五章 竜の民と魔法使い 前半
第五章 竜の民と魔法使い
りーん。
大き過ぎず、小さ過ぎず、耳に心地良い鈴の音が反響する。ミニレムが王宮内を巡って、時間を知らせてくれている。今は早朝、一つ音の鐘である。施設内では鈴だが、竜の都や八つの竜地では鐘が鳴らされている。ミニレムの大切なお仕事の一つである。
ーー仕事。仕事、睡眠。仕事。仕事、睡眠。仕事、睡眠。仕事。仕事……、もう朝なので、睡眠は無しである。ここ一巡りの僕の生活を簡潔に表してみました。睡眠の回数は三回なので、徹夜した回数のほうが多いという結果になりましたとさ。……ああ、いや、頭が回らないので耄碌、って、そうではなく、倦怠というか草臥れたというか、自虐的になっているのかもしれない。世界はきっと暖かくて、もっと穏やかなはずなのに、僕の執務室にだけ氷竜が棲み付いているに違いない。なんか寒いし、ずっと同じ姿勢でいたから、体に変調を来しているのかもしれない。
ここは、侍従長に宛がわれた部屋である。この一階の執務室と二階の居室が、今の僕の主な活動場所である。休む間もなかったので、二つの部屋はまったくもって殺風景である。最低限の物が、必要とされる度に、少しずつ増えていくだけ。使用人に頼めば、たぶん用意してくれると思うのだけど、長時間ずっと過ごす場所である、家具や装飾品の類いは自分で選びたい。大路だけでなく、主要路や居住区にも商店が増えて、活況を呈している。これまでは、ただ通り過ぎるだけだった。出来れば一度ゆっくりと足を運びたいものだが。
りぃーん。
今度は、近くで鳴ったようだ。一つ音から四つ音まで、数を増やしながら鳴らされて、五つ音で鐘一つに戻って、八つ音までまた数を増やしながら鳴らされる。
まだまだ忙しく、翠緑宮に住まう多くの者が、この鈴の音に合わせての起床である。
翠緑宮の二階は、謁見の間である炎竜の間、会議室の風竜の間や法廷の地竜の間など、王宮の主要施設がある。奥には、氷焔や竜官の居室や客間がある。土地が余っているから、などとは言いたくはないが、そういう理由で翠緑宮は竜が十体乗っても余裕があるくらいの、広大な施設となったのだった。老師の拘りが表れているのだろうか、華美ではないが趣のある装飾が随所に散りばめられている。
一階は、役所と僕たちや竜官の執務室がある。食堂、詰め所など、王宮を支える施設が続き、やはり奥には、使用人の居室がある。あとは、クーさんの要望で、かなり大き目の浴場が設置されることとなった。水や治水に関してはコウさん任せだったが、十分な供給を賄えているようなので、憩いの場にもなっているようだ。そして地下に、牢獄がある。コウさんの要望で、鉄格子のような見るからに寒々しいものではなく、ある程度居心地を悪くした個人の尊厳が守られる部屋にしてある。弟子からそれを頼まれたときの、眉だけが困惑の形に歪んだ老師の顔を思い出して、申し訳ないが、笑いが込み上げてきてしまう。竜の国、とは、コウさんの国、でもあるので、彼女の願いが第一に優先されなければならないのだ。ーー一応、そういうことになっている。
城街地の人々が竜の国に移住する、この期間が忙しいだろうことはわかっていた。思った以上に順調に進捗しているが、それでも問題の種はいつどこにでも芽吹く。居住地の割り当てや、人員の移動など、綿密に準備していたが、必ずしも上手くいったというわけではない。先ず思い知ったのは、こちらの思う通りに人は動いてくれないということだ。伝令の過誤、現場の勝手な判断、そもそも命令の内容を理解していない場合もある。そこで覚えたのは、手間を惜しんではならないということだ。何故そうするのか、どうしてそうなるのか、きちんと相手が理解できるだけのものを添えて、差し出さなくてはならない。自分が理解していればそれでいい、という独善的な遣り方では、詮ずるところ余計な雑務を増やすことにしかならなかった。
始めの一巡りは、ただただ忙殺されているだけだった。というか、その頃のことは、もう記憶が朧気である。今、二巡り目が終わったわけだが、だいぶ、というか、かなり、効率が良くなったはずなのに、変わらず忙しいのはなぜなのだろう。実際に実務に携わって、色々なことを学んだ。それを活かして、能動的に回せている実感があるのに。
がちゃ、と扉が開く音がした。顔を上げると、ザーツネルさんが好い匂いだった……ではなく、彼が持っているお盆の上の食べ物たちが、仕事に没頭することで忘れていた食欲を刺激しまくって、自然と喉を鳴らしてしまう。
「おー、相変わらず凄いな。足の踏み場もない、ってのは正にこのことかな」
ザーツネルさんが、床に置かれている書類や雑多な品々を避けながら遣って来る。そう、これらは置いてあるのであって、散らかしているわけではない。この状態が、今は最も仕事がし易い環境なのである。ということを理解して欲しい。
「兵舎で出てる、量だけは多い飯だ。若いんだから、たまにはがっつり食いな。あと、ここに来るのを見咎めた人から、幾つか言付かっている。食べながら聞いてくださいな、侍従長様」
机に大盛りの朝食を置くと、言葉の最後に、人懐っこい笑みを浮かべる。
「あひあおうごあいまう」
お礼を言ってから食べようとしたのだが、手は勝手に食べ物を口に運んでしまっていたようだ。気に掛けてくれている、というか、気遣ってくれている、というか、ん? 同じ意味かな? まぁ、何にしても、とてもありがたいことである。世界には仕事しかないのかと、精神が煤けた身には、優しさが堪える。兄さんにエンさんに、老師にザーツネルさん。周期が上の同性に恵まれているというのは、きっと人生の宝なのだろう。異性には嫌われることが多かったが、きっと人生の……あ、いや、それは言わない約束である。
「サーミスール、クラバリッタ、最後にキトゥルナ。予定通り、最後の移住者が出発したのを、城街地の竜騎士が確認したそうだ」「城街地出身の彼らの、隊の名前は決まっていないんですか?」「ああ、それな。二隊にするか三隊にするかで、揉めているらしいな」「そうですか。では、各城街地の出身ごとに二隊に分けて、六隊作ります。各地の南寄りに居たほうと北寄りに居たほうの三隊を併せて一隊にすれば、それなりに顔見知りが居て、偏りの少ない二隊が出来上がります。えっと、ザーツネルさんの左後ろに置いてある束の、上から三番目の紙を取ってください」「これは、もう、手際がいいって水準なのかねぇ」
紙を抜き取って、一読したザーツネルさんが、呆れて両手を広げる。クーさん同様、彼も自然な振る舞いが絵になる人だ。まぁ、今は嫉妬より食欲である。
「そうなると思っていたので、事前に用意しておきました。侍従長の裁定だと伝えておいてください。疑義を抱くようなら、申し出るようにと。さすがに隊名まで決めるのは可哀想かと思ったので、彼らに決めてもらいます。あと、城街地出身者の竜騎士とは上手くやれそうですか?」「同じ釜の飯食って、一緒に訓練すれば、蟠りも少なくなるだろうさ。無くならないものを無くす必要なんてない、馴染ませればいいだけさ、竜の国の流儀でな」
ザーツネルさんが話している間は、一心不乱に、は言い過ぎか、耳と頭だけは機能させているので、一心竜乱に喉に詰め込んでゆく。
「あと、団長がまた『魔物ん出っから行くぞー』って言って、飛び出していった。団長の勘の良さは聞いていたが、まさかあそこまでとは。さすがは氷焔というところかな」
移住時の安全は、コウさんに任せておけば万全なのだが。いきなりそこまで過保護に、何より、コウさんの魔法の強大さを見せ付けるのは良くないと、渋る彼女を説き伏せた。移住時に魔物の襲撃がないのは不自然。とはいえ、襲われるのを指をくわえて見ているわけにはーーって、これは意味が違うか、竜の尻尾を見掛けたら、追い掛けないわけにはいかない。いや、これもおかしいか、もう普通でいいやーー襲撃を見過ごせるわけがない。 そこでエンさんの出番である。魔物退治には、元冒険者と元城街地の竜騎士を数名ずつ帯同させている。共通の脅威に対して、共に死線を越えれば仲良くなるだろう、という「戦友作戦」である。竜騎士は、治安維持の重要な人員である。こちらの思惑を理解してくれているか怪しいところだが、エンさんならきっと……たぶん上手くやってくれるだろう。
「三つ音の時刻になったら、フィア様と遊牧民の長老を出迎えに行きます。これで、竜の国の枢要が揃うので、明日顔合わせを行います。城街地出身の竜騎士は、とりあえず最年長の者を中心に、三人ずつ出席させてください。あ、そうそう、鎧は間に合いましたか?」
謁見や会議の際は、基本的に代表と補佐二名が出席することになっている。竜騎士も同様で、隊長と補佐二名が出席するのだが。間に合わせになってしまったが、客人を迎えるのに無礼にならないよう、儀礼用にと竜の国仕様の全身鎧を発注しておいた。
「元冒険者の二隊分は問題ない。調整は間に合わないが、見た目だけなら格好がつく。『俺たちにもくれ~』と他の隊員から異口同音の不平が出ているくらいかな」「そちらまでは時間がなくて手が回りませんでしたからね。ん~、そもそも、隊員に鎧を支給する必要はあるんでしょうか? それぞれの隊を象徴する外套か外衣か、他の何かを用意すればいいようなーー」「いやいや、こう、なんていうか、士気ってもんがあるじゃないですか。あいつ等は、騎士ってもんに幻想とか憧れみたいなのを抱いてるんですよ。お願いしますっ! 格好だけでもそれらしくしてやってください!」「んぐっ……」
いきなり詰め寄られて、喉に芋の塊が詰まってしまった。水っ、水っ、と硝子の容器を見たが、空っぽ。樹液の瓶があるが、それを飲むわけにはいかない。直後、古い記憶が脳裏を掠めてーー、慌てず、ゆっくりと鼻呼吸。幸い、少し苦しいが呼吸はできる。
ふぅ、まさか父さんから聞いた話が役立つ時が訪れようとは。これが初めてではないだろうか。喉が詰まったとき、混乱して自分から息を止めてしまうことがあるから気を付けろ。……あのとき、話半分にしか聞いてなくて、ごめんなさい。懐かしい、と素直に思えた枯れ葉色の記憶に揺られていると、喉の異物はゆっくりと嚥下されていった。序でにザーツネルさんの懇願に抵抗しよういう気力も、どこかに呑み込まれていってしまった。
「えっと、わかりました。少し時間が掛かるかもしれませんが、竜の国の職人に依頼しておきます。ーー用途が用途だけに、隊員のものまで全身鎧というわけにはいきませんが」
畢竟、拝み倒されてしまった。ザーツネルさんがここまで必死になるのだから、きっと重要なことなのだろう。破顔一笑したかと思うと、安堵によるものか、ザーツネルさんは長い息を吐き出した。もしかしたら、下から突き上げを食らっていたのかもしれない。御飯を食べながらのほうが交渉は上手くいく、というのは基本的な術なのだが。ここで絆されてしまっていいのか、少しだけ思案して。
「……、ーー?」
そこで、ふと思ったのだが。そもそも侍従長である僕に、そんな権限があっただろうか。いや、今更なのだが、二巡りの間に熟してきた案件やら仲裁やら提案やら裁定やら、仕訳調整分類記録総括計画発注維持折衷申請管理登録、なにやらナニヤラ何やらなにヤラ……。
そうして僕は、それらを一纏めにする言葉に、瞬時に辿り着く。
雑用、である。ああ、なるほど。僕はずっと、竜の国の雑用係、をしていたのか。
三つ音の鐘が鳴ると同時に、コウさんが遣って来て、南の竜道へ出発である。
一巡り、仕事と睡眠だけと言ったが、それ以外に二つの例外というか、日課というか、そういうものがある。一つは、夜の鍛錬。エンさんとクーさんが竜の都に居るときに、闘技場で行っている。闘技場は、大劇場や演舞場を兼ねているので、いずれ落ち着いたら、興行について考える必要が出てくるだろう。各竜地には、多目的用の施設を設けている。
話が逸れたが、二つ目がコウさんとの時間である。その内の肝要が「やわらかいところ」対策である。ただ、これをどう位置付けしたらいいものか。侍従長の大切な役目だが、積極的に人に言える事柄ではないので、仕事とするには躊躇いがある。
他に、結果としてコウさんと時間を共有することになった役目がある。
王の裁可が必要な案件は、初めはコウさんに直接渡されていたのだが。残念ながら、いや、喜ぶべきことに、かもしれないが、彼女の意思決定は遅かった。ひとつひとつを忽せにできない彼女は、真剣に熟慮の上で決めていったのだ。その熱意は歓迎するのだが、如何せん時間が掛かり過ぎて、案件が溜まっていく一方だった。それではいけない、ということで、僕が事前に確認して、要点を纏めたり要約したり、相談にも乗ったりと、効率化を図った。始めは、膨れっ面をしていたコウさんだが、作業効率が比較にならないほど上がったことで、あと自分が楽をすることが竜の国の為になると知って、リシェさんは意地悪なのです、という台詞を僕に投げ付けるだけで甘心してくれた。
コウさんとみーには、積極的に国内を巡ってもらっている。その為にも削れる時間は削っておかないと。伝え聞いたところによると、王様と炎竜の大使は、皆に迎え入れられて、親しまれているらしい。まぁ、それは当然といえば当然。二人とも、あの可愛さである。二人の本性を知って、嫌いになる人は少ないだろう。
と、これまでの事項を再確認していたが、自分を誤魔化すにも限界があった。
「…………」「…………」
失敗した。
氷焔と行動を共にするようになってから、何度思ったことだろう。とはいえ、今回の失敗は、ある意味、失敗とは言えないものなのかもしれないが。
コウさんと二人っきりで、手を繋いで、空を飛んでいる。
いや、語弊がある。空を飛んでいると言ったが、正確には、竜の都の人々が見えるくらいの低空を飛んでいる。先程ザーツネルさんに言った通り、遊牧民を歓迎する目的で南の竜道の入り口まで向かっている。以前は、遺跡からディスニアたちの許に向かったときのように、コウさんに掴まっていないといけなかったが、今は彼女に触れているだけで、同行できるようになっている。と、まぁ、そろそろ本題に触れなければならない……。
「…………」「…………」「…………」「…………」
本日の魔力放出の為に、手を繋ぐという方法を思い付いて、実行したのだが。コウさんの負けず嫌いの部分を刺激して、目的通りに手を繋いだまでは良かった。
……やわらかい。と意識した瞬間、どくんっ、とまた僕の心臓が強く跳ねる。うぐぅ、ただ手を繋いでいるだけだというのに、どうして僕はこんなにも胸中をざわつかせているのか。落ち着かないし、恥ずかしいし、焦ってしまうし、コウさんのほうに視線を向けることさえ出来ない。掌に、もう一つの心臓があるのではないかと錯覚してしまいそうだ。
すでに掌の感覚がおかしくなっている。僕が繋いでいるのは、本当にコウさんの手なのだろうか。そもそも、僕の手と違って、彼女の手は、何と表現すればいいのか、そう、繊細だった。魔力放出という、こんな理由で触れていいものじゃなかった、とか今更そんなことを考えても遅いのだが。然ても、僕の内はぐちゃぐちゃである。然あれど、僕には使命がある。たといどんな状態だろうが、コウさんの「やわらかいところ」に触れねばならぬ。と覚悟を決めて力を込めたら、少しだけ人差し指が動いた。
「……ぇ」「……っ」
コウさんが、ぴくんっ、と小さく体を揺らす。それを感じて、僕のほうも、ぴくっ、と体が勝手に反応してしまう。うぐぅぁ……、僕のなけなしの覚悟が霧散してしまう。
「…………」「…………」「…………」「…………」「…………」「…………」
……誰か助けてください。切に願った。みーが後から遣って来るということだったが、救世竜はまだ現れない。
みーのお仕事は、一つ音から始まる。北の洞窟まで飛んでいって、籠に一杯の竜の実を採って、指定のお店まで届けるのだ。コウさんと御飯を食べて、コウさんに撫で撫でしてもらって、コウさんに身支度をしてもらって、コウさんにすりすりして、その後、コウさんに用事があるときは、竜の休憩所に特別に用意された「炎竜の寝床」で微睡の時間である。七祝福の一つである「竜の寝顔」を拝した人々の顔を、出来立ての幸せ(ほやほや)にしていると、隠れた、いや、隠れてはいないが、知る人ぞ知る穴場となっているらしい。ただ、困ったことが一つある。みーに予定があるときは、例えば今日であれば、南の竜道に赴くので三つ音に起こしてあげてください、という書付の紙を持たせてあるのだが。休憩所で休んでいる人たちが、あまりに気持ち良さそうに眠っているみーを起こすことが出来ず、遅参することが何度かあった。ーー今日もそうなのだろう。ぐぅ、竜の民の皆さん、心を竜にして、みーを可及的速やかに目覚めさせてあげてください!
たすけりゅー、もとい助け竜は来ないと、なんか妙な熱でふやけてしまった精神に、もう一度覚悟の火を猛らせて、コウさんに気付かれないよう深呼吸を三回……と、二回追加。あっ、急がないといけない。もう南の竜道に入ってしまった。
「僕には、魔法が効かない特性がありますが、鍛錬を積むことで、それを応用して、魔法の効果を任意で一度に一つだけ打ち消すことが出来るようになりました。そういうわけで、今回は『隠蔽』の魔法の効果を打ち消してみました」
大嘘である。鍛錬する暇なんて僕にはなかった。それ以前に、鍛錬したところで、そんなことが可能になるとは思えない。僕の言葉の意味がすぐには理解できなかったのか、ぽかんと口を開けるコウさん。なので、僕はその効果のほどを具体的に説明することにした。
「つまり、僕とコウさんは、仲良く手を繋いで飛んでいましたが、竜の民の皆さんからは丸見えだったというわけです。気付いていましたか? 皆さん、こちらを見て驚いたり指差したり、他にも手を振っている方もいましたね」
僕の説明が、ゆっくりとコウさんの頭に沁みこんでゆく。理解が及んで、潤み始めた彼女の翠緑の瞳を窺って、より大きな成果を得ようと、繋げた手を持ち上げて、にぎにぎする。序でなので、空いている手でコウさんの手の甲をすりすり。お負けでエンさん笑顔。
「はっはっはっ、ここまで黙っていた甲斐がありました、はっはっはっ」「ふぁ……っ!」
ぼぉぶんっ。
前方の竜道の入り口に向かって、多量の魔力が放出された。
「…………」「……、……っ」「…………」「ーー、ーーっ」「……?」
今日のお仕事は恙無く終了したはずなのだが。どうも、しっくり来ない。見ると、居た堪れず三角帽子で顔を隠すかと思いきや、なぜかスカートの裾を掴んで隠すような仕草をしていた。よくわからないが、目的は達成したので、早々に誤解を解いておかなくては。
「もちろん、嘘です。大嘘です。僕が身に付けたことといえば、夜毎の鍛錬で防御の技術が向上したことと、攻撃に使えそうな手を発見したことくらいです」
魔力放出の為なので許してくれるだろう。と甘い考えでいたら大間違い。そうは問屋が卸さない。怠け者には竜をくれてやれ。……いや、僕も遣り過ぎたのではないかと、反省する部分があるとは思うのだが。あの、今から謝ったら許してくれたりしますでしょうか。
怖い。コウさんが無表情です。やばい、コウさん、やばい。
判決を待つ罪人の心境とは、こんなものなのだろうか。コウさんは、変わらず感情の宿らない瞳で僕を見て。不意に、にこっと笑った。
駄目です。笑顔も怖いです。翠緑の瞳には、光ではなく闇が澱んでいます。コウさんの、魔力で強化された握力で、僕の手がやばいことになっています。
馬車が通っていない時機で急降下。地面すれすれを滑空。
「えい」
そんな簡単な掛け声とともに、汗でほんのり湿っていた掌は、手荒く歓迎してくれる風の嘶きによって乾いてしまうのだった。
「ひっ」
手を放されてしまったので、「飛翔」や「結界」の効果がなくなって、ちょっぴり風と仲良くなったあと、地面と篤い友情を奏でるのだった。といい感じに言葉にしてみても、現実は変わらない。落ちたり、転がったりと、もう何度目だろう。侍従長の正装は一着しかないので、この格好のときは手加減して欲しいのだが。
ぐぎゃああぁあああぁ、げぐっ、がっ、痛ってたっ、がぁあああああぁ~~。
ごぶぇ……。体裁というものがあるので、叫び声は心の中だけに留めておく。褒めて欲しい。そんなものがあるのか微妙なところだが、竜の国の侍従長の沽券に係わるので。入り口へと転び出た僕の痴態に、左右の衛兵や受付に並ぶ人々は気付いていない。
皆が空を見上げている。急坂を上って来た集団が目に入る。時機としては最高だった。彼らの到着を祝福で迎えることが出来た。
「祝福の淡雪」ーー僕がそう名付けた、魔力の光雪。コウさんから放出された魔力が上空で爆発して、黄金色の粒子を降らせるのだ。あのときは交換条件としてお願いしただけだったが、こうして淡雪に見惚れる人々の表情を見ると、結構な名案だったのではないかと思えてくる。コウさんが入り口から歩み出て、僕の横で儚くも美しい光景に面を上げる。
起き上がって、コウさんの肩に手を置く。コウさんの色彩。何度見ても、優しい心地にさせてくれる。光雪に触れれば、ほんのり暖かい。それが、コウさんの魔力。
コウさんは、どんな表情で自身の魔力の名残を眺めているのだろう。そんなことを思いながら、視線は空に向けたまま。魔力を綾なす少女の、心の色彩を溶かし込んだような、物語をなぞったような淡光の幻想世界との、邂逅の余韻に揺蕩っていると、
「おいっ、何してる! 早くしないか!」
それを台無しにする焦燥を含んだ大声が耳を打つ。
竜道の入り口の横では、竜の国への、入国の受付を行っている。移住者の宿営地の関係で、四つ音の時刻から人が増え始めるので今はまだ閑散としているが、それでも途切れ途切れに人は遣って来て、複数の移住希望者が並んでいた。
異変を察した衛兵二人が、同時に僕たちに気付いて、護衛するように左右前方に付く。その判断は、巡り巡って正解かもしれない。本来なら、護衛など必要ない僕たちを放って、受付に駆け付けるべきだが、この場には、コウさんがいる。竜の国の王様の邪魔をしないのが、足手纏いにならないよう行動するのが、適切な判断となる。
「私を誰だと思っている‼」
何を急ぐ必要があるのか、外套を纏った男は苛立ちを隠そうともせず、受付の女性に食って掛かる。ただの悶着なら珍しくない、人の営みには付き物である。移住という状況なら尚更、起こる頻度は高まる。僕たちが出しゃばると面倒になることもあるので、衛兵に任せるのが適当なのだが。同じことを二度言って恐縮だが、この場には、コウさんがいる。竜の民が巻き込まれようとしているのに、彼女が他人任せになどするはずがない。と諦めていたら、周囲の空気が変わった。身に刺さるような冷たさと鋭さに、緊張が走る。
男がナイフを取り出して、女性の喉元に突き付けたのだ。いや、あれは、ナイフというより、儀式にでも用いられそうな凝った作りの、装飾用か?
ひっ、と若い女性が堪えきれず小さな悲鳴を漏らすと、彼女の体から薄皮が剥がれていった。それは半透明な膜のようなもので、揺らめきながら女性から剥がれると、向きを変えて、武器を持つ男を包み込んで、拘束してしまう。
あっ、という声がしたので見てみると、コウさんが腕を上げているところだった。やはり、コウさんの魔法のようだ。薄皮に見えたものは、恐らく「結界」なのだろう。言ってみれば、やわらかい結界、ということで「軟結界」と呼ぶことにしよう。
コウさんは、体勢を崩して倒れる男には目もくれず、慌てて女性の許まで駆けていった。
「エルテナさんっ、大丈夫なのです? 怪我はありませんか⁉」
エルテナという二十歳前後の女性の前で、ぴょんぴょん跳躍して、怪我の具合を確認しようとする。始めはコウさんの言行に面食らっていたエルテナさんだが、
「はい。フィア様が助けてくださいましたので、傷一つありません」
柔和な笑顔で、三角帽子を取って、コウさんの頭を撫でる。彼女の慣れた様子から、弟妹でもいるのかもしれない、と推測する。子供がいてもおかしくない周期だが、エルテナさんの振る舞いからは、そんな感じはしない。さて、うちの王様は、安心して、褒められて、てれてれのむずむず(しおらしいおうさま)である。家族以外から褒められる機会は少なかっただろうから、良い傾向である。僕が褒めてもあまり喜んでくれないが、それはまた別の話である。
事態が終息したのを見て、長老を先頭に遊牧民たちが遣って来る。彼らの周囲でミニレムたちがお手伝いの真っ最中。南の竜道までは、二本の道が整備されている。一直線に坂を駆け上がる道と、蛇行した緩やかな坂道である。急坂のほうでは、ミニレムが荷物持ちや手押し車の後ろを押したりと、八面六臂、は言い過ぎでも、痒いところに手が届く、くらいの大活躍であった。コウさんやみーだけでなく、何事にも一生懸命に、健気に働くミニレムも竜の民から好感触を得ているようで何よりである。
彼らの財産でもある家畜は、すでに風竜の地に到着済みである。安全に家畜を移動させる手段が、どうしても浮かばず、コウさんの魔法に頼ることになってしまった。どうせ頼るのなら一番楽な方法で、とのクーさんの提案によって、家畜たちは空の道を移動して遣って来たのだった。負荷が掛からないよう、家畜には「幻影」の魔法が使われたそうだ。
彼らを迎える前に、片付けてしまうとしよう。歩きながらコウさんを見ると、小さく頷いてくれる。これでもう、誰にも危害が及ぶことはない。
僕は、「軟結界」に包まれて、身動きできず地面に転がっている男を見下ろした。中肉中背の中年。近付いたことでよくわかる。彼は、魔法使いだった。一見しただけでわかる、魔法使いらしい風体。ただ、何というのか、そう、一言で言うと、地味。コウさんや老師のような華やかさがないので、暗くじめじめした感じが強調されてしまっている。ああ、でも、魔法使いは、こんな心象だったっけかな。魔法使いといえば、コウさん。コウさんといえば、魔法使い。ずっとそんな感じだったので、違和感が生じてしまう。ん、でも、最初に話をするまでのコウさんは、三角帽子と外套で姿を隠して、地味というか不気味というか変というか、そういえばそんな頃もあったな、と懐かしい気分になってしまう。
「よっと」
振り払うように「軟結界」があるであろう場所に触れて、男の拘束を解く。
そんな急ぐ必要などないのに、竜を見たギザマルのような慌てようで、僕から距離を取る。憤怒と憎悪を蓄えた表情で腕を交差させる。道の周辺は整備されているが、コウさんの指令なのか、魔法人形たちの配慮なのか、大きな岩はそのままにしてある。その内の一つ、僕の身長ほどもある大きな岩が持ち上がって、小石を投げ付けるような速さで僕に迫る。城門くらいなら、一撃で破壊できそうだ。
「よっと」
先程と変わらず、時機を合わせて、軽く腕で振り払う。それが魔法なら、慌てる必要はない。僕の腕に当たって真横に落ちた岩は、地面に激突して粉々に砕け散った。って、うわっ、これは砕け散ったなんて水準ではなく、砂粒、は言い過ぎでも、指で摘めるくらいの欠片にまで粉砕されてしまった。幸い、と言うべきなのか、これまでの経験が物を言って、動揺から演技を乱すようなことはなかったが。然てしも異様な光景である。多分だが、岩の内部まで魔力が浸透していたが為に、この奇妙な破壊に繋がったのだろう。すると、この地味な中年の魔法使いは、上位の使い手ということになるのだが。
「ばっ、馬鹿な! こ、こっ、このような、あっていいはずがない‼」
三角帽子ごと頭を抱える魔法使い。気の毒に思ってしまうくらいの顔面蒼白。このまま卒倒してしまわないかと、心配になってしまった。
どうやら高位の魔法使いのようであるし、周囲に彼に勝る者はいなかったのかもしれない。斯かる状況に陥ったことがなかったのだろう。人間の本質は逆境のときにこそ姿を現す、とはよく言ったもの。魔法を絶対の頼みとしてきたのだろう、それが通用しないだけで、すべてを否定されたかのような絶望を抱えて、醜態を晒している。
「それで、あなたは、何をしに竜の国に遣って来られたのですか?」
このままでは埒が明かないので、水を向けてみる。僕の言葉に活路を見出したのか、魔法使いの双眸に強過ぎる光が宿る。
「私は、見ての通りの、強大な魔法使いである。竜の国は、魔法使いの王が統べる国だと聞く。なればこそ、私が力を貸してやろう。さすれば、竜の国は、この大陸に冠する魔法大国となるだろう! ふはっ、ふはっ、ふははははははははっ!」
得意満面であるところ申し訳ないが、僕たちはそんなものを標榜した覚えはありません。実際には逆で、魔法に長じた国として突出しないよう、かなりの制限を設けている。現行水準を超えてしまった翠緑宮や湖竜、地下の施設など、ーーそして、実は機密の塊であるミニレム。これらには出来得る限りの対策を施して、魔法や魔工技術が他国に流失するのを防いでいる。まぁ、ミニレムの場合、魔法的にあまりに高度過ぎて、誰にも解き明かすことなんて出来ないだろうから(ミニレムの核の構成は偶然の産物、みーの賜物なので、未だコウさんも完全には理解できていないらしい)逆に安全(?)ではあるのだけど。
竜の国の完成後、老師からの言い付けで、コウさんはより大きな制約を課せられることになった。手足を縛られて、目を覆い耳を塞ぎ、……そんな王様の姿を想像してーーませんよっ、してないったらしてませんよっ、と僕の良心に納得してもらえたところで。まぁ、拘束云々は言い過ぎだが、要は細かいところで、分別を伴う行動を求められたということだ。例えば、その内の一つが「遠観」の使用基準。
こんなことを言うのは気が引けるのだが、コウさんは覗きが仕放題なのである。みーが、のぞきみりゅー? と穢れのない真炎のような眼差しでコウさんに聞いたので。……まぁ、その後の、彼女の魔力が乱れたことによる、ミニレムを巻き込んでの乱痴気振りはーー王様の名誉の為にも記憶から抹消してあげることにしよう。然てこそその気になれば魔法使いの女の子は、竜の国の中なら、どこでも自由に観ることが出来る。そこで「遠観」は、連絡時と緊急時に使用が限定されることとなった。
さて、未だに弁舌を弄する魔法使いだが、……臭う。然てしも、臭う。コウさんの心臓を短剣で一突きにした、あの若者と同じ臭いがする。根拠と言えるほどのものはないが、間違いであるような気がしないので、鎌を掛けてみる。
「また、ですか。竜の国は、罪人の逃亡先ではありませんよ」
「な、なななっ、何を言っているのだっ! 何を根拠に、何を理由に、どんな用件にてっ、そのような戯れ事を申されるに至ったのかを、簡潔に述べられよ‼」
まるで竜が逆立ちしているのを、うっかり目撃してしまったかのような取り乱しようである。故事によると、竜のあらぬ姿を見た者は、百の不幸に見舞われた後、魂を喰われるという。律儀なのか、暇だったのか、百の不幸を列挙した古書が伝わっている。
ああ、これは駄目だ。色々な意味で駄目だ。上手くいっているときにしか力を発揮できない、典型的な人間だ。魔法の師範としてならいいかもしれないが、要職に就けられる類いの性質の持ち主ではない。どのみち彼が全力で肯定しているように、罪人であるなら、受け容れるかどうかを検討する必要すらない。
「魔法使いの国なのだろう! なら、私が必要なはずだっ!」
畢竟するに、最後まで魔法である。手立てを講じることなく、愚直に正面から訴える。
どうやら、魔法の力を誇示しているらしい。魔法使いの血走った目は、狂気と呼んで差し支えないものかもしれないが、魔法が見えない僕からすると、滑稽でしかない。
次々と僕に魔法が炸裂しているようだ。居回りの様子から、相当な高等魔法が行使されていることが窺える。意地になっているのかもしれない。魔法を糧として生きてきた者からすると、魔法が効かない者など認められない、存在ごと抹消しなければならない、そんな汚らわしいものとして映っているのかもしれない。
「……化け物め。なんだお前は……、なんなのだ……」
度重なる魔法の行使で、魔力を消耗したようだ。辛そうな途切れ途切れの言葉に、今にも泣き出しそうな情けない有様に、憐憫の情が湧くが、判断が揺るぐことはない。そろそろ卑陋の魔法使いにお引き取り願おうかと、頭の中で言葉を選っていたが、背後からの心地良い気配に触れて、人を傷付ける為に集めたものたち(かけら)が解けてゆく。
コウさんが僕の横に並んで、王としての言葉を紡ぐ。
「あなたを竜の国に迎え入れるには、条件があります。あなたによって被害に遭った方の許に赴いて、許しを得てきてください」「そ、そんなことをすれば、私は!」
王が指針を示した。ならば、あとは僕が引き受けよう。
「その結果、どうなろうと、それがあなたのした事です。あなたが受けるべき報いです。それと、あなた程度の魔法の使い手を、竜の国は必要としていません。必要としているのは、魔工技師です。残念なことに、あなたにその素養はないようですが」
果たせるかな、若者同様に魔法使いは逃げ出した。
「姫様、あの魔法使いを捕まえなくてよろしかったのでしょうか?」
衛兵の問いに、ちょっと困ったような笑顔を浮かべながら、コウさんが説明する。
「あの方には、『幻影』の魔法を掛けておいたのです。このあと、許しを請いに行くのであれば魔法は発動しないのです。でも、このまま逃走するようなら、行き先を被害に遭った方の近くにある衛兵の詰め所に設定したのです」
コウさんの沙汰に、皆が安堵し、感嘆する。だが、王様の心根に同感してもらえたと、喜んでばかりもいられない。僕は、細心の注意を払って見澄ます。
ーーふぅ、気付いた者はいないようだ。彼女が行使した魔法には、明らかに現行の魔法を凌駕した高度な術が用いられていた。その危険性に勘付いた者がいたら、補足というか、誤魔化しをしないといけなかったが、このまま流してしまったほうがよさそうだ。
「フィア様。リシェ様。これを見て頂きたいのですが」
エルテナさんが恐々と僕に申請書を差し出してくる。遁走した中年の魔法使いのものだろう。僕の悪評が拡がっている上に、魔法使いを一蹴してしまったので、益々拍車が掛かっているようだ。衛兵や受付、順番待ちの人々の視線に、畏怖と嫌悪が混じっている。
遠からずこの出来事も、冷酷とか陰惨とか卑劣とかの虚飾を施されたあと、侍従長の仕業として竜の国に拡がるのだろう。もしかしたら、周辺国にも伝わってしまうかもしれない。その分、コウさんの善行が引き立つのなら、喜んで汚名を着せられよう。
いや、嘘です。ちょっと強がってみました。人に嫌われて喜ぶとか、そんな嗜好は僕にはありません。忸怩たる思いで、この身から生じた咎として、僕が背負っていかないと。
これから先のことを思い遣って、やや疲れた心持ちで申請書を見ると、そこには大陸最強と呼ばれる魔法使いの名前が記してあった。
「ガラン・クン、か。本人か、名を騙ったか。フィア様、ご存知ですか?」
遺跡でコウさんが暴発したときに、ガラン・クンを目にしてはいたが、魔法使いの男、くらいの印象しか残っていない。また、ガラン・クンのほうも、コウさんが魔力を開放した時点であっさり気絶してしまったので、僕たちのことを覚えていなかったのかもしれない。記憶を探りながら紙を差し出すと、
「ん~、私もちゃんと見てなかったのです。魔力はそこそこあったので、本人である可能性は高いかもしれないのです」
答えながら、コウさんは紙の表面を撫ぜる。元通り、すべてが空欄になっていることを確認してから、エルテナさんに申請書を返す。受け取ったエルテナさんは、呆れたような、諦めたような笑顔を浮かべていた。そんな感じはしていたが、彼女はある程度の魔法の知識と耐性があるようだ。コウさんは、エルテナさんの名前を知っていた。それは偶々なのか、若しくは魔法的に才能のある人に目を付けているのかも。実は、そこのところをコウさんからはっきりと言質を取っていないのだ。竜の国で、魔法使いを受け容れるのか、魔法使いを育成するのか、もしそうであるのなら、どの水準まで魔法を学ばせるのか。今のところ、魔法の師範がいないので、現実味のない話だが。これは僕が吟味したほうがいいのか、コウさんに任せたほうがいいのか、魔法のこととなると彼女は盲目的になる嫌いがあるので、気に掛けておかないと。
少し待ってもらうつもりが、思った以上に時間を要してしまった。コウさんは、進み出るつもりがないようなので、僕が一歩退いて場を整える。遊牧民たちは、王様の前まで来ると、ぐぐぐっ、と思った以上の角度で見下ろしてしまうことに気付いて、慣れていないのだろう、たどたどしく膝を突こうとする。
「そんなことしたら、駄目なのです」
横を向いて、ぷくっと頬を膨らませる。
気持ちはわかるが、それでは相手にきちんと伝わらないので、補足説明をする。
「御覧の通り、フィア様が拗ねておられます。まだ伝わっていなかったかもしれないので説明いたします。竜の国に身分の違いはありません。役職や役目の違いがあるだけです。王と民は、どちらが上でも、どちらが下でもなく、対等なのです。大切な竜の民が、自分を下に置こうとしている姿を見て、剥れてしまわれました」
しばらく目をぱちくりさせていた彼らだが、頑是無くも愛らしい少女の膨れっ面の意味を悟ると、慌ただしく立ち上がった。コウさんの、ぷにぷにほっぺを堪能したくなってくるのだが、然しもやは侍従長の僕が王様に見蕩れているわけにはいかないーー。
「また逢えました。ようこそ、竜の国へ!」
優しい風が吹いた。自然と目が惹き付けられる。僕の勘違い、風など吹いていない。風の優しさの意味など探らない。頭の奥がざわざわする。これは、いけないものだ。
コウさんの心からの歓迎を受けて、遊牧民たちの表情が一気に和らいでゆく。
「ご承知のことと思いますが、長老には竜官になっていただきます。竜地である風竜の纏め役を一人、選出して下さい。役割は、代官のようなもので、名称は『風守』となります。竜地に留まる方には、風竜の近くで畜産をお願いしています。ですが、これは強制ではありません。他の職を希望する方には、出来るだけ要望に応えるよう努力しています。逆に、遊牧に興味ある方の指導や受け容れをお任せすることがあります」
揺らいだ心を立て直すには丁度良かった。動悸は治まり、頭も明瞭だ。コウさんは魔法使いだ。いや、普通に可愛い魔法使い。……結論としては、ちょっと変な魔法使い。あれ、本音と建前がごっちゃだ、もしかして僕はまだ、現に返っていないのだろうか。
「ふむ、わかり申した。では、風守は我が息子に。それと、竜騎士に推したい者がおります。我らアディステルの守護、メル・デア。代々の戦士で、この地を護る力となることでしょう」「お待ちくだされ、長老。我が護るはアディステルの者だ。場所は変われど、アディステルの魂は変われじ。身を捧げし者に、なんとご無体な仰りよう」「我らは、アディステルであると同じく、これよりは竜の民でもある。竜の民を護るは、アディステルを護ることなり。メル・デアよ、より大きな枠で、この世界を見てみよ」「くどい、長老。我が誇りを汚せと仰るなら、この場で散れと命じられよ!」
好好爺然とした長老に食って掛かる屈強な若者。遊牧民らしい素朴で穏やかな服装だが、メル・デアと呼ばれた若者の背中には、剣呑というより唖然とさせられる代物が括り付けられていた。戦斧かと思ったが、それにしては無骨な造りで、よく見ると両刃の伐採斧といった体だ。剣より製作が容易で、武器として使い勝手のいい斧は、剣が主流となっている冒険者の間でも、ときどき使い手を見掛ける。僕の顔より大きそうな幅広の刃に、同じく僕の腕より太そうな木の柄は、とても人間の扱える物だとは思えない。
「長老に、デアさん。では、こうしたら如何なのです。こちらの侍従長と闘って、デアさんが勝ったら、デアさんの希望を受け容れるのです。その為の、しかるべき地位を私たちで用意するのです。侍従長が勝ったら、デアさんは長老のお言葉を真剣に考えてみるのです。その結果、アディステルの守護を選ぶのでしたら、それで構わないのです」
どちらに転がってもデアさんに損のない提案に、長老だけでなくデアさんも困惑の色を表情に散らす。コウさんの真意に二人が気付けないのも無理はない。頑ななデアさんを慮ってのものであると同時に、別の意図が紛れ込んでいるのだから。
ここで、ややぼやついていた僕の意識が急速に覚醒する。いや、ほんと、ちょっと待ってください、コウさん、それって損をするのは僕だけじゃないですか。これは、「幸せなら手を繋ごう」作戦のことを、まだ根に持っているのだろうか。なんと頑是無い魔法使いなのだろう。見た目通りのお子様じゃないですか。と強がったところで事態は変わらない。
……ところで、なのですが、このままでは、僕の身が持たないので、あの、フィア様、そろそろ許してはいただけないでしょうか。と目で訴えてみるものの、そよ風ほどの効果もなく、王様は竜でも動かない、といった雰囲気である。仕方がないので、あとで老師と相談して、女の子に恨まれない苛め方、というものを習得しないといけない。
「それに、剣と盾は持ってきてませんから、闘うのは無理ですから……」「はいなのです。これをどうぞなのです、リシェさん。折れない剣と壊れない盾なのです」
いったいどこから取り出したのか、コウさんは片手剣と小盾を差し出してきた。これは間違いなく、僕の愛用の武具である。彼女の魔力で強化してあるので、「転送」の魔法とかで呼び寄せたのだろうが。ちょっと魔法を自侭にぽんぽん使い過ぎじゃないだろうか。
「くどし。無意味な闘いなど、アディステルの戦士の最も嫌うところなり」
デアさんがヴァレイスナ連峰の絶壁のように敢然と跳ね除ける。
ああ、彼はなんと清廉な人なのだろう。このまま闘わずに済みそうな成り行きに安堵していると、空からみーが降ってきた。どうやら降下の途中で「人化」したようだ。
「なーう、とーちゃーくなのだー」「ふぇ? みーちゃんっ」「わーう、ぐるぐる~」「もぅ、みーちゃん遅いですよ~」「ごめんだぞー。で、なにするのだー」「これからリシェさんが闘うんですよ~」「はーう、じゃー、かったほーのあたまなでなでするのだー!」
落ちてきたみーを抱き留めて、くるくる回るコウさんとみー。二人とも楽しげで結構だが、残念ながら意味のない闘いに興じるような精神は僕も彼も持ち合わせていないので、
「我は、戦士メル・デア! この闘い、アディステルの魂に懸けて、炎竜の英魂に捧ぐ! この身無尽に打ち砕かれようとも負けるわけにはゆかぬ‼」
……のはずが、闘う準備は完竜なデアさん。長大な斧を軽々と振り回して、完全なる臨戦態勢である。って、は? ちょ、ちょっと待ってください、何でいきなり殺る気満々になっているんですか⁉ 人間には言葉で分かり合えるという崇高なる意思と魂が……。
「我らが誇り、我らが魂!」「アディステルに幸いを‼」「さぁ、我らが信仰を示すときぞ!」「炎竜よ、照覧あれっ!」「我らの門出を祝福なされておる‼」「いやーさか!」
デアさんの宣誓が轟くと、物静かだった遊牧民たちが一斉に意気天を衝く。まるで竜の小さな咆哮のようである。いったい何が彼らをこうまで高揚させるのか。
「あーう。なーらーばー、かったほーに、なでなでーぷらすーすりすりーなのだー」
コウさんに抱っこされたみーの祝福の積み増しに、遊牧民たちが怒号のような歓声を響かせる。これはもう、闘いが不可避どころか、彼らにとっての聖戦と位置付けられたのかもしれない。あーもー、わけわからんちん、でも闘うのなら理由くらいは知っておきたい。
「ふむ。我らアディステルの民は、嘗てミースガルタンシェアリ様に救って頂いたことがあるのですじゃ。友誼を育みしアディステルの戦士の、最後の願いに応えてくだすった炎竜様は、万に及ぶ魔物の群れを退けなさり、戦士を自らの魔力となされたのでございます」
聞くまでもなく応えてくれる長老。もしかしたら、曰くを語りたくて、うずうずしていたのかもしれない。これで得心がいった。彼らは竜を信仰している、竜信仰の民なのだ。
コウさんの要請に彼らがあっさりと了承したのは、そういうわけだったのだ。彼らにとって、恩竜たるミースガルタンシェアリが住まう竜の狩場は、聖地のようなもので、移住先として否やがあるはずがない。そして、ミースガルタンシェアリの眷属であるところのみーは、彼らにとって掛け替えのない存在なのだろう。
「それでは、皆さん。『結界』を張るので、場所を空けてくださいなのです」
諸悪の根源が意気揚々と場を取り仕切る。
いけしゃあしゃあと判定役まで務めるらしい。そうですか、そうですか、それならこちらにも考えがありますよ。「結界」を張り終えた不埒者の耳元に、甘やかな毒を垂れ流す。
「僕が勝ったら、あとで百回、優しく大切に、慈しみ愛おしみ、篤く懇ろに、心を込めて精一杯、柔らかに穏やかに、誠心誠意一生懸命、頭を撫で撫でしてあげますね」
勿論、本気ではない。でも、このままでは不平等というか不公平なので、少しばかり危機感を抱いてもらうとしよう。
「デアさんっ、あの人は防御が得意なのです。しかも、闘う前に勝負は決してる、なんて言っちゃうような悪い人なのです。しかもしかも、最近みーちゃんを見る目が、危ない人のそれなのです。デアさんっ、あの破廉恥でおっぺけぺーな侍従長に天誅なのです!」
「心得た。害虫は、退治されるが、この世の定めなり」
いやいやいやいや、害虫というのは、人から見たときにそうだというだけで、害虫には害虫の、自然の中での役割というものがあるのですよ。この世界の構造は、複雑なようで単純で、残酷なようで尊い仕組みになっていたりするのです。それと、コウさん。どうやら遠慮はいらないようですね。勝ったら百撫で(なでりんこ)して、抜き捲って祝福してやります。
「準備は整ったので、始めっ! なのです!」
うわ、酷い。もはや問答無用ですか。そもそも、コウさんは王様なのでおっぺけペーなほうですよ。などと心の中で愚痴っていると、待っていましたとばかりに、突進してくるデアさん。信仰心を捧げる対象に見守られて、愉悦と確信を漲らせて、神託を授かって闘う殉教者のような雄々しさである。さしずめ僕はみーを誑かす偏執狂といったところか。だいたい、みーを見る目が怪しい……って、あれ? そんなことないですよね……?
いや、限りなく黒に近い灰色(?)の事案について、心を乱している場合ではない。
始まってしまったからには、全力でやらないと。然てこそ僕が僕らしくある為の最適解は、逃げることである。
「ぬっ! 防御すらせず、敵前逃亡するとは、戦士としての矜持をどこにやったか⁉」
勘違いしないで欲しい。僕は戦士ではなく、ただの市井人で、偶々侍従長をやっているだけなのだ。と言いたいところだが、なぜだろう、これまでのことを思い起こすと、胸を張って言い切ることが出来ないのは。
夜毎の鍛錬のお陰で、魔力を纏ったときと、そうでないときの差異を見分けられるようになった。まぁ、それがわかるようになってしまうくらい、二人が僕をぼこぼこにしてくれたわけなのだが。とはいえ、今回は見極める必要もなく、一目瞭然。あんな重たい斧を木の棒のような速さで振り回すなんて、普通の人間には不可能なのだから。だが、僕にとっては朗報。これで致命の打撃を貰ったとしても衝撃はないし、その後、負けた振りをしても怪しまれないーーって、いやいや、何で負けることを前提に考えているのか。
先程コウさんに言ったが、鍛錬の最中に、一つだけ攻撃の手段を見出すことが出来たのだ。それは偶然に起こったもので、しかも初見なのにエンさんは、おっと危ねぇ、とか言いつつあっさり躱してしまったが、きっとデアさんには有効なはずである。然らずば思いっ切り残念な負け方をすることになってしまう。エンさんとクーさん以外に試したことがないので、ただの願望なのだが。あとは、好機が到来するまで耐えられるかどうか。
「ぬぅ、ちょこまかと猪口才な、だが、いつまでも持ちはせぬ。竜の祝福を受けるは、我なりっ! 我らアディステルの民にこそ、竜の恩恵がっ……」
逃げ回るだけだと高を括ったデアさんの油断に付け込み、小盾を投げ捨て、不意打ちで斧に折れない剣を叩き付ける。意表を突かれたデアさんが放つ牽制の一撃にも、正面から剣を当てる。彼が立て直す前に、あと二回、計ることが出来た。彼には、不可思議に思えたかもしれない。魔力を纏うでもなく、非力そうに見える僕が正面から打ち合い、力負けをしなかったことが。僕の特性と折れない剣が、対魔力に於いて、それを可能にする。壊れない盾も役に立つのだが、今回は動きの妨げになってしまうので出番はない。革鎧に至っては、竜の国の侍従長がこんなみすぼらしいものを装備してはならない、とのクーさんの提案、いやさ、命令によって、部屋の隅の、木箱の一番下で惰眠を貪っている(おねんねちゅう)。
初めて闘った斧使いに、ここまで出来れば上々だ。さてと、あとは彼に全力を出してもらわないといけない。僕は剣を肩に担いで、やれやれ、といった感じで勝利宣言をする。
「さて、勝負はつきました。もうお開きにしませんか?」「…………」「「「「「っ‼」」」」」
僕の挑発に、外野は罵倒の嵐だが、デアさんはというと、怒りで声も出ないようである。勝利の為とはいえ、わずかばかり気が咎める。ならばこそ、一切手は抜かないと己に誓う。
怒りが許容量を超えて、逆に冷静になったようだ。殺気というものはよくわからないが、殺意なら、感情の発露として齎されるものなら、肌の粟立ちと心の怖気が知らせてくれる。やはり人と魔物は違う。巨鬼とは別種の、人として相手を理解できる分だけ、深くて鋭く、痺れて痛い。僕の人生で何度目だったか、最後の手段、からっけつ、これ以上に自分を偽る手段を知らない。懐旧に似た、古びた匂いに触れないようにしながら、一つ、鳴らす。
ーーーー。
これまでに響いた、最も心に残った、妙なる情景を鳴らす。
揺らすものは、音だけ。記憶になく、意味を忘れた、届かない願いの欠片。
ーーーー。
僕で鳴って、体から余計なものを省いてくれる。今まで生きてきたなかで、一番快いと感じた音を響かせた。子供の頃に聞いた音だけど、音源は記憶から失われている。
「ーーぃっ」
振り下ろしながら、手を滑らせて押し出してくる。遠心力なのか体重を乗せたものなのかはわからないが、彼の技量を尽くした最大の攻撃なのだろう。
受け流すように剣で受け止めて、同時に剣身の面に掌を叩き付ける。折れない剣を挟んで、デアさんの渾身の打ち下ろしと僕の掌打が拮抗する。本来なら、こんなことは有り得ない。僕のほうが地面に打ち倒されるか、罷り間違えば真っ二つに両断されて、サクラニルの御許に送られてしまう。
コウさんの魔力が込められた折れない剣は、僕の特性を遮らない。魔力を無効化して、それでも完全には威力を殺せず、踏み込んだ分も合わせて、相手の懐に向かって弾かれる。
瞬きが凝縮されたような速度に、視界がぶれる。高さを合わせて、狙いを定めるが、半分を勘と運に任せて、体ごと捻じ込むように柄頭を彼の手にーー。
勢いのままデアさんにぶつかって、大岩に突撃したかのように僕だけが吹き飛ぶ。転ばされたり倒されたり飛ばされたり、不本意ではあるが、これまでの経験が活かされて、体勢を崩したものの、足から着地する。
「ぃぃっ」
鋭く息を吸う音が聞こえるが、それだけだった。彼の誇りが、悲鳴を奪い去る。
「ーーーー」
嫌な感触だ。先ずそう思ったが、その手応えを、嫌なものではないと感じているのも確かだった。柔らかくて硬いもの、矛盾するようだが、僕が柄頭で叩いたものは、そう表現するのが的確であるような気がした。手から腕へ、そして体へ、今は心へ、人を傷付けた重たいものが巡っている。今頃届いたようだ、頭の奥が、じんっ、と痺れて、
「コウさん。デアさんに治癒魔法をお願いします」
罪悪感を糊塗する為に、偽善の上塗りをする。
「笑止っ! 片手が潰れた程度で、我が信仰は微塵も揺るがぬ‼」
片手で、再び斧を構えるデアさん。弛まぬ彼の意気に、再び剣を構えることを余儀なくされるが、睨み合いは一呼吸分も続かなかった。彼の悲壮感漂う相貌が、みるみるうちに名状し難いものへと変化していったのだ。それは、悲しみながら喜び、寂しくも楽しい、大切にしたいのに壊したい、そんな甘い刺激を伴った、驚きの表現だったのかもしれない。
ああ、何だろう、この感覚には覚えがあるのに思い出せない。既視感ではない、実際に経験した出来事。過去の悲惨な情景に辿り着いたのは、頭を踏まれた後だった。
もしかして、これは撫でたつもりなのだろうか。みーが僕の頭を踏み台に、猫のようなしなやかさで、ぱにゃーん、といった感じの姿勢で空に向かって飛び上がる。
……くび、首が、ほんとに危ないですから、ぽきっと、みーがいくら軽くても、駄目に、みしみし音が危ないので、お願いします、みー様、頭は勘弁してください。
「たーう、みーんなー、よーこそーりゅーのくにえーなのだー!」
みーの笑顔に花咲く大歓迎は、遊牧民たちに降り注いで、その総仕上げにみーが落ちてくると、恐れ多いとばかりに皆が場所を空けた。
重たい木の枝が落ちたような音だった。角の、がっ、体の硬い部分の、ごっ、体の表面の、ばんっ、の三つが同時に響いた。もう少しずれていれば、草地だったのに。みーは石畳の上に、風とお友達になった格好のまま、聞くだけで痛覚が刺激される衝突音とともに地面に落っこちたのだった。
「みー様⁈」「あうあううああう、炎竜様っ⁉」「だ、だだだだ、だだ、大丈夫でございますややや⁇」「祈るのじゃっ、治れ、治れば、治るとき‼」「我ら、死んで償いをっ‼」
わらわらとみーを取り囲むが、どうしていいかわからず乱痴気騒ぎの遊牧民たち。
僕は、同じく狼狽しまくって、みーに駆け寄ろうとするコウさんの進路を折れない剣で塞いで、人差し指を口に当てて、静観を指示、ではなく、お願い、をした。
「やうやうやうやうやうっ、でもでもー、みーちゃんつよいこりゅーのこなのだー!」
石畳の上でじたばたしたかと思うと、ぐわばっと立ち上がって、空に向かって口から炎を噴き出す。炎の息吹は、痛みを我慢する為の、痛みを軽減させようとする、本能的なものなのだろう。初めて見たときよりも威力が増している。色々と、みーも成長しているようだ。今は、「人化」したまま空を飛ぼうと躍起になっているらしいが。この一連の、みーと遊牧民たちの芳しい交流は、そうして起こったものなのだ。
「おおっ、さすがみー様じゃあ!」「なんと誇り高く、威厳に満ちたお姿かっ‼」「可愛さ余って、愛らしさ百倍なり‼」「世界の平和は、炎竜様によって護られたのだ!」
僕は、デアさんを指して、彼がみーに気を取られている内に治癒魔法で手を治してしまうよう、お願いをする。すると、コウさんが気不味そうな顔をしながら頷いてくれる。
ん? はて、なぜ彼女はそんな表情をしているのだろう。気になるが、今はみーのほうが優先。みーは竜なので頑丈だが、あの高さからの落下は、然しもの炎竜にも効いたようだ。鼻や膝小僧、あとお腹の辺りも少し赤くなっている。目にちょこっと涙の痕がある。
「わーう、とーくからたいへんだったのだー、みんなえらいんだぞー」
遊牧民たちを労って、みーは近くにいる膝を突いた初老の男性の頭を撫で撫でする。祝福を受けた男が、歓喜に咽び泣く。ふぁはぁっ、と吃驚していたみーだが、唇に人差し指を当てて、悩んだ様子できょろきょろすると、くるっとこちらに顔を向けた。
「でゃー、みーちゃんもちあげてなのだー」
自分をご指名であることに気付いたデアさんが、今現在この瞬間、世界で最も速く移動している人間なのではないか、そう思えるくらいの爆走でみーの許に駆け付ける。
みーの後ろに屈んで、お尻の辺りに畳んだ腕を差し出す。みーがちょこんと座ると、大切な宝物を扱うように、細心の注意を払って、ゆっくりと立ち上がった。
そこからは、まぁ、凄かった。竜信仰といっても、これはどうなのだろう。信仰心が篤いのはいいが、篤過ぎると周囲に迷惑を掛けることがあるのだと、実地で学んだのだった。
然ても、みーの仕草がコウさんに似てきている。無邪気な面は変わっていないが、唇に指を当てる仕草に、今の座り方もそうだ、端々(はしばし)で女の子らしくなってきている。みーは、コウさんに子供を産んでもらうつもりのようだが、もしかしたら女の子っぽくなることで支障を来すことがあるかもしれない。と、ちょっと待った、いったい僕は何の心配をしているのだ。越権、ではなくて、出過ぎたというか差し出がましい考えは控えないと。でも、二人が、というか、一人と一竜が結ばれたとすると、その子供は竜人ということになる。いやいや、今控えると決めたばかりなのに、仮定の話を推し進めてどうしようというのだ。
僕が竜の国の未来を憂えている間も、七祝福の一つ「竜の祝福」ーー撫で撫ですりすり抱き付き等、みーに何かをしてもらうーーが施されて、最後に老婆の番となる。彼女は、祝福を受ける前から、感極まっていた。
「おおおおぅ、人生の末期に、炎竜様の祝福をいただけるなど、望外の極みですじゃぁ」
「はぁふぁっ、そーなのかー、それじゃー、なでなでんーぷらすーすりすりんーなのだー」
みーは言葉通りに、過剰撫で撫でしたあと、老婆の頬に限外すりすりする。その度に腕の位置を微調整しているデアさんの献身さが、羨ましくも何ともない。
「…………」
老婆は、恍惚とした表情を浮かべたまま、……息をしていないようだった。遊牧民たちは、生き仏を見るような、羨望の眼差しを彼女に向けていた。って、生きてますよね⁉
「コウさんっ、あのお婆さんに治癒魔法をっ!」「はっ、はいなのです!」
コウさんの処置が早かったのが功を奏したのか、老婆は息を吹き返した。
「はーう、でゃーもなのだー、なでーすりーなでーすりー」「ーーっっ、っ……」
みーの撫で撫でとすりすりの複合攻撃を受けて、デアさんは気絶した。だが、体が傾いだ刹那に、類い稀な信仰心によるものなのか、彼は現世に舞い戻って。七歩後退したあと踏み止まって、人間の限界に挑戦するような体勢で転倒を免れていた。
「むぐぅっ! みー様を頂いているというに、無様に倒れ伏すなど、アディステルの誇りが許さぬ!」
デアさんが宣すると、またぞろ歓声を上げる遊牧民たち。それを見たみーが、撫ですり(むてきの)攻撃を再開する。まだ完全には体勢を立て直していなかったデアさんが、窮地に追い込まれる。僕は、そんな彼の苦闘を、意識の外に、ぽいっ、と捨てて、向き直る。
コウさんが僕の前に、えっちらおっちら歩いてくる。緊張しているのだろうか、ぎこちない歩き方で、どうも頼りない。然したる距離があるわけではないので、危うさを醸しながらも無事に辿り着く。それから、何やらもごもごして、僕を見たり見なかったり。
コウさんがしおらしい。小さい体を更に縮めて、ちょこっと首を曲げて、でも視線は逆方向に、やや突き出した感じの唇が、小さく開いたり閉じたり。
詮ずるところ何がしたいのかわからないので、見易いように三角帽子を取ってしまう。
コウさんは、僕の暴挙を阻止しようとするが、当然先に動いた僕を、視線を逸らしていた彼女が止められるはずがない。というか、彼女は反射的に帽子を取られまいとしただけで、理性の部分では、それも已む無し、と認めて抵抗を諦めているような、このちぐはぐさは何を意図してのものなのだろうか。
顔を見られて、杖をぎゅっと抱える女の子。もじもじして、生理現象を我慢しているように見えなくもないが、異性に疎い僕でも、それはない、と却下する。頬を染める、というより、上気している、というほうが適切だろうか。ちらちらと僕を見て、物欲しそうな、それでいて拗ねて拒絶するような感じを含んだ、甘えべたな猫みたいなのだが。ということは、僕が何かをしないといけないのだろうか。
と、僕はやっぱり、鈍いのかもしれない。やっとこ気付いた。いや、思い出した、と言うべきか。約束、というほどに確固たるものではない。ただ、どんな形であれ、お互いが認め合ったのなら、それは有効なのだ。そう、コウさんは認めてしまったのだ。
翠緑の瞳を、じっと見詰めて、恥らう少女が、先に目を逸らすのが、その証左である。
優しくする、と言った。大切にする、とも。慈しみ、愛おしみ、心を込めてーー。
コウさんとの距離を縮めると、女の子は柔らかな体を硬くして、ぎゅっと目を瞑る。やや上を向いているのは、覚悟が決まったからだろうか。
「コウさん。動かないでくださいね」
言葉にする必要はなかったが、あえてそうすることで、これから起こることをより強く相手に自覚させる。思い返すに、それくらいしても罰は当たらないだろう。僕は、コウさんの頭を、ぽんっ、と軽く叩くと、ぽすっ、と彼女の頭に三角帽子を被せた。
「残りの九十九回はお負けしておいてあげます。それでは、翠緑宮に戻るとしますか」
未だ百撫でを待ち受けているコウさんの耳元で囁いてから、事態の収束を図る為、遊牧民たちに足を向けると。
ぷすんっ。
後ろから空気が抜けるような、ちょっぴり間抜けな音が聞こえた。
これはたぶん、振り返ったら駄目なんだろうな。そんなことを思いながら、お祭り状態の遊牧民の皆さんを止める手段を講じるのだった。
ーーーー。
…………。ーー、……? 椅子に座っていた。本当に疲れていると、思考すら止めてしまうのだと。ーーと頭が回転し始めたのは、外界からの刺激があったからだ。
エンさんが助走をつけて、魔力を纏っているのだろう、大跳躍、魔法剣を抜くと、落っこちてきて、全体重をかけて、僕の頭に突き立てる、目だけを動かすと、器用なものだ、エンさんがそのままの姿勢で停止して、一枚の絵画みたいな感じになっている。
ぷすっ、だろうか、ぷしっ、或いは、さくっ、なんてのもいいかもしれない。でも、実際に音なんてしなくて、魔力を纏っていない魔法剣が、僕の頭に少し刺さっている。然く酷く疲れていると、その程度の痛み、どうでもよくなってくる。僕の反応が面白くないらしく、床に下りたエンさんが、がしがし魔法剣を打ち当てる。
「えっと、エンさん。それだと眠くなってくるだけです。やるなら全力でやってください」
全力でない魔法剣の攻撃は、日向で肩を揉まれているような、そんな心地良さがあるのだが。今のは失言だったな、と気付いて、正常かな、と思えるところまで回復した。
僕の発言を耳にした皆さんが、ーーあれ、反応が薄いような。もしかして、僕の悪行が誇張して伝わって、もうこのくらいのことでは動じないのだろうか。
竜の国の枢要が揃ったので、二つ音から、会議室である風竜の間で顔合わせを行うことになっていた。仕事をしていて、気付いたら、一つ音の鐘を聞いていた僕は、風竜の間に先に来て、仮眠を取っていたのだ。実際には、熟睡というより灰眠、ってそんな言葉はないが、そんな感じの、力尽きた状態で混濁していたのかもしれない。
「良かったな、デア。侍従長と一騎打ちをして、手の負傷だけで済むなんてな」
「ふん。たとい化け物が相手であろうと、我が信仰に揺らぎなし。祝福を授けてくだすったみー様と炎竜様以外のことなど、所詮、些事にすぎぬ」
仲が良い、とは言えないが、それなりに打ち解けているようだ。ザーツネルさんと話すデアさんは、元城街地隊の補佐として列座している。竜騎士になることを頑なに拒否していたアディステルの戦士は、信仰の対象であるみーを護る為に決意した。みーに、でゃーはりゅーきしになるのかー、と首を傾げられて、断れる斧使いではなかった。
すべての人が対等という主旨を込めて造られた、円卓の奥側にコウさん。彼女の右手に竜官が座り、左手に宰相、団長、隊長と続いてゆく。各位の後ろには、補佐二名が椅子に座っている。風竜の間も広々としているので、三十を超える人が居ても、狭苦しい感じはまったくない。翠緑宮のある丘は森に囲まれている。景観を考えて、王宮の入り口付近を整備するだけに留めて、残りは自然のまま。二階の奥まった突き当たりにある会議室は、まるで陸の孤島のような静けさで、都の喧騒とは隔絶した場所である。
視線を上げて、のそっと見回すと、欠席者はいないようだが。
コウさんの後ろには、右にシア、左に僕が座っている。円卓は、元城街地の三長老、遊牧民の長老、オルエルさん、ダニステイルの纏め役。クーさん、エンさん、エルネアの剣隊の隊長、黄金の秤隊の隊長、元城街地の二隊長。エンさんと纏め役の後ろには補佐がいないので、合計三十五名。
そろそろ始まりそうなので姿勢を正すと、オルエルさんと視線が合った。
「ひっ、こっち見たっ⁉」「おい、目を合わせるな、何されるかわからないぞ!」
オルエルさんの後ろの補佐二名が、酷いことを言う。
まるで僕の視線には呪いが付与されているかのようではないか。いや、もう、いっその事、実際に呪いの力が宿っていればいいのに、と投げ遣りな気分になってしまう。
先程反応が薄かったのは、単にどん引きされていたからだったのか。それは、確かに、剣をぶっ刺されて平然としている奴がいたら、僕だったら引く、引き捲る。気分的にやさぐれていたので、補佐の二人を凝視。一人はエルネアの剣の本拠地で見たことがあるが、もう一人は見たことがない。一つ疑問が浮かんできたので、オルエルさんに聞いてみる。
「そういえば、部下の増員の申請がありましたよね。オルエルさんのところには、何人いるんですか?」
お腹に竜を飼っているわけでもないのに、一瞬言葉に詰まるオルエルさん。
「っ、エルネアの剣からの部下が四人と、その後に採用したのが十六人で、全員で二十人だが。リシェ君の承認をもらってあるので、問題ないと思うのだが……」「はい。それは問題ありません。えっと、そうではなく、僕が不思議に思ったのは、なぜ僕には部下……でも同僚でもいいんですが、一人もいないんでしょう、ということなのですが」
あれ? 人員の補充は誰の役目だったかな。
「そりゃまー、しょーがねー。こぞーは文官ってか、役人たちから化けもん扱いされてんみてーだし、生半ん奴ぁ近付いてこねぇだろーなぁ」「自覚がない、か。リシェが熟していた仕事量は、オルエル卿の部署と同じかそれ以上。足手纏いになるとわかっていて、送り込むわけにはいかない。それに、知っているか、リシェ? 人間、働き過ぎると死んでしまう。噂では侍従長は三人過労で殺して、残りの二人は国外逃亡したと囁かれている」
存在しない部下を殺すとか、コウさんでも不可能だ。どこの異世界の話なんだか。
「それはそうと、クル様。卿、は恥ずかしいので止めていただけると……」
雲行きの怪しい話に、オルエルさんが修正を試みる。自尊心なり羞恥心なりを刺激されるのだろうが、彼は後者が過多だったようだ。その気持ちはわかる。僕も、リシェ卿、なんて呼ばれたら、二の腕を掻き毟りたくなるだろう。それに貴族ではないし、名前に卿を付けられても違和感がある。まぁ、クーさんはわかっていて、それをやっているわけだが。
「そう。竜の国には馴染みそうもない。なら、困ったときのリシェ頼み」「特に捻る必要もないですし、竜議でいいんじゃないかと。オルエル竜議にクグルユルセニフ宰相、……えっと、クーさん宰相でしたよね。僕がやっていることって、クーさんの仕事じゃないですか?」「もう忘れたのか、リシェ。初めの取り決めの通り、役職なんてただの飾り。そも、この国の全体像を把握しているのはリシェだけ。その領分を侵すわけにはいかない」
近寄れる竜の巣穴もなく、僕の追及を躱すクーさん。
「エンさん。竜騎士から何人か都合をつけて……」「だが断る!」
即断即決。序でに、当意即妙。お負けで、臨機竜変も付けてしまおう。エンさんが完全拒否をすると、竜騎士たちから拍手喝采。竜はいつでも見ている、とはこのことか。まぁ、人員の補充についてはいずれどうにかするとして、他の用件に移ろう。
「シア様。クーさんの、宰相の評判は如何でしょうか?」
コウさんの右後ろで、場の雰囲気に萎縮しているらしいシアに話を振る。
シアの立ち居地は未だ固まっていない。竜の民から忌み嫌われて……もとい色眼鏡で見られている僕がシアに敬意を示すことで、表立っての批判はなくせるかもしれないが。子供を労働力としか見ていないところに、これまでとは違った価値観を植え付ける。その価値観の変遷の象徴がシアなのだ。城街地の最下層から王弟になった彼に、人々は様々に思いを巡らすことだろう。当然、そこには妬みや嫉み、悪意も含まれる。
無くならないものを無くす必要なんてない。ザーツネルさんの言葉だが、付け加えるなら、無くならないものを無くしてはならない、も必要になるかもしれない。無くならないものは無くならない、でも、隠すこと、誤魔化すことは容易に行えるのだ。まぁ、今すぐどうにかなる問題ではない。必要なのは、僕たちがその眼差しを失わず、竜の民に偽らぬ姿を見せ続けていくこと。
「クル様の役割は、一言で言うと、警備隊長です。竜騎士が表の直接的な騒動に当たり、それ以外の小競り合いや竜の民同士の啀み合い、不平不満などの解決や解消を、支援者と共に行っています。警備隊長の肩書きでは角が立つところも、宰相が直接動いて話を聞いてくれる、というので、民からの信頼は篤く、特に女性たちからは……人気があります。竜の国の治安維持には欠かせない存在になっています」
練習をしたのだろうか、シアの言葉遣いはまだ硬いが、及第点ではあるだろう。
「支援者というと、どのくらい居て、どのような役割なのでしょうか」
僕が質すと、クーさんの後ろに座っていた二人の内、戦士然とした女性が立ち上がって、
「支援者は、百余名。役割は、クル様の親衛隊です」
胸を張って言い切った。然ても、まさかこんなことになるとは思っていなかった。
「そうですか。宰相が親衛隊を持つのは不自然です。以後、フィア様の近衛隊とします。宰相の役割に近衛隊長を加えるので、これまで通り、クーさんが指揮を執ってください」
竜騎士だけでは足りなかったので、近衛隊の存在はありがたい。衛兵や警備兵など、少しずつ採用してはいるが、竜地の治安まで考えると、まだ足りないだろう。
「シア様。他に何か気になったことはありますか?」
「竜の国に、二人の魔法使いが出没しています。二人とも、二十代半ばから三十歳くらいです。一人は、女性たちの間で有名で、物凄く格好良い男です。魔法使いの国に、魔法使いが居るのは普通のことだと皆思っています。ですので偶々情報を拾うことが出来ました。もう一人は、容姿は整っているものの、地味で暗い感じの魔法使いが情報収集しています」
シアの情報収集能力は、本人が得手だと言っていた通り、優れたものだった。ただ、問題もあった。それらの情報は、城街地でシアの許にいた子供たちからのものも含まれているのだ。彼らは、竜の学び舎ーー竜舎での学習を終えたあと、自分たちの為に時間を使うのではなく、シアの下で働くことを選択した。どうしようか迷ったが、無理に止めさせるのは控えた。彼らは、これから多くのことを学んでいくだろう。その先に、願いや望みを、やりたいことを見つけてくれるはず。竜の国は、その為の場所だ。
「一人は、どう考えても老師ですね」「はっはっはっ、山奥んそんままおっ死ぬより、こっちん来て役ん立てってことで、じじー召還ってわけだぁ」「師匠は、竜の国に来て以降、小さなことから大きなことまで、様々な問題を片付けてくださっている」
クーさんだけでなくエンさんも、何だかんだで嬉しそうだ。
「なるほど。では老師には肩書きを付けておきましょう。竜魔法団の団長、ということで今のところ名誉職ですが、少しは動き易くなることでしょう。クーさん、次からは老師も会議や式などに参加するよう頼んでおいてください」
「それは心得た。でも断られたら、あたしは念押しはしない」
了解です。僕なんかの要請よりも老師の御心のほうが大切なんですね。
「もう一人はーー、どうですかフィア様、魔法使いに心当たりはありますか?」
「大きな魔法を使えば捕捉できますが、その兆候はないのです」
みーがいない所為か、若干覇気がない翠緑王。
「追い払っても、どうせまた来るので、諜報活動はお好きなように、というのが現行の、竜の国の方針です。重要な場所は、フィア様が『結界』を張っているので。竜騎士と近衛隊の方々は、魔法使いを見掛けたら、竜の国に滞在する目的を尋ねてください。捕らえる必要はありません。深追いしないよう気を付けてください。魔法使いの目的が知れるか、問題を起こすかしたら、対処を変えるとしましょう。……えっと、こういうことはフィア様がーー」「リシェさん、何も問題ないのです。そのまま続けてくださいなのです」
王様に承認いただけたので続けることにする。やる気がないわけではなく、妙に素直というか聞き分けが良いというか、どうも調子が狂ってしまう。まぁ、問題があったら、エンさんとクーさんが僕を止めてくれるだろう。他に何かあれば、とシアに続けるよう促す。
「最後です。侍従長に二つ名が付いています。二つあって、まだ定着していません。一つが『黒幕』で、もう一つが『悪辣の繰り手』です。竜の国にはフィア様がいらっしゃるので、大きな問題にはなっていませんが、侍従長の悪名は竜の民に良くないです」
シアの物言いには意趣が含まれていた。心酔か敬愛かはわからないが、コウさんの味方であるシアからすると、彼女の良性を損なうかもしれない僕の存在は許せないようだ。
皆さん微妙な表情で、僕から目を逸らすようにして、お互い顔を見合わせている。
「はっはっはっ、折角二つ名付いたってーんに、俺ん『火焔』や相棒ん『薄氷』ん比べっと、名ぁが体表してねぇ、まだまだだなこぞー!」
両手を腰に当てて、かんらからから。すみませんエンさん、そこで勝ち誇ることの意味がわかりません。それに、二つ名は大抵、他人が付けるものなので。
ふむ、とはいえエンさんのこれは、二つ名を誇ってのものではなく、別のものが、鬱憤だろうか、作用しているのだろう。魔物退治に奔走してもらったが、息抜きには至らなかったようだ。やはり、コウさんとクーさん、二人の妹が一緒でないと、兄の心を満足させることは出来ないということか。その為の機会を融通してあげたいところだが、竜の国を牽引する優秀過ぎる(エン)馬車馬を欠くことは、ーー正直に言えば、考えることすらしたくない。彼の不在の、皺寄せがどこに行くかもわからず、まぁ、たぶん、きっと、僕のところに押し寄せてきそうな気がするので、ああ……、ほんと、これ以上考えたくないので、ぽいっ。
「『黒幕』より『雑用長官』、『悪辣の繰り手』より『魔力の抜き手』が相応……、後者は間違い。『人類の天敵』くらいにしておこう」
コウさんに睨まれたクーさんが、変更の変更を行う。これはもう、変更の偏向だろう。いつから僕は、世界の敵になったんですか。そういえば、デアさんは、僕を害虫とか言ってたっけ。ああ、それらの二つ名擬きが広まらなければいいな、とサクラニルに祈りを捧げてみる。序でにエルシュテルにも祈っておくが、清廉で知られる女神様からは、お前の願いなど知らん、と蹴飛ばされる心象を抱いてしまった。
竜の国は、新興国である。他国が手を出し難くする為に、僕の悪名が有効なら問題はないのだが、当の竜の民に悪影響があると言われると、迷ってしまう。方針を転換するかどうか、思案の為所だ。とはいえ、ここまで悪評が拡がると、挽回は可能なのだろうか。
「席次を変えます。オルエルさん、翠緑王の隣まで移動してください。筆頭竜官として、竜官の纏め役になっていただきます」
オルエルさんの反駁を待たず、その理由を説明してしまう。
「四人の長老方には、別に大切な役割があります。後継者の育成と選定です。選定を急ぐ必要はありませんが、竜の国の未来の為にも、蓄えられた知識と経験を次代に繋ぐよう、よろしくお願いします」
立ち上がって、頭を下げると、コウさんが頭を下げている姿が目に入った。あ、遅れてシアも頭を下げている。王と民に身分の差がないように、王と竜官にも役割に違いはあれど、貴賎などない。だので、大切なことは、真っ直ぐにお願いをする。当然のようにそうしてくれる王様を、誇らしく思ってしまうのは、悪くない気分だ。
「ふぉっふぉっふぉっ、承りました、姫様。竜の国の未来の為、全力を尽くすことをお約束します。ですが、我々はまだまだ働けるので、引退はとうぶん先のことですがね」「そうじゃの、姫様のお子を見るまでは、竜の国を支えて行かねばならんて」「やぁ、我はそこそこで退きて、風と大地と信仰の、穏やかな余生を望んでおるのだが」「おう、わしもそうしたいな。老害とか呼ばれてしがみつくのは、みっともないじゃろう」
ああ、皆さん元気ですね。長老四人が喧々諤々と遣り始めてしまった。その勢いに押されて、オルエルさんは何も言えないようだ。言い合いが加熱しない、適度なところで、長老たちの代表であるバーナスさんに尋ねる。
「どうですか? 城街地で有力者だった方々の動向は」
「ふむ。竜の国では機会が平等に与えられております。自分たちに特権が与えられず、贅沢も出来ないということで、富を得ている者で竜の国を選んだ者は小数ですな」
控え目な言い方をしているが、彼の心中は複雑なようだ。城街地を纏めるのは並大抵のことではなかっただろう。成功した者、依存する者、地を這いずり回る者など、それらを抱えて、予定された破滅に向かっていくしかなかった。誰が誰に、責めを負わせればいいのか。外側にある壁は高過ぎて、見上げるにも見通すにも苦痛が伴ったはず。
「竜の国としては、機会を得られた方が、自分たちの力で発展していって欲しい。とそう願っています。初期の段階で、優先的に便宜を図ることはしないので、有力者の方々には魅力的に感じられなかったのでしょうね」「城外地という場を失った彼らが、今後、同様に利益を得られるかどうかはわかりかねます」
彼らの成功は、城街地という後ろ盾があったからこそ得られたものだ。そこに擦り寄ってきた貴族や商人たちの存在。それらを含めて、新しい地で関係を構築していかなければならない。然し、今や道は分かたれた。
彼らは、彼らの物語を歩み始めた。僕らは、僕らの物語を歩んでゆく。
「竜騎士の皆さん、鎧の調子は如何ですか?」
「こりゃ、駄目ですわ。冒険者が長かったんで、その戦いに慣れちまって、実戦のときは全身鎧じゃなくて、いつも通りにやらせてもらいます」
エルネアの剣隊の隊長である、ギルースさんが剣を振る動作をしながら、照れを含んだ調子でぼやく。隣のフィヨルさんーー黄金の秤隊の隊長にも聞いてみる。
「戦い方を身に付けるにしても、指導役がいません。儀式用の鎧と割り切ってしまったほうがよろしいかと」
繊細で細かいところに気付く、とザーツネルさんから聞いていた。それだけでなく、武闘派で前のめりの俺たちを纏められるのはあいつしかいなかった、と強い信頼が窺えた。その繊細さ故なのだろうか、未だに僕は避けられたままである。ザーツネルさんにそれとなく、侍従長は怖くないよ、と伝えてもらっているが、効果は芳しくない。
僕が悩んでいると、フィヨルさんの隣に座っている隊長のサシスが火種を投げ込んだ。
「そこら辺は同感ですが。元冒険者の方々は、馬には乗れるのですか? 元城外地側には、経験者が多くいるので、場合によっては一部隊編成することを考えても良いですが」
火種と言っても、悪意のあるものではないが、ギルースさんは尻尾を踏まれたギザマルのように、あっさりと反応する。
「くっ、侍従長! やっぱり亜種でもいいんで、竜を連れてきてください! ミースガルタンシェアリ様に頼めば、どうにかなったりとかしないんですか⁉」
相変わらず闊達な人である。これまでなら、副団長であったオルエルさんが嗜めていた、というか、睨みを利かせていたのだが、どうやらその役目は僕に委譲されたようだ。筆頭竜官として、王様の隣に移動したオルエルさんは、他人事のように涼しい顔をしていた。
「それは以前にも言ったように、騎竜となると、他国に与える影響が大き過ぎます。また、『ミースガルタンシェアリ』様に負担を強いるのは、竜の国の本意ではありません」
物は言い様である。「ミースガルタンシェアリ」の役職に就いているみーにお願いしても、竜は連れてきてくれないと思うので、その提案は却下である。
ギルースさんが二の句を継げずにいる、そんなとき、すっと手を上げた者がいた。ダニステイルの纏め役である、三十歳くらいの品のある佇まいの男性。穏やかながら知性を感じさせる口調で、要望、いや、要請だろうか、鋭く切り込んできた。
「みー様は、炎竜様の眷属であると伺っています。もし他にも眷属の方々を招くことが出来るのでしたら、是非一竜、暗黒竜で歓待させていただきとうございます」
纏め役の言葉に、覿面に表情を変える遊牧民たち。また、彼らだけでなく、他の面々も色めき立つ。ああ、これも、みー様効果なのだろうか。嘗ては遠い、幻想や憧憬の存在であった竜は、みーの爛漫さと可愛さで、幻想は特別に、憧憬は親しみに推移していった。彼らを鎮め、納得を引き出すには、一歩踏み込んだ説得が必要になる。
「打ち明け話をします。みー様が竜の国に来られたのは、フィア様と仲良くなられたからです。盟約の証しとして眷属の竜を使わす、というのは、みー様の身を気遣って、意に沿うよう用意したものです。えっと、結論ですが。今の竜の国には、竜が訪れ易い環境があります。皆さんも、竜を見掛けたら仲良くなって、フィア様とみー様のような関係を築いてください。その際には、竜の国が支援を致します」
……苦しい。なるべく嘘を吐かないように説明してみたが、やっぱり苦しい、というか、痛々しい。然し、心を砕かないわけにはいかない。竜の国にミースガルタンシェアリがいないことを知られてはならないのだ。偉大な竜を利用するようで申し訳ないが、最低でも竜の国が落ち着くまでは、炎竜の威光を借りなくてはならない。
事情を知っている氷焔の皆さんが、またこいつは、といった感じの胡乱げな眼差しを向けてくる。あ~、僕も好きで嘘や誤魔化しをしているわけではないんですから、干乾びた蚯蚓を見るような目は止めてください。
「…………」
がたんっ、と音がした。若しやコウさんが転んだのかと見てみると、いつの間に成長したのだろう、見上げる位置に女の子の驚いた顔があった。成長したのに胸は寂しいままなんですね、とどうでもいいことを、いや、当人にとっては深刻なことなのかな、といまいち纏まりのないことを思っていると、
「こりゃ、そろそろ限界ってやつかもなぁ。相棒、どうにかしてやんな」
エンさんが僕の体を掴んで持ち上げて、椅子に凭れ掛からせる。……って、ああ、今頃気付いた。倒れたのは、崩れ落ちたのは、僕だったのだ。
「コウ、今日は客人が来る予定だと言っていたが、いつになる?」
「は、はい、クー姉、六つ音にまた、皆に集まってもらうの。竜の国に仕官したいという美人さんと御付らしい方が二人、あと……ファタさんが来るの」
美人さん、という言葉に、竜騎士や補佐の若い男衆が耳をそばだてる。あと、二人のファタが、サーイとサシスが眉を顰める。サーイは、長老の補佐として参加しているが、文官の側に居ると、その厳つい容姿が目立って仕方がない。
元城街地側の竜騎士には、年長者の出席を促しておいたが、すでに隊長として認められているということは、やはりサシスはひとかどの人物であるようだ。城街地でコウさんの真意を見抜いたことからもわかるように、有為な人材なのだろう。とぼんやり考えていると、クーさんがてきぱきと指示を出す。
「そうか。では、六つ音まで、侍従長の仕事は、あたしと筆頭竜官で引き受けるとしよう。コウ、そういうこと、王様の仕事」
宰相の要請に応えて、颯爽と立ち上がった魔法使いは、竜の国の王様は、僕に、ずびしっ、と指を突き付けて、誇り高く采配を振るのだった。
「リシェさん、命令なのです! 六つ音まで、お仕事禁止っ‼」
追い出されてしまった。まるで、有罪が確定した罪人のような扱いで。
疲れているが、すぐに眠れる気がしない。疲れが感覚を刺激して痛みに変じているので、この不快さを先ずどうにかしたい。居室に戻らず、翠緑宮から出て、優しい風と日差しの下で、ゆるりと歩いて凝り固まっていた体やら何やらを解す。視界に入ってきたものを見て、それもいいかな、と行く先を決定する。竜の国の乗合馬車は無料なので、気付けば、ふら~りとそれに乗っていた。さて、着くまでに眠らずにいられるかな。
まぁ、そこら辺はどちらでもいい、のんびりと考え事でもしていようか。
枢要の顔合わせは、皆でやってくれるだろう。先程は邪魔をすることになってしまったが、あとは竜官の一人であるダニステイルの纏め役を紹介することくらい。
南の南、遥か南に賢き民あり。そう称えられる、幻の民。
そんな彼らが、竜の国に庇護を求めてきた。二千人のダニステイルが住まう場所として、東側の一番奥にある竜地、闇竜を希望。ただ、移住に際して、彼らは一つだけ要求をしてきた。それは、竜地の名称の変更である。始めは、ダニステイル、にしたいのかと思ったが、そうではなかった。竜地の名称を、闇竜ではなく「暗黒竜」にするよう求めてきたのだ。勿論、何の問題もないので、許可したのだが。彼らがそんな些細なことに拘る理由がわからないーー。ん……、あ~、駄目だ、頭を働かせるのも億劫になってきた。彼らの歴史の背景とか色々あるんだけどーー。
ーー、……と、意識を失っていたらしい、ん、ああ、目的地に着いたようだ。同乗の女性も席を立ったので、先に馬車から降りる。やはり、喧騒から遠ざかった場所にあるようだ。案内板があって、その先に施設の上部が見える。翠緑宮と同じく、周囲を木々に囲われているようだ。ただ、こちらは自然そのままの森ではなく、人の手が入った林という趣。目に優しく、この施設の目的に適い、好い雰囲気である。
「老師。押し付けられたと嘆いていた割には、乗り乗りじゃないですか」
てくてく程好い距離を歩いて。然てこそ竜の頭脳にある竜書庫に到着である。
翠緑宮より小さいものの、それでも十分な大きさの建物の周辺には、水路が敷設されていた。然し、ただの水の路というわけではなく、交差したり流れ落ちたり、水が吹き上がって八つの路に流れ込みーーあれはもしかして竜地を暗示していたりするのだろうかーー幾種類もの水の音が耳を潤してくれる。ゆったりと寛げる広さがあって、長椅子が備え付けられている。憩いの場として人気を集めることになるだろう。そう、それは未来の話で、今は人っ子一人いない。まだ自分たちの生活を安定させる時期であるので、竜書庫を訪れる人は少ない。それに、大陸の識字率は高くないので、ここが活況を呈するのはだいぶ先のことになるだろう。書物を嗜むこと、多くの人がその楽しさに触れてくれるといい。
知識の集積所、或いは保管庫としての役割からか、施設は重厚な造りになっている。書庫ではあるが、閲覧は可能で、いずれ貸し出しをすることも考えている。そうなったら、名称を変更しなければいけないかもしれない。
「おや、官吏の方ですかな。おはようございます」
建物に負けず威風を醸す扉を押し開いて、書庫内に入ると、初老の紳士が和やかに挨拶をしてきた。どうやら、僕が侍従長であることに気付いていないようだ。
竜の国の一般職の制服が支給されたところである。こうして出歩いても、侍従長だと特定される事態は減ってきた。竜の民の多くは、城街地出身である。城街地を訪れた際に、彼らは「窓」で僕の姿を見ているので、魔力がないことによる弊害ーー初対面での嫌悪や違和感を抱かせるーーがないことも大きく影響している。それと、僕の十人並みの容姿が、世間に流布している侍従長の噂と結び付かないようだ。
竜騎士には申し訳ないが、文官のほうを優先させてもらっている。竜騎士は武具を纏っていれば、そうとわかるが、役人の証明の為には制服等が有効なものなので。
「おはようございます。ここは、一度確認、というか、訪れたいと思っていたのでーー。やはり、ここを利用される方は、まだ少ないようですね」「そうですな、まだ皆忙しいですし、余暇を消費してでも遣って来る物好きは、私を含めて三人というところです。今日は、利用者は二人で、ーーお、話をすれば何とやら、もう一人が遣って来ましたな」「ん? その服装は、って、若いな……、……って、じっ、侍従長っ、様⁉」
ひうぃやぁ、と謎悲鳴を上げながら、紳士が腰を抜かす。商人風の男が、紳士を引き摺って本棚の後ろに隠れる。それから、ひょこっと顔を覗かせて、
「……侍従長様、何か御用でございましょうか?」
もともと肝が太いのだろう、怯えているものの、しっかりとした口調で問うてくる。
「まだ、貸し出しはしていないんですよね」「はい。竜の国の体制が整い、もう少し落ち着くまで、書庫内での閲覧のみが許されています。ただ、貴重な書物の閲覧には申請が必要で、学術書や魔法書、希覯本の類いは、あちらで厳重な『結界』で守られています」
商人風の男の下から、ひょっこりと紳士が顔を出す。竜書庫を利用するだけあって、好奇心は強いようだ。
厳重な「結界」と言われても、僕にはわからないので、受付台の横にある通路に入ってみる。「結界」は護りの基本であり、使い勝手のいい魔法。対侍従長用に、コウさんの「結界」は格段の進歩を遂げている。どうやら、ここの「結界」は一般向けのようだ。僕には「結界」の存在すら認識できなかった。さて、「結界」を破ってしまったわけだが、コウさんならこのことを察知して、新しく張り直してくれる、はず?
「くぅ、やっぱり竜の国の侍従長は化け物か⁉ 普通に通路に入って行ったぞ!」「竜書庫の深奥に足を踏み入れるとは、何と羨ましい。ですが、出禁を恐れる私たちには出来ない芸当。これ見よがしに、見せ付けるとは、『悪辣の繰り手』の二つ名は、真でしたな」
後ろからやっかみが聞こえてきた。それと、本当に二つ名が浸透しているようだ。実は、僕なんかに二つ名が付くのかと半信半疑だったが、世間は余程暇だったのだろうか。
前に見た書類によると、書庫長が一人居るはずだったが。来庫者が増えてきたら、職員を増やすことを検討しないと。そんなことを考えながら、鬱蒼とした本の森の中を歩いてゆく。だが、木々の植生は異様だった。人を惑わすことを目的に配置したような、不思議な角度で枝が、書架が設置されている。これは魔法的な何かなのだろうか。
竜書庫を訪れた目的。純粋に興味があったことは確かだが、他に確認したい、というか納得したい事柄があったのだ。そして、大凡の答えは出た。
ここにある書物は、すべて同じ装丁なのだ。これらはすべて写本だろう。これだけの量に、これだけの多様さとなれば、魔法に因らずば叶えられまい。
氷焔の、コウさんやクーさんの知識は、明らかに現状と掛け離れたものだった。世界の魔力量、神々の傍観、教会の内部事情、魔術師の歴史、歴史の真相ーー。
クーさんが以前言っていた、世界を救ったコウさんには見返りがあっていい、ということ。そして、魔法を用いることを容認した老師の思惑は、きっとーー。
「ーーーー」
本の迷路の行く着く先に、更に奥に続く通路があった。上に金属板が取り付けられていて、「禁書庫」と銘打たれている。そぉ~と、手を伸ばしてみると、先程と同じく何も感じなかったが、意図して「結界」を壊したのだから、後でコウさんに怒られても文句は言えない。一応、禁書庫のことを持ち出して、引き分けを狙ってみるつもりではあるが。
思った以上に通路は長かった。採光はなく、途中真の闇に包まれる。咫尺を弁ぜず、暗竜の腹の中。こういうときには、どうしても試したくなってきてしまう。自分の顔の前に手を持ってくるが、暗くてまったく見えない。それから三歩目で手の輪郭が浮かんで、七歩目で前方に光が滲んだ。これは、魔法的な何かが影響を及ぼしているのだろうか。光と闇の、奇妙な交錯。涼しい、というよりも、寒い。十歩目で温もりを求めて早足になる。歩いてきた距離からして、この先は竜書庫の一番奥になるのだろう。光の匂いは、体ではなく心のほうが先に感じるようだ。解ける闇に、後ろ髪を引かれながらーー。
そこは、光に溢れていた。
通路を出てからしばらく、目が順応するまで、音が聞こえたような気がした。
子供の頃に聞いた、音としての意味を失った、懐かしいはずの情景。
「ようやっと来たか、父様。あまりに遅うて、わしのほうから押し掛けるとこじゃったぞ。相も変わらず、『結界』など景気良う壊してくれるものじゃ」
禁書庫は、大きくなかった。僕の執務室の、半分くらいの広さだろうか、周囲の壁面が書物で埋め尽くされている。中央に、古いが細かな装飾が施された卓一つと椅子四脚。すべて書架で囲まれているかと思ったが、右手前に、更に奥に続く通路があった。
正面の上座に子供が座っていた。その子供を、女性が後ろから椅子ごと抱き締めている。子供は優雅な所作で、匂いから恐らく竜茶だろう、カップを口に運んだ。
ーー声をどこかに落としてきてしまった。
ーーどうしたら拾ってこられるのか思い出せない。
「ーーーー」
音が鳴る。僕で鳴る。初対面のはずの、青と白の良質な部分を削り取って創ったかのような、雪の純粋さと、清廉な周期を湛えて輝く、薄碧眼と氷髪。頬に氷色の文様がある。みーと同じように、着色されたものではなく、元からの肌の色であるようだ。みーと同じくらいの背格好で、ひらひらした服で見えないが、肢体にも文様が刻まれているのだろう。
……何かを伝えたいのか、勝手にがなる心臓を抑え付けるのを諦めて、子供の額の、真ん中の上部から、寂れた白い角を生やした面を、「人化」しているのだろう竜に、待ち人の到来に緩む氷眼に、心が凍ったままの、……就中込み上げる憧憬。自分の中の様々なものが乱れて、また、然かと思えば、纏まらないことがわかってもどうすることも出来ない。
「驚いておるようじゃのう。おう、この姿で見合うは初めてじゃったか。なれど、わしの面影はあろう。ふふっ、いつまでも突っ立っておらんで座るが良い、父様」
幼子が親に向けるような、すべてを委ねる瞳で見詰められて、知らず知らず導かれるように椅子に座ってしまう。
「えっと、それであなたは竜のようだけど、誰なのかな。それと、僕が父様……っ」
最後まで言えなかった。子供の体から霧のようなものが噴き出して、竜が手にするカップが割れるが、破片や液体が零れ落ちることなく、湯気が立っていた竜茶ごと凍って固まってしまう。薄碧眼がこれ以上ないくらいに冷え切って、僕の心臓から心の奥底に至るまで、すべてを凍らせる気満々であるようだった。ゆっくりと吐き出した息が、やけに乾いて凍え付くような気がしたのは、擦り切れるような痛みを感じたのは、きっと僕の勘違い。何故なら今は、冷た過ぎるのに、熱過ぎるからだ。眼前の竜が、僕をそうさせる。
「わしの知らぬ間に、人間の記憶は十周期で消去されるようになったのかのぉ」
凍れる竜の、怪訝そうに僕を見る瞳が、ついと横に逸らされる。釣られて目で追うと、子供を抱き締めている女性の袖から見えた手首が、腫れを通り越して、変色して黒ずんでいた。竜が発した霧、冷気によるものだろう。見るから重傷だというのに、彼女は気にした様子も痛がる素振りもなく、無邪気に子供に懐いたままだ。
子供は、何気なく女性の腕を掴むと、すぐに手を放した。竜なのだから、慮外と思うことのほうがおかしいのかもしれない。然り乍らコウさん以外にも可能であることに、驚きを禁じ得ない。彼女の傷は、治癒魔法なのだろう、瞬時に完治していた。
子供が手にしたカップを傾けると、きんっ、と純度の高い氷塊が割れるような音が響く。
竜茶とカップは、端無く冷気の靄になって。光を蓄えて輝く様は、竜の雫のようである。すぅ、と竜が息を吸うと、色付いた靄は、柔らかそうな口に呑まれていった。
「エルルよ、三人分竜茶を用意するのじゃ」「は~い、行ってきます~、スナちゃ~ん」
エルルという名前の、恐らく書庫長の女性は、間延びした言葉遣いで請け負うと、奥に続く通路にのんびりとした歩調で歩いてゆく。竜に気を取られてよく見ていなかったが、女性は二十歳を幾つか越えているくらいで、その振る舞いは宛ら子供のよう。大人が子供のように、ではなく、子供が子供らしく、といった姿。子供であったら違和感がない、そんな自然な言行。だが、そんなことよりも、たゆんたゆん……げふんっげふんっ然に非ず、いやさ、然もありなん、でもなくっ、一瞬、がん見しそうになってしまった。エルルさんは平均的な女性の背格好だったが、一部だけ、その……、コウさんがうっかり目撃したら、そのあまりの格差に攻撃魔法を放ってしまうのではないかと心配してしまうくらいの、いや、実際にはそんなことはないだろうが。はぁ、ふぅ、やばい、とりあえず、落ち着こう。
子供と同じく、ひらひらした服を着ているエルルさんは、逆に強調されてしまっている豊満な一部分をまったく意に介することなく、楽しげな様子で通路に消えていった。幸いなことに、部屋は竜のお陰でとても良く冷えている。頭を冷やすと同時に、焼き付いてしまったエルルさんのあれを、初心な少年のもやもや(きっとだれもがとおるみち)ごと消し飛ばしてしまおう。
「……十周期前、というと、もしかしてヴァレイスナ連峰の……」
「なんじゃ、父様、覚えておるではないか。娘を誑かすとは、悪い父様じゃ」
今にも落ちてきそうな氷柱の下を歩く気分で、慎重に言葉を継いでゆく。
「えっと、娘ということは、『分化』しているということなのかな」
「いんや、『分化』した幻想種の話は聞いたことがないのう。未分化で、わしはどちらでもないが、この格好で息子ということはあるまい。娘として、存分に可愛がるが良いぞ」
「浮遊」の魔法でも使っているのだろうか、風に包まるような軽やかな所作で椅子の上に立つと、ひらひらした空色の服を見せ付けるように、くる~りっ、と回転する。そして、自然の法則に遵って、スカートが舞い上がって、
「おっと、見てはいかんぞ、下には何も着いておらんでな」
むふふー、とからかうように無邪気に笑うと、見えそうで見えないところで、スカートを抑える。ーーあ、いや、別に釘付けになんかなっていませんよ。ただ目が離せなかっただけで、未だ正体のはっきりしない、みーに勝るとも劣らない可愛らしい竜に、少しだけ心を奪われていたとか、認めないわけではないけど……。
うん、これは、駄目だ。手玉に取られていることを自覚して、練り直さないと。
三歳のみーと違って、この竜には奈落のような、えも言えぬ見通せない、それでいて時の狭間でさえ弛まぬような泰然とした、何かがある。何か、としか言い様がない。些細な周期しか生きていない僕では、到底及ばないものが、目の前にあることが、居ることが、心を挫けさせようとする。竜の狩場には、みーが居た。もしミースガルタンシェアリが存命であったなら、この竜と類同の重圧を感じていたのだろうか。
ふぅ、嘘を吐こうとか、相手の意図を探ろうとか、そういうのは諦めた。
「ようやっと、素直になったようじゃのう。父親には、娘を可愛がる義務があるのじゃ」
僕の葛藤などお見通しとばかりに、卓に両肘を突いて、緩く組んだ両手の上に顎を乗せる。ふんわりとした女の子らしい仕草に、近寄って頭を撫でてあげなくてはならない欲求がーーって、僕が父性を目覚めさせてどうしようというのだ。
まさか、みー同様に、これも竜の魅力というやつなのだろうか。
「十周期前。僕は、『ヴァレイスナ連峰に登ってくる』という書き置きを残して、姿を消したそうです。そして、連峰の麓で発見されたとき、三巡りが経過していました。目覚めた僕は、その間の記憶を失っていました。それは、今も戻っていません。だけど……」
竜娘と見えたとき、古い情景が奏でた。雪の白さに埋もれた先に、手を伸ばしても届かない場所に、竜との繋がりがあったことだけは、今にも途切れそうな雪道の、足跡の儚さで確信できる。
「ふふっ、ふひひっ、父様よ、登りで遭難して、下りでも遭難したとは、実に難儀なことをしてくれよる、ふはひひっひひいひっ、わしを笑い死なす気か……」
どうやら僕の滑稽な昔話が甚く気に入ったようで、一頻り笑い続ける竜娘。
「ええい、先ず呼び名じゃ。わしのことは、スナと呼べ。父様が名付けてくれた大切な名じゃろう。父様が呼ばずして、どうするというのじゃ」
ころころ笑ったら、ぷんすか怒る。みーとは違った意味で、感情が豊かなようだ。
足音と、届いたのはどちらが早かったか、胃の腑を刺激するふくよかな竜茶の香りが漂ってくる。見ると、エルルさんがお盆を持って通路から出てきたところだった。卓の真ん中にお盆を置くと、竜娘、ではなくて、僕の娘であるところの、スナに抱き付こうとする。
スナは、エルルさんの髪の毛を無造作に掴むと、引き千切るような勢いで、脇に放った。
「エルルよ。わしはこれから父様と話があるゆえ、大人しく座っておるのじゃ」
「は~い。エルルは~、スナちゃんと~スナちゃんの父さんの~話を~、聞いてます~」
邪険に扱われて、文句を言うどころか大喜びのエルルさん。
「娘をそんな目で見るとは、いけない父様なのじゃ。エルルのことは後で話してやるゆえ、今は大切な愛娘だけで、心を満たすが良い」
どうやら顔に出ていたらしい。僕の取り繕った表情を見て、スナが穏やかに微笑む。エルルさんが着席すると、スナが手ずから竜茶を配る。
「父様の記憶が戻ることを期待して、話してやるとするかのう。父様、気張らず、心を落ち着けて聞くが良い。わしは言葉に魔力を乗せて話すゆえ、そのほうが思い出し易かろう」
スナがカップを手に取ったので、心を落ち着けようと僕も竜茶を飲んで、舌鼓を打つ。
ーーこれは、美味い。以前、みーやコウさんが淹れてくれた竜茶よりも、数段美味かった。思わず、エルルさんをまじまじと見詰めてしまう。あに図らんや彼女は茶師と呼んで差し支えない腕前の持ち主のようだ。
「十周期前、父様はヴァレイスナ、わしの名を冠した連峰に登ったのじゃ。目的は、連峰の最高峰へ至ること。慮外なことにのう、山々に見下ろされていることが気にならなくなる、などという戯けた目的を果たそうとしておったのじゃ」
甘い誘惑を湛えた優しい瞳でスナが僕の心を擽ってくるが、揺れるものの少なさ、儚さから、言葉にまで昇華することはなかった。確かに僕は、山々に見下ろされることに苛立ちに近い感情を持っていたが、まさかそのような行動に出るとは。自分が仕出かしたことながら、自分が信じられない。然ても、そうではないかと思っていたが、スナは、ヴァレイスナ連峰の名の由来となった竜なのだ。人が綴る歴史より前から存在していた尊き氷竜。
「父様は、連峰の最高峰には至らなんだが、童の足で大したことに、わしの住み処まで辿り着いたのじゃ。人交わりなぞする気がないでな、わしの住み処の周辺には十重二十重の、峻拒の為の魔法が施されておったわけじゃが、父様はすべての魔法を霧散せしめ、わしの許に遣って来たのじゃ」
追想に揺れるスナの顔が、暖かな氷の花を咲かせる。赤子と年老いた者の笑顔はどこか似ている。そんな、最も深い場所にある感情が、スナを形作っているような気がした。
「そうして、父様に触れられたわしは、人間の童が居ることに気付いてな、食って魔力にしてやろうか、潰して住み処の外に蹴飛ばしてやろうか、どちらが面倒がないかで迷っているとじゃ。父様がわしと眼差しを絡めて、こう言ったのじゃ」
ゆるりと瞼を閉じて、反芻するように、
「暖かい、と」
僕と、僕の知らない僕に差し出すと、氷眼で僕の懐かしい場所に囁いてくる。
「氷竜のわしに触れて、言うに事欠き、暖かい、なぞと、何と小洒落た物言いじゃ。わずかに興が乗ったわしは、父様に尋ねたのじゃ、『わしが恐ろしゅうないのか』とな。するとな、傑作じゃ、父様はわしの頭部まで登ってきて、徐に抱き付くと『可愛い』などと抜かしよった。ふふっ、ふひひっ、あれほど笑うたは、世界に生じてより初めてじゃった」
何だろう、昔の僕の所業とはいえ、何だろう、この居た堪れない感じは。って、二回も同じ言葉を使ってしまった。恥ずかしいったらありゃしない。何かもう、すべてに於いて恥ずかしい。ああ、そういえば、コウさんのときにも似たようなことを思ったっけ。
「感謝するのじゃぞ、父様。氷竜たるわしが、火の魔法を使うてまで、人の子を助けてやったのじゃからな。それから一巡りとわずか、傷が癒えるまで、父様とわしの共同生活が始まったのじゃ。困ったことに、父様はわしに抱き付くのが大好きでのう、凍傷を負わせぬようするのに一苦労じゃった。『ヴァレイスナは呼び難いから、スナって呼ぶ』と言って、父様はわしの名付け親になったのじゃ。うふふ、どのようなものとて親は親、竜が人の親を持つも一興。そうして父様とわしは、親子の契りを交わしたのじゃ」
スナが僕を、父様と呼ぶ理由はわかったものの、記憶にないだけに対処に困る。はずなのだが、どうしてだろう、スナに父様と呼ばれると、暖かくて優しいものが僕の深い場所までするりと入り込んでくる。そんな僕の心の内を知ってか知らずか、スナは話を続ける。
「やがて、父様の傷は癒え、また逢う約束をして、別れたのじゃ。でじゃ、それから九周期ほど経った後の話に移るとしようかの。わしの住み処に三人の人間が遣って来たのじゃ」
「ぅぃ……、それって、氷焔の、コウさんとエンさんとクーさん、ですよね」
思わず竜茶を噴き出しそうになってしまった。いや、でもおかしな話ではない。今、スナは竜書庫に居る。それは、以前にコウさんたちと接触した可能性が高いということだ。
「竜信仰の民から、依頼を受けたそうじゃ。遺品を竜の住み処の近くに埋めて欲しいとな。それが叶わぬなら、見晴らしの良い場所にと。でじゃ、のこのこ遣って来た三人は、わしの設置した魔法に触れたわけじゃが。ここで、あの娘は、幾つもの錯誤を重ねよった」
スナが、ふくくっ、と悪い顔をする。そんな顔も可愛いな、と思ってしまったのは、親馬鹿の所為なのだろうか。……いや、きっとそう、そういうことにしておいてください。
「エンとクーと言ったか、あの足手纏いを、すぐに『転送』させなかったことが、一つ。自身の魔法について過信しておったのじゃろう、わしの魔法には『隠蔽』を施しておいたのじゃが、それを見抜けんかったのが、一つ。そして、最後の一つ。あの娘め、全力を出さずともわしに勝てると踏んで、手加減しよった。わしが張り巡らせた魔法は、あの娘の想定を上回り、わしは三人の生殺与奪を握るに至って、勝負は決したというわけじゃ。
ふふっ、ふひひっ、一対一で、正面からまともに闘えば、わしはあの娘に勝てぬ。じゃが、わしは勝利し、あの娘に唯一の敗北を刻んでやったのじゃ。当然、勝ち逃げじゃの。もう、あの娘とは闘ってやらん」
ああ、スナのどや顔も愛らしさ満天である。これは、ちょっと自分でも不思議である。みーにしろスナにしろ、どうしてこんなにも竜を好ましく感じてしまうのだろう。
「その所為か、あの娘は、わしに苦手意識を持っておるようでな。竜の国への召喚に応じる際に、条件を幾つか出したのじゃが、二つ返事で引き受けよった。ああ、わしを呼び寄せた理由じゃが、この地には炎の属性が根付いておるゆえ、ちと水量に不安を抱いたあの娘が、氷竜の属性で緩和して、十分な量を確保したというわけじゃ」
竜も喉が渇くのだろうか、話し終えたスナが竜茶を啜る。
負けず嫌いのコウさんのことである、本来勝てるはずの相手に敗北して、自省内省反省諸々を大いにしたことだろう。ん、……ん? いや、これはどうなのだろう。もしかしたら、の話なのだが、気になってスナに聞いてみた。
「スナは氷焔に勝ったわけだけど、コウさんたちを害さなかったのは……?」
「うふふ、良い読みじゃぞ、父様。十周期前に父様と出遭うておらなんだら、さくっと滅して仕舞いじゃったろうな。ふふっ、ふひひっ、あの娘らは知らんじゃろうな、実は父様は命の恩人じゃと。ふはひひっひひいひっ、愉快愉快っ」
笑顔の裏は竜さえ知らず、という俚諺があるが、こちらの氷竜は色々とご存知だったようだ。不思議な縁の繋がりに、小さく笑みを浮かべてしまう。
これまで、種々さまざまなコウさんを見てきた。健気な部分も、いじらしく一途で弱々しいところも、強いところも。意地っ張りだったり、素直じゃなかったり、意地悪だったり。老師が言っていたように、ちゃっかりしていたり。
然して、斯くの如く裏があったとは。竜茶の使い道をコウさんに任せていたが、こんなところで横流しが行われていた。スナが提示した条件の一つなのだから、素直に言えばいいのに。……あ、また一つ思い至ってしまったので、素直にスナに尋ねてみる。
「コウさんは、もしかして、スナのことを誰にも話していない、のかな?」
「ふくくっ、その通りなのじゃ、父様。隠すということは、あの娘の真情の吐露でもあるというに、それでも隠さねばならぬというは、まっこと痛快痛快っ」
自分より強い相手だからなのか、コウさんに対して遠慮とか斟酌とかするつもりはないらしい。こうなると、強過ぎるというのも考えものだ。
「さて、統治者の側にある父様に娘から一つ、教授してやるとするかの」
スナは、大人しく僕たちの話を聞いていたエルルさんを見遣ってから、僕に秋波を送る……って、いやいや、そうじゃなくて。スナのそれは、演技なのだろうか、情感たっぷりの流し目に、頑是無い表情と相俟って、油断していると心ごと持っていかれそうになる。
「このエルルは、エルル・バーナスという名で、元クラバリッタの長老の娘だそうじゃ。遅くに生まれた娘ということで、大層大切に可愛がられて育ったようじゃの。この書庫長の職も、エルルの為を思い、必死で探したのじゃろうな」
書庫長の席があっさりと埋まったのは、所期の思惑が紛れ込んでのことだと思っていたが。エルルさんが竜官であるバーナスさんの娘だったとは。彼の周期に鑑みて、遅くに生まれた娘は、さぞや愛しく感じたことだろう。
スナは、エルルさんの顎に手をやって、無理やり自分に向かせると、
「エルルよ。竜と人間、どちらが好きか?」
愛を語らうような、蜜が滴るような、心まで蕩かすような声音で質す。
僕は、その問いの内容を理解した瞬間、怖気立った。薄ら寒くて、暖かいものが欲しくて見回すが、エルルさんの笑顔に、それを見つけることは出来なかった。
「人間の中には~誰も居ませんけど~、竜の中には~スナちゃんが居ます~。だからだから~、竜が~好きです~」「聞いたか、父様? エルルは、蝶よ花よと大切に育てられてきたのじゃ。だのに、どうじゃ、両親でさえ、エルルの心に何も残してはおらぬ」
答えがわかっていて、その通りだったのに慄然としたのは初めてだったかもしれない。
「エルルにとっての、大切にされる、ということは、強く求められる、ということなのじゃ。そこには、自分に対して振るわれる暴力さえも含む。さきに、わしはエルルを傷付け、それを癒やしてやったが、エルルからすれば、大切にされた上に慈しんでもらえた、そういうことになるのじゃ。与えられることがあろうと、求められることのなかった、憐れな娘。誰も彼も、エルルを見ん、知ろうとせん、気付きもせん。求められたエルルは、これほど豊かな魂を持っておるというに」
エルルさんの頭をぐりぐりと、傍目には苛めているようにしか見えないが、彼女は大喜びである。真っ直ぐに向けられるスナの眼差しが、あまりに優し過ぎてーー、僕はぐっと卓の下で拳を握った。然なくとも涙が溢れかねない、そんな懸念さえ抱いてしまうほどに。氷竜が過ごしてきた永い星霜を垣間見たようで、目が離せなくなる。
「調べたのじゃがな。エルルは、わしと出遭うときまで、一度として笑ったことがなかったそうじゃ。エルルにとっての、人の世界は、自分を傷付けるだけの、悲しい世界じゃった。誰一人、エルルを大切にしなかったのじゃ。初めて大切に扱ってやったのが人ではないとは、何とも皮肉なことではないか。
わかるか、父様。どれほど大切にしようと、どれほど尽くそうと、それに見合ったものを返してくれるとは限らぬ。だのに、人というは、等量を得られぬことに不満を抱くのじゃ。愚かしいとは思わぬか? エルルの笑みを奪っていたは、いったい誰の所為になるのや。そうしたものに、答えなどいらぬ、ただ統治者であるなら、傾倒し過ぎぬようにな」
僕は何も言えず、小さく頷くだけで精一杯だった。
「然なり然ななり然なめり然なきだに、ということで奥に行くぞ、父様」
エルルさんが座っている椅子に飛び乗ると、彼女の頭を掴んで、卓に、ごんっ、と叩き付けた。そして、すぐに治癒魔法を行使したようだ。
「エルルよ、ここは暖かくて気持ち良かろう。わしが起こしてやるまで好い夢を見ておれ」
「は~い。スナちゃんの~仰せのままに~」
すぅ~、と寝息が聞こえてくる。って、え、もう眠ってしまったのか。狸寝入り、ということはなさそうだ。休眠期の竜のように、深い眠りに入っているらしい。これは、スナの魔法だと思うが、もしかしたらエルルさんの特技なのかもしれない。
「ほれ、はよう来るのじゃ。娘を待たせるなぞ、苛めっ子な父様じゃ」
とててっ、と待ち切れない子供のように走っていって、ひょこっと通路の先から顔を覗かせる。楽しげな様子で奥に入っていくスナを追って、短い通路を抜ける。すると、禁書庫と同じくらいの広さの部屋があった。正面の角に机が二つ、左の奥に寝床が一つ。机には、雑多な小物と読み掛けの書物が幾つか置かれていた。生活感はあるが、僕の居室や執務室のように生活用品は少なく、殺風景な印象だった。
「ほれほれ、何をしておるのじゃ、はよう座るのじゃ」
寝床の真ん中に座ったスナは、たしったしっ、と自分のすぐ横を叩く。
僕が座ると、こてんっ、とスナが頭を乗せてくる。
「わしの住み処では、存分に甘えさせてやったのじゃ。今度は、父様が娘を甘々の冷え冷えの番なのじゃ。さぁ、頭を撫でるのじゃ、優しくじゃぞ。それと、いつまで焦らす気じゃ。はよう、わしの名を呼ぶのじゃ。あとはじゃ、娘にその話し方はなかろうて」
猫のように頭を擦り付けてくる。要求が多いが、娘の我が侭に応えるのは、きっと父親の義務、或いは特権なのだろう。
少し冷たくて、手に馴染む、不思議な感触。どう譬えたらいいかわからない。これが竜の触り心地というやつなのだろうか。髪に指を絡ませながら、確かめる。背中まである氷髪を梳くと、薄く冷気が生じて、仄かに甘い。頬に手を当てると、スナは、すりすり。次いで、はむはむ、と甘噛。青白磁の角に、根元から指を這わせて、先端は丸みを帯びていることに気付く。みーの先っぽと同じで、擽ったいのかもしれない。蕩けるスナに覆い被さるように、他の誰にも聞こえない大きさで。
「スナ」「もう一度じゃ」「スナ」「もう一回じゃ」「スナ」「もっとじゃ、もっとじゃ」
僕の声が、スナで響いていることが嬉しい。
「逢えて嬉しいよ、スナ。僕を助けてくれて、ありがとう」「うふふっ、父様、わしを感じながら、ゆるりと眠りに就くと良い。刻限になったら、起こしてやるからのぅ……」「おねむだね、スナ。ちゃんと僕を起こしてくれるのかな?」「見縊るでない……、竜はいつでも、好きなときに……目覚められるのじゃ……」
スナは、あっさりと眠ってしまった。ここまで心を許されて、預けられているとなると、むず痒さを感じてしまう。
目を閉じる。聞こえてくるのは、スナの小さな寝息だけ。ここは、優しい世界だ。
十周期前の、一巡りと少しの、僕とスナだけで完結していた世界。
スナの言葉には、魔力が宿っていたらしいけど、魔力の影響を受けない僕には、効果がなかったようだ。でも、どうだろう。本当に、届かないのだろうか。
眠りに落ちる間際に響いたものを。起きたときに覚えていられたらいいな。そんな風に思いながら、最後にスナの冷たいようで温かい頭を撫でてあげるのだった。