四章 周辺国と魔法使い 前半
四章 周辺国と魔法使い
すべてを置き去りに、ぐんぐん高度を上げてゆく。みーの力強い羽ばたきが、風を、大気を、魔力を切り裂いて、律動の波動が駆け抜ける。足下から、角に掴まった手から、そこにある空気から、炎竜の命の息吹を伝えてくる。近くにあるものは飛ぶように過ぎ去って、遠くにあるものでさえ刻一刻とその景色を鮮やかに塗り替えてゆく。
世界が眩しい。初めて見る世界の一幕に僕の心は震えた。
これは竜の景色である。竜でなければ、天空の輩でなければ拝むことが出来ない絶景。
「ははっ、ははははっ!」
自然に笑いが込み上げてくる。堪らず、僕はみーにお願い、というか、嗾けた。
「みー様! さぁ、そのまま雲の中まで行ってしまいましょう!」
ぶふぅー、と盛大な鼻息が答えだった。なれど、今の僕を舐めてはいけない。
「みー様! たんまりお土産買ってきました!」「わーう! とつげきーなのだー!」
現金なみーはさておき、急角度で、素晴らしい速度で飛翔してゆく。加速して加速して加速して、風の悲鳴さえ振り払って、わずかたりとも失速することなく、濁った白い雲を、空の障壁を突き破るーーはずだったが、実際には雲の表層を陥没させることになった。
「はぁふぁっ⁉」
ぱあぁっ、と空気が破裂したような音が劈いて、みーが減速する。またぞろひしと角に抱き付いて視線を巡らすと、みーの周囲が球形に取り囲まれていた。いや、刳り貫かれた、と言ったほうが正しいのか。
くぅ、尋常ではない現象に頭が混乱する。球の外は、白という白が入り乱れて、急流のように後方に流れてゆく。みーが進んでいるのか、実はみーは止まっていて、雲が吹き付けてきているのか、視界から得られる情報だけでは錯誤を犯してしまいそうだ。
白に溢れた世界で、自分が何処に居るのかさえ忘れてしまいそうになる。
これは「結界」なのだろうか。コウさんを見ると、露骨に顔を背けられたが、魔法に関することなので、ちゃんと説明してくれるところが彼女らしい。
「みーちゃんを『結界』で囲んでるのです。私たちが風とかで吹き飛ばされたり損傷したりしない為なのと、みーちゃんが真っ直ぐ速く飛ぶ為の補助をしてるのです」
はたと気付く。みーに乗って高速移動しているというのに、高揚して熱くなった頭と体に心地良い、強めの風が吹き付けているだけなのだ。本当なら、強風というより烈風並みの風に晒されて、飛ばされないよう角に齧り付いて、会話を交わすことすら儘ならなかっただろう。ふむ、「結界」を張っているのに、結界内でそれなりの風が吹いているのは、何か理由があるのだろうか。完全に外部から隔離しているわけではないようだが。
「おっちゃんとこ行くとき、ちび助ん一回『結界』解いてもらったんだけどなぁ、うん、ありゃあ駄目だ。ちみっ子ん助けてくれんかったら、やばかったなぁ」
……飛行中の竜から落ちた人間は、もしかしたら有史以来初めてなのではないだろうか。そんなことを想見していると、雲の白が儚くも劇的に消え失せて、世界が一変した。
「うあ……」
鳥肌が立った。あまりの光景に、追い付かない。ここがどこなのか、わかっているはずなのにわからない。太陽の眩い光が空の境界まで、濃さを増しながら、どこまでも青くて、藍くて、碧くて、空の色で、天の色で、真空の色で。眼下には、果てなく雲の海が広がっている。幼き時分の、見下ろされた山々が脳裏に甦る。世界には、空と雲と、風と太陽しかなくてーー、若しや神々の御許に迷い込んでしまったのだろうか。
ふと魂の底から応えのようなものが、これは憧憬だろうか、いや、懐旧に近いのだが、然しもやは記憶にない情景に懐かしさを抱いて、眇々(びょうびょう)たる身を嘆くなど。何もないようで、すべてが揃っている、そんな光景に、涙が零れそうになる。斯くの如く誘うは心魂のいかなるところから発したものなのか、その行方を辿ろうとして。大きくなっても、やっぱりみーはみー、麗しの、もとい愛らしの炎竜の率直な感想を聞いて、敢えなく頓挫する。
「ふぁはぁー! しろしろもっくもっく、うみうーみーっ‼」
みーが絶叫する。然しもの竜の咆哮を持ってしても、この世界ではあまりにちっぽけで、最果ての空も雲の海も、限りなく遠くて大きい。
みーは雲の海を渡って、ときに潜ったり跳ねたりしながら、空の航海を楽しんでいた。みーが立てる音以外に何も聞こえない。本当の意味での静寂とは、この場所にこそあるのではないだろうか。などと、柄にもなく世界の神秘に思いを馳せる。
然てしも有らず、悪戯っ子なみーに揺られながら、心行くまで色彩に万化する蒼天と火輪の世界を堪能して、僕は後回しにしていた事案に触れることにした。
「クーさんは、何をしているんですか?」
大凡の察しはつくのだが、案外重要な役目を負っているかもしれないので、きちんと言葉で質して把握に努めることにした。いっそなおざりにしておきたいが、そうもいかない。
「まー、いつもんこった。弱点がまた一つ見つかったってこったな」
エンさんがクーさんの頭付近をぺしぺし叩く。然し、クーさんは無反応。
「コウさん。失礼します」
コウさんに断りを入れてから、それが当然であるかのように無造作に彼女の肩に手を置く。少しでも反応を窺ったら拒絶されそうな気がして風に吹かれてちょくちょく王様の衣装から覗いている足の辺りが肌色過多で魔法使いな女の子を視界から除外する、と……ちょっとばかり緊張して手に汗を掻いているが、竜も気付かない、ってことで知らん振り。
両足を抱えて座り込んでいるクーさんの周りに「結界」が張ってあるのが見えた。丸くなった彼女を、ぴったりと包み込んでいる。その中でクーさんは身動ぎ一つせず、無表情で、口だけがぼそぼそと動き続けていた。何か喋っているのかもしれないが、声は葉擦れの音より小さく不明瞭で、聞き取ることは出来そうにない。然てしも、怖い。蒼白で人形然としたクーさん。美人で見栄えはするけど、家に飾っておいたら確実に呪われそうな禍々しさがある。災いに中らないよう一旦彼女から目を背けて、コウさんの肩から手を離す。
「高いところは大丈夫でも、高過ぎるところは駄目だったと」「序でん、速いんも駄目みてぇだな。ちっせぇちみっ子んときゃ乗ってて大丈夫だったってーんに、まったく、ちげぇなんてねぇだろーに。まー、そんなとこん可愛いんだがな」「ーー、……?」
……ん? あっ、これは。
聞き逃せ、聞かなかった振りをしろ。僕は別のことを惟ていたので最後まで聞いていなかったーーそういうことで決定。と心積もりをしていたら、コウさんが僕の荷物を漁っているという名状し難い、って、いや、もうすでにはっきりと言葉にしてしまっているが、彼女は擾々(じょうじょう)とした様子も見せず黙々と探索中。方々(ほうぼう)でみーのお土産用のお菓子を買い求めた為、ぱんぱんに膨らんでいる荷物は、エルネアの剣の本拠地を訪れた際に邪魔になるので建物の近くに隠していたもので、コウさんには回収を頼んでおいた。そう、頼んだのは回収だけで、中味の確認とか吟味とか、あと粗探しとかをお願いした覚えはない。
「エン兄、ちょっと来てなの」
妹に呼ばれて、のっしのっしと遣って来たエンさん。コウさんは、兄の手を掴むと。
「駄目だと思うの」「駄目だな、こりゃ」「直したほうがいいと思うの」「真実ってやつぁ、一つか」「事実のほうが優先なの」「あー、そんなんでいーんじゃねぇか」「決定なの」
珍しく、二人の間で真剣な会話が交わされていた。何のことを話しているのかわからないのに、いや、まぁ、多少の心当たりはあるのだが、不穏な空気をびんびん感じてしまう。
そそそっと近付くと、コウさんが手にしているものが確認できたので、師匠の批評を待つ弟子の気分で、怖ず怖ずと彼女に声を掛けた。
「……僕が用意した親書に、何か不備でもあったのでしょうか?」
挨拶回りの本懐である親書は、十五通用意した。余っても仕方がないので、ぎりぎりの枚数である。三寒国にストリチナ同盟国、主要な組合と、そして城街地。二人が言っていたのは親書の文面で、コウさん(のぞきま)が魔法で読み取って、エンさんに伝えたのだろう。
「問題なんて、何もないのです。あるわけないのです。あったとしても、もうなくなったのです。リシェさんは、きっと夢を見てたのです」
朗らかに笑うコウさん。作り笑いのようにも見えるけど、僕を出し抜いたことによる、心からの笑顔かもしれない。仮に作り笑いだったとしても、あまり向けられることのない表情なので、心が弾んでしまいそうになる僕の小心っぷりが恨めしい。
遣られっ放しは癪なので、ちょっと駄目な方向に仕返しをしてみよう。コウさんの「やわらかいところ」に触れるだけではなく、みーを出汁に撫でてみるとしよう。上手くいけば、本日の魔力放出を達成できるかもしれない。動きが察知され難い僕の特性を活かして、すっと彼女に歩み寄って、瑞々しい翠緑の瞳を見詰めたあと、擽る距離で左耳に囁く。
「やはり、仲が好いのでしょうね。最近のコウさんの笑顔は、みー様の透き通るような笑顔に似てきました。しどけなくあどけない、みー様の笑顔に、フィア様の大人びた雰囲気が重ねられて、とても魅了的な微笑で、見蕩れてしまいます」「ぅぇ……っ」
コウさんの頬に手を添えて、すりすりさせる。あっ、やばい、これは病み付きになりそうだ。この感触はとんでもない。何というか、触れた掌が喜んでいるような、そんな感じ。他人に触れて、こんなにも心地良いと感じるのは、僕の内の何かが壊れてしまったからなのだろうか。右手だけではなく、左手も祝福を得たいと、当初の目的を忘れて、彼女の首筋をすりすりする。ふむ、きっとみーの頭を撫でたときにも、同じ水準の祝福がーー。
「ぶみゃぁっ‼」「ぃっ⁉」
ーーっ⁉ ゆくりなく視界がぶれて、感覚が追い付く間もなく変転する中、コウさんの悲鳴だけが鮮明に聞こえた。尻尾を踏ん付けられた猫のような声である。いや、尻尾を踏まれた猫の声など聞いたことがないので、想像に過ぎないのだけど。遣り過ぎた、と省みたときには時すでに遅し、地竜乾いて水竜に返らず、……なのかな?
世界が混濁して、何が起こったのかわからないまま、僕はみーの頭から足を滑らせて。
落下の最中に、わずかな違和感。みーを覆う「結界」を壊したのだと、雲の白さに紛れながら、ぼんやりと思ったのだった。
「お礼なら、エン兄に言うのです。リシェさんを助けるように言ったのは、エン兄なのです。助けないと『おしおき』なので、仕様がなく助けてあげたのです。感謝しろなのです」
嫌々なのか恩着せがましいのかわからない台詞だが、コウさんが本気で怒っているのではないということだけは察することが出来た。
エンさんの落下記録を大幅に更新した僕は、僕を突き落とした犯人に誠心誠意頭を下げた。あの状況では、さすがに殺人未遂の罪を追及するなどということは出来ない。僕の破廉恥行為に対する正当防衛が適用される……かもしれない。然あれば全面的に僕が悪かったのだが、そこは「やわらかいところ」対策の為だと納得して頂けるとありがたいのですが。僕には魔法が効かないので、コウさんは「転移」で直接捕まえに来てくれた。もう少し遅ければ地面と非常に嬉しくない激烈な抱擁をかましていたところだが、コウさんが助けに来てくれると信じていたので恐怖は微塵も感じなかった。なんてことは勿論なくて、すっごく怖かったです。寝起きに魔力全開コウさんのみーではないけど、粗相をしなくて本当に良かった。魔力を漏らしたみーと違って、僕には致命傷になるかもしれないので。
コウさん以外で試したことはないが、僕が触れているとき、対象者は魔法を行使することが出来る。その状態で僕を攻撃すると、魔法が効かないことを確認している。何ともちぐはぐなことだが、僕の特性とは、なかなかに厄介なもののようだ。コウさんは研究を継続中のようだが、大した成果は上がっていないらしい。
然て置きてコウさんを追って、雲底から飛び出してきたみー。雲と大地の真ん中辺りで、皆と合流を果たすと、目的地はすぐそこにあった。
「んで、こぞー。見えてきたわけだが、あれがそーなんか?」
「はい。あれが、三寒国の南に位置する国で、『サラニス』です」
僕は、故郷を眺め遣った。眼下に見覚えのある景色が広がっている。空から見下ろしている所為だろうか、郷愁めいたものが沁みることはなかった。
「う~む。当然っちゃあ当然だが、線引いてあんわけじゃねぇから、どっからどこまでがそーなんかわかんねぇなぁ」
村や街が点在しているので、ある程度予測することは出来るが、初めてサラニスを訪れた彼らに、明確な線引きなど出来ようはずもない。他者が、思惑や打算や妥協とか、そんなもので決めたもの。ときにその線は移動したり、消えたりするので尚更である。
そう、それは当たり前のことで、空から眺めて初めて実感できることなのかもしれない。大地に区切りなどない。どこまでもどこまでも、ただ広がっているだけ。そんな在りもしない線を巡って争うなど、なんと下らないことなのだろう。まったくもって嘆かわしい。
「エン兄、見易くしたの。どうなの?」「おー、いー感じだー。わっかりやっしぃぞー」「はーう、せんがぐにぐにーなのだー、ぐにぐにぃ~んぐにぐにぃ~ん」
ああ、みー、揺れるからあんまりぐにんぐにん体を動かさないでください。嫌な予感がしたので、体勢を崩した振りをしてコウさんに近付いて、さり気なく肩に触れた。とはいえ、さすがに態とらしく見えたのか、おかんむりの(ぷんぷん)魔法使いは、魔法拳を繰り出すのを我慢しているような、むずむずの表情だった。
果たせるかな、視線を移せば、僕の懸念は当たっていた。
「……はぁ」
……情緒もへったくれもない。いや、わかり易いけど、わかり易いんだけど、そうじゃないと思います。僕は、故郷のあられもない姿に、天を仰いだ。
ずっと上を向いているわけにもいかず、現実を直視する。見下ろした大地に、でっかい白い線が引かれていた。あれは国境線なのだろう。恐らく魔法で色付けしたもので、地上にいる人々からは確認できないものだと思うが。地図だけでは飽き足らず、世界まで彩色してしまうとは、もはやどう反応したらいいのかわからない。
「あそこが、最初の目的地の王城なのです」
コウさんが指差した先に、城壁に囲われた城と城下の街並みがあった。すると、城の上空に、巨大な光の王冠が、ぴこんっ、と出現した。
「……あはははは」
まったくもって、非常にわかり易い記号である。……親切過ぎて、乾いた笑いしか出てこない。みーが間違えないように、コウさんの優しさが注がれ過ぎた結果なのだろうが、この脱力感は何なのだろう。然し、今は気張って事に当たらなくてはならない。最初から躓くわけにはいかない。ゆっくりと深呼吸。必要な手順を確認。緊張を誤魔化す為、自分を客観視する。ふっ、と心が醒めるのを自覚する。
「それでは、みー様。あそこの城壁の正門にお願いします。あと、親書を渡すわけですが、城壁に下りるのは誰がーー」
言い終える前に、エンさんは僕が持っていた親書を見事な手際でしゅっと抜き取った。
「さー、ちみっ子ー、俺たちん出番だー!」「なーう、きりきりもみもみきゅーこーかーなのだー!」
止める間も、言葉の意味を理解する暇もあらばこそ、仲の良い竜焔が結託する。誰がそんなことを教えたのか、みーは羽ばたくのを止めて、そのまま落っこちていった。頭に乗っている僕たちのことなど、すっかり忘れているようだ。いや、僕のことを気にしていないだけか。僕以外は、コウさんの「結界」や魔力で振り落とされることはないのだから。
僕は、サラニスの人々に同情した。みーが僕を迎えに来たときのような、竜の来訪に心を揺らす時間も与えられず、突如として、この世界の最大の神秘が出現するのである。
然く考える余裕があるのは、嫌そうな素振りをしながらも、コウさんが僕を掴んでいてくれたからである。「結界」か風の魔法なのか、僕の周囲の空間を固定するような魔力の流れを知覚することが出来た。魔力が奇妙に渦巻いているのは、僕の特性を回避する為の何らかの処方なのだろう。然は然り乍らコウさんを信頼していることと恐怖の度合いは些か別のことである。垂直落下などというものは、何度経験しても怖いものは怖い。然こそ言え、コウさんは泰然自若、みーとエンさんに至っては、笑う門には竜来たるとばかりに愉快爽快大爆発。目を瞑ってしまいたいが、隣に女の子が居るので(ちりゅうがふうりゅうにのれば)、男の子は痩せ我慢。
「われは『みーすがるたんしぇあり』である」
衝撃を伴っての着地のあと、みーが名乗りを上げる。……最後のほうに、とち狂って色々と乱れ捲ったような気がしますが、どうか皆さま、聞かなかったことにしてください。って、口から漏れなかったので、誰も聞いていなかったというのに、何を言い訳めいた頼みごとをしているのか。むぅ、これは、吃驚して挫けてしまった心を立て直さないと。
「……ふぅ」
見ると、コウさんの配慮だろう、城壁は壊れていなかった。現在も継続中だが、みーの「結界」や彼女を中心に散布されている、これは魔力なのだろうか、細か過ぎて不可視の粒子を知覚する。恐らく、みーを見て動転する人々の安全を図って行使されているのだろう。然てだに終わってくれればいいが、他に魔力探査や周囲の空間への関与、これは「遠観」とは違うようだが幾つもの視点が交錯している。王都を覆う薄い皮膜のような、これも「結界」の一種なのだろうか、いったいどれだけの魔法を併行しているのだろう、尚且つ「隠蔽」が使われているようで誰一人この常軌を逸した魔力の奔流に気付くことはない。
以前の感知魔法より増しだが、ぎりぎりと僕の、感覚だったり精神的な何かだったり、神経を締め上げるというか削り取るというか磨り減らすというか、然はあれある程度は慣れでどうにかなるはず、物事は繰り返すごとに容易になる、この世の真理の一つに数えても遜色ないと思われる、魔力にすら適用可能と、たとい緩怠であろうと受け容れる。と色々と気を逸らしながらコウさんの肩に触れ続けて、漸く視界が安定してきたところで、目敏く確認する。エンさんの姿がない。みーと一緒に何か企んでいたようだが、彼らに任せるには不安要素が多過ぎる。已む無し、と諦観して、まぁ、それでもこう、離し難かったりするんだけど、触り心地の良い彼女の肩と僕の手に隙間を生じさせる。世界を覆うような混沌とした魔力が消え失せて直ぐ様みーの頭の上を小走りで移動する。城壁の内部が確認できる位置で、みーの角に掴まりながら身を乗り出すようにして眼下に見ると、
「さぁー、こん国ん一番つえぇー奴! 出てきやがれっ‼」
……エンさんが喧嘩を売っていた。って、いきなり何してるんですか⁉
「これはしたり。氷焔の『火焔』とお見受けする。サラニスの『凍土』がお相手仕ろう」
ゆくりない竜の来訪に、彼らにとっては炎竜の襲撃に等しい事態に皆が立ち尽くす中、兵士と思しき者たちの後ろから、巨大な盾を持った初老の偉丈夫が現れて、口の端に歓喜を乗せている。って、「凍土」ともあろう人が何で平然と喧嘩を買ってるんですか⁉
ぐはっ、何だ、この、異常な状況の連続は。あっさり勝負が成立しているのが、もはや胡散臭い。……これは、僕にはどうにも出来ない。コウさんは絶賛魔法の乱用中、もとい織り成している最中、みー……は悪化させるだけか。クーさんは呪いの人形継続中。
「今ぁ、竜の国ん竜騎士団団長だ。俺ぁ勝ったら、こん親書、王さんに渡してくれや」「ほう。では、私が勝ったら?」「……こん魔法剣をやろう」「ふむ。申し分ない、始めよう」
エンさんは、手にした魔法剣を掲げる。彼の顔が若干引き攣っているように見えるのは、僕の気の所為ではあるまい。然り乍ら国を代表して宣言した言葉を今更取り消すわけにはいかない。……いいのだろうか。自分が負けることを考えていなかったらしい彼は、とんでもない約束をしてしまった。いや、約束というより誓約というか契約というか、いやいや、言葉なんてどうでもいい、竜にも角にも、ついうっかり口から出てしまったのだろうが、これは是が非でも勝ってもらわねばならない。然ても、これが戦士の性というものなのだろうか。「ミースガルタンシェアリ」とか竜の国とか、忽せに出来ないはずの重大事を平然と脇に追いやっている。いやさ、彼らが特殊なだけである。そうに違いない。そうに決まっている。はぁ、少しは振り回されるこちらの身にもなって欲しい。
「えっと、これって、エンさんが負けたらどうなりますか?」「エン兄が負けるとかないのです。勝てなかったら、最低で『おしおき』千回なのです」「…………」「ーーぷぅ」
それは、つまり、負けなど存在しない、引き分けすら許さない、そういった水準での、有り得ないくらいの失態というわけですね。思い起こせば、十回の「おしおき」でぷるぷるしていたコウさん。千回の「おしおき」など、想像するだに恐ろしい。
「『凍土』って、有名な人なのです?」
コウさんが知らないとは、意外だった。みーも興味があるようなので、詳しく話すことにする。幸い、と言っていいのかどうか、もう言葉を必要としなくなった二人の傑物が、相手の隙を窺っているのか静かな遣り取りを行っているので、説明の時間はありそうだ。
「三寒国は、肥沃な土地があるわけでもなく、また人が住むには適さない場所なので、他国が領土を侵すだけの価値がない場所でした。ですが大乱以外で一度だけ、三十周期前に、隣接する野心家の王を頂く国が攻め込んできました。二度目の大乱で逃げ延びてきた三寒国の人々には、もうこれより後に逃げ場はない、という強迫観念めいたものがあります。野心家の王は、そういった三寒国の、追い詰められた者の牙を甘く考えていました。その報いは、己の命で贖うことになります。
三寒国は、共闘してこれを退けたわけですが、その戦いで二つ名が冠せられるほどに活躍した者が幾人かいました。その一人が『凍土』で、その二つ名の由来はーーすべてを拒む寒国の凍れる土、その堅牢さ故に突き立てようとした剣のほうが砕けるーーというものです。巨大な盾を自由自在に操り、敵の猛攻を打ち破ったそうです」
まるで僕が説明を終えるのを待っていたかのような時機で、二人が同時に動く。
その攻防は、一見派手で単純なものだった。目を瞠るほどの多彩な攻撃を仕掛けるエンさん。猛攻をすべて跳ね除けて、隙を衝いて剣を突き出す「凍土」。それが繰り返されているだけである。同じことが繰り返されれば、人は飽きる。だが、そうでないこともあるのだと、見せ付けられる。そこには、卓越した者同士だけが発現できる奇妙な美しさがあった。無駄を削ぎ落としたからこそ突き詰めた、人の技の、到達点での均衡にーー、いや、到達点などと未熟な僕が軽々しく口にしていいものじゃない。もし彼らにそんなことを言ったら鼻で笑われるだろう。至らなければ見えない景色があることを、僕は知っている。
やがて、その均衡が崩れ始める。相手の手の内を呑み込み、二人が踏み込んでゆく。「凍土」が体当たりを食らわせようとするが、エンさんが迫る盾を蹴飛ばして、逆に跳ね除ける。盾から手を放して体で支えつつ、両手で中剣を振るい、次に両手で盾の突撃を敢行する「凍土」。エンさんは、攻撃の反動を利用して、ぎりぎり回避に成功する。
見入っていて気付かなかったが、コウさんがすぐ横で共に観戦していたので、これ幸いと肩に手を置かせてもらう。もう何度か繰り返しているし、そろそろ慣れて、もとい諦めてくれるといいな、と願望を抱いて確認の為に視線を向けようとするが、目も顔も動いてくれなかった。エンさんと「凍土」、互いを磨き合う演舞に見紛う闘いに釘付けで、魔法使いの一挙手一投足にまで気が回らない。一進一退の攻防、と言っていいのだろうか。エンさんは全身と魔法剣を、「凍土」は盾と剣と両腕にだけ魔力を注いでいるようだった。
「ーーこれは、互角ですか?」「違うのです。これは、このままいけば、エン兄の勝ちなのです」「あーう、こーのゆーとーりー。ごかくだけどー、ごかくじゃないんだぞー」
どうやら、二人とも僕より多くのものが見えているらしい。
「『凍土』さんは、多分なのですが、自分と同等かそれ以上の相手と闘う機会が少なかったのです。反面、エン兄はクー姉という同等の相手や、自分より強い相手ともたくさん闘ってきたのです。『凍土』さんは、今にも崩れ落ちそうな崖の端で闘ってるようなものなのです。どっしりと大地を踏みしめて闘ってるエン兄との差が、何時出てもおかしくない状況なのです。技量が互角でも、経験の差が勝敗を分けるのです」
淡々と語るコウさんの戦況分析に意外の念を禁じえなかったが、
「とクー姉が言ってるのです」
その言葉を聞いて、得心がいった。いや、まだしてない、しようとしたが、それでいいのだろうか。熱闘から視線を剥いで見てみれば、足を抱えて今に至るも「結界」に引き篭もっているクーさんは、相変わらず固まったままぼそぼそと口を動かしているだけだった。
「クーさんは、そんなことを言ってたんですか?」
「はい。でも、クー姉は、自分が何を喋ってるのか、意識してないと思うのです」
コウさんの、引き篭もりの姉を見遣る翠緑の瞳は、質の悪い硝子玉のように澱んでいた。人の弱点や欠点を愛しいと思う、そんな気持ちは、兄だけでなく、姉に対しても発揮されないらしい。まぁ、それは愛情の裏返しのようなもので、それだけ深く繋がっているということだろう。僕の兄さんである、ニーウ・アルンは、欠点らしい欠点がなかったから、その意識を共有し難いが、ん、あ~、然あらじ父さんがいたが、あれはまた別である。
「えっと、コウさん。ここのところ、ちゃんとクーさんに構ってあげていますか?」
それでも最近のクーさんの有様から、つい出過ぎたことを聞いてしまう。
「大丈夫なのです。みーちゃんと一緒に寝るようになってから、クー姉と寝ることがなくなったのです。クー姉は拗ねてるだけなのです」
拗ねているのはコウさんも同じですね。と言いたくなったが、彼女を意固地にさせるだけなので自重する。コウさんの薄っすらと赤く染まった頬が膨らんでいない。長いようで、まだ短い付き合いだが、不思議とコウさんとの触れ合いは、心に強く響いている。そうして得た暖かさが、彼女の言葉と感情に乖離があることを教えてくれる。その小さく幼い胸の中に、大きな葛藤を抱えているのだろうか。問題の根は、案外深いのかもしれない。
ここは、どうするのが正解なのか。コウさんが自立、というか、自己を強く主張することは良いことだと思う。クーさんが妹離れをすることは良いことなのかどうか。正しいからといって、それが最良の結果に結び付くとは限らない。殊に愛とか恋愛とかに関してだと、僕の未熟さからの判断が、事態を悪化させる情景がありありと浮かんでしまう。
コウさんに、みーの教育係を委ねたのは間違いだったのだろうか。こちらの思惑以上に、母性らしきものを発揮して、みーを構うコウさん。彼女の生い立ちが、そうさせるのだろうか。みーを、妹というより娘として可愛がっているように見えてしまうのだが。
「はっはっはっ、紙一重ん勝負だったが、炎竜ん恩恵に浴した俺んほーが、ちょーっとだけ幸運の女神ん気ん入られたみてーだな。楽しかったぜ!」「ふう。見事なり、完敗だ」
兵士たちから歓声が起こる。勝敗は関係ない。遥かな高みで激戦を繰り広げた勇者たちへの、惜しみない喝采である。この名勝負は、後世に語り継がれることになるだろう。
……仕舞った。コウさんの様子に気が漫ろで、灼熱の闘いの結末を見逃してしまった。
「用は済んだので、エン兄を引き上げるのです。みーちゃん、次に行きますよー」「ひゃーう、やうやうやうやうやうっ、きびんにそくざにまっさきにーみーちゃんはっしゃー!」
エンさんの勝利に終わったものの、妹は兄をまったく許していなかったらしい。コウさんの冷たい声に怯えたみーが、泡を食って上空に舞い上がった。魔法剣を賭けたことが余程腹に据えかねていたのか、ぞんざいにエンさんを魔法で引っ張り上げると、みーにお願いという名の命令を下して、さっさとサラニスからずらかる、もとい飛び去るのだった。
それは、火色と淡銀色の共演だった。魔法剣と魔法剣が打ち合わされる度に、魔力が火花のように飛び散って、激闘の苛烈さを優美な情景へと誘う。この大陸に存在する魔法剣は十本ほど。魔法剣同士の闘いなど、お目に掛かれる機会は然う然うない。エンさんの焔の魔力と「最果ての王」の大地の魔力が、正面から膂力のすべてで叩き付けられる。
「「「「「ーーーー」」」」」
「凍土」との勝負では、その巧みさに歓声が絶えなかったが、「最果ての王」との勝負では、力と力による真っ向からの乱打に、皆固唾を呑んで見入っていた。
「今回は、分が悪いですね」
僕の分析に、コウさんもみーも否やはなかった。エンさんの、本日三戦目である。
コウさんにきっつい説教をもらった(魔法による体罰というか制裁を含む)エンさんは、本日の二戦目と三戦目に魔法剣を賭けるようなことはしなかった。彼の罪状は、魔法剣に係わることだけなので、然ればこそ「カリカナリス」と「キュレイス」の二国でも、エンさんは喧嘩上等だった。国造りで頑張ってくれたので、勝負については黙認ということで、コウさんのお許しが出た。それと、対人戦闘に関して、僕を相手に鍛錬を積んできたので、その成果を確認、というか、試したいという彼の思いを酌んでのことでもあるのだろう。
エンさんには残念なことに、カリカナリスでは実力ではなく地位で対戦相手が決定した。近衛騎士隊隊長は、その地位に上り詰めるだけあって弱くはなかったが、彼を満足させるものではなかった。だが、その鬱憤は、三戦目にて晴らされる。劣勢なはずのエンさんの顔には野太い笑みが浮かんでいる。「最果ての王」の異名を持つ、キュレイス王が相手だけに、全力を尽くして尚、更なる高みにある者へ挑めることが嬉しくて堪らないのだろう。
キュレイス王は、魔力を纏っていなかった。対等の勝負に拘るエンさんは、魔力を纏わず、剣技のみを頼りに闘っている。ただ力で圧倒することなど詰まらない、勝負に勝つとはそういうことではないーーと、彼の闘う姿が、雄弁に物語っているようだった。
「エン兄は、王様の剣に慣れて、対応し始めたのです。でも、差が縮まる前に、押し切られてしまうのです。とクー姉が言ってるのです」「ふーう、やばやばのばやばやー?」
口では何と言おうと、そこは大切な兄のことである。コウさんの声音から、エンさんを憂う心情が伝わってくる。だが、クーさんの読み通り、手数で追い付きつつあったエンさんの乱れた一瞬の隙を衝いて、キュレイス王の剣が穿つ勢いで叩き付けられる。
一際大きな相克の双花が咲き誇って、万変の魔力が彼らを彩る中、決定的な一撃がーー、
「ぱぅあっ⁈」
入ることなく、魂の底から飛び出てきたような奇声を発すると、老王は硬直した。
「お爺様っ! ご無理をなされるから、また腰が!」
お姫様らしき青蛾の娘が駆け寄って、キュレイス王の老体を支える。
「ふっ。我が剣の最後の相手がお主のような男であったこと、真に幸運である。我のーー戦士としての終焉である。剣を携えし者たちよ、今まで我とあったことに、感謝する」
キュレイス王の後継者らしき壮年の男が跪いて、王から魔法剣を譲られる。偉大な王の退位であり、新しき王の即位の瞬間だった。譲位は成された。この素晴らしき場に立ち会った騎士たちが、滂沱の涙を流しながら世界へ轟けとばかりに力の限り声を振り絞る。
「って、ちょっと待て⁉ 勝ち逃げとか、ずっけぇぞ‼」
コウさんが魔法で縛り上げて、未練たらたらなエンさんをお持ち帰りである。そして、面倒が起こらない内に、みーに乗ってそそくさと退散。このままゆっくりしていたら、余計な式典とか儀式とかに参加させられ兼ねない。
「どうやら、一つの時代が幕を閉じたようなのです。とクー姉が言ってるのです」
「エンさん、次からが重要なんですから、拗ねないでください」
いや、クーさん、今はそんな物語の結末のようなものはどうでもいいので。そのクーさん(ひきこもり)と背中合わせで、足を抱えて座っているエンさんに声を掛けるが、反応してくれない。
「次は、ストリチナ地方の三国同盟、ストリチナ同盟国です。狩場を横断して向かいますが、この時間を使って打ち合わせをしておきましょう」
二度手間になるかもしれないが仕方がない。先ずはコウさんから始めよう。
「同盟国には、三寒国と同じ対応では駄目です。エンさんには、到着後、城街地に親書を届けに行ってもらいます。そこで、同盟国へ親書を届ける役割をコウさんにお願いしたいのですが、引き受けてもらえますよね?」
じいぃぃー、とコウさんを見詰める。他の人など見ていませんよ、という趣意を明確に、んじいいぃぃぃー、と熱視線を向けていると、みーの炎眼もぎょろりとコウさんを捉えて。
「ふぇ……?」
左へもぞもぞ、右へもそもそ。左へもそもそ、右へもぞもぞ。更にもそもぞは続く。久し振りの謎舞踊で、なぜだか落ち着いて(ほんわかして)しまう。さすがに、これを「七祝福」の一つにするのは無理かな。などと考えていると謎舞踊が停止。どうやら、答えが出たようだ。
「……みーちゃんを見た人たちが怪我をしないように、魔法で色々やらないといけないので、今回は残念ながら出来ないなー、などと思ってるしだいなのです」
たどたどしくではあるが、最後まで言い切るコウさん。じっと見詰めてくるので、翠緑の瞳に惹き込まれそうになってしまう。これは、不味い。僕は、気合いを込めて見返した。
「じいぃぃー」「ひぅっ」
言葉に出してみると、みーの角の後ろに隠れて、ちらちらとこちらの様子を窺ってくる。
「仕方がないですね。コウさんには、魔法の配慮に専念してもらいます。クーさんは残念なことになっているので、……僕がやるしかないかな」
思い返してみれば、コウさんが僕と話してくれるまで一巡り必要だった。僕と話すことで、少しは慣れたと思うが、見ず知らずの人間といきなり会って話せ、というのは酷かもしれない。然てこそちょっとばかり想像してみる。
ーー何気ない日常、突然降って湧いたみー。驚く兵士の前に「転移」で現れるコウさん。魔法で彼らの動きを止めて、叫ぼうとした兵士の言葉も魔法で奪う。三角帽子と外套で姿を隠した謎塊なコウさんは、親書を兵士の手にちょこんと置いて、「転移」でその場から消え去る。その後、魔法が解けた兵士たちは……。
うん、駄目だ、そんなことをしたら、どんな悪評が立つやら。コウさんには、愛される王様を目指してもらわないといけない。特に竜の民には、魔法という目を曇らせる要素を省いた、本当の彼女の姿を知ってもらいたい。
「終わったこたぁ知らん振り、ってぇことでー、ふっかーつ。そんでこぞー、結局んとこ、城街地で何すんだ? こぞーんずっと気んしてたみてーだけど」
エンさんが炎竜の息吹のような勢いで華麗に復活した、のかどうかはともあれ、凄いのは、口にしたことを実際に実行している点である。過ぎたことは気にしない、と言ったところで中々そうもいかないものだが、彼は本当に後腐れなく、すっぱり忘れてしまえるのだ。序でにクーさんも復活して欲しいところだが、挨拶回りの間は無理そうだ。今はエンさんが「結界」に腰掛けて、お尻が頭の部分にきているのだが、相変わらず無反応である。
「簡単に説明すると。ストリチナ地方は、十二国から三国になりました。それぞれの国には、貧富の激しい場所や貧民街、国の恩恵が届かない場所、棄民や流浪の民のようなものまで混在していたのですが、それを三国の王城や王都の外の隣接した場所に集め、国の系統に組み込むことで、一時に問題を解決させようと試みたのです。
それは、半分成功しました。失敗の半分の内で一番の問題は、城街地が同盟国にとって不都合な方向に力を持ち過ぎてしまったことです。それを看過することが出来ない三国は、いずれ城街地を攻め、焼き払うのではないかと噂されています。
城街地は、彼らを疎んじている者たちから『城外地』、または『外地』と呼ばれています。それだけでなく、城街地に住む人たち自身も皮肉を込めて、外地と呼んでいたりしますが。このように、同じ国の中で、内と外という心理上の壁を作ってしまったのです。ですので、竜の国を急いで完成させました。同盟国と城街地が致命的な決裂に至る前に、城街地の人々を竜の国で受け容れようというわけです」
みーにもちゃんと聞こえるように、大き目の声で喋る。
「空っぽん竜の国んいっぺぇ遣って来るってわけか」「みゃーう、わんさかーわんさかーなのだー」「おー、わっしょい、わっしょい」「わっひゃー、わっひゃー、わひゃひゃー」
二人で盛り上がっている、もとい燃え上がっている(?)ところに水を差すようで申し訳ないが、もう少し続くので、咳払いをしてから続ける。
「竜の国に遣って来る城街地の人々の数は、四万五千から五万五千人くらいを想定しています。彼らが自分たちの環境や境遇を理解しているか、竜の国という未知に、新天地に踏み出すだけの意志を持ち得るかによって増減するでしょう。今回、動けるのが僕とエンさんだけなので、エンさんには城街地に行ってもらいます。それぞれの城街地には、『長老』と呼ばれる纏め役のような方がいるらしいので、親書が彼らに渡るようお願いします」
「そりゃなぁ。こぞーん城街地行ったら、うっかりやられちまうかもしんねぇしなぁ」
然もありなん、城街地は人々の思惑が複雑に絡み合った特殊な場所である。部外者が闊歩できるような単純さも安易さもなく、安全という言葉など安価な紙のように細切れに、儚く燃え散らされるだろう。当然、かなりの危険が伴うので、エンさんやクーさんのような武力と胆力の持ち主でないと、どうにもならない分野である。
「コウさんの魔力は大丈夫だと思いますが、みー様は体力とかはどうですか? 休憩が必要なら、進路と挨拶回りの順番を変更して、翠緑宮に寄って行ってもいいですけど。あと、もう可哀想なので、クーさんを降ろしていってあげませんか?」「相棒なら心配いらんだろ。仲間外れんすんより、あとあと文句言われんのんめんどーだし、連れてったほーがいーと思うぜ」「はーう、みーちゃんせかいのはてまでいっとーしょー!」
まぁ、ここら辺は予想通りの回答である。気は進まないが、もう一つ尋ねておかねばならないことがある。さりげなくコウさんに近寄って、耳打ちする。
「大きな声では言えませんが……、生理現象とか」
「……翠緑宮に寄って行くのです。あ、あと言っておくのですが、魔法使いは、せ……、とは無縁なのです。……魔法使いは、とっくの昔に……克服してるのです」
そこでもじもじしながら言われると、こちらまで居た堪れない気分になってくるので。確かに、コウさんなら、その辺りのことを魔法で克服していたとしても不思議ではないが、さすがに魔法使い全体にまで適用範囲を広めるのは無理があるだろう。
「しっこかー? しっこいくのだー?」「せー? なんちゃらじゃなくて、ふつーん言やいいのんなぁ。竜騎士ぁしっこするぜー」「りゅーはしっこしないんだぞー」「そーなん? そりゃ羨まだなぁ。人間しっこせんと大爆発だかんな」「もーう? こーのぼっかん?」
竜耳と魔力強化耳は、僕とコウさんの密談をしっかりと聞き取っていたらしい。果たして、コウさんに睨まれることになるのだが、然てだに済んでくれればいいが、意外に根に持つ魔法使いの女の子は竜並みに扱いが難しい。いや、意外ではないか。そう言えるくらいには、コウさんとの付き合いを重ねてきた。はぁ、魔法という得手があるのだから、もうちょっと余裕とか寛容の心とかを身に付けてくれるといいんだけど。
竜にも角にも、竜の国にとっても大きな懸案が含まれる、挨拶回りの後半である。あと、彼女の独り言のような総括が、風評被害を助長しないことを祈るばかりである。
「リシェさんと同じで、三寒国の人たちは変な人ばっかりだったのです」
「みー様、『サーミスール』の城街地の周辺を念入りに飛行してください」
サーミスールの王都の外壁が見えてきたところで、コウさんが魔法で地上に線を引いた。今回は国境線だけでなく、王都と城街地の境も白線で分かたれ、囲われている。更に、コウさんは世界を着色する。どの進路で飛行すればいいか矢印で示すという親切なのか甘やかしているのかわからなくなるような配慮だが、竜にも角にも、その規模は豪快である。
先ず王城を一回りしてから城街地へ向かう。みーは矢印の誘導に従って、城街地に住まう多くの人々の目に触れるよう効率良く飛行する。然ても然ても、三寒国では起こらなかった事態が発生する。城街地から、弓や投石、魔法で攻撃を受けたのだ。
「さーう? みーちゃんなんかこーげきされてるのだー。がんばりゅーがんばりゅー」
みーが攻撃側を応援していることからもわかる通り、竜にまともな攻撃など効かない。エンさんやクーさん以上の人外水準でないと掠り傷一つ付けられないだろう。糅てて加えて、みーにはコウさんの「結界」が張られている。
みーを傷付けられる存在があるとするなら、同種である竜くらいのものだろう。だが、青天ならぬ曇天の二竜となろうはずもなく、みーは竜が留まるには大きさが不足している外壁の頂上部に、窮屈そうに着地して名乗りを上げる。
「われは『みーすがるたんしぇあり』である」
もう五回目なので、手馴れてきたのだろう。声の響きが深みを増して、威厳すら醸している。見える範囲で動いている者はいない。竜の偉容に静寂で応えている。
「みー様、エンさんと違って、僕は飛び降りられないので、外壁の上まで頭を下げてください。あと、交渉が終わったら、僕が乗れるように、また頭を下げてください。……えっと、一応言っておくと、僕が普通なのであって、コウさんたちのほうが特別なのですよ?」
「うーう、こーがいってたんたぞー。ふつーじゃないー、いちばんへんなのだー」
魔法による配慮を実行中のコウさんに、みーの声は届かない。なんてことは勿論なくて、彼女は聞こえない振りの真っ最中である。丁度良く、みーが頭を下げたので、追及はしないであげましょう。まぁ、コウさんからしたら、魔法で解決できない僕の特性は、変、を通り越した、おかしなもの、なのかもしれない。……あ~、ん~、変というのは、僕の性格とかのことじゃないですよね。もしそうなら、説教、もとい話し合い(じじつかくにん)が必要だろう。
「ほんじゃあ、行ってくらぁ」
これから散歩に行くような気軽さで、エンさんが外壁の下まで飛び降りてゆく。平然とあんなことが出来る人たちより変と言われるのは、ちょっとばかり心外である。
「あれくらいなら、出来る人はそこら辺のどこにでも、はいませんが、そこそこ居るのです。でも、魔法が効かない人間なんて、世界中でリシェさんくらいしか居ないのです。変な人世界大会の優勝者なのです。……とクー姉が言ってるのです」
お腹に竜でも飼っていたのか、言いたくて堪らなかったらしい。どうせなら目を逸らさず、こちらをちゃんと見て言って欲しかったのですが。あと、それ、本当にクーさんが言ってるんですか? いや、なんかすごく疑わしいんですけど。言い返したいが時間がないので、コウさんへの復讐は、あとの楽しみに取っておくことにした。
ーー彼女のお陰、と言っていいのか、緊張など吹き飛んでしまった。これから、ストリチナ同盟国と、失敗してはならない交渉の端緒を開くというのに、自分でも不思議に思うほど落ち着いている。氷竜が安眠する心象が抱けるほど冷静に、集中できている。
コウさんの配慮で、みーが乗っている外壁に傷は付いていない。みーの頭から通路の間中に飛び降りると、遅い、とでも言いたげなみーの炎眼が遠退いてゆく。見ると、警備兵らしき六人の男。武器を構えているのが二人、今にも逃げ出しそうなのが二人、あとの二人は呆然とみーを見上げている。初対面のはずなので、魔力のない僕に対して違和感や不信感を抱かれるかと対策を立てていたのだが、まぁ、竜の威容の前では僕の存在感など、大樹から落ちてしまった枯れ葉程度のものなのだろう。踏まれて、がさっと最後に命の音色を奏でるも、まるでそれが役目であるかのように見上げる人々から気付かれることはない。と妄想を逞しくしている間、誰何の声が掛からないので僕のほうから用件を告げる。
「お騒がせして申し訳ございません。僕は、竜の狩場に在る、竜の国の侍従長、ランル・リシェと申します。この度は、サーミスール王に親書を届けて頂きたく、参上いたしました。この場での責任者、或いは指揮を執られている方はいらっしゃいますか?」
失礼にならぬよう丁寧に尋ねてみるが、兵士たちの反応は芳しくない。警備兵なら、隊長辺りを呼びに走ってくれればいいのだが、こちらから強要するとなると後々の問題になるかもしれない。出だしから躓いて、どうしたものかと決め兼ねていると、彼らの背後、外壁の内部に階段があるのだろうか、駆け上がってくる複数の人間の足音が聞こえてきた。光明を見出したような兵士たちの様子から、到着を待ったほうが賢明であると判断する。
先頭を切って現れたのは、僕と同周期くらいの少年。兵士というより、従者といった体だ。僕を捉えるなり、魔法を放ったようだ。そこそこ魔力量があるのだろう。
魔法を使われたら反応しないほうが良い、とクーさんから助言を得ている。変に反応してちぐはぐな行動をとるより、方法はわからないが魔法を防いだ、相手にそう思わせるほうが得策ーーということのようだ。
「全員、武器を取れ‼」
魔法が効かないと判断するや否や、少年は兵士たちの前に躍り出て、敢然と立ちはだかる。正常な判断力を失っている兵士は、少年に倣って武器を構える。
この状況でその選択はないだろう。と内心で嘆息するが、表面上は穏やかな笑みを崩さず、少年を諌めようと問い掛ける。
「あなたは、皆に武器を取らせましたが、本当にその命令でよろしいのですか?」
「そんなこと知ったことか! 貴様を捕らえたのち、すべて吐かせてから判断する!」
少年が吠える。もはや指摘することさえ面倒になるくらいの、状況判断の甘さである。
僕は武器を持っていないが、僕の後ろにはみーがいる。この現況で、どうしてそんな無軌道な行いを明言できるのか理解に苦しむ。敵でない者まで敵にする愚かな行為である。
僕は、里での師範の言葉を思い出していた。
ーー若者、と書いて、若者と読む。若者に付ける薬はあるが、馬鹿者に付ける薬はない。貴族や正義感が過剰な未熟者に多いのが特徴で、自分が絶対に正しいと信じ、それを他人に押し付け、人の話をまったく聞かない。老獪な者ほど、己の正しさを疑う。それを踏まえて、馬鹿者に対する有効な対処方法は三つある。それはーー。
回想を終了する。そういえば、あの師範は歯に衣着せぬ人だった。若者は、若者の通過儀礼の一つだと思っている僕には、素直に頷けるところではなかったが。
全員が武器を構えた。では、僕たちを攻撃するかといえば然に非ず。みーは言わずもがな、魔法が効かない僕にさえ、どう対処していいのか答えを持ち合わせていないようだ。そろそろかな、と思っていたが、階段を駆け上る音が聞こえてくる。人数は少ないようだ。悪くない判断である。期待が持てそうだ。
警備兵らしき三人の男が現れる。周期や装備の質から、僕が望んでいた相手だと知れる。先頭の、顔に深い傷痕を残した壮年の男が、みーや僕を見遣って驚きこそしたものの、
「全員、武器を収めろ!」
即座に命令する。兵士たちの顔に安堵の色が浮かぶ。信頼の置ける者の、毅然とした物言いが彼らの心胆に浸透して、少年以外のすべての者が従った。
「何をしている! サーミスールを襲う脅威から、国を守るのだっ!」
どうやら、少年の頭の中ではそういうことになっているらしい。残念ながら、僕たちは英雄物語に登場するような無慈悲な悪役ではない。彼にとっての事実に、迎合する兵士は一人もいない。その矛先は、当然のように意を異にする味方へと向けられる。
「後から遣って来たくせに、しゃしゃり出るな!」
見るからに貴族然とした少年と、現場の叩き上げと思しき顔傷の男。然も現場に居たとするなら、ストリチナ地方が十二国で衝突を繰り返していた頃より前線で剣を振るっていたということになる。この先の展開は、炎竜を見るよりも明らかだ。
「後とか先とかの問題ではない。私はここの責任者で、私のほうが先任だ。文句があるのなら、ドゥールナル卿に告げ口して、私を解任すればいい」
少年には痛烈な皮肉であったらしい。言い返そうとして、それが出来ず、呻き声を上げている。大勢は決したようなので、僕もこの流れに乗るとしよう。
「お騒がせしてしまったお詫びに、少し打ち明け話をしましょう」
僕は、顔傷の男を一瞥して、兵士たちに漏れ聞こえることのないよう場所を移す。
王城の反対側、壁の外側にある眼下に広がる城街地を見晴らす、いや、見渡す、のほうが適当だろうか。ストリチナ同盟国、三国併せた城街地の人口は五万を超えるとも言われている。王都の一角を占める、という表現は城街地の人々に失礼になるだろうか、一万五千から二万人が住まう場所にしては、規模が小さく感じられる。人々の営みに散見する、均衡と散漫、疎放に混迷、静動が混在する街並み。世界の法則はここでも適用されて、弱き者は身近に転がっている死と絶望の気配に怯えながら日々を生きている。強き者とて、ここでは一夜にして危殆に瀕する。三国の思惑を外れて変容していった、この捉えどころのない街の有様が、城街地という坩堝の複雑さを呈している。
「ーー炎竜か、美しいな。少年の砌に、心躍らせた存在が目の前にいる。竜と旅をする空想物語があってな、幾度となく読み返したものだ」
僕の傍らに並んだ顔傷の男は、みーを見上げて感慨深げに口にする。
「僕たちは、竜の狩場に国を造りました。国に民は必要とはいえ、本来であれば、このような性急な手段を採るべきではない。ですが、今は急務、とでも言うべき事情があります」
「なるほど。俄には信じ難いが、君の言葉が本当なら、彼らには救いかもしれない。そして同盟国にも。ーー利益を貪ってきた連中の尻拭いなどまっぴらだ」
然ればこそ、長く務めてきたのだろう。彼は、城街地の現状を把握していた。
立場に違いはあれど、運命の綾をひととき共有する。……ん? ああ、同感を得られたことで、それなりに溜飲が下がって緊張が解けた所為か、竜の領域から撤退、過集中が途切れてしまったようだ。まぁ、ここまで来れば、あとは渡すだけだし、問題ないだろう。
「詳しい説明は必要なかったようですね。竜の国は他国を侵攻せず、竜の国を侵攻することを許さず、友好には友好で応えます。王が民を護り、民が王を護る。そんな国になればいいな、と僕は思っています」
僕は、親書を差し出した。受け取った顔傷の男は、去り際にもう一度みーを見上げて。予想だにしなかった展開に目を剥いた。全速力で部下たちの許に戻って、指示を飛ばした。
「全員、『結界』の内側へ! 何をやっている若造! お前も『結界』を張らんか‼」
顔傷の男の言葉が聞こえていたのかどうか、みーを見上げる少年の顔が引き攣っていた。あに図らんや、狼狽していた割には一目散に逸走、機敏な動作で「結界」を張り終える。
「ぼわゎぁーうっ!」「…………」「「「「「っ‼」」」」」
……真っ赤だった。何が赤いかと言うと、僕の周りが鮮やかな火色で満たされていた。見上げれば、みーの炎の息吹とでっかいお口。前にみーに手を噛まれたことがあったけど、今噛まれたら体が穴ぼこだらけになるだろう。ん~、惜しい。牙の奥の、舌や喉の奥は、高熱で揺らめいている所為か、よく見えない。僕が触れた魔法は効力を失う傾向にあるが、竜の息吹は、竜という存在が介在する故なのか、魔法とは趣を異にする。僕に効いていないというより、どうも馴染んでいるような感覚に近くて、安らぎや親しみといった感情が湧いて、懐かしい情景を想起させる。以前、みーに息吹を浴びたときもそうだったが、微温湯に浸かっているような穏やかな心地になってしまう。
まぁ、親書は渡したし、問題はないだろう。と思いはしたものの、自身の判断が正しいか確認する。彼らに視線を向けて、誤りのなかったことに安堵の息を吐いた。
みーの炎の息吹は「結界」二つで防げるようなものではない。それを成し得たのは言わずもがな、コウさんの魔法の然らしめるところ。見ると、城街地に息吹が到達する前に、「結界」を行使しているのだろうか、不自然に炎が散らされて、街に被害は出ていない。
城街地の人々や兵士たちは皆無事なようで安心しきり。ここで負傷させたとなると、外交問題に発展し兼ねない。まぁ、それを言うなら、みーに乗って他国を訪れている時点で、何をか言わんやだが。エンさんの発案に頷いてしまった僕が言うのもおこがましいが、本当に荒っぽい手段を採ったものだ。ん、……ふぁ、あ、やばい、欠伸が出そうだ。みーの炎が優しくて、うつらうつらとしてきたところで、炎色の温い世界が消失してしまう。残念、などと言ったら怒られるだろうか、みーの息吹が終わったようなので。未だ放心状態にある兵士たちに歩み寄って、無駄かもしれないが弁明しておくことにした。
「申し訳ありません。僕が話に興じてしまったので、焦れてしまわれたようです。息吹の威力は弱めでしたし、竜の戯れと思って、お目溢しをお願いします」
「……あ、ああ、それより、君は大丈夫なのか? 炎竜の息吹を直に浴びたようだが」
「『結界』の一種です。秘密にしていることなので、口外しないでくださると助かります」
僕は、にっこりと笑った。こうも嘘だらけの内容を平然と垂れ流しているのだから、もう笑うしかない。竜も嫌がる、笑顔の大安売りである。
「こぞー、終わったかー?」「ーーーー」「「「「「っ!」」」」」
エンさんが城街地側の、外壁の陰から飛び出してきた。僕はもう慣れてしまったが、常識という人間に優しいものに準拠するなら、有り得べからざる光景に警備兵たちがぎょっとして後ずさる。彼らの目には、凶悪な魔獣を前にしたかのような怯えが宿っていた。竜の脅威と驚異を克服した(?)彼らに、追加で酷な仕打ちを与えるのは本意ではないのだが。……どうやら、僕も同類に見られているらしい。はぁ、仕方がないといえば、仕方がないのだけど。みー、僕、エンさん、と人外水準の三人、って、みーは竜なので正しく人外なのだが、彼らは誰をどれだけ恐れればいいのかわからず、戸惑っているようだった。
「このまま立ち去れると思っているのか! 貴様は何者だ! 名を名乗れ!」
世の中には、恐怖や不安を勇気に変じられる人がいる。そして、困ったことに、勇気と蛮勇を取り違えてしまう人がいる。この少年は、一応両方に当て嵌まるのだろうか。今まで会ったことのない種類の人間なので、どうも扱いに窮する。そういえば、先程名乗ったとき、彼はまだ到着していなかった。本来なら、先ず相手に名乗らせるべきだが、これ以上係わり合いになりたくないので要求に応えることにした。
「僕は、竜の国の侍従長、ランル・リシェです」「ふんっ、僕はーー」「で、俺ん竜騎士団団長。んで、こっちん宰相ん相棒。これぁ王さんで、ちび助だ」
頭を下げてきたみーに飛び乗って、クーさんが引き篭もっている「結界」をぱしぱし叩いて、最後に、コウさんの首根っこを掴んで持ち上げて、ぷらんぷらんさせる。
「「「「「…………」」」」」
ほら、皆さん困ってますから。エンさん、ちゃんと紹介してあげてください。コウ・ファウ・フィア王は、兵士の皆さんに、って、いつの間に謎塊になったのか、どうやら挨拶のつもりなのだろう、三角帽子がちょこんと下がる。クグルユルセニフ宰相は引き篭もり継続中で、不審を通り越した同情(?)の視線を集めている。エン・グライマル・キオウ竜騎士団団長は、傍若無人に呵呵大笑。極め付きに、みーが前触れもなく上空に舞い上がって、サーミスールでの挨拶回りが成功、もとい終了したのだった。
……あ、結局、従者の少年の名前は聞けず仕舞いだった。まぁ、あれだ、別に、もう会うこともないだろうし、いいか。雑念を風竜の軽やかさで、ぽいっ、と捨てて、僕はこれから向かう先に意識を向けるのだった。
僕は地面を転がっていた。エンさんと、魔法でクーさんを伴ったコウさんは見事な着地。
「みゃーう、みーちゃん、つーかーれーたーのーだー」
翠緑宮の前に降り立つかと思いきや、制動を掛けることなく前のめりで地面に突っ込む。「人化」で子供の姿になると、どざーと滑るように倒れ込んで、そのままの格好で脱力して動かなくなる。どうやら、かなり疲れているようで、みーの安息の場であるコウさんの胸の中まで、歩いていく気力もなかったらしい。みーの服には、コウさんの魔法が付与されていて、どういう理屈でそうなっているのかまったく見当がつかないのだが、竜から人に化したみーは、ちゃんと服を着ていた。僕が贈ったリボンも、角に結わえられている。
……いや、服を着ているのを残念に思うとか、そんなこと微塵も思っていませんから。って、僕は誰に言い訳をしているのやら。ああ、そうだった、ここのところ衝撃を受け過ぎている、僕の良心にだった。悲しいことに僕の傷付き易く繊細(?)な心には、まだまだ平穏は訪れない。と予言めいたことを思ってみるが、先の事を考えると、否定できないのが何ともはや涙ぐんでしまいそうだ。
みーは、腹這いの姿勢からお尻を持ち上げると、ふりふりしていた。然てだに終わってくれればいいのだけど。熟と眺めると、みーが後ろ手に、外套に潜り込んだ小動物のようにちょこまかと動き回って、もとい動かしていた。
「ーー、……はぁ」
……ふりふりでちょこちょこな、ふるふるなまかまかで、ふるちょこふりまかちょこふりまかふる、……ふぅ、理性がへなちょこな僕、ちょろっと落ち着こうか。ちょこなんと座って、冷静を三回、氷竜を五回、それぞれ唱えよう。きっと、とっても涼しいはず。
あ~、うん、どうやら効果があったようで、自分が冷静でないことがわかる程度には、頭は冷えているようだ。然ても、みーのあそこには、もとい服の腰の辺りには、三つの小袋が取り付けられていたはず。然らばコウさんの魔法の炎が詰まった、というか、凝縮された紅玉が入っている箱を取り出そうとしているのだろうか。
みーが「人化」を覚えてからだいぶ経つが、今でも見えない場所にあるものを取るのは苦手なようだ。ちゃんと数えていなかったから大凡だが、ふりふり十三回くらいして、やはり目的は木箱だったらしい、いそいそと取り出すと、ころんっと仰向けになった。
「ふーう、こーのほのーあまさずぜんぶいちどきにいただきますーなのだー」
「あっ、みーちゃんっ、駄目なの!」
仰天して目を見張ったコウさんの翠緑の瞳がーー輝緑の軌跡を描きながらみーに迫るも、わずかに遅く、伸ばした手は届かなかった。魔法を使えば間に合っただろうに、みーを大切に思う気持ちが先行して反射的に体のほうが動いてしまったのだろう。
木箱に入っていた炎玉三個がみーのお口に転がり込んで、あむっ、と閉じられる。半瞬の、更に半分くらいの静寂を突き破って、みーの頬が限界まで伸びて、って、いやいや、みーのほっぺはどこまで柔らかいのか⁉
竜頬が掌の大きさくらいに拡がって、みーの幼い体が跳ね上がった。
「ぶぁびゃっっ⁉」
ぐおんっ、と腹の底に響くような重く激しい音だった。って、爆発したんですけど⁉
みーの口から噴き出た炎の反動なのか、起き上がって膝立ちになったみーの首が、かくんっと力なく後ろに倒れて。次いで、機嫌が悪い火山のような真っ黒な煙を、もあもあと口から吐き出していたみーが、ぱたりっと自然なようで不自然な感じで後ろに倒れて……。
「コウさんっ! みー様の口が、爆発物、混ぜるな、危険ですっ!」「みーちゃんっ! みーちゃんっ⁉ みーちゃーんっ‼」「コウさんっ! ぢびゅっ、治癒魔法を!」
余りと言えば余りの事態に、動転して言行がおかしくなった僕とコウさん。後ろから颯爽と惑乱中の二名を追い抜いたクーさんが、みーを抱き起こして容態を確かめる。
「一回に一個ずつ、という言い付けを守らなかったみーに責任が半分。爆発の危険性を排除しておかなかったコウに半分。みーは、火は食べられるが、爆発は食べられないらしい」
「……復活したんですね、クーさん」
長時間引き篭もっていたことの弊害はまったく見られない。しゃっきりしたものである。
顔が破裂するのではないかと危惧してしまうくらいの爆発だったが、さすがは竜と言ったところか、みーに大きな怪我はなさそうだ。竜の国に帰ってきて早々、何をやっているのやら。竜にも角にも、みーは無事なようだし、やっとこ人心地が付いて、体から力が抜ける。そうして気付く、みー同様に僕にも疲れが溜まっていたようだ。道理で頭が変……、もとい理性にわずかながらの支障を来していたというわけか。特に精神的なものが大きかったのか、体の内側から痺れてくるような不愉快な鈍さがある。
「……、ーーふぅ」
ストリチナ同盟国。南のサーミスールで一悶着あったあと、中央の「クラバリッタ」へ。最後に北の「キトゥルナ」へと向かって。幸いなことに二国ではすんなり親書を受け渡すことが出来た。まぁ、すんなり、と言っても、僕たちにとって面倒が起こらなかったというだけで、竜の来訪を目の当たりにした人々には、生涯忘れることの出来ない衝撃が刻み付けられたと思われる。然てこそもう一度、内心で盛大に謝っておく。
ーー皆さまっ、驚かせてしまって大変申し訳ございませんっ! でもでもっ、無能非才の身、他の方策というか良策が思い浮かばなかったので仕方がなかったんですっ‼
と誠に勝手ながら、自身の懊悩と葛藤に折り合いを付けさせてもらって。疲労からなのか、頭が漂白されていくような甘く冗漫な、それでいて穏やかな感覚に耐え切れず、徒然を厭う気持ちを誤魔化そうと空を見上げる。長い、というか、永い、とさえ感じた一日。
太陽が山の果てに顔を半分隠して、今日浴びたみーの息吹の鮮やかな炎色をくすませたような鈍い光に包まれながら、竜の都に、翠緑宮に到着。そして、帰り着くなりこの騒ぎである。いつもなら疾うに復活しているはずの、元気っ子のみーが心配になってきたので、重い体を気力で持ち上げて、みーを介抱しているクーさんの許に向かう。
見た限りでは、みーの体は大丈夫そうだが。どちらかというと、意想外の出来事に目と口が開きっ放しになっているみーの、心の傷のほうが心配である。ないとは思うが、炎竜なのに爆発が、延いては炎が苦手になってしまうなんてことがあったらどうしよう。
「……ふぁはぁ、ふぁひゃふぁひゃっ、ふぁひゃひゃひゃひゃひゃひゃーーっ!」
みーが、可愛いのか怖いのか一緒くたなのか、いや、三つ目の意味はおかしい、って、そんな場合じゃなくて、竜声を上げた途端、いきなり活発になってクーさんに抱き付いて、すりすり多段攻撃をお見舞いしていたみーがーー途中で止まってしまった。
「みゃーう、こーのやわやわじゃないのだー、こー、こー、こー」「はいっ、みーちゃん、こっちですよ!」「やうやうやうやうやう、こー、いたのだ、こー」「もう大丈夫ですよ、みーちゃん!」「こーっ!」「みーちゃんっ!」「やうやうやうやうやう、こーこーこーっ」
二人は、最初から一つの生き物であったかのように、抱き締め合って一塊になる。折角復調したクーさんは、自分が幸せ過剰攻撃の対象でなかったことを知って、熱波の中で水を絶たれた植物のように萎れてしまった。残念ながら、僕には祝福は見つけられない。これは、もう、しばらく放っておいてあげるのが優しさというものなのだろう。
「はっはっはっ、挨拶回り終了ーっ! そんで、こぞー、次ゃ何があるんだ?」
何をやる、ではなく、何がある。まぁ、言葉遊びの範疇ではあるが、節目節目でのエンさんの勘の鋭さはさすがである。
「エンさんの言う通りです。竜の国があると知った人々は、本当にそんなものがあるのか確認しに遣って来ます。そんな彼らを、持て成す必要があるってわけです。東の竜道にエンさんとクーさん。南の竜道にコウさんと僕。みー様は北の洞窟ですね」
みーは、定期的に北の洞窟に帰って、半日くらい過ごす。「竜の残り香」とコウさんは言っていたが、信頼とか信用とか諸々が、がた落ち中の僕は、詳しい説明をしてもらえなかった。北の洞窟には行ったことがないので、いまいち掴み切れないが、何かしら秘密があるのだろう。語感からすると、残り香とは魔力の譬えで、魔力の補充か、或いは維持か。
「持て成しが終わったあと、竜の国立ち上げの為の、最大の関門です。ストリチナ同盟国と、その城街地へ出向いて、交渉を行います。ーーコウさんのお披露目が必要になります」
そう遠くない内に、その時は遣って来る。竜の国という今まさに産声を上げようとしている国家が、生まれ落ちて命脈を得られるかどうかの岐路に立たされるまで、一巡りか二巡りか、手足の指の数より掛かることはないだろう。
国を造ることは手段であって、目的ではない。ただの通過点、いや、然く貶める必要などない、どれもこれも忽せに出来ない大切な、僕らが作り上げてきた、歩いてきた道である。自らの行いを誇るなど、初めてかもしれない。まだ始まってすらいないのに、顧みて浸っている場合ではないとわかっていても、自分が望んで歩いてきた道が、踏み締めてきた道が、形作られていくことが嬉しくて堪らない。
そう思えたのは、きっと、一人ではないからーー。
似たようなことを何度も考えて、充足感を味わっているというのに、色褪せることはない。快楽、というのは、こういったもののことを言うのだろうか。快く楽しい、ということならそうだろうが、まぁ、世間一般では、これらの僕の感情など、お飯事のように扱われるだろう。然らば見失っている彼らに、見せ付けて、思い起こさせるのも一興。
ーー炎竜と戯れている魔法使いの女の子。僕たちの王様ーーになる少女。
僕たちが望む国の姿に辿り着く為には、王の言葉が、彼女の思いと願いを語り掛ける場が必須となる。そこでしくじれば、竜の国は頓挫してしまうかもしれない。
「ーーーー」
こうなることはわかっていた。いずれ必要になると。
だから僕は思い出す。だから僕は信じる。
やる、と。おうさまを、王さまをやる、と。そんなことを、ーーそう、そんな小さくて大きなことを呟いたときの、どこまでも透き通った、希求の瞳を。
僕は、自分が弱い人間だということを知っている。これから大それたことをする。
ああ、良くないな。感傷的になっている。そんなことだから、迷い込んできた想念を追い払うことが出来ない。
僕は、内側に、常に足りなかった、それに意識を向けてしまう。
幼い頃、山々を見上げていたとき、自分の居場所に違和感を抱いた。失っているからなのか、焦がれているからなのか。空虚とか空疎とは違う、僕の内に、何かがあるのだ。然し、風の儚さで散ってしまう、手を伸ばそうと心付いた瞬間に解けてしまう、求め難いものが、僕を足りない人間にした。
人として何かが足りていない、そんな風に思ったのは、いつの頃だったか。
コウさんの翠緑の瞳に惹かれた、表面的なすべてのものを取り払って蟠っていたのは。
輝きの奥に、繋がりがあるような気がした。幼き日々の追憶から今に至るまで、自らの求めを確かめる。それを知りたかった、それに答えを与えたかった、手を伸ばしても届かないそれに、触れて、感じて。また明日と、遊ぶ約束をした幼子のような、今日の次に明日が遣って来ることを、風に託して、憧憬の眼差しで見詰めていたい。……ああ、もうっ、自分でも何を言っているのか、何が言いたいのかわからなくなってくる。
空の果てまで落ちて行きたいくらいの、酷い妄想だ。そう思って捨ててしまえるなら、どれほど楽なことだったろう。でも、頑是無い子供のような一途さで、きっと僕が僕でなくなるまで求め続けるのだろう。それがわかれば十分である。コウさんの願いの先に、僕の求めるものがなかったとしても、彼女の願いが潰えるまで添うことが出来る。
「おー、悪ぃ顔してやがんなぁ、こぞー。覚悟完竜したってか?」「えっと、悪い顔、は勘弁してください。そういう気分ではありましたけど」「そー心配すんなって、どーせ失敗したとこで俺たちゃ、じじーんとこ引っ込むだけさ。こぞーは知らんけどな」
エンさんらしくない。僕を励ましてくれているらしい。それで何も解決しないとわかっていても、それは誰の所為でもないと、最後には笑っていられると、根拠のない自信を見せてくれる。何だかんだで、彼は二人の妹の兄なのだ。彼は妹たちの為に、自分に何が出来るか、何をすべきかを理解、いや、本能的に悟っているのだ。それは、決して揺らぐことのない、彼の強さである。
そう、彼は、その時がくれば、あっさりと竜の国を見捨てて、二人の妹を選る。僕は、見捨てられる側である。エンさんに認められるには、どれだけの道程を行けばいいのか。僕を気に掛けてくれているのは、期待の表れだと、今は好意的に解釈しておくとしよう。
「俺ぁ生来、怠けん大好きんぐうたらだって。失敗したなぁ、兄貴やるって決めちまったかんなぁ。あー、惰眠貪りてぇが、困ったことんなぁ、兄貴ってぇのぁ可愛くねぇ妹たちん為ん体ぁ張ん義務ってやつぁあんのさ。どこん誰ぁ決めたんだよ、ちくしょうめ」
長話が苦手なのに無理やり話を続けるので、本音が駄々漏れになっているようだ。もしかしたら、これがエンさんなりの、覚悟完竜、ってやつなのかもしれない。
熟れていない男同士の会話というものに、ちょっと照れが入るが、僕は何も言わず竜の都を眺め遣る。今は静かな都に、人々の声が溢れる様を思い描いて、笑みが浮かんでしまう。それは遠くない未来の、僕たちの願いの情景である。ーー耽溺している後ろの面々(ふたりのむすめはこりゅうがだいすき)を背負いながらだと、格好も何もないが、まぁ、そこら辺の諦めも完竜である。
南の竜道を抜けると、竜の国の玄関口とも言える半円状の、翠緑宮の敷地を上回る用地が、平野の遥かな景色とともに迎えてくれる。国の物流を担うことになる重要な地点である。彼方まで見渡せる空と風から視線を下ろせば、清浄な青を湛える人造湖。余熱を攫う、緩やかで肌寒い風が湖面を小さく波立たせて、耳に快い微かな余韻を響かせている。
中央の大路と、八つの竜地に続く左右四つずつの中路が放射状に、古の巨人の手のように広がっている。まぁ、そうなると指が長過ぎなので、手と表現すると語弊がありそうだ。湖の群青に揺られてしまえば、その路が空まで届くような錯覚に抱かれることだろう。水と光が戯れていなければ、薄っすらと、対岸とその先の山々を望むことが出来る。
それぞれの路の左右には、魔工技術を用いた運搬装置である湖竜が浮かんでいる。
実はこの湖竜、初期の計画よりだいぶ複雑になって、現行の技術を大掛かりにしただけ、というコウさんの言葉では説得力がない出来栄えになってしまった。始めは一本の縄に複数の湖竜を固定するという方式だったのだが、湖竜の転覆が相次いでしまった。因みに、原因は不明である。そこで、まぁ、僕が提案したのだが。一本の縄は一定区間だけで稼動して、終わったら次の縄に移行されるーーという湖竜を一本ではなく複数の縄で引く方式に改良。つまり、巨人が一人で縄を引くのではなく、たくさんの中人(そんな魔物はいない、はず)が、自分の担当する場所だけ引っ張っている、と言ったらわかり易いだろうか。
然しもなき問題が二つあった。いや、一つは重要だが、気付かれなければ問題は起こらない、かな? 中人引き方式は、明らかに現在の魔工技術の水準を超えてしまい、コウさんの魔力を過剰に注ぎ込んだ由々しき問題を孕んだ代物になってしまった。もう一度言うが、犯罪はばれなければ、もとい革新的技術はばれなければただの一般的技術。
そして、もう一つ、僕にとってはこちらのほうが大問題、って、とどのつまり二つとも問題だらけなのだが、まぁ、こちらも僕が我慢すれば大丈夫、なのかな。然ても、何があったかというと、僕が問題をいみじくも解決してしまったが為に、魔法の第一人者を標榜している、とまでは言わないが、魔法に並々ならぬ熱意を注いでいるコウさんが拗ねてしまったのだ。「竜の残り香」の説明を聞けなかったのも、その所為だったりする。子供っぽい、と言えばそれまでだがーーん? ああ、そういえばそうだった。彼女は紛う方なき子供だった。周期相応の癇癪と言っていいが、これから王様になるのだし、可愛らしい膨れっ面や愛らしい仕草など、卒業しなくてはならない。
……いや、それはもったいないかも。うん、強制すべきものではないだろうし、自然にそうなっていければいいな、ってことで。
「その醜く歪んだ顔は、悪いことを考えてるときのものなのです」
エンさんだけでなく、コウさんまで断言してきた。いや、エンさんより酷い。ただ考え事をしていただけだというのに、僕の惟る表情は、そんなにも悪人顔に見えるのだろうか。
「その美しく儚げな顔は、千の竜が焦がれる姫そのものなのです」
然てこそ仕返しである。即興で返した割には、まあまあの出来だと自負する。
僕とコウさんが居るのは、南の竜道から出て二十歩くらいの場所である。そこに横長の机を置いて二人で仲良く座っている。という風に見えればいいが、どうだろう。コウさんが左で、僕が右に座っている。そして、僕たちの後ろには二十体のミニレムが控えている。
人々と接するので、本日は正式な服装である。僕たちに散々に、もとい執拗に、……ああ、まぁ、そんな感じで見られ捲って、王様の、魔法使いの服に慣れたかと思ったが、まだまだのようで、ときどき短いスカートの丈を気にしている。当然、今日は謎塊禁止。顔が良く見えるようにと、三角帽子は僕が強奪して、ミニレムに預けてある。見ると、帽子と杖を捧げ持つミニレムの姿は、どことなく誇らしげである。
さて、コウさんだが、残念なことに魔力放出には至らなかった。言い返そうとして、それが出来ず、然ても、毛を逆立てた子猫のような健気な威嚇の姿を見せられると……。いや、別に、もっと苛めたくなるとか、そんなことは微塵も考えていませんよ。本当ですよ?
はてさて、コウさんだが、どうやら、美しい、という表現より、可愛い、のほうが効果があるようだ。次の参考にしよう。可愛らしい容姿と子供っぽい感じが似合うコウさんにとって、美人という言葉は劣等感をちくちく刺激するものなのかもしれない。さて、って、さて、ばかりを繰り返しているが、知らず知らず緊張していたのだろうか。多少なりとも自覚があったので、王様で魔法使いな女の子を見ていたわけだが、然ても有り果てず。とはいえ、まったく効果がなかったわけではなく、さてさて、コウさんで和む時間は終了。
光を背にした山々は暗い色を投げ掛けて、空を突き刺すような単調な輪郭になった東の山脈から、炎竜の寝惚け眼のような陽が昇ったので、「もてなし作戦」の開始である。
「それでは、コウさん、魔法を解いてください」
「竜に千回舐められて、三日間くらいひりひりするといいのです」
機嫌を損ねてしまったらしいコウさんは、ぷぅー、と幻聴が聞こえそうな、竜のほっぺと甲乙付け難い王様ほっぺで、膨れながら手を上げた。
いや、竜に舐められるって。みーに舐められている心象が鮮明に……げふんっげふんっ、然に非ず、僕の中の倫理観とか羞恥心とかそういうものが総動員された結果、妄想は完全無欠に消え去るのだった。普通なら、竜の姿のみーを想見すべきなのに、どうして「人化」したみーを対象としてしまったのか。……深くは追及、いや、追究しないことにしよう。
コウさんが手を下ろす。クーさんの言い付けを守って、魔法を使う際の演技である。始めの頃は慣れていない所為で、魔法と演技の時機が合わないことがあったが、クーさんの演技指導と、みーに情けない姿を見せまいとするコウさんの熱意によって、今では自然な動作で、普通の魔法使いと遜色のない低水準である。って、ああ、この表現は間違っているかな。というか、他の魔法使いの方々に対して、酷く失礼な物言いになってしまった。心中で、世界中の魔法使いに誠心誠意頭を下げる。
然てしも有らずのんびり構えていられるのもここまで。
呼気一つの間だけ目を閉じる。僕は気持ちを切り替えた。ここから先は、竜の国の侍従長である。隣にコウさんが居てくれるお陰か、すっと気持ちが入った。
ーー残念、全員、男か。
それまで誰もいなかった南の竜道に、十五人の男が現れた。服装はまちまちで、どこの街にでも居そうな住人や冒険者風、制服や商人らしき格好の者まで様々だ。一人くらい女性が交っていれば、コウさんの緊張が解れていたかもしれないのだが、是非に叶わず。
「なっ⁉」「ぅわ‼」「ここは……」「っ!」「ひっ⁉」「……やっとか」「おー、絶景絶景!」
男たちが驚くのも無理はない。彼らからすれば、突如目的地に辿り着いて、周囲には自分と同じ境遇の男たちが屯していた、といった按配なのである。中には、自分の置かれた現況を理解していて、納得や呆れなど、別の表情を浮かべている者が幾人かいた。
「状況を理解していない方がいるかもしれないので、説明します。一人ずつ対応するのは面倒なので、フィア様の魔法で皆さまにはその場所で待機してもらいました。皆さまは、重要な客人ですが、同時に、竜の国への不法入国者です。相応の扱いを受けても仕方がない、ということで納得してください」
間者、密偵、斥候など、呼び名は何でもいいが、そういう役目を負っているであろう人々に語り掛ける。或いは、ただの好奇心で遣って来た者がいるかもしれない。斯くの如き人物が居てくれたなら、喜ばしいことである。願わくば、竜の国で雇いたいものだ。
今説明した通り、一昨日の挨拶回りの結果、竜の国の存在を確認に、若しくは否定しに遣って来た人々への対処の為、コウさんに魔法を使ってもらった。彼らには、景色の変わらない場所でぐるぐる回ってもらっていた。コウさんの魔法に気付く者はいても、さすがに破る者はなく、行使された複数の魔法を正しく看破した者も皆無と思われる。
それら冠絶の魔法を易々と成した王様が、ちらりとこちらを窺ってきたので。正面を向いたまま、彼らから見えない位置で掌を裏返す。
きゅっと結ばれた口元が、ゆくりなく仔竜の炎のような優しさに彩られて。僕の求めに応じて、ふわりと、﨟長けた余裕を醸しながら立ち上がると、軽く胸に手を添える。その女性らしい仕草に、且つ幼く愛らしい笑みを浮かべる妖しさに、男たちが息を呑んだ。
「「「「「……っ」」」」」「…………」
斯く言う僕も、彼女の見慣れぬたおやかな振る舞いに放心しそうになるが、理性とか自制心とか人間に具わっている、いや、後天的でも何でもいいのだが、竜にも角にも、然く尊いもので己を奮起させて視線を男たちに戻して役割を思い出す。
「こちらは、竜の国の王、コウ・ファウ・フィア。僕は、侍従長のランル・リシェです。東の竜道に遣って来た人数は五人。そちらは、宰相のクグルユルセニフと竜騎士団団長のエン・グライマル・キオウの二人が案内人を勤めています」
正規の来訪者ではないので、ある程度、くだけた物言いにする。
「それでは、こちらの紙に名前や所属、来訪の目的などの記入をお願いします。偽名や無記名でも構いませんが、その場合、優先順位が低くなり、相応の扱いを受けることになるかもしれません。あと、お帰りの際に、竜の国のお土産を渡せなくなります」
「おーしおしっ、一番~一番~」
先程、絶景、と叫んでいた長躯の男が、先んじて遣って来る。それを見て、突っ立っているより有益と判断したのだろう、他の男たちも互いを牽制しながら近付いてくる。
「はい。どうぞ、竜茶です。北の洞窟の近くで収穫される、竜の魔力を浴びながら育った茶葉を使用しています。穫れる量が少ないので、重要なお客様や各国への贈答品として用いる予定です。ーーここに居られる方で、もう一度味わえる方はいらっしゃらないでしょうから、話の種としても飲んでおいたほうがよろしいでしょう」
コウさんの受けがいいようなので、僕は逆に嫌味の成分を程好く散らして、嫌われ者を演じることにする。ただの水も、汚水を見た後では、清水と見紛うーーことを期待。
王と侍従長を名乗ったとて、そこに居るのは子供が二人。どうしたって、侮りの対象となる。コウさんの力が知られている今、正しく彼女の魔法が危険なものであると理解してもらわなくてはならない。その上で、コウさんという女の子のことを、王とか魔法とか人を惑わす要素を摘み取って、蕾が綻ぶのを、不器用で優しい、どこにでも居そうな普通の女の子だとわかってもらうのが目的である。
これで、魔法だけではない、コウさんの良性が引き立ってくれればいいのだが。
コウさんは、用意しておいたカップに竜茶を注いでゆく。優雅で気品がある、まるでどこかの貴婦人のようである。こんな隠れた引き出しを持っているとは。随分と彼女を知った気になっていたが、浅はかだった。内心で、麗しの魔法使いに謝っておく。
「ほう、こりゃ美味い。確かに、飲んどかなきゃ損だな」
物怖じしない人である。一番手の長躯の男は、三十路くらいだろうか、屈託のない愛嬌のある笑顔はエンさんを彷彿させるので、コウさんも接し易いかもしれない。
「俺は寒国の果て、キュレイスの者だ。うちの王様の花道を作ってくれたみたいなんでな、お礼を言いにきた。その場に居合わせることが出来なかったのが残念でならん」
どうやら、一昨日の一件が伝わっているようだ。距離的に鑑みて、早期に情報が届くことは有り得ない。即ちそれを可能にする何らかの手段ーー恐らくは魔法に依るものだろうーーを持っているということ。エンさんとの闘いから、猪突猛進の王かと思っていたが、「最果ての王」は案外抜け目のない方だったのかもしれない。
「よう、兄弟。こっちも似たようなものだ。『凍土』との壮絶な一騎打ちが話題になっている。お互いに仲良くできそうだし、挨拶に来たってところだ」
二番手は、故郷の人のようだ。長躯の男より周期が幾分上だろうか、中肉中背だが、戦士然とした風貌がある。然あれど、根は三寒国の気風の人らしく、記入を終えると、相好を崩して竜茶に舌鼓を打っていた。
三寒国の人々は、同じ境遇を経てきた為か、連帯感が強い。ストリチナ同盟国のような盟約ではなく、同胞、仲間意識で繋がっているので、兄弟や同志といった言葉でお互いを呼び合うことがある。僕が三寒国の出身であることを告げるか迷ったが、嫌われ役を担うと決めたので、親近感を持たれない為にも黙すことにした。予想していた通り、三寒国と友好関係を結ぶのは難しくなさそうだ。エンさんが喧嘩を売ったときは、何てことをするんだ、と頭を抱えそうになったが、良い影響を与えていた(?)ようで一安心である。
竜茶を飲み終えた二人の許に、二体のミニレムがとたとたと歩いて近付いてゆく。一人に一体、ミニレムが随行することになっている。申し訳ないが、彼らにはミニレムの運用試験の手伝いを強制的にしてもらうことになっている。竜の民と接する前の、最後の確認である。ミニレムを目で追っていると、近付いてくる三人目が視界に入る。来訪者の中では最も周期が若いだろうか、二十歳くらいの若者なのだが、どうしたことか呼吸が浅く強張った顔をしている。邪魔だと言わんばかりに三寒国の二人を押し退けて、僕たちの前に立つと、書き殴るように紙に記入してゆく。
書き終えた用紙を差し出して、残った手を後ろに回して、
「ああ、書けたっ、ぞっ‼」
短剣を抜くなり、コウさんの心臓に突き刺して、剰え僕に魔法を放ったようだ。
「「ーーーー」」「「「「「‼」」」」」
ゆくりない凶行に空気が張り詰める。僕は、全体を眺めるように見澄ました。
目的を達したと勘違いして、引き攣ったような笑みを浮かべる若者。
彼の他に、不審な動きをする者はいない。単独での犯行と見ていいだろう。弱くはないが、そこまで強くもない、と言ったところか。夜毎のエンさんとクーさんとの鍛錬の所為、もといお陰か、だいぶ目が熟れてしまった。居回りの反応から、魔法も然程強力なものではないと看取する。単純な攻撃魔法だろう。そして、彼の形相から、これまで人を殺めたことがない、これが初めての、人としての禁忌を破ったのだと感受する。そこに、僕たちが係わっている、ということ。竜の国を造ることで、このような、運命であったり行き先であったり、そういうものを捻じ曲げてしまう者が現れる。然あれど、覚悟ならコウさんと同じ道を行くと決めたときに済ませてある。この程度のことで揺らいでなるものか。
「てめぇ、子供相手に何してやがるっ!」
三寒国の二人が、義憤に駆られて凶行に及んだ若者を取り押さえようとするが、彼はコウさんの胸に剣を残して、すでに手の届かないところまで退いている。即座に逃げを選ぶ、その判断は悪くないが。
「はっははっ、これで大金は俺のもん……?」
遅過ぎる、と非難するのは可哀想だろうか、若者は異質さに気付いて、釘付けになる。
釣られて皆の目がコウさんにーー。
「「「「「ーーーー」」」」」
氷竜は、最大級の息吹を撒き散らして悠々と飛び去ってゆく。炎竜が居ないので、僕の心象というか幻視宛らに、先程とは別種の空気が張り詰めて、男たちを凍り付かせる。
「……、ーーっ」
ーー失敗した。もし暗殺を狙ってくる輩がいたら、その攻撃を受けてください。とコウさんにお願いしていたが、今更ながら後悔していた。軽く考え過ぎていた。彼女には、通常の肉体と魔力体があって、片方だけならどれだけ傷付こうと死ぬことはない。いくら平気とはいえ、その身で剣を受けて欲しい、などと言われたら、相手はどう思うだろう。加うるに、治癒魔法で治るとしても、痛みはあるのだ。心臓を刺されるという絶命に至る、極限の苦痛、それだけではない、他者からそのような行為を受ける、それだけで多大な心痛を伴うだろう。斯かる鬼畜にも劣る行いを他人に強要するような奴は、千度切り刻まれて、魔物の餌にでもなってしまえ。
なれど、どれだけ悔いても、取り返しがつくはずもない。なら、僕の、下劣で低劣で卑劣なお願いを許容してしまったコウさんの、竜の国への思いを無駄にしてはならない。
「フィア様。失礼いたします」
僕は、心臓を一突きにされても無関心を装っているコウさんから、短剣を引き抜いた。刹那に、服の破れが修復されて、痕跡はなくなってしまう。服にも剣にも、血は付着していない。何もかも、元通りである。彼らの記憶と、僕らのそれ以外は。
彼女の魔法の効果だろうか、まるで風に刺さった剣を抜くかのように摩擦による抵抗は感じられなかった。不思議と、手に残る空虚な感覚が僕の罪悪感をより一層刺激してくる。
「さて、この剣はどうしましょう。竜騎士団で訓練用のものとして使ってもらいますか」
「あ、その剣、高いんだ、返してくれ」
気が動転しているのだろうか、若者がそんなことを言ってくる。
「仕方ありませんね」
僕は、若者に向かって、手にした短剣を投げた。
「っ! 危ないだろ、何てことしやがる!」「「「「「…………」」」」」
いや、別に強く抛ったわけではないし、ちゃんと掴み取って欲しい。それに、子供の心臓を、幼く起伏の少ない胸を、あ、いや、コウさんを貶める気は更々ないのだが事実は事実ということで、竜にも角にも、急所を一突きにした奴が何を言っているのやら。居回りの男たちが、若者の唾棄すべき行為に白い目を向けている。コウさんへの畏怖より、不埒者への嫌悪が勝ったのだろう。
僕は場が整ったことを知って、一旦すべての感情だったり雑念だったりを呼気とともに吐き出して心象を固める。すうっと、頭の内と外の境がなくなって、風で満たされる感覚。
ーーそれでは、続けよう。
「あなたは、フィア様を弑するに当たり、そのことを依頼人以外の誰かに告げましたか?」「なっ、……何でそんなこと言わなけりゃいけないんだ」「では、成功しなくて良かったですね。もし成功していたら、あなたは依頼人から大金ではなく、不幸を手渡されていたでしょうから」「はぁ? そんなことあるはずねぇだろ!」
正常な判断など出来ていないのだろう。若者は、反射的に威勢だけで返す。
「依頼人からすれば、あなたがこの世から退場することで、対象者から自分が特定される危険を排除でき、且つあなたの言う大金とやらを報酬として渡さずに済みます。あなたの依頼人が、その手段を採らない理由のほうがわかりません」
自身の目的、利益の為に、殺人を依頼するような人間である。そのくらいのことはやるだろう。まぁ、首謀者からすると、依頼ではなく唆しただけ、ということになるのだろうが。捨て駒以下として弄ばれた自覚のない哀れで度し難い若者は周囲を見回すが、向けられているのは、そんなこともわからないのか、という蔑みの眼差しだけ。
「大金を手にしたい理由は、負債を返済する為ですか? あなたは勝負にのめり込む気質のようですから、賭け事は向いてないですよ?」「っ! あ、ぅあ、馬鹿なっ、なな、な、何で知ってやがるんだ⁉」「ーーそんなもの、視ればわかります」
詰まらなそうに、少しだけ視線を逸らす。僕のその演技に、狙い通り、若者だけでなく、
男たちの目にも畏怖や嫌悪を超えた暗いものが宿ったことを感じ取る。
視ただけでわかる、然しもやは魔法ではあるまいし、そんな都合のいい能力など持ち合わせていない。では、どうしたかというと、答えは簡単である。事前に「遠観」でエルネアの剣隊と黄金の秤隊の面々に客人の姿を見てもらい、見知った者がいるか確認したのだ。
然てこそ該当する数人の情報を聞き出して有効活用した、というわけである。
自業自得とはいえ、そこまで強く若者を非難する気持ちがあるわけではない。彼は、利用されただけ。詮ずるところ条件に適えば彼でなくとも構わない。自身に責任がなくとも、同じ境遇に置かれる者たちがいる。今日に余裕がない者は、明日を考えることが出来ない。この大陸には、今日のことしか考えることが出来ない者が、少なくない数存在する。
然し、困った。予想の範疇ではあるのだが、あからさまに刺客を差し向けてきた。竜の国を受け容れられない者、或いは組織があるのか。ただの牽制とかならまだ増しなのだが。
しばし思惟の湖に漂っていると、雑音を響かせる者がいた。最後尾から、静寂を蹴飛ばして、青年が歩み寄ってくる。優男とでも言えそうな容貌だが、表情には厳しいものがある。服装は商人のような形だが、彼が醸す鋭利な気配がそれを裏切っている。
「私は、ストーフグレフ国の者です。竜の国の侍従長、あなたには私がこの地を訪れた理由がおわかりになりますか?」
ユミファナトラ大河を挟んで、ストリチナ同盟国と比肩、或いは上回る、この大陸の中央に位置する雄国の名を耳にして、周囲がざわつく。三寒国の二人が、困惑の表情を浮かべて、青年に場を譲る。ストーフグレフ、という名には、それだけの重みと威光がある。
青年は、紙に名と所属を記入すると、来訪の目的を空欄のまま、僕に差し出した。
予測とは別の形になったが、僕にとっての竜との対面だった。再度、静かに息を吐く。
可能性という果てのない大海に潜って、必要なものを拾い上げる。蓋然性にまで落とし込んで、普段やっているように、僕の内に湖を心象。足りない部分は勘で補うしかない。笑いが込み上げてきそうになる。先の若者ではないが、賭けの要素が強過ぎる。
「ストーフグレフであれば、あなたに連絡を取った上で竜の国に向かわせることが出来るでしょう。ですが、今回あなたは、あなた自身がここに、同胞に先んじて向かう必要があった。つまり、独断専行。竜の国の情報を得て、願うこと。それは、功績と引き換えにした、本国への帰還ではありませんか?」「……その通りです」
青年の首肯で、賭けに勝ったことを知る。彼の表情に、少しだけ陰りが見える。それは、僕を試す為というより、願いの発露であるように感じた。然あれば彼が記した紙を裏返して、さらさらと書き付けた。ここに居る者に賭けで勝つのは当然のこと。僕は示さなくてはならない。賭けを仕掛けるべき者は、対等の相手として見るべき者は他にいる。
「あなたは竜の国に赴くことを同僚が知るようにしていったでしょう。あなたには、本国への帰還命令が下ります。ストーフグレフ王が、竜の国を実見した者の話を聞く為にです。あなたはそこで、竜の国について語ったあとに、独断専行した理由、何故本国に戻りたいのかを過たず告げます。そして最後に、僕がそのようにしろ、と言ったことを伝えた上で、この紙を渡してください。そうすれば、あなたの願いは叶う」
手渡した紙に書かれた文言を一読して、青年が固まる。好奇心を抑えられなかったのか、長躯の男がひょいと紙を覗き込んで、絶句した。無意識に、だろうか、男が僕に顔を向けてきたので、軽く頷いて許可を出す。彼は頭をがしがし掻いて気を取り直すと、震えを抑え切れない声で読み上げた。
「僕の勝ちですーー竜の国の侍従長ランル・リシェ……。これは……正気か?」
「ええ、きっと、ストーフグレフ王なら気に入ってくれるはずです」
僕は、口だけを薄笑いの形にする。超然とした心象を現出しようとするが、地の底から死霊でも湧いたような居回りの反応に、意図したものと違うが、まぁいいか、と納得する。
英傑たるストーフグレフ王を利用させてもらう。竜の国の侍従長は、彼に匹敵する存在であると嘯く。青年には申し訳ないが、僕の予見通りに、上手く事が運ぶとは限らない。今ここに居る人間が誤解してくれるだけでいい。誤謬を犯して、大いに買い被って、虚像を広めてくれるなら尚ありがたい。竜の国は一筋縄でいかないと、子供にしか見えずとも、国を運営するに相応しい資質を秘めていると、彼らの主に伝えてもらわなくてはならない。
「まだいらしたんですか? どうぞ、お帰りになって結構ですよ」
僕らの目的にそぐわない者が、刺客の若者がまだ居たので、南の竜道を手で指し示す。
「まっ、待ってくれ! 俺を竜の国に居させてくれ!」
少し突いてやれば退散するかと思ったが、意外な、いや、こんな言葉では足りない、慮外千万なことを言い出した。若者の必死な、そしてどこまでも身勝手で厚かましい振る舞いに、僕は応える術を知らない。煩わしい限りだが言葉には言葉で返さなくてはならない。
「竜の国は、逃亡者が訪れる場所ではありません。自らの意思で遣って来るべき場所です。竜の国は竜の民を護りますが、逆もまた然り、竜の民は竜の国を、王を護らなくてはなりません。自分さえ護れないあなたに、何が出来るというのでしょう」
率直に、不味いな、と思った。視界の端で人影が揺れる。僕の隣で、少女が向き直る。
「リシェさん」
気負いのない、静かだが深く染み渡るような声。僕は、コウさんの真っ直ぐな姿勢から発せられる声が好きだった。
王としての資質に声が挙げられるとするなら、彼女は間違いなく合格だ。
「この方を、竜の国に居られるようにしてあげてください。お願いします」
僕に深々と頭を下げた。
……これは、どうしたものか。王が臣下に頭を下げることの是非は措くとして、竜の国がどのような国でありたいのか、それを示すには良かったのかもしれないが。王と竜の民に、身分の違いはなく、ただ役目と役割が違うだけ。この時代、奇異を以て迎えられるこの施策は、竜の国の本懐ーー大き過ぎる魔力を持つコウさんが居られる場所を作るーーとして、成し遂げなくてはならないものである。世界を救うことが出来ても、世界を滅ぼすことが出来ても、他人の助けがなければ生きていけない、強くて弱い、魔法使い。
王に護られるだけの国を、民が王に頼るだけの国を造ったとしても、長続きはしないのだ。コウさんや老師にすべてを話してもらったわけではないが、幾許かの予想はついている。僕とコウさんの捉え方に違いがあるのはわかっていた。コウさんの生い立ちに鑑みれば、僕より深く竜の民を愛するであろうことも。その齟齬をあえて放っておいたのは、心のどこかで疑っていたからなのかもしれない。理想は砕かれるものだ。その先に現実がある。妥協で鍛えた現実を、理想で糊塗して、人々に差し出す。そんな安易な道を選んでしまわないかと、流されてしまわないかと、最後の最後までは、信じることが出来なかった。
ここでコウさんを否定できない僕に出来るのは、一つだけだった。とても卑怯な遣り方で、彼女の願いを壊してやる必要がある。彼女の願いの源泉はそのままに、僕の責任として、彼女の優しさか甘さか判断の分かれる思いから溢れ出た過ちの種を排除する。
「一国の王が、あなたの為に頭を下げています。あなたより周期が下の少女が、あなたが殺そうとした娘が、あなたの罪を許してくれと、懇願しています」「……っ!」
若者の顔が歪んで、次々に感情の色が浮かんでゆく。百面相というほど豊かなものではない。そこに表れるのは、どこまでも自分勝手な表情。後は、一押しするだけである。
「それで、あなたは、どうするのですか?」
若者に選択を委ねてみれば。果たして、彼は逃げ出した。
「フィア王。今は届かずとも、あなた様の言葉は、いずれあの者に届くでしょう。その後、再び竜の国を訪れるかどうかは、あの者次第です」
竜の国の王を一顧だにせず、冷たく言い放つ。慇懃無礼になるよう、形だけの礼儀を尽くす。ここで小馬鹿にしたように一笑に付すのは遣り過ぎか、と無表情で通す。
「それでは、皆さん、湖竜に乗って対岸まで行きましょう。湖竜は、竜の国にある魔工技術を用いたものの一つで、乗り心地を確かめてみてください。先に行って準備してきます」
一人帰ったので、右から六体目のミニレムの肩に触れて、六体を随行させる。
気丈に振る舞うコウさんの健気さに、男たちの視線が向けられる。それは、総じて暖かいものだった。冷たいものは、すべて僕が引き受ける。結果として、斯かる仕儀となったからには、このまま冷徹侍従長……って、何か語呂が悪いな、冷血侍従長、もしっくりこないが、とりあえずそんな感じのものを演じるとしよう。
まぁ、これで成功しただろうか。離れた場所から、コウさんと手続きを行う客人を見ながら、独り言つ。ミニレムが僕を労わるように、ぽんぽんと足を叩く。心配するな、俺たちはすべて理解ってるぜ(訳、ランル・リシェ)、とでも言いたげである。僕はほんのり涙を流しながら、客人たちから見えないようにミニレムたちの頭を撫でてあげるのだった。