅぐじゅのべよべよんなりたくねぇ奴ぁー、さっさと退散こきやがれぇー⁉」
僕の意を酌んだ(?)エンさんの決死の演技にーー演技ですよね? 血相を変える竜の民。僕の抽象的というか要領を得ない物言いと違って、直接的な脅威を語ったのが良かったのだろうか、竜の民の皆さんがエンさんの中傷、虚言であり妄言であるところの大嘘を信じて、悲鳴混じりに押し合い圧し合いをしている。エンさんには色々と言いたいことがあるが、ありまくるわけだが、むぐぅ、後回しである。
海が割れるように、とはいかないが、生木に亀裂が入るように道が開けてゆく。まだ裂け切っていない割れ目に、速度を緩めることなく突入してくる。息を乱しながらも、顔色一つ変えない少女が、繊細さと大胆さを兼ね備えた、目を瞠るような躍動的な走りで人々の間隙を雷光の閃きで駆け抜けてゆく。
エンさんやクーさん並みの魔力操作。それだけの能力を隠し持っていたことに驚きを禁じ得ないが、肝要なのは彼女が、シーソがそれを隠していないことにある。目立つことを嫌っているらしいシーソが、その選択を選んでしまっている時点で、事の重大性を知らせている。彼女は、脇目も振らずコウさんの許まで駆け寄って、必要最低限の言葉で伝える。
「りゅうの、ひだりのつばさ、みーさま、かどわかされた」
竜区「竜の翼」でみーは攫われたようだ。シーソは、コウさんに顔を向けながら、呼吸を整えようと奮闘している。無表情ではあるが、彼女の頑強な意志が根底に感じられる。
ーー本当に聡明な娘だ。逼迫した事態ではあるが、思わず感心してしまう。危難に際して、最適な言行を採るのが如何に難しいか、竜の国を造り始めてから、嫌と言うほど思い知った。場数を踏んだ、ということでは、コウさんも同様。大切なみーに危険が及んで、取り乱してもおかしくない場面だが、女の子は、魔法使いは、翠緑王だった。わずかに黙考したあと、王の風格さえ漂わせながら、シーソに応えて冷然と質す。
「そのとき、みーちゃんに意識はあったのです?」「まわりのひと、きいてはんだん、まほうつかい、ちかづくまでふつう、せっしょくご、いしきうしなった」
魔力を使っているのかもしれない。明瞭に、確実に伝達したあと、再び荒い呼吸に戻る。そして、役割を完遂したと判断したらしく、何事もなかったかのようにシアの許に歩いてゆく。見ると、二人は情報交換をしているようだった。シアには子供たちのことを一任したので、その対処についてだろう。
「ーーーー」
ゆっくりと深呼吸。先ずは心を落ち着かせる。
今のところ、予想した中での、最悪の事態ではない。断定は出来ないが、呪術師の単独の犯行であるようだ。最も懸念すべきは、みーが意識を失わされたこと。竜は、高い魔力耐性を具えている。並の魔法使いでは、みーに魔力干渉など覚束ない。となると、呪術師の呪術とは、強力な魔力の干渉か貫通力、……そして、僕という存在が居るのだから、魔力の無効化という線も考えられる。
呪術師は、子々孫々一つの命題に取り組む傾向があるという。呪術師の祖とされる人物が志向するものとして、それはどうなのだろう。僕の勝手な想像だが、もっと高尚とか高邁とか付けられそうな、この世界の神秘(?)を解き明かすようなものを追求するのではないか。継続、には意思が必要だ。信念や理想といった人を駆り立てるもの、他に伝統や家系、仕来たりや忠心などが動機付けになることもあるが。
今は、それ以上の詮索は必要ない。あとは、呪術師の目的。彼が個人で動いているとするなら、呪術師の能力と関係したものだろう。その証明、或いは実践の為に竜が必要だった? ……竜が必要だったとして、これまで竜に手出ししてこなかった、いや、手出しできなかったのか。この世の神秘、遠大にして甚大なる成竜には未だ届かない。そこに現れたのが仔竜であるみー。呪術師からすれば、千載一遇の好機。そうだとするなら、僕らは、その為の機会を与えてしまった。竜の影響力と重要性を見落として、みーは竜だから大丈夫と過信して、油断していた結果がこれだ。いったいどこまで愚かだというのか、僕は。
「フィア様。呪術師の狙いは、呪術の効果が及ぶ仔竜と思われます。呪術師の位置確認は可能ですか?」
だが、まだだ。へこたれている権利など僕にはない。僕は、コウさんの肩に手を置く。
「感知魔法を……」「いんや、そりゃ必要ねぇな。ちび助、出し惜しみはいらねぇ」
西の空に向けられた双眸に険しさが宿る。エンさんの鼓舞するような言葉に、真剣な表情で頷くコウさん。彼女に触れている僕にも感じられた。西に強大な魔力が立ち込めている。いや、これは一所から発せられている。これは……、何か、或いは誰か、なのか?
コウさん以外で、これ程の存在があるなんてことはーー。スナを思い浮かべて、即座に否定。スナでないなら、竜はあと一竜しかいない。
コウさんが魔法を発動した。爆発的な空間の伸長。四方八方から、優に百を超える魔力の奔流が、西の空ごと絡め取る勢いで放たれる。黄金の粒子を撒き散らしながら、西の魔力を雁字搦めにぃっ⁉
「っ!」「いぎっ⁉」
ぐぅうっ、頭の中が破裂したような衝撃だった。二、三歩よろめき、誰かに背中を支えられる。視界が安定しない、白昼夢のようだが、今すべきはコウさんの肩に、肩に……。
……おかしい。前に進もうとするが、足が動いていない。いや、背中の誰かが僕を止めている? 何故そんなことをするのか、抗議しようとしたら、視界が鮮明になった。
「コウの魔力を使っているからか、私とでも『浸透』が可能なようだね」
老師の声だった。見えているのは、これは「窓」? 遠くからざわめきが起こる。これは、歓声だろうか。響いた声の連なりに、恐怖や危機感といったものは含まれていない。
「魔法が弾かれたの! 魔力の流用? 『結界』も『浄化』も追い付かないの! エン兄、クー姉、皆を避難させてなの!」
伸ばした両手で杖をしかと持って、焦心を隠す余裕もなく悲痛な声で兄姉に頼る。「窓」を通して見るコウさんは、降り頻る雨のように魔法を行使していた。雨粒と同じく、その数を把握することなんて不可能。黄金の粒子で小さき身を染め上げても尚、後手に回らざるを得ない状況のようだ。くっ、駄目だ、老師との「浸透」では現状の把握も儘ならない。
「対象に届いていないか。コウの弱点がこんなところで浮き彫りになるとは。間に合わないとなると、心しておく必要がある」
思案するような老師の落ち着いた声が途切れた瞬間、視界がぶれる。老師が「窓」を閉じたようだ。目を瞬くと、違和感がなくなって、いつも通りの視界に戻る。
「真ん中集まって、円作んよーに拡がってけ!」「近衛隊、外周に立って、避難誘導!」
エンさんとクーさんが中心になって、大広場に集まっていた人々を誘導しようとしているが、如何せん数が多い。魔力は迫り、勢い西からの歓声が大きくなってゆく。
「ミースガルタンシェアリ様だ!」「真っ直ぐこちらに向かわれているぞ」「おおっ、炎竜様のなんと雄々しい姿か!」「大広場に向かってるんじゃないか? 俺たちも行くぞ!」
状況を理解していない竜の民は、不幸中の幸い、と言っていいのか、悠長に構えて切迫感がなく混乱には至っていない。だが、緊張感の欠如は、後の災厄に繋がるかもしれない。
「ミースガルタンシェアリーーとなると」
これは確定だ。竜になったみーが遣って来る。ミースガルタンシェアリと誤認されるということは巨大化しているのだろう。それを成したは呪術師に他ならない。みーが唆されているのか、いや、巨大化という時点でその可能性はないだろう。みーの巨大化は、コウさんでさえ労を要していた。みー自身で巨大化ができないとなれば、それは呪術師の仕業。みーの意識を失わせ、竜の姿に戻し、巨大化までさせる。ここから導き出されるのは。
ーー呪術師の呪術とは、竜乃至生物を操る力、か。どこまで制御できているのかわからないが、竜を手懐けて使役しようと試みるなど、正気の沙汰とは思えない。猛獣を檻に閉じ込めて、飼い慣らし鑑賞する。それらは、人の持つ嗜好の一つで、本能に根ざす征服欲の一部なのかもしれないが。いや、止めよう、すでに事を起こした呪術師に、竜の役割と存在の有様を説いたところで、炎竜に「火球」をぶつけるようなもの。
見えずとも、感じる。竜の国が完成して、エルネアの剣の本拠地にみーが迎えにきてくれたときのことを思い起こす。
巨大な質量が近付くことで生ずる圧迫感のようなもの。純粋に物体が移動して、周囲の現象を遮る。魔力を感じることが出来ない僕でさえ引き寄せられる何かがある。
「ーーっきぃ」
息を吐こうとして、引き攣ったような声が出た。空気が、……痛い。
焼き尽くす鮮やかな竜眼が、僕の甘ったれた予測を穿ち、微塵にする。
あれは、人の存在など歯牙にも掛けない、生物種の頂点であり、暴虐も破壊もただの行為にまで貶めることが出来る、世界に映える天災の具現。
燃やす、などという生易しいものではなく、敵愾心を焦がしている。みーの、優しかったり和やかだったり暖かかったり、そんな面影は、灰さえ残らぬほどに焼却されて……。
赤く紅く、深緋に炎を装飾して、荘厳さに抗うものなく、光を灼く。
劫火と紛うほどの猛りを纏いし偉容は、全き炎竜。僕の知っているみーとは何もかもが違う、それでもみー以外の何者でもない紅蓮の化身が、空の一角を削り取る。
悠々と鎌首を擡げ、放たれる。
「ーーーー」
存在が、魂が、震えた。当たり前のことが、見ることが、呼吸することが、難しい。
すべてを失った場所には、闇ではなく空虚な透明さだけがあるのかもしれない。
目を灼き、体を灼き、心を、魂を灼く。峻烈を極める、世界を灼く、真炎の具象。
ーー何もかも灼かれたのに、こうして立っていられるのは、コウさんが魔法で防いでくれているからだろうか。ただ打ち付けられて、根本の、生物としての、種としての違いを、人としての矮小さを、思い知らされる。……竜の咆哮を、それと知って許容できた者がこの場に居ただろうか。音として認識できる水準を超えているのではないか。
みーの姿が大きくなってゆく。翼が巻き起こす風に揺られながら、漸く理解が追い付く。エンさんの指示で竜騎士が作った、大広場の中央の歪な円に、みーが舞い降りる。
「「「「「…………」」」」」
炎竜に奪われた人々が静寂に傅き、惹かれながらの拒絶に、竜という存在を識る。
超越者を眼前にした希薄さに。生殺与奪の権利は奪われていることを。世界の理はすでに確定している。覆そうとすることの、なんと空しいことか。絶望は絶望を糊塗するのだ。
「ーーはっ、ははっ」
誰かが笑っていた。こんなときに笑うなんて、どこの馬鹿だ。
すべてを蹴飛ばすような野太い笑声が、僕の口から這いずって。……馬鹿は僕だったようだけど、そんなことはどうでもよくて、みーの頭の上に居るのを見たのだから当然だ。
ああ、ああっ、そこはっ、そこは! お前の居ていい場所ではない‼
「はっ、ははっ!」
放心したなら、放たれた心があるなら、今すぐ取り戻せ! 呼吸が止まっていたなら、風ごと噛み砕け! 麻痺など、それ以上の衝撃で煮え滾らせてやれ!
追い付かない、と言っていたコウさんは、未だ追い付いていないようだ。何に対して追い付いていないのかはわからないが、必要なのは時間稼ぎだと判断する。
「エンさん! クーさん! 老師!」
見澄まして、眼前の激甚に挫けていない者の名を叫ぶ。
「ーーっ!」「っぃ!」
呼応してエンさんが右に、クーさんが左に駆け出す。老師は動かず、補佐に回るようだ。
エンさんは中央から人垣を飛び越えて大鐘楼の壁に着地すると、魔力全開放で壁を駆け上がって、そのままの勢いで空に飛び出す。そして長剣にすべての魔力を収斂する体勢。
クーさんは魔力を練りながらエンさんの位置を確認。接近戦の為にみーの膝辺りに向かって跳躍する。彼女もまた、魔力全開放でいつでも発動できる状態だ。
「最炎最焔究きょ(アルティメッ)ーー」「氷華十二ーー」
みーが半歩踏み出した、刹那ーー巨体が霞んだ。
瞬間的に一回転したみーの尻尾に叩き落とされて、クーさんが地面に埋没する。回転を終えたみーは、すでに炎の息吹を上空に吐いていた。鈍い音がして、石畳が弾ける。見ると、エンさんが横たわっていて、焼けた背中が黒く変色していた。
自ら発生させた突風と熱気に煽られる人々を見下ろして、暴君は悠然と佇む。
「……ぅあ」
余りと言えば余りの一方的な展開に、唖然とする。……あ、と、いや、今のは……重心移動、だ。ついさっき、闘技場でエンさんがみーに教えていた体術である。その使い手が竜の姿であるというだけで、ここまでの力を発揮するものなのか。
「ーーくっ、くくっ、さすがは竜! 幻想の覇者にして、遍く世界の王! 一族の悲願が結実し、私の代にして本懐は成された! さぁ、在るべきものは有るべきところへ!」
上擦った声が聞こえてきたので見上げてみると、みーの重心移動の回転で転倒したのだろう、呪術師がそそくさと立ち上がって弁舌を振るっていた。
エンさんとクーさんの意識はある。二人は、立ち上がろうとしている。
倒れた兄姉の真ん中まで、魔法使いが一人、とことこと歩いてゆく。
見上げた女の子の翠緑の瞳と、見下ろす竜の炎眼が絡まって。炎竜が矮小な存在を嘲笑ったような気がして。少女は普段と変わらず、名を呼ぶ。
「みーちゃん」
ーーエンさんとクーさんは死力を尽くして立ち上がって、コウさんを見てぎょっとして、顔を引き攣らせて。深く深く、記憶に刻まれているのだろうか、みーが本能的な恐怖に震えて、反撃を試みて。呪術師は、胡乱気で何も理解していなくて。
僕はというと、注意喚起しようとして、もう遅いか、と諦めてーー。
「めっ」
両手を腰に当てて、コウさんが、みーを叱った。
真剣な面持ちであるが、その言葉と仕草に、可愛いな、というほんわかな感想しか出てこない。まぁ、こんなのんびりと構えていられるのは僕だけなのだが。
然う。コウさんがいつもより低い声を発した瞬間、魔力が放たれたのだ。
「…………」「「「「「っ!」」」」」「「「「「⁉」」」」」「「「「「っ」」」」」「「「「「‼」」」」」
魔力の影響を受けないはずの僕の肌を静電気みたいなものがぴりぴりと。クーさんは自分から後方に飛んで、建物まで吹っ飛ばされるが、見事に壁に着地。コウさんに背を向けていたエンさんは、石畳に顔面を直撃させたあと、地面に何度も体を打ち付けながら飛ばされて、不運な竜騎士二人を巻き込んで、竜の民を五人くらい転倒させて、やっとこ止まる。カレンやザーツネルさん、隊長たちのような魔力量の多い人たちが、弾かれて蹈鞴を踏む。要領のいい二人、シーソはシアを、老師は僕を盾にして、被害を最小限に抑えている。大広場にいる竜の民も、魔力量の多い人は体勢を崩したり、尻餅を搗いたりしている。
僕は、弾かれて尻餅を搗いてしまったカレンの前に、反対を向いて膝を突く。
「カレン」
呆けていたカレンに呼び掛けると、自分があられもない、はしたない格好をしていることに気付いて、慌てて居住まいを正す。何故かわからないのだが、怒っているんだか恥ずかしがっているんだか曖昧な、泣きそうな顔で僕を睨み付けてくるので、竜の尻尾を踏んでしまわない内に、カレンの気を逸らすことにする。
「後ろの、フラン姉妹の介抱を頼めるかな。とりあえず、危ないから寝かせてあげて」
振り返ったカレンが目にしたのは、立ったまま気絶している双子の姿であった。
「サンっ、ギッタっ⁉ 二人とも、どうしたのっ!」
スーラカイアの双子の能力を知らないカレンには予想もつかないことだろうが。恐らく双子は、コウさんの魔力放射に抵抗しようとしたのだろう。果たして、その場に留まることは出来たが、多量の魔力同士の衝突に意識のほうが持たなかったようだ。
そして、みー。大広場の中央付近で、雄大な体を丸めて、がたがた震えていた。あー、これは降伏の、いやさ、服従の姿勢なのかな。先程までの威圧が完全に消え去っている。降参、の意思表示なのか、尻尾がふら~りふら~りと揺られて、ちょっと可愛い。
よっぽど効いたのだろう。コウさんの途方もない魔力に対して、竜の膨大な魔力で対抗しようとしたのだろうが、所詮みーはまだ仔竜、魔力の扱い方もなっていないので、竜に踏まれた竜饅のように、ぺちょんっ、と潰されてしまったわけだ。
まぁ、こうなることはわかっていたのだが。現時点で、みーがコウさんに敵うはずがない。コウさんが何故手を拱いていたのかは気になるところだが、大勢に影響がなくて一安心である。いや、胸を撫で下ろすのは、確認を終えてからだ。
「怪我人の有無を確認。重傷者がいたら、優先して治癒魔法を施します。竜騎士と近衛隊は、引き続き竜の民の沈静化をお願いします」
オルエルさんと長老たちに任せて、僕とコウさんは、みーの許へ急ぎ足で向かう。すると、居回りに無数の「窓」が現れた。どうやら、「遠観」で今回の一件を説明するらしい。
「私が魔法を解法するより、魔法そのものを取り払ったほうが、みーちゃんに後遺症が齎されることはないのです。みーちゃんに触れてあげてなのです」
コウさんは、みーの鼻先まで寄って、みーの状態に問題がないことが確認できたのか、一旦離れて「窓」に向き直る。みーは、先程からずっと怯えたまま、抵抗する素振りを見せることはない。術者が居らず、待て、或いはお預け、の状態なのか、逃げることも出来ず、畢竟、無抵抗な小動物のようなのだが。いや、そんなことはどうでもいい。今は、みーを呪術師の束縛から一刻も早く解放してやらないと。
ああ、でも、そのですね、竜の牙って鋭くて、ばくりっ、と食べられてしまいそうで。挨拶回りのときに、もう経験しているではないか、などと言うなかれ。あのときとは状況が……くっ、みーの炎眼がぎょろ、って、その、根性無しとか言わないでくださいね。巨大な生き物を前にしたときの、根源的な恐怖というのは、克服するのは難しいんですから。
「竜の民の皆さん、こんにちは。お久し振りです、竜の国の王様を務めさせて頂いているコウ・ファウ・フィアなのです。この度は、呪術師によって、みーちゃんが操られてしまう、という事態が発生しましたが、我が国の侍従長が問題を解決したので、みーちゃんは魔法による後遺症もなく回復したのです」
コウさんの説明を聞きながら、みーの顔の横に回って、竜のほっぺ辺りに、ぽんっと手を当てる。いつもなら蟠った光の群れが圧縮されるように「人化」するのだが、呪術師の呪術を無効化したからなのか、光群が渦巻くように一点に集まって繭形になる。二度、三度と脈動すると、みーを包み込んだ光繭が散華して、粒子は空へと昇ってゆく。まるで、生命の誕生のような厳粛で神秘的な光景に、大広場や「窓」の竜の民が釘付けとなる。
本来なら、竜の民よろしく僕も見蕩れていたいところなのだが、王様の所為で侍従長の心は穏やかならざる思い……って、いやいやいやいや、そうではなくて、穏やかならぬものが、悪戯っ子なみー、みたいに暴れ回っています。……ふぅ、さて、コウさん。今、しれっと何を言いましたか? まるで今回の事件を僕が解決したような物言いじゃないですか。それに、みーに掛けられた呪術を無効化したとき、「窓」は僕の姿を映していた。「窓」を通して、これら一連の動向を観た竜の民は、勘違いすること請け合いである。
竜を屈服させたのは侍従長で、王様ではありませんよ。怖いのは侍従長で、王様は怖くないんですよ(王様の内心の代弁者、ランル・リシェ)。と印象操作を企んだようだ。ぐぅ、王様のくせして、なんと狡す辛くてみみっちぃ。おうさまをやる、と言った女の子の、高潔な魂はどこへやってしまったんですか。それと、コウさんは気付いていないようだけど、彼女が大広場でみーを沈静化させたのを見ていた人からすれば、僕が功績を横取りしたような格好になっている。はぁ、よりどぎつい二つ名とか付かなければいいんだけど。
じろりんちょ、と頑是無い魔法使いに視線をやると、にこりんちょ、と翠緑王が防御。
どうやら、純粋無垢だった女の子は、もういなくなってしまった……いや、出逢った当初から、純粋でも無垢でもなく、兄と姉に甘やかされて自侭に振る舞っていたような。
「よっと」
エンさんが飛び上がって、光繭から解き放たれたみーを抱き留めると、見事に着地。明らかな重傷にも係わらず、彼は普段と変わらない軽快さでコウさんの許まで駆けてくる。
「眠ってんよーに見えっけど、ちび助、ちみっ子んなんか問題あっか?」
「魔力を消耗して、眠ってるだけなの。対策をせずに巨大化したから、魔力がだだ漏れになってたの。回復を早める為には、一度北の洞窟にーー」
コウさんは言葉を切って、走り寄ってきたフィヨルさんから報告を受ける。
「みー様が回転された際の礫にて、頭部負傷と腕を骨折したと思しき少年が一人、団長に巻き込まれて捻挫した男性が一人、あとは軽傷が十人程。それと……、重傷が二名です」
フィヨルさんは、エンさんとクーさんを複雑な感情を宿した眼差しで見詰める。宰相と竜騎士団団長が、重傷の身で平然と場を取り仕切っているのが、常識人である彼には受け容れ難いようだ。魔力で応急処置のようなことをしているのだろうが、確かに違和感のある光景である。コウさんに治してもらえることを知っている二人は、そこら辺無頓着なわけなのだが。これはあとで注意しておいたほうがいいだろうか。
あ、クーさんが十人ほどの、群がった近衛隊の女性たちに止められて、無理やり安静にさせられている。エンさんとは違い、周期が上の同性には逆らい難いようだ。
直感、と言っていいのか、コウさんの呼吸の調子に違和感を覚えて。僕がコウさんの右肩に手を置くと同時に、みーを器用に抱えたままエンさんが左肩に手を置いた瞬間。
視界が一瞬で切り替わって、「転移」が発動したことを知る。……あれ? 思わず手を置いてしまったが、僕まで一緒に「転移」してしまったようだ。これまでなら、僕だけを残して、コウさんと、彼女に触れている者が消えていたのだが。もしかして、空間ごと転移した、とかなのだろうか。ならば「空移」とでも名付けておこう。
移動したのは、西側の大路へと続く街道の手前。突如現れた僕たちに周囲の竜の民が驚くが、今は配慮よりも拙速を優先する。見ると、みーと背格好が同じくらいの少年が、額と腕から出血していた。額の傷は小さいが、負傷箇所の所為か出血量が多い。衝突の衝撃が大きかったのだろう、腕は皮下出血で腫れて、赤と暗色の斑になっていた。
少年を支えるシアと、側にシーソも居た。どうやら、歯を食い縛って痛みと涙を我慢している少年は、シアの仲間の……ん? あれ、この少年をどこかで見たような。少しばかり頼りなげな印象がある、元城街地の子供ーーと、そこで記憶と符合する。氷焔が城街地に、竜の国への移住をお願いしに行ったとき、サーイに追われて人垣から転び出た少年だ。少年をシアが庇い、シアをコウさんが庇った。
「フィア様! 私たちに向かって飛んできた破片から、この子が庇ってくれたんです! お願いします、治して上げてください‼」
赤子を抱えた母親らしき女性が、コウさんに深々と頭を下げる。コウさんは、女性の肩に手を遣って、頭を上げさせる。
「大丈夫なのです。傷跡も残さず治してみせるのです。お子さんが無事で良かったのです」
女性を安心させるように朗らかな笑みを浮かべてから、赤子の小さな手に触れると、コウさんの笑顔が深まる。竜の民の無事を心から喜んでいる、それが伝わって、周囲の大人たちに小さな驚きの波が拡がる。皆、まだどこかで信じていなかったのかもしれない。王が民に寄り添うことなど本当にあるのかと。いずれまた裏切られて、捨てられて、弄ばれる。それがこの世界の有様なのである。そうなったとしても、同じことが繰り返されたというだけのこと。諦観して、予防線を張って、傷付かないようにして。
「サキナさんが護ってくれなかったら、赤ちゃんは亡くなっていたかもしれないのです。亡くなった人は、私には治せないのです。竜の民を護ってくれて、ーーありがとう」
ふんわりと、光が解けたような微笑。
向けられた少年、サキナが呼吸を忘れて、炎竜に中てられたような高潮。彼を支えるシアが、聖職者のような面持ちで耐えようとするが、失敗してシーソの無表情攻撃の的になっている。僕はというと、これまでもそうだったが、どうしてこんなに響くのだろう。
生まれて初めて触れた優しいもののように、振り返りたい衝動に駆られる。記憶の底に、心の裏側に、取り戻すことが出来ない暖かさに、愛しさに擽られた儚いもののように。
王様は、魔法に依らず竜の民を魅了する。周期頃の男共が、少女に見蕩れてしまったことに様々な感情を想起させて、誤魔化したり照れ臭がったりと色々忙しいようだ。
コウさんは、ときどき周期に見合わぬ表情を見せることがある。自裁を望んでもおかしくない長い痛苦の日々を過ごしてきたことが、深い情感を生んだのだろうか。
「あ、その……、ぼくはこれまで守ってもらってばっかりだった。あのときもそうだった、なにもできなくて、足をひっぱることしかできなくて。でもだめだ、もらってばかりじゃだめだ、ぼくだって……。だから決めたんだ、フィアさまみたいに、シアみたいに、だれかのために、みんなのために、ぼくもなるんだって……」
たどたどしい言葉で一生懸命に心の内を語る少年を、王様は抱き締めた。
「見ておくと良い」
肩に手を置かれたので振り返ると、呪術師を引き摺ってきたのだろう、男の襟首を掴んで気怠そうにしている老師が立っていた。見た目は若いが、中味は老人という彼には重労働だったのだろう。意識を失っているらしい呪術師には、「軟結界」が張られているようで、半透明の膜に全身を覆われていた。そういえば、コウさんの魔力放射後、姿が見えなくなっていたので、呪術師のことをすっかり忘れていた。魔力量は多いようだったから、吹き飛ばされるかして、みーから落っこちたのだろう。見たところ、怪我はないようだが。
コウさんに視線を戻すと、硬直してがちがちになってしまった少年の頭を撫ぜながら、翠緑王がその魔法を竜の民に詳らかにすることを語っているところだった。いや、詳らか、というのは違うのだろう。少女が授かった、或いは押し付けられた、ーー本当は意味さえないかもしれない、そんな魔力の行く末を、他者が識ることなんて出来ない。ただ、見て、感じて。魔力の源である女の子のことを、女の子に、近付いて、手を差し伸べて欲しい。
「竜の民の皆さん。これから竜の国に、竜の狩場に治癒魔法を掛けるのです。少し眩しいかもしれませんが、動かず、心を穏やかにして、……受け容れて欲しいのです」
「窓」に向けて紡がれた言葉の終わりに、コウさんから、光の奔流が紐解かれた。刹那、衝撃波のように光が地を疾走って、黄金に染め上げる。
溢れた黄金の魔力が、大広場に流れ出して、竜の民を押し流そうとするが。それは水のようでいて、風より軽く、ほんのり暖かい。何度見ても、幾度触れても、魔力の影響を受け難い僕でさえも、魔力の根源のようで、生命の有様のようで、……まただ、また、空へと手を伸ばす、あの憧憬に似た何かが胸を満たす。
光の粒子が空に立ち昇る。「祝福の淡雪」とは逆に、光は空へと還ってゆく。
コウさんの魔力は、心地良いだけでなく、人の最も深いところに触れているような。人の生命の根幹にまで根付いた魔力が、橋渡しの役目を果たしているのかもしれない。
「ーーーー」
ーー風は夢心地に、姿を隠している。光は揺れていない。見詰めている人の眼差しが、心が揺れている。高つ音に輝く星に、願いを掲げよう。君にだけ見える、君にしか見えない、空の頂に、願いを捧げよう。ふと、子供の頃に聞いたへっぽこ詩人の唄を思い出した。
憧憬や懐旧に触れるような、抉るような光景に、涙を浮かべる竜の民もいるようだ。
人々の感嘆の声と、眩さに見上げてみると、「窓」から光が漏れ出ていた。「窓」は、上空から竜の国を映しているようだった。山脈に囲われた大地のすべてが光に染まって、光の湖となった淡光の情景は、世界中の優しさを集めて創ったような、言い知れぬ切なさを催す。これが、人の手によって成されたということが、そう思わせるのかもしれない。
僥倖、という陳腐な言葉が思い浮かんだので、明ける、という意味を込めて、まぁ、それもいいかな、と七祝福の一つ「暁光の竜海」と名付けて……、あ、いや、竜の国だし、「赫灼の海」のほうがいいだろうか、って、そんな言葉遊びをしている場合ではない。
「相棒、どーだ? 俺ん背中ぁ、つるっつるーのむきむきーか?」「心配いらない。いつも通りの暑苦しさ。竜の民の目を汚す前に、さっさと服を着ろ」「あーはいはい後でなー」
近衛隊の厚意と好意の二重攻撃から抜け出してきたらしいクーさん。エンさんとの軽妙な遣り取り。重傷だった傷も完治したようだ。これなら、他に傷を負った人も問題なく治ったはず。見ると、サキナの頭部と腕の傷も、まるで怪我など始めから存在しなかったように跡形もなく消え去っていた。
ーーこれで、一件落着なのだろうか。呪術師は捕縛。みーは無事奪還。怪我人の治癒完竜。コウさんの魔法を体感した竜の民の目に、王様を恐れるような険しさはなく、むしろ暖か味があることを感取する。だのに、なぜだろう、退っ引きならない事態が迫っているような……。何か見落としていることはあっただろうか。
コウさんの顔が晴れていない。曇り空、というだけでなく、雷雨を予感させる不穏さがある。先程抱いた危惧と、今回の事件と、それに符合する過去の事柄を思惟の湖に浸してゆく。だが事態は、悠長に思考することを許してくれなかった。
大広場で、何人かが咳をし始めた。その数は増えるばかりで、咳が止まらなくなる人も出ている。「窓」の向こう側でも、同じような光景が幾つか映し出されていた。
「フィア様……、これは……?」
尋ねるオルエルさんに、重ねるようにしてコウさんが詳説してゆく。
「これは、ラカールラカ平原の山岳よりの地域で、幾度か発生したことのある疫病なのです。恐らく、呪術師は利用されたのです。疫病に罹患させられた後、当人の与り知らぬところで疫病をばら撒くことになったのです」
コウさんが大仰に杖を振ると、噴水を中心に大きな「結界」が張られた。すると、咳をしていた人たちが、忽ち回復してゆく。
「皆さん。今、竜の都の各竜区と、竜地に『結界』を張ったのです。体調に異変を覚えた方は、『結界』に入れば、治るのです。『結界』に入っても症状が悪化する方は、『遠観』の『窓』に向かって呼び掛けてくだされば、『転移』で私が迎えに行くのです」
「窓」に向かって切々と語り掛けるコウさんの厳しい横顔が、一瞬泣きそうに歪んで見えたのは、目の錯覚だったのだろうか。ーー竜の国が、一気に慌ただしくなった。
コウさんの対処が早かったのが功を奏して、感染したのは三人だけだった。いや、だけ、という言い方は良くない。感染者が出たことが問題だし、感染した人からすれば、数の少なさなど関係ないのだ。コウさんが「転移」で伴って広場に来たのは、二人だった。竜の背骨の居住地に居た初老の男性と、竜の肩で店番をしていた老婆。それと、大路周辺の住宅街から、娘を抱えた女性が駆け込んできた。そして、最後の一人が、感染源である呪術師だった。彼は意識を取り戻したが、朦朧としていたので「軟結界」は解いてある。
初老の男性と老婆に見覚えはなかったが、コウさんと同周期くらいの少女に見覚えがあった。竜饅事件で、みーを助けようとした子供たちの、魔法使い役(?)の女の子。子供たちを守ろうとして僕の前に立ちはだかった、不思議な色合いの、赤茶色の瞳が印象に残っている。今は目を閉じて、急遽用意した枕と布の上に横臥させられて、苦しげな浅く速い呼吸を繰り返している。症状は、四人とも同様に疲弊具合が激しく、「結界」の中に居ても回復の兆しは見られない。
疫病がこれ以上拡散することはないと告げてあるので、大広場から立ち去る人は少なかった。現況は、「窓」を通して観られるのだが、それでは足りず、大広場に足を運ぶ人が引きも切らない。仕方がないので、竜騎士と近衛隊に封鎖と警備を任せてある。
「フィア様っ、……どうか、どうかこの子を、シャレンを助けてください! 私ならどうなっても構いません、どうか、どうかっ、お願い致します!」
顔にまだ幼さが残る女の子ーーシャレンの母親が、コウさんに泣いて取り縋る。
四十路に見えるが、実際には三十路くらいだろうか、母親の手足は、木の枝に譬えてしまいそうになるくらい、細く不健康な土気色だった。城街地の貧困層に、似たような痩せ細った者たちが多くいたが、竜の国で栄養状態が改善されて、血色は良くなってきている。恐らく、母親は何らかの病を患っているのだろう。
「シャレンが……、シャレンだけが私の……、この子がいなくなってしまったら、私にはもう、なにも……」
手から力が抜けて、倒れそうになる母親をコウさんが抱き留めて、シャレンの横に座らせる。母親は、娘に抱き付こうとして、抱き付けばシャレンが余計に苦しむことになると思ったのか、娘の手をそっと両手で包んで、涙をはらはらと落とす。
「御母堂。治癒魔法は、病には効果が薄い。初期症状ならいざ知らず、こうも病状が進行してしまっていては、手の施し様がない。薬はなく、あったとしても、今から調合したのでは間に合わない」
母親への宣告を自らの責とした老師が、見立てを淡々と感情を交えずに語る。
治癒魔法を得手とし、薬師としての技能を併せ持つ老師の見立てなら間違いないのだろう。病を治す魔法は存在しない。理由はわからないが、コウさんが研究するのを老師は許可していない。恐らく、生命の根幹に係わるような何かがある為、禁術扱いなのだろうが、本当のところはわからない。この分野に於いては薬師のほうが数歩、先を進んでいる。
「……そんな」
母親は、這い寄る絶望に、最後の糸を切られたように、意識が朦朧としている娘の体の上に覆い被さる。初老の男性と老婆に付き添ってきた身内の人々も、老師の言葉を聞いて、悪意ある重たい空気に圧し掛かられたように項垂れてしまう。
「……あの、フィア様。本当に手立てはないのでしょうか?」
竜の民を代表してだろうか、バーナスさんが最後の希望に縋るように、人々の底意を言葉にする。そう、彼らは思っている、考えている。翠緑王なら、どうにかなるのではないかと、助けてくれるのではないかと。ーー信じている、信じたかった、のかもしれない。
城街地という、まつろわぬ者たちが集められた場所で、人の悪意が渦巻き、欲が交錯し、明日を想うことも出来ず、見えぬ壁が絶えず人々に圧し掛かっている。成功と失敗も、生と死も、虚飾と怯懦も、希望と諦観も、夢と現実も。混在して磨耗して、神々に祈ることさえ忘れてしまった人々が、竜の国という場所を得て、何を思ったのか。
家畜の餌を白魔病で失って、竜の国に遣って来た遊牧民。失われる民の終着地として竜の国を選んだダニステイル。様々な理由から、竜の国を望んだ少数民など。皆が何かを求めて、自らの意思で選んで、竜の国へと、竜の民へと、絆を結わえた。
コウさんに一切の責任はなかったとしても、竜の民は、裏切られた、と思うかもしれない。勝手に信じて、勝手に裏切られたと思って。ーーでも、それは僕たちが現出させてきたものでもあるのだ。竜と人の関係のような危ういものを抱えながら、未だ気付いてさえいない危難に震えながら、歩き出してしまった。女の子と一緒に歩いてくれる、そんな優しい人がたくさん集まってくれればいい、という安易な正義感を拠り所にして。
僕が魔法使いに差し出したのは何だったのだろうか。もう一度、顔を上げて欲しいと願った、想いの源泉は何だったのだろうか。ああ、おかしいな。そんな前のことではないのに、今とあのときの間にある、短い時間が(とてもながくて)、大き過ぎる想いが(ことばにできなくて)、答えに辿り着くのを邪魔している。ーーそうなんだろうな。邪魔しているものの正体に、然したる苦労もなく心付く。余りにわかり易くて、単純だったから、振り返る必要だってなかった。
空に手を伸ばしそうになってしまった。
竜の国は、幻想の上に成り立っていた場所なのかもしれない。幻想なら、砂の城のように、些細なことで崩れ去ってしまう。そこにあったことさえ忘れてしまう。
ひとりぼっちのおうさま。
暖かな眼差しの、翠緑の瞳の魔法使いから、言葉が零れたーーような気がした。
それは、微かな風にも攫われてしまう儚いもので、竜の咆哮ですら揺るがない確固たる覚悟を伴うものだった。ああ、僕の内はぐちゃぐちゃだ。喜んでいるのか、悲しんでいるのかわからない。未だに、魔法使いは望んでいる。他人を受け容れることを怖がって、楽なほうへ逃げたがっている。少女にその意思はなくとも、彼女の存在そのものに根を張っている魔力の軛が、過去の痛苦を、今に至る魔力の弊害を、膿んだ傷口のようにじくじくと、深い場所を蝕んでゆく。
「治します。四人は、竜の民は、竜の国に係わった人は、私が治します。治してみせます」
翠緑の瞳が、穏やかな眼差しのまま、輝きだけが増してゆく。
余裕がない所為か、コウさんの口調が硬くなった。老師が人知れず嘆息する。近くにいた僕に、懸念を伝えようとしたのかもしれない。
コウさんの宣言を聞いて、シャレンの母親がゆっくりと顔を上げて、信じられないものを見るような、わずかな恐怖を宿した面持ちで、幼い魔法使いを凝視する。
「そ、そのようなことが、出来るの……でしょうか?」「語弊がありました。正確には、治す、のではなく、移す、です。四人の病を、私に移します。ですが……」
コウさんが憂慮の表情で言葉を詰まらせると、叫ぶように母親が申し出る。
「それでは、私に移してくださいっ! この子だけでなく、全員の病でも構いません!」
「あなたなら、わかるでしょう。魔法は、心象が重要。他者という曖昧な器ではなく、慣れ親しんだ自らの体を媒介にしなくては、魔法の成就は覚束無いということに」
「……それは、……でも、でも……」
母親は項垂れて、再び我が子に視線を向ける。彼女は、コウさんの言葉を理解していた。どうやら、先ほどの母親に垣間見えた恐怖は、魔法への造詣の深さに依るものだったらしい。母親や老師の様子から、やはり病気を治すというのは、魔法的には有り得ないことのようだ。コウさんに成算はあるのだろうか。彼女には、通常の肉体と魔力体がある。病でどれだけ肉体が損傷しようと、死ぬことはないのかもしれないが。どれだけの負荷が掛かるのか、四人分の病、苦痛の度合い、そもそも自らに移した病を治すことが、消し去ることは可能なのか。……はぁ、聞いても教えてくれないだろうな。これまで何度も見てきた、頑固なところ、というか、意固地なところのある女の子の顔を見て、半ば諦める。
他にも懸念がある。コウさんは、魔法の成否に係わるらしい部分で、言葉を濁していた。確実に成功する、その確信は彼女にもないようだ。そして、魔法に心象が重要であるなら、自らに芽生えた疑念は、その枝葉を、根を伸ばして、魔法の成否に影響を及ぼすかもしれない。それでも、もはや遣らないという選択肢は、王様にはないようだ。
「姫様! まさか御身を犠牲になさるおつもりですか⁉」
「いえ、大丈夫です。私が死ぬようなことはありません。それに、この疫病は敵の攻撃です。竜の国への攻撃であるなら、私が払わなくてはなりません」
すっと両膝を突いて、シャレンから離れるよう母親を促す。
ーーそんなとき、よく知っているが、明らかに相違のある凛とした声が、緊迫した事態の推移を見守っていた人々のしじまに響いた。
「ーーエンよ。我を降ろせ」
その声は、エンさんの腕の中から聞こえてきた。彼に抱えられている、みーの口から発せられていた。その炎眼は、いつもの可愛らしい、好奇心丸出しの、無邪気さに揺れている、というようなことはなく、周期を経た知性を感じさせるものだった。どこかスナに似ている、と眼差しの清澄さに既視感を覚えた。
「ん? ん~、りゅー、か?」
……りゅー? りゅう、かな? エンさんの口から出た呼び名に、どう反応したものか。 「みー」や「ちみっ子」ではなく、「りゅー」、或いは「竜」とは何を看破、或いは汲み取ってのものなのだろうか。
正解したらしいエンさんの頭を撫でると、竜の頬が緩む。みーの笑顔に似ているが、やはり違う。慈しむような、可愛がるような、見守る者の情感がある。
「そうさな、そんなところだ。我のことは、百竜とでも呼ぶが良い」
謎存在のりゅーは、自ら百竜と名乗ったが。その言い方だと、偽名の可能性があり、本当の名は別にあるかもしれないと。あー、まさか、ミースガルタンシェアリ? と蓋然性のある名が思い浮かんだところで、嘗てみーが言っていたことを思い出した。
まだ竜の国を造っていたとき、「やわらかいところ」対策でコウさんと見詰め合う、ということがあったが。クーさん曰く、僕の、無遠慮な笑顔、を見て、みーは自らの内に生じた「むりゅむりゅ」なものは自分のじゃない、と言っていた。あのときは、これまで生じたことのない感情を持て余しているのではないか、と思ったが、もしかして本当にみーではない存在がみーの内に住まわって、影響を与えていたのだろうか。
「……ひーちゃん?」
エンさんの腕から降りて、コウさんの向かい側、寝かされている四人の足が向けられている場所に百竜が立つと。みーであるがみーでないらしい竜を見て、コウさんは首を傾げた。これは慮外、彼女は百竜の存在に気付いていなかっただけでなく、今以てその存在を推し量れていないように見えるのだが。一方、百竜のほうはというと、ひーちゃん、と呼ばれて、困ったような、それでいてむず痒さを我慢するような表情で、
「我が友よ、戯れるは後でも良かろう。それより、わかっておるのだろう。そなたは、人を大切に想い過ぎる。人と世界を同等と捉える、斯くの如き心象を抱くそなたが、運命を綾なすには如何程の魔力が必要か。この世界を鳴動させる必要があろうて」
忠告、と言うには重大過ぎる内容をコウさんに伝える。
「……この世界のすべての魔力を、世界魔法と呼ぶべき規模の魔法が必要になるの。でも、制御できるかわからないの。もし失敗したら、この世界に致命的な傷をーー」
「なればこそ、我が居る。そなたの及ばぬところは、我がすべて繕ってやろう」
傲岸不遜。その言葉を体現した百竜は、余裕さえ醸して、翠緑王を唆す。
「我が友よ。中途半端なことをしてくれるな、救うのであれば、すべてを救ってみせよ。竜頭竜尾有竜無竜、須く粗相も遺漏もなく、十全を成さしむるべし。思い知らせてやるがよい、この世界に。そなたを生んだ、この世界に。世界がそなたを決するのなら、そなたが世界を決してみせよ。我らなら、それが能う」「…………」
ひとりぼっちのおうさまーーなら、どんな顔をするだろうか。
「あー、いちおー聞いておくぞ、ちび助。もー後戻り出来ねぇぞ、いーんか?」「前も後ろも関係ない。そこにコウが居るなら、そこがあたしたちの居るべき場所。あたしたちを巻き込んで良い。そして、巻き込むのであれば、全力で、好きなように」「…………」
ひとりぼっちのおうさまーーなら、どんな答えを返すだろうか。
「弟子の失敗は、師匠の責任でもある。老い先短い身で、無責任なことになってしまうが、命数が尽きるまでなら、どんな荷でも一緒に背負ってあげるよ」「…………」
ひとりぼっちのおうさまーーは、ずっとひとりぼっちでいられるだろうか。
童話の中のおうさまは、誰よりも強くて、誰よりも賢くて、誰よりも優しくて、誰よりも正しかった。独りだけで、皆を護って、豊かにして、笑顔にして、幸せにすることが出来た。そんなことが出来たおうさまは、出来てしまったおうさまは、本当に独りでいたかったのだろうか。
「みー様なら、こう言うかもしれませんね。『やうやうやうやうやうっ、こーといっしょじゃなきゃいやなのだー。こーじゃなきゃだめなのだー』と。仔竜のみー様を泣かせるなんて、教育係として失格ですね。それでは僕と同じになってしまいますよ?」「…………」
女の子が憧れた、ひとりぼっちのおうさまは、本当に女の子がなりたいと夢見た姿だったのだろうか。女の子は物語の「おうさま」にも、少女が望んで、なりたいと願った「王さま」にも、なれないというのに。「王様」は、夢見ていた。
誰も傷付けないでいられるなら、誰かに必要とされるのなら、独りでもいい、独りがいい、わかってもらえなくてもいい、わからなくていい、誰かの為に、皆の為に。近付けば気付いてしまう、知らないままなら怖くない、誰もいなければ、何もなくならない。
誰かがいればいい、その誰かが、誰であるかは厭わない。自分が、その誰かを認めていないのに、誰かに認めて欲しい。誰かの為にと、でも、自分の為に、の誰かは要らない。何一つ失うことなく、すべてのものを与えられるのなら。
ーー物語の最後、命まで使い果たしたおうさまは、すべての人々を幸福にして、独りで逝ってしまう。そのように生き抜くことが出来たおうさまは、幸福だったのかもしれない。でも、おうさまは、残された誰かのことを知らないまま。おうさまを喪った人々のことを考えないまま。おうさまが生きていたときに、おうさまのことを想っていた人々のことを顧みないまま。
ひとりぼっちの王さま。
女の子は、おうさまに、王さまに、なりたかった王様は、膝を突いて、目を閉じたまま身動ぎ一つせず、掠れた声を漏らす。
「…………」
おんなのこはなみだをながしませんでした。
ゆっくりと、殻を破った雛鳥が初めて世界を目にするような、色付いた女の子の瞳。
僕は馬鹿なことを考えている。そう思っていても止めることなんて出来ない。
独りになれなかった王様には、助けてくれる、笑顔にしてくれる、幸せを分けてくれる、側に居てくれる、人が、竜が。凄く強くて、でも弱くもあって、そこそこ賢いけれど、狡賢いところもあって、優しいけど、苛めっ子なところもあって、正しいというより頑固で頑迷で、でも一途で純粋なところもあって。そんな王様の許に、皆が集まった。
始めは老師一人。エンさんクーさん。僕にみー。シアにシーソに子供たち。黄金の秤にエルネアの剣。城街地に遊牧民、ダニステイルに少数民。他にも、様々なものを抱えて遣って来た人々。
竜の狩場に、竜の国に集った、竜の民。
魔法には心象が重要、と幾度も聞いてきたが、本当の意味を理解していなかった。
コウさんの疑念を払拭できただろうか、いや、僕らで吹き払えないなら世界のほうが間違っているのだ。と、そのくらい楽観的であったほうが、きっと良い結果が得られるに違いない。外野は楽なものだ。見ているだけでいい。見ているだけしか出来ないから、苦しくもあるけど、そんなもの知ったことか。僕らの存在が彼女の一助となる。彼女の魔法の支えとなる。やっぱり、僕は馬鹿なことを考えている。
魔法が使えなくても、魔法が使えるじゃないか。
「さぁて、そんじゃあ、始めっとすっかぁ」
大広場から、「窓」から、様々に思いを乗せた竜の民の、幾万の視線を軽々と受けながら、妹たちと弟の兄が、寝かされている四人の右側に移動する。
そして、大音声で刻み込む。
「竜騎士よ、今より正式な騎士として任命する! 竜官、職員、近衛隊、衛兵、警備兵、御者に操者、商人、職人、坑夫に農民、猟師に遊牧民、技師に酒造に狩猟、鍛冶に畜産、魔法人形、飯屋に修理、療養中に休み中に引退、あ~、え~、がぁ~、もろもろ一切合財全部ひっくるめて、竜の国んいる奴らぁ、今日からお前らぁ、完全無欠ん竜の民だ‼」
思い付くままに言ったのか、相変わらずの説明下手である。でも、変に着飾った言葉より、彼の性格を表すような一本木の、真心なのか馬鹿なのかわからないような言葉のほうがエンさんには似合う。
対面、左側に歩いていったのは、兄の妹で、妹と弟の姉でもある女性だった。
そして、凛とした声を刻み付ける。
「これより竜の国の翠緑王が、その意を世界に示される! 剣持つ者は、掲げよ!」
クーさんとエンさんが同時に抜剣し、天に向けて、高々と剣を掲げる。遅れて僕やカレンが、そして竜騎士や近衛隊が倣う。大広場に、「窓」の向こうに、一斉に掲げられる数百の銀閃が天を貫く。
「志ある者は、意思を掲げよ! 力ある者は、腕を振り上げよ! 未来を見据える者は、眼差しを! 生の尊さを識る者は、魂を! 何もなくば、自らに誓え! 竜の民なくば、竜の国はなく、我らなくば、竜の民はない! ここは竜の国、我らの国ぞ!」
老師が胸に手を当てると、竜官や職員たちが倣う。各所で腕が振り上げられ、意思が眼差しが魂が、竜の咆哮の如き威勢となって、世界に放たれる。
稍あって老師が僕の背中を、コウさんの背後に向かって軽く押してくる。自分の意志で歩いてゆけ、ということだろう。
さして距離があるわけではない。コウさんの外套に覆われた小さな背中が、少しだけ大きくなる。杖を置いて、石畳に手を突いて、祈るような姿勢のままの少女が、すぐ近くに。
正面に百竜、右にエンさん、左にクーさん、竜の民に囲われて。どうしたことか、高揚しているのに、酷く静かな僕の心が、待ち望んだ言葉を浮かび上がらせる。
そして、僕が、僕らが刻み始める。
「この地に、この場所に、炎竜の御座す狩場に! 人が集い、絆を結わえ、願いを同じくし、竜の民としての覚悟が伴われ、必要なものがすべて揃った!」
真後ろに立っているので、表情を窺い知ることは出来ない。いやさ、ここで想いに囚われている場合ではない。締め括りの言葉を紡がなくてはならないのだ。
ここに至る物語は、コウさんを生かした老師から始まった。なら、責任を取ってもらわないといけない。竜の国が果てるまで、消えることのない痕を刻んでしまおう。
「よって今ここに、竜の国、グリングロウ国の建国を宣言する‼」
有らん限りの想いと願い、有りっ丈の意思と力を籠めて、空に放った。
エンさんとクーさんが、竜の国の正式名称に失笑噴飯。後ろで、ぎょっとしたらしい老師の気配が、建国に立ち会った竜の民の、解放された人々の気配が、
「ーーっ!」
魔力に、魔法に、空に、大地に、世界に、塗り替えられる。
瞬きするほどの間に、無尽と等しき金色の余波に巻かれていた。
これは、完全に規模が異なる。先程の治癒魔法は竜の国に施されたものだったが、コウさんから、いや、コウさんそのものが、人々の何もかもをも巻き込んで、竜の国から大陸へ、世界へと、すべてを覆い尽くす。
空に向かうほど深くなる真金の海に、中空に舞い散る風を孕んだ金の波頭に、地を梳る金の流砂に。人々は、自らの内にある魔力の輝きを、世界との繋がりを実感する。
コウさんの体から止め処なく溢れる、葉っぱのような、羽のような形状の淡い金の粒子が、空へと昇り、地を奔り、風に馴染んでゆく。
天上にさざめく脈動は、循環系の役割を担っているのだろうか。世界にとっての風がそうであるように、魔力という魔力の源泉にコウさんの力が及んでいるのだろうか。
ほんのり暖かい、コウさんの魔力……、それが今や、触れた先から焦がれて、熱に浮かされているようだ。魔力とは何なのか、ーー魔力を持たない僕がそれを考えるのは烏滸がましいことだろうか。言葉を得た人類が、言葉を得る前の人類を本質的に理解できないように、魔力に染まらない僕にしか見えないものがある。と、思いに揺られて、心付く。
僕は、コウさんの魔法が見えている。見ると、老師が僕の肩に手を置いていた。
そうだ、僕たちは、見届けなくてはならない。僕らの王様が、この世界を使って、世界とは比べ物にならないくらい、ちっぽけな人間の運命に介在しようとしている瞬間を。
人の運命の綾は、世界に匹敵する。そう考えれば、人間も捨てたものではない。
「くっ、くくっ、ははっ、さすがは我が友! なれど斯様な荒っぽさか」
コウさんを核として、拍動する世界を仰ぎ見る百竜が、最後には苦笑を交えて、
「くははっ、我だけでは足りぬ。これは無理、どうにもならんて」
みーよろしく、嫌いな食べ物のように、ぽいっと投げ捨ててしまった。因みに、投げたものはコウさんの魔法で僕のお皿へ。みーは、彼女に優しく叱られて、次からは我慢して食べるようになった。コウさんがいないときは、相変わらず僕の皿に移してくるのだが。
「ーー、……っ? ……うぇ?」
へ……? ……はぁ⁉ いやいやいやいや、今更何を言ってるんでございましょうや! 大上段に請け負っておきながら、諦めなさるとはこれ如何に⁈ やいやいやいやいやい、餅つけ、僕。うぐっ、いや、落ち着け、僕。失敗すると、世界が危ういかもしれない事態なのだが、だからこそ冷静に、穏便に、竜の心で……すみません、無理です。
くぅ、ここはコウさんみたいに、優しく叱ったほうがいいのだろうか。
「主よ、斯様な顔で見てくれるな。そこらの考え無しと一緒にするでない」
僕の間抜け面が気に入ったのか、百竜はくつくつと笑う。無邪気なようで、﨟長けた様に、こんな状況だというのに、炎竜の仕草に魅入ってしまった。
「主の信頼を損なうは、本意ではない。然らば、我が勤めを果たすとするか」
みーの、いやさ、百竜の瞳がぎょろりと、大きく輝きを増した。
それは、竜眼、としか言い様のないものだった。恐怖よりも、その鮮烈というか峻烈というか、深淵の炎を宿した竜の瞳に惹かれて、身が竦む。竜眼には、人を惑わす力があると伝説にあるが、本当なのかもしれない。
爪が、牙が伸び、角が大きさを増す。外套を押し退けて、鱗に覆われた赤い尻尾が露出する。竜の本性を人の身に宿した、「半竜化」とでも表現すべき状態になる。炎の文様が浮かび上がるように色付き、竜を体現したかのような、ああ、いや、竜なのだから、その言い様はおかしいか、ではなく、何故だかわからないが、その懐かしいような、僕の内の何かを揺さ振るような感じ、というか感触に、魂を刈り取られそうになる。
そして、百竜は僕を見た。僕の向こうにある、世界を見ていた、のかもしれない。
「聞こえておるか、役割に従属せし竜共よ! 眠らば、起きよ。腑抜けは、灼かれよ!
汝らの存在、有様を想起せよ! 原初にして、世界を具現せし、魔力の嚆矢よ!
我、百竜の名に於いて命ずる! 疾く在りて、調整者たる胆気を示せ!」
百竜の咆哮が轟く。
だが、それを言葉として認識できた者がどれだけいただろうか。
世界が震えた。
百竜の飛檄に呼応して、世界に在るすべての竜が、千の咆哮で万物を揺るがせた。
重なり合うことで、混じり合うことで、より深く、澄明な響きと、波紋と、百竜を要とした竜の息吹が循環する。人の身で感受できるものの少なさに、辟易する。竜に満ちた空は遥かに遠くて、人は皆、零れ落ちている。今なら、手を伸ばしてもいいのだろうかーー。
「北だけじゃない! 南も西も、何て数だ⁉」「すごい……、竜の咆哮が重なって歌っているみたい……」「竜の都? ううん、竜の国どころじゃない、世界を包んでる?」「ああ、すべての竜が、フィア様の想いに報いてくださっている!」「竜の国の幕開けだ!」
竜の民が、存分に「竜の祝福」を浴びている。ああ、然ても、穴だらけじゃないですか、コウさん。先程の老師の言葉が、身に沁みる。
竜の魔力に満ちている。須く魔力の潮が積み重なって溢れて、波及して埋め尽くすべき場所で。世界が果てを忘れたとき、最も遠くのものが最も近くのものを思い出したとき。
魔法使いは世界となる。
「ーーこれは⁉」
珍しく、老師が狼狽して声を上げる。然し、そうなるのも無理はない。僕に触れているので、僕の意識を共有してしまったのだろう。老師の能力を拾い上げて、強化したので、彼に負担を強いることはないはずだが。まぁ、世界に拘泥するには、人の身には辛かろう。
……僕は、僕のはずだが、何かが違う。いや、違うのではない、これこそが、僕なのか?
竜書庫から、氷竜が飛び立って、磨き抜いた氷柱のような鋭く尖った咆哮を発する。
竜の国周辺から大陸へ、それどころか世界に遍く竜のすべてが、世界そのものとなったような僕の意識が、感覚が、千の竜を睥睨している。
わかる。千の竜に染められた僕が、何もわかる必要がないということに。
世界に囚われようとしていた意識が、暖かな、懐かしい気配に惹かれる。
なんて優しい顔をするんだろう。
千周期の離別の末に出逢えたような、嬉しそうなのに哀しそうなーー。世界を睥睨しながら、僕を見遣る百竜のーー。何もわからないのに、……何もわからないから、かな。
一人の魔法使いと千の竜の饗宴は、世界に行き渡った翠緑王の魔力が突如弾けて、世界に還るまで続いて。
人々は目を、心を覚ます。世の中の現実や常識といったものの正体に気付いてしまった子供のように、色褪せた世界を残したまま、僕らの手許に返ってきたのだった。