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竜の国の魔法使い  作者: 風結
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五章 竜の民と魔法使い 後半

 謁見の間である炎竜の間で迎えるのは、使い勝手を確かめる為の予行演習の意味合いを含んでいる。玉座は、一段高い場所に据えられている。コウさんは同じ高さがいいと駄々を捏ねたが、身長がもっと伸びたら考えます、と突っぱねた。コウさんの思いを優先させる国、と自分で言いつつ、あっさり翻すのだから、僕も悪い奴である。まぁ、コウさんも、本当に譲れないところでは、譲歩することはないだろうから、これからも適度に、或いは程々に、皆にも大好評の、王様の膨れっ面を拝ませてもらうことにしよう。

 コウさんが玉座に、あとは風竜の間と席次は同じである。王様の右手に竜官、左手に宰相、団長、隊長。それぞれ補佐二名が後ろに控える。前回と異なるのは、一つだけ。エンさんの後ろ、補佐の位置に老師が立っている。魔法使いの装いに、あの美男子っぷりである、後ろで埋没するなんてことはなく、異彩を放っていた。そして、玉座であるがーー。

 椅子に座ったコウさんの足がほんのわずかに床に届かず、ぷらんぷらんさせていた。ふむ、この椅子の製作者は良くわかっている。いや、この構図を生み出した首謀者は別にいて、ほくほく顔で堪能中である。まぁ、こんなことに情熱を注ぐのは、一人しかいないが。

 入り口から玉座まで敷かれている絨毯は、取り潰しになった貴族の屋敷から購入したものである。多少、古びて見えるが、コウさんが「浄化」やら何やらの魔法を行使した結果、古色蒼然との言葉を用いることが適う程度には、見栄えのする代物となった。実は、炎竜の間の大きさは、この絨毯の長さに合わせて造られているのだ。この規模の織物の製作には長い周期を必要とする。完成まで待っているわけにはいかないので、建物のほうを融通(ゆうずう)することに。それ以外に、他から調達できないものがたくさんあるわけだが、その内の重要度の高いものの一つが、竜の国の国旗である。意匠はクーさんが描いて、すでに竜の国の職人に発注してある。残念ながら、今回は間に合わないので謁見の間に国旗の姿はない。各種制服、湖竜や馬車などの装飾など、細かいところまで何かと物入りである。

「えっと、クーさんとオルエルさん、それと補佐の方々、生きていますか?」

 皆は、絨毯の左右に二列に並んでいるのだが。王様の一番近いところにいる、宰相と筆頭竜官、その補佐が、ぐでんっ、と床に蟠っていた。オルエルさんの補佐の一人は仰向けに倒れ、もう一人は、眠っているのだろうか、膝を抱えて顔を埋めたまま微動だにしない。

 見続けるのも失礼かと思い、視線を王様に戻すと、玉座に座ったコウさんの膝の上で祝福中(ほやほや)のみー。七祝福の一つ、「竜の寝顔」に、遊牧民たちが、ありがたやありがたや、と両手を合わせて拝んでいる。みーを連れて来るときには、もうおねんねしていたのだろうか、コウさんは正装だが、幸せを形作ってみたら仔竜(みー)になった、というくらいすやすやな炎竜は、首に炎色の長布を巻いていない。ふむ、残念、皆にも見て欲しかったのだが。

仕事(てき)だっ、仕事(てき)が来たぞ!」「心配するな! 侍従長(えんぐん)が来たっ」「騙されるな! それは侍従長(みかた)の振りをした侍従長(てき)だ!」「ああ、仕事(てき)が、侍従長(てき)が、私たちに気付いたぞ⁉」

 どうやら仕事のし過ぎで錯乱してしまったようだ。補佐の御二人が謎寸劇を繰り広げている。効果があるかわからないが、僕はみーを抱き上げて、オルエルさんの膝の上に持っていって、続いて、甘いものと辛いものを一緒に食べたような顔で僕の行動を静観していたコウさんを抱き上げて、みーより重いな、と思ったものの、少しはコウさんの扱いというものがわかってきたので、軽いですね、と空よりも大きな善意の塊で作った笑顔を浮かべながら放言して、ぽひっ、と彼女が魔力を放出している内に、クーさんの膝の上に(コウ)(さん)を置いて、退却である。

 寝起きのスナの笑顔と、禁書庫から去るときの、いってらっしゃいなのじゃ、という愛娘の見送りが僕の疲れやら何やらを一掃してくれた。丸一日眠っていたみたいな充足感で、今ならコウさんの「星降」を十発でも二十発でも受けられそうな壮快な気分だ。

「まぁ、あれだ、侍従長がいないと、竜の国が天手古舞いなのはわかった。リシェ君に潰れてもらうわけにはいかないし、人員を増やすなり、早々に対策をしてくれ、としか言えんが。ほら、お前たち、仕事(てき)はみー(えんりゅう)が倒してくださったから、そろそろ立てー」

 みーの威光で、部下を立ち直らせようとするオルエルさん。眠っているみーの手首辺りを持って、猫ぱんちならぬ竜ぱんちを、ぽひっぽひっ、とお見舞いしていた。

 コウさんは、クーさんが回復した頃合いを見計らって、束縛から魔法で強引に抜け出すと、補佐である近衛の二人に、可愛がってあげてなのです、と言って姉を進呈して、玉座まで戻ってきた。その途中で、僕を一瞥した彼女の顔は、いつもの半分くらいの大きさの膨れほっぺで、目だけが怒った風を装っていた。……少しはコウさんのことがわかってきたと思っていたが、甘かったようだ、降参である。彼女が、何故そんな顔をしているのか、まったくわからない。もしかしたら、女の子の心情は、男には一生理解できないように作られているのかもしれない。そういえば、カレンのことも最後までわからず仕舞いだった。

「それは、どうにかなるかもです。これから来る美人さんは、とっても出来る感じの人だったのです。リシェさんを手伝ってくれるかわかりませんが、負担は減りそうなのです」

 玉座に座らず、一歩前の位置に立って、王様らしい、ちょっとだけ偉そうな姿勢(ポーズ)をとった。近衛である二人の女性の、熱烈な親愛表現から転び出たクーさんが、美人さんについて情報を付け加える。

「それだけではない。立ち居振る舞いからの推測だが、剣の腕も上々。竜の国で、五指は無理でも、十指に入るだろう。それだけの才気と華やかさを感じさせる」

 近衛の二人が、嫉妬混じりの視線をクーさんに向けていた。近衛隊の隊員たちがクーさんを慕って集まったという噂があったが、本当だったらしい。見たところ、必ずしもクーさんにとっての憩いの(オアシス)になっているとは言い難かったが。コウさんを溺愛、或いは偏愛、若しくは純愛、の彼女ではあるが、同性の扱いに慣れているというわけではないらしい。

「オルエルさん。みー様が起きるまで、そのまま抱えておいてください」「ああ、それは構わな……」「待たれよ! なれば我がっ、みー様第一の竜騎士を自認する我の役目なり!」「なんのなんの! 列の後ろで健やかに我らがお守りを!」「いやさ、我とて未だ現役。炎竜様の椅子になら喜んでなりましょう」「しかるにっ、おんぶこそ至高かとっ!」「黙らないと、風竜からの稟議書(りんぎしょ)『竜の寝床計画』を、……燃やしますよ」「「「「⁉」」」」

 僕の言葉(おどし)に、遊牧民たちが絶句。深海のように静かになったのでクーさんに進行を促す。

「予行の意味合いはあるが、失敗しないに越したことはない。有為な若者が仕官を望んでいる。失望させない程度の振る舞いを皆に求める」

 クーさんの張りのある声が炎竜の間に響いて、僕が冷やしてしまった空気を程好く暖めてくれる。舞台が整うと、コウさんが「遠観」の「窓」を開いて、控え室の前で歩哨(ほしょう)に立っている近衛隊の女性に指示、というか、お願いをする。

「準備が整いました。三人の案内をお願いします」

 余所行き、と言っては失礼だが、コウさんの口調がすでに硬いものになっている。ある意味、表舞台での王様としての初仕事だから、気負っているのかもしれない。城街地での語りに比べれば大したことはない、と思うのは早計。それはそれ、これはこれ、あれはあれ。コウさんの想いと、一生懸命さが失われない限り、彼女にとって、すべてが同等に大切なことなのだ。然あれど、今回はコウさんにばかり気を配っていられない事情があった。

「……、ーーん~」

 嫌な予感が、ひしひしと這いずってくる。先程のコウさんとクーさんの人物評に心当たりがあったのだ。ただ、彼女は御付きなどを連れるような身分ではないので、思い過ごしであってくれたなら……、あれ? 僕はどちらを望んでいるのだろう。と答えの出ない内に、炎竜の間の扉が開いて、少女と、外套を目深に被った二人が入ってくる。付き従うような格好の後ろの二人は、少女より小柄で、外見からすると、僕より一つか二つ下の周期の女の子かもしれない。ただ、先行する少女のような洗練された振る舞いではなく、些か野暮ったく感じられてしまうのは、謁見という稀有な出来事に萎縮しているからだろうか。

「「「「「ーーーー」」」」」

 炎竜の間が静まり返る。これほど美しい少女を見るのは初めてだろう。炎竜の間に居る者の過半が、これに該当すると確信できる。僕は、居回りの人々を見ながら、慨嘆した。なぜ周囲を見ていたかというと、視線を合わせない為である。今更逐電(ちくでん)するわけにもいかないし、人に気付かれ難い僕の特性が最大限に効果を発揮するよう、自分はただの置物である、とサクラニルとアニカラングルに、あとエルシュテルにもお願いをする。

「ようこそいらっしゃいました、カレン・ファスファールさん。数多(あまた)ある国の中から、竜の国を選んで頂いたこと、感謝いたします」

「歓迎、痛み入ります、翠緑王。若輩の身ではありますが、貴国にこそ(わたくし)の望みに沿うものがあると確信し、〝サイカ〟に至る為の(よすが)とさせて頂きたく、罷り越しました」

 〝サイカ〟の名称に、皆が息を呑んだ気配が伝わってくる。

「ご存知の通り、竜の国は若い国です。実は、こうして炎竜の間を使うのは初めてなのです。予行演習で大げさになってしまいましたが、どうかお許しください」「竜の国の建国には、侍従長が大きな役割を担っていたとのこと。謦咳(けいがい)に接するぅ……ぃいっ⁉」

 ぎっぎっぎっ、と音がするのではないかと思うほどの不自然さで、壊れた人形のように首だけが回ってゆく。もう一度エルシュテルに、序でに僕の姿を紛らわせて欲しいと、ハーフナルストとタルタシアに祈ってみるが、人間に干渉していない神様が助けてくれるはずもなく、カレンの黒曜(こくよう)の瞳が曰く付きの人物(ランル・リシェ)を素通りすることはなかった。

「なっ、ななっ、な、何故あなたがここにいるのですっ、ランル・リシェ⁉」「えっと、相変わらず姓名(フルネーム)で呼ぶんだね。あ~、うん、久し振り、カレン」「っ! あなたこそ、私の名を呼ぶことを許した覚えはありません! それと、久し振りと言うほど時間は経っていません! あなたのほうが私のことなど、疾うに忘れていたのでしょうけれどっ⁉」

 また怒らせてしまった。顔を紅潮させて、言葉が乱れて胡乱げに、一生懸命に僕を、というか、僕の存在を、かな、(かたく)なに否定してくる。多少周期が経過した程度で、嫌われているという事実が(くつがえ)るわけもなく。少しでも印象を良くしようと僕は言い訳を始める。

「えっと、そうなんだけどね。皆から、そう呼ぶように言われていたんだ。なぜだかわからないけど、そうしないと皆が怒るし。カレンには、もう嫌われていたし、皆の意見のほうを優先していたんだけど。どうしても嫌なら、ファスファールさん、と呼ぶけど」

「もっ、もう慣れてしまったのですから、変える必要などありませんっ」

 普段は冷静沈着で、気品さえ漂うのだが、僕が相手だと調子を崩してしまうようで、ずいぶん毛嫌いされたものだと落ち込んでしまう。侍従長として、畏怖や嫌悪を抱かれるよう振る舞ってきたが、カレンの言行が思い起こさせてくれる。特性云々など関係なく、元々人から嫌われる素養が僕にはあったのかもしれない。

「痴話喧嘩はその辺にしておくこと。どうやら、侍従長の許で研鑽(けんさん)を積むことを望んでいるようだが、相違ない?」

 一国の宰相らしく、クーさんは毅然とした態度でカレンに確認を取る。

 表面を取り繕っているが、僕の役職を隠蔽したり揶揄したりと、その物言いから、明らかに何かを企んでいる節がある。然ればこそ、僕たちの間を掻き回してきた。

「っ、ち、痴話……、あの、いえ、仰る通りです。〝サイカ〟に至る為の階梯(かいてい)として、私が学ばなくてはならないもの、私が持ち得ないものを有する、竜の国の侍従長の薫陶(くんとう)を受けるのが最善であると判断いたしました」「この健気さ。可愛いものじゃないか。どう、リシェ? 女は、少し離れていただけで変わる。惚れ直したか?」

 これが本命なのだろう、クーさんが揶揄、もとい挑発(?)してくる。からかいたくなる気持ちはわからないではないが、心底的外れである。

 ほら、カレンも困っているじゃないですか。

「えっと、それはありません」「……っ!」「は……?」

 このまま誤解されると、カレンが可哀想なので、しっかりと事実を伝えておいたほうがいいだろう。

「惚れ直す、ということは、前提(ぜんてい)として、以前惚れていたという事実が必要ですが、過去にそうであったことはないので、惚れ直す、という言葉は適切ではありません」

 圧倒的な事実の前には、人は口を(つぐ)むことしか出来ない。と思ったが、どういうことだろう、炎竜の間が騒がしくなる。

「これは、どうみても、あれなのだが」「若しや、侍従長殿はお気付きでない?」「それはないだろう、女心を(もてあそ)ぶ、侍従長の手練手管ではないのか」「みー様に邪な手が伸びぬよう、目を光らせておかねば」「くぅっ、折角の美人さんなのに侍従長のお手付きかっ」

 こういうときに結託する仲良しな皆さんを、どう鎮めようか思案していると、

「え……?」

 首に半透明の塊が押し付けられた。そのまま、僕の体が少しだけ浮かび上がる。

 ぎりぎり足先が床に届かない、ぷらんぷらんの首吊り状態である。

「っ⁉」

 って、こんなことが出来る人に、心当たりが一つしかない。ああ、いや、心当たりは二つ。出来る人は二人かもしれないが、遣る段になって実行してしまうのは、該当者は一人に絞られる。然あれば瞬時にコウさんの仕業だとわかったので、驚きこそしたものの、慌てるようなことはなかった。どういう理屈かはわからないが、魔力の塊(?)で首は絞まらず、体がぶら下がっているような状態で、圧迫感や息苦しさはない。

「女性の代表として、リシェさんに折檻なのです」

 その声は、怒っている、というより、不機嫌そうな、といった感じだろうか。横目で見てみると、コウさんがぶすっとした顔で僕に向かって手を伸ばしていた。僕との距離は、歩いて五歩というところ。当然、手が届くはずはないが、彼女には魔法がある。

 コウさんの魔力である黄金色の粒子。それを固めて作ったかのような輝金の長い棒が、彼女の腕の延長線上に、魔力を漸増させているのだろうか、しだいに太く大きくなりながら僕の首の手前まで伸びていた。

 魔法は明滅していた。コウさんの手から、僕の首元までが魔力の本体で、そこから魔力を切り放す形で放出、或いは魔力を供給しているのだろう。つまり、本体は僕に触れていないので、魔法は解けない。魔法が明滅していることの理由は、幾つか予想はできるが。

「…………」

 でも、コウさんは気付いていないのだろうか。この方術には重大な見落としがある。このまま持ち上げられているのは、首に放たれる魔力がぼよぼよして、あまり気持ちいいものではなかったので、その欠陥を衝くことにした。

 魔法の特性か術理なのか、単に詰めが甘いコウさんの遺漏(いろう)によるものか、そう、僕の両手は自由なのだ。なら、手で本体の魔力に触れてしまえばいい。然てしも有らず魔法を打ち消そうかと手をやったら、ずぶっ、と本体の輝金棒に手首まで入り込んでしまった。

「ふぁぅ…やぅ」

 コウさんが前のめりになって、か細い声を漏らした。僕の手は、本体の魔力に入り込んだまま、魔法、或いは魔力の塊は消える気配はない。どうやら、コウさんの症状は、僕の突っ込んだ手と関係があるようだ。確認する為に、濡れない液体に触れているような奇妙に生暖かい本体の中で、手を、ぐっぱぐっぱ、してみる。

「ひゃあっ……ゃあ、きぃっうっ」

 びくんっ、と悶えたかと思うと、その場に崩れ落ちて、やや乱れた呼吸を繰り返しながら、両手でお腹の辺りを押さえていた。直後に、ふっ、と半透明の魔力の(くびき)が解けて、僕は床に着地した。と、そこで思い至る。以前クーさんが、コウさんには通常の肉体以外に、魔力の体があると言っていたが、今の輝金の魔力がそうなのだろう。すると、今のは魔法ではなく、また通常の魔力とも違う、コウさんの魔力体ということで……、つまりは、彼女の体の中に……手を、ぐっぱぐっぱ? 僕が現実を直視できないでいると。

「すげーなー、こぞー。魔力ん中手ぇ突っ込むってこたぁ、体ん中手ぇ突っ込まれて、ぐるんぐるんされんのん同じみてーなもんだからなぁ。俺ん前、剣ぶっ刺されて、ぐりぐりされちまったことあんけど、ありゃ気持ちいーもんじゃねぇなぁ」「くけっ、くけけっ!」

 遺跡での体験を思い出したのだろう、エンさんが渋面でしみじみと述懐する。そして、のっけからクーさんが壊れた。魔物ですら上げないような奇怪な笑い声を発したときには、すでに魔法剣は抜かれている。

 誰もクーさんを止める気はないらしい。というより、クーさんが僕を成敗するのは、全会一致、決定事項、竜に百回踏まれてしまえ、ということらしい。

「ぅ~、怒ったのです、リシェさんっ、これを使っちゃうのです!」

 床にぺたんと座ったまま、外套の中から掌に収まるくらいの小さなものを取り出した。見ると、それは以前僕がコウさんに渡した、誓いの木だった。何でも一つだけ言うことを聞く、と言ったが、今回のことは不可抗力なので、こんな濡れ衣のようなことの当て付けに使わず、もっと有益なことに使えばいいのに。と非難めいたことを考えてしまう。とんでもないことを要求されるのは困るが、あまり好い加減なことに使われるのも、それはそれで軽々しく扱われているようで、なんか嫌なのである。

「おおっ、それは誓いの木ではないですかな。ふむふむ、然かし、何とめでたい、おめでとうございます!」

 唐突に、祝福の声を上げたのはバーナスさんだった。コウさんが手にする誓いの木を見て、相好を崩すと、三寒国の風習に疎い人々の為に、彼は喜色満面で説明する。

「ふむ。懐かしいですな。実は、わしは三寒国の出身で、幼馴染みだった妻と共に過ごした日々……」「不良老人の昔話なんぞどうでもよいから、さっさと説明せんか!」「悪徳老人の長話など、あっちへぽいっじゃ、結論だけでええわ!」「ぐむむっ、妻との馴れ初めくらい、話しても良いだろうが! 貴様らのように、浮気したり、捨てられたり、不逞(ふてい)(やから)とは違うのだからな!」「わしは、捨てられただけで、今でもあ奴を愛しておる。浮気した奴と一緒くたにするなど心外ぞ」「くははっ、一人の女しか知らん奴らが何をほざくか! 男の真実から目を背け、男としての未熟を愛で誤魔化すなど片腹痛いわっ!」

 さて、この混ぜたら危険の長老たちをどうしたものか。このまま有耶無耶になってくれればいいのだが。そんな僕の細やかな希望を、バーナスさんが打ち砕いた。

「竜にも角にも、その誓いの木は、求婚するときに相手に差し出すもので、フィア様が誓いの木を持ち出されたということは、侍従長の求めに応えたということなのだ!」

 どうだ恐れ入ったか、とばかりに、ふんっ、と鼻息を荒くして、誤解を広めてくれる。

「つーこたぁ、ちび助とこぞーん結婚、成立したってわけか?」「こーほー、こーほー」

 エンさんが、これ以上ないくらい、わかり易く説明してくれる。そして、クーさん。もう人間の言葉を話す気もないようですね。邪竜に魔法剣、などという言葉が浮かんでくるが、宰相に王様、のほうが適当だろうか。と現実逃避の甘美な誘惑に流されそうになって。

「ふぇ……、ふぁっ⁉」

 あっ、コウさんが「転移」で逃げた。かたんっ、と誓いの木が床に落ちる。

 然ればこそ、全員の視線が僕に集中する。むべなるかな、それらの目は非難の大合唱であった。ときに殺意や悪意が奏でられて、一触竜発の前奏曲(プレリュード)のよう。

「あー、もうっ、全部説明しますから、静かにしてください!」

「わかりました。ランル・リシェ、とりあえず、あなたの弁明を聞きましょう」

 ()らぬ顔で言うと、カレンは片手剣を鞘に収めた。って、何で剣を、というか、それでいったい何を斬ろうとしたのでしょうか。彼女が平常を保っていた、というか、保てていたのもここまで、剣よりも鋭そうな少女の眼光に射竦められて、僕は弁明を……、ではなく、経緯を説明、いやさ、暴露させられるのだった。どうせ「遠観」か何かの魔法で、コウさんも話を聞いているだろうし、あ、……まったく、うちの王様は、相変わらずのちゃっかりさんだった。見ると、彼女が回収したのだろう、誓いの木がなくなっていた。

「あーう、なんかうるうるなのだー」

 周囲の喧騒(うるうる)に、到頭目を覚ましてしまうみー。寝惚け眼で、いつものようにコウさんにくっ付いて、お目覚めすりすり。だが、それが偽者、もとい代理であることにすぐに気付けず、移動すりすりと多段すりすりを併用して確認作業に勤しんでいた。

「んーう? こーの硬いのだー、やわやわにならないぞー」

「あの、ですね、みー様、今取り込み中ですので、フィア様じゃなくて申し訳ありませんが、一緒に静かに見ていましょう。あ、そんなとこ、触ってはいけませっ」

 借りてきた竜をあやすのは大変なようだ。成竜ではなく仔竜なので、大変さの質が違うのだろうが、本気で困っているオルエルさんの姿に、場が和んでしまう。炎竜(みー)を好き過ぎる、一部を除いて、だが。あの方々は、不敬罪とかでオルエルさんを処断しないかと、心配になってしまう。でも、もしそうなったら、僕など百回奈落に落とされるだろう。

「先ず、誓いの木ですが、バーナスさんの頃は、求婚の際に自らの魂の証しとして渡していましたが、僕たちの頃には、もう形骸化(けいがいか)していて、重要な約束のときに使ったり、遠く離れる友人と、友情の証しとして交換したり。あと、誓いの木は一つではなく、複数持つことが当たり前で……」「そ、そんな、何故にそのようなことになってしまったのだ⁉」

 誓いの木に美しい思い出でもあったのだろうか、バーナスさんは僕の言葉を遮って頭を抱えてしまう。この人がエルルさんの父親か、といまいち重ならない面影に、スナの言葉を思い返してしまう。まぁ、今はそれらのことは後回しである。

「そうですね。誓いの木に纏わる、幾つかの不幸が重なって、自粛(じしゅく)する方向になっていきました。その内の一つの話をしましょう。わかり易くする為に、ここに居る方の名前を使わせていただきます」

 バーナスさんが注目を集めてくれたので、ここぞとばかりに自己正当化の、ではなく、事実の浸透を狙って、「ちょっと大人の童話作戦」を敢行する。

「ある日のこと。フィア様は、決心を固めました。これから、心を寄せる者に、求婚しに行くのです。勢い勇んで家を出たものの、不安から何度も足を止め、一向に目的地に辿り着きません。しかも、なんということでしょう、フィア様は、誓いの木を家に置き忘れてきてしまったのです。そのことにフィア様は気付いていません。

 一方、フィア様の家では。フィア様に焦がれるクーさんが遊びに遣って来たのですが、家にフィア様はいませんでした。ですが、なぜか誓いの木が卓においてあります。そこでクーさんは、ぴんっときて、すべてを悟りました。誓いの木を手にしたクーさんは、急いで外に飛び出しました。

 そして、フィア様が向かおうとしていたみー様の家に、一足早く、クーさんが遣って来ます。そして、フィア様の誓いの木を見せ付けて、こう言ったのです。『みー、残念。コウの愛はあたしのもの』と。クーさんの手の中の、誓いの木を見たみー様は、クーさんの企みに嵌まってしまいます。『やうやうやうやうやうっ、くーのおたんちんっ、こーのおたんこなすなのだー』と叫んで、家を飛び出してしまいます。扉の外で話を盗み聞きしていたフィア様に気付かず、無茶苦茶に走っていきました。

 家を飛び出したみー様は、絶望のあまり、泉に身を投げてしまいます。偶々通り掛かったカレンは、すぐさま泉に飛び込んで、みー様を救出します。そして、目を覚ましたみー様は、命懸けで助けてくれたカレンに一目惚れ。同じく、みー様の可愛さに心を奪われたカレン。二人は結ばれて、末永く幸せに暮らすことになります。

 一方、みー様の家では。クーさんの燃えるような愛に気付いたフィア様は、ずっと一番近くにいた大切な者の存在を思い出し、不明を恥じて自害しようとするクーさんを止めて、その愛に応えます。クーさんは、フィア様の尻に敷かれて、末永く幸せに暮らすことになりました。めでたしめでたし」

 作り話を聞くのは初めてなのだろうか、大人しく耳を傾けていたみーが、実はそうじゃないかと思っていたんだけどやっぱりそうだったんだ(訳、ランル・リシェ)、みたいな顔をクーさんに向けた。

「むーう、くー、みーちゃんきらいなのだー?」「くっ、謀ったな、リシェ! みー、違う。恋敵と友人は、成立する関係。何なら、あたしが二人纏めてもらってやる!」

 みーとクーさんの追いかけっこが始まってしまった。即興で創った話だが、みーが感情移入してくれたのなら、……あれ? なんだろう、かなり嬉しいのだが。

「この話は、一応、幸せな結末でした。でも、もしカレンが通り掛からなかったら、みー様はどうなっていたでしょう。自害しようとするクーさんを、フィア様が止めなかったら、どうなっていたでしょう。物語とは異なり、現実では実際に犠牲者が出て、風習は(すた)れていったのです」「それで? あなたがフィア様に誓いの木を渡した理由について、なんら言及されていませんね」「えっと、それにつきましては、今から説明しますので……」

 ちょい役で出演させたのが不味かったのか、僕の長話に誤魔化されず、カレンが追及を緩めることはなかった。然てこそ僕はまた一つ、嘘を重ねる。はぁ、重ね過ぎて本当のことを見失う、そんなことにならなければいいんだけどなぁ、と思いつつ、すらすらと口から出てくる言葉の群れに危機感が芽生えて、不幸な未来の花を咲かせること頻り。

「えっと、竜の国を造っているときのことですが。竜の民の為に、たくさんお金を使おうとするフィア様と、無駄遣いはいけません、という僕との意見の相違で喧嘩になりました。七祝福の一つ『祝福の淡雪』をご存知でしょうか。フィア様は、ある状況に陥られると、魔力を放出します。ですが、ただ魔力を放出するだけでは味気ないので、僕がお願いをして、光雪が降り注ぐような仕様にしました。その代わりに、何でも一つ言うことを聞く、という約束で誓いの木を渡して、仲直りをしたのです」「一応、筋は通っていますわね」

 そう甘心して見せてはいるものの、カレンの黒曜の直目(ただめ)に浮かんでいるのは、明らかに咎人を見るそれである。彼女には、不心得者を許さない潔癖なところがある。里に居た頃の僕を知っているので、流布している侍従長の虚構(きょこう)に惑わされず、不正を(ただ)してくる。

「はーう、みーちゃんとなかよくしてくれるのかー?」

 クーさんは竜の尻尾を捕まえられず、追いかけっこに勝利したみーが、カレンに向かって跳躍。創作話の中では仲良しで、尚且つ恩人だったので、警戒心は皆無なようだ。世界に降り注がんばかりの太陽みたいな竜の笑顔で、平均より大き目の柔らかそうなカレンの胸に飛び込んでゆく。カレンが受け止めようと手を広げると、その脇から、未だ外套を目深に被ったままの御付き(?)の二人が現れて、みーの腕を片方ずつ拘束する。

「みゃーう、ゆれゆれ~、ゆ~れゆぅ~れ、ぷらんっぷらんっぷらんっぷらんっ」

 これは、遊んでくれていると勘違いしているのだろうか。みーは前後に体を振って、闇を払う松明(たいまつ)のようなご機嫌な笑顔である。これは、みーの、竜の能力なのかーーそれとも、二人の魔法なのか魔力なのか、みーの体が水平になるくらい大きく振られているのに、小柄な二人はしっかりと地面に立っていた。奇妙な光景に見入っていると、二人は時機を見計らい、ゆくりなく勢いを付けて、みーを玉座に向かって放り投げた。

「ぷらんっぷら~んぅ?」「「「「「‼」」」」」「「「「「⁉」」」」」「「「「「⁇」」」」」

 余りと言えば余りの突拍子もない暴挙に、誰も動くことが出来なかった。

 全員の熱視線を浴びながら、みーは過たず玉座に向かって綺麗な放物線を描いて飛んでいって。まったく陰りのない、お日様笑顔のみーは、ぽよんっ、という音でもしそうな感じで、いつの間にか玉座に座っていたコウさんの膝の上に納まった。

「サン、ギッタ⁉ 突然、何をするのです‼」

 翠緑王の御前での無礼に、カレンが叱責するが、何処飛ぶ風竜。二人はカレンに擦り寄って、気を引こうとする。その際に外套が捲れると、やはり女の子だったようだ、カレンと二人の少女は仲睦まじげ(?)に組んず解れつ。姦しい、という言葉があるが、それ以前に、周期頃の少女が密着していると、何かこう、目の遣り場に困るというか、いけないものを見ているようで、気恥ずかしさが湧いてきてしまう。

「カレン様、お怪我はございませんか?」「カレン様、悪い虫は排除しました! とギッタが言ってます」

 ん? そこでおかしなことに気付いた。今のは、サンとギッタの二人が喋ったのではなく、サンが一人で喋ったのだ。先ず自分で話して、次にギッタの言葉を話したようだが。

 サンが自分の言葉を代理で話している間、ギッタはその言葉に相応する動作をしていた。それは自然な振る舞いで、サンが声色を変えて二人を演じていたら、気付けなかったかもしれない。これは、何かの風習、或いは宗教的なものなのだろうか。それとも魔法的な何か? ギッタは、言葉を話すことが出来ず、サンがその代わりをしているのだろうか。

 そういえばーーと以前コウさんが呪術師の話をしていたことを思い出す。彼女らの行いは、呪術めいてはいるが、それにしてはちょっと軽過ぎるような。

「ちょっ、二人とも、離れなさいっ! ここを何処だと思っているのですっ!」「いえいえ、この微妙に筋肉のついたお腹は、あたしの物です」「それじゃあ、あたしは、カレン様が気にしてる、お尻をもらいます。とギッタが言ってます」「ちょっと、ギッタ。お尻がちょっとだけ大きいのを気にしてること、暴露したら駄目ですよ」「わかってないわね、サン。手に余るくらいの大きさがいいのではないですか。とギッタが言ってます」「それなら、あたしはお腹の上の程好い果実を頂くとします」

 意外、というか、不思議、と言うべきか。完璧に見える風姿(ふうし)のカレンでも、劣等感を抱くことがあるらしい。まぁ、確かに、見様によっては、言われてみれば、少しだけふっくらとしているかもしれない。そこら辺は、他人がどう思うかより、本人がどう思うかのほうが重要なので、克服は難しいのかも。

「みー様は、虫ではなく竜です。失礼なことを言ってはいけませんっ!」

 どうやらカレンは、弱点(おしり)に触れられて、取り乱しているらしい。

「なっ、ななっ、な、何ですかっ、ランル・リシェ⁉ 私がほんのちょっとだけお尻が大きいことを気にしているのが滑稽だというのですか⁈ (あざけ)っているのですねっ⁇」

 被害妄想、と言いたいところだが、余計拗れるだけなので自重する。然ても、何故名指しで非難されないといけないのだろうか。これがコウさん相手なら、あなたは嫌いなようですが僕は大好きですよ、と方便をかますことが出来るのだけど、カレン相手にはちょっと無理そうだ。彼女には、冗談が通じなそうな雰囲気がある。

 こういうときは、逃げ道を作ってあげるのがいいのかもしれない。

「カレン。そろそろ、二人を紹介して欲しいのだけど」「んっ、そうでしたわね。ーー二人は、サン・フランとギッタ・フラン。魔工技師です。本日、竜の国を案内して頂きましたが、二人は貴国に必要な人材だとお見受けいたします」

 僕が出した助け舟にさっと乗り込んで、二人の少女を紹介するカレン。渋々カレンから離れて、彼女の後ろに戻った二人が外套を脱ぐ。

「んあ? やっぱ山岳民族じゃねぇか」「魔工技師に、スーラカイアの双子」

 エンさんの言葉に、クーさんが付け加える。

 髪の左側、木製の小さな筒のようなものに髪の毛を通している。二人とも三つずつ、同じ装飾の髪留めなのだが。一瞬、勘違いかと思ったが、そうではなかった。サンとギッタを見たときから、似ているとは思っていたが、これはーー。髪留めだけでなく、体格、服装、目鼻立ちに髪型、何から何まで瓜二つで、見分けがつかないくらいそっくりだった。見た目の周期より少し子供っぽい雰囲気だが愛嬌のある娘たち。カレンにべったりのねっとりでなければ、コウさん同様に周囲から可愛がられそうなものだが。参列者の顔色を窺ってみると、見所の多さに、やはり戸惑いがあるようだ。

 これは、一つずつ事情の(もつ)れを解いていったほうが良さそうだ。

「エンさん、山岳民族というのは?」「おう。俺たちん住んでん辺りん周辺五国ん人間にゃ、結構ゆーめーな話さ。険しい山にゃ隠れ人と北の魔獣住んでる、ってな」「衣装に、髪の装飾。噂通りではあるが、彼らは戒律で、山から離れないと聞いている」

 北の魔獣に戒律、と次々に湧く新しい話題。これはもう、双子の少女と行動を共にすることになったカレンに話を聞いたほうが早そうだ。

「えっと、カレン。説明を頼めるかな」

 僕がそうすることがわかっていたのだろう、落ち着いた様子で首肯すると、カレンはやや重たい口調で話し始めた。

「仕官先を求めて、旅をしていたときのことです。街道で女の子が男たちに絡まれているのを見掛けました。女の子を助けたのですが、どうやら男たちは盗賊の一味だったらしく、すったもんだの挙げ句、盗賊団を壊滅することになりました。助けた女の子は、山岳民族の長の娘でした。このまま一人で帰すのは危険でしたので、私が送り届けることにしたのです。そうして辿り着いた隠れ里のような場所では、民が二つに分かれて、言い争いをしていました。事の発端は、北の魔獣に生贄を差し出すかどうかについてでした」

 ……カレンは淡々と話していたが、盗賊団を潰したり、隠れ里に赴いたり、〝サイカ〟の里を旅立ってから、短期間にどれだけの事態に遭遇しているのだか。でも、話はまだ途中なので、ここから波瀾万丈の物語が展開するのかもしれない。冒険者失格から始まって、竜の国造りへと、僕にも起こったのだから、幸運の女神エルシュテルに溺愛されていそうな彼女なら、もっと起伏に()んだ人生を送っていたとしても不思議はない。

「ふむ。山岳民族と言っておられたが、名称はないのですかな?」

 二人の少女を気遣ってか、バーナスさんが柔らかい口調で尋ねる。

「自分たちを特定される名称とか、そういうのは駄目だと言ってました」「真実は言葉の中にはない。とかで石とか草とか別の名前に置き換えてました。とギッタが言ってます」

 これが彼女たちの元々の気質なのだろうか。カレンが絡んでいない所為なのか、或いは興味がないからなのか、感情の起伏が少なく、ともすれば人形が喋っているように見えてしまう。斯かる表情をする者にこれまで幾度か会ったことがある。特定の状況下に於ける人間性の喪失。ただ、彼らほど深刻ではないようだが、なにがしかの桎梏(しっこく)はあったと思われる。閉鎖された環境に、誰かにとって都合の良い独自の戒律、とそこらが関係しているのだろうが。然あれど、山岳民族(かれら)の正しさを、部外者が軽々に否定、拒絶するのは愚かなことである。正しさとは己の内側で常に揺り動かすものである。困ったことに、この世界には己の正しさで凝り固まった者や、他者を受け容れないことでしか正しさを証明できない者、立ち止まり、行方を見失った者が多くいる。兄さんの薫陶を受けた僕とて、他人の誤りを糾弾できる正しさがあるかというとーー。と、不味い、思惟の湖の、奥の暗がりで迷いそうになったので、慌てて浮上する。今は、カレンと二人の少女の話に集中しないと。

 竜官が質問したので今度は自分たちの番である、と思ったのかどうか、ギルースさんがフィヨルさんを肘で促す。自分では質問が思い浮かばなかったのだろう、あっさり他人任せにするところがギルースさんらしい。隊長同士の遣り取りに、ザーツネルさんを含めた竜騎士の補佐の方々が苦笑を漏らしていた。

「生贄と仰っていましたが、それは定期的に行われていたのでしょうか?」

 繊細そうなフィヨルさんだが、ゆくりない突風のように、聞き難い部分にずばっと切り込んでいった。血気盛んな黄金の秤隊を纏めているだけあって、豪胆さや果敢さといった猛気を持ち合わせているのだろうが。そんな心胆を裏切る魔法使い然とした気弱そうな容姿と雰囲気からは、まるで別人であるかのように感取することが出来ない。それが彼の魅力といえばそうなのだろうけど、気苦労は多そうだな、と他人事のように思うーーことに失敗した。まぁ、人の振り見て我が振り直せ、竜は鏡鑑(きょうかん)とすべからず、ということで。

「神官の一族みたいな人たちがいて、魔獣の声が聞けるらしくて、不定期に生贄を決めてました」「あたしたちは、スーラカイアの双子だったので、生まれたときから生贄に決まってました。とギッタが言ってます」「行動の自由はないものの、生贄は神聖なものとかで、大切に扱われてました」「山では、様々なものが不足してます。使えるものは、何でも使う。とギッタが言ってます」「魔工技術もその一つ。あたしたちの世話役で、魔工技師だった男は、あたしたちに魔工技術を仕込みました」「そして、あたしたちが生贄として北の魔獣に捧げられる段になると。とギッタが言ってます」「世話役の男は、生贄にするのではなく技師として働かせたほうが里の為になる、と主張したのです」

 滔々(とうとう)と、という表現は間違っているのだろう、サンは水路のように語ると、必要なことは話し終えたとばかりに押し黙る。説明不足と感じたのか、カレンが補足する。

「ええ、技師が二人の為を思って、魔工技術を教授したのは間違いないでしょう。でも、技師にとって重要だったのは、自分の目的を果たすことでした。彼には、その選択肢が思い付かなかったのかもしれない。サンとギッタを里から逃がすことをせず、生贄の廃止に利用しました。畢竟、二人は命の危険に晒されることになったのです」

 誰が悪いのか決め兼ねている、そんな心情を感じさせる物言いだった。

「そう、そして! そこに颯爽(さっそう)と現れたカレン様! その美貌に皆が見蕩れる感嘆する!」「話を聞いたカレン様! 里の諍いを完全無欠に解決する手段を高らかに宣言すると、一人で北の魔獣の退治に向かったのです! とギッタが言ってます」「里は大混乱! 魔獣と言いつつ、半ば神聖な扱いとしていた里人たち」「皆の葛藤が、あたしたちの目を覚まします! なぜあたしたちは、こんな人たちの為に犠牲にならないといけないのか! とギッタが言ってます」「そして、何も決められないまま時間が経過して、カレン様が戻ってきました!」「カレン様は、その手に持った魔獣の首を掲げて、里人たちを恐れ入らせると、災いが取り除かれたことを明言したのです! とギッタが言ってます」

 話がカレンに及んだ瞬間、火が点いたように捲くし立てる双子。

「これは、見誤った。北の魔獣を一人で倒すとは、あたしやエンよりも強い」「おー、すっげーなー譲ちゃん。こぞー以外ん鍛錬相手増えるたぁ、俺たちゃ運いーなぁ」

 カレンの渾名は、譲ちゃん、のようだ。だが、そのことに気付くだけの余裕がないようで、宰相と団長の賞賛に、慌てて修正を加えるカレン。

「サン、ギッタ! 重要なところを省かないでください。魔獣は、私が(まみ)えたときには、命数が尽きていたのです。どうすべきか迷いましたが、明確な証拠は必要かと思い、(むくろ)を埋めて弔ったあと、里に戻りました。自由になったサンとギッタでしたが、里では複雑な立場に置かれてしまい、私が預かることにしたのです」

 カレンが話し終えると、若干クーさんの臭いがしないでもない双子が友愛を喚く(あいをさけぶ)。

「そう! 命の恩人にして、運命の宿命人があたしたちの心と魂を華麗に攫っていった!」「分かたれることのない絆! 永久の繋がりがあたしたち三人の間に育まれるのに、周期など必要なし! とギッタが言ってます」「始めは、お腹と背中で迷いました。カレン様が眠ったあと、その無防備なお肌を堪能するのです!」「逡巡など一切なし! カレン様のお尻以上に触り心地至高無敵なものなど存在せず! とギッタが言ってます」「え? お尻と太腿で迷った?」「サンこそ、実は(うなじ)も悪くないって思ってること隠すつもり? とギッタが言ってます」「いっそのこと胸を、……それは取り決めで駄目だって?」

 なんだろう、道化師の芸みたいなことになっている。心が通じ合っているのか、そうでないのか、感情の相違がそれを鈍くしているのか、そこら辺はわからないが。まぁ、今に至るも姿形は見分けがつかないが、嗜好の違いはあるらしい。

「ふーう、ふたりでふたふたなのだー。こーにふたふたいないのかー?」

 最近は、うるうる、とか、ふたふた、とか、言葉を重ねるのが好きなようで、手足をばたばたさせながらコウさんに聞いているみーが可愛過ぎる。……あ、いや、これは僕の個人的な意見ではなく、ほら、見てください、皆の緩んだ顔を、特に、遊牧民たちのだらしない顔を。……などと誤魔化していると、ふたふたなコウさんが脳裏に浮かんできて、ふと思い出す。そういえば、クーさんに二人のコウさんの妄想話をしたことがあったっけ。そんな前のことではないのに、懐かしい気がしてしまうのは、ここ二巡りの、仕事(ざつよう)と書いて雑用(さつじん)と読む、過労の渦に巻き込まれていたからだろう。

「私には、もう一人の私はいませんよ~。そうですね、スーラカイアの双子について、リシェさんに説明してもらいましょうね~」

 みーに話す振りして、僕に嫌がらせでもしたいのだろうか。

 然は然り乍ら、別の意図というか、魂胆(こんたん)というか意趣というか、そんなものがありそうだ。コウさんは、スーラカイアの双子について、市井人に知られていること以上の、裏の事情や秘密を知っているのかもしれない。そそっかしくあわてんぼうでおっちょこちょいな彼女のこと、うっかり話してしまわないよう、僕に振ったのやも。

 衆目の面前で、王様のお願いを断るのもあれなので、素直に引き受けることにした。

「スーラカイアとは、百五十周期以上前に失われた国の名です。古い時代、双子は概ね、忌み子とされていました。それぞれ半分の魔力しか具わって生まれてこないと誤解されていたからです。スーラカイア以後の文献に依れば、母体と双子で魔力の遣り取りが成され、魔力の不足どころか、逆に多量の魔力を具えて生まれてくることのほうが多かったようです。往時のスーラカイアの王は、生まれた双子を忌み子として扱わず、双子に纏わる噂を迷信と断じました。それは、正しい行いでしたが、凝り固まった民の心まで十分に届いたとは言えません。周囲からの偏見にめげず、双子は立派に育ちました。

 周期が二つ上の兄が即位したあと、一人は将として、一人は官として、兄を、国を支えました。ですが、時代は戦乱の世。父や叔父と同じく、兄が戦死します。双子は、弟を王として、これまでと変わらず、国を、弟を支えていきました。

 同盟を結んだ国の裏切りがありました。三倍の敵兵に対して、双子の片割れはよく戦い、これを撃退します。ですが、それと引き換えに、片翼は失われてしまいました。同時刻、王城にいた片割れの翼も地に落ちたとされます。双子の死には、諸説あります。忌み子を受け容れられなかった民の謀略、というのが主流とされていますが、確たるものとは言えません。国の両翼を一時(いちどき)に失ってしまったスーラカイアは、やがて衰退し、他国に吸収される形で大陸から失われました。ですが、最後まで国の為に尽くした双子は、スーラカイアの双子、として足跡を残すことになります。スーラカイア以後、双子は忌み子ではなく、幸福の象徴として扱われることになります」

 コウさんが僕を指名したのが不満だったのだろうか、クーさんが後を引き受けてくれる。

「大陸すべてに浸透したわけではなく、未だ忌み子として扱っていた場所があったということ。竜にも角にも、双子は竜の国で魔工技師の職に就いてくれるということで、了承?」「う~、カレン様とあたしたちの絆を断とうとするなんて、藪から棒な!」「三人は、もはや一心同体、魂を分かつことが不可能なように、何人(なんびと)も愛を引き裂くことなんて出来ない! とギッタが言ってます」「カレン様をお助けするのが、あたしたちの使命!」

 フラン姉妹の愚痴というか文句というか、自画自賛はまだまだ続きそうだったので、

「カレンは翠緑宮に居室が与えられます。魔工技師にならないのであれば、二人は任意の外の家に住んでもらうことになります。ですが、こちらの願いに沿うのであれば、王宮内に家族用の居室を用意する準備があります」

 黙らせることにした。……然ても、ああ、これは、不味いな。権力の使い勝手の良さに、傾倒しそうになってしまう。留意しておかなければ、と自らを戒めていると。

「可哀想に、侍従長の犠牲者がまた一人」「そこは二人だろう、いや、三人か?」「侍従長の害毒からみー様を護る方策を真剣に考えねば」「『黒幕』にしても奔放(ほんぽう)に振る舞い過ぎでは? フィア様に嗜めて頂いたほうが」「竜は見ておられる、いずれ天罰が下ろう」

 最近、侍従長苛めが流行っているのだろうか。あんまり事実無根のことばかり言われると、僕だって泣いちゃうぞ。

 はぁ、双子のことはもうこれでいいだろう。さっさと先に進めてしまおう。

「エンさんとクーさんの間に、老師が入ってください。老師の補佐の位置にフラン姉妹が。カレンはーー、僕の横で」

「……ランル・リシェ。何故私があなたの横に立たないといけないのです」

 ……これは、まだ心付いていなかったのだろうか。周囲の状況や言行からわかりそうなものだが。カレンらしくない。何か他に気を取られるようなことでもあったのだろうか。

「えっと、僕の役職が侍従長なので、侍従長の許で薫陶を受けたいのなら……」

「なっ、ななっ、な、何を言っているのですっ! あなたが侍従長だなんて、侍従長が侍従長である理由を、侍従長ではなくはないあなたが騙れるというのですかっ⁉」

 大きな鏡を置いて、自分の姿を見せてあげたい。何を言っているのかわからないのは、カレンのほうである。嫌っている僕の下に付くのは業腹(ごうはら)かもしれないが、明言してしまった以上、今更翻すのは難しいと思うのだが。

「それでは、カレンさん。リシェさんの横に移動してください。これから、コル・ファタという冒険者組合の方がいらっしゃいますので、よろしくお願いします」

 容赦のない物言いだった。決定事項として、しかも進行の邪魔をしないようにと言い渡されて、良識的で潔癖なカレンに否やがあるはずもなかった。珍しく強権的だが、ああ、でも、これはコウさんの優しさなのかもしれない。カレンの性格からして、斯かる始末の付け方のほうが彼女にとって負担が少ないはず。

 三人、いや、老師も含めて四人が不承不承移動している間に、尋ねてみた。

「老師。やけに大人しいですけど、何か悪い物でも食べましたか?」

「大人しいとは、失礼だね。私はお情けで呼ばれたのだから、出しゃばるのは筋違い。弟子たちの成長を見守りながら、迷惑にならないよう置物になっているさ」

 老師の言葉は本心からのものだろうが、それを弟子が認めるかどうかは別の話である。

「師匠、そんなだと王さま代理をやってもらうの」「じじーは働け。山奥でぼ~としてんくらいなら、死ぬまで働け」「師匠が侮られるのは勘弁ならない。相応の働きを望む」「まったく、師匠を扱き使おうとするとは、いつからそんな悪い弟子になってしまったのやら」

 半笑いの老師の嘆きに、炎竜の間が笑いに包まれる。老師のことだから、狙ってやったのかもしれない。コウさんが「窓」を開いて、次の来訪者を連れてくるよう近衛にお願いをする。カレンのときと違って緩い雰囲気の中、扉が開いて、ファタが物怖じしない態度で歩いてくる。「遠観」の「窓」を通して見たときにも感じたが、童顔で軽薄さを漂わせる様は、警戒心を抱かせるに十分だった。笑っているのか笑っていないのか、癇に障る微妙な笑顔は健在である。

 コウさんの前で止まったファタは、その場に座って胡坐(あぐら)をかいて、膝でも体の横でもなく、体の前に手を、しかも床には手の甲をつけている。そして最後に、ぐっと頭を下げた。

「「「「「…………」」」」」「「「「「……、ーー」」」」」「「「「「ーーーー」」」」」

 炎竜の間がざわめき立つ。然もありなん、ファタがしているのは、最上級の謝罪。自身の命すら差し出す覚悟がある、という誠意を示すもの。一生に一度、見るか見ないかというくらい珍らかな光景なのである。然ても、ファタは、何故謝罪などしているのか。

 考えられるとしたら、氷焔を賞金首にしてしまったか、はたまた竜の国を敵性国家と認定させてしまったかーーなどということは、さすがにないと思うが。さて、もう一つ、わかり易過ぎる理由があるが、やっぱりそれなのだろうか。ファタが竜の国を訪れた目的であり、僕たちが彼に要請、というか、依頼したこと。まぁ、本人が目の前にいるのだから、仮定を重ねても意味はない。すぐに明らかになる、はずだ。

「ファタさん。説明もなく、そのようなことをされては困ります。先ずは顔を上げ、経緯を語ってください」

 コウさんの膝の上に座っているみーが、不思議そうにファタを見ている。みーの情操教育に良くないな、などと思うのは場違いな発想だろうか。

 ファタは顔を上げると、卑屈な物言いで罪の告白を始めた。

「今回、私が竜の国に罷り越しましたのは、経過報告の為と、組合に預けてある資金の返還についてであります。ですが、氷焔の資金は、私の浅短(せんたん)の為、失われてしまいました。この命、如何様にも処分していただいて構いません」

 殊勝な態度で再び頭を下げる。

 これは、騒ぎになる。僕は、エンさんに目配せをした。

 了解してくれたエンさんは、炎竜の間の人々が騒ぎ立てる間際に、両手を打ち鳴らーーさなかった。鉄が減り込む、妙に冴えた音が、皆の言葉を奪う。

 エンさんは、床に魔法剣を突き立てていた。彼の顔に野太い笑みが浮かぶ。いったい、如何程の怒りが込められているのか、考えるだに恐ろしい。

「エンさん。鎮めてくださってありがとうございます」

 エンさんが行動に移ってしまう前に、僕はクーさんに質す。

「クーさん。組合に預けておいた氷焔の、残りの半分の資金には、然るべき処置を施しておいたのではないですか?」「師匠(せんせい)」「はいはい」「師匠。返事は一回」「……はい」

 尊敬する師匠であろうと容赦のないクーさん。彼女から頼まれた、師匠の面目丸潰れの老師は、エンさんの脳天に手加減のない拳を落とす。ぎりぎりで避けたはずのエンさんの頭が、まともに打撃を受けて弾ける。「幻影」か何かだろうか、どうやら魔法を使ったようだ。エンさんの強さを、身を以て体に刻んでいる竜騎士たちが息を呑む。

「リシェの推測通り。手許から離す金なら、手段を講じておくに決まっている。コウに頼んで、氷焔の資金には魔力が込められている」

 クーさんの言葉に、コウさんが頷いて。それを見たファタの顔が蒼白になる。

 まだ飲み込めていない人もいるようなので、わかり易い言葉にする。

「つまり、こういうことでしょうか。ファタさんが使ったと思っていた氷焔の資金は、実は冒険者組合のお金で、とどのつまり横領(おうりょう)をしていたことになると」

「まっ、待ってください! そんなことが組合にばれたら、私はっ⁉」

 罪の所在を知って、態度を豹変(ひょうへん)させるファタ。彼の性格から、薄々そうではないかと思っていたが、間違いではないらしい。僕は、彼の瑕疵を(つまび)らかにする。

「やはりそうですか。氷焔の皆さんは、何だかんだで優しい人たちです。氷焔の資金を使っても、最後には許してもらえる、そういう打算があったのでしょう。ああ、お金の使い道は語らなくて結構。なぜなら、あなたの使ったお金は、氷焔のものではなく組合のものですから、僕たちには何の関係もありません」

 炎竜の間は、スナが氷の息吹でも吹き付けたような極寒の地に、ひととき氷竜の間に変貌する。室内の中心は、さぞや冷たかろう。竜の国を造った後も色々してもらったので、評価を改め、内心でも、ファタさん、と呼ぼうと思っていたが、ファタ、で十分である。割を食って、サーイとサシスも呼び捨て継続が決定してしまったが。

「んで、やろーはどーすんだ?」「どうもしなくて良い。する必要もない」

 エンさんとクーさんの間で、にべなく結論が下る。あとはコウさんの判断だが。

「リシェさん。彼を放逐(ほうちく)するのが、竜の国の採るべき手段だとは思うのですが、……他に方法はないのか……なのです」

 コウさんの内でも揺れているようだ。ファタを嫌っているとしても、ただ見捨てるだけなのには抵抗がある。然あれど、どうしてやるのが適切なのかわからない。

 すると、コウさんの温情に光明を見出したのか、ファタの顔から笑みが消えて決意が漲ると、どういう通りすがりの風竜の気紛れか、床に腹這いになった。両手を真っ直ぐ伸ばして、一本の棒のようになると、手の甲と額を床につけた。

 ーー炎竜の間が静まり返る。

「「「「「…………」」」」」

 ……ここに、新しい謝罪方法が生まれた。人間、必死になると何をするかわからないものである。益々、みーの教育によろしくない。

「どうかお慈悲を、侍従長様」

 ここまでされると、逆に助けてあげたくなくなってくるのはなぜなのか。

「翠緑王。情けを掛けられてはいけません。早急にこの者を捕らえ、組合に差しぃ……っ」

「はいはい。ちょっとややこしくなるから、カレンは少し黙っていましょうね」

 カレンの後ろに回って、彼女の口を手で塞ぐ。逃れようとするので、お腹に腕を回して、抱き竦めたような感じになってしまう。刹那、カレンの体から力が抜けて、すとんっ、と床に座り込んでしまった。顔を炎竜並みに真っ赤に、というのは言い過ぎだが、人間の顔というのはここまで赤くなるのかというくらいの紅潮具合で、炎竜に譬えた僕の感覚も(あなが)ち間違いだとは言い切れまい。見ると、カレンは陸に上がった魚のように口をぱくぱくさせているが、風竜に悪戯でもされてしまったのか、零れる吐息は言葉にならないようだ。

 竜にも角にも、カレンは大人しくなったし、このままにしておこう。フラン姉妹が殺意を込めた視線を僕に向けて、ぶつぶつと何かを呟いているが、そこは気にしない方向で。

「フィア様。組合とは、ファタさんの処遇について、竜の国として交渉するのが良いかと存じます」「具体的には、どうするのです?」「氷焔の資金の半分と同額となるとーー、ファタさんが使い込んだお金は膨大です。一生働いたところで返せるものではありません。また、収監(しゅうかん)されるか処刑されるかはわかりませんが、そうなれば結局お金は戻ってきません。そこで、ファタさんの身柄を竜の国が保証し、彼が稼いだ給金を返済に充てます。あと、これは元々予定していたことですが、竜地である雷竜の提供を交渉の材料とします」

 僕の提案を聞いて、わずかに緩んだファタの顔が凍り付く。徐に彼へと歩を進めていった僕が、折れない剣を抜いていたからだ。

「ファタさん。治癒魔法は使えますか?」「つっ、使えますっ」

 不穏な気配に、引き攣った声で即答するファタ。顔から一切の表情を消して、冷徹侍従長を演じてみたが、予想以上の効果があったようだ。その場に釘付けになった彼は、怯んだ心を隠し切れず、呼吸が浅くなって、指先が細かく震えている。

 ファタのような性質の人間なら、自分を護る為の魔法を習得しているかと思ったが、当たりだったようだ。もしかしたら、「結界」も使えるかもしれない。「治癒」や「結界」は、単純な攻撃魔法と異なり、習得に早くて半周期掛かるらしい。竜騎士の中では、ギルースさんが治癒魔法を使っているのを見たことがあるが、それ以外だと攻撃魔法しか見たことがない。オルエルさんやザーツネルさん辺りなら、習得していそうな気はするが。とはいえ、本当の意味での治癒魔法を使える人は、殆どいないだろう。

「ーーっ、……」

 ……失敗した。掌に薄く傷を付けるつもりが、緊張の為か、歩く際の反動と重なって、ざくっ、といってしまった。鋭い剣先ではなく、もっと下にしておけばよかったと、後悔しても竜は振り返らない。ぐぁ、我慢できない程ではないが、痛くて痛いな痛いとき……。

 掌とか感覚の鋭い場所の傷って凄く痛いんです、知ってましたか? などと誰とも知れない異世界の住人に心中で問い掛けて、痛みを紛らわせようとする。ああ、これは、あとで僕が掃除しないといけないのかもしれない。絨毯にぽたぽた落ちていく血を見ながら、気が滅入る。こうなってしまったからには、演出の一部として利用しないと。

「それでは、僕の掌の傷を治してください」

 ファタには理解不能だろうが、彼に選択肢はない。自らの行く末を明るくする為に「治癒」を行使して、懸命に僕の傷を癒やそうとする。だが、僕に魔法は効かない。

「そんな馬鹿なっ! 魔法は発動しているのに、なぜ治らないっ」

 ファタが僕を見上げる。それを確認してから、血が滴る左手を彼の頬につける。ぴちゃ、という妙に耳を刺激する小さな音がして、ぬるりとした液体が塗りたくられる。

「竜の国の保証は安くありません。それを肝に銘じてーー」「ーーランル・リシェ」

 早足で近付いてきたカレンが、掌を後ろに、ぐっと力を溜める。それは、避けるな、という意図。僕は目を閉じて、彼女の責めを甘んじて受ける。

 ぱんっ、と小気味良い音がする。頬が痛むが、痛いだけだ。僕の耳を避けて、且つ掌の硬い部分を使わなかったので、大きな音に比して衝撃は大きくない。

「来なさい」

 有無を言わせぬ口調で、僕の腕を掴むと、正面の扉以外に設けられた二つの扉の内、玉座の横の通路に連れて行かれる。幾人かの好奇の視線と、それ以外の放心した人々を顧みることなく突き進むカレンに、唯々諾々として従うこと六十二歩。

 炎竜の間から十分に離れると、(くるり)っと振り返って、彼女は口火を切った。

「あなたは馬鹿ですか? いえ、言い直します。あなたは馬鹿です。いえ、それも違います。あなたが馬鹿だったことを思い出しました。そういえば、ランル・リシェの名前は、馬鹿の代名詞でしたわね」

 酷いことを言われているが、言葉の内容ほどには悪くないようだ。怒りと心配を混ぜ合わせて、呆れを振り掛けたようなものだろうか。それが、拗ねたような表情に見えて、場違いながら可愛く映ってしまう。

「何をにやついているのです」「えっと、カレンが可愛いな、と思って」「ーーっ⁉」

 カレンは、僕から顔ごと、いや、体ごと反対を向いて、無言で歩いてゆく。

 失敗した。「やわらかいところ」対策で積み上げてきた経験が、するりと本心を口から抛り出させてしまった。カレンの後ろ姿を見て、心の底から猛省(もうせい)する。最近コウさんを苛める、もとい王様との触れ合いに慣れてきてしまって、異性に対する節度というものを失念していたのかもしれない。役割や役職、というのは恐ろしいものである。気を付けていないと、自然とその役目に相応しい行動を取るようになってしまう。でも、その割には侍従長としての面目を保てていないような。と悩んでいると、竜魔法団の団長であるところの美男子が僕の隣に現れて、弟子を品定めするような、いや、値踏み、のほうが印象としては近いだろうか、関心を抱いた声音で先行する少女に話し掛けた。

「はい、そこを右に曲がって。三つ目がリシェ君の執務室だよ」「っ! あ、あの、いつからいらしたのですかっ⁉」「心配しなくても大丈夫。最初から、ずっと後ろに居たから。ほらリシェ君、血が垂れているから、これで押さえておきなさい」「……ぃ、……っ」

 僕に布を手渡してくれる老師。直前まで気配がまったくなかったということは、魔法を使っていたのかもしれない。鋭敏な感覚の持ち主であるカレンを(たばか)り、魔法が効かない僕さえ()かしたということは、コウさん同様に僕への対処を施してあるのかもしれない。

 行く先を決めていなかったらしいカレンは、というか、翠緑宮を訪れたのは初めてなのだから不案内なのは当然、またぞろ無言で老師の誘導に従って、僕の執務室に入ってゆく。

 僕の執務室の雑多な、一見すると散らかっているように錯覚するかもしれない有様に、

一瞬たじろいだものの、竜の尻尾を踏み(しだ)く勢いで、ずかずかと書類や資料を蹴散らしてゆく。その無慈悲な行いに、反抗する気力など根こそぎ奪われて、なすがままに自分の席に座ると、やっとこ手が解放される。見上げると、当たり前のように老師もそこに居て。

「はい。これを使うと良い」「これは……?」

 差し出された小さな容器を、怪訝そうに受け取るカレン。

「私の得手は、治癒魔法でね。魔法だけでなく、薬師としての技術も磨いている。これは出回っている塗り薬よりも効き目があるので、あとは包帯を巻くだけ。付与魔法で効果を高めることも出来るのだけれど、リシェ君には必要ないかな」「……通常の塗り薬よりも効果があるのは、あなたの腕ですか? それとも使っている素材が高価、いえ、効能が高いのですか?」「ほう、さすがだね。魔法使いは、二種類の塗り薬を作った。一つは、効果を求めたもの。もう一つが、安価な素材で作れるもの。この魔法使いは優れた人でね、塗り薬が流通した場合のことを考え、資源が枯渇しないよう、きちんと配慮していたのさ」「博識(はくしき)でいらっしゃるのね。若しや、その塗り薬を調合したのは、あなただったりするのかしら。ただの自慢話でしたら、他所(よそ)でしていただきたいのですが」「おや? そのように聞こえたとするなら、私の不徳の致すところです。私の友人の一族が治癒魔法の大家で、彼の祖先が塗り薬を調合したとの(よし)。私は、好みに合わせて、少しばかり手を加えただけ」

 カレンにしては珍しい、終始笑みを崩さない老師に向かって、放言高論(ほうげんこうろん)する。老師のほうでも、カレンを揶揄している風だ。なんだろう、この二人の噛み合わなさは。美男美女で相性は良さそうなものなのだが。いや、同族嫌悪という言葉もあるわけだが……。

「さて、老骨が若い二人の邪魔をしにきた理由を説明しようか。リシェ君、君は危なっかしい。コウに対しての、私の役割は知っているね。君も私の弟子になりなさい」「っ⁉」

 んぎぎっ、痛いっ痛いですっ、カレンさん! 老師の言葉を聞いたカレンが軟膏をぐりっと押し付けて、僕を涙目にさせる。老師に重要な申し出をされたのだが、それどころではない。彼は僕を後回しにして、どこまで本気なのだろう、カレンにも申し出る。

「なんなら、カレンさんも私の弟子になって構いませんよ」「っ、お断りですっ!」

 ぷいっ、と顔を背けてーー、これは本当に珍しい、カレンが膨れほっぺである。う~む、元が整っているだけに剥れていても美人に見えてしまうのは、良いことなのか悪いことなのか。老師を無視して、手際良く僕の手に包帯を巻いてくれる。

「まぁ、そうなるね。仕方がない、打ち明け話をしないといけないかな。私には、それなりに知られた名があってねーー」

 突如扉が開いて、胸襟(きょうきん)を開こうとしたらしい老師が言葉を切る。見ると、オルエルさんが扉から滑り込んできて、慌てた様子で捲し立てた。

「あの、ですね、〝サイカ〟の長を名乗る人物が、遣って来まして、グロウ殿にと」

 筆頭竜官が直接伝令に来るなんて何事かと思ったが、これは確かに一大事だった。僕が〝目〟であると知っただけで驚いていたオルエルさんである。〝サイカ〟の、しかも里長の来訪とあっては、取り乱すのもむべなるかな。

「あちゃ~、到頭来たか。相変わらず、計ったような時機で登場する奴だ」

 老師が天を仰ぐ。包帯を巻き終えたカレンが、慌てて威儀を正す。

「お、お茶を……、竜茶を持って参りますっ!」

 オルエルさんがあたふたと執務室から出て行った。あの様子だと、コウさんに掛け合って、手ずから竜茶を持ってきそうだ。然ても、オルエルさんは通常以上に〝目〟や〝サイカ〟を特別視しているようだ。何かしらの思い入れがあるのかもしれない。

 入れ替わりで里長が入ってきた瞬間、彼の姿が景色に浮かんだような錯覚、いや、実際にそう見えているのだ。世の中には、生命力というか存在感というか、魂の輝きというか、人生に於いて何事かを成した人、或いは成そうとしている人が持つ空気みたいなものがある。〝サイカ〟の改革を成し遂げ、「至上の〝サイカ〟」と呼ばれる人物だけに、ただそこに居るだけで、掌に汗を掻いてしまいそうな厳粛な空気を感じてしまう。老師が逃げるように、部屋の隅にある椅子を取りに行こうとすると、途端に里長から叱責が飛ぶ。

「カレン。グリンの手を煩わすとは何事か。皆の椅子を用意なさい」

 静かだが、深く響く声。心の弱い者なら、それだけで(ひざまず)いてしまいそうな威厳がある。

 敬愛する祖父に窘められて、忸怩たる思いを抱いたのだろう、俯き加減でそそくさと椅子を取りに向かう。僕は僕で、そんなカレンを気遣う余裕などなく、そわそわと机の上の乱雑に積み重なった書類などを脇に寄せて空間を作る。

 〝目〟の(ひよっこ)である僕たちがあたふたしているのを尻目に、里長は迷いなく老師の許へ歩いてゆく。悪戯が見つかった子供のような、ばつの悪い思いをしているらしい老師にお構いなく、彼の胸の辺りに手を当てて。魔法を使ったようだった。

「……グリンよ。若作りをしよって。内はぼろぼろではないか」

 万感交到(ばんかんこういた)る姿が印象的だった。矍鑠(かくしゃく)たる里長の背中が少しだけ小さく見えてしまう。

「ははっ、羨ましかろう。ここまで自分の体を使い切ったのだ、私は幸せ者だ」

 老師の声色に古びたものが混じる。浮かべた笑みは、里長と同じく、周期を経た者のそれだった。旧交を温める、などという言葉ではまったく足りない、熱くて冷たいものが二人の間に蟠る。椅子を並べ終えたカレンは、何か心に引っ掛かるものでもあったのか、老師をまじまじと見て、後退りながら声を絞り出す。

「っ、グリン……、グリンとは『〝サイカ〟の懐剣』、グリン・グロウっ⁉」

 カレンは「懐剣」のことを知っていたようだ。この状況から察するに、老師はグリン・グロウ本人で間違いないようだ。治癒魔法の大家の友人がいるようだし、情報に符合するのだが。然あらば彼自身が治癒魔法を得手としているのは、何か事情があるのだろうか。

 老師の二十半ばの、好青年というか貴公子然とした美々しいとも言える容姿は何らかの若返り(?)の魔法によるもので、実際には里長と同周期ということになる、のだがーー。

「……、ーーん?」

 あれ? 何か齟齬がある。しっくりこないというか、歯車が噛み合わないというか、こう、喉まで出掛かっているのに、あともう少しなのに、答えに辿り着けないもどかしさ。見落としている、見逃していることに煩悶(はんもん)していると、長から声が掛かる。

「ランル・リシェよ。そなた、〝サイカ〟に至るか?」

「いえ、僕は〝サイカ〟には至りません」

 僕は、即答した。自分でも不思議だった。確かに、それは決めてあったこと。でも、実際にそのときが訪れて、こうもあっさり断ることが出来るとは思っていなかった。

 〝サイカ〟は敵にならず。敵にならないということは、深く踏み込まないということだ。〝サイカ〟の安全は、そうして守られてきた。僕が竜の国から退くことはない。竜の国を造った責任、ではなく、もっと強い欲求によって、僕は竜の国を受け容れている。

「であるか。これで〝サイカ〟に至るに背いたは、三人目か」

 里長のことである、始めから僕の答えなどお見通しだったのだろう、僕と老師を見て、心底嬉しそうに(まなじり)の皺を深くする。だが僕は、いや、僕だけでなく里長も、それが踏み(にじ)る行為であるとわかっていた。大切なものを、逡巡せず捨てた僕に、彼女は激発する。

「ランル・リシェ! なぜっ、なぜ〝サイカ〟に至らないのです‼」

 里長は愁いを含んで、老師は旧情に揺れて、情けないことに僕は曖昧な憐憫の情を乗せて、人目を(はばか)らず涙を流すカレンを凝然(ぎょうぜん)として見ていた。

 人は美しく泣くことは出来ない、というけど、激情のままに、只管に一心に。それは月の明かりに似て、彼女自身を輝かせるものではなかったけど、近付くことで知った、ざらついたものを、カレンの有様を、美しいと感じた。然あれば出逢いのときより彼女に嫌われて煙たがれようと、よすがとして心に棲み続けたのだろう。

 (ばく)とした時が弾けて、気付けばカレンの姿がなかった。どうやら、執務室から飛び出していったようだ。今の大きな音は、扉が叩き付けられたものなのか。

「若しや、サイカの一族から、〝サイカ〟に至った者はいないのか?」

「うむ。サイカの一族は、〝サイカ〟を求めず、里の運営に専任するのが良いと思うておる。じゃが、カレンはそれに納得がいかぬようでな。ーーあの娘は、スースィアに懐いておった。二周期、遅かったの、この痴れ者が」

 二人が静かに目を閉じる。(いた)んでいるようにも、懐かしんでいるようにも見える。大陸全土を巻き込んだ三度の大乱の中でも、最も激しいと言わしめた、苦難の時代を生き抜いた人々。慥かカレンの祖母が、スースィア、という名だったはず。彼女も〝サイカ〟で、改革の功労者の一人。里長と共に〝サイカ〟を導いた、女傑として知られている。僕がまだ里にいたときに、他界したと人伝に聞いた。一時期、カレンが塞ぎ込んでいたので、当時のことはよく覚えている。友人たちから、彼女に優しくしてやれ、と言われた、もとい命令されたが、そんな器用なことが僕に出来るはずもなく、空回って僕まで傷心する嵌めになったのは、振り返ってみれば良い思い出ーーになるには、まだまだ周期が必要だ。

「カレンを追い掛ける必要はない。炎竜の間に行くと良い。わしはこやつを締め上げてやらねばならんのでな。これまで何をしておったか洗い浚い吐いてもらうぞ」

「くぅっ、ちょっとそこの弟子、師匠を助けないか!」

 無論、無視である。それと、まだ老師の弟子になると決めたわけではないので、勝手に師匠面(づら)をかまさないでください。まぁ、そんな未来の師匠かもしれない人の情けない姿を見まいと、改革の英雄たちを一顧だにせず部屋を出たところで、オルエルさんと危うく鉢合わせしかけた。見ると、本当に自分で竜茶を淹れてきたようだ。落ち着かない様子で、ふわふわそわそわわたわた(ふしんじんぶつまっしぐら)である。

「リシェ君に来客だよ、今はフィア様が相手をしてくださっているので、向かってくれ」

 せめて誰が訪ねてきたのかくらい教えてくれればいいのに、風竜に(そそのか)されたようなふあふあ具合で、僕の執務室に入って行ってしまった。里長に首っ丈、いやさ、御執心、って同じ意味か、いや、そもそも斯様な言い方だと御幣があろう……。

 ふぅ、思考が駄目なほうに向かっているようなので、筆頭竜官の行状に(かこつ)けて、現実から目を逸らすのはここらで止めにしておこう。

「ん、ん~?」

 僕に来客、か。同期の〝目〟の友人が手助けに来てくれた、とかなら嬉しいのだけど。カレンと併せて、これまでのような激務が解消されること請け合い。

 あとは、まさか父さんが来たとかだと、ちょっと困る。僕の家系の瑕疵、煽てられて調子に乗ると云々、を糾弾(きゅうだん)されそうだ。行き場の見つからない、取り留めのない思いに揺られながら、玉座の横の扉から炎竜の間に入ると、僕は我が目を疑った。

「え……、兄さん⁉」

 これは……っ⁉ 僕は「幻影」に惑わされているのだろうか。そこにはニーウ・アルン、誰あろう兄弟の契りを結んだ僕の兄がいた。この現況が信じられず見回すと、すでに解散したようで、炎竜の間には、膝の上にみーを乗せたコウさんが玉座に座っているだけだった。二人は向かい合って、何か話していたようだが。

 その懐かしい、里で別れたときより大人びた顔が僕に向けられる。ややもすると涙が溢れてしまいそうになる。だが、兄さんの前でそんな情けない姿を見せるわけにはいかない。

「やあ、リシェ、大きくなったね。でも、可愛かった頃の面影は残っているかな。実は僕の身長を追い越していたり、(いか)つく育っていたりしたらどうしようかと憂慮していたんだ」

 兄さんの笑顔と、記憶の中の優しい面影が重なる。僕が駆け寄ると、兄さんも近付いて、優しく抱き留めてくれる。グランク家で使用人として暮らしていた頃、就寝前にいつもこうして抱き締めてくれていた。あの頃の懐かしさと愛しさを兄さんの匂いが教えてくれる。

「ん? 天才じゃねぇか、こぞーん会いん来たんか?」「っ⁉ アルン! リシェと兄弟だと⁉ エンっ、知っていたなら教えないか‼」「えー、そんなん見りゃわかんだろ」

 僕が入ってきた扉から、エンさんとクーさんが姿を現すと、どうやら顔見知りだったらしい兄さんのことで何か揉めているようだった。

 エンさんが以前言っていた、天才、という渾名は、兄さんのことだったらしい。然らば兄さんは嘗て氷焔に所属していたということになる。何という奇遇だろう、僕は知らず知らず兄さんの足跡を辿っていたらしい。

「こぉ~ら、相棒。たくっ、しょーがねーなぁ」

 然て置きて、これは、初めて見る光景だった。クーさんがエンさんの背中に隠れている。そこに居れば、すべてから護ってもらえる、それを信じて疑わないような兄妹の絆が感じられた。エンさんの後ろで小さくなっているクーさんは、ぎゅっと目を閉じて、一生懸命に兄の背中にしがみついていた。

「信じられないかもしれませんが、私が出逢った頃のクー姉は、エン兄の後ろが指定席の引っ込み思案の子供だったのです。エン兄のほうは、何も変わってないのです」「えっと、クーさんのそれが、再発している理由は如何なる理由によるものなのでしょうか?」

 僕が尋ねると、コウさんとエンさんの冷ややかな双眸が兄さんに向けられる。

「あっと、それは、いえ、何と言うか、僕がクルさんに求婚して、断られたからでしょうね」「えぇぇ……」「こらっ、リシェ、断ったあたしが悪いみたいな声を出すんじゃない!」

 僕を怒る為に顔を出すが、兄さんと目が合うと、すぐさまエンさんの背中に逆戻り。

 そういえば、クーさんは氷焔にいた天才(にいさん)の話になると、無言になったりそわそわしたり、不自然な行動を取っていた。同性に慣れていなかったり、色恋沙汰(いろこいざた)でうろたえたり、普段の凛とした姿からは想像し難い姿だ。まぁ、これも弱点が多いクーさんの一面なのだろう。

 然ても、クーさん。兄さんの求婚を断るなんて、どれだけ理想が高いんですか。殆ど完璧である兄さんが駄目となると、懸念通り、本当に(コウ)(さん)しか愛せないのかも。

「今日は三つ、いえ、四つの事柄に関して、リシェと話をしようと思ってね。リシェに会いに来るのはもっと先になるかと思っていたけど、竜の国の侍従長となったと聞いて、頃合いかと遣って来たんだ。あっと、そうですね、一つ目は経過報告なので、皆さんも聞いていてください。では、先ずリシェの(もう)(ひら)くとしましょう」「僕の蒙……ですか?」「そう、これまでは僕を指針として、正しい道を歩ませることを企図して、あえて正さなかった。でも、リシェは人々を歩ませる側に回った。兄としては、このまま尊敬される兄でいたいけど、大切な弟の為に、僕の駄目なところを知ってもらおうと思うんだ」

 兄さんは、寂しそうな笑顔を浮かべた。いや、それは僕がそう見えたというだけで、本当は安堵の、一つの荷を下ろすことが出来たことによる感慨だったのかもしれない。

「リシェは、決められた道を歩いていくことが嫌で、里を出たあと、冒険者を選んだんだろうね。僕も同じ、誰かが決めた道を、誰かが示してくれた道を歩いているだけだった。里を出て、自由になったとき、僕は気付いた。遠い孤独の日々の中で僕が願ったこと。リシェと絆を結わえて識ったこと。僕がやりたいこと。それは一から自分で造り出すこと。根本から、ひとつひとつ結わえていくこと。そうして結実したもの、希求したもの。人と人の最大の係わり合い。ーー国を造ることが僕の夢になった。

 僕が氷焔に所属したのは、冒険者の技能の習得と、僕の目的の成就(じょうじゅ)に氷焔が使えるか確かめる為だった。使えない、と判断した僕は、五日で氷焔を去った。次に、経験を積む為、国情の荒れている南の国へ足を運んだ。王が民を虐げ、不満が(くすぶ)っている。〝サイカ〟の名を利用すれば、すぐに人は集まってきた。あとは、ゆっくりと内部まで毒を染み込ませていくだけ。天秤がこちらに傾いたあと、蜂起(ほうき)して、王を打倒した。けど……僕の目標の、殆どが達成されなかった。反抗勢力を僕が纏めることと引き換えに、幾つかの条件を提示した。王と、罪のある者以外の処刑は行わないこと。略奪を行わないこと。次の王の選定は、僕が行うこと。他にも色々あったけど、主なものはこの三つ。

 罪の無い者を殺せば、恨みが残る。略奪を行えば、自分たちに皺寄せがくる。相応しくない者が王になれば、そう遠くない内に繰り返される。重臣たちを殺せば、執務が滞る。兵を殺せば、国の守りが薄くなる。誰も彼もが、僕と交わした約束を守らなかった。

 僕が、王と見込んだ男がいた。彼ならば、長く国を安寧に導くだろう、そう信じられるくらいの高潔な男だった。だが、彼は最後まで王に尽くした。僕の説得に耳を貸さず、彼と戦わなくてはならなかった。彼は強かった。だから、手加減なんて出来なかった。

 ……だから、この手で、彼を殺した。ーー不思議なことに、僕との約束をまったく守らなかった人々が、僕を称え、国の復興に注力して欲しいと頼んできた。僕の夢は、一から国を造ること。僕は、目的に沿う地を求めて、エタルキアに渡る為、草の海に向かっていたところで、竜の国の話を聞いてこうして遣って来たというわけさ」

 耳は聞こえている。頭でも理解できる。声は出る。兄さんの姿は見える。腕は動く。感情は教えてくれる。ああ、でも、僕の中に僕がいない。僕の中で僕が浮かんでいる。

「どうだい、リシェ。兄の情けない行状を知って、幻滅したかな?」

「そ、それは、ただ失敗しただけで、兄さんなら次からは上手くできるはずです!」

 僕ではない僕が喋っている。だから、言いたいことをちゃんと言ってくれない。兄さんが望んでいることがわかるのに、僕の心を、僕の願いを素通りする。

「これで駄目なら、まだまだ付け加えないといけないようだね。先程、リシェはクルさんのことを、クーさんと呼んだでしょう。リシェは、僕の大切な弟なのに、醜い嫉妬に駆られて、殺意さえ湧いてしまった。僕の夢とは違う形とはいえ、リシェは国を造った。竜の狩場に国を造るなんて、僕は想像だにしなかった。それを知ったときの、僕の……」

「わかりましたっ! もうっ、もう止めてくださいっ、兄さん‼」

 涙が零れる。止められない。何をすれば、何を言えばいいのかわからない。ただ突っ立っているだけで、自分が何をしてきたのか、何を見てきたのかが、まったくわからない。

 頭の中には何もない。何もないから。わからないものは、すべて壊れてしまった。

 手を伸ばしても届かないものは残っているだろうか。見上げても目に映らないものは失われていないだろうか。消えないものを掻き集めれば何もないことを忘れられるだろうか。

 世界を輝かせてくれたのが誰だったのか。

 小さな世界で、山々に埋もれてもがく僕に、物の見方を、呼吸の仕方を、生命の暖かさを、人としての根本を知らせてくれたのは誰だったのか。始まりが、憐れみだったとしても構わない。今ならわかる、僕が僕を見失っていた頃、僕に気付いてくれたのは誰だったのか。いつでも、差し出してくれていたことを、僕は覚えている。

 答えはある。もう、すべて兄さんが用意してくれている。これまでは、気付かなかっただけ。気付けなかっただけ。気付こうとしなかった、だけ。

「こ、これを使いなさい」

 いつから居たのだろう、カレンが布を差し出していた。素直に受け取って、でも、それで涙を拭く気になんかならなくて、ぎゅっと握り締めた。

「そこで、序でに優しく抱き締めてあげれば、好感度が高まるし、色々と蟠りが解消すると思うんだけどね。それがカレンの願いに沿うものではないとわかっているけど、頑迷(がんめい)、ではないか、一途、も過ぎれば、リシェに辿り着く前に地竜のように固まってしまうよ?」

「なっ、ななっ、な、何をとち狂っているのですか、アルンさんっ⁉ 人が弱っているときに付け込むのは、戦術としては正しいですが戦略的にはどうかと思いますわっ!」

 兄さんとカレンの間で、よくわからない遣り取りが為されていた。

 そこで、これまで静観していたコウさんが、みーをぎゅっとしながら、火炎(ことば)を吐いた。

「相変わらず、変なところで押しの強い人なのです。リシェさんの兄だと聞いて、納得したのです」「僕の弟、ではなく、リシェの兄、ですか。僕の可愛い弟を気に入ってくれているようで、兄としては嬉しい限りです」「侍従長の兄の、無職の人は(うるさ)いのです。魔法球を二つ進呈するので、さっさと消えてくださいなのです。でないと、強制転移させるのです」「みー様の角のリボン。それにコウさんの、三角帽子の幸運の鳥は、リシェの贈り物ですか? 見たところ付与魔法が掛けられているようですし、お気に入りのようですね。……ん? これは、もしかして『保護』ではなく『凍結』、いえ、まさか『時降(ときふる)』⁉」「意地悪な人には教えてあげないのです。竜に喰われろ、なのです」「おや、みー様、どうしました?」「無職の人がリシェさんと同じ臭いをさせてるので、警戒してるのです」

 ……これは、コウさんと兄さんは仲良しなのだろうか。コウさんがこんなにもずけずけと物を言っているのを見るのは、初めてかもしれない。兄さんの懐の深さがそうさせるのだろうか。見習ったほうがいいのか、判断の難しいところだ。はぁ、まったくもう、人がしんみりしていたというのに、お構いなく騒いでくれる人たちである。

 一触竜発の二人の間で、みーが真剣な顔をしていた。確かに、コウさんが言うように警戒しているように見えなくもないが、少し違うような。

「むーう、ふところに、いちもつありなのだー!」

 びしっ、と兄さんに向けて指を差すみー。なぜか慌てふためくコウさんが小声でみーに注意をしていた。といっても、何がいけないのか、みーには伝わっていないようだったが。

「ほほう、さすがみー様。その竜鼻、御見それいたしました」

 兄さんは歩を進めて、やおら両手を懐に差し込むと、ばっと両手を広げた。

「ふぁはぁゃ~っ⁉」

 兄さんの、すべての指の間に挟まっている物を見て、早く頂戴とばかりに手足をばたばたさせる。兄さんは、慌てず急がず、みーの若草色の外套を掴んで膝の上を覆うと、その上に右手に挟んでいたお菓子をぼとぼとと落とした。

「草の海の周辺で買ってきたお菓子なので、見たことのない物ばかりでしょう?」

 膝の上のお菓子に目を輝かせていたみーの視線が、然もありなん、つつつっ、と残りのお菓子を射程に収める。兄さんは、魔法のように右手にお菓子を取り出すと、みーのお口に、ぽすっと突っ込んだ。そしてみーが、あむあむする間に、ふよふよの炎髪を撫で回す。

「ふむふむ、触り心地良さそうだと思っていましたが、これは癖になりそうですね。さて、こちらの角の感触も確かめさせて頂きましょう」

 みーが食べ終わった瞬間、兄さんは左手のお菓子を投入。言葉通りに、みーがお菓子に気を取られている内に、二本の角を触り捲りながら矯めつ眇めつしていた。

 猛烈に羨ましい。僕が未だに、みーの頭を撫でる、という悲願を達成していないというのに、さすがは兄さんである、こんなにも簡単に事案が発生。

「お菓子と物々交換ということで、この魔法球は頂いていきますね。これは『飛翔』と『隠蔽』でしょうか?」「……その通りなのです。ニーウさんの魔力操作能力なら、草の海を越えるまで持つのです。魔法球の魔力が切れたら壊れてしまうので、最後は低空を飛んでくださいなのです」「了解。では、リシェ。残りの三つは、行き掛けに話そうか。コウさん、リシェをくれぐれもよろしくお願いします。エンさん、大人しく聞いていてくれてありがとうございます。クーさん、これまでのように(ふみ)を送るので、楽しみにしていてください」「竜に百回振り回されて、体中の毛が逆立つといいのです」「んな長話ん、口突っ込めるわきゃねーだろ。そーさなぁ、竜ん百回、ぶるんぶるんされて、こむら返っちまいやがれ」「……うー、竜にぷしぷしっ、ぷしゅーっ!」

 兄さんは、ずいぶん氷焔に馴染んでいるようだ。そして、いつもの饒舌はどこへやら、クーさんが幼い子供のような、可愛いのか小生意気なのか判断の分かれる真情の発露、これは退行なのだろうか?

 クーさんの反応を見る限り、完全な脈なしではないと思うのだが。兄さんが梃子摺っている相手である、異性に疎い自覚がある僕がおいそれと判断を下すのは早計というものだろう。コウさんとエンさんの表情から察するに、寝た竜を起こすな、ということらしいが。

 さらりと、或いはざらりと別れを済ませて、兄さんが氷焔に背を向ける。僕は、慌てて兄さんの横に並ぶ。すると、僕たちの後ろに足音が近付いて来て。

「あっと、付いて来るのかい、カレン」「歯止めとして、付いていきます」「信用ないね、僕は」「アルンさんの能力は信頼しても、性格は信用しません」「不思議だね。僕とカレンの関係は薄いのに、見抜かれてしまう」「あなたが、ランル・リシェの兄だからです」

 緊迫した遣り取りではないものの、何だろう、炎竜氷竜の仲というやつだろうか。

 翠緑宮の表口に向かって歩きながら、兄さんは軽い調子で続ける。

「二つ目は、これは確認だけで済むだろうね。どうだい、リシェ? 今でも里で習ったことを一々思い出したりしているかな?」「ーーえっと、そういえば、竜の国を造り始めてから、思い出す、というか、特段参考にすることとか少なくなったかも」

 思い返してみると、ここ何巡りかで里の教えを意識した覚えがない。

「それは、自分で物事を考えるようになったからだね。習ったものは、下地に過ぎない。いつでも必要なものは、その先にある。そこに手を伸ばせば、自然とそうなってゆく。リシェが正しく成長しているようで、兄は満足。ということで、三つ目」

 んふふー、と満足気に相好を崩す兄さんの顔は、どこかスナと似ていた。裏表なく、僕のことを想ってくれている。それが擽ったくて、やわらかで。僕も、誰かにとっての、そんな存在になれるだろうか。などと思ってしまう。

「リシェは、将来、僕の手伝いをしてくれるつもりだった?」「はい。兄さんの恩に報いる為にも、経験を積んで、いつか兄さんの役に立てればいいな、と思っていました」「うん、問題はそこ。僕の助けになろうとしてくれる、その気持ちは嬉しい。だけど、その為に自分を犠牲にしてないかい? 遊んでいる暇があるなら経験を積む、楽しむことをせず真剣に取り組む、役に立たないことは身に付けない、ーー自分ではそのつもりはないかもしれないけど、そんな風に自分を縛っていないと、断言できるかな?」「それは……」

 兄さんの言葉が、見えない、見ないようにしていた場所を、どこまでも滑り落ちてゆく。

 気付いてみれば、逃げ場なんてどこにもない。否応なく、僕の心を粟立たせる。

 ーー図星だった。兄さんの助けになりたい。それが、里を出たとき僕が選んだ道だった。でも、それが叶うのはずっと先の話で、僕は自分の為に自由に選択していると思っていた。

 そうして、誤魔化していたのかもしれない。僕が望んだこと。それは願いであると同時に、重荷だった。兄さんの助けになるには、相応の力が必要だ。知らず知らず、僕は追い詰められていたのかもしれない。

「リシェなら、わかるはずだよ。僕の望みは、僕の為にリシェが犠牲になることじゃない。リシェが自分の望みを叶える為に、自由に生きてくれること。その先に、僕と交わる道があるのなら、それはきっと、本当の意味で僕たちの夢が叶ったことの証しだと信じている」

 一階へ下りる階段。下ってしまえば、表口までもう少し。

「そうだね。リシェがリシェらしく生きる、その為に、先ず恋でもしてみたらどうかな?」

「……こい?」

 こい、という言葉が、頭の中できちんと変換されなかった。来い? 濃い? 故意?

「つまり、好きな人でも出来れば、世の中変わって見えることもあるだろう、ってね」

 こういう甘ったるい話が苦手なのだろうか、カレンが余所余所しい態度で、我関せず、を決め込んでいた。僕は、どうなのだろう、恋、とかいうあやふやなものは、心にすとんっと落ちてこない。愛情とは似て非なる、焦がれるようなもの……なのだろうか?

「ん~、正直、実感が湧きません。スナ……あ、えっと、恋情ではないけど、割りかし近いの、かな? ……そうですね、兄さんが結婚したら、真剣に考えることにします」「あっと、これは失敗したかな。僕は、クルさんよりも自分の夢を優先させてしまったからね。人に偉そうに言える立場じゃないので、肩身が狭い。ーーにしても、さてふむさてふむ、いつの間にやらリシェにもそんな感じの人が出来たのかな? いい傾向だね。カレンも負けてられないね」「へ?」「ーーっ⁉」

 揶揄したのは兄さんなのに、何故カレンは僕を睨んでいるのだろう。しかも、これは殺意? いや、もっと何かどろどろしたもので。って、あの、カレン? 凄く怖いんですが。

 うっかりスナの名前を口にしてしまった。とはいえ、それだけでは、然しもの兄さんでも、氷竜(ヴァレイスナ)のことだとわからないだろう。兄さんになら言っても良さそうだが、というか、言ってしまいたい。秘密の共有とか合い言葉とか、昔を思い出して、懐かしさに浸りたい気分になってしまう。もう子供ではないと思っていたが、僕の中にもまだまだ人に甘えたいという気持ちがあるようだ。

「ということで、話を逸らす為に、四つ目。コウさんはいい娘だけど、とても危険な存在だ」「えっと、それはわかってーー」「否、わかっていない。本来なら、無理やりにでも引き離しているところだ」「兄さん……?」

 手の包帯を見られて、思わず隠してしまう。まるでこの傷が、兄さんの言葉を肯定するものだと認めてしまったかのように。

 僕の言葉を否定した兄さんは、更に強く拒絶の言葉を継いでゆく。

「僕にはわかる。リシェは優しい。この先、どれほどの傷を負うだろう。下手をすれば、命を失うことすらある。汚泥に塗れて、二度と立ち上がれなくなるかもしれない。

 だから、リシェに命令する。竜の国の侍従長を辞し、エタルキアで国を興す僕の手伝いをしてくれ。僕は、あの娘の近くにリシェが居ることを許せそうにない」

 兄さんは、僕だけを見ていた。他の誰でもなく、僕のことを。僕の行く先だけを。

 聞く者が聞けば、余りに独善的で、それでいて純粋な。これが、兄さんの本心なのだろう。そして、僕に自由に生きて欲しいと願ってくれているのも本当のこと。矛盾しているとわかっていても、兄さんは包み隠さず、心の内を赤裸々に語ってくれる。

 コウさんに関して、兄さんは僕以上に何かが見えている。僕は、コウさんに竜の国という選択肢を差し出したが、この道の帰結を見通しているかもしれない兄さんなら、彼女の道を閉ざしていただろう。漠然としているが、今ならそれがわかる。

 これまでなら、兄さんが正しいと、信じて疑わなかった。でも、それではいけないと、兄さん自身が教えてくれた。そういえば、スナも僕に統治者としての肝要の一つを教授してくれた。やっぱり僕は、然く危なっかしく見えてしまうのだろうか。

 ーー僕に出来るのは、嘘偽りのない答えを返す、ただそれだけ。

「ありがとう。兄さん」

 この言葉以上に、僕の、今の気持ちを表すものはなかった。

 真っ直ぐに答えた僕を認めてくれたのだろうか。巨岩の横を通り過ぎて、到頭空が見えるところまで辿り着いてしまうと、昔と同じように褒めてくれる。

「兄さん、僕はもう子供ではありませんよ」

「残念ながら、その意見は受け容れられないな。兄には、弟を可愛がる特権があるからね」

 昔、兄さんの手は、魔法の手だと思っていた。いや、魔法の手だったのだ。頭を撫でられるだけで、すべてが満たされていた。そして、兄さんの手で、魔法は解かれた。

「「ーーーー」」

 別れの言葉はいらない。道は交わるかもしれないし、生涯違えることになるかもしれない。最後に、一つ頷いて、兄さんは「飛翔」で飛び立っていった。

 「隠蔽」で兄さんの姿が見えないらしいカレンが、いつまでも空を見上げている僕に、こちらを見ながら目だけを逸らすという、何かを期待しているような、見たいのに見たくないような、不可思議な態度で忠告してくれる。

 躊躇いながら、口を手で隠して、心做し薄っすらと頬を染めて。

「あの、その、ランル・リシェ? 実は、異性よりも同性のほうが好きだとか、そういうこととかあったりするのかしら? 人の嗜好について、とやかく言うつもりはないのだけれど、愛情と恋情は似ているようで違うのだから、その辺りを気にしたほうが、ね?」



 深つ音。夜の最も深い時間をそう呼んでいる。無論、こんな真夜中に鐘は鳴らない。

 夜の鍛錬の間は、カレン一人で仕事をしてもらった。彼女も鍛錬に加わりたいようだったが、エンさんとクーさんの魔力全開戦闘に交ぜるわけにはいかない。僕が強い、などという、嘗ての誤解は解けたが、別の心得違いを生み出すのは得策ではないので。(なだ)(すか)して、カレンには遠慮してもらい、まぁ、交換条件として、彼女との鍛錬が僕の日課に追加されてしまったが、そのことに目を瞑りさえすれば、カレン効果は絶大である。

「これからは、毎日ちゃんと睡眠時間が取れそうだ」

 カレンは、僕よりよっぽど優秀なのだから、これも当然の帰結だ。彼女は、正しい方向であれば〝サイカ〟に劣らぬ能力を発揮する。然し、応用というか邪道というか、そういう方面に難点がある。それが、認定試験で彼女が〝サイカ〟に至れなかった理由。だからこそ、竜の国の侍従長の薫陶を期待したのだろうが。

「でも、どうだろうなぁ」

 翠緑宮の二階から階段を上ると、外に出た。そこには何もない、だだっ広い薄闇が広がっている。薄い雲が、月を朧にする。竜の国は、これから安定に向かっていくはずで、カレンが期待するような屋上屋を架すような面倒が起きるかどうか。

 日々の乱れてしまった生活の所為か、目が冴えてしまって眠れなかったので、ふらりと遣って来た。初めて上ったが、ここから見る中空は、悪くない。日中にスナの導きで、深い眠りに就いたので、それも影響しているのだろう。

 翠緑宮の側面と同じように硝子で覆うという図案もあったが。いずれ用途が見つかるかもしれないと、風を遮るものは風だけ、という光景が生まれることになった。公園のような憩いの場にするか、魔法や魔工技術に関する実験場にするか、竜騎士が望む騎竜が現実のものとなったら、ここを亜竜の飼育場にするーー何てことは、まぁ、ないか。

 転落防止の柵などはない。と、今更思い出す。そういえば、二階から上がれないように「結界」が張られているのだった。……王様のお仕事を増やす、悪い侍従長である。

 布が擦れる音、だろうか、耳に届いて視線をやると、階下にサンとギッタ、双子の後ろ姿が見えた。二階の居室の露台から夜空を見上げている。僕は、そっと、音を立てないように屈んだ。あ、いや、別に、疚しい気持ちがあって、そうしたわけではありませんよ? ただ、体がうっかり反応してしまったというか、本能が危険を察知したというか。

「お待たせなのです。『結界』を張ったので、本音をぶちまけてくれて構わないのです」

 自分に言い訳をしていると、フラン姉妹に来訪者が現れた。というか、間違いようもない、これはコウさんの声である。ちらっと見えたが、彼女は魔法で飛んできたようだ。

「…………」

 屈んだ姿勢から地面に手を突いて、息を潜めて聞き取り易い位置まで移動する。

 ごめんなさい、嘘を吐きました。ほんのちょっとだけ、疚しい気持ちがあります。コウさんとフラン姉妹の密会に興味があるのは本当のことだけど、コウさんに限ってそんなことはないだろうが、竜の国に不利益があるかもしれないということで。

 然ても、妙ではある。「結界」は、僕に対して張られたわけではない。なのに、「結界」の外に居る僕に声が届くのは、何故なのだろうか。僕の特性は、常識では測り難い法則を持っていることがある。しかも、状況によって変化している節さえある。

「先程渡した三十冊は、魔工技術の基本なのです。一巡りの間に、(そら)んじられるくらいに頭と体に叩き込むのです。私に教えを()うのは嫌だと思うので、解説や図解など、補助の為の魔法球を貸してあげるのです」

 コウさん水準での基本か。これは双子は大変そうだ。ただ、本気で魔工技師を志向する者だったら、手に入れることさえ難しい三十冊もの専門書は、垂涎(すいぜん)の代物だろう。

「あたしたちが竜の(ここ)に居るのは、カレン様が選択したから」「誰が好き好んで、このような竜の(ばしょ)に来たいと思うものか。とギッタが言ってます」「他の奴らは、気付いていないだけ」「でも、あたしたちにはわかる。本当の害毒の存在に。とギッタが言ってます」

 感情の籠もらない明らかな面罵(めんば)に、気にした素振りもなく、コウさんは問い掛ける。

「ここでなら、一人で喋らなくてもいいのです、ギッタさん。それとも、自分がどちらであるかもわからなくなってるのです?」

 ギッタ。今、コウさんは、ギッタさん、と言った。いつも話しているのは、サンのはずだが。とすると、ギッタは喋れないわけではなく、いや、これはコウさんの見立てが正しかった場合だが。ーーああ、頭がこんがらがりそうだ。コウさんの言い様だと、双子は自分がサンなのかギッタなのかわかっていない、という風に受け取れるのだが、そんなことなどあるのだろうか。スーラカイアの双子の然らしめるところ、となりそうではあるが。

「…………」「……。とギッタが言ってません」

 二人の沈黙(?)を肯定と断じたのか、コウさんは核心に迫る。

「スーラカイアの双子には、語られていない話があるのです。双子は、将と官だったのです。望んでそうなったわけではなく、双子の秘密に気付いた者が、そうしたのです。スーラカイアの双子には、稀に多量の魔力を具えた者が現れるのです。ただし、それは二人揃って、始めて効果を発揮するのです。

 魔力の共有と共鳴。深く繋がり過ぎる故の人格の境の希薄。そうして得たあなたたちの魔力はーーそうなのです、十五ガラン・クンくらいなのです。限界は、三十四、いえ、三十三ガラン・クンてところなのです。私なら、その限界を超えさせることが可能なのですが、それにはあなたたちを調べさせてもらわないといけないのです」

 大陸最強の魔法使いが単位になっていた。つまり、通常の人間の最大魔力量、という基準なのだろう。中年の魔法使いを思い出しながら、心中複雑な気分になってしまう。

 大きな魔力は、大きな魔力を誘うのだろうか。いや、それはさすがに穿ち過ぎか。フラン姉妹は、カレンに懐いて、遣って来ただけ。そういえば、彼はその後どうなったのだろう。コウさんから顛末(てんまつ)を聞いていない。順当にいけば、牢屋にでも入っているのだろうが。

「色々と言いたいことがあるけど、百万の罵詈雑言も竜の耳に子守唄」「翠緑王サマ様さま~の魔力量を教えて頂けますでしょ~か⁇ とギッタが言ってます」

 これまでカレンと係わりのないことには無関心であったサンとギッタ(?)の言葉に感情が宿る。何が基準となっているのかわからないが、双子は嫌悪感や拒否感、忌々しさを隠していない。ともすれば、強がりに聞こえるそれは、僕の勘違いではないのだろう。

 魔力の影響を殆ど受けない僕でさえ、コウさんの魔力量に肌がざわつくことがあるのだ。大陸最強と呼ばれる魔法使いの十五倍もの魔力量を(よう)する彼女たちには、通常とは異なるものが感じられたとしても不思議はない。

「私の最高魔力保有量は、五千兆ガラン・クンなのです。使用可能上限は、この世界の魔力量と同じ、二京ガラン・クンなのです。でも、魔力量がそのまま魔法使いの強さ……」

「あほかー⁉」「あほだー‼ とギッタが言ってます」

 コウさんの言葉を遮って、双子が絶叫する。まぁ、その気持ちはわからなくはない。フラン姉妹が声を上げていなければ、僕がコウさんに突っ込み(?)(ほほをつねつねぐりぐり)を入れていたかも。

「あなたたちのことを邪魔するつもりはないのです。カレンさんは素敵なので、姉になって欲しかったのですが、諦めるのです。なので、あなたたちには、魔工技師として相応の働きを求めるのです。でないと、カレンさんに言い付けてやるのです」「弱点を握られた! ならば、交換条件だ!」「あたしたちがちゃんとやってる間は、カレン様に五割増しの報告をしてもらう! とギッタが言ってます」「それと、あのお腹とお尻は渡さない‼」

 意外に前向きな双子である。あと、クーさんにしろ双子にしろ、どうしてここまで欲望に忠実なのだろうか。いや、彼女たちからすると、あれでも抑えているほうなのだろう。

 そして、コウさん。カレンを姉って、そんなことを考えていたんですか。本当の姉であるクーさんが、いや、そういえば、クーさんも本当の姉じゃなかったっけ。兄さんも、僕の本当の兄さんじゃないし、身近にいる本当の兄弟姉妹は、フラン姉妹くらいなのかな?

 お互いの領分に干渉しない、という折り合いがついたのだろうか。明らかにコウさんのほうが有利なので、あとはフラン姉妹の心の持ち様ということになるのだが。

「それに、あなたたちが本当に恐れなくてはならないのは、私ではないのです。あなたたちが真に恐れるべきは、竜の国の侍従長、リシェさんなのです」

 ……ん? ……は?

「そんなこと、言われなくてもわかってるわ」「あの汚物は、焼却処分しても、後世に災禍を齎すなんてこと、自明の理よ。とギッタが言ってます」

 ……へ? ……なんですと?

「すでに幾度も魔法による干渉を行ったあなたたちなら、少しはリシェさんの脅威を感じられるはずなのです。あの人は、凄くーー、もの凄ぉ~く、意地悪なのです」

 ……すみません。僕にはコウさんが何を言っているのかまったくわかりません。何故、そんな情感たっぷりに悪口を言われなければならないのでしょうか。

 それと、双子。すでに僕は悪意の標的として、魔法攻撃を受けていたらしい。まったく、僕じゃなかったらどうするつもりだったのか。コウさんといい双子といい、どうして魔法使いは手が早い、もとい行動的というか活動的というか能動的なのだろう……いやさ、手が早いーー攻撃的、で合っているか。う~む、やはり魔法という手段(ちから)を持っていると、斯かる傾向になってしまうのだろうか。少しは老師を見習って……ああ、いや、僕の首を叩き斬ろうとしたり遭難させようとしたり老師も同じ穴のギザマルでしたっけ。ガラン・クンもそうだったし、はぁ、僕の心象の通りの、穏やかな魔法使いが現れてくれないかなぁ。

「というか、侍従長(あれ)王様(あなた)のなんだから、ちゃんと首輪をつけておきなさいよ!」「カレン様に近付かないように、っていうか、誓いの木っていうの持ってるんでしょ。さっさと結婚して、序でに子供も産んじゃいなさい! とギッタが言ってます」

 あー、これはコウさんが爆発するな、と思っていたら。首筋の辺りがもにょもにょした。何度も経験しているので、到頭僕にも気配が察知できるぅぅ、ぐべっ……。

「たーう、こーのあまあまなふあふあいーにおいかぎかぎなくんくん、のべつまくなしりゅーもやむなしほのーはぼーぼー、せかいのはてまでみーちゃんさんじょーなのだー!」

 来るのがわかっても、躱せなければ意味はない。またぞろみーが僕の頭を踏んで、大跳躍。ああ、首が……、って、あれ? みしっとならず、少し軽かったような。然ても、みーの惨状、もといみーに参上の長台詞を吐かせたのは、教え込んだのは誰なのか。まぁ、それはいいとして、はて、竜と犬、どちらが鼻が利くのか、って、そんなこと考えている場合じゃなくて、こんなところから飛び降りたら、いや、コウさんがいるから大丈夫なのかーー。あれ? みーを目で追っていると、落下速度がゆっくりになって、ぽすっ、と音が聞こえた。ここからでは見えないが、恐らくコウさんに抱き留められたのだろう。

「みーちゃんっ、凄いですよ~。もう『飛翔』の手応えを掴んだんですね~」

 目の錯覚ではなかったらしい。南の竜道では、まだまだ全然だったのに、この短期間で(いちじる)しい進歩である。これも、竜の資質によるものなのだろうか。それとも地面に落っこちても諦めなかった、みーの頑張り、もといがんばりゅー(?)の成果なのか。

「『飛翔』って、『浮遊』を通り越して、そんな高等魔法を⁉」「サン、一緒にしちゃ駄目よ。あのちんちくりんは竜なの、いちびっちゃく見えても竜なのよ! とギッタが言ってます」「あたしも造語でやっちゃうわ。ちびり竜、ちんまり竜、ちきちき竜!」

 相手に理解されていない悪口の、何と空しい響きか。三歳のみーより子供っぽいのはどうかと思うが、同じ土俵で闘う気満々であるようだ。これも仲が良いと言うのだろうか。

「はーう、ふたふたはー、こーこわいみたいー? おっきくなったら、こーとおんなじなみーちゃんはー、こーすきすきーのやわやわーなのだー」

「きゃっ、みーちゃ、駄目ですよ~。ふぃ、そこをすりすりしぃ、いけなぁっ」

 みーの、すりすりすりりん総攻撃(はらはらどきどきうれしはずかし)を凌げなかったコウさんが、わやくちゃにされていた。

「この熱いだけが取り得の炎竜が、くのっくのっ」「今は、あたしたちと同じくらいの強さのくせして、のくっのくっ。とギッタが言ってます」

 みーのぷにぷにほっぺを摘んで、双子が左右からぐいぐい引っ張る。負けじとみーも双子のほっぺ、には手が届かなかったので、姉妹の手の甲の皮膚を摘んでぐりゅぐりゅする。あれって、案外痛いんだよなぁ。とか思いながら不毛な争いを観戦していたが、見つからない内に首を引っ込める。いや、もうこれ以上進展はなさそうだし、

「あうやふやふあうみゃう、ふぃーひゃんわえにゃいのにゃー!」

 みーの勝利を願いつつ、居室に戻るのだった。




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