四章 周辺国と魔法使い 後半
「皆が僕を怖がっていて、切なくなってきます。人の悪意は冷たくて、視線が痛いというのは本当だったんですね。心が罅割れてしまいそうです」「それが目的とはいえ、実際に畏怖の対象になれるんだから、能力の高さを誇ってもいいんじゃないかな?」「それ、本気で言ってませんよね? 楽しんでますよね? 面白がってますよね?」「……、……ぅ」
あれから一巡りが過ぎて、客人たちの大半が竜の国を後にしている。初日に遣って来た者たちは、すでに彼らの主に伝え終えている頃だろうか。ストーフグレフ国や西方の国だと、あと幾日かは掛かるだろう。必須だったストリチナ同盟国と三国の城街地に関係のある者たちの来訪は確認できている。様々な人が遣って来た。収穫もあった。そうして客人の受け入れは今日が最後。少人数なので、クーさん一人で案内することになっている。
炎竜の地に相応しい、燃えるような空模様。もうすぐ陽が沈んで、魔工技術による明かりが竜の都に灯ることになる。翠緑宮の、硝子の壁の内側にも明かりが灯されて、巨大な淡緑の宝石が夜と暗闇に囁くことになる。魔工技術で、魔力を用いるのでなければ、もったいなくて出来ない芸当である。本来なら魔力による対価のほうが割に合わないのだが、そこは無制限とも言えるコウさんの魔力を使用しているので、芳しの魔法使いの然らしめるところか。優しい緑光は、竜の民の心を安らかにしてくれることだろう。
周囲には誰もいない。翠緑宮の居室に帰るところで、闘技場での訓練を終えた黄金の秤隊の面々と鉢合わせて。ザーツネルさんと、世間話、というか、僕の愚痴を聞いてもらっていた。他の隊員たちは僕を見るなり退散。エンさんとクーさんとの、夜々(よよ)鍛錬の噂が伝わっているらしく、遺跡での「暴発事件」と相俟って彼らから危険物扱いされている。
「……、……ゃぅ」
ザーツネルさんは、みーを肩車している。そろそろ僕たち以外にも慣れる頃合いではないかと、黄金の秤隊の名誉隊員として参加させてみたのだ。結果、負傷者、多数。
「みー様が『さーう、みーちゃんつよいのだー?』って仰るので、隊で数少ない子持ちの隊員が子供をあやすつもりで試合して、一撃で敗北。次からは人数を増やしながら全力で戦ったが、怪我人の山ができただけ。あれで手加減、ええと『甘噛』か、してるんだから、みー様最強だな」「それでコウさんに治してもらうなり、また挑んでいくのだから凄いですね。『人化』しているとはいえ、竜を相手に怯まないとは。……えっと、因みに、みー様を含めた氷焔の中での最強は、フィア様です」「……、ゅぅ……」
遠隔で治癒魔法が使えるコウさんには驚いたが、黄金の秤隊の順応能力にも恐れ入る。
「黄金の秤隊は、実力主義の武闘派集団だからな。勇気と力が旗印、気力と体力、夢と希望、妄想と思い込み、独断と偏見、若さと運に任せて突き破るのが信条だ」「……何はともあれ、みー様が大人気で良かったです」「ゅぅ……、……ゃぅ」
僕は、うつらうつらと船を漕いでいるみーを見上げた。何だかんだで、見ず知らずの人たちとの交流で疲れたのだろう。明日も明後日も、ずっと楽しいことが続く、それをまったく疑っていないかのようなみーの幸せそうな寝顔に、僕の顔も緩んでしまう。幸せのお裾分けである。これは、もう、「竜の寝顔」として、七祝福の一つに決定してもいいのではないだろうか。ああ、ささくれた心が癒やされるようだ。
竜にも角にも、和んでいられる時間は少ない。今日と、明日と、その先のことについて、ひとつひとつ思慮を深めていかなくてはならない。
コウさんは、たどたどしくも一生懸命、竜の国を案内した。それが好評だったことは、男たちの顔を見れば一目瞭然。ときに大人びて見えたり、見掛け通りの子供っぽさを発揮したり、男たちからすれば、娘や妹の成長を見守るような気持ちだったのかもしれない。反比例するように、僕への負の感情がいや増していったわけだが。
「客人たちは、竜の国のことを伝えてくれたはずなので、明日交渉に行ってきます。もし、まだお客さんが来るようなら、案内をお願いします。僕は、クラバリッタで〝サイカ〟に会ってきます。カイナス三兄弟の長兄ですね。エンさんとクーさんは、三国の城街地を。コウさんは、ユミファナトラ大河の上流から周辺五国の付近まで巡ってきます」「ん? 北方に? フィア様は、何をしに行かれるんで?」「えっと、説明が足りませんでしたね。その辺りには、幾つかの有力な遊牧民がいるんですが、一周期くらい前から餌となる草が枯れて、死活問題になっているそうなんです。その地域では、枯れる前に白い粉を吹くところから、白魔病と呼ばれているそうです。竜の国にはその影響が及んでいないので、彼らを竜地の一つである風竜に招き、定住を希望する方には、畜産をお願いしようかと思っています。その為の交渉に、コウさん一人で行ってもらうわけです」「……、……ぁぅ」
コウさんは、「飛翔」の魔法で単独行動。みーは、先ずクラバリッタで僕たちを降ろして、待て、ではなく、待機。僕は交渉が済みしだい各種組合などと最終交渉、エンさんとクーさんは城街地での交渉後、みーに乗って残りの二国、サーミスールとキトゥルナの城街地へ。恐らく、一番危険なのが僕で、一番不安なのがエンさんとクーさん、そして一番心配なのがコウさん、ということになるのだろうか。コウさんが同行しないので、明日みーは彼女の「隠蔽」の魔法で、外出時は周囲から認識されなくなる仕様にしたらしい。
……みーが大人しくしてくれるとは到底思えないので、何か対策を考えておかないと。
竜の国の王様は、客人たちと、ほどほどに上手くやれた。遊牧民たちとの交渉が一人で行えたならーー。ふぅ、薄靄の彼方、未来のことを想見して、手に汗を掻いてしまった。
はぁ、ともう一度、内心で溜め息を吐く。僕が緊張してどうするというのか。危なっかしい子供の成長を見守る親でもあるまいし。……ああ、いや、もう自分を偽るのは無理だと諦めた。心配なものは心配なのだ。何が心配なのか、いまいちわかっていないような気がするが、心配なものは心配なのだ。
……くっ、恥ずかしい。心配が過ぎたのか、二度も同じことを思ってしまった。
「ザーツネルさん、どうしよう。僕は、自分のことよりコウさんのことを心配してしまっています。子供を持った親の心境とは、こんなものなんでしょうか?」「……、ぇぅ……」
他人が失敗するかもしれない、それを思っただけでこんなにも気に病んでしまうとは。生まれて初めてかもしれない。エンさんやクーさんは、いつもこんな気持ちを抱えていたのだろうか。彼らのように、僕も、もっと留意しなくてはならないようだ。
「……あ~、一つだけ忠告させてもらうとだな。フィア様には、今の言葉は言わないほうがいいと思うぞ。……微妙な周期であらせられるわけだし」「えっと、それは、何というか、……手遅れだと思います」「……ぅ、……ぅぅ」
どうやら僕は、何が駄目なのかということさえ、わかっていなかったらしい。今の言葉が駄目ならば、今まで僕はコウさんに対して誤った接し方をしていたことになる。
「なるほど、コウさんに嫌われていることの理由がやっとわかりました。道理で嫌われてしまうわけです。なんか諦めがつきました、ありがとうございます」「……うぃ、ぅ……」
僕がお礼を言うと、なぜだかわからないが、ザーツネルさんが頭を抱えていた。余程苦悩が深いのか、前屈みになったので、みーが落ちそうになって、慌てて支える。
「申し訳ありません、フィア様。俺には荷が勝ち過ぎたようです」「ぅゃ……、……ぅゅ」
声が小さく、みーの安らかな寝息に紛れて聞こえなかったが、ザーツネルさんが翠緑宮に向かって、何か呟いているようだった。
どうやら、同じ役職であるという理由で、彼が貧乏籤を引いたようだ。クラバリッタの王城を訪れると、彼がーー侍従長が待っていた。コウさんの魔法で、事前に訪問する旨を〝サイカ〟に伝えておいたので、然く仰々(ぎょうぎょう)しいことになっているらしい。
僕の横に、クラバリッタの侍従長である高齢の紳士が一人。左右に四人ずつ、前後に二人ずつ、今すぐにでも敵に突撃できそうな完全武装の騎士十二人が僕らを取り囲みながら進んでいる。物々しいことこの上ないが、彼らの心情が理解できないわけではない。
人類の記録に、竜の来訪を受けた国家の記述があるかどうか。然もその竜は、世界に冠たるミースガルタンシェアリ。これで警戒するなというほうが無理である。彼らの周囲には、幸運の女神エルシュテルに見放されたかのような悲壮感が漂っていた。
「もしかして僕は、このままどこか寂しい場所にでも連れて行かれて、辛く苦しい目に遭わせられながら、すべての情報を開示させられ、正しい死に場所を得られず、サクラニルの御許にも辿り着けないのでしょうか」
城内に入る前に、コウさん謹製、もとい粗製、ではなく、特製の折れない剣と壊れない盾は、侍従長の部下に預けてある。それでいてこの仰々しさ。まぁ、彼らとは初対面なので、僕の特性から違和感や嫌悪を抱かせて、異質さを助長しているのかもしれないが。
僕の言葉は雷竜の息吹となって、居回りの人々の精神を打ち据える。ちょっとばかり探りを入れてみるつもりだったが、効果があり過ぎたので申し訳ない気分になってしまった。
「めっ、滅相もないっ! そのようなこと断じて! た、確かに竜の国とかいう怪しい国の更にまた輪を掛けて怪し過ぎる侍従長を名乗るあなたを暗殺しようという提案は少なくない人数から上がりましたが下手に怒らせて鏖殺されては敵わぬということで大人しく早々に速やかにお帰りいただくことに腐心することとなりましたわけでございます……あ」「じっ、侍従長!」「何を口走っておられるかっ!」「いや、竜の国の侍従長の魔法ではないのか⁉」「人の心を覗く力があるんだっ、やっぱり化け物か⁉」「ぅひ、ひいっ‼」
欲しい情報を皆さんが快く話してくださるので、とても助かります。と言いたくなったが、彼らの取り乱した様子から控えることにした。追い詰め過ぎると、切羽詰まって斬り掛かってくるかもしれない。そうなれば、逃げるしかない。無論、戦うなどという選択肢はない。気配が捉え難いという特性を最大限に利用して、逃げて逃げて逃げ捲る。
「何か誤解があるようですが、僕のことはどのように伝わっているのでしょうか?」
「ご容赦を、ご容赦のほどを……」
僕とは会話もしたくないらしい。深々と頭を下げられてしまった。周囲に目を向ければ、あからさまに目を逸らされる始末。ここは、僕のほうで自重しなくてはならないらしい。
歩いてきた経路から、遠回りをしているわけではなく、きちんと目的地に向かっているようだ。まだ懸念が払拭されたわけではないが、害される危険がないようで何よりである。
「こちらでお待ちでございます。それでは、我々はここで控えておりますのでーー」「ありがとうございます。それでは、帰りもお願い致します」「「「「「っ⁉」」」」」
早く消えてあげるのが彼らの為かと思い、お礼だけ言って部屋の中に入った。
部屋は狭くないが、質素な印象を受けた。大抵、城というものは居住に適していない。防衛の機能が必要で、外から見たより使用できる容量は少ない。限られた空間の城内でこれだけの部屋を与えられるのだから、この部屋の主がいかに重用されているかがわかる。
三十前半と聞いていたが、四十を超えて見える相貌。苦労性なのだろうか、それが老けて見える要因となっているようだ。部屋は清潔を保たれているが、書物が積み重なっていたり、資料が散乱していたりと、老師の部屋を思い出す。研究者の部屋といった趣だ。
部屋の中央に四脚、座り心地のよさそうな椅子が向かい合って鎮座している。少し肌寒い室内に好ましい温もりを投げ掛ける窓辺の椅子に、この部屋の主が、〝サイカ〟が座っていた。彼が纏う、少し古びた心象を抱かせる、滋味豊かな気配に、自然と襟を正してしまう。雰囲気を裏切らない、落ち着いた声が発せられる。
「初めまして、になるのかな、私はボルン・カイナス。君のことは、君と同期の〝目〟から聞いているので、大凡のことは把握しているつもりだ」
「それは助かります。敢えてそうしていたとはいえ、僕は必要以上に恐れられてしまっているようで。えっと、申し訳ない、僕は竜の国の侍従長、ランル・リシェです」
勧められるまま、中央の椅子に腰を下ろすと、ボルンさんが向かいに座る。
僕とは初対面だが、彼に動揺したところは見られなかった。情報収集を怠るような者が〝サイカ〟に至れるはずもない。況して同期からあらましを聞いているとなると、話が早くて助かる、と同時に、誤魔化しようがない。
「恐れられてしまうのは仕方がない。嘘を言うわけにはいかないので、国の重鎮たちには正直に伝えてしまった。目を覚ましたら、手紙が机の上に置いてあったと。動ける人数が少ないことは聞いているが、ちょっと配慮が足りなかったかな」
〝目〟である僕の先達であり〝サイカ〟に至った泰斗、ボルンさんは相好を崩して、物覚えの悪い弟子を諭すような口調で、僕の瑕疵を柔らかに嗜める。
「……あっ、あー、そういうことですね」
指摘されて気付いた。うわっ、正直そこまで気が回っていなかった。僕の落ち度である。
「そのつもりがあれば、いつでも寝首を掻くことが出来る。それを証明してみせたわけだからね。ミースガルタンシェアリとの盟約を始め、伝わってくる情報は斯くも信じ難いものばかり。その上で、個人の安全さえ脅かされるとなればーー」
扉を叩く音がして、ボルンさんが入室の許可を出す。
入ってきたのは、二十歳を過ぎたくらいの青年だった。ふと、心付いて見ると、ボルンさんの静謐さの面影がある。息子がいるとは聞いていないが。
「彼は、サリストス・エーリア。私の弟子で、色々と補佐してもらっている」
「会えるのを楽しみにしていたよ。僕は、リシェ君の兄の、ニーウと同期なんだ。彼と同じ場所に立って、同じものを見てみたい。それを目標に、〝サイカ〟を目指している」
ボルンさんの後ろに控えると、親しげに話し掛けてきた。兄さんの名を聞いて、エーリアさんが僕と同じ人を追っていると知って、一気に親しみが湧いてしまう。
「エーリアには、そろそろ重要な役職に就いてもらうことになるだろう。そこで二、三周期、相応の功績を成さば、〝サイカ〟に至る道が開けよう。私と同じで、一段一段確実に階梯を上がってゆくのが向いているようなのでな」
嘗ての自分を彷彿させるのだろうか、弟子に向ける以上の思い入れがあるようだった。
里の認定試験で〝サイカ〟に至った二人の弟とは異にして、ボルンさんは二十半ばで至った。才長ける弟たちに先に行かれて、道を見失いそうになったことがあるかもしれない。そこには余人では量れない葛藤や煩悶があっただろう。ただ、それはきっと、彼の財産となったはず。遠回りが近道になることもある。それを身を以て識っている人である。
深く、骨身に沁みてしまう。現在、只管近道を探し続けて邁進している僕たちには、汲み取って、留意しなくてはならない、多くを教えてくれる人である。
「〝目〟になったばかりの頃は、ニーウに追い付こうとがむしゃらになっていたが、ボルン様に諭され、自分を見詰めなおす機会を頂けた。今ではとても感謝しています」
正面から好意を向けられるのが苦手なのだろう、ボルンさんは居心地悪そうにしていた。彼の人柄を表すようで、より好感が増す。
〝サイカ〟は敵にならず。それが、過去の教訓を得て、里長が掲げた方針である。〝サイカ〟は、力を貸すだけで、どの勢力にも属さない。然あれば〝サイカ〟の身を守ることに繋がる。彼らが僕に友好的であるのは、そのような背景に因る。〝サイカ〟や〝目〟は、敵対するものではなく、ときに協調し、協力し合う関係にある。
「君がクラバリッタを訪れた理由は、城街地ーーで合っているかな。今や、城街地ではなく、同盟国内の内も外も皆、城外地、外地と呼んでいるが。言葉とは、人の心を映す鏡のようなもの。飽和するのも近い、ということなのだろうな」
癖なのだろうか、ボルンさんはお腹の前で指を組んだ。そして、遠くを眺めるように、瞳に理知的な輝きを宿して、言葉を継ぐ。
「城街地の人々を国の系統に組み込んでしまう。そうすることで、問題の根幹である貧困と停滞を解消し、上手く機能すれば国力でストーフグレフの後塵を拝することもなかった。が、そうはならなかった。何故だか、わかるかな?」
「最たる理由は、城街地の民より多くを得ていた同盟国の、一般の民が、城街地の人々を対等であると認めなかった、いえ、認めたくなかった、ということでしょう。実際には、城街地と手を取り合うことで、より豊かになるというのに、自分たちの富が奪われるという危機感を抱いてしまった。そして、それを吹聴し、助長した者たちがいる」
ボルンさんの問いに答えると、同調したエーリアさんが苛立った声で続ける。
「そうだ。民の不安を煽り、城街地を利用しようとした者たちがいる。国という大きな枠組みで問題を解決しようとしていたものを、個人の利益などという愚にもつかない行いで台無しにした者たちがいる」
その台無しにした者たちの主体は、貴族や商人たちである。挨拶回りの際に、サーミスールの外壁で会った、貴族然とした従者の少年のような傲慢さ。自分たちが利益を得るのは当然の権利である、とでも言わんばかりの、我欲に任せた振る舞いは、残念ながらこの大陸では有り触れた光景である。富の偏在は、それを享受できない領域を拡大させる。
「そう怒るな。人の集まりの中では、上から下まで、すべての者が正しき行いをすることなど有り得ない。それを踏まえた上で、我々は策を練らねばならないのだ。確かに残念なことではあるが、それも同盟国の人々が自分たちで選択したことだ」「ですが、結果的に尻拭いまで僕たちにさせようとしているではないですか。然も、彼らはそれを利用して、何かを企んでいる節さえあります」「私も意外に思うところはあった。噂が流れた。その噂は、根拠のないものだった。だが、民にとっては耳に心地良い、自らの不安を消し去ってしまえる、都合の良いものだった。正しい、というだけでは覆せないものがある。それは、重々承知しているつもりだった。陥穽と嘆くは、己の無力の表れ。明日を語ることが出来ても、明後日を語れぬ者がこれほどいようとは。まだまだ学ぶべきことはあるものだ」
弟子の苛立ちを受け流した格好のボルンさんだったが、思うところがあるのか、別の対象に愛弟子と同じ感情をぶちまけた。
「あと、これは愚痴だが、私がこうなっているのはストーフグレフの所為だ。思い出すのも腹立たしいので、エーリア、説明してくれ」
嫌味のない言い方をしているが、腹立たしく思っているのは事実のようだ。苦虫を二、三匹丸ごと噛み潰したような表情である。その様子に、含み笑いを浮かべそうになったエーリアさんだが、師匠に倣い、渋虫一匹を舐めたような声で説明を始めた。
「ボルン様は、ストリチア地方を三国同盟で平定したあと、ユミファナトラ大河を渡り、ラカールラカ平原へ活動の拠点を移すつもりでした。ですが、カイナス三兄弟が動くと同時に、ストーフグレフ周辺が蠢動し、あろうことか、大陸一の大国になってしまった。ストーフグレフと均衡を保つ為には、三兄弟が留まり、力を尽くさなければならなかった。 それと、これは秘密なのですが。ストーフグレフ周辺を纏め上げ、ユミファナトラ大河を挟んでストリチナ同盟国と対峙させ、是を以て大陸の安寧を図るというのが、ボルン様の遠大なる計画だったのです」
三国同盟だけでも十分な成果だが、もしボルンさんの計画が成っていたら、歴史に刻む偉業と言えるだろう。然かし、彼が愚痴りたくなった気持ちがわかるような気がする。
「巧まずして、計画通りになってしまったというわけですね。ストーフグレフ王の台頭によって。ーーあと、見方によっては、ストーフグレフ王に利用された形にもなっています」
ストーフグレフ王の目的が大陸の安寧だったとするなら、ストリチナ同盟国は楔を打ち込まれて、容易に動けなくさせられた。これほど見事な封じ込めの策はない。
偶然か意図したものかはわからないが、カイナス三兄弟からしたら、為て遣られた、或いは出し抜かれた気分になったことだろう。これ以上は、ボルンさんの機嫌を損ねそうな気がするので、脱線はここまでに、本題に入ることにした。
「ストリチナ同盟国の、三つの城街地の住人で、竜の国へ移住を希望する人々を迎え入れたいと望んでいます。その間、同盟国には、彼らに手を出さないよう要請いたします」
正面から告げると、ボルンさんは破顔した。
「城街地は、力を持ち過ぎてしまった。悪い方向に。ーー数は力。五万を超える城街地の人々が反旗を翻したらーー。その可能性があるというだけで、もはや修復は不可能になってしまった。だが、まさか斯くの如き解決方法があろうとは、夢にも思わなかった」
まさに、降って湧いた竜の国という処方。それが齎されたとき、彼らの胸に様々な思いが去来したであろうことは想像に難くない。然し、城街地に関してなら有益だろうが、竜の国が厄介の種であることに変わりはない。未来はわからずとも、現在の情勢では、竜の狩場には、国などないほうが同盟国にとっては益となるのだから。
「話を聞いたよ。君は里で学んでいた頃、国造りの試案の課題で、竜の狩場を選んだ。そんなことは不可能だと、師範から最低の評価を受けた。だが、実際はどうだろう。君は、竜の狩場に竜の国を造って見せた。今頃、その師範は青くなっているかもしれないな。ああ、本題はそこではなく、これだけの功績を成したのだ、君には〝サイカ〟へと至る道が開けているだろう」「さすがは、ニーウの弟だね。〝目〟に聞いたところだと、今回の認定試験で合格を目されていたのは二人で、リシェ君と里長の孫娘だそうだね。心情的には、僕らに近い彼女のほうを応援したいのだけれど、……難しいかもしれないね」
くっ、褒め殺しの意図でもあるのだろうか。兄さん以外の人から褒められた経験が少ないので、地竜に頼んで、地中奥深くに埋めてもらいたい気分になってしまう。
「えっと、あの、〝サイカ〟? でも、ああ、カレンなら……」
しどろもどろな言葉しか出てこない。自分でも混乱しているのがわかる。〝サイカ〟とは、兄さんを追い掛ける過程で、余程の強運にでも恵まれない限り、至れるものではないと思っていた。まだ一つ目の階を上がっただけなのに、どうしてそのようなことになっているのか。……ぐぅ、唐突過ぎて、頭が回らない。だのに、気を良くしたエーリアさんは、待ってました、とばかりに次の話題を投げ込んできた。
「ニーウの話は聞いているかい? ラカールラカ平原の、更に南にある小国で、王が民を虐げていたそうだが、民を中心にした反抗勢力が王を打倒したそうだ。それを陰で支えていたのがニーウらしい。そして、栄に浴すことなく、あっさりと姿を消したそうだ。まったくニーウらしいな」
エーリアさんの話に、高揚した僕の精神が雑念を吹き飛ばす。
僕にとっての、指針となる人の活躍に心が躍る。思いを塞き止めることなど出来ようはずもなく、真情を吐露していた。
「ーー兄さんが。僕は、力を付けて裨益することが叶えばと、兄さんから与えてもらったものを少しでも返せればと、思っていました。気付いたら、竜の国の侍従長になっていましたが。竜の国では、僕の姿を実状以上に大きく見せなくてはなりませんでした。兄さんなら、こんなことにはならなかったでしょう。何より、この後に及んで、兄さんに助けてもらいたい、そんな気持ちを払拭することが出来ないでいます」
「目指すところが高過ぎると、お互い大変だな。同じ者を追う者として、リシェ君に先に行かれたようだが、僕も自らを見据え、邁進すると心に誓っている」
目笑を交わす。和やかな雰囲気である。親近感が、忙しない身に心地良く響く。
……兄さんの話をしているというのに、今この時機が適切である、と囁いてくる僕の中の冷たい部分に蹴りを入れたくなる。だが、竜の国の侍従長である、僕の立場がそうさせてくれない。僕は〝目〟なので、〝目〟を使える立場にない。〝サイカ〟であるボルンさんに質しておきたいことがあった。気は進まないが、忽せには出来ないことなので、情報を収集しているであろう彼らを頼る。僕は、真摯な態度で頭を下げた。
「グリン・グロウという人物について、掴んでいることがありましたら、教えて頂きたい」
「信じることと、確認することは矛盾しない。必要なことを吟味せず、情に溺れて信を成すこと、それを妄信と呼ぶ。というのは言い過ぎか? 困ったことに、ときに妄信こそが力を発揮することがある。私たちは、それを利用する側で、される側になってはならない」
僕の葛藤を見透かしたボルンさんが、労わるように教授してくれる。
「君の予想通り、ストリチナ同盟国にとって影響のある竜の国の情報を収集した。さて、グリン・グロウなる人物。彼について話すには、先ず君の持つ情報を提示してもらえるかな。その上で、推測を述べることとしよう」
僕は小さく頷いてから、ゆっくりと老師の姿、人となりを思い起こしてゆく。
「見た目は、二十半ばで、背は高め。そして、有り得ないくらい容姿が整っています。聡明で人格者ですが、遊び心を解する、……少し、里長に似ているような気もします。彼は、若い時分にやんちゃをして村に遣って来た、と言っていました。移住後、すぐにフィア王と出逢ったそうです。そうすると、彼の周期は、三十を超えている蓋然性があります。四十格好かもしれませんが、さすがに容姿との相違が大きい。あとは、彼は強力な魔法使いで、治癒魔法を得手としているようでした」「ふむ。然かし、グリン・グロウという名、寡聞にして知らなかったのだが、同盟国で活動する〝目〟に『〝サイカ〟の改革』に詳しい者がいてな、その者に色々と教えてもらった。彼の名はそうではないが、異名は人口に膾炙している。『〝サイカ〟の懐剣』と言えば、君も耳にしたことがあるだろう。里長が表の、生きた伝説なら、『懐剣』は裏の、歴史に埋もれた伝説、というところかな。彼が居るという村に、〝目〟を向かわせるかどうか判じようとしたところで、この一件は里長の預かりとなった。『懐剣』のこととなれば、そうもなるか」
歴史の妙に思いを致しているのだろうか、情報を収集できなかったことに対して、残念がっている様子は見られない。
〝サイカ〟が共に争い、競い合う時代があった。それを憂い、現在の体制へと移行させたのが、現里長を中心にした、彼と彼の同期たちだった。だが、それは当時の体制を覆すということ。改革は、熾烈を極めた。すべての手段を許容する相手に対するには、理想だけでは立ち向かえない。その最も危険で、最も汚い部分を担ったのが、「懐剣」である。
「『懐剣』は魔法が使えたが、魔法使いではなかったようだ。それについては、面白い情報を得ている。君の話を聞いて、信憑性が増した。『懐剣』の友人、いや、親友といって良い間柄に、治癒魔法の使い手の男がいた。治癒魔法の大家の跡継ぎだったそうだ。だが、彼は改革で落命している。男には〝目〟の恋人がいたという。仮に身篭もっていたとするなら、今は四十路か。氷焔の師匠という男、グリン・グロウという名は恐らく偽名だろう。彼の近くに、『懐剣』の名と容姿を見知っていた者がいた。
ここからは私の推測となるが。大家ともなれば、知人縁者、他に素養のある養子を貰うこともあるだろう。『懐剣』の親友に連なる者、それが氷焔の師匠ではないのか。その容姿から、やんちゃ、とやらをすれば、耳目を集めるだろう。それがないということは、治癒魔法の大家という身内でのごたごたで、追放されたか自分から出て行ったかーー」
組んでいた指を解いて、肩を竦める。弟子が小さく頷く姿を見て、付け加えることがないことを確認してから、語るべきことはすべてを語ったと目線で知らせてくれる。
ーー「懐剣」の親友か。正体の見えない魔法使いに思いを致そうとして、幾つか伝え忘れていたことがあることに気付いた。コウさんの内情を秘密にする、という意識が働いたからだろう。コウさんは王様だけど、女の子でもあるのだし、軽々しく打ち明け話をするわけにはいかない……。いや、今考えるべきことは、そうではなくて。老師が村に来たときには、魔法使いとして未熟で、魔力量も大したものではなかったはず。他に……、と可能性を辿っていると、一つ思い至ることがあった。
ーー老師は、育ての親だと言っていたが、彼女の生みの親はどうしたのだろうか。
ああ、それについては、悪い予感しかしない。コウさんが生まれた直後、甚大な魔力を浴びて命を落としたか、害悪とまでされてしまった彼女を生んだことにより、村から追放されたか吊し上げられたか。コウさんが家族ーー近しい者に向ける情には、これらのことも関係しているはず。
老師については、ここまで知れば十分だろう。僕は、もう一度頭を垂れてから続ける。
「それで、早ければ早いほど良いと思い、明日、皆で最後の交渉をーー、と思っています」
明日、城街地に赴くことは、僕たちの間で決定済みである。本当は良くないのだが、ぎちぎちに予定を組み込んである。物事というのは、大抵上手く運ばない。一度狂えば、どこまでも狂ってゆく。そうならない為の処置を施すのが当然ではあるが、時機と、何より働き詰めの僕たちがもう限界である。今頃何を、と思うかもしれないが、土台四人で、もとい四人と一竜で国を造ろうというのが無理筋なのだ。実際に携わってみると、当初思っていた以上の煩雑さで目眩がしそうだった。若さに飽かせて動くにしても、限度というものがある。すべて上手くいけば、明日は久し振りに半日くらい休めるかもしれない。
何も考えず、頭を真っ白にして、惰眠を貪りたい。いやさ、正確には、次の日からまた働くので、ただの休息に過ぎないのかもしれないが、休眠期の竜のように昏々(こんこん)と眠りたい欲求が、とりあえずそこまで走り抜ければぶっ倒れてもいいと、僕を突き動かす。
「早いに越したことはないが、性急過ぎやしないか? 私の目的には都合が良いし、竜の国の現状や、城街地のことを顧みるならそれは悪くないが、奴らの動向は確かめておかねばなるまいし、同盟国への対処を怠ると、君に……」
ボルンさんは重要な懸念を伝えようとしていたようだが、何かが崩れたような地響きと、樹木が圧し折られたような耳障りな音に響動めきが重なって、彼の言葉を攫ってゆく。
「おいっ、どうした!」「兵舎だ! 突然潰れたぞ⁉」「どういうことだ! 何が起こったのだ!」「不自然な倒れ方だった。あれはまともじゃないぞ……」「ひぃ、やっぱり⁉」
部屋の外が俄に騒がしくなる。侍従長や騎士たちだろうか、情報が錯綜しているようだ。これは、みーの責任、というのは可哀想か。コウさんの「隠蔽」で姿を隠したみーは、兵舎の上で休憩していたが、残念ながらみーの自重を支えられるほどに頑丈には造られていなかったらしい。驚いたみーが、余計な騒動を起こしていないことを祈るばかりだが。
「よくわからないが、急ぎのようだ。あと、最後にこれだけは言っておく。君は今、この大陸でストーフグレフ王に匹敵する耳目を集める存在だ。十分に身辺に気を配りなさい」
すべてを理解しているわけではないだろう。だが、大凡のところを把握したボルンさんが、最後に手を差し出す。僕は、本心から後進を心配してくれる彼の手を、両手で包むように触れて、心からの感謝を示す。足早にエーリアさんに駆け寄って、互いに手を添えて、敬意と親しみを交わす。まだまだ、彼らと話したいことはたくさんある。後ろ髪を引かれるが、思い切る。僕は礼を失しないよう心掛けながら、慌ただしく部屋を辞したのだった。
人は、未知の事柄と遭遇したとき、自身の常識に準拠して物事を理解する。ーー懐かしい。これは兄さんから教えてもらったこと。さすが兄さん、実際にそうなりました。
みーが乗ったことで兵舎が壊れたわけだが、どういう経緯なのか、僕が壊したことになったらしい。気分を害した竜の国の侍従長が一撃で粉砕していった、のだそうな。みーが「隠蔽」の魔法で認識できなかったのだとしても、どうしてそうなったのやら。って、ああ、そうか、クラバリッタの人々にとって、それが常識に属することだからか。
一連の話を聞いたエンさんは、腹を抱えて転げ回っていた。その後、団長から聞いた話として、僕がクラバリッタで兵舎を爆砕したと、竜騎士団の隊員たちの間で真しやかに語られていた。なるほど、事実とはこうやって捻じ曲げられていくのかもしれない。
「リシェの要請通り、クラバリッタに城街地の長老を集め、準備は万端。時間がないとはいえ、みーに長老を乗せての移動に、三国を回る強行軍。そして明日から受け入れを始めるとはーー」「了解です。コウさん分を補給してください」「っ⁉」「…………」
僕は、ちょっとばかり拗ねた感じのコウさんの肩を掴んで、クーさんの胸に押し付けた。
クーさんが寂しがっているので相手をしてあげて欲しい。と事前にお願いしておいたのが効いたのか、大人しく慰み者……ではなく、家族の愛を惜しみなく注いでくれていた。まぁ、コウさんもクーさんのことは大好きなので、今回のことを教訓に、みーに感けて姉を蔑ろにすることはなくなるだろう。クーさんが妹離れをしてくれるのが手っ取り早いのだが、人間関係というのは、そう単純にはいかないということか。
「うひゃひゃひゃー、やわやわー、すべすべー、もちもちー、ぷにぷにー、ほかほかー」
エンさんと違って、というか、エンさんの分も含めて気苦労が溜まっていたのだろうか、疲労の影が色濃く見える。本来なら、彼女はこんな姿は見せない。彼女の矜持が許さない。精神的なものも影響して、隠せなくなるぐらいに困憊していたのかもしれない。
「わーう、みーちゃんもなのだー。わうわうー、はうはうー、にゅるにゅるー」「やわぐりぬぽんと、コウみーなえちゃらんて、ぱやぱやー」「みゃーう、くーがおもしろーなのだー」「えっぷえっぷぽるぽるー、ぱるんぽるんてぽるんぱるんてこーみー、みこみこー」
って、人が虚実取り混ぜて心配しているところだったのに。みーが加わって収拾がつかなくなった可愛がりの巷が、クーさんの顔を、全身を、はちみつで溢れた大河のようなものにしていた。何というか、人様には見せられない甘々な蕩け具合である。まぁ、そうなるくらい、無理を強いていたということなのかもしれないが。以前より壊れ方が酷くなっている。人間はここまで駄目な生き物になることが出来るらしい。うん、気を付けよう。
僕たちが居るのは、翠緑宮に入ってすぐ、玄関口にある広間である。そこには、大きく見上げなければ天辺が視界に入らないくらいの巨岩がある。その岩には淡いものから濃いものまで、とりどりの緑の結晶が露出していて、その大きさと相俟って芸術品の趣がある。
翠緑宮は、この国の中枢であり、顔である。なので、巨岩好きという、王様であるコウさんを象徴するものとして、広間の真ん中に、どでんっ、と鎮座ましましているのである。下からでは見えないが、大岩の上は平らになっていて、寝そべることが出来るらしい。
「こぞーん行ったんは最初ん国だけだったんか? 他ぁ大丈夫なんか?」
何か気になるのだろうか、エンさんには珍しく、妙に心配そうな顔をしている。
「二人の弟と違い、ボルンさんは〝目〟で功績を成して、〝サイカ〟に至りました。そんな兄を、弟は信頼して、或いは余計な仕事は兄に押し付けて、概ね上手くいっているようです。その分、ボルンさんが苦労しているようですけど」
クーさんだけでなく、僕の疲れも思ったより激しいようだ。頭の、前のほうが痺れて、見上げている巨岩との距離感がわからなくなってきそうになる。
「コウさんから聞いたんですが。三国は連絡を取り合える体制を整えているようです。『遠見』ではなく、届けられるのは声だけで、それも時間や魔力量から、多くの制約があるようです。コウさんの魔法を見慣れていると、現在の魔法水準を忘れてしまいそうになりますけど、魔法の使われ方が、何というか、もどかしいですね」「……ぐっ、ーーかっ」
エンさんは、苦しんでいた。大した情報量はないはずなのだが、彼にも精神的な疲労が蓄積していたのかもしれない。これは今後の課題にするとして、本当に聞いてもらいたいことがあったら、要点だけを話すことにしよう。
「それはそうと、コウさん、凄いですね。すべての遊牧民から快諾を得てくるとは。どんな魔法を使ったんですか?」
僕は、そろそろ苦行になりつつある、重過ぎる愛の宴の立て役者に尋ねた。
然ても、クーさんの頭の中には、手加減という文字はまったく存在していないようだ。目も当てられない、というか、見えてはいけないものまで見えてしまっているので、慌てて目を逸らす。みーがコウさんの服の中に潜り込んで、やわやわの極致である。
「ふぃ…ひぃ人聞きが悪いのですぅん…。魔法なんて使ってぇ……ないのです。皆にはぁぅ…竜の国の話が伝わっていぃ……て、どぉこぉんに行っても歓迎されたのです。竜の姫なんて呼ばれて、恥ぁう…ずかしかっ……ぁたのです」
三人で、もみくちゃなコウさんだが、律儀に答えを返してくれる。
遊牧民たちにとって、僕たちの提案は悪いものではないはずだが、即答できる類いのものではないと思っていた。上手く行き過ぎて、釈然としない部分がコウさんにもあるらしい。ちらっと視線を向けると、ぷくっと頬を膨らませている姿が見えた。どうやら、いつもよりちょっとだけ大きな頬には、照れ隠しの分も含まれているらしい。
家畜の餌である植物が枯れていると聞いていたが、そこまで逼迫していたのだろうか。
あと、気になることが一つ。王様と呼ばれるのは平気なようだが、姫と呼ばれるのは恥ずかしいらしい。魔力放出の役に立つかもしれないので、覚えておくとしよう。この周期の女の子なら、姫と呼ばれて嬉しがると思っていたが、それは人それぞれということか。
僕は、コウさん分に包まれて大人しくなったクーさんを、愛しげに抱き締める少女の横顔を眺めた。彼女の背中にはみーがくっ付いて、ほやほや顔でおねむである。
コウさんに緊張している様子は見られない。明日は、王としての役目を熟してもらわなくてはならない。悔いを残すようなことがあってはならない。万全の態勢で臨んで欲しい。なら、僕も協力しないわけにはいかない。今日の分は、しっかり抜いておかないと。
さりげなくコウさんの後ろから近付いて、みーを起こさないよう気を付けながら、僕の人差し指を、彼女の右耳にむぎゅっと差し込む。そして、左耳で囁く。
「姫。姫様。お姫様。姫王。竜の姫。コウ姫。フィア姫。コウ・ファウ・フィア姫」
「ふぁ……っ」
ぽふんっ。
これは、失敗したかもしれない。耳で囁いたのが擽ったかったようで、「姫様ご乱心」作戦の効果は薄かった。仕方がないので、左耳にも人差し指をもぎゅっと差し込む。
「……ふぇ」
あ、やばい。コウさんが泣きそうだ。遣り過ぎた所為か、更なる魔力放出はなかった。ということは、両耳塞ぎは完全な蛇足だったようだ。これは、竜足とならぬうちに、即時撤退行動が必要である。僕がコウさんの耳から、しゅぽんっ、と指を抜くと、直後にクーさんが彼女の耳に、ぐぎゅっ、と指を差し込んだ。
「ぃぅっ⁉」「リシェ。ほら、さっさと遁走」
クーさんなりの恩返しなのだろうか、僕の逃走時間を稼いでくれるようだ。幸いなことに、本日はコウさんの魔法報復を受けることなく、逃げ切ることに成功したのだった。
雑多な感じはあるが、主要な道に荒れた様子は見られない。だが、エンさんに依れば、一歩道を外れれば、ということらしい。貧民街、犯罪者の根城、棄民、独立を主張する少数民などーーストリチナ地方のまつろわぬ民や存在を認められなかった者たち、疎んじられ見捨てられた者たちが、同盟国の三つの城街地へと招き入れられた。抵抗した者たちには、最終的に武力が用いられて、強制的に押し込められた。
「えっと、護衛されているような気分になってしまうんですが」
僕を中心に、前にコウさん、後ろにエンさんとクーさんが並んで歩いている。見方によっては、連行されているように見えなくもない。
「んー? 何言うかと思やぁ、まんま護衛してんじゃねぇか」
「弓矢、ナイフ、石などの礫。色々な物が飛んでくる。投擲物に関するリシェの回避能力はそこまで高くない。今、うっかり死なれでもしたら、あたしたちが困る」
そう言いつつ、クーさんは飛んできた石くれを、何気なく手で弾く。
「昨日ぁすんっごかったなぁ。あっちこっちぐるんぐるん回んながら説明して、四百ぐれぇぶっ飛ばして、長老んとこまでずかずか入り込んでやったぜぇ」
「その間、あたしは裏の人々のところ。女や子供、老人に病人ーー届く限りには、声を届かせた。生きることに必死な者たち。あたしがぶっ飛ばしたのは百八十人くらい」
エンさんが狙われた理由と、クーさんのそれは、別のものだろうことは想像に難くない。二人とも、何か思うところがあるのか、難しい顔になっている。
「えっと、僕の護衛は、コウさんがいれば大丈夫だったりしないんですか?」
「ふつーはな。でもなぁ、ちび助ぁいっぺぇいっぺぇみてーだし。よし、こぞー、行けっ」
「あたしたちの会話が聞こえていない。多少の無礼は許す。リシェ、解してやれ」
護衛されている身分の僕に、二人の命令を断る術、もとい権利はない。何より、二人の言うことは的を射ているので、僕としても蔑ろには出来ない。
人々の注目を集めている。あまり大っぴらなことは出来ない。彼らの視線には、様々なものが乗せられている。然り乍ら、どの視線にも、何かを期待するような、心待ちにするような、そんな輝きがわずかに灯っているのを肌で感じ取る。
「コウさん、別に失敗しても大丈夫です。コウさんの失敗は、すべて僕が尻拭いをしてあげます。どんなに駄目でも、どれほどの恥ずかしい間違いでも、魔法で無かったことにしようとさえしなければ、もれなく挽回してあげます」「……凄く、馬鹿にしてるのです」「馬鹿にはしてませんよ、ただ嘘を吐いただけです。僕程度では、コウさんを助けることなんて出来ません。今も、皆に護ってもらわないと、道を歩くことも出来ない体たらくです。でも、僕の後ろには、とても頼りになる人が二人もいます。コウさんが大変なことになれば、僕を見捨てて、可愛い妹を命懸けで護ってくれることでしょう」
コウさんが振り返る。僕の後ろを見て、本当に頼りになる人がすぐ側に居てくれることに、ずっと側に居てくれたことに心付く。
僕は無神経に、無遠慮に、彼女の視線に割り込む。
「王様、やりたくないなら、交代してもいいですよ」
やる、おうさま。然う本音を、心にあった願いを零してしまった女の子に掛けられる、僕が考え得る限りの、最高に奮起を促す言葉だ。
見せて欲しい。あのとき、僕の魂さえ絡みとってしまうほどの、深く透徹した眼差し、その向かう先を、行き着く場所を。兄さん以外で、初めて捧げたいと思わせた、この身の空隙を埋めてくれるのではないかと信じさせてくれた、翠緑の魔法使い。
「ーーーー」
言葉が、僕の心にするりと入り込む。再び、僕の道を照らしてくれる。後ろからでは見られないのが残念だ。でも、見なくてもわかる。わからない人々だけが見ればいい。一人の少女の、小さな瞳に何が映っているのかを、何を見詰めているのかを。
そうして終着点、いや、始まりの舞台が見えてくる。
ーー空が高い。軽く見上げて、そう思った。みすぼらしい建物の上にまで、人が溢れている。人に囲まれている空は、山々に囲まれた故郷の空を思い出させる。
広場に辿り着く。僕たちがこれから行くところだけ、ぽかんと空いている。中央に三人の老人。彼らが城街地の長老なのだろう。当然のことながら、三人とも険しい表情で僕らを待ち受けている。懸かっているのは、自分の生活であったり、誰かの未来であったり、大切な者の命であったり、それらすべてを背負って立っている。
声の届く距離で立ち止まって、コウさんが杖を掲げる。周囲が一気にざわつき始める。然もありなん、三国の城街地に住まう、すべての人に伝える為に魔法が発動したのだ。この瞬間、事前に仕込んでおいた数万にも及ぶ「遠観」の「窓」が各所に現れて、まだ幼さの残る少女の姿を、魔法使いの女の子の姿を、ーー竜の国の王の姿を届けた。
そして、怒号が轟いた。
「待ちやがれ!」「右だ、そのまま行けっ」「くそっ!」「今日という今日は許さねぇぞ‼」「早く逃げろっ、そっちじゃない!」「おらっ、もう逃げらんねぇぞ!」「ーーっ⁉」
ぽっかりと空いた交渉の場に、群衆の隙間を抜けて、子供が飛び出してくる。その不衛生な様から、男女の区別は難しい。子供を追って、棍棒のような粗末な武器を持った男が人波を掻き分けてくる。一見野蛮そうだが、身形の整った優れた体躯の持ち主だった。
焦燥か、恐怖か、躓いて転ぶ子供。周囲の状況、交渉の場であることが理解できず、混乱と併せて足が竦んでしまう。些細ではあるが、造次顛沛にも致命的な錯誤と乖離が生じて、男が追い付くだけの猶予を与えてしまう。
何故だろう、僕の心が冷えてゆく。
「があぁっ‼」「…………」
振り上げられた棍棒を、子供は見上げることしか出来ない。男を制止する者は誰もいない。ただ、子供を庇う少年が、一人いただけである。子供を突き飛ばした少年に、狩る側である男の、手加減を加えようなど微塵も窺えない眼光が突き刺さる。
ーー間に合うはずがない。そうとわかっていても、心と相反して伸ばしてしまった手の先で、コウさんの後ろ姿が掻き消える。その後、鈍く響いた音を表現するのは難しい。命が零れてしまったようなーーそんな陳腐な言葉が浮かんでくるが、即座に否定する。
少年を外套の中に抱え込んだ少女は、毅然と男を見据えていた。こめかみ辺りに当たったのだろう、皮膚はずたずたに、血に塗れている。
「邪魔すんな! どけぇっ‼」
激昂する男の、少年を狙った一撃を、少女が腕で防ぐ。乾いた嫌な音がする。腕が圧し折られて、曲がらないはずの方向へ、斜めになっている。再び頭へ、脇腹へ、足へーー。血に染まって、人の姿から外れていく少女は、それでも立ち続けて、棍棒男の目をじっと見詰めていた。翠緑の眼差しが、男を、「窓」を通して城街地の人々を見通す。
その異常さに気圧されたのか、男の手が止まる。
まるで無人であるかのような静寂。エンさんとクーさんは、まったく動こうとしていない。その理由がわかっていて尚、自らの体を押し止めるのに、膨大な自制心を必要とした。
三角帽子は飛ばされて、外套やその下の衣服は裂けて、無残に傷付く肌を晒している。
コウさんは、ゆくりなく無事な右腕を男に向かって差し出した。
あれは……? ここからでは見難いが、あの鈍い土色。掌の上には銅貨が三枚、いや、四枚置かれていた。
「この子たちが盗んだ分の代金です」
コウさんは左腕を持ち上げようとして、腕が動かないことに気付く。須臾の間、躊躇う素振りを見せたが、左腕を治癒魔法で完治させる。その左の掌を後ろに向けると。
「エン兄、お願いなの」「あいよ、ほれっ」
直後には、エンさんが何かを抛っていた。指を組んで丸めたくらいの大きさの、色彩に揺れる球形のーー。それが何かわかった瞬間、僕は思わず小声で彼に尋ねてしまった。
「あれって、みー様が吐き出した竜の雫じゃないですか。返してなかったんですか?」
「ありゃあ、すんげぇかてーんだ。物壊すんに便利だかんなぁ、ちみっ子ん貰った」
彼には珍しく、と言ったら失礼だろうか、場の空気を読んで、同じく小声で返すエンさん。彼の行状には、何とも突っ込みどころ満載だが、今はそれどころではない。
竜の宝玉は過たずコウさんの掌へ。彼女は、右手に銅貨四枚、左手に竜の至宝を載せて、顔の半分が赤く染まって口に血が入り込むのも厭わず、男に選択を迫る。
「こちらの竜の雫は、最低で金貨五百枚。好事家なら二千枚以上出してもおかしくありません。どちらでも、好きなほうを取ってください」
玉の中で綾なす光の乱舞。生きた宝石とも呼ばれる至宝を目にして、多くの者が息を呑み、魅入る。恐怖に戦いていた男の顔が、別の感情を付与されて歪みを深くしてゆく。
「サーイ。悪いことは言わない、銅貨のほうを取っときな」
長老たちの背後から男が進み出て、棍棒男ーーサーイに忠告する。
「うるせぇ、サシス。何でてめぇの言うことなんざ聞かなきゃならねぇんだ」
サーイの体躯からは力強さを感じるが、サシスと呼ばれた男の均整のとれた肉体からは、エンさんに通じる武辺者の威圧がある。二人とも二十半ばといったところか。
「わからないのか、その嬢ちゃんの真意が。お前は今、選ぼうとしているんだよ、外地の人間として、自分の行く先ってやつをな」「……っ⁉」
どうやら、サーイはサシスの言葉を理解できなかったようだ。だが、底の底まで愚かというわけではないようで、城街地を生き抜いてきた者の皮膚感覚が作用したようだ。それでもまだ逡巡して、決め兼ねているサーイに、彼は止めの言葉を放つ。
「竜の雫を手にしたところで、外地から持って出ることは敵わない。必ず誰かに奪われる。奪った者は、また誰かに奪われる。奪われた奴は、運が良ければ命は拾えるだろうさ。いずれ誰かが利益を得るかもしれないが、それに数倍、或いはそれ以上の不幸を撒き散らす。お前の前に示されているのは、そういうものだ」
サシスはエンさんと違って聡明ーーあ、いや、エンさんを卑下、ではなく、貶すというか貶めるというか、そんな気は毛頭、まったくないのだが、……ふぅ、落ち着け僕、エンさんはエンさんで凄い人で、それは自他共に認めるところで。今はサシスのことである。
彼は竜の雫を差し出されたことの真意を看破してみせた。正直、意外だった。いや、意外でもないのか。城街地には、様々な人々がいる。それこそ、権力闘争に敗れた貴族やその子弟、罪を着せられた有力者などが交じっていても不思議はない。
未練たらたら小声で何やら渋っていたサーイだが、ここで竜の雫を選ぶほどの短慮ではなかったらしい。若しくは、宝玉を選ぶ、そこまでの剛毅さを持ち合わせていなかった。
サーイがぶっきら棒に銅貨を掴み取ると、コウさんはひょいっと竜の雫を上に抛った。宝玉は、サーイの顔辺りの高さで静止して、彼がうっかり手を伸ばしそうになったところで、弾かれたようにエンさんの手元に戻った。当たり前のように行使される魔法だが、まだ終わらない。コウさんは、右腕をサーイに、左手を最初に現れた子供に向けた。
治癒魔法が発動する。少年の腕や膝の擦り傷が、手の皮でも剥けたのだろうか、サーイの手の傷が癒やされてゆく。だが、広場の人々の、「窓」を通した人々の目を釘付けにしたのは、黄金色の粒子に包まれているだろう、一人の少女の偉容、或いは異様。彼女の卓越した魔法は、重傷であるはずの自身の傷をいとも容易く、即時に完治させる。服も外套も元通りである。三角帽子が風に運ばれて頭に載って、杖が大地に弾かれて左手に収まる。やおら三角帽子を取って、胸に当てると、ゆるりと頭を下げた。
「初めまして、私は竜の国の王、コウ・ファウ・フィアと申します。今日は、皆さんにお話したいことがあり罷り越しました」
朗々たる声が静寂に沈む人々の耳朶を打つ。
真っ直ぐに発せられる彼女の声は、心地良く、優しく響く。それは、コウさんの、心の奥底の願いから発せられているから。などと柄にもなく思ってしまう。人々の険しくなっていた表情が緩んでいく様を見れば、その効果を疑いはすまい。
自然体に見えるコウさんの姿に安堵するが、懸念はあった。彼女が助けた少年が、今も外套の内に匿われているのだ。恐怖で動けなくなっているのだろうか。然てしも有らず魔法で幾らでも遣り様があると思うのだが。幸い人々の興味はコウさんに向けられて、少年の存在は気に留められていない。
「現在、三国の城街地は危機に晒されています。すでに察した方々もいたことでしょう。昨日、我が国の宰相と竜騎士団団長が触れ回ったので、皆さまに概要は伝わったと思います。そして、竜の国のことも。ーー竜の国は、城街地のすべての人々を受け入れる用意があります。また、ストリチナ同盟国と交渉し、移住の際の安全の確約を頂いています」
一度、ゆっくりと目を閉じたコウさんは、その瞼の重いものを跳ね除けて、しっかりとした言葉で、身の内に溜まっていたであろう澱を赤裸々にしてゆく。
「私は、周辺五国の山奥の村で生まれました。生まれながらに、害毒でした。多過ぎる魔力で周囲を汚すだけ汚して死んでゆく。そんな、意味のない生命でした。なのに、そんな無意味な存在を救ってくれた人がいました。私は、この世界に留まることを許されました。ですが、私が生きているだけで、恩人は傷付きました。私の魔力が、傷付けました。
私が居るだけで、誰かが傷付く。それでも私は生き続けました。恩人が私を生かすことを諦めていない内に私が諦めてしまうのは、裏切りになると感じたからです。やがて、宰相と団長に出逢い、魔力を制御できるようになりました。二人が、何度傷付こうとも、恩人と同じく私の側に居てくれたからです。
今に至るも、魔力の軛から逃れられず、人の助けがなければ生きられない身ですが、望みがあります。私を助けてくれた人のように、私も誰かを助けたい。私を助けてくれた人が、私が生きていることを、私が居ることを喜んでくれるような、そんな私でいたい。
ーーでも、駄目でした。そう思っていても、強い魔法を行使できるだけの愚かな女には、何も出来ませんでした。そんなとき、ただ下を向いているしかなかった私に、進む道があることに、上を向いて歩いて行けることに、気付かせてくれた人がいました。
それが、竜の国を造り、王になることを決意した理由です。今も、私に出来ることを探し、模索し続けています。思うようにならず、失敗をしました。迷惑を掛けました。でも、もう、諦めることはしません。それを私が、私自身が決めたからです」
自らを落ち着かせようと深呼吸してから、コウさんは何も載っていない掌を、大切なものを捧げる繊細な挙動で、皆に差し出した。
「先程、私は銅貨と竜の雫を差し出しました。何故、そのようなことをしたのか。それは、わかり易く示す必要があったからです。今、皆さまの前には、竜の国という選択肢が加えられました。城街地を襲う不幸を回避するだけでなく、恐らく多くの方は、今より豊かな暮らしが出来るでしょう。一見眩く映るその未来は、それだけで手にしたくなるものです。
ですが、必ず掌から零れ落ちる人は出てきます。私の力の限りを尽くして、竜の民を護りたいと願っていますが、すべてに私の力が行き渡るわけではありません。竜の国へ来ることで不幸になる方がいるでしょう。竜の国になど来なければ良かったと、後悔し、憎み、呪うことがあるかもしれません。
皆さんには、自分の意思で選んで欲しいのです。自分で考え、自分で選ぶ。誰かの所為にするのではなく、誰かに委ねるのではなくーー、そうして自分で選んだとき、その責任はあなただけのものです。誰にも侵すことが出来ない、あなたの大切なものです。竜の雫などより遥かに大切な、その宝物を心に抱き、竜の国に来て欲しい。
私からのお願いです。皆さんには、私を、竜の国を助けて欲しいのです。魔法の力があるとはいえ、私は所詮ただの夢見がちな、愚かな一人の人間でしかありません。皆の助けがなければ、竜の狩場に国を造ることなど、とてもではありませんが叶いませんでした。今、竜の国には、百人ほどしか人が居ません。竜の国は、まだ国ではないのです。国ではないので、私は王さまではありません。皆さんに来て頂けなければ、竜の国は国になれず、私は王さまになれません。ですが、私は自分で決めました。竜の国の王さまになると。
幸せも不幸せも、あなたの選択の先にあります。幸運も不運も、誰のものでもありません、あなたのものです。行く先は途絶え、もがき苦しみ、後悔だけが残る、そんなことがあるかもしれない。でも、それでも、自分が選んだのだということを忘れないでください。その尊さだけは忘れないでください。
ーー私は、私たちは、皆さんと紡ぐ竜の国での日々を心待ちにしています」
上気した顔で彼方を見詰めていたコウさんは、思い出したように、少し慌てながら頭を下げた。三角帽子を被ると、照れ隠しなのか帽子を傾けて顔を隠してしまう。
言葉を継ぐほどに思いが募る。そんな彼女の言葉は、そんな王様の言葉は、人々に届いただろうか。願ってしまう。届くといい、届いたらいいな、彼女の思いが報われない、そんなことあるはずがない。ーーそうさせてはならない。
静かである。僕の勘違いだろうが、呼吸の音一つ聞こえない。きっと、それが答え。
おうさま、ではなく、王様、でもなく、彼女の語る、願いの発露からすると、王さま、とでもなるのだろうか。まぁ、時間はある、そこら辺はこれから見極めていけばいい。
最後までコウさんにお願いしたかったが、どうもそういうわけにはいかないようだ。仕様がなく前に出ると、居回りの「窓」が僕を映した。「窓」の向こうに、五万を超える人々が居るという事実に身慄いしたが、怯むことなど許されない。
「竜の国の侍従長、ランル・リシェです」
軽く頭を下げると、周囲が不可解にざわつき始めた。周囲、というのは、「窓」を通して僕を見ている人々を含んでのことである。「窓」を挟むことで、僕の特性による悪影響を緩和できるらしいのだが、いや、まさか、コウさんが嘘を吐くことなんて、そんなことはないだろうけど、勘違いしているとか、手順を間違えているとか、御茶目な魔法使い(おっちょこちょい)なので、そういうことはあるかもしれない。と魔法以外は、本当に普通水準かそれ以下だったりする女の子のことを考えていると、やはりおかしい、まるで僕の特性が強化されたような狂乱の前触れ。考えるより行動を優先したほうが賢明だろう。広場の最前列に居る者たちが、僕から一刻でも早く身を遠ざけようと、混乱を撒き散らし始めたので一喝する。
「ーー煩わしい」
声を荒らげるのではなく、腹から出す強い声で、人々を抑え付ける。
これは、やっぱり、そうなのだろうか。……然ても、後ろの二人。侍従長が予想以上に忌み嫌われていることを嘲笑するのはいいのだけど、周囲に気付かれないよう控え目にしてください。然て置きて、うーむ、何というか、奇怪、では言葉が悪いだろうか、妙ちくりんで変梃りんな、って、言葉はぐんにゃりしたかもしれないけど、意味はあんまり変わらないような。……はぁ、これはいけない、もっと有意義な方向に惟るとしよう。
本来であれば、人知を超えた魔法使いであるコウさんのほうが恐れられるはずなので、それを軽減する為に自分の虚像を作ってきたわけなのだが。明らかに、コウさんより僕のほうが怖がられて、序でに気味悪がられている。それも過剰に。
まるで目の前に邪竜でも居て、睨み付けられているかのよう。
竜にも角にも、騒動が起こる前に鎮静化できたのは重畳。見ると、サシスはその場に留まっていたが、サーイは群衆の最前列まで下がっていた。厳つい図体の割には肝が小さいようだ。まぁ、サシスのほうも顔は引き攣っているのだが。
「先ず身寄りのない子供や老人、傷病者から移住を始めます。竜の国に到着後、役目を務めるのに支障のない方は、その後遣って来る人々の案内役や説明役を担っていただきます。それから、現在の職、希望する職などによって、順次出発していただきます。
竜の国では、子供は全員『竜の学び舎』で読み書きを始めとした基本的な指導を受けることになります。仕事の後ということになりますが、希望すれば大人も参加できます。知る、ということは、本来、楽しいことです。多くを知り、多くを学ぶ。これまで機会が得られなかった方は、是非参加してみてください。それに伴い、読み書きが出来る方、より広範な知識を有する方には師範をお願いしたいので、初回の移動に参加してください。
竜の国に身分の違いはありません。王も竜の民も、等しく尊い命です。あるのは、役職と役目の違いくらいです。竜の国に貴族はいません。領地というものがないからです。竜の国の土地は須く『ミースガルタンシェアリ』様が支配すべきものです。僕たちは、彼の竜との盟約により、それを借り受け、使わせてもらっているに過ぎません。使用されていない土地の貸し出しや、有用地での所有者による金銭での売買は可能ですが、許可が必要です。詳しくは、竜の心臓にある翠緑宮と、竜の頭脳にある『竜書庫』に法律書を設置しておきますので、必要な方や興味がある方は確認してください。
補足は、この程度でいいでしょう。では、長老方、城街地より竜騎士団の隊員の候補を百人ほど選出し、彼らを中心に移住の手筈を整えてください。先程も言ったように、すべての者は等しく尊い命です。子供や女性、老人、傷病者を乱暴に扱う者がいたら、竜の国の王と宰相、竜騎士団団長と侍従長が許しません。長老方には、竜官に就いていただき、統治に協力、尽力をお願いします。差し当たり、こんなところでしょうか」
竜の国の長広舌を受けて、クラバリッタの長老だろうか、中央に立つ老人が応じた。
「ふむ。後ろの団長や宰相のような狼藉者ばかりと思うておったが、そなたらのような、もっとたちの悪い者がいるとはな。とりあえずは一安心だ。サシス、サーイ、お前たちが中心となり、打ち合わせ通りに、行動を開始するが良い」
長老の言葉に、綻びそうになった顔を引き締めようとして、いや、その必要はないか、とそのまま感情を表に出す。彼らは、もう味方である。対応を変えなくては。
様々な勢力や思惑が入り乱れる土地を取り仕切ってきただけのことはある。暴力などより恐ろしいものがあると、それを備えていることを安心と断ずる。彼らのような見識のある人たちが竜の国を支えてくれるなら、これほど頼もしいことはない。それに伴う危険は、今は考えない。竜の国の有様が、その為の猶予をくれる。
然し、妙な展開になってしまった。予定では、コウさんと長老方の対面、城街地の人々の、懸念の払拭や細かい説明、その後に竜の国としての、王としての願いを彼女に語ってもらうつもりだったのだが。結局、長老方の名乗りを聞くこともなく終了してしまった。
居回りの輪が解け始める。「窓」が役目を終えて、風に紛れるように薄れて消えてゆく。って、突然消えるのではなく、徐々に薄くなって消える、という仕様に変更されている。これなら、唐突に消えることによる後味の悪さはなくなるだろう。……本当に、コウさんの進化(?)は留まることを知らない。
「サーイ、来い」
サシスが僕たちに近付いて、後ろにいる棍棒男、もとい武器を何処かに捨ててきたらしい厳つい男に呼び掛ける。命令口調に顔を顰めたものの、サーイはばつが悪そうに、サシスより半歩前の位置まで遣って来る。
「あ、えー、なんだ、その、悪かったな、王様。その……、遣り過ぎちまって」
これがサーイの、最大限の譲歩なのだろう。あさっての方向を見ながら、一応の謝罪をしてくる。同性である僕には、サーイの気持ちが、まぁ、何となくだが、わかるのだが。男の微妙な心持ちが、果たしてコウさんに通じるだろうか。
「はい。事情はわかっているので、問題ありません。あれくらいなら、苦痛の内にも入らないので気にしないでください」
コウさんは、笑顔である。本心からの言葉で、サーイの行為も言葉通りに気にしていないのだろう。だが、それをどう受け取るかは、人それぞれである。自尊心だったり恐怖だったり罪悪感だったりが綯い交ぜになっているサーイの顔が面白いことになっている。
「俺は、ファタ・サシス。こいつは、ファタ・サーイ。誤解されるのが嫌だから先に言っておくが、完全無欠に他人で、何の縁もない。そういう繋がりで、昔から反りが合わない。俺は、長老の下の実行部隊のようなもので、サーイの奴は、ああ見えて、住人からそこそこ慕われる用心棒のような立場だった」「ファタ……なのです?」「縁起悪ぃなぁ」「ファタとは、そうくるか」「大丈夫です。御二人は何も悪くありません」
二人のファタには、意味不明なことだろう。冒険者組合の、氷焔を担当していた者の名など、知り得るはずがない。当然、コル・ファタの、軽薄で信用ならない性格のことも。
始めは、ファタさん、と内心でも呼んでいたが。彼は、人を使うだけ使って、自分では何もしないので、いや、別に用を熟すならそれでも構わないのだが、まぁ、心情的な面から、コウさんたちと同様に彼への人格云々の評価は地に落ちて、今では内心で、ファタ、と呼び捨てになっている。仮に口に出したところでファタなら気にしなさそうではあるが。
僕たちの感想に、目を丸くしていた彼らだが、反りが合わないという割にはぴったり同時に、コウさんに顔を向けた。釣られて、僕たちも彼女を、いや、正確には彼女の外套の中で動いているものに、失念していた存在に、関心を向ける。
ああ、すっかり忘れていた。そういえば、コウさんは少年を匿っているのだった。コウさんより周期が下で、みーより上、といったところか。サーイに追われていた子供と同じで、みすぼらしい風体だが、理知的な顔立ちが印象に残る少年だった。あの状況からして、子供たちを束ねる立場にいた者なのだろう。庇護を得られない城街地で、子供たちだけで生き抜いてきたとするなら、感嘆させられるのだが。然あれど、正しさとは別である。
少年は、言葉にしようとして言葉にできない、自分の気持ちをどう表現していいかわからない、そんなもどかしさを抱えながら、それでも伝えたいことがあるのか、喉から搾り出すように思いを口にしていった。
「王様、あっ、ふ、フィア様っ! あの、俺……じゃなくて、僕はっ、フィア様の役に立ちたいんです! 何でもしますっ、僕を雇ってもらえませんか‼」
体裁など一切気にしない、子供の純真さで、コウさんに希う。
僕は、気になって、サシスとサーイの顔を窺う。僕に見られていることを知った二人が、咄嗟に表情や態度に表れたものを糊塗する。彼らの顔にあったものは、一言で言うなら、嫌悪。だが、もっと根深いものがあるような気がした。
今度は、エンさんとクーさんが同時に視線を移した。何だか忙しないな、と思いながらそちらを見ると、少年の仲間なのだろうか、というか、いつから居たのだろう、ひっそりと立っていた。ともすれば、そこに居るのに見失ってしまいそうな希薄さがある。
「ギザマル、やりたいこと、みつかった」
顔に一切の表情が浮かんでいなかった。たどたどしい、抑揚のない言葉にも、人としてあるべきもの、何と言えばいいのだろう、暖かみのようなものを感取することは出来なかった。感情か、或いは情動が欠落しているのだろうか。容姿や声音から、女の子のようだが、それも確たるものとはいえない。僕とは違った意味で気配や存在感の薄い人間である。
然てしも少女が口にした、ギザマル、という言葉。どうやら、少年の名前であるらしい。
ギザマルとは、穀物を食い荒らしたり疫病を運んだりと、害獣扱いされている小型の動物である。一説では、魔物との混血であるとされている。然く獣と同じ名で呼ばれているとなると、何か理由がありそうなものだが。
これは慎重に扱わなくてはならない。と物案じしていたら、コウさんが正面から喜び勇んでギザマルに突っ込んでいった。それも、なぜだかわからないが、みーと一緒にいるときと遜色のない水準で心安く接している。嬉しそうに、うきうきのるんるんである(おうさまがわらえばふくきたる)。
「ーーギザマル。その名前に愛着があったり、誇りを抱いたり、その名前でなければならない理由などはありますか?」「あ、と……、いえ、そんなことないけど、……あ、ありませんけど。あの、その、別に名前なんて、わかるならどうでも良かったし……」
コウさんの勢いに気圧されながらも、一生懸命に答えるギザマル。
「それでは、私があなたに名前を付けても良いですか?」
「ぅえ? そ、それは、構いま……せんけど……」
顔を近付けられて、澄んだ翠緑の瞳の直視を喰らって、異性というものを意識し始める周期頃の少年は、たじたじである。だが、そんなものはお構いなしに、少女は断言する。
「決まりなのです。あなたは、今日からシアーーシア・ファウ・フィア。シアは、今日から私の弟なの!」「ーー、……え?」「えいっ!」「ぅお! ぉい⁇ ぃう⁉」
ギザマル改め、シアの名を戴いた少年を抱き寄せて、胸に掻き抱くコウさん。よくわからないが、ぽかぽかの太陽のような笑顔のコウさんは、この少年が甚く気に入ったらしい。というか、気に入った、で済ませていい問題なのだろうか。見ると、お日様の光を浴びたのか、エンさんとクーさんも笑顔である。ちょっと困った感じのものではあるが。
「シア、という名前は、もしかして」
二人に振ると、それぞれ肯定の意を示した。彼らの出身の村では、一風変わった名前の付け方をすると前に聞いたが、どうやらそういうことらしい。恐らく、コウさんの家系では、男の子が生まれたら女の子の名前を、女の子が生まれたら男の子の名前を、という奇妙な、当人たちにとっては真剣な、名付け方をしていたのだろう。
本当なら、シアと名付けられるはずだった女の子は、ある意味、自分の片割れとも言える名前の行き先が決まって、何事かとこちらを見遣る人々の表情までぽかぽかにしてしまうくらいの喜びようなのだが。ーーそろそろシアが危ないのではないだろうか、と心配になってしまうが、水を差すのも何だし。いっその事、水竜でも現れて、水浸しにしてくれればいいのに、などと思ったりもするが、きっと日差しが強いので寝床で涼しさを満喫しているのだろう。って、水竜の妄想で頭を冷やしたり和んだりしている場合ではなく、シアのことである。このまま気絶するのではないかと思うほどの、羞恥と混乱の坩堝に揺れる少年は、あに図らんや幸せの過剰攻撃からするりと逃れると、
「シーソ。後は任せて大丈夫か?」
表面だけ取り繕って、仲間のーーシーソという子に聞く。
「もんだいない、みんなつれてく、ギザマル、じゃなくて、シア、おーさまとなかよくする、じゃなくなくて、おーさまのやくにたつ、さいごまで、きちんとやる」
言い終えると、シアの存在を忘れてしまったかのように、何の感慨も残さず去っていった。そして、か細い姿が人込みに消えると、記憶からも消えてしまう。そんな錯覚を抱きそうになって、シーソの姿を思い描こうとするが、いまいち上手く像が結ばない。なんだか気になる子だが、いずれまた会うこともあるだろう。ふぅ、と呼吸一つで切り替える。
さて、シアは慣れた動作でコウさんの束縛から逃れた。コウさんが抱き締める腕の間に手を入れて、隙間を作ると同時に、流れるような動きで体を抜いた。体の使い方、というものを感覚で理解している者の所作だ。子供を助けようとして、サーイに遣られそうになっていたが、正面から、武器を持って闘えば、サーイより強いのではないだろうか。
「っ!」「む~? 逃がさないの!」「っ?」「ぎゅ~」「っ⁉」「むぎゅ~」「…………」
再びコウさんに掴まって、今度は魔法が使われているのか、色んな意味での攻撃に敗北したシアに同情してから、頭上を見上げる。う~ん、嫉妬してなければいいけど。「隠蔽」で城街地の人々から見えなくなっているみー。魔法が効かない僕には見えるのだけど、巨大化して上空を飛び回っている炎竜を、老婆心から心配してしまう。
見た限りだと、問題はなさそうだけど、気を配っておかないといけないかな。あはは、然ても然ても、竜を心配する、そんな日々が遣って来ようとは夢にも思っていなかった。里を出た頃なら、一笑に付していただろうことが、今や現実に、日常になっている。
竜を心に住まわせるだけの余裕が出来て、自分の状態に心付く。体が、心が弛緩したのがわかる。はぁ、まだまだだな。余計なところに力が入っていたらしい。まぁ、それでも上手くいった、とまだ断言など出来ないが、及第点はやってもいいだろう。偶には自分に甘くないと、人生が辛くなる。僕を甘やかしてくれる兄さんは居ないので、ときどき自分を認めてあげないと。そうは見えないかもしれないが、これでも気苦労が多いので、それを解消する為の術は必要なのである。然あれば一番の難関であった城街地への要請を終えて、心に溜まったよくわからないものを、人知れず長い長い呼気と共に吐き出すのだった。
「っ! ちょっと行ってくるの!」
ぴくんっ、と何かに気付いて、みーの頭から飛び出すコウさん。シアは慌てて彼女を止めようとするが、エンさんに首根っこを掴まれて、三人目の落下にならずに済んでいた。
城街地からの帰還、いや、帰宅と言ったほうが正しいか。その途上、半ばに差し掛かった辺りである。今日の予定は城街地への訪問だけ。馬車や、それを扱う人員等、後の手筈は整っている。城街地の内側では、長老たちが選出する竜騎士(になる予定の人々)が、竜の国まではエルネアの剣隊と黄金の秤隊が。護衛と引率を逐次行ってくれるだろう。
「さーう? こーはなにしにいったのだー? みーちゃんもいくかー?」「あー、あれだ、食材捕りにだなぁ、見つけちまったってわけだ」「はっけんはっけんだいはっけん?」「がきんちょん為ん、あれを。運悪く、いや、運良く発見したということ。ちび助ゃ歓迎したいんだろう。って相棒が言ってんぞ」「おー、よくわからないけど、よくわかったのだー?」
みーの疑問に答えようとするが、二人とも歯切れが悪い。いや、これには覚えがある。氷焔に所属してから五日目の夕飯のときだったか、肉を葉っぱで包んだ魔法料理があったが、その肉が何の肉なのか尋ねたとき、同じく露骨に動揺していた。
そして、クーさん。案に違わず「結界」に引き篭もりだが、今度の代弁者はエンさんのようだ。今回も口だけは、ぶつぶつと何かを呟き続けている。
「まー、それよりもだ、任せた、こぞー」「くーはくー?」「こぞー。がきんちょん処遇。確認が必要。って相棒が言ってんぞ、ってめんどくせーっ! やってられっかーっ‼」
二人とも、話を逸らしてきた。僕に押し付けようとする、その魂胆はいただけないが、この場で適任なのは確かに僕である。然てしもエンさんは二回で限界なようである。竜を引っ繰り返す勢いで投げ出してしまった。まぁ、好悪の問題というより能力的なものだろう。クーさんには引き続き、綺麗で偏屈な、囀る置物でいてもらうことになった。
「シア。君に尋ねておかなければならないことが二つある。僕らの意に沿わぬ場合は、フィア様がいくら望もうと、コウさんの側に在ることを許さない」
嘗て、僕はエンさんとクーさん、老師に試された。コウさんの側に置くに値するのかを。そして今度は、試す側に回って、シアを見定めなければならない。
「フィア様の側で働きたいと望んでいるようだが、何故そう思ったのか、答えなさい」
敢えてきつい調子で問う。シアは、真剣な眼差しで見詰め返してくる。そこに、偽りがあるのではないかと探っている自分が滑稽に思えてくるほどに強く、願いを灯した瞳。
危ういな、と思った。一所を見過ぎれば、周りが見えなくなる。だが、子供にそこまで求めるのは酷というものだろう。
「フィア様は、僕を助けてくれた。あの人は、凄い人だ。でも、それだけじゃない……、そうじゃなかった。フィア様は、僕に言った。『お願いします。支えていてください』って。手足が震えて、今にも崩れ落ちそうになりながら、それでも外地の奴らに、あんな奴らに、思いを伝えようとしてた。あの人は強い人だけど、弱い人だ。……僕に、何が出来るかなんてわからない。でも、あのとき、近付きたいと思った。フィア様がやろうとしてる、見えなくて眩しいところに、もう一度、一緒に行きたい、そう思ったからだ」
シアの言葉が、決然とした眼差しが、僕に突き刺さる。そこに、コウさんの、翠緑の瞳の輝きが重なる。どこまでも一途に、人を、誰かを想ったーー。
「ーーーー」
思い違いも甚だしい。僕は、何を見ていたのだろう。何を見てきたというのだ。コウさんが有りっ丈の勇気を振り絞って、あの場に立っていたことを知っているはずだった。
コウさんには、独りでも歩める、皆を引っ張っていける、それだけのものが秘められていると確信していた。いや、ボルンさんが言っていた。ーー妄信なのだ。見るべきものから目を逸らして、ただただ彼女を信じているだけだった。自分一人だけでは立っていられない、誰かの助けがなければ向き合うことも出来ない、そんな状態で彼女は、城街地の人々に、自分自身に、立ち向かい続けていた。そんなことに気付けない者が、知った気になって、彼女を応援していた。無責任に追い立て、抛り出した。
……自分の未熟さが恨めしい。胸を掻き毟りたくなる。いつかまたこうして、見なくてはならないものが見えず、力及ばず、失敗することがあるかもしれない。それは小さな失敗か、或いは致命的なものであるかもしれない。覚悟は決まっているはずだった。だが、どうだろう、一々こんなことで凹んでいる。また失敗するかもしれない、それを思っただけで怖じ気付いている、思い知らされている。
何が、シアを試すだ。そんな資格なんて僕には無いだろうに。
シアが次の問いを、わずかたりとも気を緩めることなく、待ち受けている。
「えっと……」
二つ目の問いは必要ないだろうが、二つあると言ってしまった手前、引っ込めるのも何だし、質しておくことにしよう。
「噂や伝聞で耳にしていると思うが、フィア様は卓越した魔法使いだ。そのつもりがあれば、城街地どころかストリチナ同盟国を丸ごと火の海で覆い尽くし、氷の静寂に沈めることが出来る。その意思が、その力が、その魔法が、いつか自分に向くかもしれない。君は、それが怖くはないのかな?」「怖くなんてない。だって、フィア様はそんなことしない。あの人が見詰めている未来にそんなものなんてない。絶対に違うって信じられたからーー」
願いというより、祈りに近いのだろうか。至純で輝かしい。僕には眩し過ぎる。これほどの信頼を寄せられたら、僕ならどうなるだろう。
コウさんが心配になってしまう。彼女は、無垢な少年のこれだけの想いを受けて、重荷に感じたりしないだろうか。とそこまで考えて、彼女のことを顧みて、甘心した。
ああ、それで、弟なのか。シアは、彼女の身内に、家族になったのだ。エンさんとクーさんと同じ位置まで、一気に引き上げた。そうしないと、コウさんは、シアと接することが、少年の想いを受け止めることが出来ない。
前々から思っていたが、やはり、そうなのだろう。極端なのだ。融通が利かない、とも言う。序でに言うと、不器用。人との接し方が下手で、熟れていないから、相手との関係性を曖昧なままに留め置くことが敵わず、単純なものにするしかない。
然てしもコウさんの交遊にまで気を配るなんて、あー、えー、僕の仕事、って何だったっけ。あ、でも、役職は侍従長だから、強ちやってることは間違いじゃないのかな?
「ってーことん合格ぅー。何だかんだで、俺らぁ目標ん六人達成ってわけかぁ」
この場の責任者の裁定が下る。僕が自省の念に駆られているのを尻目に懸け、いや、これはさすがに偏見か、笑顔の見本市にでも置いてありそうなエンさんの陽気さである。
「俺、相棒、ちび助、ちみっ子、こぞー、がきんちょ。はっはっはっ、揃いん揃ったりー、氷焔は永遠に不敵だぁ!」
違っているようで間違っていない言い様である。然ればこそ、何度かそう呼んでいたが、シアの渾名は、がきんちょ、で間違いないようである。
「みゃーう、ふてきにむてきにすてきーなのだー!」
誌的に知的に美的ーーと内心でみーに追従してみる。……うわ、思ったより恥ずかしい。口に出さなくて良かった。
「竜の国に着くまでに、必要なことを覚えてもらおうかな。先ず覚えなくてはならないのが『ミースガルタンシェアリ』という役職に就いている、みー様。因みに、世界の『守護竜』であるミースガルタンシェアリは、世界に還ってしまったから、間違えないように」
氷焔の、コウさんの側に居るというのなら、知ってもらわなければならないことが、わんさかある……あ、みーのがうつってしまった。あれ、僕って、こんなに人の、というか竜の? 影響を受け易かったっけ? 話法なんかは、兄さんを真似てのもので、もともとの自分の話し方なんて覚えていない。出来れば、兄さん以外の色を混ぜたくないのだが。
竜にも角にも、シアにはこの世界の秘密を、たんまり頭の中に注ぎ込んでやらねばなるまい。然てまた僕の精神の健康の為にも、よくわかる憤懣と何だかよくわからない鬱憤ごと、彼に知識の岩塊を叩き付けることにしよう。では、注意喚起から始める。
「エンさん。耳を塞いでいおいたほうがいいですよ」
エンさんは、物理的に声が届かないところまで、みーの尻尾の先っちょまで遁走した。正確には、先っちょはみーが擽ったかったらしく、先っちょーーうぐぅ、まだみーの影響が抜けていないのかーーではなく、先っぽのちょっと手前だったが。というか、エンさん、みーの体が揺れるので、みーの先っぽと戯れるのは止めてください。
見えているのに見えていない。聞こえているのに聞こえていない。別に哲学的なことを言っているのではなく。ただ、脳がそれを感知することを拒んでいるようなのである。
「鮮度が命なので、生きたまま持ってきたのです」
みーに乗って、竜の国に着陸した僕たち。時を同じくして、コウさんも帰着。そして、彼女が魔法で持ち帰ってきたのが、巨鬼より大きな、もよもよでごわごわでめらめらな、この世の物とは思えない物体、もとい謎生物だった。それは蠕動しながら地を這い蠢き続けて、耳を狂わせて尚混乱を撒き散らす叫び声のような騒音を垂れ流していた。
「みーちゃん、お願いします~」「はーう、みーちゃんいっくぞー!」
「人化」で人の、子供の姿になったみーが助走を取って、謎生物に駆け寄って、
「りゅうのどっかんっ‼」
殴った。普通に殴りました。白いような紫色のような生物らしきものの半分が吹き飛ぶ。
「ふーう、まだまだーまだーんまだーん、いっくのだー!」
今度は前回よりも距離を取って、素晴らしい速度で目標に近付いてゆく。
「りゅうのどっすんっ‼」
転っと半回転して、みーの可愛いお尻が、まだ動いている謎生物の大半を削ぎ取る。
「さぁ、みーちゃん、止めです~」
コウさんの声援に、元気とやる気が有頂天に無限大に突き抜けるみー。
「みぎてにほのー! ひだりてにほのー!」
適度な距離を置いて、みーの必殺技(?)が炸裂する。
「りょうてあわせてー! でっかいほのーなのだー‼」
みーの手から放たれた、とてもでっかい炎が、食材の、肉のような物以外を焼き尽くす。
ーーこうしてコウさんとみー以外の、普通の、一般的(?)と言っていい感覚を持つ残りの四人、いや、三人は、認識と感覚の邪竜絵図の消失とともに自己を取り戻すのだった。
「エンさん、クーさん。僕は、軽く考え過ぎていました。心よりお詫び申し上げます」
「侘びはいらない。世の中の真実を知った人間には、祝福を得る機会が与えられる」
同じ体験をした者同士が慰め合う。それと、残りの一人であるところの、シア。目の前の凄絶で凄惨な光景が受け入れ難いのはわかるが、なるべく早く復帰するように。
「これは、天敵に対して使われるものだったのです。でも、天敵がいなくなって、使われることがなくなったのです。使われずに固まったもの、それがこれなのです。必要なくなったこれは、いずれ生成されなくなると思うのです。なので、期間限定の珍味なのです」
嬉々として解説をするコウさん。最高の食材でシアを迎えられるので大満足のようだ。
「クー姉、お願いなの。私は、シアの着替えと、あと部屋の案内をしてくるの」
謎肉と、それを包む葉っぱをクーさんに手渡すと、コウさんは竜の世界へと精神を旅立たせてしまったシアを抱えて、「飛翔」の魔法で飛んでいってしまった。
僕たちが居るのは、竜の狩場に来てから最初の拠点にした、石の卓がある場所である。皆で食べるときは、自然とここになることが多かった。今では、遥か彼方まで平坦な大地が続いていたことを思い起こすのは難しい。ここは、巧まずして竜の腹にあるので、竜の背中を望めば、家屋や施設が視界を塞ぐことになる。
もうここは竜の都であり、あと二巡りもすれば、人の声に溢れる場となるのだ。
「みー、お疲れ様。もう大きくなる必要はない。リシェ、避けずにいること」
クーさんの言葉は不親切で、いや、不案内のほうがいいだろうか、色々なものが省略されていた。然あれど、みーにとっては炎竜の真炎のように灼然たるものであったらしい。
「おーう、りょーてのまほーじん、もーいらないー?」
両手を高々と掲げるが、みーのおててに変わったところはない。みーの言う、まほーじん、とは、魔法人という新種の生き物ではなく魔方陣、以前クーさんが口を滑らせた、現行の魔法とは体系を異にする術式。恐らく、コウさんが魔法的な何かを、みーの手に施したのだろう。どんなものなのか好奇心が疼くが、残念ながらコウさんはいない。
「たーうっ、やーうっ」「クばっ、びぉぇっ」
クーさんに説明を求めようと口を開いたところだったので、変な声が出てしまった。みーの右の平手打ちが僕の左頬を強襲して、次いで左の平手打ちが同じく左頬に追い討ちをかける。二発目はよく見えなかったが、転と一回転しつつ、連続でお見舞いしてくれたらしい。となると、左手は平手打ちではなく、旋回して手の甲で打たれたのかもしれない。いや、違うか、魔方陣を消す為に、掌を僕にくっ付ける必要があったはず。然あらば関節に無理を強いて打ったのかもしれない。見ると、着地したみーに痛がる素振りはない。
「ひゃーう、きーえたーのだー」
言いながら、みーが再び飛び上がる。今度は僕の右頬が目標のようだ。もう魔方陣は消えたはずなので、かなり痛い連続攻撃を食らわねばならない理由はない。糅てて加えて先の連撃は、魔方陣が緩衝材となって威力が殺がれたと思われるが、次撃は手加減してくれる、なんてことはなさそうなので、鼓膜が破れたり歯が折れたりなどといった被害が想定されるので。然れどみーと接触できる少ない機会を逃す手はない。というわけで、一撃目を回避、そして二撃目に合わせて体勢を整える。背中を見せているみーの右脇に時機良く手を差し入れて、その感触を味わいながら、ぐるりと回転速度を速めてやる。
「みゃーう? ぐるぐるーくるくるーぐむぐむー、ぅみーぅみー……」
空中で回転しながら地面に下りて、石畳の上でも楽しそうに回っていた。体幹がしっかりしているのか、竜の基本性能なのか、綺麗に回っていたが、回転が止まると体が傾いだ。
ほやほや~、と出来立てみたいな言葉を漏らしながら倒れるみーを、クーさんがしっかと受け止める。そして、ぽやぽや~、とみーが目を回しているのをいいことに竜の国の宰相は、可愛がり領域の開拓に突入である(へんしつしゃもといにんげんしっかく)。竜に対する不敬罪、もとい不潔罪が適用、って、そんな罪咎などないだろうが、いや、史書を繙けば、そんな風邪を拗らせたような、すっとこどっこいな罪で人を裁いた者が居たかもしれない。まぁ、彼女の犯行(?)を見逃してあげる代わりに、説明だけはしてもらうことにしよう。と目で訴える。
「リシェに触れて、魔方陣は消滅。魔方陣は、みーが大きくなる為に、コウが仕込んだもの。巨大化と『結界』。みーが大きくなるのは、本来、不自然なこと。巨大化の弊害を抑え込む『結界』も必要になる。必要なくなったのなら、早々に解いたほうが良い」
クーさんが説明してくれる。説明してもらったのだから、見逃さなければならないのだが、……ああ、駄目だ、これは。クーさんの振る舞いは、ちょっと正視できるものではなかったので、僕は後ろを向いて、見逃すのではなく見忘れることにした。
然てこそエンさんのように平然としていられない僕は現実逃避を始める。
「静かだからこそ熱く、寂しげだからこそ燃ゆる、世界を拓くは今を措いて他なし」
と、誰も聞いていないのをいいことに、普通に声に出せたらいいのだが、……小心者の僕は、風が聞き耳を立てなければ届かないくらいの小さな声で、世界に馴染ませる。
予定外のことでも起こらない限り、みーに乗って竜の国から出ることは当分ないだろう。これからは、竜の国に遣って来る人々への対応でてんやわんやになるはずだ。
人の居ない寂しげな都の陰影が、少し違って見える。予感に震えている。僕の願いや期待が、そのように見せている。それは暖かくも熱い、酷く心地良いものだった。
「クー姉。シアの服を作って欲しいの」
右にみー、左にシア。長椅子の真ん中で、コウさんは笑顔満面である。二つ目の太陽が現出したみたいに、ぽっかぽか。王としての役目を果たして、肩の重たい荷を降ろせたからだろう。実際には、ここが始まりであり、今はまだ、その始まり自体が成功したかもわからないのだが、この場でそんなことに言及するのは、野暮というものである。
戻ってきたシアは、とりあえずというか、緊急避難的措置というか超法規的措置というか、コウさんの服を着ている。ちょっと心配したが、男でも着られるものだったので、一安心である。いや、コウさんの趣味を疑ったわけじゃないですよ? いくら、姉がああでも、妹までそうだとは限らないじゃないですか。って、どうも言い訳する癖がついてきてしまっているような。いや、後ろめたいとかそういうわけじゃないと思うのだけど。
「そーいやぁ、がきんちょ、何やんだ?」
「あ、その、情報を集めたりとか得意です。外地では、そうやって生き延びてきた、じゃなくて、きました。竜の国では外地の人間が多数になると思うので、奴らに慣れている僕が役に立てることがあると思います。シーソや子供たちも手伝ってくれます」
借りてきた仔猫、というよりも、借りてきた仔犬、といった趣。因みに、借りてきた竜、という形容ーーこれは遣って来た人があまりに掛け離れた身分だったり強さだったりした場合に用いられる。つまり、駆け出しの冒険者が危険に遭遇して、助けを呼んだら、氷焔が遣って来た、みたいな状態を指す。などと取り留めのないことを考えながら、シアの様子を観察する。あのシーソという無表情の女の子との遣り取りを見た限り、彼は周期に不相応の自若とした印象があるが、同時に相応の勝ち気な性格でもあるようだ。今は、緊張からか、がちがちだが、まぁ、この面子では萎縮してしまっても仕方がないだろう。
「そうですね。シアーーいえ、シア様の立場は、王弟殿下ということになります。フィア様が国を離れられたとき、国を預かる役目を担っていただきます。当然、コウさんが飽きて王様をやりたくなくなったら、シア様に竜の国の王になっていただかなくてはなりません」「ーーっ」「……っ‼」
茶化して言ってみたが、看過できないコウさんが上目遣いで睨み付けてくる。彼女が怒ったのは、飽きて王様云々、の部分だろうが、シアには、その後の台詞が響いただろう。寝耳に水竜の話で、由々しき現状に気付いて、青天の炎竜といった体だ。
上手くいったようだ。コウさんの意識は僕に向いて、シアの葛藤に気付いていない。今更、シアを弟にしたことを彼女が撤回するわけがないので、それを踏まえた上で言うべきことは言っておかないと。然らずば僕はただの道化になってしまう、ということで続ける。
「そうですねー。みー様が代わりに王様をやるって手もありますねー」
コウさんを煽って、シアが平静を取り戻すまでの時間を稼ぐ。
「むーう? みーちゃんおーさまだと、こーなになになのだー?」「そーなっと、ちび助ゃ王妃で、ちみっ子ん仲良しって寸法か?」「くっ、コウが王妃だと! ならあたしが王になるしかないではないか⁉」「わーう、おーさまそーだつぼっぱつなのだー!」
しっちゃかめっちゃかになったが、みーが笑えばコウさんが喜ぶ、ということで「竜笑作戦」は成功。その間にシアのほうも、内心の混乱はそのままだろうが、表面を取り繕うことに成功していた。然しも懸命で健気な姿を見せられると、兄さんと過ごした日々が思い出されて、絆されそうになってしまうが、事はそう単純ではない。
現況、竜の国はコウさんが王様でないと成り立たない。シアやみーのことは、本気で持ち出したわけではない。それを言ったら、エンさんは王兄だし、クーさんは王姉である。ただ、継承順位からいったら、フィアの名を戴いたシアのほうが二人よりも上なのである。それだけは、コウさんだけでなく、シアにも知っておいてもらわなくてはならない。
妙な事態にはなったが、そんなに急ぐ必要はない。シアに何ができるのか、何がしたいのかは、追い追い確認していけばいい。最悪、コウさんの側に居てくれるだけでもいいのだが、それはこの少年の誇りが許さないだろう。彼は、コウさんという王様の支えになりたくて、助けになりたくて、竜の国に来たのだから。
然ても、先程から好い匂いが漂ってきて、そろそろ思惟の湖で泳ぐのも億劫になってくる。クーさんが焼いた薄くて柔らかいパンが、石の卓に置いてある。普段なら、あとは謎肉が焼き上がるのを待つだけだが、今日はシアを歓迎する午餐なので、いつもより豪華である。他に魚料理や果物まである。
「竜の狩場自生の、炒めたら甘くなる食材。それと芋を細かく刻む。二つを混ぜ、丸く伸ばしたら、あとは焼く。塩と胡椒、香辛料を使った辛目のものと二種類ある」
説明しながら、薄く伸ばした円盤状の種を真上に抛ってゆく。それをコウさんが魔法で宙に留めて。すべての準備が整ったら、最後の仕上げである。
「なーう、いっくぞー」
ぼはぁ、とみーが炎の息吹。一気に表面を焼いてゆく。
「裏返しです~。みーちゃん、もう一回です~。弱めで長め~」「よわわ~ななが~」
ぼふぁ~、と弱火でこんがり、好い焼き色である。
「竜の実で作ったジャム。そら、みー、味見」
瓶からジャムを指で掬い取ると、みーの前に差し出す。あむっ、とクーさんの指がみーの口腔に。クーさんの企みは成功して、みーに指を舐められてご満悦のようである。
血を吸われたときに感じたが、ざらついたみーの舌は確かに、こう、擽ったいというか何というか、気持ちはわからなくもないのだけど。ほら、シアの目の色が変わって、駄目な人を見るものになってますよ。まぁ、クーさんの趣味や痴態は、いずればれることだし、益体無しとされても自業自得ということで。少年特有の潔癖さ、或いは周期頃の女性への幻想をぶち壊した罪で、宰相は王弟から、しばらく色眼鏡で見られることになるだろう。
「腹いっぺぇ食って、今日くれーぐーすか寝っぞー。どーせ明日からぁ、こぞーんまた扱き使ってくんだろーしなぁ」「そも、エンさんは竜騎士団の団長で、二百人ほどに増えた団員を指揮する立場です。竜の国への移住に際し、安全面から考えても、最も重要な役を担っているんです。むしろ、僕たちの中で、一番忙しいと言っても過言ではありません」「がーっ! 寝るー、休むー、さぼるー、遊ぶー、どこいった、俺んぐうたら人生ーっ!」
竜の国の重鎮になる予定の、夙にその勇名を世に知られた「火焔」が、駄々を捏ね始めた。思い返してみれば、冒険者の頃のエンさんは、お気楽で、仕事をしているというより遊んでいるといった風情があった。だが、世の中そんなに甘くない。クーさんの、魔力で程好く強化された鉄拳制裁がエンさんを黙らせる。
魔法料理が完成して、前回同様に卓の真ん中で謎肉が切り分けられてゆく。
気を抜くや、明日からの成さねば成らぬ事項で、頭の中が埋め尽くされる。
斯くの如く異なる種類の役目で、より一層忙しく、腐心するに、今日ほどに頭を空っぽに、皆で楽しまねばーー。
……これは、うん、駄目だ、嗜好が、もとい思考がわやくちゃだ。
然ればこそ、頭の中を陽気なみーで埋め尽くしてみるが、敵もさるもの引っ掻くもの、陰気で厄介で埃が溜まっていそうな面倒で煩わしそうなものを、ーーふぅ、はぁ、ん……。
「…………」
がぁー、うがぁーっ、もう知ったことか! もう、もうっ、疲れた、疲れ捲り、疲れ祭り! こんな疲れてるのに気苦労から離れられないとか、これは良くない、とても良くないっ、エンさんに倣って気分的に我が侭三昧だ! 僕の中にあるこの碌でもないものは、ぜんぶまとめていっきに、みーの炎で焼き尽くされてしまえ!
「はーう、たべまくりのみーちゃんなのだー! りゅーのおなかはじゅんびかんりゅ~!」
みーの、空の雲さえ食べ尽くす勢いの食欲は、シアの歓迎という建前(?)を、完全に、激烈に駆逐してしまったようだ。みーの言葉を合図に、皆が一斉に手を伸ばす。
ーー大いに食べ、皆ではしゃぎ、気付けば、地面に横になって眠っていた。そういえば、今日はコウさんの「やわらかいところ」を刺激していなかった。まぁ、一日くらいなら不精してもいいだろう。今は、穏やか過ぎる微睡の誘惑にとてもではないが勝てそうにない。
風が優しくて、いい感じに肌を撫ぜて、心を緩めてくれる。はずだったが、やわらかいものが落ちてきた。予期せぬことで、かなり痛い。鼻血が出てくる。まぁ、眠っているので、みーにも、みーのあんよにも責任はない。でも、このままでは、ちょっと気が済まないので、みーの足の裏を、ちょこちょこっと擽ってやる。あ、みーが悶えている。
「~~~~」「ーーーー」「…………」「~~~~」「……、ーーっ⁉」「…………」
それを偶々目を覚ましたコウさんに見咎められて、酷い目に遭わされるのだが、お見苦しい点が多々あると思われるので、そこは割愛いたします。