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竜の国の魔法使い  作者: 風結
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六章  世界と魔法使い 前半

   六章  世界と魔法使い


 全知全能。神々がそうでないことは、すでに結論が出ている。でも、そんなことに興味がない人からすれば、祈りを捧げる、願いや慈悲を乞う対象には、何でも出来る能力が具わっていると信じたいのかもしれない。さて、では竜はどうだろう。

 二百周期。言葉にすると短いが、人の歴史に埋もれるには十分な期間、人と竜の交流は希薄になった。ミースガルタンシェアリに、「ミースガルタンシェアリ」であるみー。竜の国を造っているときから、大きな懸念材料だった。竜には竜の役割があり、人と交わるべきではない。とそう考えたこともあった。

 竜とは何か、何者なのか。それに答えられる人は少ない、或いは答えられる人間などいないのかもしれない。コウさんが、そこら辺のことをまったく気にしていないようだったので、それに引き摺られてしまったということを否定するつもりはない。

 ぶっちゃけてしまうと、コウさんは実は何も考えていなかったんじゃないかと今では思っている。みーが居たので、ただ仲良くなっただけ。皆とも仲良くなれるといいな。とそんな風に思っていた? 竜の狩場に遣って来たあと、ミースガルタンシェアリと交渉しなければならないと、怖じ気ながらも頭を悩ませていた僕が馬鹿みたいではないか。

 一つわかっているのは、二百周期の断絶がなければ、みーが受け容れられることはなかったということだ。逆に、その深長な周期が、斯様な状況を作り出してしまったのかも。

「…………」

 再度、確認をする。「みー様と愉快な仲間たち」ーー店名である。元々は菜饅頭を売っているお店だったが、竜の実を使用した「竜饅(りゅうまん)」を売り出すようになってから、甘味処として有名になった。あえて言葉にするなら、竜の実は「魔力食材」である。竜茶や樹液もそうだが、こちらが普通に取り扱い可能なのと異なって、竜の実は魔法料理の技法が必要になる。実に詰まった魔力を失わせることなく、餡に練り込む作業。その技術を持ち合わせていたのが「みー様と愉快な仲間たち」の親方だけだったので、竜饅を販売する唯一の店、ということになったのだった。

 みーは毎朝、竜の実を届けて、その報酬として三個の竜饅を貰っている。

 一日五十個限定、一人三個まで。無論、大人気で開店前に売り切れ。一つ音に、並んでいる人に予約の札が配られるのだが、発売以降すべての札が無くなっている盛況振りである。竜饅を七祝福の一つに数える人もいるが、七祝福とは別に、みー様の贈り物、として別枠で扱うのが現在の主流なようだ。「王様のお菓子」も贈り物の枠に分類されつつある。 さて、竜饅だが。生地はふっくら、餡はしっとり。食した人によると、食べたら幸せになれる味、なのだそうな。舌を幸福にする甘さだけでなく、餡の中心に入っている竜の実の、ぷちぷち、の触感が堪らないのだという。コウさんによると、このぷちぷちの正体は、魔力生成時における残留魔力気泡と竜の魔力による変異種の選択的透過性……云々、らしい。何でも、適切な用語がないので説明し難いのだとか。まぁ、何にせよ、潰すと旨味たっぷりの果実感が人気の秘訣(ひけつ)である。竜饅の魔力は、竜の雫と同じ効果があるとされている。そして、何より垂涎(すいぜん)の品とさせているのが、生地の表面にでかでかと押された焼き印である。世間の人々が「みー様印」と呼んでいる、笑顔のみーが可愛い一品である。

 ーー説明が長くなったが、この度の肝要はそこではない。

 店の前に敷物が引かれている。大路から多少離れているが、人通りは多い。これから仕事に赴く人たちが、祝福のお裾分けで笑顔になって、今日も一日頑張るぞ、と気力満杯(ふくふく)

 敷物に座って、落ち着かない(そわそわな)みー。竜饅を購入した人が、みーの対面に座って竜饅を半分こにすると、片方をみーに差し出す。そして、二人一緒にぱくり。一緒にほんにゃり。

 仲良く竜饅を食べる二人の顔は、幸せに震えて液状化しそうである。いや、それは言い過ぎかもしれないが、みーに竜饅を半分捧げた、もとい上げた人の目的のもう半分が果たされるのは、ここからである。食べ終えたみーは、寄贈者に感謝のすりすり。「竜の祝福」は基本、みーの撫で撫で、なので、すりすりは大盤振る舞い、と言っていい。幸運と幸福のやんややんやでみー日和。と、みーの笑顔に引き摺られて、僕の頭もお花畑である。

 本来なら、発見した瞬間に踏み込むべきである。だが、祝福を受けられない人がでるのは本意ではないので、こうして待機しているしだい。

 そして、最後の購入者が……って、お婆さん⁉ あに図らんや敷物に座ったのは、遊牧民の老婆だった。コウさんと一緒に遊牧民一行を出迎えに行ったとき、みーに過剰で限外ななですりをされて、危うく逝ってしまいそうになったあの人である。

「えーう、りゅうのはっぷん!」「きょほーっ」

 いつの間に治癒魔法を会得、いや、体得のほうか? をしたのだろう、今回も逝き掛けた老婆にみーが「治癒」を、どごんっ、と施すと、いやいや、ほんと、多量の魔力を注ぎ込んだ所為なのか、衝撃療法みたいなことになって。目覚めた老婆は、ほんのり若返っていたようないなかったような。

「ーーーー」

 ーー最終確認。感度良好。作戦名「晴れときどき竜」を敢行する。正確には、どきどき、を含んだ名称なのだが、恥ずかしいので直喩(ちょくゆ)は控えさせていただきました。満腹愉快に夢一杯のみーが立ち上がろうとしたところで、物陰から現れた僕が音もなく近寄って、囁く。

「竜饅は~、一日三個のはずなのに~、今日は何個食べたかな~、コウ~さんに~言ってやろ~、コウ~さんに~言ってやろ~」「はぁふぁっ‼」

 僕の登場に本気で驚くみー。真ん丸炎眼に、もごもごするお口が、逃げ出す前の仔猫みたいで、いじらしいのだが。もしかして、竜の国でのぬくぬく生活が竜としての本能を摩滅させているなんてことがあるのだろうか。環境は、人だけでなく、竜をも変えるのか。

 さて、翠緑王の威を借る何とやら。僕が注意したところで、有耶無耶にされてしまうことは炎竜を見るより明らかである。ならばこそ、みーの最大の弱点であるコウさんを利用するという、悪逆非道な策を弄さなくてはならない。くくっ、これも僕と仲良くなってくれないみーがいけないんですよ。振られ続けた男の、卑屈な復讐心を思い知るがいい。

「さーう、なんのことなのだー、みーちゃんしらないんだぞー」

 事ここに至っては、知らん振りを決め込んだところで、無意味であり、想定内である。物陰に潜みながら、模擬(もぎ)とか思考実験とか帰納(きのう)演繹(えんえき)とか、何やらナニやら頭を捏ね繰り回して、僕がどれだけ無意味な妄想に(ふけ)っていたと思っているんですか。

「話はよくわからねぇが、難癖つけようってことなら、みー様親衛隊の俺たちが黙ってねぇぞ! なぁお前ら!」「「「「世界は、みー様の為に‼」」」」

 ずらずらっと親方を始め、店員の方々が、いやさ、愉快な仲間たちがみーの危機に颯爽と参上。確か、親方は職人気質で寡黙だと風聞(ふうぶん)があったが、どうしてこうなった、と言いたい気分である。前にコウさんが、制御できない強過ぎる竜の魔力は毒になる、みたいなことを言っていたが、本当に皆さん、骨の(ずい)まで(あた)ってしまったんじゃないでしょうね。

「ところでですが。みー様に、利益供与とかしていませんよね」「「「「「っ‼」」」」」

 これだけみーに甘々な連中である。何かやらかしているだろうと思っていたが。

「がーう、じーはいーじーなんだぞー。じーはりゅーまんさんこのところ、もーいっこくれるいーじーなのだー」

 みーが親方である「じー」を、ジークライさんを擁護するが、語るに落ちる、とはこのことか。いや、そんな上等な言葉を用いたものではなく、ただのみーの自爆である。

「ぐはっ、すまねぇみー様。然しものじーも、『悪辣の繰り手』の侍従長には手も足もでねぇ。あの人間味のねぇ目を見てくれ。あれは無慈悲に販売許可を取り消す目だっ!」

 ……そんな意図的な視線を向けた覚えはありませんから。お腹の中は(みー)だらけ、という痛過ぎる腹を探られることを恐れた親方は、泣く泣く撤退。かと思いきや、

「だが、あんたならわかるはずだ侍従長! 一個お負けしたときのみー様の世界的笑顔(しゅくふく)。これに勝てる者などいるだろうか! いや、いるはずがない!」

 開き直って、正当化してきた。序でに懐柔する気らしい。その意見には完全に同感するが……ごほんっ、残念ながら世の中には正しい行いが報われない事例など枚挙(まいきょ)に暇がない。

 あ、みーが親方を応援してる。これは、ちょっと、教育係として甘やかし過ぎなのではないですか、コウさん。それでは、二つ名の通り、悪辣な手段を講じさせてもらいます。

「コウさんに、黙っていて欲しいですか?」

 僕がにんまり、粗悪品を売りつける商売人の笑みを浮かべると、百の邪竜に囲まれたようなあわあわなみーが可愛くて、もっと苛めたくなる……、ではなく、みーが固まって無抵抗である間に、自然な動作で後ろに回って、逃げられないよう肩車してしまう。

「これからは、三個までという約束を守れるのなら、口を噤むことを考えてもいいのですが?」「ぎゅーう、わかったのだー」

 しぶしぶ受け容れるみー。さて、相手が断れないことがわかっている提案と抱き合わせで、肩車の一件を不問に付すよう誘導したが、上手くいったようだ。

「じー、みーちゃんらちされちゃうけど、またくるのだー。こんどもじーにさわさわー、おまけくれるとうれしいのだー」「えっと、今何て言いましたか?」「ふぁ、ふぁ~う?」

 舌の根も乾かぬ内に、堂々とおねだりをするみー。だが、物事には優先順位というものがある。さて、さわさわー、が何なのかは知らないが、それを言っちゃいけねぇ、とばかりにあたふたする親方と愉快な仲間たちに、高純度の眼差しを向ける(ふしんしゃはっけん)。これはもう、超高純度(はんざいしゃみーつけた)なのかもしれない。

「国外追放、という言葉を知っていますか?」「ちょっと待ちなせい! 侍従長こそ邪推(じゃすい)って言葉を知って、ございますや⁉ 言葉から受ける誤解やいかに! さわさわー、とは、仕事で疲れた俺らの腕を、みー様がさわさわーと魔力を込めて撫でて下さるんでぇ。これがほんなこつま~効くんでさぁ。どうか、どうかお見逃しのほどを~‼」

 親方は冤罪(えんざい)の疑いを晴らす為に、乱れ捲った言葉で言い募る。

 いつの間にやら、新しい「祝福」が生まれていたらしい。「竜の癒やし」、では範囲が広過ぎるし……、少し恣意的(しいてき)に、「竜の余熱」など如何だろうか。

「『竜の余熱(さわさわー)』を禁止したりはしませんが、その見返りに竜饅を上げるのは駄目です」

「あーう、じー、しんぱいするななのだー。みーちゃんなんにももらえなくても、じーとみんなさわさわーで、げんきいっぱいゆめいっぱいなのだー」

 しょげるみーに倣ってか、神妙な様子の愉快な仲間たち。そんな沈鬱な空気が立ち込める中、軽い足音が近付いてきた。見ると、みーと同じ周期頃の五人の子供たちだった。

「あ、みーちゃん。何してるの?」「わーう、しゃー、みんななのだー!」

 五人の中の紅一点、みーと同じくらいの髪の長さの女の子が不思議そうに聞いてくる。この娘だけ、他の子より周期が上で、コウさんと同じくらいだろうか。恐らく同郷で、お姉さん的な立場なのだろう。ただ、ちょっと気になることがあった。浮かべている笑顔が、ぎこちないような……。それに、赤茶の瞳の色が濃いというか、妙な輝きがあるというか。

 城街地などで(しいた)げられてきた者たちの中には、心に深い傷を負い、日常生活に支障を来す者もいる。未だ、歩み出すことさえ敵わない人たちに差し出せるのは、時間、くらいのものである。酷いことを言うかもしれないが、自分で自分に折り合いをつけて、自らの足で立ってもらう。生きることを、戦うことを放棄(ほうき)した人間に、差し出すものはない。

「みーだぁー!」「いーなー、かたぐるまー」「みーさまっていわないと」「みーちゃん?」

 うわ、いきなり騒がしくなった。高い声質が耳にきんきん響く。物怖じしない、親しんだ雰囲気から、みーの友達だろうと気色取る。ーーあ、みーと同じ周期頃と言ったが、それは容姿のことである。みーは三歳なので、同周期の子供たちとの交流は、ちと難しいだろう。そういえば、氷焔以外は、みーの周期を知らないんだったっけか。

「ぎゃーう、みーちゃんさらわれて、ぎゅうぎゅうかわいがられちゃうのだー。もみもみもふもふかじられちゃうのだー。みんなたすけてーなのだー」

 僕の肩の上で不穏当な言葉を発しながら、手足をばたばたさせる。ぐっ、これまで意図して考えないようにしていたのに、そんなに暴れられたら、みーの太腿の感触を堪能しそうになってしまうではないですか。熱が篭もったようなみーのあったかな肌がぐいぐいと。

「くっ、わるものめ! みーをどうするきだ、おれたちがゆるさないぞ‼」

 正義感を漲らせた瞳は、とても頼もしいのだが。子供たちが持っている木の(はがねのつるぎ)が、少しばかり太くて長いのが気掛かりである。あー、あれで叩かれたら、ちょっと痛そうだ。でも、これは好い機会である。「晴れときどき竜」作戦に若干の変更を加えよう。

「ふははっ、炎竜の大使であるところの、みー様はいただいてゆくぞ~! さて、君たちのようなちっぽけな力で、勇気で、みー様を助けることが出来るかな~?」

 踏ん反り返って、子供たちを見下ろす。先程からの騒ぎで、居回りには人集りが出来つつある。子供たちと仲良く遊ぶ侍従長。この光景を見た人々は、実は侍従長って、そんなに悪い人じゃないんじゃない? という風評を流してくれるはずである。悪評が緩和できるのなら、木の(ゆうしゃのけん)で何度か叩かれるくらい、なんのその、である。

 木の(みなごろしのけん)を持った二人が前衛、その左後ろに居るのは遊撃か。後衛の女の子は魔法使い、という設定だろうか。子供たちの遊びにしては、本格的である。誰かに助言でも(あお)いだのかもしれない。そして、後衛の男の子が指示をーー出そうとして、わなわなと震え始めた。

「あ、あれ……、あいつ、じゃなくて、あのおかたは、じじゅーちょー、さまだ⁉」

 がたがたと震える指を僕に突き付けて、ぺたんっと地面にへたり込んでしまう。前衛の三人は明らかに腰が引けて、僕の不用意な言行一つで、今にも逃げ出してしまいそうだ。

 そんな中、魔法使いの役所(?)の女の子が、男の子たちの前に飛び出して、両手を広げて立ちはだかった。僕に対しての恐怖より、お姉さんとしての矜持や義務感が勝ったのだろうか。魔法を使ってくるかと危惧したが、そのような気配はない。子供は、魔力がまだ安定していないので、魔法が発現し難く、上手く制御できない。魔法が僕から逸れて、周囲に被害を及ぼす可能性があるので、一先ず安心。余程の才に恵まれない限り、コウさんより下の周期で、鍛錬を経ずに魔法を正しく効率的に扱える子供はいない。コウさんとフラン姉妹、それとシーソが魔法を使っている節があるが、彼女たちのほうが例外なのだ。

 さて、このよろしくない状況をどうしたものかと思慮を巡らせていると、囚われのお姫様の役所であるみーが不思議そうに首を傾げる。

「はーう、どーしたのだーみんなー、みーちゃんたすけてくれないのかー」

 いや、みー、そんな無理難題を押し付けたら駄目ですよ。然ても然ても、本当にどうしたものやら。ここで子供たちに、やる気元気が漲らないと、脅かしても逆効果になるだろうし、みーに悪戯して子供たちに危機感を抱いてもらう……というのは冗談で、いや、冗談なので本気にしないでくださいね、って、みー、動いたら太腿の感触(やわもち)が……。……ふぅ、やっぱりここは逃げるのが最適解か。うん、そうだ、すべてなかったことにしてしまおう。

「おー、どうしたー、何かあったかー?」

 のほほんとした声に振り返ると、そこには隊長用の竜騎士の外衣を纏ったギルースさんとフィヨルさんがいた。こうして見ると、結構見栄えがいい。華美ではないが、重厚さの中に醸される華やかさもある。本当に、こういうところでは、クーさんは如才(じょさい)ない。

 隊長二人だけということは、警邏(けいら)や巡回ではないだろう。視察か、重要な会合にでも出席していたのかもしれない。

「あーっ、りゅーきしだー、りゅーきしがきてくれたー!」「みーちゃんを、みーちゃんをたすけてください~!」「あのわるものを、ぎったんぎったんにしちゃって‼」

 子供たちの助けを求める悲痛な声に、押っ取り刀で駆け付ける竜騎士二人。だが、悪者の存在に気付くと、衝撃が強過ぎたのか、身動ぎ一つできず、呼吸まで止めてしまう。

 彼らには、感謝しなくてはならない。僕は、尊大な口調で高らかに口上を述べる。

「ふははっ、竜騎士の隊長の諸君、炎竜と子供たちは貴君らに助勢を求めたか! ならば、実力と経験に裏打ちされたその技と力にて、みー様を見事救い出すことが(あた)うかな?」

 天啓(てんけい)を得た。子供たちで失敗したが、このまま隊長たちで代行させてもらうとしよう。彼らは栄えある竜騎士団の隊長である。エンさんの薫陶を受けた最精鋭。僕が演技に込めた意図を看破して、適切な対処をしてくれるだろう。

「くぅ! いつかそうくるんじゃないかと思っていたが、とーとー馬脚(ばきゃく)を、謀反(むほん)を、簒奪(さんだつ)を企てるに至ったか、侍従長‼」「……叛意(はんい)が明らかになったからには、ここで私たちが対処するしかない」「退()きてぇ! ()びてぇ! (かえり)みてぇ! だが、俺たちゃ、竜騎士だ! 騎士になると誓ったそのときから、この命、竜の国に預けてあらぁ‼」「然り。断じて、逃げるわけにはいかない。敵わぬとわかっていても、私たちの(しかばね)を越えて、同胞が成し遂げてくれると信じるからこそ、命の張り時は今を措いて他に無し!」

 悲壮な覚悟で抜剣。青白い顔が、死を受け容れた戦士のようで。ああ、二人とも、本気度満天の演技が凄いですね。まるで、演技ではないように見えてしまいます。

「おおっ、さすが竜騎士団の隊長たちだ!」「体だけじゃなくて、剣まで魔力で覆ってるぞ!」「勝てる! あれなら勝てる!」「悪徳侍従長が断罪されるときは今ぞ‼」

 こういうときに一致団結する竜の民の皆さんが大好きです。大好き過ぎて、ちょっと過剰な愛を込めた双眸で、ぐるりと見回して、敵役(かたきやく)らしく皆さんを黙らせる。

 エンさんの教練は、魔力操作に重点を置いていると聞いていたが、その成果が実りを結んでいるようで僕も嬉しいです。手っ取り早い実力の底上げには、魔力を引き出すのが最適。然は然り乍ら世間でその手法が採られていないのには、理由がある。

 魔力は誰でも持っているもの(その他約一名?)。だが、それを戦いに用いる者は少ない。感覚的であるとされているので、訓練で習得するようなものではないのだとか。なので、団員に魔力操作を伝授できるエンさんは、竜並みに稀有な存在なのだ。

 以前は、コウさんのほうが危険視されていたが、彼女の人となりが伝わった今では、僕のほうが危険物扱いをされるようになってしまった。自然、暗殺の対象は僕に移る。然てこそ出掛けるときには、折れない剣と壊れない盾が標準装備になってしまった。今回は、みーを肩車しているし、二人の攻撃を往なしてから逃げるとしよう。剣を抜かない僕に、両隊長が訝しげな視線を向けてくる。演技の延長線上として、彼らを挑発する。

「僕に、剣を抜けと? 大丈夫です。必要があれば抜きます」「ふひっ!」「っ……」

 挑発の効果は絶大。ギルースさんは雷の魔法でも喰らったかのように身慄いしながら奇声を上げ、フィヨルさんはより悲壮感を強めていた。

「「「…………」」」

 剣が魔力で覆われているのなら、剣筋が重なったところで、二本の剣を弾いてしまおう。見栄えと、意表を突くという点から、悪くない手段だと思う。

「ーーふっ」「……しっ」

 エンさんとクーさん程ではないが、十分に速い打ち込み。剣を魔力で覆っているので、僕に素早く当てることを目的としているように察せられるが、これは牽制だろう。戦士としての本能だろうか、計ったわけではないだろうに、左右からの剣の軌道が、後方以外の逃げ場を失わせている。だが、後ろに逃げれば相手の思う壺。

 時機良く弾こうかと思っていたところ、迫る二本の剣が接触しそうな感じがしたので、場違いと知りながらも抗い難い好奇心が疼いて、がしっと右手で掴んでしまった。

「なん……だと」「なん……ですと」

 十字に重なった二本の剣の交点を素手で掴むという、僕が現出させた有り得べからざる光景に、口をぽかんと開けて間抜けな顔を晒す二人。このまま掴んでいると、魔力を失った剣で手が傷付いてしまうので、ゆっくりと放して、ふふり、と薄っすらと嗤う。僕の演技に、危機を感じ取ったギザマルのような勢いで、二人同時に距離を取る。重たい静寂が辺りに圧し掛かるが、ギルースさんが鬼気を発して、沈鬱な空気を一薙ぎにする。

「かあぁぁっ! さすが侍従長、もしかしたら勝てるんじゃないかと思った自分を打ん殴ってやりたい気分だ! だが、俺はエルネアの剣隊の隊長。最後まで諦めないことを、この剣と竜の国に誓っている!」「私は、黄金の秤隊の隊長。今ほど、その重みを感じたことはない。ですが、悪くない気分です。己の命を賭してでも遣り遂げねばならぬことがある。私とて同じ、そこから目を逸らさぬことを、剣と竜の民に誓いました!」

 絶望の果てに、わずかに灯った自身の光を信じて、勇気を振り絞る隊長たち。

 物語にでも登場しそうな、苦難の英雄のような姿の二人に、子供たちに愉快な仲間たち、更に増えた見物人や野次馬も含めて感動に打ち震え、大興奮の大絶賛の大喝采(えんりゅうのしゅくふくはわれらにあり)である。

 ーーさて。そんな居回りの喧騒に紛れて、僕は重要な取り引きの真っ最中であった。

「竜饅三個」「おーう、みーちゃんなにするのだー」「二人を怪我させない程度に吹き飛ばすことは出来ますか?」「こーに、あっついのあつめてぼっかんっ、おしえてもらったんだぞー」「取り引き成立。では、僕が腕を振り下ろすのに合わせて、竜のぼっかんをお願いします」「ぼっかんぼっかんっ」「尚、この取り引きはコウさんには秘密です」「んっ」

 みーがこっくりと頷いた振動が、僕の体に伝わってくる。

 秘密の共有は成された。「晴れときどき竜」作戦は、着実に進行している。共に危機を乗り越える、という観点からすると少し物足りないが、一緒に遊んでいる、という認識がみーに芽生えてくれたなら、悪くない成果である。

 隊長二人が再び構えると、観衆が固唾(かたず)を呑んで見守る。何だか、おかしな状況になってしまったが、後戻りは出来そうにないので、このまま乗るしかなさそうだ。

「覚悟は決まりましたか? では、次で終わらせるので、全力で来てください」

 気負いも何もなく、僕はすっと右腕を上げた。みーに当たらないように、ちょっと右側にずれているので格好がつかないかもしれないが、僕の言葉に物理的な衝撃を受けたらしい二人にはまったく関係がないようだ。窮小獣(ギザマル)竜を噛むが如く、彼らに行動を促す。

「ぁあぁっ」「……ぃぃっ」

 人々が感嘆の声を漏らす。中には、無意識に一歩退いた人もいる。どうやら二隊長は、不退転(ふたいてん)の決意ですべての魔力をこの一合に注ぎ込むことにしたようだ。

 ーー静寂とは、音もなく降り積もる雪のよう。とは誰が言った言葉だったか。積もる(ごと)に熱くなる雪もある。それでも尚、白さを失わぬ熱情が飽和(ほうわ)したとき、人は静寂を心の遥かな場所に置き忘れてくるのだーー。……すみません、暇だったので語ってみました。

 いや、魔力が見えている人たちからすると、凝然とした場面が絵になるのかもしれないが、そうでない僕には、特に変化がない光景が続いているだけなので。

 風が二人の背中を押す。僕には向かい風。小さな風でも兆しにはなるらしい。

「はぁぁっ‼」「しっ!」

 ただ腕を振り下ろすだけでは詰まらないな。と二人が遣って来るのを待ちながら思ったので。まぁ、これも演出の一部として、発意(はつい)のままに技の名称を高らかに口にする。

竜迅掌(りゅうじんしょう)!」「りゅうのぼっかん!」

 僕が振り下ろした掌の前に、炎ではなく熱が、舞い踊るように吸い込まれて、反転する。高熱で歪んだ視界を、竜の(あぎと)に似た透明な爆風が染め上げて、ギルースさんとフィヨルさんを薙ぎ払う。余波で周囲は一驚するが、ぼっかんの威力はほぼ二人に向かったようで、被害はないようだ。「りゅうのぼっかん」は魔法だったのか僕には影響がなかった。

 苦痛の悲鳴さえ呑み込まれた両隊長は、何度も地面に体を打ち付けながら跳ねていって、人の力では到底為し得ないと誰もが思うだろう距離まで吹き飛んでいった。

「おい、今の……聞いたか?」「ああ……、竜人って言ったぞ」「確かにそう言ってたわ!」「ねー、りゅーじんってなんなの?」「竜人とは、竜と人の間に生まれた者のことだよ」「侍従長は竜人だったのか、道理で」「やはり、思った通りの、人でなしであったか!」

 ん? んん⁇ はて、あ~、ちょっと待ってください、と。……竜迅掌ーーりゅうじんしょうーーリュウジンショウーー竜人症……竜人(笑)?

 ……ああ、皆さんには、竜人掌(りゅうじんしょう)、と聞こえてしまったのやもしれぬと……。

 その場の勢いで、無思慮だったり無分別だったり、無責任なことをすると、あとでしっぺ返しを食らうという見本のような……って、そんな暢気(のんき)に構えている場合じゃない。ああ、でも、ここで反駁すると、すでに事実として受け止めている人々は、より確信を深めてしまう、という結果にしかならないだろう。然あれど、このまま噂が広まるに任せておけば、竜の尻尾はどんどん大きくなって大陸にまで拡散してしまいそうだ。

「うぉぉっ、まだまだ! 俺たちゃ負けてねぇぜ‼」「然り! この意思と魂が砕けぬ限り……っ⁉」「なっ、侍従長が逃げた! 誰か捕まえてくれ! 捕まえたらみー様が、すっごいすりすり、してくれるぞ!」「竜の民よ! みー様を、みー様を!」

 二人の懸命な訴えが効いたのか、或いはすっごいすりすりに惹かれたのか、みーを肩車した僕を捕まえようと、わらわらと人が殺到してくる。とはいえ、すでに速度の乗っている僕を捕らえられる人はいないだろう。僕の特性は、高速移動や急な方向転換などで大きな威力を発揮する。改めて考えると、魔力が無いことと、この性質の結び付きがよくわからない。相手の魔力を乱しているのか、或いは周囲に漂う魔力に影響を及ぼしているのか。魔力を失い続けているという要素も勘案しないといけないのだが。

「えーう、みんなー、みーちゃんたすけてーなのだー!」

 うわっ、こんなところで竜の咆哮(おおごえ)なんて、ちょ、まっ、駄目ですって。

「竜の民よ! 今こそ立ち上がるときぞ!」「すっごいすりすり! ごっついすりすり!」「一人ずつでは話にならん! 束になってかかれ!」「きゃー、誰かみー様を助けてあげてー!」「囲め、囲め!」「みーを捕まえたら、すっごいすりすり、ぷらす、竜の接吻(せっぷん)!」

 ……最後のうら若き女性の声ーーと言いたいところだが、それにしては欲望塗れである。一番よろしくない人が、何故こんなところに居合わせたのか。

「わーう、みーちゃんちゅーするぞー」

 みーが宣言した瞬間、先程の扇動者が満を持して登場する。などと言うまでもなく、声と内容から、誰なのかは明白である。竜の国の宰相が、屋根の上から飛び下りて、華麗に着地。自分で(ちゅー)を点けて(ていあん)、自分で消す(かくとく)。欲望に駆られて分別を失ったらしい。なんと狡辛い手段を用いるのか。愛欲に塗れたクーさんの顔が人様に見せられないものになっている。……これは、竜の国の宰相の沽券に係わるので、早々の鎮火が必要だ。

 はぁ、仕方がないかな。夜の鍛錬では、逃げることが目的ではないので、使わなかった。速度と方向転換、それと緩急。それらを撹拌(かくはん)するかの如き、最後の手段。

 走る勢いを弱めて、左右に体を振りながら、クーさんの直前で右に急激な進路変更。さすがはクーさんである。常人なら僕を見失っているはずが、しっかりと僕を捉えている。

 (くるり)っ、とその場で回ると、渦に巻き込まれるようにクーさんが体勢を崩す。そして、これは本当にどうにかして欲しいと思うのだが、またも顔面から地面に激突する。

「ぼみゅっ!」

 いくら魔力を纏っていて衝撃が少ないのだとしても、周期頃の娘さんなら、もう少し気を使って欲しい。老師に告げ口して、愛情過多(ぬらぬら)ともども、どうにかしてもらうとしようか。

「今だ!」「この好機ならば!」

 いつの間にか復活していたギルースさんとフィヨルさんが飛び掛かってきそうだったので、もう一つ、転。僕を中心に弾かれたように転がってゆく。

「くぅっ、これが噂の竜旋陣ってやつか!」

 いやいや、いつから噂になったんですか。どうもギルースさんは、その場の乗りで、考えなしに発言する嫌いがあるようだ。これは、オルエルさんも苦労したんだろうな。

「みゃーう、いけどりのみーちゃんなのだー。むかれていけづくりでぷるぷるーなのだー。だっかんだかかだかんっだだっからー、みーちゃんちゅーちゅーちゅるりんっだぞー」

 ギルースさんに中てられたのか、みーの言葉がおかしくなっているのだが、どうしたものか。というか、本当に、これらの言葉は何処で覚えてきたのか。然てしも有らずちょうど角から出てきた団体さんが、みーの言葉を聞いて、ぎろんちょ、と一斉にこっちを見た。

 怖っ⁉ 一糸乱れず、遊牧民たちの眼光が集約される。ちょ、まっ、その神の敵を見つけたような、ごりごりした視線を、お願いですから、僕に向けないでください!

 彼らは、過酷な戦場を渡り歩いてきた精兵の如き即応で、全員一丸となって。合図無しの、意思疎通すら放棄したかのような無音突撃。って、どこの物語の猟竜部隊ですか⁉

 ぐぅ、遊牧民は、皆こんなのばっかりか。稟議書「竜の安眠計画(すやすや)」など破り捨ててやる。恐らく、竜の都に観光だか見物だかに来たのだろう、何という星回(ほしまわ)りの悪さか。むぐぅ、どうやら、まだ危難は去っていないらしい。逃げても追い付かれる、なら突破あるのみだ。

 左右に体を半回転させながら、二十人程の遊牧民たちの隙間を駆け抜ける。すると、どうやら突撃してきたのは全員ではなかったらしい、前方にいた一人がーー、物陰に引っ込んでいった。ん? 今のは……。って、そんな場合じゃなかった。まだまだ距離があるが、翠緑宮まで逃げ(おお)せなければならないのだ。これから難所である大路を抜けようとしたら、

「みゃーう、たすけてなのだー、みーちゃんかどわかされちゃうのだー、あそばれちゃうのだー、あっちっちなのだー、なぐさみものなのだー、ぽいっとすてられちゃうのだー」

 楽しげなみーの、不適切な発言に、ぎぬろんちょ、と大路にいた数百人の竜の民の皆さんが振り返る。ひぃっ、うわっ、皆が見た! 僕たちを見た‼ 

 ふぎぃっ、冷だいっ、痛いですっ、お願いでずっ⁉ ごれ以上ば僕の心が持だないのでっ⁈ どうがっ、犯罪者を見る目だけば止めでぐだっ、ざい⁇

「「「「「っ」」」」」「「「「「!」」」」」「「「「「‼」」」」」「「「「「⁉」」」」」「「「「「っ⁇」」」」」

 ーー果たして、僕は苦難の末に、翠緑宮に辿り着くのだった。

 みーは、最後まで楽しそうにはしゃいでいたので、きっと、たぶん、「晴れときどき竜」作戦は、成功だった……らいいな。王宮の表口に入ったところで、僕の肩から飛び降りて、元気に走り去っていったみーを見ながら、今頃足腰にきた僕は床にぶっ倒れるのだった。



「リシェさんは、竜人なのです? 研究が行き詰まってる理由に納得がいったのです」

「えっと、お願いします、フィア様。その、誤解を助長するような物言いは控えて下さると嬉しいのですが。それと解明が滞っているのは、僕の所為ではないと思いますので……」

 僕の弁明というか懇願のようなものを、シアが冷たい目で一蹴する。

「みー様を肩車しながら、宰相と隊長たち、数百人の竜の民の追跡を逃れるのは、とても人間の所業とは思えないです。それと、怪我人が多数出ています。竜人侍従長殿、皆を治してくれたフィア様に感謝してください」「むっ、シアったらまたなの。姉さん、と呼ぶように言ったの」「ふぃ、フィア様っ、公式な場所では、敬意を込めた呼び方で……」

 姉弟の仲が良好なようで、何よりです。

「昨日、みーちゃんが『竜の残り香』で北の洞窟に帰ったから、シアと一緒に寝ようと思ったの。なのに、逃げるなんて、いけない弟なの」

 ……姉弟の仲が、良好? なのは良いことなのだろうか。

「あ、ふっ、フィア様っ、そんなことを口にっ」「そうだぞ、シア。その所為で、あたしがコウと一緒に寝ることになったのだから、これからも存分に逃走を許す」

 夕べはお楽しみでしたね、とうっかり聞いてしまいそうになるくらい、艶々な肌のクーさんであった。

 竜の都にいた枢要が、騒ぎを聞きつけて炎竜の間に集まっている。参集したのは半分以下なので、正式な形ではなく、玉座の前にいる僕らを取り囲むような形になっている。

 僕ら、というのは、僕とみーのことである。二人で、足を畳んで絨毯の上に座っている。コウさん曰く、古い文献にあったそうだが、反省をするときは、この姿勢を取るのだという。下が絨毯で柔らかいからいいが、もし硬い床だったら、これは拷問になるのではないだろうか。膝の上に重しでも置かれたら、正にそんな感じだ。

 僕は騒乱と謀反の罪で、みーは翠緑王との約束を反故にした罪で、いや、咎ではなく、まだ容疑なのだが、こうしてしょっぴかれることと相成りました。竜の国始まって以来の大事件。国家転覆と、大使と認可を受けた商店による癒着(ゆちゃく)を裁く、重要な場面。と噂が拡がりそうだが、法廷の間である地竜の間を使っていない時点で、まぁ、お説教、或いは折檻で済むだろうことは、想像に難くないのだが。そこら辺は、コウさんの匙加減しだい。

 ところで、先程から僕の横に座らされているみーが妙にそわそわしているのだが。足を畳んだ座り方が苦手なのか、それとも、じっとして黙っているのが駄目なのか、はたまた実は現在の自分の置かれている状況を理解していないのかもしれない。

「みーちゃん~、一日三個までって私と約束したの、覚えていますか~?」

「あーう、おぼえてるのだー、みんながくれたのは、べつばらなのだー」

 ぷっ、やばい、失笑しそうになってしまった。ちょっとおたおたしながら言い訳するみーの言葉に、僕だけでなく、皆が絆されそうになっている。こほんっ、と似合っていない空咳(からぜき)で、皆を窘めるコウさん。みーが、びくんっと震える。んー、先程からどうしたのだろう、こんな気不味そうなみーを見るのは初めてなのだが。

「あら~、ということは、みーちゃんは私との約束を破っていないのですか~」「そ~う? そこのところのかいしゃくは、ひとそれぞれなのだー」「わかりました~。では、何個食べたのか、きちんと申告できたら、許してあげても良いのですよ~」「あうあう、いまかぞえるのだー」「間違えないようにね~。親方から、正しい個数を聞いていますよ~」

 指をひとつひとつ折りながら、必死に思い出しながら、数えていくみー。然し、寄贈者から貰っていたのが、半分ずつだった所為か、四苦八苦しているようだ。個数が五個を超えると、上手く数えられない。困って、コウさんを見上げるが、いつも優しいコウさんは、怒った風を装って、みーを見詰めている。頑張って、指を折りながら数えようとするが、二進も三進もいかず、みーの顔から表情が少しずつ消えていって、って、え……。

 到頭数えられなくなってしまったみーが、コウさんを大きな炎眼で見詰める。

 (すが)っているような、拒絶するような、ただただコウさんを求める純粋な幼い心に、みしり、と亀裂が入ってゆく。不思議とそれが感じられてしまった。

 溢れた想いが、何もかもを奪い去って、大粒の涙が、ぽたり、と一つ落ちた。

「やぁああああああああああああああああああああああぁぁあああああああああぁあぁぁ」

 力を失った腕は、だらりと垂れて。大きな瞳は、一心に。

 心が空っぽになったら、そこには何があるのだろう。堪らなくなるのかもしれない。みーの泣き声に、想いだけが零れていく姿に、閉じ込めたはずの何かが、ぎりぎりと刺激されて、顔を出そうとしている。みーは竜なのだ、なら僕は……。

 泣くことしか出来なくなった生き物のように、とめどなくはらはらと流れ落ちる熱い衝動が、みーから際限なく奪ってゆく。最も衝撃を受けたのは、生まれ落ちたそのときより失い続けてきたコウさんだったのかもしれない。だから、一瞬、躊躇った。

「やあああああああああああああああああぁぁ……」

 翠緑宮ごと震わすような竜の泣き声が、衝動を伴って再び駆け抜けてから、コウさんが動く。みーの無防備な想いに触れて、泣き出しそうな歪んだ顔で、一刻でも早く。

 「転移」でみーの許まで移動して、みーの頭を胸に掻き抱く。それでも嗚咽(おえつ)が収まらないみーを抱き締めたまま、「飛翔」で玉座の横の扉から飛び出していった。恐らく、行く先は居室なのだろう。まだ耳に、心に響いている。誰も彼もが、竜の慟哭(どうこく)を受け止め切れずにいる。いや、みーは悲しくて泣いていたのではない。もっと大きな、心の隙間のーー。

「やーい、こぞー。ちび助ん名ぁ使って、ちみっ子脅したろう?」

 先程の言葉は間違いだった。みーの心を受け止められた者が一人いた。静寂というより空虚のほうが近いだろう、何かを失ってしまったかのような沈黙をエンさんが引き裂いた。

 正鵠を射たエンさんの確認に、言葉もなく、頷くことしか出来ない。

「だろーなぁ。ちみっ子ぁ、ちび助ん隠し事作っちまった。自分が悪ぃことしてんって、認めちまった。ちみっ子ぁあれで、ぶきっちょだかんな、ちび助ん駄目んこと二つ抱えて、謝って許してもらおーってぇんは、卑怯んことだと思っちまった。そんでも、でぇ好きなちび助ん、どーにか許してもらおうって頑張ったけど、最初から袋小路、どーにもならねぇって。で、いっぺぇいっぺぇんなって、爆発しちまった。最初ん叱ってやらんかったこぞーん罪ゃ重ぇなぁ。そん場所ちび助いりゃー、って、こりゃ、後ん祭りか」

 耳から心に至る経路のすべてが、ずきずきと痛んだ。返す言葉もない。最初から間違えていたのだ、不運が重なったと言い訳することなど出来ようはずがない。

「団長、あれほど拾い食いは駄目だと……」「ちゃんと防御しろー」

 エンさんの慧眼(けいがん)、本質を見抜く力の本領を見慣れていなかった、或いは知的な団長の言行に戸惑ったギルースさんが、うっかり口を滑らせる。言葉の途中で、どかんっ、と吹き飛ばされて、僕の近くまで転がってくる。

「あともー一人いたなー」「ひっ」

 続いてフィヨルさんが吹っ飛ばされて、ギルースさんの上に落ちる。

「ごぼっ」「ふびっ」「騒ぎ大きくしたってーんと、あとぁ、こぞーん捕まえらんなかったみてーだし、明日一日みっちり(しご)いてやんから、覚悟しやがれ」「……へい」「はい」

 再び僕に視線が向けられたので、とりあえず差し障りのない言葉でお茶を濁す。

「えっと、エンさん、詳しいですね」「あん? だてん二人、妹育ててねぇからな」

 育てたかどうかの真偽はさておき、見守っていたのは確かだろう。ときどき思わされていたが、やっぱりエンさんは侮れない人のようだ。こうして、貫禄(かんろく)たっぷりに(さば)いていく様は、不思議と王者の威厳が感じられる。

「ちび助いねぇから、こぞーん処遇俺ぁ決めっかぁ。そーさなぁ、譲ちゃん、指揮官やんな」「っ! 武器の使用は?」「王宮壊さねぇなら、罠もいーぞ」「開始音は?」「あんま時間掛けてもなぁ、四つ音んしときな」「『神遁(しんとん)』を相手にするには、心許ないですが、致し方ありません」「ほれほれ、竜騎士と志願者ぁ、譲ちゃんとこ行きなー」

 移動を促したエンさんの手が真横に伸びて、がすっ、とカレンの許に集おうとしていたクーさんの襟首を掴む。僕には見えないが、エンさんの手の辺りで魔力による激しい攻防が繰り広げられているようだ。皆からは見えていない位置なので、気付かない振りをして参加しようとする宰相だが、竜騎士団団長はびくともしない。

「相棒ぁ駄目だ。王宮ぶっ壊すだろーが。俺ん一緒ん判定役だ」「…………」

 今回の一件を掻き回した自覚があるのだろう、肩を落として、とぼとぼと炎竜の間から退散してゆく。それとは逆に、きびきびと精彩(せいさい)を放つカレン。

「〝サイカ〟の里にて、三度の煮え湯を飲まされた私が指揮を執らせていただきます。先ず、ランル・リシェを人間だと思っている者がいるなら、その間違った考えを今すぐ捨てなさい。あれは、逃走に特化した魔獣よりえぐい異質な化け物です」

 カレンの訓示が続いているが、そんなことより陣形とか罠とかに取り掛かったほうがいいのではないだろうか。自分で自分の首を絞めるだけなので、黙りを決め込む。

 然し、どうしてこう、すらすらと僕の悪口が止め処なく溢れてくるのだろう。それと、今のがカレンの本音なら、僕に裏切られたということになってしまうのだが。そこまで信用されていた覚えなどまったくない。コウさんといいカレンといい、やっぱり女の子の根本のところは男には理解できないようになっているのかもしれない。んー、考えても碌な答えに辿り着けそうもないし、誰も見ていない間に、足を……。

「こら、こぞー、足崩すんじゃねぇ。あとは、だ。こぞーん捕まえたら、褒賞で竜ん雫やらぁ。それん『ちみっ子と一日わくわく遊覧飛行』ん権利もお負けだ。あー、『ちび助と一日お昼寝ごろごろ』でんいーぞ」「『侍従長に何でも一つ言うことを聞かせられる』の権利は?」「許す。『団長と一日ごりごり秘密特訓』でん……」「「「「「要りません」」」」」

 あ、珍しい、エンさんが本気で落ち込んでいる。あ、ちょっと、そこのシア、なに素知らぬ風を装って参加しようと、って、クーさん、名残惜しそうに見てないで、判定役なんですから、さっさと持ち場に戻ってください。ああ、長老方は周期を考えてくださいって。

「近辺の竜騎士を動員、職員にも『フィア様みー様仲良し小好し』の権利のことを伝え、手広く集めなさい」「あの、それでは職務が滞って……」「優先順位を間違えてはいけません。これは、演習を兼ねています。何より、これは国として下した最優先事項です」

 幸い、フラン姉妹はいないし、カレンは呼び寄せるつもりはないようだ。エンさんやクーさんより強いだろう、スーラカイアの双子がいないだけで、かなり助かる。

「譲ちゃん、俺ぁそこまで……」「すべての責任は、竜騎士団団長が負ってくださいます。各位傾聴! 己が矜持に恥じぬ戦いを! 己が望む願いを叶えんが為! 我らが祖国に仇なす敵を討ち滅ぼす、その瞬間まで! 死力を尽くしなさい!」「「「「「はっ‼」」」」」 竜に魂を喰われてしまったのだろうか、カレンが壊れてしまった。狂気は伝染する、と言うが、皆さん目が血走っておられます。あぁ、足が痺れて痛くなってきたんですが……。

 ーー四つ音の鐘は鳴り、世界が狂乱と激情の(ちまた)と化す。竜の涙に報いようと憂き身を(やつ)す竜の民は、心を竜にして、炎竜をよすがにその身と魂を()べるーー、……っ⁉ ……。

「きぃーー! 覚えてらっしゃい‼」

 翠緑宮から出た僕の後ろから、負け(しきかん)の遠吠えが響く。仕方がなかったとはいえ、全力で逃げてしまった。「晴れときどき竜」作戦は失敗かなぁ。返上さんや挽回さんの親戚であるところの、汚名さんは侍従長と仲良く謎舞踊で、更にどろどろになったみたいだけど。



 私服で、帽子を被って、俯き加減で並んでいる。予約札は、すでに入手済みである。

「ひっ、侍じゅ……」「三個お願いします」

 販売許可を取り消す目で睨んであげたら、親方であるジークライさんが無言で商品を差し出してくれる。代金を払い、他言しないよう冷酷侍従長の薄笑いを投げ掛けてから、「みー様と愉快な仲間たち」を後にする。……袋を見たら、四個入っていた。ああ、まぁいいか、たぶん三個多く作っていたんだろうし、みーと二個ずつ仲良く食べるとするかな。

 そそくさと翠緑宮へ。着替える時間も惜しいので、そのままコウさんの居室に向かう。王様は、二つ音から用事があって外出している。そこら辺、抜かりはない。僕の特性を最大限利用して、一切の遅滞を許さず突貫、不法侵入(ちょいとごめんよ)

「みー様~、取り引きの報酬、竜饅持ってきましたよ~」

 竜饅の入った袋を掲げて、雰囲気的に抑えた声で囁きかけると、匂いに釣られたのか、ぴょこっと寝床の布の中からみーが顔を出した。そのまま動かないので、近付いてみると、透き通るような純白の布に目を惹かれる。

 この毛布は、コウさんが魔力で編んだ、魔力布なのだろう。恐らく、寝具一式がそう。みーは炎竜であり、その性質が表出するのは当然のこと。竜の休憩所の用具と併せて、みーの属性の抑制と耐性の品は、コウさんの自作である。

「だーう、こーとやくそくなのだー、きょうはだめなんだぞー」

「そうですね。コウさんとの約束は大事です。でも、昨日僕とも約束しました。竜饅を食べてくれないと、僕との約束を破ったことになります。約束は二つ、片方を守れば、もう片方を守れません。なので、全責任は僕が負います。たとえコウさんにぎっちょんぎっちょんにされようと、みー様に責任が及ばないよう命を懸けてお守りいたします」

 むむむっ、とみーが真剣に考え始める。うみゅみゅー、と頭を抱えて、ぐむむっ、と(こまぬ)いて、そのまま仰け反って、ぽすんっ。左右にごろごろ、やうやうやうやうやうっ、とじたんばたんっじたんばたんっ。あ、魔力布に包まって、抜け出せなくなって、竜の簀巻き(たべごろ)。

 ……ごふっ、……あ、いや、鼻血なんて出そうになってませんよ。いくらみーが言葉に出来ないくらいでも、よくわからないものが心の奥から溢れそうでも、クーさんと同水準(にんげんしっかく)になるなんてそんなこと、あるわけないじゃないですか、ねぇ。ああ、そういえば、みーを見ていて思い出した。コウさんの、悩んで困ったときの、左右にもそもぞの謎舞踊をずいぶん見ていない。王様として立派になってきている証左なのかもしれないが、もうあれを見られないかと思うと……、あ、そうか、コウさんを今よりもっと追い詰めたり煩悶させたりすれば、もそもぞな可能性も上がるのだろうか。でも、追い詰めるだけなら、今でもやってるし。と策を練っていたら、簀巻(すま)きから脱皮(だっぴ)したみーが、じぃ~と僕を見ていた。

 どうやら、結論が出たようだ。炎眼が、決意に揺れて、いつもより鮮やかである。すっくと立ち上がると、誰の仕込みなのだろう、謎舞踊の開始である。

「そーなのだー、だんまりだまだま、まるまるこめこめ、そそのかなのだー、そーなのだー。りゅーのおみみとおめめは、なんでもしってーーる?」

 予兆を感じたらしいみーが謎舞踊を停止すると、居室にコウさんが「転移」してきた。

「みーちゃん~、買ってきまし……」

 今更隠しても遅いのに、竜饅の袋をどこかへ「転送」するコウさん。

「ふぇ……? ふぁ! なっ、何でここにいるのかなのですっ、リシェさん⁉」「コウさん、竜茶を淹れてください。三人分ですよ」「な、なんで私がなのです!」「あれ? もしかして説明しないといけないのですか?」「ふぎゅ……、今用意するのです……」

 コウさんが、とぼとぼ隣室に入っていくのを見送りながら、部屋の端にあった卓と椅子を窓際に運ぶ。窓を開けて、風通しを良くしたら、準備完竜。みーに、おいでおいで~をすると、竜饅効果なのか、すたたーっ、と元気よく走ってきて椅子に飛び乗る。竜茶をお盆に載せたコウさんも遣って来て、幸せ日和(うきうきるんるん)なみー。それとなく観察してみるが、みーの目元に赤みは確認できない。竜の治癒能力の高さで、(あと)は残らなかったのだろう。でも、ちょっとくらい後を引いても、と我が侭なことを考えてしまう。悲しみや傷の痛みは、治る過程も含めて重要な要素なのだと、まぁ、これは人間らしい感傷なのかな。

「リシェさんも買ったのです。同罪なのです。不法侵入(へんたいさん)なのです。女の子の部屋に勝手に入るなんて、万死に値するのです。竜に蹴られてあっかんりゅー、なのです」

 剥れるコウさんだが、往生際が悪いにも程がある。もはやすべての種は明かされている。では「やわらかいところ」を刺激する為に、「間接作戦」を始めるとしよう。

「僕は、予約札を貰うところから並んでいました。さて、その列にコウさんの姿はなかったようですが?」「そ、それは、王さまが並んでたら、目立ってしまうので『隠蔽』を使ってたのです」「そうなんですか? それは知りませんでした。では、その『隠蔽』を今使って頂けますか?」「ふぉ? ……何故なのです?」「簡単なことです。僕が気付かなかったということは、僕の目を(だま)くらかすだけの『隠蔽』を行使したということですよね」「っ⁉」「それと、何故竜饅を三個ではなく、二個しか買わなかったのですか?」「…………」「列に並ばず、店が多く作った分を貰ってきたのですよね?」「……竜に喰われろ、なのです」「竜に喰われるのは明日にして、今日は竜饅を食べましょう」

 僕が卓を指差すと、コウさんは観念して、「転送」で袋を呼び寄せる。竜饅に釘付けで、僕とコウさんの遣り取りを上の空で聞いていたみーが、待ち切れず、犬の尻尾のようにぱたぱたと卓を両手で叩く。お行儀が悪いが、自分のことで手一杯のコウさんは叱るどころではないらしい。当然、竜のぱたぱた、が可愛過ぎて、僕がみーを掣肘(せいちゅう)するなんて出来ようはずがない。ふむ、和んでいる場合ではない、作戦を継続しなくては。

 コウさんが買ってきた袋をみーの前に置いて、僕の袋から竜饅を一つ取り出す。それを、みーの袋に移す。それから袋を破いて、二つに分けると、僕の前に竜饅二個、コウさんの前に竜饅一個置く。果たして、自分の立場も弁えず、コウさんがむっとして僕を睨む。

「おや? 嘘吐きの王様は、もっとたくさん食べたいとか抜かすのですか? あ、みー様、いけませんよ。みー様は、三個食べないと、僕との約束を破ることになってしまいます」

 優しいみーが、コウさんに一個あげようとするが、それでは僕の計画が破綻(はたん)してしまうので、邪魔させてもらう。僕は、竜茶を一口飲んでから、

「嘘吐きな王様には、罰が必要です」

 王様を断罪する。竜饅を半分こにして、片方を僕の袋の上に置く。そして、残りの半分、竜饅の端を千切ると、コウさんの口の前に持っていって。

「はい。食べさせてあげますので、あ~ん、してください」

「ふぃ、ふぁっ⁉ ふぉんなじゃなぶのでず⁈」

 謎言語を発しながら反射的に飛び退いて、背凭れにぶつかって、危うく倒れそうになる。

 僕も恥ずかしいが、コウさんが激烈に、炎竜の吐息のように真っ赤に色付いているので、演技で装うことが出来る。世の中には、こんなことを()でできる人がいるらしいが、何という精神的強者なのか。現実的常識人は、真っ青だ。

「はっはっはっ、もし、あ~ん、をしなかったら、この一件をクーさんに告げ口します。さて、嘘吐きな王様は、『おしおき』何回なのでしょうね、くっくっくっ」

 半泣きのコウさんだが、今彼女の頭の中では、しっかりと打算が駆け巡っているはずである。然して、答えなど始めから一つしかないというのに、可愛いものである。

 一度決めたら、意外に度胸のあるコウさんである。頬を薄っすらと紅色に染めながら、やや上向きながら、口を開ける。でも、それでは足りない。

「ちゃんと、おねだりしてください。あ~ん、と」「ふぁはぁっ⁉」

 みーが、びくんっ、と跳ねて、竜饅でお手玉をする。僕にはわからなかったが、みーが吃驚したということは、理不尽な要求に憤ってコウさんが魔力を爆発させたらしい。でも、残念。魔力放出は、中途半端な威力だったのだろう、僕にそんなものは効きません。

「はい、おねだりですよ。あ~ん、です。あ~ん、ってしてください。みー様は、証竜ですので、よく見ていてくださいね」「ぁっ、……っ。……あ、ぅ、あ、~ん……」

 微温湯に浸かり過ぎたような気だるさを漂わせながら、目に屈辱の色彩を程好く散らして、王様の口がおねだりの言葉とともにほんのりと開く。そんな小さな隙間ではどうにもならないので、もっと開けてください、と目で命令する。服従するしかない女の子の口が、じ~と見詰める一人と一竜(ふたり)の目の前で、ゆぅ~く~り~と開帳してゆく。それが本当に緩やかだったので、じっくりと観察できてしまった。歯の並びや、その奥の舌の色までくっきり見えてしまう。ここまできちんと見ることなんてなかったので、改めてコウさんの、新鮮な驚きというか、男とは違う肌の感じというか、繊細なのに肉感的なというか、やっぱり綺麗というより可愛さのほうが際立つというか……、……ふぅ、ちょっと、僕、冷静になろうか。現在の状況を正確に分析しなくてはならない。

 やっぱり、遣り過ぎたのだろうか。火照(ほて)って、汗まで掻いてしまっているコウさんの幼さが残る姿が不思議と……、あれ? なんで僕の心臓が悲鳴を上げているんだ。いやいや、落ち着け僕、背中にじっとり汗なんて掻いている場合じゃない。頭が茹ってきてるのなんて勘違いに決まっている。さぁ、コウさんの口はぱっくり開いたので、僕の番である。

 コウさんの唇に触れないようにしながら、指が震えないようにしながら、口の中に押し込む。……はぁ、失敗しなくてよかった。それらの、よくわからない感情なのか衝動なのかを、(おくび)にも出さず、演技に埋没させて全精力を注ぎ込んで平静な振りをする。

「はい、よくできました。では次です、あ~ん」

 竜饅を千切って、次を差し出す。「間接作戦」を次の段階へと移行させる。僕は、コウさんが、あ~ん、に慣れてしまわない内に、気付かれないよう僕の飲み掛けのカップを彼女のカップの横に移動させる。

「あ~ん」「ぁあ…ん」「みーちゃんもやるのだー、あーん」「あ~ん」「みー様、あ~ん」「あーん」「あ~ん」「あ…ん」「あーん、あう、みーちゃんたべちゃったのだー」「あ~ん」「あ~ん…」「あーん」「あ~ん」「あ~ん」「あーん」「あ~ん」「あ~ん……はふぅ」

 到頭半分こにした竜饅が無くなってしまったので。汗を掻いて、喉が渇いただろうコウさんに、やっとこ終わって一息吐いている少女に、次の試練を課す。

「それでは、次は竜茶を飲み飲みしましょうね」

 僕はカップを持ち上げて、コウさんの口元まで近付けてゆく。固形物を食べさせられるのと違って、液体を飲まされるというのは、また異なる感覚やら感触やらがあるだろう。

 もう考えることを止めてしまったのだろうか。コウさんは、小刻みにぷるぷるしながら、カップに口をつける。こくり、と一口飲む。喉が動くのは当たり前のことなのに、なぜか別の生き物が動いているような艶めかしさに、うづづっ、と変な感じがする。

 飲み難そうだ。傾け過ぎて零さないように気を付けながら続けるーーはずだったのだが。

「あっ」「んぅ」

 失敗した。指に力が入り過ぎた所為か、多めに液体がコウさんの口に。でも、コウさんの機転で、ずずっと強めに吸って、難を逃れることに成功。ああ、どうやら、彼女は僕が態とやったと思ったらしい。小さく、んぅ~、と唸り声を上げる。これが終わったら処刑なのです(訳、ランル・リシェ)、と聞こえてしまったが、僕の幻聴に違いない、それ以外の可能性など暗竜のお口に、ぽいっ、である。

 いや、心を落ち着けろ。ここは冷静に。って、いったい何度同じことを念じているのか。

 一時期、「やわらかいところ」対策に於けるコウさんの反発が大きくて、過剰接触に傾いていたが、彼女の機嫌が緩和されてからは、精神的な方面での触れ方を模索している。「幸せなら手を繋ごう」作戦もその一環だったのだが、予想以上の攻撃性が発現したので、気を緩めることは出来ない。ふぅ、それでは、「間接作戦」の総仕上げである。

 すべて飲み干したカップを、コウさんがよく見える位置に持っていって、

「あっ、うっかりです。すみません、間違えました。コウさんが口をつけて飲んだ、このカップ、僕の飲み掛けのやつでした」

 満面の笑みで謝ると、カップを卓の上に戻す。自分の前に並んでいる、二つのカップに気付いたコウさんは、一時停止。やがて、震える手が、ふらふらと唇に。

 ぶぉんっ。

 うわっ、こんな大きな音は初めてじゃないだろうか。無言で静止状態のまま、仰け反るくらいの、大量の魔力が放出されたようだ。って、うぅあ……、コウさんが放心状態だ⁇

「…………」「っ‼ っ⁈ っ⁇」

 あぁ、早く、はやく、速く、ハヤくぅ、はやはやでちょっぱやな竜速でも神速でも何でもいい感じな真実を、打ち明けないと、昨日の炎竜の涙みたいなことになってしまう⁉

「コウさんっ、今のは嘘です! コウさんが飲んだのは、元から置いてあったコウさんのカップで、『間接作戦』が上手くいき過ぎて、僕が戸惑っているだけです!」

 何だかよくわからないことを僕は言っているようだがそれどころではない、匙加減を間違えたのかどうなのかもわからないが、この泣くんだか笑ってるんだかよくわからない顔をしている、なんだか凄く魅力的な感じの王様な女の子を、どうにかしないといけないのは、きっと僕の義務感から生じる庇護欲の塊のような純粋で純朴な少年の頃に培った……。

「まーう、ごちそーさまーなのだー」

 竜饅を平らげたみーの、ご機嫌な笑顔で、僕だけでなく、コウさんも現実に回帰する。ああ「竜の笑顔」は、本当に祝福の(みなもと)なのかもしれない。

 みーは、無邪気な顔で、コウさんの前にあるカップを指差して、超特大の爆弾投下(かいしんのいちげき)

「んーう、みーちゃんみてたのだー。こーのかっぷ、ずっとおんなじところで、おきっぱのほーちっちだったんだぞー」「……えっ?」「……ふぁぇぉうっ⁉」

 ごぶぉんっ。

 ふぐぁっ⁉ こ、これは、凄い。びりびりと肌を刺激する爆音。先程より一回り大きな魔力が放出されたようだ。翠緑宮の真上なので、「祝福の淡雪」を浴びられる人がいないのが残念である。僕自身も予期していなかった僕の過誤による、時間差攻撃というか、安堵したあとの不意打ちに、精神に多大な負荷が掛かったのか、コウさんが(すす)けてしまう。

 どうするのが最善なのかわからないので。

 みーに悪気はないし、ここはこう言ってしまうのが、最悪なのかもしれない。

「みー様。お見事です」「えっへんっ」

 両手を腰に持っていくかと思いきや、腕を拱いて、仁王立ち。どうやら、誰かさんの影響を受けているらしいのだが、そんな姿も悪くない、じゃなくて。状況を理解していないみーの能天気さを分けて欲しいところなのだが。いや、実際に頂いちゃったりなんかしたら、きっと破滅の鐘を鳴らす存在に、気付くのが遅れていただろう。

「…………」「……っ⁉」

 竜の国の危機を直感して、満腹満開(えっへん)なみーのお口に、まだ一口も食べていない僕の、一個と半分の竜饅を無理やり突っ込む。然てまた振り返れば竜がいる、の故事の通りに。

「り、リシェさん……? 三つ数える内に消えないと、『星降』百個贈呈なのです⁇」

 ひぎっ、コウさんが錯乱状態だ。目の焦点が定まってない‼

「一……、二……、さ」

 これまでの人生の中で、最も速く逃げ出した瞬間だった。僕の耳には、「ん」は聞こえなかった。そう、聞こえなかったんだーー、……。

 ……、ーーこうして、人知れず、翠緑宮の、或いは竜の国の平和は守られたのだった。



「カレン。お茶を三人分、お願いできるかな」「ええ、わかったわ。竜の国のお水が綺麗で美味しいことが浸透したお陰で、茶葉を扱う店が増えて、選び甲斐があります」「里も水が豊富で、昔から(たしな)んできたカレンは茶葉には煩いですが、それに負けないくらい技量は見事なものです。満足のいく品が入ってきたようですから、是非ゆっくりしていってください」「大丈夫です。今から淹れるのは、心を落ち着ける効果のあるものですから」

 さて、この白々しい遣り取りが何なのかというと、報告だけで速攻帰ろうとしているサシスを引き止める為のものである。侍従次長という役職に就いたカレンが阿吽の呼吸で合わせてくれる。ギルースさんとフィヨルさんとは、少しだけ距離が縮まった(?)が、同じ竜騎士隊長であるサシスとは未だ距離を感じるので、権力というか威光に飽かせて強制的に場を用意したしだいである。あ~、侍従長の悪名からすると、威光というより威闇(いやみ)などという造語が浮かんでくるがーーあれ? 結構語呂がいいかも、ああ、いや、別に()(コウ)という言葉がコウさんを連想するからとかそんな理由じゃないんだけど、いやいや、今は迷わしの魔法使いのことではなくサシスのことである。

 さて、好漢、の部類にぎりぎり入りそうな知性と武力を併せ持った彼だが。元冒険者の二隊長と同じく僕を恐れているようだが、それが職務を怠っていい理由にはならない。竜の国の枢要に名を連ねたからには、相応の資質と結果を求めるのは当然のことである。とそれらしいことを考えてみるが、諸悪の根源は僕なので、早く慣れてくれたらいいな、という消極的で情けない希望が、偽らざる僕の本心である。

 侍従長の執務室は、在りし日の姿が嘘のように小奇麗になっている。カレンは、仕事を熟しながら執務室に必要な家具や備品を見繕い、二日と経たぬ内に、僕にとっての最適な環境がカレンにとっての、通常の人々にとっての良識的なものに置き換わったのだった。

 応接室とは別に、執務室でお客様を迎えることもあるでしょう。というカレンの意見で、部屋の中央には、品の良い卓と長椅子(ソファ)が鎮座している。竜の国では、侍従長は大人物とされているが、僕にはその自覚が薄いので、この座り心地の良過ぎる長椅子に座る度に、長椅子さんには役不足でしょうが失礼しますね、と恐縮してしまうのだ。僕の周期で居心地が悪く感じたとしても、不思議ではないだろう。礼儀作法や立ち居振る舞いが完璧であるカレンは、ただ座っているだけで見蕩れてしまうくらいの優雅さと気品を醸しているが。

 そうなんですよね。皆さん知ってましたか? 優秀過ぎる部下って、本当に怖いんです。

 長椅子に座って、窓の外のずっと向こうにいる竜の民に語り掛けてみるが、無論返答はない。罷り間違ってカレンの上役などやっているが、本来なら僕などカレンの使い走りがいいところ。物事が順調に進んでいるときのカレンの手腕は、わかってはいたが空恐ろしいくらい。「竜饅事件」から一巡りの間に、否応なく思い知る羽目になった。

「では、先ず報告から聞きましょうか」

 僕の対面に座ったサシスを正視する。カレンが気遣って鎮静効果のあるお茶を淹れたのだから、一口飲んでからにすればいいのに。二竜の邪竜を前にしたかのような、身の奥から滲み出る怯えをどうにか克服して、鍛え抜かれた戦士の風貌通りの威風を纏って応える。

「元外地の二隊の隊名が、昨日決まりました」「はい? 昨日って、もうずいぶん前に要請したはずですが」「あ、いや、実はザーツネルから報告を受けた奴が勘違いして、ちゃんとこっちまで伝わっていなかったんだ。だからこれまで『隊名を北隊と南隊に決定した。文句がある奴は侍従長に言いに来い』と俺たちは思っていたんだが。昨日ザーツネルが『そんな隊名でいいのか?』と聞いてきて、やっと連絡の齟齬に気付いたってわけで」

 遅延を叱責(しっせき)されると思ったのだろうか。内容が内容だけに、始めの威風はどこへやら、言い訳めいた物言いに合わせるように、どんどん卑屈になってゆく。

「それで、隊名を決めることになったんだが、北と南が同じものを望んで、団長がそれぞれの隊から三人ずつ選出して……」「勝ち残ったほうが隊名を獲得したのですねっ」

 顔を(ほころ)ばせて身を乗り出すカレンとは逆に、無意識にだろう、身を引くサシス。

 カレンは容姿に似ず、好戦的な面がある。まだ里で学んでいた頃、僕の防御を破ろうと躍起(やっき)になったのが原因、もとい遠因ではないかと思っているのだが、もしそうなら里長に何とお詫びをすればいいのやら。話に聞くところの、彼女の祖母の面影が色濃く表れているようなので、許してくれそうな気もするのだが。

「んー。エンさんがそんな普通のことをするとは思えない。選出した六人は、……ああ、そうか、みー様と戦ったんですね。ということは、二隊が望んだ隊名は『炎竜隊』」

 話している途中で気付く。気付いてみれば、まぁ、順当な流れといったところか。

「えっ? みー様一人に、六人もの竜騎士が襲い掛かったというのですかーー」

 みーが竜であることを失念しているらしいカレンに睨まれて、たじたじとなるサシス。

 美人、というのは、整っているということ、左右対称ということである。美人に睨まれると怖いのは、どのような作用が生じているのだろうか。と人事のように考えていたが、僕にもお(はち)が回ってきそうな感じだったので、思考を中断してカレンの疑問を解消する。

「報告に来たのがサシスさんということは、最後まで立っていられたのは、あなただったと」「ああ、デアの奴が『みー様の攻撃を避けることなど、我には出来ぬ‼』と宣言して自爆しなければ、危なかったかもしれないが」「北が炎竜隊に決定。では、南は?」

 カレンという危難を前にして、少しだけ距離が縮まる二人の男。一人の女は断言する。

「『氷竜隊』に決まっているでしょう」「……その通りだが」

 サシスが困惑している。どうやら、僕以上にカレンの扱いに難儀(なんぎ)しているようだ。水竜隊や風竜隊、地竜隊や雷竜隊などの候補がある中、なぜカレンは断言できたのだろう。まさか女の勘とかいうものだろうか。もしそうなら、確かに女性とは恐ろしい生き物である。

「それと、これは氷竜隊からの要請だが……。竜の国に氷竜を連れてきて欲しいと……」

 サシスは、僕の顔色を窺いながら、氷竜隊に(ことづか)った希望を言葉にしていくが、内容が内容だけに、竜ならぬギザマルの尻尾切れに終わる。カレンは、サシスではなく僕を、闇の色彩を深くしたような黒曜の瞳でじっと見ていた。ときどき彼女は、こういう目で僕を見る。心に疚しい、いやさ、機密や秘密などを抱えているときに、それを見透かすような視線。……妙な空気なので、さっさと本題に入ってしまうことにしよう。

「竜騎士や近衛隊で、魔法使いに接触した者はいますか?」

 サシスとしても、引き伸ばしたい話ではないのだろう、僕の話題転換に乗ってくる。

「おかしなことに、誰も遭遇していない。聞く限り、普通に歩き回っているようだが、こうなると魔法を使っていると考えるのが自然。とはいえ、竜の民に姿を晒しながら、己の存在を誇示しながら、俺たちを避けていることの理由がわからない」

 わからない、とサシスは言ったが、幾つか予想はしているのだろう。だが、どの推測もしっくりこない。それ故に、明言を避けているようだ。

 竜の国で情報収集をしているらしい魔法使い。竜の民との接触は多いが、未だに目的は不明。竜の都を中心に、北の洞窟や水源に向かおうとしていた、との報告もあるが。

誰何(すいか)すら出来ていないというのは不自然。普段は魔法使いの(よそお)いを解いているのかしら」「どうやら、そうじゃないらしい。僕が以前目撃したとき、魔法使いの様相だった。シア様から頂いた情報から類推しても、市井人に紛れるようなことはしていない。あと、老師から聞いたところによると、基礎がしっかりしている魔法使いならフィア様の魔力感知にも引っ掛からない、そうだけど。翠緑王の目を逃れるなんてことが出来るのはーー」

「油断のならない手合いということね。そうなると、対応を変える必要がある。フィア様がいらっしゃるので大事にはならないと思うけれど、接触を図るべきかしら」

 一巡り前の「晴れときどき竜」作戦の最中、遊牧民たちを突破した先に居たのが、魔法使いだった。魔法使いは即座に姿を隠したが、僕に見られたのは予想外のことだったのか。僕が見て、魔法使いは隠れた。それは、魔法使いが僕を見ていた、かもしれないということだ。刺客だろうか、と考えるが、それにしては一連の魔法使いの行動に整合性がない。

「今日は、五つ音に会議だし、本日中に収穫がなければ対応を協議するかな」

 僕の消極的だが現実的な意見に、二人は納得の仕草を見せる。のだが、カレンの目が先程と同じ、いや、もっと如実な疑いを含んだ感じの、じとぉ~、とした粘着質なものを乗せて見詰めてくる。ちょっぴり頬を染めて、そんなに見詰められたら恥ずかしいですよ、と冗談を言って誤魔化したくなるが、実際にやったら破滅的な何かが訪れるような気がするので、背中の悪寒めいた冷たさを自覚しつつ自重する。気付いていない素振りでお茶を一口、然れども、この度の彼女は引く気はないようだ。

「降参です、カレン。何か思うところがあるのなら、なるべく真摯に応えるように努力するので、言っていただけると助かるのですが」

 これ以上は、精神の衛生上支障を来しそうだったので、両手を上げて、参りました、の姿勢を取る。僕の懇願に、或いは根負けした姿に、やっとこ甘心してくれるカレン。

「ランル・リシェ。あなた、私に隠していることがあるでしょう」

 疑問ではなく、確信や確定。背後の竜、ということで、先ず言い訳から始める。

「うん。竜の国に係わるものから、そうでないものまで、氷焔と行動を共にするようになってから、色々と言えないこと、言いたくないことまで抱え込むことになってしまった」

 世界に還ったミースガルタンシェアリの秘密を筆頭に、世界の有様からコウさんの内緒の話まで、振り返ってみれば、そんな事項で山積みである。それらを表に兆したことはなかったと思うが、秘密を抱えた上での、言葉の選択や思考に於けるわずかな遅滞、心の重心がどこにあるのかさえ看取してきそうなカレンだけに、驚きはないのだが。というか、いつかこうなると思っていたので。然ても然ても、どうしたものやら。

「私は侍従次長、彼は竜騎士の隊長です。その私たちにも言えないことなのですか?」

 カレンは、搦め手ではなく正面から斬り込んでくる。これがカレンの良い所であり、悪いところでもある。だが、今回ばかりは、情を絡める遣り口に否やはないので、斜めの方向に折れることにした。

「時機が来れば話すこともあるだろうし、知らないほうがいい、そんな秘密もある。でも、そんな言葉では得心してもらえないだろうから、一つ開陳(かいちん)、というよりお願いしたいことがあるので、二人に知っておいて欲しいことがあります」

 居住まいを正して、出来るだけ神妙さや殊勝さが感じられるような演技をする。

「先程、氷竜隊の希望として、氷竜を連れてきて欲しいとのことでしたが、実は氷竜に(つて)があります。竜の国に姿を見せるかどうかは、氷竜の気紛れーーではなく、スナ(あのおかた)の意思しだいになりますが。氷焔が不在のときにスナ(ひょうりゅう)が訪れたら、この事実を知る二人に対応して頂きたいのです。無論、このことは口外無用でお願いします」

 嘘は言っていない、と信じたいが、そんなことを思っている時点で、有罪(うそつき)かもしれない。

「炎竜氷竜の仲、と言うけれど、それは大丈夫なのかしら。みー様、延いてはミースガルタンシェアリ様の不興を招くことになるとしたら、やんわりとお断りしたほうが……?」

 カレンが率直に不安を述べる。まったく考慮に入れていなかったので、不意を突かれる。

 まさか、スナがみーのことを苛めるなんてこと……、……どうしよう、容易に想像できてしまった。いやいや、これはスナに失礼だ。スナは、遥かな時を跨ぎ、茫漠(ぼうばく)たる知恵を蓄えた尊き存在である。たかだか属性が反発するという理由だけで険悪になるなんてこと。

「そういうわけで、二人には、問題が生じたときには、両竜の仲立ちをお願いします」

 問題は皆無、と言おうとしたが、いや、ごめんなさい、とてもではないが、そんな嘘は吐けそうになかったので、御為(おため)ごかしのような物言いになってしまった。

「承りました、侍従長。今日のところは、それで許してあげます。ーー私たちは、これから闘技場へ向かいますが、行く先が同じならサシス隊長もご一緒しますか?」「っ、いや、闘技場での鍛錬までまだ時間があるから、っと、そうだった、用事があったのを思い出したから、これで失礼いたしますっ」「然う然う、もう一つ、ランル・リシェ、あなたに聞きたいことがあったのを思い出しました。サシス殿のご意見もお伺いしたく」

 サシスがカレンに弄ばれている。たぶん、侍従長時の僕の論理や交渉術から、学習しようとしているのかもしれないが、対象に選ばれてしまったサシスが(あわ)れで涙が出そうだ。

 カレンは優雅な所作でカップを回収してーーと、丁度お湯が沸いたところだった。どうやら、事前に準備していたらしい。ああ、何だろう、首筋辺りがぞわぞわする。

「意外でした。王様と竜の民は同等、役目と役割が違うだけ。始めに聞いたときは、そのような体制、上手くゆくはずがないと。いずれ統治し易い形に移行する為の方便だと思っていました。今では自らを恥じています。ランル・リシェ、あなたはどうしてこのような体制にしようと考えたのです。本当に根付くと思ってやったのですか?」

「それは、俺も考えたことがある。外地の奴らを纏めるのに、そんな安易な方法など、理想などーー、すぐに力ある者の理不尽が振り翳されると確信していた。フィア様の想いに触れ、揺れはしたが、答えが変わることはなかった。今だって、心の何処かで信じていない自分がいることを否定できない」

 おかしなことになっている。サシスから情報を引き出すだけだったはずなのに、僕が差し出す流れになっている。そうだなぁ、こうなったからには、この場を利用させてもらおう。ザーツネルさんにはある程度打ち明けたが、もう少し共有できる人間が欲しい。

「城街地で想いを語ったコウさん。カレンは、竜の国に来てからのことしか知りませんが。僕が氷焔に所属した当初の頃のコウさんは、魔法とその関連を除いた女の子は、駄目(だめ)()でした」「……えっ?」「……は?」

 突然何を言い出すんだこの馬鹿は(訳、ランル・リシェ)。という表情の御二人。いや、僕がそう見えた、というだけのことだが。彼らの心情が、不審の域に到達する前に言葉を継いでしまわないと。

「えっと、その気持ちはわかりますが、前提としてこの事実を受け容れてください。翠緑王の名誉の為に、詳細は省きますが、残念っ娘のコウさんは、魔力の弊害のことも含めて、人より劣った存在だと思い込んでいました。彼女の根本の想いは、自分も皆と同じように見て欲しい、というものでした。王様になったのも、人の為に尽くせば自分のことを見てもらえる、いえ、もっと心の底では、誰に見てもらえなくてもいい、皆に認めてもらえなくてもいい、ただ誰かの役に立てるのなら、それだけでいい、そのほうがいい」

 コウさんが王様になる決意をしたとき、微かに聞こえた言葉。これまで彼女を間近で見てきたからこそ、拾い集めて形になった。

 あのときコウさんは、もう一つの決意を、悲しく虚しい決意を固めていた。

 ーーひとりぼっちのおうさま。

 そうなりたいと願った女の子の想いは、嘘偽りのないものだった。

「無能っ娘で鈍感っ娘で夢想っ娘で嫉妬っ娘で我が侭っ娘で、ちゃっかりしてるし、おっちょこちょいだし、逆恨みはするし、自分の立場を弁えてないし、容赦がないし、怒りんぼだし、理不尽だし、みー様を甘やかし過ぎるし。ーー一応、優しい女の子ではあるし」

 何だろう、これまでのことを思い返すと、すらすらと言葉が出てきた。

「氷焔は魔物退治専門と言われていましたが、それ以外でも、人と接する部分はファタさんが担当していたみたいです。エンさんとクーさんは、人によって態度を変える人ではありません。コウさんも人と係わるのは苦手でした。国を造りたいと願った兄さんが、氷焔を選ばなかったことからも、そこら辺の事情は察してもらえると思いますが。

 どうしてこの体制にしようとしたのか、ではなく、氷焔の性質に鑑みて、こうするしかなかった、というのが本当のところです。それと、コウさんと老師は、僕に教えてくれませんでしたが、竜の民と接することで、コウさんの魔力による弊害が解消されるのではないかと考えています。多くの民と心を通わすことで得られるものではないかと」

 詳しいことはわからないが、感情に溜まった魔力が排出されなかったのは、コウさんの精神が安定していなかったからではないのか。竜の民と心を通わせて、魔力の遣り取りが為されるようになれば、きっと何かが変わるはず。

 コウさんが精神的な成長を遂げて、「やわらかいところ」関連を克服して、僕を必要としなくなる。それは一つの区切り、或いは目的達成(ゴール)なのかもしれない。

「えっと、王様の秘密も口外無用でお願いします」

「ええ、わかったわ。侍従長が心に溜め込んでいた、フィア様への悪口雑言は脳内に深く深く刻みつけ、すべて暗記したので、いつでも(そら)んずることが出来ます」

 顔色一つ変えず、お茶を嗜むカレン。その手があったか、と必死に僕が赤裸々に語った言葉を思い出そうとするサシス。人が折角、真情を吐露したというのに、この二人は。

 ……ああ、素直で真っ直ぐで純真で純情な女の子だったのに。どこで間違ったのか、竜の国の侍従長の薫陶を程好く受けて、僕の肩身を益々狭くしてくれるカレンなのであった。



 並んで歩くと通行人の邪魔になってしまうので、少し距離を取って歩いている。

 早朝から執務して、会議までの大凡の仕事は片付けてある。空いた時間で、まだ訪れたことのない施設等を見て回る予定だった。先ずは、カレンが希望した闘技場である。

「二人とも、休みが取れたんだ。カレンと時間が合って良かったね」

 並んで歩けない理由であるところの、フラン姉妹がぐったりとカレンの腕に寄り掛かる。

 普段なら、僕の言葉、というより、僕の存在自体に反発して、がなり立てていてもおかしくないのだけど。それだけの元気も気力もないようで、自分たちの疲弊具合に(かこつ)けて、カレンに甘え捲っている。

「カレン様! 聞いてください、あの魔獣(おーさま)ったら酷いんですよ、カレン様と寝たければ勉強しろ、なんて脅してくるんです!」「そうなんです、カレン様! あの邪竜(おーさま)ってば、絶対楽しんでます、あたしたちを苦しめて悦に入ってます! とギッタが言ってます」

 まだまだ姉妹は言い足りない様子である。こうして休みが与えられたということは、コウさんから渡された魔工技術の基礎である三十冊の専門書の内容を習得したということだろう。魔法関連では、コウさんは一切容赦しなさそうなので、お疲れ様、としか言えない。

 姉妹だけでなく、なぜかカレンまでぐったりしている。出掛けるまでは、元気な仔竜(うきうきるんるん)という感じだったのに、今は昔の魔法使い(じめじめいじいじ)といった具合である。

 僕たちに気付いた竜の民の皆さんが、道を空けてくれる、遠巻きに見てくれる、逃げ出す人もいる。あ、馬車が進路を変更した。いやいや、乗合馬車の定期便なのだから、勝手に道順を変えたら駄目だろうに。ばたんっ、と窓が音を立てて閉められた。

「人が多いところは、まだちょっと苦手なので、人避(ひとよ)け侍従長を褒めてやらないこともないけど、やっぱりやなので、ギッタ、侍従長(それ)蹴飛ばして」「わかっていますよ、罠ですね。蹴飛ばした足のほうが汚れるという。えいやっ。とギッタが言ってまずっ!」

 まったく何をやっているのやら。ギッタが僕に向かってサンを押したのだが、サンが一人で喋っているので、おかしなことになっている。あの夜にコウさんが言っていたように、二人は自分の人格がどちらかわからなくなるくらい、境が希薄になっているのだろうか。

「結論! 上から下まで、侍従長が悪い!」「左から右まで、以下同文! とギッタが言ってます」「ほらほら、カレン様。もっと離れて歩きましょう」「侍従長(あれ)は存在自体が汚れてます。……って、どうしよう⁉ 同じ部屋で、カレン様が侍従長(どく)が排出したものを吸っているなんて⁉ とギッタが言ってます」「やっぱり、あれは侍従長(ゴミ)よ‼」

 さすがに、執務室で同じ空気を吸っていることを揶揄するのは遣り過ぎだと思ったのだろう、カレンが真っ赤になって二人を叱っていた。

 後ろの騒ぎを聞き流しながら見澄ますと。侍従長は竜人である、という噂が駆け巡って、以前にも増して僕は忌避の対象となったわけなのだが、実はそれだけではない。侍従長を素手で昏倒(こんとう)させた、という美少女の噂も出回っていて、拍車を掛けているしだい。事実と異なっているからなのか、カレンは自分の噂が人口に膾炙していることに気付いていない。シアに聞いたところによると、始めは「侍従長の花嫁」なんて噂もあったらしい。はぁ、良かった。もしそんな噂がカレンの耳に入ったら、怒り狂った彼女にぎっちょんぎっちょんのばやばやーんにされていたかもしれない。ん? みーの言葉がうつったかな。

「まだ休日は無理かなぁ。ちゃんと時間を取って会いに行きたいんだけど」

「聞きました? ギッタ」「聞きましたよ、サン。どうやら憎からず思っている相手がいるみたい。とギッタが言ってます」「一日使って、しっぽり過ごすんですね、ずっぽり過ごすんですね」「まぁ、サン。そんな卑猥(ひわい)な言葉を使っちゃ駄目よ。とギッタが言ってます」「大丈夫。そこの侍従長(へんたい)は真性ですから何も問題ありません、ええ、ありませんとも」

 聞き咎めた姉妹がカレンと罵詈雑言を連れて遣って来る。カレンに甘えて元気と気力を回復したのか、双子が突っ掛かってくる。それから、言葉だけでなく指でも、人のことを毒とかゴミとか言ってたわりに、平然と背中をつんつん突いてくる。

「言い訳を聞いてあげますから、早く言いなさい」

 理不尽、という言葉を体現したような台詞である。でも、この姦しさに勝てる気はしないので、相手を特定される情報以外は、本音を吐露する。

「まだ三寒国に住んでいた頃、連峰で遭難したところを助けてくださった氷竜(かた)がいるんだ。竜の国にいらしていたらしく、僕が倒れた日に偶々お会いしたんだけど。命の恩人だし、スナ(あいて)も僕のことを気に入ってくれたようなので、ゆっくりとしたいんだけどね」「どのような方なの? 遭難ということは、猟師か冒険者?」「どのような、か。それはちょっと説明が難しい、かな。僕よりもずっと周期が上で……、そうだね。古びてはいるが、触れるのが恐ろしくなるような清廉な美しさを憂える書物。そこには千の叡智と、それに相反する千の理が記されている。と心象を語ってみたけど、やっぱり上手く表現できないかな」

 う~む、自分の想像力の無さが恨めしい。スナの魅力を語るには僕では足りな過ぎる。

「ランル・リシェ。あなたがそこまで心酔するような方なら、私も知己(ちき)を得たいと思うのだけれど、今度一緒に……」「ん? それは無理」「なっ、何故ですかっ」「えっと、僕たちが同時に休みを取ったら、国の業務が滞ってしまうし、交互に休まないと、ね?」

 なぜか僕を睨み付けているカレンに、当然の帰結として確認してみるが、彼女の首は縦に振られず、ぷいっと横を向いてしまった。フラン姉妹が口に手を当てて、にししっ、と勝利の笑みを浮かべている。……これは、お手上げである。女性陣の心情が理解不能なので、これ以上どつぼに嵌まらない内に、別の話題を持ち出すことにする。

「農業に従事してくれる竜の民が多くて良かった。報告によると、自分が食べる物を自分で作る、そのことに新鮮な喜びと充実感があるようだね。自分たちで食べる分は、自分たちで賄えそうなので有り難い。生産量が増えれば、竜の国に自生している食材を特産品として他国に売れるかもしれない。そういえば、お酒に関する問題はどうなっていたかな?」

 わざとらしいにも程がある。と自分でもわかっているが、竜にも角にも、未だ機嫌を損ねているらしいカレンに尋ねてみる。

「お酒が飲み放題、などという流言を取り払っても、酒造りを嘱望(しょくぼう)する人はまだまだ過剰。城街地で密造酒を造っていた人たちだけでなく、お酒好きの人まで、皆熱心でやる気に溢れているの良いのだけれど。このままでは、どこかの竜地を丸ごと使用しないといけなくなるような勢いがあるわ。子供のように目を輝かせるあの人たちの願いを袖にはしたくないし、……そうね、氷竜の地を使ってもらって、職人組合の方には、竜の手の先に、新しく竜の宝珠の地を造って。竜の都に近いほうが彼らにとっても利便性は高いはずーー」

 始めは気乗りしていなかったカレンだが、良い解決方法が思い付いたらしく、思惟の湖に沈んでゆく。然ればこそ、彼女に相手をしてもらえないフラン姉妹の鬱憤の矛先は、僕に向くわけで。ああ、上手くいかないものだ。仕方がない、この状況は僕が作り出したようなものだし、闘技場までは双子の溜飲を下げる為に、心を竜にして耐え抜くとしよう。



 ーーそんなこんなで世間様を騒がせながら、闘技場に到着。

 中央口から中に入ると、みーとエンさんが反対側の壁を走っているのが見えた。

 二人並んで、楽しそうに、どこまでもどこまでも壁を走ってゆく。三十人程の竜騎士が、二人と同じように壁を走ろうとするが、すぐに脱落。五人くらいが集団から抜け出て、細かい魔力操作は苦手なのか、デアさんが脱落。最後まで残ったのは、フィヨルさんとザーツネルさん。隊長と副隊長の対決である。二十歩程でザーツネルさんが力尽きて、避けるだけの余力がなかったフィヨルさんを巻き込んで落っこちる。その上を一周回ってきた炎竜と団長が駆け抜けてゆく。視線を上げて全体を見渡すと、観客席には誰もいないので寒々しい印象を受ける。頭上の空は快晴で、雲がないから余計にそう感じるのかもしれない。

「シア様と、シーソ?」

 意外な人物と出くわした。相変わらず無機質な、すべての感情が欠落したような瞳が、不躾に凝視する僕に向けられて、そのまま、ただじっと見られる。いや、見ているのかどうかも定かではない。意識は向けてくれている、そう解釈して、以前から考えていたことを提案してみる。

「シーソ。僕のところで働かないかい?」「いや、はたらきすぎで、しぬのは、いや」

 ぐっ、二回も嫌とか厭とか即答されてしまった。だがしかし、この程度は想定内、諦めるのはまだ早い。

「僕のところ、と言っても、僕の部下としてではなく、カレンの許で色々と学んでみないか、ということなんだけど。カレンは、総じて手本となるべき能力の持ち主なので、得る物は多いと思うんだけど、どうかな?」「何を企んでいるの?」

 カレンが訝しげな目で僕を見る。シーソは推移を見守って、はいないが、視線は逸らさず、こちらを見ていてくれるので、カレンとの会話を聞いてもらうことにする。

「里に招かれるには、選定者の目に留まる必要がある。でも、それ以外にもう一つ、選定基準があるわけだけど、覚えているかな」「勿論、覚えているわ。〝サイカ〟の推薦乃至(ないし)は二人以上の〝目〟の推薦」「そういうわけで、カレンの許で学んで、相応の実力を示せば、僕とカレンで推薦して、〝サイカ〟の里で学ぶことが出来るんだけど」「ランル・リシェ、あなたが見込んだのであれば、間違いはないのでしょうが……」

 カレンが戸惑うのも無理はない。シーソに〝サイカ〟としての資質があるとは思えないのだろう。人との係わりに聡くなければ、〝サイカ〟には不適格。

 竜の国の子供は、竜舎に通うことになっているのだが、強制ではない。自費で子供に、より専門的な教育を受けさせる親の意向は尊重するし、子供自身が働きたいと望んだ場合も同様である。後者のほうは、時間を掛けて良い方向へ動かしていくしかない。

 そして、シーソは数少ない例外。その言行から酌むのは困難だが、シアに頼まれて試問したところ、あに図らんや、すでに広範な知識と高い見識を持っていたのだ。竜舎に通う必要のない彼女は、シアの下で働くことを選んだ。

「いらない、シアには、たすけがいる、あなたには、たすけはいらない」「シーソ、〝サイカ〟だぞ〝サイカ〟、もっと良く考えてからーー」「あたしはいらない、やくにたたない、シアがそういうのなら、すこし、ほんのすこし、かんがえてみてもいい」「く~、この意地悪め、僕がそんなこと言うわけないって知ってて言いやがって」「……えっへん」

 見ると、シーソの視線がみーに向けられていた。それを察知して、竜速(ちょっぱや)で遣って来て、

「えっへんっ!」

 対抗心丸出しのみー。あれ? この二人、もしかして気が合うのだろうか。

「はーう、しーなのだー、ひさひさなのだー」「ひさひさ、すりすりは、さんかいまで」

 気が合うどころか、知り合い、いや、友達同士に見えるのだが。

「しーは、かくれりゅーがとくいなのだー。でもでもー、りゅーのおめめとおみみはいっとーしょー!」「りゅうのかんかく、はんそく、しごと、なんかいも、じゃまされた」

 情報収集の際、目立たないように行動した結果、逆に竜の鼻に付いてしまったのだろう。二人の遣り取りから、遭遇した回数は多くないようだが、みーはシーソがお気に入りのようだ。どこら辺が竜の琴線に触れたのかわからないが、コウさん水準、は言い過ぎでも、それに準ずるくらいには、心を許しているように見える。シーソの言葉通り、すりすりを三回で止めると、背中に飛び乗って、首に手を回して、

「っと、ちょっと待ったーーっ⁉ 同伴での『飛翔』はまだ駄目です‼」

 二人の体が、ふわっと浮かんだところで、飛び掛かるようにして止めた。

「むーう、もーみーちゃんとべるんだぞー、しーをおそらにごしょーたいなのだー」「それは心得ています。でも、誰かと一緒に飛ぶことを、フィア様から許可頂いていますか?」「しらぬぞんぜぬはー、りゅーのきほん?」「それは、成竜になってからにしましょうね」

 まぁ、確かに、基本竜は人のことなど気に掛けたりしないのだけど。みーにとってのコウさん。スナにとっての僕。この関係は、きっと贈り物のようなものだ。大事にする為にも、コウさんにはみーの教育を頑張ってもらわないと。って、くっ!

「駄目ですよ、みー様。まだ完全には治っていないんですから、噛もうとしないで下さい」

 ぎりぎりで引き抜くことに成功。ファタを脅す為に傷付けた掌は、もう包帯を必要としていないが、みーの牙でざっくりやられると、傷口が開いてしまう(おそれ)がある。

 あー、もしかして。以前、みーの頭を撫でようとして、手を噛まれた。そのとき、血を吸われたわけだが、噛み付こうとしたみーの目的は、僕の血?

「こーら、ちみっ子ー、名誉隊員が鍛錬おさぼりたぁー、他ん隊員示しつかんぞー」「まーう、しー、たすけてーなのだー」「だんちょうに、しゅくふくを」

 シーソは相変わらずの無表情で、みーの救援要請を辛辣(しんらつ)に斬って捨てる。

「ふむふむ。じゃーしゃーねーなぁ、ちみっ子にゃ取って置きってやつん教えてやんか」

「さーう、なにやるのだー?」

 ぶふっ……。全力で逆振りのみーに、皆の気が、ぷしゅー、と抜けてしまう。竜心とギザマル大移動、予測がつかないとはこのことか。

「さすがみー様。御自身の欲望に忠実であらせられる。我も見習わねば」

 信仰心を拗らせたデアさんが、とんでもないことを言いながら厳粛に頷く。見ると、彼の横にはザーツネルさんが居た。そして、ザーツネルさんの後ろに、隠れるようにしてフィヨルさんの姿が。「竜饅事件」の所為か、以前より僕を避けるようになったような。

「お疲れ様です。鍛錬は終了ですか?」「壁走りで、自己の記録を更新したら終わりだな。ある程度、魔力操作が出来ていれば、上達の速度もあがるんだが。骨が掴めるようになるまでが肝だな」「魔力を纏うことと、それを操るのは別ということですね」

 報告によれば、エンさんの指導のもと、竜騎士は全員魔力を纏うことが出来るようになったらしい。はぁ、ちょっと複雑である。僕の特性は、稀有(けう)なものである。然あれど、僕には無いものを使って、正しく能力を向上させていく皆の姿に、一抹の寂しさを感じてしまう。贅沢、と言われるかもしれないが、人の心とは儘ならぬものである。

 エンさんは、両手を横に伸ばしたくらいの円を魔力で地面に描くと、シーソの背中にしがみ付いているみーの角をむんずと掴んで、小石でも抛るように軽々と後ろに、ぽいっ。

「だ、団長! みー様と仲が良いのは承知しているが、もう少し丁重に……」

 円の真ん中に、たしっ、と見事に着地したみーを見守りながら、デアさんが(いさ)めようとするが、エンさんの半眼に言葉を継げなくなる。

「こら、でかぶつ。大切んすっことと甘やかすってこたぁちげーぞ。手前ぇが何望んでんかぁ重要だが、それん相手ん為んなんなきゃ、単なる押し付けんなっちまうぞ。

 尊いとか言われる奴ぁ、模範的ん行動しかしちゃいけねぇのか? 悪ぃことしても、叱らねぇで許す、それぁ正しい信仰ん在りかたってやつなんか? 全肯定すんなら、中途半端んことすんな。そーじゃねーなら、もっと竜ってやつんこと知りやがれ。でねぇと、そんうち、ちみっ子ん相手してもらえなくなんぞ」

 思うところがあったのか、一気に捲し立てるエンさん。説明が苦手と言うだけあって、突飛な物言いに聞こえるが、軸はぶれていない。デアさんには、始めと終わりの文句が効いたらしい。むぅ、と呻いて、考え込んでしまう。

 みーを可愛がるのが信仰なのか、と問われて、その通りだ、と応えることが出来ず、それ以外の言葉を提示することも敵わない。……あれ、なんか酷い譬えになっているが、本質は変わらない、よね。まぁ、あれだ、高価な器があったとして、使わずにしまっておくことが、使わずに飾っておくことが、器にとって幸せなことなのか、ということである。器は、人、に置き換えることも出来る。大切にする、その意味を履き違えてはいけない。

 スナから教授されたことだ。エルルさんの屈託の無い笑顔を思い出す。スナだったら、デアさんの信仰心が揺らいでいる姿を見て、人の愚かさを再確認して、冷笑を浮かべたことだろう。世界に果てはあっても、人の愚かさに果てはない。さて、誰の言葉だったか。

「うーし、ちみっ子ー、見てやがれ。こーやって、体ぁ動くと、だ、体ん真ん中ん重心、こーなって動くってわけだ」「あーう、じゅーしんでじゅーじゅーやくのだー」「そーだ、体ん真ん中ん、ぐわんぐわんってあるやつだ」「よくわからないけど、よくわかったのだー。ぐわぐわぐわんっ、ぐぐわわぐーわんっ」「ってーわけで、逆んありってわけだ。重心動きゃー後から体ん動くってことでやってみんぞー」「わんっ」

 みーとエンさん。毎回会話が成り立っているのが不思議で仕様がない。きっと、深いところで感性が通じ合っているのだろう。どちらを褒めればいいのか、難しいところだ。

 エンさんが右に動いて、止まる。通常なら、右足を基点に左か前後に移動するところだが、そのまま滑るように右に移動する。そして、同じような動作の繰り返し。体勢と移動方向がちぐはぐで、見慣れていない人には、ちょっと気持ち悪く見えるかもしれない。

「団長は、取って置き、と言ってたが。あれは闘いの役に立つ、……のかわからんな」

「闘いに取り入れられれば、効果はあると思いますよ。夜の鍛錬で、始めの頃は手間取りました。予測と異なる威力、予想外の位置からの攻撃、そういうことが可能になりますからね。クーさんのほうは、重心移動ではなく、力の流れを制御する、という技法みたいです。ばらばらに動いている体の力の流れを意識して無駄を省く、のだそうです」

 ザーツネルさんと話している間に、みーの動きが可愛らしいものに、ではなく、重心移動を覚えたのか、一見すれば踊っているように見えなくもないものになってゆく。

「おっし、ちみっ子ー。手ぇ使わず、こん円から追ん出したほーん勝ちだ」「みゃーう、ししょーをこえるのは、でしのぎむなのだー」「はっはっはっ、三巡りはえーぜ、ちみっ子! かかってこいやぁ」「どーう、とつげきとっかんっ、しゃにむにむにむにっ」

 随分と現実味のある日数を口にするエンさん。そして、二人が同時に円の中に飛び込んで、勝負開始である。勝負終了である。気の抜けた声がみーから聞こえてくる。

「ぼぎゃ」

 二人が入ると、意外に狭い円の中から、接触した途端にみーが弾かれて、そんなとこだけクーさんの真似をしなくていいのに、顔面から地面に落っこちた。

「まーう、まやまやなおあー」「はっはっはー、きやがれっ」「もやーん!」

 顔を打った所為なのか、呂律(ろれつ)が回らないみー。当竜はまったく気にしていないらしく、妙な掛け声とともに再戦である。おっ、今度は弾かれなかった。だが、みーとエンさんの体がするりと入れ替わって。もっ? と敵失(てきしつ)したみーが前回と同様の末路を辿る。

 あ、よしよし、二回目からは、顔から落ちるのを回避してくれている。あれは、見ているほうにも衝撃があるので。みーの挙動から荒さが抜けてゆく。軽くあしらわれていたのが、五回の敗北を経て、反撃できるまでになっていた。然はあれどやはり体格の差が如実に現れるようだ。細かく動き回って対抗しようと試みているが、まだエンさんに及ばない。

「さー、ちみっ子! 最後ん一回だ、全力ん相手してやらぁ!」

「さいーしゅーりゅーしゃー、どんづまりのみーちゃんなのだー!」

 どうやらエンさんは、僕らを慮って、全力を出していなかったらしい。一応、カレンと双子が庇える位置まで移動する。

 たぶん、特別な意味はなく、気分とやる気の問題だと思うのだが、腕をぐるぐる回しながら円に向かって突撃していくみー。敢然と待ち受けるエンさん。円に入る間際、みーがエンさんの許まで滑るように移動して、(くるり)っ、と斜めに飛び上がりながら、

「りゅうのっ、どっすんっ!」

 竜声(きあい)ごとエンさんの腰から脇腹付近に、疾風怒濤のやわらかお尻攻撃(いんぱくとえんりゅー)

 対して炎を身の内に魂を熾して静かに待ち受けるエンさんは、その場でみーと逆回転の、転っ、と確固不抜のおかたいお尻邀撃(すたてぃっくふぁいやー)

 壮絶なお尻のぶつかり合いは、お尻の柔らかさが敗因だったのか、もとい回転の鋭さの違いからか、みーが勢いよく水平に弾け飛ぶ。みーは、僕たちのほうではなく、誰もいないところへーー、然しもやは竜の危機に駆け付ける大きな影が一つ。

「ぽひゃー」「ふんぬっ!」

 魔力を纏っているのだろう、巨体に見合わぬ速度で駆け寄るデアさんが、みーを抱き留めようと滑り込む。だが、ここで彼は、致命的な過誤を犯した。大切なみーをしっかりと受け止めようとしたのだろうが、それでは間に合わないのだ。頭から飛び込んで、両手で捕竜しなければならなかった。然し、当のデアさんは、魂よ砕けよとばかりに砕身(さいしん)して、「ばぴ」

 みーに乗り上げた。そして、潰れた竜のような声を上げた小さな体を、その巨体で擦ってゆく。ようやっと止まったデアさんが、世界が破滅した瞬間を目撃したかのような絶望と狂乱を抱えて振り返ったとき、幼き竜はぴくりとも動いていなかった。

「ぐおぉおおおおぉーーっ、我はっ、我は何ということを! 是非も知らずぶふぅっ……」「わーう、みーちゃんげんきばくれつやるきさくれつ、きりょくなかりょくでふっかーつなのだー! あや? くーなのだー」「来て早々、自害しようとする馬鹿に氷をぶつける羽目になるとは」「みゃーう、みーちゃんひゃっこいのにがにがなのだー」「ふふっ、大丈夫。あたしの心はみーへの愛情で灼熱状態(ほくほく)。いつでもみーを暖めてあげられる」

 次は近衛隊が闘技場を使用する番なのだろう、デアさんの後頭部に「氷球」を直撃させて気絶させたクーさんは、溢れ過ぎた愛でみーを抱き締めようとするが。すでにみーは、彼女にお尻を向けて遠ざかっていた。まるで自然の法則のように追尾するクーさんの視線には、気付かなかった振りをする。

「ざー、いっくのだー!」

 クーさんだけでなく、ザーツネルさんにも背を向けたみーの行く先は、誰あろう、エンさんである。そのままの勢いでエンさんに向かって片足を振り上げると、たーう、と、ほれっ、という竜焔(ふたり)の掛け声が重なる。みーの足が手に乗った瞬間、みーの跳躍に合わせて上空に放り上げる。くるくるくるんっと回転しながら、更にみょんみょんと捻りを加えたみーの落下先は、過たずザーツネルさん。慣れているのか、脱力してみーを受け止める準備は完竜のようである。二人の息はぴったりで、合っ体っ。

「みゃふんっ」「おっ、みー様、直前に『飛翔』を使われたのですか?」「あーう、はじめてのとき、ざーはいたがってたからー、みーちゃんやさしくしてあげたのだー」「……いや、あの、宰相様、そんな人を呪い殺しそうな目で見ないでくださいな」

 大道芸のように、見事にみーを肩車したザーツネルさんを、嫉妬に狂った女が襲撃しようとしてエンさんに止められる。首根っこを掴んだエンさんは、ぐる~りとクーさんを振り回して。座った状態で気絶していたデアさんの後頭部に(かかと)が、がごっ、と当たる。

「ぐっ⁉ むっ、我はいったい……、何ぞ?」「あー、デア、何もなかった。何もなかった、ということにしておけ、な?」「ぬ? よくわからぬが、あいわかった。何か想像を絶するようなことがあったような……」「そんな些事よりも、だ。俺よりもお前のほうが身長が高くて、遠くまで見渡せると思わないか?」「何を戯けたことを……っ、た、確かに我のほうが適任であるか!」

 面倒がないように、上手く誘導していくザーツネルさん。然のみやはみーに確認を取る。

「みー様。あちらの大男のほうが高くていい感じかもしれませんよ。移動してみましょうか?」「むーう? ざーのすわりごこちいっとーしょーなんだぞー」

 ザーツネルさんがみーを肩車している光景を何度か見てきたが、そんな理由があったとは。当のザーツネルさんは、座り心地が最高と言われて、どう反応したらいいのか迷っているようだ。あー、もう面倒だから、嫉妬狂いの二人は諦めてください。

「……それは、光栄の極みですが、もっといい感じの肩を探究されてはいかがですか?」

「ふーう、そのてーあんにはすくなからぬきくべきところがあるよーなきがするかもー」

 気が乗らなそうなみーだが、言質を取ったザーツネルさんは、みーの太腿の下に手をやって、膝を落とす。そして、受け止める準備をするよう、デアさんを促す。

「それでは、いきますよ、みー様!」「でゃー、いっくのだー」「我が全霊を懸けてっ⁉」 デアさんが壮大な口上を述べようとするが、そんなものをザーツネルさんが待っているはずもない。再び風とお友達になったみーの落下点に慌てて入る、のだが。捻りを加えていない、くるりんぱな縦回転だけなので、そこは後ろを向いて受けなければならない。

 然も候ず、その結果は自明のことである。

 ぽすっ、と後ろからではなく、デアさんの前から、合っ体っ、のみー。いつもと感じが違うので、落ちないように彼の頭に、がしっ、としがみ付く。みーの体の、色んな部分が、顔面という、様々な感覚の集まった場所に総動員されて。ーー斧使いは静かに逝った。

「きぜつ、してる」

 つい、と顔を上に向けたシーソが、無感動に僕の心の声を正してくれる。

 あー、そこは黙っていてあげるのが、優しさなのかもしれない。と愚考するしだい。シーソの顔には、おとこってばかね(訳、ランル・リシェ)、と書いて……なかった。いつも通りの無表情だが、何も考えていない、ということはないだろう。シーソが笑うところも見てみたいものだが。それが出来るとしたら、シアか子供たちか、遠慮呵責なく踏み込んでいくみーなのかもしれない。

「おーう、おちないぞー、おちてはならぬときが、りゅーにはあるのだー」

 「飛翔」を使わないという奇妙な拘りを発揮しながら、器用に足を振りながら後ろに回る。みーの「りゅうのはっぷん」で蘇生したらしいデアさんに、面倒見の良いザーツネルさんが、先程と同様に何もなかったことにしようと誘導中。

 う~む、騒がしいことこの上ない。これは、人を減らしたほうがいいだろう。

「カレン。ずいぶん大人しいね」「……ランル・リシェ。そのようなことはありません」

 みーが遣って来たくらいから、闘る気満々でそわそわしていたカレンを出汁に使う。

「エンさん。相手をしてあげてくれませんか、ーー三対一で」「そりゃ、面白そーだなぁ」

 三の内の二である双子に視線を向けると、さっそく噛み付いてこようとするので、

「二人は、カレンとの間に様々な絆を結わえてきたことでしょう。どうです? そこに、戦友、という絆を新しく(こしら)えてみるというのは」

 先手を打って、姉妹の鼻先に餌を吊す。あとは、場にそぐわない二人を。

「みー様は判定役をお願いします。デアさんは、みー様の支援を恙無(つつがな)くお願いします」「だーう、みーちゃんのどくだんとへんけんとえっへんっ、でしょーぶはけっするのだー」「是非も無し。喜んで引き受けよう」「でゃーのおめめをかくしてもー、まっすぐすすむでゃーなのだー」「みー様が与えたもうた試練、我が全霊を懸けて乗り越える所存っ!」

 さて、最後にエンさんに要請をして、完竜である。

「あと、エンさん。負けそうになったら全力を出すのではなく、そのまま負けてください」「ん? どーゆーこった?」「手加減をしているときは、その力量を維持したまま、相手に対応する。エンさんは団長なのですから、そういう遣り方も覚えてください」「えー、めんどくせー」「隊員に達成感を与えないのはよくないですから、練習です」「ちぇっ」

 これはエンさんだけでなく、フラン姉妹にも向けたものである。彼より強い双子に、カレンのことになると目の色を変える姉妹に、遣り過ぎないようにね、とそれとなく釘を刺しておく。サンとギッタは、僕にスーラカイアの双子の、本当の力について知られているとは思っていないだろう。それでも、多少の効果はある、と期待しておこう。然てこそ六人が移動したことで、だいぶすっきりした。これで話し易くなっただろう。

「シア、じじゅーちょーが、こわいひとが、わざわざばをつくった、はやくする」

 あれ、なんだろう、シーソの言葉に棘があるような気がするのだが。もしかして、カレン、コウさんに続いて、シーソにまで嫌われてしまったのだろうか。女の子から嫌われる、そんな呪いでも掛けられているのではないかと疑ってしまいそうになる。まぁ、これは僕の被害妄想で、きっと僕に至らぬ点が多々ある所為とわかってはいるのだが、はぁ。

 残ったのは、(クー)(さん)と黄金の秤隊の隊長副隊長(おふたり)侍従長(こわいひと)に王弟の懐剣(シーソ)。聞き役としては、悪くない面々だと思う。いや、遠ざけた人たちが、そうでないとは言わないが。

「あの、クル様! 剣を教えてくださいっ!」「シア様、それはいけません。選択を誤ってはなりません」「あ~、それは止めといたほうがいいな」「それは……、お勧め致しかねます」「シア、じんせいぼーにふるのは、まださきでいい」

 シアの真摯なお願いを、全力で阻止しようとする皆さん(ぼくたち)。ナイフと片手剣の違いはあれど、二本の刀剣を用いる者同士。少年の目には、クーさんの双剣が眩しく映じるのかもしれないが、常識を弁えている人間なら、彼女の剣がいかに無理筋かが理解できてしまう。

「ふふっ、これはあたしから話したほうが良いか」

 畢竟するに、クーさんの剣のことを誰よりも知っているのは、クーさんである。皆の否定を心地良さげに受け止めて、シアに視線を向けた瞬間、抜き放った二本の片手剣を上空に抛る早業。二本の魔法剣の片方を右手で掴むと、弾いたもう片方がくるりと一回転して左手に収まる。それから、普段は見せることのない幾つかの型を披露する。僕よりも剣に詳しいザーツネルさんとフィヨルさんが、明らかに理法に反した型に眉を顰める。

「師匠は、体術は得意だが、剣は苦手。そういうわけで、あたしとエンは、隣村の元兵士という人に剣の基本を習った。あたしの上達は早かったが、エンは別格(べっかく)。知り合いの騎士団長に推薦状を書いてやる、とか言われていた。まだあまり動けなかったが、コウの魔法が特別なものだということは肌で感じていた。そして、エンの才能も。

 あたしは、一人、取り残される。駆け抜ける速さが違う。置いていかれる、見捨てられる恐怖に、慄然とした。それでも、諦めるという選択肢はない。だから、あたしは考えた。どうすれば二人と一緒に、恥じぬ自分でいられるのか、考えて考えて考えてーー。

 同じことをして追い付けないのなら、違うことをしなけばならない。幸い、と言っていいのか、その頃にはコウの魔力による影響で人並み以上の魔力を扱えるようになっていた。一本で勝てないなら二本、という単純な発想。でも、それだけでは駄目。二本の剣を普通に扱うだけでは届かない。だから、あたしは師匠に剣の型を作ってくれるよう頼んだ。

 剣の素人である師匠の、条理に反した型。それを魔物との戦いで、使えるものにしていった。あたしの剣に倣うのを、皆が反対するのも当然。あたしの剣は、常道を外れた奇剣に属するもの。あたしの真似をするくらいなら、シアは冒険者ではなく国に属しているのだから、(やり)を覚えてみるのも良いかもしれない」

 クーさんが踏み締めてきた場所を、シアが歩こうとしている。先達者としての役目、いや、弟になった少年の為に、振り返るように思い出を語ってゆく。

 シアは優れた資質を持っているが、現時点でのそれは、それ以上でもなければ、それ以下でもない。コウさんの役に立つ。少年が望んでいる場所は、果てしなく遠い。弟として側にいる、それだけで姉は満足してくれる。だが城街地で、支えていてください、と頼まれたとき、コウさんの弱さを、本当の姿を垣間見てしまった少年は、自らに熾った炎で、望む以外の道を焼いてしまったのだ。

「かんわきゅうだい、ぼうけんしゃ、やりつかっていない、おしえて」

 シアのことを慮ったのか、シーソが見上げた先には、黄金の秤隊の二人。

 ややもすると、まったく興味がなさそうな目でじっと見るシーソに、気後れした感じでザーツネルさんが横に二歩ずれて、シーソに質す。

「どっちに教えて欲しいかな?」

 ザーツネルさんが冗談めかして言うと、シア曰く、意地悪であるところのシーソがフィヨルさんに顔を向けたのは、当然の帰結と言えよう。

「……それでは、ご指名を受けましたので、説明致します。無論、状況によって異なりますが、戦争では、先ず弓矢や投石、その後、槍を用います。遠くまで飛ぶ矢、威力のある弓、槍の形状や長さなど、戦争の勝敗に直結します。それらは、国の機密になります。彼らは、それらを造る職人を囲い、契約が切れるまでは外部に漏らすことは許されません。冒険者に槍を武器とする者がいないことの理由の一つは、それを造る者がいないから、ということになりますが、別に大きな理由がもう一つあります。

 そこで、シーソさんに質問なのですが。槍を持った十人の騎士と、剣を持った十人の冒険者が戦いました。勝つのはどちらでしょう?」

「かつのは、ゆーのーなしきかん、いるほう、でも、きしのほうがかつ、いってほしそうだから、ぼうけんしゃがかつ、ことにしておく」

 シーソなりに気を使ったのだろうか。ああ、フィヨルさんの顔が、竜に花束を差し出されたみたいな、頓狂(とんきょう)なものになっている。だが、さすがは武闘派の黄金の秤を率いてきた男。一呼吸で冷静さを取り戻して、いや、取り戻した振りをして、話を続ける。

「あの、そのですね、実際にどちらが勝つか、というのは重要ではありません。重要なのは、自分たちが勝つ、と騎士の側が思っているということなのです。騎士と冒険者が戦えば、騎士が勝つ。騎士にとっての自明、冒険者にとっての建前、というところでしょうか。

 冒険者は、武力を持った人間です。団や集団は、どう取り繕ったところで武装集団です。それが所属している国々に許容されているのは、いざ事が起こったとき、容易に鎮圧できる、と思われているからです。その象徴の一つが、武器の優位性。つまり、槍になります。

 冒険者が槍を持たない、というのは、国に反抗する意思がない、という証しなのです。ときに、槍を持つ冒険者が現れますが、そのような場合は先達の冒険者や組合の人間がそれとなく、槍を持ってはならない、ということを伝えます。集団は、多くても百人前後。国の利益と競合しない。住み分けを意識するなど、組合は気を配っているようです」

 フィヨルさんは説明を終えると、気配を消しながら、それとなく後ろに下がってゆく。

 それだけの知見があるのだから、もう少し堂々としていればいいのに、と思うのだが。僕も人の性質をとやかく言える立場ではないし、色々と失敗している身でもあるし、現状に鑑みて、他人より先ず自分を省みる必要がありそうだ。

「ーーコウの匂い」「……クーさん。そこは、せめて気配って言ってください」

 前触れもなく翠緑宮のある方角に視線を向けたクーさんに、溜め息混じりに訂正をお願いする。実際には、コウさんの魔力を感じてのことだろうが、もしかしたら本当に匂いを嗅ぎ取っているのかもしれない。クーさんなら有り得ないことではない、と思ってしまう時点で何をかいわんやだが。

「障害物だったり落とし穴だったり、やってくれんじゃねぇか」

「カレン様に被害が出ないように、ちまちまじめじめ嫌がらせ支援攻撃」「踏み締めている大地が信用できない恐怖に打ち震えるがいい。とギッタが言ってます」

 見ると、意外と冷静に支援に徹している双子がいた。二人の支援を受けたカレンと、エンさんは互角。双方にとって、良い鍛錬となっているようで、何よりである。

 皆が自然と見応えのある戦いに感興をそそられていると、「飛翔」で飛んできたコウさんが音もなく着地する。寸前まで「隠蔽」を使っていたのだろう、シアと黄金の秤の二人が驚いて、わずかに身を引く。シーソが驚かなかったのは、若しやコウさんが見えていたから。と推測してみるが、まったく揺るがない少女から答えを得ることは出来なそうだ。

 エンさんとカレンぷらす双子が試合(しあ)って、判定役のみーを肩車したデアさんが常に見易い位置を模索。鍛錬を終えた竜騎士に、交代時間になって遣って来た近衛隊にと、大盛り上がりである。然し、コウさんの目的は、手にした二本のナイフにあるようで、

「はい、シア。これをどうぞなの」

 小走りでシアの許に行き、そっと両手で差し出した。満足気な笑顔に朗らかさを散らした王様から、反射的に受け取る王弟。然し、渡された理由がわからなかったようで、焦燥(しょうそう)に揺らぐ眼がコウさんとナイフを行き来する。

 一見すると、何の変哲もない普通のナイフのようだが。目立つような装飾は施されておらず、無骨な造りだが、魔除けの為だろうか、銀が使われているようにも見える。シアの持つナイフより、やや大振りな代物。だが、まぁ、コウさんが持ってきた、糅てて加えて、彼女が造ったものかもしれない、という時点で、規格外の魔具ではないかと警戒、もとい懸念を抱いてしまったとしても仕方がないことだろう。いや、悪気はないのだが。

「魔法剣は、造るのを禁止されてるので、職人さんと一緒に造ったの。私の髪の毛とか血とか、唾液を混ぜてあるの。だから、準魔法剣……魔力剣みたいなものなのーーあ、シアはそういうの、嫌だったりするの?」「っ! そ、そんなことありません! 嬉しいです。一生大切にしま…す……」「シアの魔力に合わせて、調整してあるの」

 いたいけな子供、を先頃卒業したらしい純真な少年の瞳が、少女の唇に固定されて、何やら疚しい、というか、悩ましい感情の縺れの末に、持ち前の克己心を発動させることに成功したらしい。……純真そうな女の子の口から発せられた、唾液(もにょもにょ)、の部分に反応してしまった男の子を責めることなんて出来ない。たぶん、ナイフを造る工程で、舐めることによって魔力を練り込むなり何なりしたのだろうが。魔力付与の触媒として使用したのだとして……。はぁ、困った。また一つ、秘密にしなくてはならない事項が増えてしまった。

 コウさんの言葉から、魔法剣がどのようにして造られるのかが予測できてしまった。魔法剣を所持しているエンさんとクーさん。二人が製造を禁止するのもむべなるかな。

「ナイフは、皆からの贈り物なの。シーソさんや子供たちが、シアに何かしたい、ってお願いしてきたの。竜の国に来てから、働いた全部のお金を持ってきて。ナイフを造るのも手伝ってくれたの」「……あいつら」

 ただ只管に、今日を生き抜くことに必死だった子供たちは、竜の国に遣って来て、明日のことを考えられるようになった。自分を、仲間を、他人のことを思って、辿り着いたことの一つが、これまで尽くしてくれたシアへの感謝だったのだろう。

 シアは、二本のナイフを胸に抱いて、目を閉じた。でも、無駄だった。涙は止められない。誰かの為に何かをして、いや、誰かの為、なんて思っていなかっただろう。シアもまた、今日を生き抜く為に、仲間と共に果てのない、見えない場所に向かって歩いているだけだった。その意味を考えることをせず、ただ続いていくだけの今日を生きていた。

 そうして過ぎ去った時間は、彼らのもので、誰のものでもない、忘れていても、見失っていても、彼ら自身のものなのだ。

 竜の国が過去と未来を繋ぐ、その為の手助けができたのだとしたら。

 ーーこの漠然とした不安を洗い流してしまえる。そう思い込もうとしたが、失敗した。

 僕は上手く遣れているだろうか、どこかで間違えていないだろうか、消すことが出来ない自分の影のように、ずっと張り付いて離れない。カレンのお陰で睡眠時間が多く取れるようになったというのに、寝付けなくなる日が増えてきていた。以前よりも、夜の闇の暗さを漫然と受け容れることが出来なくなっていた。……はぁ、いけないいけない。原因のわからない不安、というか、そもそもあるのかどうかさえ疑わしいもやもやしたものを払拭しようと、頭を軽く振って、気を紛らわせる為に王様を利用させてもらう。

「折れない剣と壊れない盾への『付与』は一瞬で完遂していましたが、魔力剣とは製法が、というか、性質ですか、どこが違うんですか?」

 気になっていたことを尋ねてみると、コウさんが丸かった。ではなく、可愛かった、でもなく、いや、可愛いのは本当のことだが、そうではなく、盛大な膨れっ面だった。

「すぐに済んだのは、準備が終わってたからなのです。準備自体には、三日掛かったのです。恩知らずは、竜に頭を百回撫でられて、生え際が薄くなるといいのです」

 憤懣(ふんまん)やるかたない翠緑王の言葉は、僕を通り過ぎて、ザーツネルさんを素通りして、フィヨルさんに突き刺さった。……ああ、気苦労が絶えない彼のことである、髪の物量について、思い当たる節でもあるのかもしれない。

「シア。経験、ということで、折れない剣の柄に触れてみると良い。それと、リシェは、剣のことをもっと知ったほうが良い」「俺も興味があるので、試させてもらうとするかな」

 危ない橋を渡るなら、ということで、ザーツネルさんが気後れするシアの尻を叩く。

 そこは男の子、ザーツネルさんに先にやってもらうわけにはいかないので、僕が差し出した剣の柄を、儘よ、とばかりに一気に掴むーーことは出来なかった。掴もうとしていた手の一部が触れた瞬間、火に炙られたように苦痛に顔を歪めながら手を引いて。その手がそのまま、吐き気を抑えようと口に持っていかれる。嘔吐感や発汗、悪寒からの身慄い。それと剣が憎ければ持ち主まで、ということなのか、嫌悪というか拒絶というか忌避というか、そういうものをごちゃ混ぜにした悪感情が僕に向けられる。続けてザーツネルさんが魔力を右手に集めたような動作で、折れない剣を掴んで、半瞬後に離して、がくりと膝を突いた。苦痛か、或いは疲労の度合いが酷いようで所感を述べることも出来ないらしい。

 コウさんが二人に「治癒」を施すが、効果は薄いようだ。「治癒」は、病気や精神的なものには効き難いので、って、どうしてコウさんまで僕を睨んでいるんですか。僕の剣を、折れない剣にしたのはコウさんだし、「治癒」が効き難いのは僕の所為ではありませんよ。

「体験、と言ったのは、魔力の毒を受ける機会は、然う然うないということ。多過ぎる魔力は毒になる。そうと知っていても、それを実感するようなことは殆どない。

 そういうこと。気をつけな、リシェ。そんな(もの)、あたしやエン、師匠だって相応の対策をしないと持てない。使い様によっては、拷問の道具にすらなる。相手にくっ付けるだけで、相当な衝撃を与えられる。そうさね、折れない剣を分類するなら、魔剣が適当」

 あ、コウさんがちょっと不服(ふふく)そうだ。自分が係わったものを貶されるのは、僕が係わっていたとしても、嫌なものは嫌、らしい。

「コウ。あの二本の木剣ーー」「嫌なの」「姉の命令」「妹の反抗期」「大切な弟の為だとしても、あたしの可愛い妹は反抗期継続中(かわいいまま)?」「ふぁ、……綺麗で格好良い(かわいくない)姉は卑怯なの」

 最後の捨て台詞で、コウさんの敗北決定。そして、二本の木剣、とクーさんが言った時点で、そうです、僕の諦めも完竜しています。

「魔法の使用は無し。勝敗は、有効な一撃とあたしが判断するか、足の裏以外が地面に着いたとき。これは、コウに有利な規則。リシェは、そこらを加味しておくこと」

 コウさんも諦めが完竜したようだ。「転送」で僕と彼女の前に木剣が現れる。「浮遊」で浮かんだままの木剣を掴んで、壊れない盾を装備する。合図は必要ない。僕が防御に徹するだろうことはコウさんも了解しているので、構えた王様が攻撃を開始する。

「やっ」

 速い、ーーが軽い。それに、見覚えのある剣筋。これは、クーさんのーー。

「そう。見ての通り、あたしが片手でやっていることをコウは両手でやっている。リシェ、コウには、あたしたちが使える程度に仕込んである。油断は、言い訳にならない」

 推定通り、クーさん仕込みの技のようだ。クーさんが愛しの妹に命令した時点でそうではないかと思っていたが、躊躇のない滑らかな動きは、日々鍛錬を欠かしていない者のそれである。コウさんの日程表は把握しているつもりだったが。そうなると、夜中か早朝にでも体を動かしていたのかもしれない。若しくは、魔法の鍛錬と平行していぐぅっ⁉

「っ⁉」

 盾が弾かれて、体勢を崩す。もう一度、同じ威力の攻撃だったなら、終わっていただろう。だが、また軽い攻撃が続く。ーーどうやら、手加減しているわけではなさそうだ。

「コウ。リシェの間抜け面が面白いのはわかるが、気を抜かない。リシェの推測、それは当たり。今の重い一撃は、エンが教えたもの。溜め、が必要だから、所々で交ぜることしか出来ないが、有ると無いとでは大違い。常に警戒していないといけない」

 クーさんの言うことは、一々尤もである。きっと、僕の狼狽した姿を楽しんで、或いは純粋に妹を自慢したいのかもしれない。あたしのコウは、凄いのは魔法だけじゃないんだぞ(訳、ランル・リシェ)、とシーソと違って彼女の顔にはでかでかと書いてある。

「あたし、エンと続けば、然もありなん、次は師匠。師匠は、武器の扱いが苦手。そうであるのに、『懐剣』と冠せられていた強さの理由の一つ。この大陸では、徒手(としゅ)で闘う者を見掛けることはない。精々が喧嘩での殴る蹴るのどつきあい程度。あたしと同じで、師匠も、どうすれば強くなれるのか模索。辿り着いたのが、徒手での体術と闘法。魔法や道具を、闘法に応じて特化させる。相手に接近し、掴み掛かることを前提とした闘いを想定している者などいない。少なくとも、師匠の前には現れなかった。これはリシェにも言えるが、師匠は闘いに関して、どこまでも卑怯者。闘いとは、最後の手段で、下策。目的を達成する手段であって、危険を排除する為に、効率的(ひれつ)になるのは当然。

 コウは幼い頃、体を動かすのにも苦労を要した。それ故、師匠は目的意識を持たせた。体の効率的な動きに、自分と相手の動きの制御。これには人間の反射、反応や反動も含まれる。人は引っ張られれば引っ張り返そうとする、押されれば戻ろうとする、単純なようだが、人の可動範囲や特性を含め、それらを突き詰めると、そう、人間自体が凶器となる。

 問題は、魔法に傾倒するようになってから、普通に動けるようになってから、一番の理由は師匠が相手をすることが出来なくなってから、コウが体術の鍛錬を止めたこと。日常的な動作から、効率的な動きは失われて、闘いでもないと、見ることはなくなった」

 あ~、もう、試合中に興味深いことをぺらぺら喋られると、集中できないじゃないですか。コウさんに有利な規則、と言っていたが、僕の意識を阻害するクーさんの解説も含まれているんじゃないかと邪推してしまいそうになる。というか、勝てない相手に対して、策を練るのは必然。勝てない相手に無策で正面から向かっていくのは、馬鹿のすることである。と断言してしまったら、騎士に幻想を抱いているらしい竜騎士の皆さんから苦情が来そうなので、半透明の薄い(オブラート)に包む言い方を考えておかなくてはならない。さしずめ、役割分担、とか、適材適所、とかかな。高貴なるものの義務(やくわりにおうじたせきにん)、とかは違うか?

「む~、クー姉が余計なこと言わない内に、終わらせるのです」

 唇を尖らせたコウさんの体が、わずかに沈んだ。体が反応してしまった瞬間に気付く。これまで重たい攻撃が来るときに、そんな挙動(きょどう)はなかった。はったり(ブラフ)か、と思ったが、直後のエンさん仕込みの重い一撃で、二重の罠だったことを知る。だが、それだけでは彼女の兄と姉の鍛錬相手をさせられている僕の防御を破ることは出来ない。いや、油断していたわけではない。クーさんの話にあったし、警戒はしていたのだが、実際にそれが行われたとき、僕は濁流に飲み込まれた木切れの気分を味わうことになった。

 木剣を手放したコウさんは、僕の右腕の手首を右手で掴み、肘付近の袖を左手で掴んでいた。両手で掴んだまま、徐に体を落とした。普通に引っ張られていたなら、耐えることが出来ただろう。だが、いくらコウさんが軽いといっても、片腕で持ち上げられるほどの筋力は僕にはない。腕を固定して、真っ直ぐ下に体重をかけた彼女に引っ張られて、一歩踏み出してしまう。それ以上引っ張られないよう踏み止まるが、その反動を利用してコウさんが前にでる。左手で掴んでいた袖を捻るように上から押さえて、手首から離れた右手が僕の喉に接触するようにして左の襟を掴む。

 そのままコウさんが僕の横を通り過ぎようとするので、押し返そうとした瞬間、襟を掴んでいた手がぐっと返って、衝撃とともに喉を圧迫する。僕の体が硬直するのに合わせて、半回転した彼女が背中合わせになる。そう思ったときには、浮遊感。足は地面を離れている。彼女に背負われた格好で持ち上げられて、空が見えていた。そして、視界はゆっくりと動いて、地面が見えたと思ったら、逆さまの世界で脳天に大地の感触。

 これで、僕の負けが確定。このまま頭から落とされそうな懸念を抱いてしまったので。無抵抗でいると、幸いコウさんは僕を掴んだまま起き上がってくれたので、足から降りることが出来た。コウさんの動きは速過ぎて、僕が感じた以上の技術や動きがあったのかもしれないが、馴染みのない挙動に予想と感覚が追い付かない。嘗て僕と同じ体験を、いや、手加減をされなかった老師の相手は、僕とは比べ物にならないくらいの恐怖や苦痛を味わったことだろう。コウさんは僕を持ち上げるだけだったが、本来は地面に勢いよく落としたり叩き付けたりする技のはず。と考えていたら、うわっ、今頃寒気がしてきた。

「見ての通り。竜の国でまともに闘って、コウに勝てる可能性があるのは、リシェだけ。然し、状況が変われば、こうも一方的になる。強くなる、それはいいが、どのような強さを求めるかは、留意しておく必要がある」

 クーさんは、弟になった少年に、労わるような眼差しを向ける。

 甲高い音がして視線を巡らせると、どうやらエンさんとカレンなフラン姉妹の戦いは、引き分け、または、痛み分けに終わったようだった。




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