二章 竜と魔法使い
二章 竜と魔法使い
寒期には、雪に閉ざされる。竜の狩場の西側、山脈に沿うように三つの国がある。
「三寒国」と呼ばれる。口さがない世間の人々は、「三監獄」などと揶揄する。外に出ることが敵わない四星巡り、産物を拵える。雪の終わりを、商人たちが知らせてくれる。三寒国で産する、質はほどほどで安価な品は、大陸で歓迎される。
三寒国の南に位置する、比較的寒さの緩い国で僕は生まれた。東に竜の狩場を囲む山脈、西に北の海まで続くとされるヴァレイスナ連峰。
ーー世界の終わりっていうのは、きっと山が倒れてきて迎えるものなんだ。子供の頃、そこが世界のすべてだった頃、漠然と思っていた。
自覚はないが、優秀な子供だったらしい。上手く馴染めなかった。周囲の子供たちと、見えているものや感じているものに然したる違いはなかったけど。ただ、いつでも足りないことに飢えていた。神々は手を抜いているんじゃないのか。干乾びそうな想いを、異端視され兼ねないもやもやしたものを抱えながら、いつでも山々に見下ろされていた。
それが人とは違う、資質のようなものに見えたらしい。
父さんに幾度となく戒められる。僕の家系は調子に乗り易いから気を付けろ、と。その父が反面教師として、リシェ家の瑕疵を知らしめることになる。
息子の出来の良さを煽てられた父は、領主の屋敷で雇ってくれるよう嘆願する。領主は、地方領主にありがちな無骨で尊大な気質で知られていた。その場で命を絶たれてもおかしくない父さんの軽率な行いは、万に一つの可能性を引き当てる。新たな領地を得て伯爵となったことで機嫌が良く、尚且つ次男の世話係が不祥事の末に夜逃げするという面倒事の一つが片付くとあって、領主の気紛れで雇われることになる。どこかの商家にでも働きに出されるはずだった僕の、多いようで少ない選択肢にエルシュテルの幸運が齎された。
グランク家の次男ニーウ・アルン。僕が仕えることになった少年のーー兄さんの名前。
兄さんは疎んじられていた。長男は優秀であったが、自分より優れた弟を毛嫌いして、同じく領主も自分より優れた者を後継者に据えることを忌避していた。領主と、彼の気質を継いだ長男、利益に聡い母親、勘気を被ることを恐れる使用人の、いずれからも顧みられることはなかった。家族の愛情に恵まれなかった兄さんは、下働きの僕を本当の弟のように慈しんでくれた。サクラニルに祝福された溢れる才能の恩恵を、僕に施してくれた。兄さんが蓄えた知識や知恵、武芸や作法を惜しげもなく注いでくれた。
グランク家が如何に隠そうと、兄さんの才能が鳴り響くのを止めることなど出来ない。〝サイカ〟が兄さんを求めた。これほど良い厄介払いの理由など然う然うない。領主は喜んで次男を放逐した。これが兄さんにとって、そして僕にとっても転機となる。
市井の暮らし、兵士の待遇を知らぬ者が正しき道を知ることはない。〝サイカ〟の里は、然く随行者を許可していなかった。然り乍ら兄さんは僕を伴い、独自に〝サイカ〟の里を探り出して、辿り着いてみせた。そして、仕えるべき人がいなくなって家に戻されるしかない僕の行く先に、新たな道を、一条の光を残してくれた。
ーー弟は、里の門を潜れる資質を持つので、試していただきたい。機知や明察さだけでなく諧謔をも好む里の長は、兄さんの異例ともいえる要望を受け入れた。
兄さんの期待に応えるべく、兄さんから学んだすべてを出し切った。果たして、里へ入ることを許される。共に門を潜るときに言ってくれた兄さんの言葉が忘れられない。
僕のことを兄と呼んでくれると嬉しい、とはにかんだ顔で頭を撫でてくれた。人生に宝物があるとするなら、この瞬間がそうだった。
兄さんは、その俊才を遺憾無く発揮して、〝サイカ〟として新たな道を歩み始める。
一方、僕はというと。里での一日目から、女の子に涙目で睨まれていた。武芸の鍛錬中、兄さんにも褒められた防御の技術で、女の子の可憐な容姿とは裏腹の、苛烈な攻撃を軽々と往なしてしまったのが不味かった。女の子は強かったが、兄さんほどではなかった。それが誤解を招く結果になろうとは露知らず。攻守を交代して、苦手な攻撃で消極的になったのが発端。手加減していると勘違いされて、後に呼び出されて糾弾される。女の子は直情的で融通が利かなかった。武芸のことだけなら、誤解は解けていたかもしれない。然し、僕がうっかり漏らしてしまった真情を吐露する言葉が、女の子の逆鱗に触れてしまう。
ーー〝サイカ〟になりたいわけではない。僕にとって重要なのは兄さんを追うことで、兄さんが与えてくれたものを享受することで、〝サイカ〟は序でのようなものだった。優先順位が異なるだけだったのだが、女の子には理解してもらえなかった。
嘗て〝サイカ〟は、相争い貶め合い、奪い取る称号だった。現在の里の長と仲間たちによる改革によって、〝サイカ〟を取り巻く環境は改善された。
切磋琢磨して学び合った多くの友人たち。共に〝サイカ〟を目指して、心血を注いだ。
僕たちが受けた認定試験で〝サイカ〟に至った者はいなかった。これから〝目〟として〝サイカ〟になるべく活動して、それぞれの道を歩んでゆく。
あの女の子ーー少女とは、最後まで反目し合うことになってしまった。僕はどうにか歩み寄れないかと苦心を重ねたが、結果は無残なものだった。友人たちは生暖かい目で、気にするな、と言ってくれたが、里に残してきた唯一の気掛かりだった。
ーー頭がぼんやりとしていた。南方の国々を目指していたはずが……、然て置きて里を出たはずなのに、なぜか魔法の歴史学で師範の話を聞いている。
「『魔術師の夢』という古事がある。魔術師は、遥か彼方にある星を地上に降らせる、斯様な魔術を行使している夢を見た。それを聞いた人々は魔術師を嗤ったが、それを聞いた魔術師たちは誰一人として嗤わなかった。やがて、魔術は魔法となり、魔術師は魔法使いとなる。残念なのは、魔法使いが、魔術師の夢、を受け継がなかったこと。魔法使いは、魔術師の夢、を嗤ってしまった。今に至る魔法使いの凋落は、その時に決まっていたのやもしれん。わしは嗤わない、いつか『星降』の魔法をーー」
ーー「星降」。魔法関連は敬遠していたが、老師範の話は嫌いではなかった。
「ーー、……」
次第に声が遠退いてゆく。ふと隣を見ると、少女とーーカレンと目が合った。
これは夢か……。何故そう思ったのかというと、少女が僕を見て朗らかに笑っていたから。終ぞ見ることの叶わなかった彼女の笑顔は、思っていた通りの、いや、思っていた以上に魅力的なーーその微笑みがそのまま別の女の子の、魔法使いの綻びた素顔に変わる。
「うぁ……」
……女々(めめ)しい、女々し過ぎる。僕は目を覚ますなり、両手で顔を隠して悶えた。
夢とはいえ、女の子の笑顔を思い浮かべて胸を高鳴らせるなど、恥ずかしいにも程がある。糅てて加えてその笑顔は妄想の産物で、実際には向けられたことのない面持ちである。
見れば、闇は深く、焚き火の音が心地良い。両手の隙間から覗いた夜空の星は、綺麗過ぎて涙が出そうだ。追憶めいたものが心を震わせるが、それ以上に全身の痺れが僕を苛む。
足の多い大きな虫が体中を這い回っている感じだ。と心象を抱いた瞬間、痺れだけでなく怖気を震い苛んできたので。雷竜と添い寝したらこんな感じなのだろうか、と滑稽な妄想をしてみるが、寝返りを打った雷竜のお腹で、ぷちんっ、と潰されてしまった。まぁ、僕の貧弱な想像力(?)などこんなものだ。我慢できず、両手で体を摩るが、腕も掌も痺れているので、痛いのか擽ったいのか、妙な反発を覚える感触に身悶えしそうになる。
「ぅぐぐぅ~」
大地を這いずり回る生き物とは、こんな気分なのだろうか。いや、彼らを貶めてはいけない。彼らにとって、それは生き残るに最適な、在るべき姿なのだ。などと仲間意識を芽生えさせてみるも、然しもやは僕の人間としての矜持が、豪快な笑い声を浴び続けることを許さない。……はぁ、そんな格好良い台詞は、竜にも角にも、起き上がってからである。
「はっはっはっ、『星降』喰らってそん程度ん済みぁ、御の字御の字っ!」
然てこそ頭の上から嫌味のない笑い声。蟠った陰を吹き飛ばす陽気さは健在である。
体に力が入り難く、何処かに触れる度に筋肉なのかよくわからないものがびくびく反応してしまう。これは怪我ではないと割り切って、棒のような手足を動かして、焚き火を囲う輪に加わった。一息吐いて、思い出す、いや、思い出したような、気がする。
「体に異常はないか? リシェには治癒魔法が効かない。難儀なものだが、今回はそれで助かったのだから、文句は言えまい」
クーさんが流し目をくれる。相変わらず、絵になる人である。
ああ、そういえば、体の痺れで失念していた。腿と横腹に触れて、背中をぐっぐっと左右に動かしてみる。痛い、が、痛いだけ。骨折はしたことがないから断言は出来ないが、打撲程度で済んでいるようだ。三日くらいは痛みが強いだろうが、それも動き出して、ある程度経てば麻痺してしまうので、放っておいても構わない。治癒魔法に頼れないので、こういった打ち身の類いは自然治癒に任せている。損傷箇所が膿んでしまわない限りは、これまでこれでどうにかなっている。
「……あれ? 夢を見ていた夢を見ている?」
自分でもちょっと何を言っているのかわからなくなる。これは、どこまでが夢だったのか。まさか、今も夢を見ているというのだろうか。
ここは森の中で、僕の前には魔法使いが居る。外套と三角帽子で、以前のままの小さな塊がそこに居た。少し体が熱くなる。記憶というよりは、体が思い出す。柔らかかった、女の子を抱き締めたのは初めてだった、それは意図したものではなかったのだけど、あの感触、今でも鮮明に甦る、触れた手の先の、服を通した……。熟と右の掌を見る。
刃が交錯した。
「斬れてますっ! 刺さってますからっ!」
エンさんの長剣がごりごりと、僕の首を断ち切らんとばかりに力任せに擦られる。クーさんの片手剣が喉元に二本刺さって、全体重を掛けて押し込んでくる。
「こぞー、はっはっはっ、こぞー」「ふっふっふっ、世の中には記憶喪失ってものがある、ふっふっふっ」「はっはっはっ」「ふっふっふっ」「はっはっはっ」「ふっふっふっ」
二人とも笑っている。やばい感じに壊れている。
魔法使いが普段使われることのない薬箱を僕の前に置くと、ささっと元の場所に戻っていった。もしかしたら、「星降」を使ったことに忸怩たる思いを抱いていたのかもしれない。その罪滅ぼしなのだろうか、ちょこんと座っている謎塊からは読み取れないが。
「星降」の直撃を喰らったとき、魔法使いを信頼していたからだろうか、死の恐怖を感じなかった。そこまで魔法使いを信用できるものなんて、僕の中には無いというのに、どうして心を預けるような無防備な状態になってしまったのか。これは由々(ゆゆ)しき事態である。
無抵抗で惟る僕と、置物になっている魔法使いを見て、問題が解決したと思ったのか、はたまた悪乗り乃至便乗が出来なくなって興が冷めたからか、二人は渋々剣を収めた。
「俺たちん剣は魔法剣なんだよなぁ。これ自体魔力ん帯びちまってるってことか」
「魔法剣は世界に十本程度しか存在しないと言われている。付与魔法にすら手を拱いている魔法使いが、代償なく魔法剣を拵えるようになるのは、いつのことになるやら」
世界の平和を守ることが出来なかった英雄の苦悩みたいなものを、ちょびっとだけ滲ませながら、二人は元の場所に戻った。
魔法剣で助かった、と言っていいのだろうか。首の三つの傷口から、たらりと血が流れる感触が伝わってくる。包帯を巻くほどではないので、血止めの軟膏を塗っておく。これは魔法使いが発明した軟膏で、傷口が汚染されるのを防いでくれるありがたい代物である。こうした細々とした功績が、魔法使いが世間で認知されている理由でもある。身近なところでは、安価な紙とペンも魔法使いの発明で、書物が流通する切っ掛けにもなった。
この二つは、魔法使いの二大発明と呼ばれているが、大きく異なることがある。それは、魔法使いが発明の恩恵に浴したか否か。軟膏は、魔法使いの一族が製造と販売を行い、正しく効果のある品を大陸に流通させて、巨万の富を得たという。逆に、紙の製法とペンを発明した魔法使いは、その権利を商人に売ってしまった。商人は、大金を魔法使いに支払ったが、それでも商人が得た金銭のほんの一部に過ぎなかった。因みに、この商人、部下に適切な給金を渡さなかった為、紙の製法を外部に流出させてしまうことになる。まぁ、その結果、多くの商人が紙とペンを取り扱えるようになって値崩れを起こして、後の大陸の発展にまで影響を与えることになるのだから、世の中わからない。
「……ふぅ~」
さて、僕は夢を見ていないし、頭も正常に機能している。
体の内側に空気が充満して膨れる確かな感触が、瞬きや体の動きなど普段の何気ない行為が、不思議と頼もしく思えてしまう。
ここは森の中。見覚えのない場所。夜はまだ浅く、ずいぶん長く気を失っていたようだ。余りに静か過ぎて、未だ夢の中の住人だと錯覚してしまいそうになる。
首の傷に触れると、痛かった。そう、傷というものは、痛みがなくなる為には、治らなくてはならない。いや、何故そんな当たり前のことを考えているかというと、目の前の現実をもう一度咀嚼して、きちんと理解する為なのである。ああ、いや、一人で考えていると、物事というのはどんどん出鱈目に無秩序になってゆく。……はぁ、油断すると思考が散漫になる。里で習ったことを一々思い出してなどいないで、さっさと質してしまおう。
「今更何をくっちゃべっているのかと思うかもしれませんが。エンさん、何で生きてるんですか? クーさん、両腕はどこから生えてきたんですか?」「死んでねぇから生きてんってわけだ」「腕は生えない。斬り落とされたのをくっ付けた」
真面目に説明と訂正をされてしまった。
「今更何をくっちゃらべっているのかと思うかもしれませんが。エンさん、何で死んでないんですか? クーさん、両腕はどうやってくっ付けたんですか?」
説明が足りない、足りな過ぎる。大事なことなので、もう一度聞かねばなるまいが、同じことを尋ねるのは恥ずかしいので、色々と少しずつ質問の内容は変えておいた。エンさんとクーさんは顔を見合わせて、詮方ないとばかりに頷いた。
「こぞー、ちび助触ったとき、どーなった?」
一瞬だけ右の掌が疼いたが、聞かれているのは別のことだと思い至る。望んだ回答ではないが、関連のある事柄であると断じて、正確を期すべく注意を払って答える。
「魔法が見えました。見えただけでなく、感じてもいたような。感覚の共有? 『探査』の魔法だったと思いますが、遺跡のある場所から地表や張られた『結界』、遠目にエンさんとクーさんが倒れている姿も見えました。
知覚、と断言できるほどはっきりとしたものではありませんが、言葉にするなら『同調』、いえ、一方的に入り込んでいる風でしたから、『浸透』のほうが近いでしょうか」
あの不可思議な感覚を思い出しながら、言葉にしてゆく。痛みや感覚といったものは、自己申告であるが為に、他者に伝えるのが難しい。況して僕には魔力がない。如何ともし難いとはいえ、然てしも有らず僕自身のことであるのだから、思惟の湖の奥底まで潜ることを恐れてはならない。あれは他者との意識の共有なのだろうか。魔法が見える、というだけならわからなくもないが、もっと深いところで繋がっていたような、あの感触、というか、心地を、説明するのは難しい、というか、心苦しい。
ーー触れた先から解けてゆく、和毛を転がる風のような波が僕の根幹たるものをさざめかせて、重なる魔法使いの、金色に目覚めた魔力の混迷が、底無しの喪失を焚き付ける。
……感覚を心に浸して言葉を引っ張り上げてみたが、うん、これは駄目だ、伝わる気がまったくしない。それに、何だろう、これを口にしたら、物凄く恥ずかしいような予感がする。とまれ、言うべきことは言った。氷焔の皆さんの反応を待つとしよう。
「それは面白い。魔法に共感していた? もしそうならっ……」「こら、相棒」
エンさんは、好奇心を抑え切れなくなっていたクーさんの頭を、ぽかり、と叩いた。中身はたくさん詰まっているはずなのに、やけに空っぽの音がしたのは気の所為だろう。
「くっ……。こほんっ。そういうことなら話は早い。論より証拠、竜の塒に連れて行け。もう一度、コウに触れてみると良い」「はい。わかりました」
クーさんの提案に即答する。答えに至る一番の近道は、もう一度体験することである。あのときはゆくりない出来事に心が乱れて曖昧さが紛れ込んだ。然し、あれはあれで良かった。事前情報がなく、偏りや思い込みなどの余計なものに惑わされず「浸透」を体感することが出来た。などと、後付けだから言えること。死に直結したかもしれない決死行を、如何に有意だからといって、もう一度味わいたいかと聞かれれば竜より早く否定する。
然てこそ魔法使いの肩に手を伸ばそうとして、……逃げられた。
「…………」「…………」
実際に肩に手を伸ばして、逃げられた。それではと、手を握ろうとして、逃げられた。いっその事、頭を撫でてやろうと腕を持ち上げて、逃げられた。
目の前の少女の実態は、千匹の猫で体を覆い隠した竜のようなものである。繊細で可愛い容姿に騙されてはいけない。爪を研いでいそうな雰囲気に、積極的な行動が躊躇われる。
「…………」「…………」「…………」「…………」
周期頃の女の子の心を斟酌するには、僕の経験値は少な過ぎる。と嘆いていたら、忽せには出来ない問題が放置されたままであることに今更ながら心付く。いや、遅過ぎである。色々あって惚けていたとはいえ、あんな衝撃的な柔ら……あ~、うん、ごにょごにょ。
僕のしたことは故意ではなかったとはいえ完全な痴漢ーーと言葉にしてみて、改めて自分の仕出かした過失の大きさを思い知る。法や戒律が厳しい地域なら、私刑になっても文句は言えない。ああ、そうだった、ちゃんと謝っていなかった。はっきり言葉にすると、魔法使いのほうが嫌がるかもしれない。両手の手の甲を膝に付けて、頭を下げた。何かしら報復なり対価なりを求められるなら、甘んじて罰を受け容れる、という姿勢である。
「コウ。顔を隠すのはなし」
クーさんが魔法使いの三角帽子を取り上げると、それを取り返そうと魔法使いがーーいや、もうコウさんと呼ぼうーーコウさんがぴょんぴょんと飛び跳ねていた。微笑ましい光景に心がほっこりする。飛び跳ねているので、彼女の外套が大きく捲れている。飾り気のない質素な、いやさ、どちらかと言えば、多少野暮ったい感じの服装。周りの目を気にしない子供ならいざ知らず、コウさんくらいの周期なら嫌がりそうなものだが。貧しさが理由なら仕方がないが、氷焔ほどの稼ぎがあれば、いや、それ以前にクーさんが出しゃばる、もといコウさんを着飾らせているだろう。ということは、あえて、若しくは、好んでその様な格好をしている? 世間の心象の通り、魔法使いらしく地味、と言ってしまえばそれまでなのだけど。僕にしては珍しく、というか、そんな嗜好はないはずなのだが、コウさんに色々な服を着せたくなってくる。人というのは、周囲から影響を受ける生き物である。蓋しくもクーさんの変態、ではなく、大変な性質が伝染しているのだろうか。
「相棒、ちび助、戯れんのんそんくれーんしとけ」「コウの竜並みのいじらしい様を堪能しているというのにっ、邪魔をするか!」「可哀想だろーが、譬えん竜出してやんなって。ちび助ん魔法使って取り返さねぇ時点でお察しだろうが」「「…………」」
兄の指摘にぐうの音も出ない二人の妹。兄の面目躍如である。いつもこうならいいのだが、彼の意欲というかやる気には斑っ気があるので油断できない。
エンさんに窘められて、三角帽子を取り返すのを諦めると、ぎこちなくこちらを向くコウさん。見る角度によって色合いを変化させる印象的な翠緑の瞳がーー、しっかりと僕から逸らされていた。
……これは恥ずかしがっているだけで、僕を毛嫌いしてのものではない。そう思いたいが、これまでのコウさんの言行が、確信の「か」の字ほどにも信じさせてくれない。嫌われているとするなら、どうして嫌われているのかを知る必要があるのだが、それさえ覚束無い現況では打てる手は限られている。余計なことをして悪化したりなんてことになったら目も当てられない。僕の謝罪は中途半端になってしまったが、コウさんが反応を返してくれないのでは竜ですら尻尾を振るだろう。後回しにするしかないか。
「……そこに、手を置いてください」「……はい」
コウさんは、地面を指差した。
唯々諾々(いいだくだく)として従うのが最良である、という情けない選択肢しか残らなかったが、二進も三進もいかない袋小路のような間柄の僕たちでは仕様がないのである。コウさんに斯かる態度を取らせてしまっているのは、僕の責任でもある。咎人であり、罪人である僕に否やはない。無聊を託つ、などという資格はないので、彼女に触れてもらうべく行動に移る。
地面に掌を付けた。熱を解く程度の冷たい感触。そこに、熱が蟠る程度の暖かい感触が加えられた。靴を脱いだコウさんが、僕の手を、むぎゅっ、と踏ん付けていた。
いまいち状況が理解できず、僕はじっと自分の手を見た。
「どーした、こぞー」「いえ、ちょっと温いなぁ、と思って」「ふぃっ⁉」
正直に感想を口にしたら、微かな余韻を残して、コウさんが音もなく消失した。わかっていても、前触れもなく消えられると、ほんのわずかだが意識が停滞する。まぁ、ここら辺は慣れなのかな。彼女の足の感触が途切れる間際、「浸透」の効果なのだろう、少しだけ意識に残った。あれは魔力の流れなのだろうか、僕は近くの樹木を指差した。
「あの樹の後ろに移動したような気がします」「……ぷぅ」
コウさんが不貞腐れていた。樹木の後ろから、のろのろと僕の近くに遣って来て、ぷいっと顔を背ける。見ると、しっかりと靴を履いていた。靴まで「転移」させていたとは、器用なものである。いや、靴は別に移動させたのだとすると、「転送」とするべきか。遺跡でも「転移」を行使していたが、気軽にぽんぽん使えるような魔法ではないはず。やはり、魔法使いとして群を抜いているようだ。
僕に見破られたコウさんの、唇を尖らす姿も愛らしいのだが、ここで笑ったりしたら致命的な断裂を生むような気がして、必死に我慢する。然てまた上手くいかない。
結果的に意地悪をしているような気分になってしまうのは、僕とコウさんでは相性が悪いからなのだろうか。いや、僕の不手際を別の問題に摩り替えてはいけない。
「……靴を履いたまま、踏んでも良いですか?」
返答に困る選択肢を提示されてしまった。
「馬鹿やってないで、さっさとする」
見兼ねたクーさんがコウさんの靴を脱がせて、僕の手の上に無理やり乗せた。手を踏む、という接触方法は続行するらしい。
「クー姉、後はお願いなの」「了解」
クーさんが請け負うと、コウさんは目を閉じた。
するりと、たおやかな風の隙間から抜け出してきたような現れ方だった。
「ーーっ、……」
見慣れない魔法の発現に驚きこそしたものの、以前よりも旧に倍して膨らんでいく好奇心が勝って僕を突き動かす。
一見すると白い布のようだが、近付いて目を凝らしてみると、靄のような不定形なものとして映る。微に入り細に入り、ぎりぎりまで目を寄せて調べてみると、極細の糸が交互に編まれて、流動的で無秩序に、いや、そうとわからないだけで類似性でもあるのかもしれない、見様によっては美しくも儚い、乱雑な明滅を繰り返していた。これは……、魔法とはここまで緻密なものなのか。それとも、性質を付与された、ただの魔力の事象?
「これは、リシェが知覚した探査魔法とは異なる。感知魔法とでも言うべきか。魔力探査の上位魔法とでも思ってくれれば良い」
「けーこく、けーこくー。こぞー、駄目そーだったら、すぐ手ぇ引っこ抜けよー」
まだ一巡りの付き合いだが、エンさんのいつもより軽い調子から、かなり重要度が高い忠告だと受け取る。コウさんに倣って、僕も目を閉じることにする。すると、「浸透」で知覚しているからなのか、見えていないのに見えるという、いやさ、視覚に大きく依存しているだけで世界に触れる方法は幾つもある。世界に触れる、と言ったが、見る、というよりは、触れる、としたほうがいいような気がする。視覚でさえも、世界に触れる為の、一つの手段。コウさんと重なるように、世界が溢れる。これが魔法なのだろうか、魔力の地平に刻む、いや、すでに人の軛から解き放たれている、重力に縛られる必要などない。
「先ずはこの周囲から始める。言葉は要らない。目を閉じても良い。感覚を曖昧にしても良い。必要のないものは、今この場には要らない」
暗示のようなクーさんの言葉が始まりを告げる。
白布が更なる魔力を帯びて黄金色の粒子を散らす。これは前にも触れた、コウさんの魔力だと直感的に悟る。淡い白と眩い黄金色が綾す光の布が、僕らの周囲を球形に取り巻く。
「ーーっ!」
来た……。魔力が、魔法が、世界が溢れる予兆。僕は僕でありながら、光布で織り成した世界に拡がる。この小さな世界で、風も焚き火も、土も草木も、何もかもが浸される。
「全てを認識しないほうが良い。在るがままに受け容れるのも一つの方策」
疑問を抱く間もなく、世界が拓いた。
僕たちを内包した球体が、貪欲に世界を希求する。拡がるごとに世界に組み込まれる、小石や虫、砂粒の一つでさえ僕の意識を焦がす。頭の中、ではない、僕の存在ごと、侵食される、多過ぎる、大き過ぎる、それに比して僕は小さ過ぎる、葉っぱの一枚でさえも、この身には重過ぎる、深く入ってはならない、求めてはならない、その先には世界の真理が横たわっているのかもしれないが、人のものでは手に余るーー。
光布は拡がってゆく。世界に拡がる。街を呑み込み、国を平らげーー。
「がぁっ!」
ーーっ‼ 強引に手を引き抜いた。命の危険を、存在の抹消の危機を感じた体と精神が反射的にそうさせた。視界が、意識が回帰する。世界に溶けてしまいそうだった、心や魂といったあやふやなものたちが、じわりじわりとあるべきところへ、僕に馴染んでゆく。
「コウが魔力感知の魔法を初めて使ったのが四周期前。一巡り後には、世界に行き渡った」
コウさんが魔法を解いたらしい。それを確認してから、クーさんは説明を続ける。
「行き渡ることで、解き明かした。この世界の魔力の成り立ちを。魔力がどのように発生し、どのように還るのか。それは、世界の魔力の支配と同義。この世界の魔力はもろもろみな、コウの支配下に置かれている」
まだ本調子ではない僕のことなど顧みる素振りすら見せず、重大で衝撃的な内容をさらりと語ってゆく。わかっていたことではあるが、必要と、或いは必要でないと判断したなら、本当に容赦のない人たちである。
「つまり、だ。魔法使いってーか、人間使ってん魔法ぁ、ちび助ん魔力ってやつ分けてもらって使ってんよーなもんなんだ。ちび助ぁ魔力くんなかったら、魔法使えねぇしな」
エンさんは大きな身振り手振りで、これが結論だとばかりに魔力の流れを体で表現した。そこは似た者同士なのだろうか、コウさんと同じく謎舞踊にしか見えなかった。何だか、魔力というこの世界の深遠が、ひょいっ、と簡単に手に取ってしまえるような陳腐なものに成り下がってしまった気分だ。然し、今は深奥に浸る気にはなれないのでありがたい。
「…………」
……世界の魔力支配。それは規模が大き過ぎて、いまいち理解が追い付かない。とどのつまり、国中の金の流れを牛耳っている人間がいるとして、敵対する人間なり組織なりがいれば、そこだけ流れを滞らせて破産や破滅させることが出来る、とそういうことかな。そこから想見するに、魔力とは人に必要不可欠なものであり、命に係わるものだ。世界の魔力を牛耳っているということは、この世界の、すべての人間の命脈を握っているのと同じことではないのか。って、いやいや、ちょっと待て、それは本当のことだろうか。
ぐぅ、一々回りくどいことをしているとの自覚はあるが、実感の伴わない事柄を量るには近場から攻略して外堀を埋めていくのが一つの解となることもあるのだが、今回はそういった枷のすべてを取り払って、ある意味、単純化してしまうのが良いのかもしれない。
人としての価値観を平らにする。禁忌は設けない。超越者の視点、と師範は言っていたが、そこまでは必要ないか。頭が凝り固まっているから、緩める程度にしておこう。
コウさんが望んだら、人は生きていけない。植物も魔物も同様。無機物も魔力の影響を受けている。この世界に在るものすべて、根本から破壊、魔力に還すことが出来る。存続させることが世界の役割だとするなら、それは間違いなんだろう。コウさんは、世界にとっての誤り、クーさんが言っていた、この世界は不完全、という不備の結果だとしたなら。
稀有なる奇跡の恩寵であると同時に、この世界の瑕疵を背負わされているということ。ぶっちゃけると、他人の所為というか他神(?)の所為。力を持っていること、それ自体はコウさんの咎ではない。然りとて、彼女は始めからその力を具えていたわけではない。そこに悪意がなかったとしても、手を伸ばして、掴み取った結果である。だが、それを成さしめるだけの力を持っていたということを割り引いて考える必要がある……。
ーーふぅ、駄目だ。この辺りが限界。ここから先は、好き嫌い、良い悪いの範疇に入ってしまいそうだ。自分の未熟さを思い知る。仕方がない、いずれゆっくり惟るとしよう。
畢竟するに最も重要なことは、斯くも巨大な権能ーーとこの際言ってしまうが、それが一人の人間の意志に委ねられていること。
「それって、とんでもないことじゃないですか」「そう。とんでもないこと」
同ずるクーさんは、不思議な光を湛えた眼差しでコウさんを眺め入る。その姿は、何かに耐えているようでもあり、何かを諦めているようでもあった。
「こぞー、ちび助ん見ろー。さぁ、どー思う? 正直ん言えー」
僕の頭をむんずと掴んで無理やりコウさんに向けさせると、軽い調子で尋ねてきた。
正直に、と言われたので、真っ正直に答えることにした。まっさらに、余計なものは全部捨ててしまおう。今必要なのは、きっと見失わないことのはずだから。
「えっと、可愛い女の子です」「ーー? ……ふぁっ⁉」
見詰める翠緑の瞳が色付いたかと思うと、しゅっ、という空気が漏れるような音を残して、またぞろコウさんが消える。でも、掻き消える前に、毒気に当てられたのか、焚き火の炎よりも真っ赤な、炎竜の色に顔が染まっていた。ただあれが、恥じらいなのか羞恥心なのか、そこら辺の微妙な匙加減がわからない。いや、匙加減などと言っている時点で駄目なのだろう。ありのままの姿を心に響かせることで、必要な感情を掬い上げることが出来る。里で習ったことだが、まだまだ精進が足りないらしい。
「あたしのコウを口説くとはやるじゃないか。リシェは、実は女たらしだったのかなー?」
クーさんが馴れ馴れしく肩を組んできた。酒場の酔っ払いの方が、きっと何十倍も増しだろう。愛情という美酒に酔って嫉妬を拗らせた彼女の目付きが、尋常ではない輝きを放っている。これは、愛情などという上等なものではなく、春情とか痴情とかの類いだろう。ああ、いや、別に人間の欲望を卑しめているわけではなく、ただ僕としぃっ⁉
「ぐっ」「っ!」
ゆくりなく鋭い音が耳を劈く。見ると、エンさんが手を合わせていた。どうやら、耳朶を打った風の悲鳴のような音は、彼が手を打ち鳴らしたものだったらしい。
いやはや、手馴れたものである。クーさんの毒気が一瞬で吹き払われた。ただ、耳への衝撃が大きいので、毎回は勘弁して欲しい。くぅ、まだ頭の奥が痛むような気がする。
「てーことで、真面目ん話だ。相棒、頼むな」「いきなりあたしに振るか。少しは自分で話す努力をしろ」「はっはっはっ、俺ん話したらたぶん余計なんまで話しちまうぞ。ちび助ん話させんのん何だしなぁ」「そうやって、いつもあたしに押し付ければ良いと思って……あっ」「ん? ……あー」「それが最良、か」「まー、そーなんだろーなぁ」
言い合いになりかけていた二人が、意気投合して頷き合った。
「リシェに問う」
クーさんは居住まいを正して、僕を真っ直ぐに見た。
彼女の姿勢には覚えがある。心構えをしておかなくてはならないようだ。
「一人の人間が居た。この人間を殺さないと世界が滅びるとしたら、どうする? この人間を殺して世界を救うか、殺さず世界とともに滅びるか」「ーーーー」
唐突で途轍もない内容だった。だが、ある程度は予測していたこと。クーさんの言葉を咀嚼する為、すぐには答えず、ゆっくりと自分に問うてみた。
選択肢は二つ。然しもやはそれ以外が重要なのである。人は、勝手に思い込んで選択肢を狭めてしまう。安易な答えに縋りたがる。それ以外、を考えない人間ほど易いものはない。と常に厭世観を漂わせていた師範が、その利用価値を語っていたが、いみじくも正しさを含んでいる。選択は無限、なれど手が届くものは限られている。そう、選択肢とは、多いようで少ないものなのだ。それを識っている者ほど、その限界も弁えている。
これまでの話の流れから、核心に迫る何かを開示しようとしていることが窺える。同時に、僕に何かを求めていて、それに値する人間なのかを試しているような意図が透けて見える。コウさんの魔力に関する秘密を打ち明けられた今、中途半端は許されない。
「一人の人間を救い、世界を救う。正しい答えなんてないけど、きっとそれが正解に一番近いものだと思います。でも、僕にはそれを成し得る力はない。だから、最後の最後まで悩み続けて。最後に、どのような選択をするのか、今の僕の中には答えがありません」
僕という存在の小ささで辿り着ける場所など所詮こんなところ。助けることも、見捨てることも、最後の瞬間まで、切羽詰まるまで悩み続けないと答えなんて出せない、優柔不断で情けない人間。まぁ、それでも、最後に決断する覚悟だけは持っているつもりだが。
「悪くない答え。でも、あたしの心には響かない。昔、師匠に同じ問い掛けをしたことがある。師匠は即答した」
先程クーさんに見られた真摯さは、やはり師匠に、大切な人に向けてのものだったらしい。クーさんにこれほど優しげな様相をさせる師匠という人に興味が湧いてくる。
「一人を犠牲にしなければ助からない世界なぞ滅びてしまえ」「…………」
これは……、呆れればいいのか、感心すればいいのか、判断が難しい。潔いのか無責任なのか、はたまた慈悲からの言葉なのか、わからなくなる。
責任とは等しく有るべきだ。と同じく厭世家の師範が言っていたが、世界を見捨てるには、どれだけのものが必要なのだろう。彼女の師匠は即答した。であれば、僕が持ち合わせていないものを持っている師匠なる人は、どれだけの深淵に足を踏み入れたのか。
「物心が付いてから、泣いたのは一度だけ。師匠は、世界で一人だけ、あたしの泣き顔を知っている人。わかるかい?」「えっと、嘘を吐いたり、本心を偽ったりするなってことですね」「ふふっ、わかっているか。よしよし」「ーーっ」
頭を撫でられてしまった。どうやら、合格したようだ。然ても、この周期になって異性に頭を撫でられるというのは気恥ずかしさ満天である。
「やーい、ちび助~! そこら辺いんだろ、『遠見』よこせーっ‼」
エンさんが大声で呼び掛けるが、返ってきたのは静寂だった。いや、そう思ったのは僕だけで、コウさんの魔法が発動したらしく、二人の視線が同時に動いた。
「師匠、夜分遅く失礼いたします。よろしいでしょうか?」
クーさんは、何もない正面の空間に恭しく一礼した。
「構わないよ。まだ寝るには早い時間だしね」
二十半ばくらいだろうか、落ち着いた感じの男性の声が聞こえてきた。
「じじーん夜更かししてどーすんだ。早寝早起きで体ん気ぃ使え」
ぶっきらぼうだが、気遣いが感じられる声音だった。
暖かみのある家族の会話を懐かしく感じてしまう。短い遣り取りが終わると、二人、いや、三人の意識が僕に向けられた、ような気がした。
「君が、ランル・リシェ、だね。コウから話は聞いているよ。面白い少年のようだ」
威厳とは違うが、安心感を抱かせる、父性を感じさせる声だった。
コウさんが僕のことを話していたようだが、なぜだろう、何だかむずむずする。
「私の姿は見えないが、声は聞こえているようだね。では、私の声に付いてきてくれ給え」「はい、老師」「老師。ーー老師か。良いね、悪くない」
気に入ってもらえたようだ。エンさんが「じじー」と呼んでいたのと、彼の醸す雰囲気から称えてみたが、失礼にならなくて良かった。
「私の名は、グリン・グロウ。魔法使いで、コウ、エン、クーは弟子ということになる。あとは、コウの育ての親だね」
自己紹介をする老師の声の発生源が遠ざかっていくので、僕は慌てて追い掛けた。姿は見えず、声だけを頼りに追い掛けるというのは、案外心細いものだ。焚き火から離れて、すでに居回りは真っ暗だが、コウさんの、僕用の魔法対策の成果なのだろうか、「遠見」がある辺りがぼんやりと光っているので、足元を気にしつつ逸れることなく付いてゆく。
さて、現在行使されているのは「遠見」の魔法。遠くのものを見たり、人と話したりする為の魔法なのだろう。声が移動しているということは、彼の意思が及んでいるということで、僕たちがいる側に魔力による影響を与えているということだ。単純なようで、それにはとても高度な魔力操作の手練が要求されるはずである。三人の師匠であるということから予想はしていたが、氷焔に負けず劣らず老師もとんでもない方のようだ。
「ここらで良いかな。さて、三人から離れて話をする理由はわかるかな?」
「三人の、主にコウさんに関することで、痛痒を伴う話をするからですか」
「そういうこと。楽しい話ではないからね。必要でないときに、わざわざ思い出させることはない。エンとクーが自分で話さず、私に押し付けたのはそういう理由からさ」
老師はやや硬さを増した声で続けた。
「恩着せがましく聞こえるかもしれないが。現在の状況からして、君に話を聞かせる必要はない。害になることこそあれ、利となることはないだろうからね。それでも、望みのすべてが絶たれているわけではない。君がコウの為に人生のすべてを捧げてくれるというのなら、喜んで話をしよう。だが、そうはならないだろうし、そうなることをコウが望むとも思えない。話をするのは、ここまで三人と共にあった君への手向けのようなものだ」
届くものが声だけだったのは、ありがたかったかもしれない。何も言えなかった。何か言ってはいけない。彼らに届く言葉は、きっと今の僕の内にはない。
「先ずは私のことを少し話さなくてはならないか。ーー若い時分はやんちゃでね。世間様に顔向けできなくなって、山奥に引っ込んだ。治癒魔法を研究し、薬草の知識があったので、薬師さえいなかった寒村に溶け込むことが出来た。
それからしばらくして、コウが生まれた。生まれ落ちた瞬間から、膨大な魔力を放出し始めた。魔力は生命に不可欠なものだが、物には程度というものがある。薬は毒ほど効かない、ということか。過剰な魔力は毒となる。誰も近付くことが出来ず、死を待つしか方法はなかった。忌み嫌う、という言葉では足りない、村人にとって、コウはただの害毒だった。当然の流れというべきか、村人からの懇願で、私がコウの対処に当たることになる。
コウの魔力を取り込んで、自らの魔力と成す。その魔力で、蝕まれる自身を癒やす。言葉にすると簡単そうに聞こえるかもしれないが、命懸けだったね。治癒魔法を研究していたことも役立った。村から離れ、更に山奥に入ったところで、コウを育てることにした。常に膨大な魔力を浴び続け、魔力を取り込み、癒やし続ける。その度に、命の危機に苛まれる。だが、本当に辛かったのは、私ではない。溢れ出る魔力を制御できなかったコウは、私とは比べものにならないくらい、魔力の毒に侵されることになる。
死んだほうが楽だったかもしれない。コウが生き続けたのは、私がコウを助け続けたから。コウは思った。自分が死を選べば、私への裏切りになる、と。コウはずっと、魔力を制御するまで、自分の為ではなく他人の為に生きてきた。優しい、わけではない、終わりの見えない痛苦だけを抱え、他人の為に生きることだけがコウの存在意義だった。
ーー明けない夜はない、と言うが、コウと私の夜は延々と、果て無く続くように思えた。それでも終わりは来る。コウは魔力を制御した。だが、それで終わらないのが、この世界の嫌らしいところだ。コウは甚大な魔力を有している。それはあらゆるものを侵食する。
魔力を制御した後も、コウを蝕み続けた。原因を突き止めたのは五周期前だったかな。魔力は、コウの感情、情動にまで影響を及ぼしていた。コウの精神に負担をかける魔力を、適時に放出してやれば良い。試行錯誤した結果、コウの感情の『やわらかいところ』を刺激するのが一番効率が良いということがわかった」
心が渇く。いったい何で潤せば、この擦り切れるような心中の形のないものに、癒やしや施しを与えられるのだろうか。いっそ何も感じられないよう心のすべてを埋めてしまいたい衝動に駆られるが、土台無理な話である。諮詢も敵わぬ現況では、然もありなん。
「……、ーーっ」
ーー不謹慎である。まことに不謹慎ではあるのだが、老師の「やわらかいところ」発言で、僕の未熟さからくる初心いものが、共感する気持ちを霧散させてしまった。
コウさんが魔力を放出していたのは、思い返してみれば、確かに感情の「やわらかいところ」を刺激されたと思しき場面だった。就中最も多くの魔力が放出されたのは……。
無意識に、じっと右の掌を見てしまった。
「剣はないかな。人間の首をぶった斬る為の、剣はないかな」
老師が僕の首を叩き斬る為の剣を探していた。周囲を探しているらしい、がさごそとした音が聞こえてくる。いや、僕が悪いのだけど、三人とも過保護過ぎやしないだろうか。というか、コウさん、老師にいったいどこまで話しているのか。この様子だと、包み隠さずすべて話しているような感じである。いや、竜も恥じらう周期頃の少女が、男親にそこまで話しているとは思えない。恐らく、老師の聴取が優れているのだろう。
「残念なことに、剣が見つからない。探すのは後日にして、話を続けようかーー」
いえ、そのまま永遠に探さないでください。と言おうとしたが、逆効果になると悟って、押し黙る。ひととき明るさが見えた老師の声だが、再び重たいものが乗せられる。
「コウが魔力を制御できるようになったのは、エンとクーのお陰。二人との邂逅が成されるまで、コウと私の間でしか魔力の行き来がなかった。それが、エンとクーとの間でも遣り取りが行われ、ある程度魔力の放出が安定した。何故安定するのか、根本的な原因は今以て不明のままだが、僥倖であるには違いない。これを奇貨として、苦心の末に制御が叶うこととなるが、その代償に二人は、コウの魔力を浴び続けなければならなかった。幾度も危殆に瀕することになる。それでもずっと二人はコウと居続けてくれた。
私は、普通より少し増し、といった程度の魔法使いだった。それがコウの魔力を浴び続けることで、上位の魔法使いになった。エンとクーも同様、微々たる魔力しか具えていなかった二人は、『火焔』『薄氷』と称される程の魔力を宿すことになった。だがそれは、本来有り得べからざることだ。正しき手段で強くなったわけではない。過程をすっとばして、強く、なってしまった。それが良いことなのか悪いことなのかは問うまい。ただこれもコウが抱える功罪の一つだということ。
他者の為に生きてきたコウが、自分よりも大切に想っている者たちを傷付けながらでしか生きてゆけなかったコウが、やっと人並みの、いやさ、そう見えるだけだとしても歩き出すことが出来た。コウは世界を受け入れたが、世界のほうはどうか、人はどうだろう。
ーー三人の選択肢は少ない。山奥で静かに暮らすか、草の海を越えただけでは足りない、この大陸を出るくらいしないと。コウは、二人に自由に生きて欲しいと望むだろうが、独りで居ればいずれまた害毒に戻ってしまう。嘗ての姿に戻らない為には命を絶つ他ない。然し、それは前にも言ったが、私たちへの裏切りになる。……あの娘は雁字搦めになっている。それがわかっていても、どうしてやることも出来ない」
努めて感情を交えず語ろうとしているようだったが、そのようなこと出来るはずもない。老師の話を、声を聞いていただけでわかる。コウさんへ向けられる彼の、底なしの親としての愛情ーーなのだろうか。親となったことのない身では理解など到底及ばないが、大き過ぎる感情のすべてを押し留めることなどーー。
告解を聞き続けるような重さだけが募ってゆく。
柄にもなく、神に祈ってしまう。彼らが信仰する土の神ノースルトフルよ、その豊穣を分け与えてくれ、どうしてエルシュテルは幸運を授けない、サクラニルは状況を改善させる為の想像力を、水の神クルルヴァルシュはすべてを洗い流してしまえ、風の神ハーフナルストは吹き飛ばせ、闇のタルタシアは覆い隠せ、アニカラングルは美の囁きで埋め尽くせ。……願いを叶えてくれない神に祈るのは、何と空しいことか。
「まだ、すべてを話していない。話さない、というより、話さないほうが良いことはね。そうだね、話して良いことの一つを教示してあげよう。コウはああ見えて、案外ちゃっかりしているから、気を付けなさい」
僕のことを気遣ってくれているのだろうか。大人の余裕を感じさせる老師の声が染み渡ってゆく。
「君には、魔法が効かないだけでなく、すべてに適用されるわけではないらしいが、魔法を打ち消すことが出来るようだね。実際に体験してみたいので、『遠見』の魔法に触れてみてくれないか」
老師は、元の穏やかな語り口に戻っていた。僕は、少しだけ救われたような気分になって、淡い光を放つ「遠見」に触れた。
老師の気配が途切れる。音もなく光が失われて、森の中に、あるべき闇が戻ってくる。
「……何も見えないんですけど」
光源がなくなったのだから、見えないのは当然のことである。
「…………」
どうやら、老師に嵌められたらしい。さすがは氷焔の師匠、狡っ辛い。
あ~、いや、これは言い過ぎか。陥穽に気付けなかった僕にも非がある、……かもしれない。彼は剣で僕の首をぶった斬る代わりに、遭難での飢え死にを御所望のようである。娘に不埒な振る舞いをした男を、まったくもって許していなかったらしい。前言撤回である、威厳とか安心感とか父性とか称揚してしまったが、なんと心の狭い人なのだろう。
空の星は綺麗だが、僕の周囲までは照らしてくれない。ちょっとだけ、切ない気分になった。何も見通すことの出来ない暗闇に囲まれているのは、いったい誰なのだろうか、と。
消えることのない、小さな明かりが、僕の中に灯った。それは幻想の灯火なのかもしれない。嘗て兄さんに灯してもらったような、道を照らす光になるだろうか。僕は世界の始まりのような、色付くことを待ち望んでいるような、黒の世界で、思案を巡らせた。
「じじーん言われたとーり、気配消してたんだが、戻ってこれてよかったなぁ」
エンさんの嫌味のない笑顔が迎えてくれた。然てこそ老師の苛めにも挫けず、皆のところへ帰ってくることが出来た。さっそく老師への文句を口にしようとしたが、是非に尋ねなければならない事案が発生したようなので心の健康の為にも晴らしておこう。
「コウさんは何をしているんですか?」
然ても、疑念は払拭できるのだろうか。きっと何か意味があるのはわかるのだが、不自然極まりない。件のコウさんは、膝立ちの姿勢でぷるぷるしていた。
「このまま説明しないほうが面白いかもしれない。だが、無事に戻ってきたリシェの功績に報いる為に説明しよう」「……お願いします」
僕に断られることなど微塵も考えていなさそうな、ほくほく顔でクーさんに言われたので、しっかりと要求に応えておいた。ここで、説明は要りません、なんて言ったら、箍が外れ掛かっているクーさんから、それはそれは凄惨な目に遭わされるであろう予感がひしひしと這い寄ってくる。老師が僕に何を話したのか、皆は当然知っているはずなので、その微妙な空気をどうにかしようとしてくれているのだと、彼女の言行を好意的に解釈する。
「この度、コウは本来の力を解放するという失態を演じた。禁じられていたことを破った。そんなことをすればどうなるのか。決まっている。『おしおき』するに決まっている。
今日は十回。なんと清々しい日であるか。ノースルトフルに感謝を。一回一回堪能しながら、この身の魂を震わせながら、心を竜にして『おしおき』を祝福した」
恍惚の表情で解説するクーさん。心做しか肌が艶々しているような。
これは駄目だ。そんな気はしていたが、やっぱりクーさんは壊れてしまった。話が進むに連れて言葉が出鱈目になってゆく。ああ、何だろう、感謝されたノースルトフルが可哀想に思えてくる。そもそも「おしおき」で何を祝福したのやら。
コウさんは、祝福の遣り過ぎで病んで、もとい酩酊している風情の姉から目を背けてぷくっと頬を膨らませていた。指で突きたくなるような、柔らかそうな丸みのある頬っ辺は、拗ねて機嫌を損ねている彼女を、頑是無い愛くるしさで包み込んで、これは庇護欲なのだろうか、僕の内からもぞもぞと何やら如何ともし難いものが湧き上がってくる。
「もーわかってーと思うが、俺と相棒ん助かったんは、ちび助ん治癒魔法でだ。怪我なら、死んでなけりゃどんな傷でん治っちまう。あ、そーだ、冒険者崩れん奴らぁちび助ん『結界』張ってやったかんな、全員無事だ」「あ、あー、そうですね……」
世界の終焉の如き災厄に巻き込まれた彼らのことを、すっかり忘れていた。まぁ、自分の身に起こったことを理解するだけで精一杯、然しもやはこれからのこともつらつら惟る必要があったので。と言い訳の言葉を重ねながら、彼らの存在を加えて(りようかちがあるとはんだん)、案を修正する。
「はっはっはっ、ちび助にゃさんざん仕込んでやったかんな。ちゃんと『結界』張ったんは偉い偉い。誰かやっちまってたら『おしおき』三十回だったぞ」
エンさんがぐりぐりとコウさんの頭を撫でるが、彼女は抵抗せず受け入れていた。然り乍ら反抗的な眼差しはしっかりとエンさんに向けられている。
然あれば頭を撫でるのを止めぬエンさん。老師の話を聞いた後なので甘心しようが。余程の信頼関係がなくば斯くも自然な振る舞いは成し得ぬだろう。
ん? ーーおっと、不味い、思考が偏ってきている。子供の頃からの癖みたいなもので、古めかしい言葉を多用し始めると大抵求める答えから外れていってしまうのだ。はぁ、これまでも大概だったが、老師の述懐から案を煮詰めて、頭の許容量を超えてしまったのかもしれない。兄さんなら、これくらい訳もないだろうに、僕のぽんこつ頭め。仕方がない、幾つかの事項は後回しにして、今は考えないようにしよう。
「死ななけりゃ助かるかんな、体ん重要んとこだけ魔力ん覆って、死神あっちいきやがれってがんばったさ。剣抜かれんでよかった。さすがん血ぃ足りなくなっちまったら気絶しちまうし、そしたら魔力ん維持できねぇで、ノースルトフルん土んなっちまうとこだ」
普段、長話をしないエンさん。話の邪魔をしてはいけないと思い、静聴する。
「俺と相棒は、死んだらふつーん死んじまうが、ちび助ゃそうもいかねぇ。ちび助ぁふつーんこん体と、魔力んできた体ぁあんだ。ちび助ん死ぬにゃ、こん体と魔力ん体ぁ両方一緒んやらねぇと駄目なんだ。ふつーん体だけなら、首ちょんぱされてん心臓ぐりんぐりんされてん真っ二つんされてん、あっさり回復しちまう。蘇生魔法は、じじーん禁止してるんだよな」「蘇生魔法……って、そんな魔法まで使えるんですか⁉」
好奇心を刺激しまくる話に、我慢できずに聞いてしまった。
「……使えるかどうかはわかりません。新しい魔法を会得する為には研究が必要です。でも、師匠は蘇生魔法を研究すること自体を禁止しています。あと、天候を操る魔法、時間に関連する魔法、人の嗜好や記憶を改竄する魔法、他にも色々ありますが、師匠が許可しない魔法は研究できません。……あと、神々に接触することを禁じています。こちらは、世界の枠内を超えるような魔法は使うな、ということだと思います」
話が魔法に及んだところで、コウさんが加わってきた。やはり魔法のことは好きみたいだ。いつもより饒舌で、楽しげな様子が伝わってくる。
僕は、一歩踏み込んでみることにした。
「一つ、お願いしてもいいですか?」「……はい、どうぞ」
コウさんは幾分か警戒を含んだ声で、それ以上に不信感を溜め込んだ目で、僕を見ながら許可してくれた。まだ一巡りしか接していない、ほぼ他人である僕に、自分の秘密を知った相手に向けるものとしては、これでも穏やかなほうだろう。
「いつも敬語で話しているわけではないですよね? 僕にも、普通に話し掛けてくれたほうが嬉しいんだけど、どうかな?」「ふぁ……」
予想外の言葉だったのか、コウさんが呆気に取られていた。見開いた目の、翠緑の輝きが増す。間違いないようだ。やはり感情が昂ぶったとき、いやさ、感情が色付いたとき、と表現しよう、魔力量の多い彼女だからなのだろうか、不純物を含まない水底を覗き込んだような気分にさせられる。のだが、少女の変梃りんな姿で、現実に強制送還である。
変わらず膝立ちのまま、ぷるぷるしながら。ちょびっと右に傾き、もぞもぞ。細やかに左に傾き、もそもそ。ほどほどに右に傾き、もそもそ。適度に左に傾き、もぞもぞ。もはや儀式めいた雰囲気を漂わせる謎舞踊を、僕は煩い心臓の音を聞きながら待ち続けて。
そしてーー。
僕を見上げるコウさんの、少しばかり潤んだ瞳が、透き通る翠緑の純粋さが、彼女の答えを教えてくれる。
「……や、です」「…………」
……ぎゃふん。や、というのは、嫌、という意味なのだろう。どうしよう、仲良くなりたくない宣言をされてしまった。いや、これはきっと、世界の法則のほうが間違っているのだ! あ~、いやいや、在り来たりな現実逃避をしている場合ではなく。カレンにしても、コウさんにしても、どうしてこうなってしまうのやら。二人はまったく似ていないというのに、コウさんの顔に、嘗て仲良くなれなかった少女の面差しが重なる。
「こらー、相棒ー。相棒ん言うからがんばって説明してみたってーんに、すんごく失敗した気配ぷんぷんしてやがるぞー」
僕とコウさんが齟齬、いや、単に僕だけが水のない水車のように空回っている姿に、って、水が無いなら回ることなんて、いやいや、そうではなく、珍しくエンさんが本気でこんがらがっていた。エンさんだけではなく、僕の頭も空々(からから)のようである。はぁ、僕が先走って失敗しただけで、エンさんの所為ではないので、気にしないで欲しいところだが。
エンさんに救援を求められて、異世界に旅立っていたクーさんの精神が回帰してきた。口元の涎を拭っているような仕草に一抹の不安を覚えたが、
「先延ばしにしたところで、得るものはない。結論といこうか、リシェ。正しく伝える為に、師匠の言葉を使わせてもらう」
老師に言及したことで、彼女が落ち着きを取り戻していることを知る。結論、という言葉を聞いて、やや緩んでしまっていた気持ちを引き締める。
「人の内に在りたいのなら、人の領分の内に在りなさい」
一度言葉を切って、これまでと同じく老師の本意を告げる。
「もしも望まぬ結果を招いたなら、すべて私の責任である。人が取れる責任など自分のものだけに過ぎないが、先ずはそこに私の命を焼べよう。それは赦しにはならないが、人に求めた人間の最低限の努めである」「俺たちん村ぁ出んときん約束だな。じじーとの約束守ってん間ぁ、じじーが命懸けで俺たちん守ってやるっつー、傍迷惑ん約束だ」
余計なお世話だと言わんばかりのエンさんの言葉だが、きっと老師との約束は彼らの心の拠り所となったことだろう。自分を大切に思ってくれる、心配してくれる、そうした人の存在は心に暖かいものを与えてくれる。
「人の領分に収まらないコウの力が露見。冒険者は、目的ではなく手段。目的は言わずもがな。あたしたちは一旦、師匠の許に戻る。その後どうするか決まっていない。そういうわけで、ここでお別れ」「エン兄! クー姉!」
堪らず、コウさんが弾けるようにクーさんに抱き付いた。
「私なら一人でも大丈夫なの、二人は冒険者を続けてもいいのっ!」
二人を慕う痛切な思いが、涙声で打ち付けられる。遣る瀬無い気持ちがコウさんの小さな体から溢れて、僕たちを、誰よりも彼女を傷付ける。
二人が受け容れないことがわかっていても、それでも叫ばずにはいられないのだろう。三人の間に僕は踏み込めない。わずかな巡りしか係わっていない僕が踏み込んではならない。ーーそれでも。それでも、踏み込むと決めた。ならば、覚悟しなくてはならない。
「一つ提案があるのですが、よろしいでしょうか?」
感情を交えない場違いな僕の声に、三人の視線が集まる。
僕はこれまで、いつでも誰かに道を作ってもらっていた。その上を歩いているだけだった。そんな僕が、誰かの為に道を作る、いや、こうして自分の意思で係わろうとしたから心付く。僕が道を作るのではない、ーーまだ途切れていない、失われていない道があることに、見えなかった、見つからなかった道に、気付いてもらいたい。
父さんを、兄さんを思い出す。ただ、誰かが誰かの為にしてあげたかった。叶うかどうかはわからない。それでも、切っ掛けの一つになれたのなら、これほど嬉しいことはない。
勘違いで構わない。翠緑の瞳に誘われるままに、エンさんとクーさんの合間に、膝に手を突いて屈んで、真正面から瞳を合わせる。そういえば、何と言って差し出すべきか、決めていなかったけど、いや、そんな必要はない、答えはもう僕の内にある、有りっ丈の僕でいいのだ。ここにはまだ何もなくて、この先にも何があるのかわからなくて、行き当たりばったり。僕と魔法使いの始まりは、きっとそんな場所がお似合いだろう。
「えっと、コウさん。王様、やってみませんか?」
思い掛けない反応だった。拙い、僕の言葉が彼女を花開かせる。竜が笑った、古い童話に、そんな場面があったけど、ーー僕を通り越した遥かな根幹が震えた。コウさんの悲しみに暮れた硝子玉のようなぼんやりとした瞳に、一瞬で翠緑の、眩い輝きが透徹した。
「やる。おうさま……」
おうさま、の言葉のあとの、解けて散り散りになる間際の欠片を拾い集めて、僕の中にある言葉と照合する。それは、昔読んだ童話の、竜が笑っても、笑わなかった、おうさま。
ひとりぼっちのーーと聞こえた気がした。
「って、おいおい。そりゃ、どっかん嫌われ者の王でもぶっ飛ばして、王んなんことくれぇならできんだろうさ。だが、そりゃ駄目だ」「同感。為政者が気に入らないなら、そこに住む人間たちが自分たちの責任に於いて、どうにかすべき問題。あたしたちが王を倒したら、本来責任を負うべき人間たちが何も支払わずに利益だけを得る。それは必ず将来に禍根を残すし、何よりあたしたちが望まない」「皆で王さん倒そーてことんしたら絶対ぇ誰かぁ傷付けちまう。俺たちゃそこまで望んじゃいねぇ」
予想通り、エンさんとクーさんが噛み付いてくる。
二人の目的は、コウさんを護ること。すべてはそこに集約される。では、護るとは、何を護れば、本当の意味で、最も良い形で、彼女の為に、差し出すことが出来るのだろう。
「はい、二人の懸念は尤もです。ですが、王を打倒する必要はありません。王を退けることなく、王となり、民には、自らの意思で選んでもらおうと思います。それを成し得る為に、国を造ろうと思います」「何処に造る? 山奥の人が来ないような場所? それとも草の海? あそこは土地は余っているが、利権が絡まり捲っている。どうにも出来ない」
クーさんは、無意味な問答を続けることに苛立っていた。彼女は諦めてしまっている。すでに決定していることを穿り返されて、感情が抑えられないのだろう。
コウさんは黙り込んでいる。兄と姉に、自分より大切に思っている人に反対されて、おうさまをやりたい、と望んでしまったことを悔いているのかもしれない。
思っていたより単純だった。自分が遣りたいと思った、理由のようなもの。下を向いてしまった彼女に、もう一度だけ上を向いて欲しい、と。ただ、それだけのことだった。
今は、僕だけが僕を信じよう。嘘でも何でもいい、顔を上げてもらえるだけの、強さでも暖かさでもいい、僕にそれがあるのだと、信じて。
僕は恐れず前を向いた。
「そこに人は居ません。そこに人は近付きません。そこには広大な土地があります。そこは何処かの国のものではありません。そこには魔物がたくさんいて、そして竜がいます。その場所は、竜のものです。誰もがそう認めたが故に、そこは人のものではありません。そこは竜の、炎竜のーーミースガルタンシェアリのものです」
力強く言葉にするはずだったのに、なぜだろう、自分でもわかる、この哀しくて優しい魔法使いに、どうしても受け取って欲しかったからだろうか、穏やかな声で締め括った。
「竜の狩場に国を造ります」
わずかな静寂のあと、反駁の声が上がって。
「って、おい、ん?」「いや、待て、だが……っ!」
二人が僕の真意に気付いて、言葉を失う。
馬鹿な話だ。荒唐無稽にも程がある。夢を見ているのなら、さっさと目を覚ませ。世界中の人間が嗤ってくれていい、いや、知らずにずっと嗤っていろ。
でも、知っている。それは夢物語だろうか。それは空に手を伸ばすだけの憧れだろうか。エンさんとクーさん、老師、そして僕が知っている。僕たちだけが知っている。
「ふぇっ?」
あと一人。気付いて欲しい人は、まだ気付いていない。その戸惑ったような、あどけない少女の顔が上げられる。そこが僕たちの始まりだった。
諦める、という選択肢は、いつでも甘美な魅力を放っている。ここで倒れてしまえば、悲鳴を上げる体が、ぼやけた頭が、すべての枷を取り外して、優しく穏やかな闇に抱かれて、あらゆる苦悩から解き放たれる。この快楽に、逆らえる人間など居るものか。
「……あっ」
躓いて、どさっと地面に体が落ちた。受け身を取る気力もない。痛みよりも心地良さが勝る。体が弛緩する。このまま意識を手放せば、そこには楽園がーー。
「こぞー。立たねぇと引き摺ってくぞー」
いっその事そうして欲しい、そんな誘惑が頭をちらついたが、エンさんの嘘がまったく込められていない声音に奮起して、のろのろと立ち上がった。
さすがというべきか、思い付いたら即行動。氷焔は竜の狩場に向かって、夜もすがら道なき道を歩き通して、気付いたら、えっちらおっちらと坂を登っていた。山へ続く坂を登っているということは、目的の場所に近付いていることの証左なのだが。極度の疲労と眠気は、正常な判断など疾うに竜の狩場に投げ込んでいる。きっと竜の狩場に着いたら、すべてを取り戻すことが出来るのだろう。……魔物に食べられてなければいいのだけど、まぁ、僕の理性とか良心とか、そんな不味そうなもの、魔物だって口にするはずがない。
「…………」
ああ、不味いな、頭が回ってなくて、口から勝手に言葉が零れてゆく。止めようとしたが、無理そうなので、あとは余計なことを口走らないよう祈っておこう。
「……治癒魔法って、体力も回復するんですか?」
良かった、ただの愚痴だった。体力の回復なんて効能はなかったはずだが、勘違いだっただろうか。もしそうなら、今日ほど魔法が効かない体を、僕の特性を恨めしく思ったことはない。僕の体たらくに比べて、エンさんとクーさん、それにコウさんまで、余裕綽々で歩き続けている。市井人より体力はあるはずなのだが、僕と彼らでは何が違うのだろう。
「治癒魔法は怪我を治すだけで、体力は回復しません。体力を回復するのは、回復魔法になりますが、一般的ではありません。魔力不足を補う為に、魔力を注ぐことはありますが、魔法で体力を回復させようとすると、体に凄い負担が掛かってしまいます。
ーーあと、治癒魔法は病気には効き難いです。魔力が多いこの世界では、魔法は心象が割りかし重要なのです。大抵の病気は原因が特定できないので、どうすれば治るか心象がし難いのです」「いー感じじゃねぇか、こぞー。ちび助ん懐いてよかったなぁ」「な、懐いてなんてないのっ。ただ、眠ってしまわないようにちょびっとお喋りしてただけなの!」
ごっ、という鈍い音がした。顔を上げて見てみると、コウさんが伸ばした拳をゆっくりと戻しているところだった。そして、エンさんの姿がない。
コウさんが懐いた、とエンさんが言ったが、それは誇張だろう。後のほうで言葉が柔らかくなったのは、彼女が警戒心を緩めてくれたのか、歩み寄りの為に勇気を振り絞ってくれたのか、何にせよ折角上手くいきそうなんだから、拗らせるようなことを言わないでください。って、あれ、然ても、エンさんは何処に行ったのだろうか。
「三、二、一」
クーさんが数を減らすごとに、指をちょんちょんと動かして、最後にぱしんっと手を叩くと、遠くで、どっ、という、まるで人間でも落ちたかのような音がした。……ああ、いや、どうやら人間が落ちた音だったらしい。音が小さかったのは、魔力を纏っていたからだろうか。きっとそうだ、そうに違いない、そうだったらいいな、そうなのかなぁ。
「そろそろ歩き出さないと、引き摺る。エンがいないから、あたしがやらないと。大した負担ではないからやっても良いが、お勧めしない」
エンさんと同じく、これから選る事実を、淡々と僕に告げてきた。でも、一応気を使ってくれているらしい。聞き様によっては、僕なら出来る、と励ましてくれているような気がしないでもない。
こんな強行軍になるとは思っていなかったが、竜の狩場に行くよう提案したのは僕である。言いだしっぺが早々に倒れるのは、というか、僕も男の子なので、あまり格好悪い姿ばかり見せるわけにはいかない。沽券とか矜持とか言っても、もう手遅れかもしれないが。
体に鞭を入れて歩き出すと、コウさんと目が合った。光の加減で見難かったが、少し顔が赤かったような……? 彼女は身を縮こまらせながら、小さな声で弁解した。
「……ちゃ、ちゃんと手加減してるのです」
恥ずかしがるところは、そこなのだろうか。魔力拳でエンさんを吹っ飛ばしたわけだが、ここは触れずにいるのが正解なのだろう。
真夜中だが、居回りは明るい。コウさんの魔法の「光球」が、頭上と前後左右に一つずつ灯って、道を照らしてくれている。
「もうわかっていると思うが、あえて言葉にしておこう。氷焔で一番強いのは、コウ。あたしとエンは同じくらいの力量。あたしたちの力が、子供が作る砂山くらいだとしたら、コウはヴァレイスナ連峰の最高峰くらい」
「ミースガルタンシェアリは、どのくらいの高さになりますか?」
竜の狩場に国を造る。言葉にしただけでも怖じ気付きそうな、途方もない難業。
彼の竜と戦うつもりはない。交渉でどうにかならないかと思っている。というか、そもそも戦っていい相手なのだろうか。コウさんなら勝てるかもしれないという事実が、いや、今は憶測ということにしておこう。蓋然性があることで、逆にややこしくなるとは。
コウさんの卓越した魔法。世界の深淵、或いは根源を解き明かして、魔力を支配下に置いている。世界の魔力量、神々の真実など、これ等も含めて、氷焔と老師、就中コウさんの存在を、炎竜が無碍にするはずがない。と思いたいところだが、竜が人間のような思考をしてくれるだろうか。竜と人間は、その存在からして対等ではない。畢竟、考え得る限りの対策を講じておかなければならない、という、ある意味基本の、最も面倒臭いことに着手して、きっとそれでも足りないのが、ミースガルタンシェアリ、という存在。
まぁ、然うぼやいていても始まらない。ここら辺は、どうにか出来ると腹積もりをして、ある程度進めてしまおう。上手くいくとするなら、あとは条件次第、どのように譲歩を引き出すか。その為に、差し出せるもの、これは良くないが、脅しとして使えるものを聞き出しておく必要があるだろう。コウさんが素直に話してくれるとは思えないので、エンさんとクーさんから篭絡、もとい説き伏せていかなくてはならない。
「ーーミースガルタンシェアリか。伝説からすると、人間の敵う相手ではない。なにせ、休眠期に眠っている彼の竜を起こせた者すらいないという。無抵抗の相手に、傷すら負わせられない。あたしに測ることは出来そうにないが、コウはどう?」「クー姉、話してもいい?」「ああ、そうか。構わない。どこまで話すかはコウに任せる」
二人の遣り取りに、心が沸き立った。わざわざクーさんに許可を求めたということは、相応の秘密を打ち明けようとしていることの証左である。いや、この場面でにやけたらいけない、コウさんとクーさん、それとサクラニルに感謝をするに留めておこう。
「ミースガルタンシェアリは『守護竜』なのです」「守護竜? 守護ということは、何か対象となるものがあるということですよね。何を守護しているんですか?」「世界なのです。ミースガルタンシェアリは、世界を守護してる、掛け替えのない竜なのです」「……世界を守護? えっと、具体的には?」「会ったことないので、真相はわからないのです。彼の炎竜は、この世界の魔力の調整役を担ってるみたいなのです」「ん? あれ、世界の魔力って、コウさんの支配下に置かれているんじゃなかったかな」「そうなのですけど、ミースガルタンシェアリのほうからの反応がなくて。それで、三周期前なのです。その周期、ずっと私が世界の魔力を制御してたのです。九八七周期ごとに、世界規模の魔力異常が発生するのです。今回は、通常よりも酷かったみたいで、放っておいたら人種が滅びてしまいそうだったので、私が制御したのです」
先程から兆候があったが、コウさんの口調が柔らかくなったままなので、安堵する。氷焔の仲間として認めてくれたのだとしたら、これほど嬉しいことはない。始めの堅い話し方が他人向けで、今のやや砕けた感じが仲間に対して、そしてエンさんやクーさん、老師に対しての、甘えたような話し方が家族向けなのだろう。
然てしもミースガルタンシェアリのことである。彼の竜とは闘いたくはないと、懇願に近い思いを抱えていたので、その選択肢自体が消えたことに胸を撫で下ろす。世界の魔力の調整を担っている、そんな竜を排するなど想像するだに恐ろしい。人間が竜に勝てない、いや、魔物にしろ魔獣にしろ、すべての存在が竜に勝てないのも道理である。この世界を創った神は、然く配置したのであろうから。それ故に、不穏さを増してしまう。大きな懸念が発生してしまう。コウさんは、たぶん竜に勝てるーーと仮定しておこう。聊か腰が引けているが、この世界の人間にとって、竜とは、幻想の彼方にあって世界に君臨する絶対的な存在なのである。
星々に手を伸ばしても、届くはずはない。二百周期の断絶は、人々に植え付けた。
この大陸だけでも数百の竜が座すと伝わっている。ミースガルタンシェアリに勝つのが、屈服させるのが無理だったとしても、他の竜には勝てる……だろう。人が竜を凌駕してしまう。それは、世界の法則を捻じ曲げた、と言ってもいい、有り得べからざる事態。当然、彼の竜が心付いていないはずがない。コウさんを知って、挙げ句の果て魔力の調整に介在しなくなった。炎竜の意図は那辺にあるのか。ただ代わりに果たしてくれる者が現れたから委譲、若しくは移譲しているのか、自らの権能を侵害されて気分を害しているとか、そんなことが竜に、炎竜にあったりするのだろうか。
凄く瑣末なことのようで、大きなことのような気もするのだが、これは役割分担とかきちんと話し合ったほうがいいのではないだろうか。このまま意思疎通が成されないと、将来に禍根を残すことになるかもしれない。そう考えると、今、この時期に、彼の竜を訪ねるのは、好機と捉えることが出来る。……はぁ、頭を悩ます要因には事欠かないので、これ以上勘案したくはないが、そういうわけにもいかない。
「ーー、……ん?」
あれ? 「光球」の明かりが十分に届く範囲に、右側の傾斜に、エンさんが倒れていたような気がしたのだけど。無視ですか? 素通りですか? ああ、ここは自己保身の為にも、彼女たちに倣うとしよう。まぁ、勿論、それだけではなく、エンさんには申し訳ないが、喫緊の問題について、思案が落ちるまで頭を捏ね繰り回さなくてはならないので余裕がないというのが本当のところ。ふぅ、コウさんは平然と語っていたが、加味しなくてはならないのは、滅びを免れていたらしい人類のことである。
「コウは一度、人類を救っている。あたしたち以外は知らず、公言したところで誰も信じない。信じてもらう必要がないから、それは構わない。ただ、不公平だとは思わないか? もう少し、あたしたちに見返りがあって良い。だから、リシェの甘言だか諫言だか姦言だかに乗ってみたくなったというのはある」「…………」
いや、クーさん、思うところあってのことかもしれないが、三つ目の造語っぽい響きの言葉で僕を貶めるのは止めてください。氷焔に僕を必要としていながら警戒する。人の心とは儘ならないものだ。彼女からすると、愛しの妹に近付いてくる少年に危機感を募らせているのかもしれない。こんなことを言うのも何だが、コウさんよりも女性として格上……げふんっげふんっ、ああ、いや、別嬪さんで尚且つ格好良いという人間的にも魅力的な自分のことは二の次のようだ。まぁ、それは僕など眼中にないということなのだろうが。
見ると、澄んだ泉のようなクーさんの表情が、だらっと泥水のそれに変わる。もう慣れてしまった。慣れたらいけないのかもしれないが、世の中きっとたぶんこんなものである。
「でも、コウが王になりたいと思っていたなんて、今の今まで知らなかった。くぅっ、あたしの愛が、情念の炎で焦がし尽くしても、まだ足りないというのかっ!」「そこまで、王様をやりたいなんて思ったことないの。昔読んだ本に、そういうのがあって、もう記憶の中から消え掛けてたんだけど、幼い頃に夢見たのがまだちょこっと残ってたみたいで、おうさま……」「むむむむっ、そんな幼気なコウの、心の隙間に埋まっていたものを掬い上げてくるなんて、やるじゃないかリシェ!」
賞賛する気持ちがあるなら、そんな親の敵を見るような憎悪に満ちた目を向けないで欲しい。あと、抜き打ち寸前の、魔法剣にかけている手を放してください。
これは、よもや救世主だったらしいコウさんのことに話が及ぶのを危惧して、はぐらかそうとしたのだろうか。いや、クーさんの痴態は、演技で出来るようなものではない。紛う方なく情欲の発露である。さて、では別のところから取り掛かるとしよう。
「竜の狩場への入り口というか、通じる道は二つあるんですよね。えっと、南側のほうが大きくて入り易くて、東側は難所という記録があったような」
話を逸らそうと試みて、コウさんに視線を投げ掛けると、
「東側なら、朝までに竜の狩場に到着するのです。それに、国を造るなら、正門は南側になるのです。来る機会の少なそうな東側の難所を確認しておいたほうがいいと思うのです」
上手く乗ってくれた。クーさんは、コウさんが係わると駄々っ子のようになるので、効果的だと思うのだが。置いてけぼり、または仲間外れにされると、寂しくなってくるのは子供だけではない。のだが、……いや、クーさん、そんな苛めっ子を見るような、これから成敗すべき恋敵を見るような、微妙な表情で僕を見るのは止めてください。
「コウの感知魔法なら、周囲の地形くらい、一瞬で把握できるが」「問題は竜だなぁ。そんくれーで腹立てんほど心せめぇとは思えんけど、わざわざ種蒔く必要んねぇしなぁ」
何事もなかったかのようにエンさんが会話に加わってきた。話し始めるまで、まったく気配がなかった。コウさんの常識外の魔力拳を食らったはずなのに、負傷した様子はない。治癒魔法で治してから追い掛けてきたのかもしれないが。
「あそこから入れると思います」
僕は前方の、薄闇の一点を指差した。コウさんが光球を操作して、前面に光を集中させる。里にある文献で見た記述と一致した場所を、逸早く見つけられたのは幸運だった。
「おっ、そーなんかこぞー。俺たちより先ん見っけんなんてやっじゃねぇか」「以前、竜の狩場について調べたことがあるんです。自作の、竜の狩場の地図を持っていたりします」
里から持ってきた荷物は少ない。里では呆れられた代物だが、何だかんだで気に入っていたので、それと場所も取らないし、処分せずに持ち続けていた。地図を見せたいところだが、荷物を背負い直すことを考えた瞬間、現地に着いてからでいいか、と思い直す。
「竜の狩場などという突拍子もない考えに至ったのは、そういう布石があったからか。そんな無駄にしかならないことをよくも……、む? それは、どうなのか? 用意周到過ぎるような気が……。ーーまさか、それが目的で氷焔に接触?」「へっ?」「ぶははっ、相棒、そりゃ勘繰り過ぎだ! 見てみろっ、こぞーん間抜け顔っ!」
ぐっ……。否定できない。エンさんの言う通りの、間の抜けた表情を晒してしまった。
「ぐっ……。これはリシェが悪い。奴と似たような喋り方をするから、穿った見方をしてしまった」「それは、普通に八つ当たりのような気がひしひしとするのですが」
「奴」というのは、以前氷焔に所属していた、彼らを利用しようと企んでいた人のことだろう。勘の鋭いエンさんが、こっちからお願いして氷焔に入って欲しかった、と言っていたほどだし、悪い人ではなさそうだが。天才、と評されるくらいだから、若しや〝サイカ〟なのだろうか。然あらば僕に似ている、ではなく、僕が似ている、とされることに合点がいく。「天才」と「こぞー」というエンさんの呼称が如実に示している。卑下するつもりはないので、というより、見誤ることがないよう心掛けるのは当然のこと。然ても然ても、兄さんの背中は遥かに遠い。僕はやっとこ自分の思いと願いで、道を歩き始めたばかり。そして、その重さを今更ながら自覚している。衝動のままに、コウさんに差し出してしまったが、そこに深い考えが伴っていたわけではない。ただ今は、あの場で道を切り開いたことが間違いではなかったのだと、そう確信することでしか自らを支える術がない。
国を造る? 途方もない。馬鹿げている? 皆は何故、平然としていられるのだろう。ああ、そうか、失敗してもいい、と考えているから。彼らからすれば拾い物。上手くいけば儲け物、失敗しても元に戻るだけ。いやいや、悲観的になるな。氷焔は、そんな人たちじゃない。僕を見捨てることはあっても、想いを蔑ろにすることはない。
「そーいやぁ、『天才』と似てなくもねーなぁ。話し方だけじゃなくて、雰囲気もちょろっと似てんよーな気がしねぇでんねぇような気ぃするよーなとこんあるよーなぁ……」
何も考えずに話すとこうなります、という見本のような、結局どっちつかずのエンさんの物言いだった。思考がこんがらがっていた僕も、縺れて解決しないまま、一旦手放す。
「「「「…………」」」」
誰ともなく、言葉が途切れる。
僕たちは、竜の狩場へと至る、東の入り口に辿り着いた。
目を開けると、そこには懐かしくも忌ま忌ましい光景がーー。
……僕は心に溜まった澱のようなものを、溜め息に隠して静かに吐き出した。懐かしいと思ってしまったことに、わずかな痛みを覚える。空を蝕む、山の洪水が幼き日々を思い起こさせる。クーさんはこの世界を、創世神ではない神が創った不完全なものであると喝破していたが、いや、彼女には悪いが、それを確かめたわけではないので、仮説の一つに過ぎない。然りとて、否定する必要もない。逆に、そのほうがしっくりくる。むべなるかな、懐かしさに勝る、この忌ま忌ましい気持ちに、答えが与えられるのだから。
「起きたんか、こぞー」
ありがたいことに、エンさんが懐旧の元となった景色の大部分を覆い隠してくれた。彼の隣にはクーさんの姿がある。二人が移動してしまう前に、僕は聳える山脈を背に起き上がった。体にまだ鈍い部分があるが、一眠りしてだいぶ回復できた。痣は、痛いだけなので、自然治癒に任せる。というわけで、痛みが麻痺するまでは我慢の子である。
随分ぐうすかと寝こけていたようだ。日が高いが、暑さは然程でもない。
竜の狩場に足を踏み入れたのは、日が昇ってからだった。
東の入り口から竜の狩場までは、概ね平坦な道が続いているだけだった。崖崩れや陥没などの跡はあったものの、難所と言われるほどの険しさは感じなかった。ただそれは、真夜中で周囲の状況がわからず、疲弊していた僕は三人の後ろを何も考えずに付いていっただけなので、危険感知が機能不全に陥っていたと思われる。
「『東の竜道』は、何というか、ずいぶん真っ直ぐな道でしたね」
僕の視線の先に、薄っすらと竜の狩場を囲う山脈がある。竜の狩場は、平均的な国の一つと半分くらいの大きさである。きっと、竜の狩場の中心にでも行けば、山の威勢もなくなるだろう。人家も畑もない、広大な土地というのは初めて目にするが、不安と同時に、これは期待なのだろうか、何か迫ってくるものがある。
「東の竜道、か。悪くない。これから様々な名称を付ける機会がある。すべてリシェに任せるとしよう」「そーだなぁ。ありゃどでけぇ剣でどかんってやったんじゃなくて、『風刃』でさくって感じか。ーー狩場ん遣って来た巨大魔獣ん『風刃』でしゅばっ! 炎竜躱しざまん息吹んどぼおぁ! そん壮絶ん戦闘ん爪痕が、東と南の竜道んであったーー完」
矢庭に炎竜物語を創作して演じるエンさん。戦闘場面だけあって、いつもより動作が機敏だった。僕は肯定も否定もできず、複雑な心境で短過ぎる物語を観覧した。
彼は即興で物語を作っただけで、当然それが事実だとは思っていないだろう。だが、それが事実であってもおかしくないだけの力と永い歴史がミースガルタンシェアリにはある。人の歴史が奏でられる遥か過去から、世界を紡いできた悠久の語り部ーー。
自覚がある。僕は緊張している。神経が過敏になって、体にぴりぴりと、嫌な感じの小さな痺れが這いずる。
これから、伝説の竜であり「最古の竜」、「始まりの炎竜」「要の真竜」と数々の二つ名を持つ、そうだった、更に「守護竜」を追加された、希代の存在に会いに行くのだ。
「何をしていたんですか?」
掌に掻いた汗を、二人からは見えないように服で拭いながら、僕は話を振った。
呼吸を整えつつ、竜の狩場を眺め遣る。見渡す限り平野が広がっている。文献に依れば、炎竜の塒である北の洞窟の周辺以外は、起伏の少ない地形になっているらしい。
二人は近くにある大岩に向かって歩いているようだった。そこにコウさんが居るのだろうか。そういえば、今日の食事当番は誰だったかな。欲望に忠実な無節操なお腹の虫が、食べ物を寄越せと反乱を企てている。その内、竜でも呼んできかねないのでーーとそこまで考えて、ここが竜の狩場であることを実感して、内心の軽口を打擲して黙らせる。
「周囲の探索。あと、東の竜道をどのように活用するか判断する為の材料。地質や植生、水捌けを調べてきた。少し奥に行けば、もう光が届かない。利用価値は少なそうだ」
確かに、人の行き来くらいにしか使えないし、使うとなると道を整備しなくてはならない。果たして、それに見合うだけのものを得られるかどうか。
「大きな岩の付近を拠点にすることが多いですよね。何か意味があるんですか?」
身長の五倍くらいの高さがある大岩の日陰から出ると、すでに天頂付近まで昇っている太陽が目に入る。熱波が過ぎ去ったこの時節、竜の狩場の外よりは、幾分涼しいかもしれない。標高はそこまで高くないが、風や湿気などの影響を調べる必要があるだろう。
「ちび助ぁ巨岩大好き人間なんだ。でっかければでっかいほどいーらしーぞ」「魔力との親和性が高いらしい。あたしたちにはわからないが安心感のようなものが得られるそうだ」
相変わらず、二人の回答は面白い。足りないところを補い合っているようでもあり、同じ答えを別々の言葉で語っているような奥深さを感じることもある。
大岩に沿って歩いていると、コウさんの姿が視界に入った。三角帽子の下に、楽しげな笑顔がある。今以て竜の狩場に居るという事実に、強張っていた体が解れてゆく。コウさんの笑顔には、人を穏やかで優しい心地にさせる魔法の効果が……と、あまりにも恥ずかしいこと考えてしまっていたことに気付いて、思考を強制停止させる。
一抱えもある岩の上部が削り取られて、卓の役割を果たしていた。恐らく風の魔法か何かで加工したか、剣で両断したのだろう。卓の中心に食材が置かれて、岩の端の部分だけ火の魔法で熱せられているらしく、食欲をそそる音で僕の腹の空腹さんが大暴れである。
卓の周囲には、同じく加工した岩の椅子が四台あった。その一つにコウさんが座っている。彼女は次々に食材を焼いていって、焼けたものからばくばくと、手掴みで口に放り込んでゆく。満面の笑みで、食べることを心から楽しんでいることがわかる。
「…………」
然も候ず、軽い衝撃に、というか、眼前の事実に心が追い付かなかったので、正確性を欠いてしまったが、焼いているのはコウさんで、食べているのは彼女の膝の上に座っている子供である。コウさんより、三、四周期は下だろうか。僕たちが姿を現してもまったく意に介することなく夢中で食べ続けている。
子供は、ぼろぼろの貫頭衣を着ていた。服というよりは、ただ布を被っただけという粗末な様が哀れさを誘う。無頓着というか何というか、さっきから動く度に際どいところが見えそうで、冷や冷やさせる。そうして露出する肌に、別の意味で目を奪われる。猛き炎竜の心象がある、燃え立つような文様が、腕や足に巻き付くように塗られている。いや、塗ったというより、始めから皮膚の色がそうであったような自然な色合いである。手足と首は左右対称に、それ以外に頬と額に火色で描かれている。
その火色より更に紅く、それでいて炎の一面である優しさや温かさが揺蕩うような、炎色の髪と瞳が目を惹くが。それ以上に目立つものが頭部にあった。
額の左右から二本の角が、頭の形に沿うように、頭頂辺りまで生えていた。
つり目がちの大きな目がくりくりと動いて、愛嬌がある。コウさんの髪を表現するなら、さらさら、という感じだが、子供の場合は、ふわふわ、という感じだろうか。肩口に届かない長さの髪がゆらゆらと、宛ら火の粉と戯れる精霊のようである。
子供は僕たちに気付くと、炎の色に目を輝かせて身を乗り出そうとする。
「みーちゃんです!」
とっておきの宝物を自慢するような、どうだと言わんばかりのしたり顔でコウさんが炎髪の子供を紹介した。ーーさて、彼女は何を成し遂げたのだろう。……心中に去来するのは不安なのか、期待なのか。みーちゃん、という名前から連想できるもののことが頭に引っ掛かって、得も言われぬ脱力感に見舞われる。竜にべろりと舐められたら、或いは味見されたらこんな気分になるのだろうか。いや、食べられないこと前提ではあるが、って、そうではなく。僕の心情などお構いなしに、角の生えた子供が自己紹介をする。
「はーう、みーちゃんはみーちゃんなのだーっ!」
ぼわっと空に向かって飛び上がって、同じ勢いで、
「ふぁはぁーっ」
驚きつつ、その中に楽しさを詰め込んだような歓声を上げながら、コウさんの膝の上に戻った。今の不自然な動きは、コウさんの魔法で引き戻した結果なのだろう。
「おー、ちみっ子かー?」「さーう、ちみっ子はみーちゃんかー?」「ちみっ子は、ちみっ子だー!」「みーちゃんがちみっ子かー!」
ぐばっとエンさんが近付くと、ぐりんっとみーが向き直った。なにやら似たような動きをする二人である。たちまち意気投合した二人は、どちらがより楽しく笑えているか競い合うかのように、お日様のようなぽかぽかしたあったかいものを周囲に振り撒いていた。
みーの純粋な炎のような初々しさいっぱいの、無邪気と純真と天真爛漫を百個ずつ集めて固めてみたらこんな感じになりました、といった元気一杯夢一杯の、あどけなくしどけない可愛らしさ満天の姿に、クーさんがじっとしていられるはずがない。
「あたしの名前はクー! コウごとみーぅばぁっ……」
二人を丸ごと抱き締めようとしたクーさんが何もない場所にぶつかって、恨めしげな視線をコウさんに向けていた。恐らくコウさんが張った「結界」なのだろう。「結界」の外で、諦め切れずに彼女がわさわさともがいていると、内からみーが真似をして、「結界」にくっ付いてわひゃわひゃと同じ動きをする。珍しい光景である。「結界」を張ってまでクーさんの邪念を払い除けるとは。何か理由がありそうだが。
「『結界』張って拒否られるたぁ、とーとー愛想つかされたかぁ?」
僕と同じことを思ったのか、エンさんが冗談半分に揶揄する。心に余裕がないクーさんは、彼の戯れ事を真に受けて、蜘蛛の巣から逃れようとする虫のような必死さでわしゃわしゃと動きを加速させた。
「あーう、はやいなーはやいねーはやいのー」
みーもクーさんに合わせて二倍速になった。笑顔も二倍増しである。そして、貫頭衣の捲れ具合がやばい域に、というか手遅れである。……見てない、見てませんよ。見える前にちゃんと目を逸らしたので、いくら子供とはいえ、色々と、憚られるものもあるので。
「クー姉に頼みたいことがあるの。少し大人しくしててなの」
またぞろみーがコウさんの膝の上に引き戻されると、頼みごとがあるという彼女の言葉に光明を見出したのか、風がなくなった風車のようにクーさんが減速していった。
「はい。みーちゃん、もう一回ですよ~」「おーう、やるぞー」
みーは、差し出されたコウさんの手首辺りを掴むと、手に力を入れた。
ぱきっという乾いた音と、じゅっという焼けたような音が同時に聞こえてきた。何事かと目を凝らすが、異常は発見できなかった。
「もうちょっと弱めですよ~。みーちゃん、がんばれ~」
「はーう、みーちゃんにまかせろなのだー!」
コウさんの声援を受けて、俄然やる気になるみー。むむむー、と唸りながら、真剣な表情でコウさんの手首をぎゅっと握った。
「みゃーう、ぷにぷにー」
手首をむぎゅむぎゅしていたみーの手が、むぎゅむぎゅしながら肘に向かって動いてゆく。先程と同じことをしているだけなのに、みーの炎眼には、生まれて初めて降り積もった雪に触れるような幼子の純真さが揺らめいていた。
「みーちゃん~、おめでとう~!」
コウさんは、みーを抱き締めたい衝動をぐっと堪えて、みーの邪魔をしないよう優しく頭を撫でていた。みーのむぎゅむぎゅは止まらない。コウさんの二の腕、腿からお腹へ、抱き付いて背中を。最後に、えいやっ、と飛び付いて頬と頬をくっ付けてすりすりする。
「やわやわなのだーやわやわなのだー」
みーの顔が蕩けていた。世界で一番安らげる場所を見つけて、幸せの海にどっぷりと浸かっているような、夢心地でコウさんにすべてを委ねている。
不思議なもので、みーを軟らかに抱くコウさんの仕草に、母性を感じてしまう。みーを慈しむ彼女の眼差しが、あまりにも透明だったので、焦がれてしまう。ーーいや、焦がれると言っても、恋心のような甘やかなものではない。手の届かない、何か切ないもの。答えに辿り着けない曖昧なものがじれったく、振り払うように気になっていたことを尋ねた。
「今の、手首を握っていたのは、何をやっていたんですか?」「『甘噛』なのです」
浮かんだ疑問の、小さいほうから質すと、コウさんはみーを見詰めたまま答えてくれた。
戯れ合うことで相手を傷付けない力加減を学ぶ。里で習った野の獣に関する事柄だが、まさかこんなところで実演が見られようとは。先程の、みーがコウさんに触れたときの音は、骨折と火傷のものだったようだ。然し、何という無茶をするのか。みーが手首を傷付けた瞬間、治癒魔法を行使して一瞬で怪我を治してしまったのだろう。糅てて加えて、みーのほうにも問題がある。コウさんを傷付けても罪悪感がまるでなかった。ただ、これは子供特有の無邪気な残酷さからのものなのか、竜の狩場に居たのなら、いや、竜が人と触れ合う機会など基本ないのだから単に経験不足からのものなのか、早計に答えは出せない。
若しや、この子は竜人なのだろうか。みーの爛漫たる子供っぽさにそぐわない能力は、人の域を超えているように思えるが、然てしも有らず、恐れるだけでは解決しない、コウさんの振る舞いがその辺りを意図してのものなら、僕も彼女やエンさんに続かなくては。
「みーちゃん、僕はランル・リシェです。よろしく」
コウさんの後ろに回り込んで、屈んでみーと目線の高さを合わせてから挨拶をすると、みーのぽかぽか陽気が突風に吹かれて、陰気な雨模様に変わってしまった。こうして目を合わせると、炎色の、鮮やかだが深く透き通る瞳に囚われそうになって。コウさんの、翠緑の輝きを想起させられる。心ならずに、みーの深炎に惹き込まれそうになるが、
「がーう、みーちゃんをみーちゃんとよぶななのだー!」
指を突き付けて、がぁーと唸るみーの姿に、あえなく現実に回帰させられてしまう。
「えっと、じゃあ、みー様」
いきなり嫌われてしまったようだが、これも魔力がない僕の特性の所為だと諦めて、妥協点を探ってみる。みーのぐじゅぐじゅ雨模様が曇り空になって、いっきに晴れ渡った。
「えっへんっ!」
みーは盛大に胸を逸らして、そのまま後ろに倒れそうになったところをコウさんが魔法で引き寄せて、どや顔のみーをぽふっと抱き留めた。僕の「敬譲作戦」が上手くいったのか微妙なところだが、しばらくはみーの機嫌を損ねないよう「みー様」に謙るとしよう。いや、別に、積極的にそうしたいわけではないですよ。対等な関係に至る為の第一歩ということで。あー、でも、仲良くする為に、一方が損をしなければならないというのは、本来はおかしなことなのだけど。それでも、みーに嫌われたくないと思ってしまうのは、相手が純真(?)な子供だからだろうか。子供とは、人を映す鏡でもある。
コウさんに「待て」をされたクーさんは、神妙な面持ちで待機中だったので、エンさんに「甘噛」について話を振ってみた。
「じじーん話、聞いたんならわかんだろーが、昔んあん頃ん比べりゃ、すぐ治ん骨折とか火傷なんか、ちび助にゃ痛みん内にゃ入らねぇ。まー、度ぉ過ぎりゃ『おしおき』だがな」
聞こえない振りをしたのがしっかりとわかるようなぎこちなさで、みーの世話焼きを続行中のコウさん。竜にも角にも、僕とみーの間を取り持ってくれる気は更々ないらしい。
「は~い、じゃあみーちゃん、最後に属性を抑えましょうね~」「さーう、ぞくせー?」「みーちゃんは炎でめらめらのあっちっちなので普通の人は近付けないのですよ~。じっくりことことほんのりのあっちっちにしましょうね~」「むーう、よくわからないけど、よくわかったのだー。みーちゃん、がんばりゅーなのだー!」
コウさんとみーの楽しげな様子とは裏腹に、不穏な言葉が散らされているのだが。
コウさんに躾けられて、未だに大人しいままのクーさん。何だかちょっと可愛く見えてきたので、もとい姉妹の邪魔してはいけないと、再びエンさんに尋ねることにした。
「属性とは、魔力に関係することなんですか? 魔力を制御するということでしょうか」
すると、竜が盗み食いをしているところを目撃してしまったかのような引き攣った顔を向けられてしまった。ああ、いや、エンさんなら竜と一緒に楽しく御飯を食べていそうな気がするので、この比喩は正しくないか。って、いやいや、そんな錯誤に陥っている場合ではなく。エンさんの目が、大量の豆料理を前にしたかのような、とてもよろしくない風に変化していったので、これ以上豆が追加されない内に、早々に言葉を継ぐ。
「僕、何かおかしなことを言いましたか?」「いんや、改めてこぞーん人外だったってこたぁ、思ぇ知ってただけだ」「えっと、そんなしみじみと嘆いていないで、お願いですから教えてください」「こぞーは気付いてねぇみてーだが、俺と相棒んほぼ全力ん体ぁ魔力で覆ってんだ。そーしなきゃ、全身火傷で俺ぁ重傷、相棒ん天の国行きだなぁ。ちみっ子ん属性抑えらんなきゃ、ちび助ぁどーにかすんだろーが、まーちみっ子だから大丈夫だろ」
エンさんは火の魔法が得意。炎に対して耐性があるだろう彼でさえこうなのだ、クーさんが「結界」を張られて近付けなくされたのは、彼女を護る為でもあったらしい。というか、クーさん、そんな危ない状況でみーを抱き締めようとするなんて命知らずにも程がある。然て置きて、何故かエンさんは、みーに絶大な信頼を寄せているようだ。似た者同士ということで、そういうことがわかったりするのだろうか。それと、人外水準の力を持ったエンさんに人外扱いされるのは心外である。と言いたいところだが、コウさんも、普通の人は近付けない、と言っていたということは、僕の特性は竜の属性に因る影響まで無効化してしまっているようだ。人外と呼ばれるのもむべなるかな。などと納得し難い気持ちが湧いてくるのは何故なのか。う~ん、僕の特性は制御できないし、実感がないからかな。
見ると、みーが宣言通りに頑張り捲って、その結果なのだろうか、体の炎色の文様が薄くなっていた。強火から中火になったというところか、果実なら美味しそうな色合いである。みーは、自身の文様が薄くなっていることに気付いて、更に頑張り注入中。
「むーい、むいむいむいむいむ~い、むいむいむいむいむぅ~い」
集中しているのだろうか、体の前に持っていった両手が宙を掻いている。爪を研いでいる猫のようで、一生懸命なみーには申し訳ないが、微笑ましい姿に頬が緩くなってしまう。
「みーちゃんっ、もう少しですよ~。がんばりゅ~がんばりゅ~」「みゅーう、みーちゃんがんばりゅりゅー、りゅりゅりゅりゅーなのだー。みゅいみゅいみゅいみゅいみゅ~いっ、みゅいみゅいみゅいみゅいみゅ~いなのだーっ」
息を止めているのだろうか、むぎゅっと顰めた顔が炎色に染まって、手の動きが速くなって、って、ちょっと、速過ぎて残像しか見えないんですけど⁉
「みゅぎゅみゅぎゅみゅぎゅみゅぎゅみゅぎゅう~~なのだーー‼」
ぼふんっ、と蒸気みたいな真っ白なものが噴き出したかと思うと、みーはぐったりとコウさんに寄り掛かった。精根尽き果てた(やまかじがちんかした)といった体である。
「みーちゃんおめでとうです~。属性の制御もできました~」
「ふひゃひゃ~、みーひゃんやっあのあー、ふひゅひゅ~」
見ると、みーの体の、炎色の文様が消えていた。コウさんが太鼓判を押したように、制御に成功したのだろう。ふむ、これで角以外は、人間の子供と変わらないーーのだろうか。
疲れ果てて倒れたのかと思ったみーだが、コウさんに抱き付いてすりすり甘えていると、彼女の魔力を分けてもらったのだろうか、どんどん活力が戻っていって、忽ち猛炎のような元気っ子の復活である。これで、属性問題は解決したのだろう。
然あればコウさんはクーさんの「待て」を解除して「良し」にした。
「クー姉、みーちゃんに服をお願いなの」
コウさんはみーと、こつん、と額を当てて微笑むと、クーさんにみーを託した。
「『遠見』を付けておくの。クー姉とみーちゃんも一緒に聞いておいて欲しいの」「はーう、くーがみーちゃんにくれるのだー?」「みーには、とっておきをやるぞー!」「みゃーう、どんとこいなのだー!」「どんどんどこまでどこにでもーっ!」
みーを抱えたクーさんは、砂糖より甘そうな、どろりとした顔のまま、大岩の反対側に獣じみた速度で消えていった。二人の耳にコウさんの言葉が届いていたかどうか。
コウさんは、二人の声が聞こえてくる「遠見」に向かって話し始めた。
「昨日、ではなく、今日、竜の狩場に着いてからの話なのです……」
ああ、やっぱりみーとクーさんには届いていなかったようだ。コウさんの話を押し退けて、「遠見」から二人の興ずる声が聞こえてくる。
「ほれー、脱げー、みー」「たーう、ばーんばーんざーいなのだー」「水、ぶっかけー」「くーのて、みずなのだー! もっとみずみずーうまうまー」「ほーれ、次は、あわあわだー」「みーちゃんあわあわー、あわあわのみーちゃんだぞー」「隅から隅まで綺麗に洗って……ごふっ」「さーう、くーがたいへん、へんたいかー?」「な、何のこれしき……」
何をかいわんや。まぁ、クーさんにはそのまま楽しんでいてもらおう。
「先ん飯、食っちまおう」
エンさんの建設的な提案に、僕とコウさんは無言で頷いた。
「くーもあわあわになれーなのだー」「うりうりーぐりぐりー」「みゅーう、そこ、もゆもゆするー、おかえしだぞー」「みー、そこは優しくー、強くすると痛いからなー」「むーう? くーのぽよぽよ、こーとみーちゃんないぞー」「胸はー、大きくなれば、大きくなるかもなー。ほーれ、あわあわを水で流すぞー」「あわあわなさよならーなのだー!」
「こー」というのはコウさんのことだろう。……駄目だ。怖くて、そちらを向けない。視界の隅で、はっきりとはわからなかったが、コウさんが引き攣った笑みを浮かべていた。
いや、一応、コウさんの名誉の為に言っておきますが、ちゃんとわかるくらいにはちゃんとありますよ? 女性の胸について知識がなかったらしいみーには、無いと判断してしまうくらいのものではあるかもしれないが、あるとないにはきっと僕にはわからない深遠が横たわっていて、未熟な僕が踏み込んでいい領域ではないと。ふぅ、……頭を冷やそう。
「これ、初めて見ましたけど、美味しいですね」
肉厚のある葉っぱのようなものや、植物の大きな根のようだが色鮮やかなもの、それぞれ独特の味で好みは分かれるだろうが、しっかりとした強い味は、食材として広く受け入れられるだろう。焼いただけでこの味なら、調理次第でもっと美味しくなりそうだ。
「竜の狩場に自生してる植物なのです。何種類か見つけたので、名物か特産品にならないかな、と思って採ってきたのです」「俺ぁ、こん緑ん駄目だなぁ。苦いぞぉ苦いぞぉ」
そう言いつつ、あっさりと口の中のものを、ごっくんと嚥下するエンさん。ノースルトフルの教義に、食べ物を粗末にしてはならない、という教えがあるのかもしれない。
そうして、食材談義をしながら食事を終えると、足音が聞こえてきた。出て行ったときと同じ速度で、みーを背負ったクーさんが戻ってきた。そして僕たちの前で急停止ーーのはずだったのだろうが、足を滑らせた彼女は顔から地面に突っ込んだ。魔力を纏っていたとは思うが、あの勢いである、かなり痛そうなのだが。
「はーう、とーちゃーくなのだー!」
クーさんの背中から淡い緑の塊が飛び出して、たうっ、という掛け声とともに見事に着地。然ても然ても、お披露目である。元気一杯夢満杯、緑塊がどばっと弾けた。
「みーちゃんはみーちゃんなのだー‼」
遥か空の高みまで翔け上がる勢いでみーが絶叫した。人間が出せる音量を超えた声が、竜の咆哮の如く響き渡った。
「ーーっ!」
たくさんのみーが一斉に発したような澄明な衝撃が全身を通り抜けた。
そうして、吹き払われた僕の心に、風が囁く。……あ、いや、見蕩れてしまったのが恥ずかしいので、あえて言い直させてもらいたいのだが、……僕の心を、風が嘯いた。
「ーーーー」
コウさんと似たような作りの外套を着ていた。彼女が着ているような地味な暗色ではなく、目が覚めるような若草色だった。外套の端には、濃淡の効いた細い葉のような模様が絡み合って、清涼な風が吹き抜けるような、爽やかな心象を抱かせる。
「ふーう、ふくー、ふくー、いいのだーいいのだーきにいったのだー」
感謝の踊りだろうか、遊び足りない風のように、クーさんの周りをくるくる回っていた。
みーが動くと、重なり合っていた外套が押し退けられて、健康的な手足が見え隠れする。外套より若干濃いだろうか、草色のひらひらした布が胸と腰に巻かれていた。布地の端には外套と同じ意匠が施されている。
「隠して隠すことで、そこには願望いっぱい欲いっぱい! 蕾ほころび花や咲く、その先には至宝秘宝が手薬煉引いて待っている! ふっふっふっ、あたしの最高傑作っ」
いや、もう何も言うまい。ぐばっと復活したクーさん、絶好調である。
みーは、僕たちの周りもぐるぐる回って、喜びや嬉しさ、幸せとか楽しさとか、暖かなものを振り撒いてくれる。みーが居るだけで、祝福された世界が輝きだす。
走ったり飛び跳ねたりすると、胸と腰周りの布が捲れて、中が見える。あれは、下着ではないようだが。曲芸師や踊り子が着るような、薄手のものだ。つまり、見られることを前提に作られているのだが……。
服は、風をーー萌える春の息吹の心象を言祝いでいるようで、目を楽しませて、見る者の心を和ませてくれるのだが、そこに込められた意図というか、機能というか、クーさんの趣味丸だしの欲望めいたものが、服を台無しにーーいや、認めよう、認めないわけにはいかない。周期頃の少年が抱え持つ潔癖さを理由に、目を背けるようなことをしてはならない。それは服の価値を貶めるものではなく、完成度を高める役割を果たしていた。
クーさんが最高傑作と自負するのも頷ける出来栄えである。
「ありゃ相棒ん昔、ちび助ん作ったやつだなぁ。一回しか着んかったやつ」「コウさんにも似合いそうですが、やっぱり……」「あん頃ぁ、今より人目気んしてたかんなぁ。服ん機能っつうか魅力ってやつか? 似合わねぇって、自分から言って、相棒ん返してたなぁ」
隠すことで興味を惹くことが出来る。それを二重に行うことで、ないものをあると錯覚させることが出来る。似たようなことを、里で習った記憶がある。衣服の変遷だっただろうか。戦史の講義で話が脱線したときのことだが、それを語っていた師範は、今のクーさんほどではないが、意気揚々と自説を披露していた。
みーは特等席であり、指定席でもあるコウさんの膝に飛び乗った。
「あーう、ふく、こーのだったのかー? こーのがみーちゃんのー、うれしいのだー!」
「みーちゃん、すっごく似合ってて可愛いのですよ~。ーー捨てたはずの服で、みーちゃんがこんなに喜んでくれてるので、クー姉のこと許してもいいかな~」
コウさんは、後半の言葉とともに荒んだ笑顔をクーさんに向けた。クーさんは、心臓まで止まってしまいそうな恐怖を刻まれたらしく、ひぃっ、と情けない声を漏らして、がくがくと震えていた。僕にはわからないが、魔法か魔力でも浴びせられたのかもしれない。
エンさんは、コウさんがクーさんに服を返した、と言っていたが、裏では一悶着あったらしい。恐らく、クーさんが彼女の堪忍袋的なものを刺激してしまったのだろう。ないものをあるように見せる、その辺りがきっと、微妙なところにある劣等感をちくちくと。
「えっと、話の続き、いいでしょうか?」
そろそろ大きいほうの疑問に答えて欲しかったので、直球で尋ねることにした。
「今日は、皆でミースガルタンシェアリの住み処である北の洞窟に向かうのかと思っていましたが、違いましたか?」「あー、こぞーにゃ言ってなかったっけなぁ」
空惚けるというか空嘯くというか、そんな感じではなく素で忘れていたみたいである。
「可能性は低いが、ミースガルタンシェアリと戦闘になるかもしれない。なら、足手纏いになるとわかっていて、付いていくわけにはいかない。コウが昨日から魔力を集めていたことはーー、リシェにはわからないことだったか」
見事な変わり身の早さである。クーさんは、僕の話に乗って、コウさんからの追及を逃れていた。然ても、クーさんの言い様だと、言わなくてもわかる、という類いのことだったらしい。言わずもがな、正面の竜。魔力を知覚できない僕以外は。
「ミースガルタンシェアリに会うとなれば、相応の準備をしないといけないのです。世界に負担を掛けない範囲で、魔力を私と『結界』を張った竜の狩場に集めておいたのです」
何やら凄いことになっていたらしいが、僕はまったく欠片ほども気付いていなかった。
「朝ぁすんごかったぞ~。久し振りんちび助ん魔力でびりびりしたぜー」
「遺跡のときのような魔力ですか?」
恐怖再び、みたいな感じだろうか。僕の言葉に、エンさんとクーさんは顔を見合わせて、二人一緒に可哀想な人を見た。無論、二人の目が向けられた残念な人は、僕である。
「遺跡のときは、コウの暴走。単に、そこにある魔力を使っただけ。前回は街を滅ぼす程度の魔力量で、今回は大陸を滅ぼす程度の魔力量。桁が違う」
「ぐーすか眠ってられんこぞーが羨までなぁ、んや、むかついて何度起こそーと思ったか」
僕の認識は甘々だったらしい。みーの笑顔くらいぽかぽかだった。世界の終焉のように感じられたコウさんの暴走は、どうやら彼女の全力からすれば朝飯前といった程度のものだったようだ。冷静に考えてみれば、彼女は世界の魔力を支配下に置いているのだ、遺跡のときのような、と今だから言えるが、あのような小規模な天変地異で収まるはずがない。
「ぎゃーう、みーちゃんおっきしたら、ちかくにすっごいのいたのだー! ぼよぼよばやばやどっかーんってかんじー? みーちゃんがくがく、もらしちゃったのだー」
そのときのことを思い出したのか、みーは自分の体を抱き締めて、ぶるぶる、というより、ぷるぷる、という感じで小刻みに揺れていた。恐怖の体験を語っているはずなのだが、なぜか嬉しそうである。コウさんとの出逢いの場面なので、後から幸せや喜びで塗り替えられたのだろうか。まぁ、記憶の美化でもなんでも、みーの心に傷が残らなくて良かった。
「まーう、からだぷしゅーてかんじで、あなというあなからぜんぶでたー! だばだばーなのだー! だばだばーだばだばーんだだばばーばっだだだばだーんっ!」
……穴から出たものは魔力なのだろう。そうだ、きっと、そうに違いない。
自分で言った擬音語が気に入ったのか、そのまま謎舞踊に突入のみー。然し、不思議である。みーと一緒に謎舞踊のエンさんは、振り付けをしたわけでもないのにみーと寸分違わず同じ動きをしている。いったいどうやっているのか、まさか魔力が関係している?
「みーがそうなるのも無理はない。魔力全開で『収斂』の魔力を散らしたコウがいたら、普通の人間なら魂が砕け散る水準。今も平然としていられるということは、みーの力の程を示している」「えっと、魔力の状態は『圧縮』ではなく『収斂』なんですか?」「ふふっ、良いところに目を付けるじゃないか、リシェ」
クーさんは目配せして、コウさんに説明するよう促した。
「魔力は、圧縮すると不安定になって、濃度が高くなることで周囲に悪影響を及ぼすようになるのです。なので、魔力を糸のように細くして、ぐるぐる巻いてしまえば、魔力を細分化した小さな範囲での『圧縮』で済むのです。その過程は、『圧縮』よりも『収斂』が主となるので、『収斂』と呼んでるのです」
大量の魔力を圧縮するのではなく、少量の魔力を多数圧縮することで、悪影響がでないようにしていると。いや、それは途轍もない魔力量と技術、魔力操作の能力、というか技能が要求されるのではないだろうか。正直、とても人間業とは思えない。
「ほー、ちび助ん魔力ん本質ぁ見えてきたかー、やるなこぞー」
「リシェには必要ないと思っていたが、その内、コウから魔法の真髄、深奥を聞けば良い」
どうやら、更に奥の奥があるらしい。それは、もう魔法の領域なのか、わからなくなる。魔力を用いた別の技術なのではないかとすら思えてくる。
「話を続けますが、北の洞窟には炎竜が居たのです」「みーちゃんだー!」「はい。みーちゃんが居ましたが、ミースガルタンシェアリの姿はなかったのです」「おーう、さんしゅーきくらいまえ、せかいにかえったのだー。じゅみょーがあるとはおもわなかったすきにいきるがいー、っていってたんだぞー」
……衝撃の真実のはずなのだが、みーの、陰りがまったくない表情を見ていると、大したことではないような気がしてくるから不思議である。実際には、どうなのだろう。永い時を生きた末に身罷れたことは、不幸なことではないように思える。世界の魔力を調整していたという彼の竜の役割を考えるなら、最良の最後、とはならなかったかもしれないが。
ただ、一つ思うことがあるとするなら。ミースガルタンシェアリは独りでは逝かなかった。傍らには、みーが居た。孤独と静寂の中で世界に還るのではなく、みーに見送られて世界に還った。勝手な思い込みだが、きっとそれは幸せな最後だったとーー。
誰ともなく、ミースガルタンシェアリを悼む。不思議そうに僕たちを見るみーの瞳には、何が映っているのだろう。この世界を、どんな風に感じているのだろう。
沈黙が風に攫われる予兆を察したクーさんが、僕たちを生ある世界へと誘う。軽い調子で、やるべきことを、なすべきことを、前に進める。
「いやはや、この世界は不完全と知ってはいたが、『守護竜』が世界に還っていようとは。みーが後継竜というわけではなさそうだが」「前にクー姉が言ってた、師匠の言葉なの。生命が入り込める余地があるなら、必ずその隙間を生命が埋める。竜は、精霊に近い魔力寄りの種族。その地の魔力に入り込める余地があるときに生じる生命、それが竜。みーちゃんは、竜の狩場に生じた竜で、世界に生じたミースガルタンシェアリとは違うと思うの」
コウさんの説明に依れば、みーが背負うべき使命や役割はなく、「守護竜」を継げるほどの力は具わっていない。みーに遺した、好きに生きるが良い、というミースガルタンシェアリの遺言からも推し量ることが出来る。
「みーちゃんはずっと、一人で北の洞窟に居たみたいなので、一緒に来ませんか、って誘ってみたのです」「あーう、こーがきたとき、さいしょこわくてにげみちなくて、わーう、ってなったー。でもー、こーがみーちゃんさわったとき、なんかすごくよかったのだ……。ひとりなの、いやぁって……」
コウさんがみーを横抱きにすると、みーは彼女の肩に顔を埋めた。
泣いてはいないようだが、炎のように元気なみーが萎れていると、それだけで世界が色褪せたような気分になってしまう。
みーの内の、寂しい、という気持ちはいつ生まれたのだろうか。ミースガルタンシェアリが側に居たときには気付かず、そして彼の竜が世界に還ったときには気付けず、ずっと独りで。そんなみーは、コウさんに触れられたとき、何を感じ、何を思ったのだろう。
「みーちゃんは凄いのです! ここに戻るまでに『人化』が出来るようになって、『味覚』も『甘噛』も覚えて、さっきは属性も抑えられるようになったのです!」
みーの弱気を吹き飛ばすのは自分の使命とばかりに、コウさんが大きな声でみーを褒め称す。大声を出し慣れていない所為なのか、言い終えてから、こほっこほっ、と小さな可愛らしい音を、口に当てた手の隙間から漏らしていた。
「おー、みーちゃんすごいのかー?」
「はっはー、ちみっ子よりすげぇ奴ぁ、ちび助以外にゃ知らんなぁー」
エンさんは、みーの頭をぐりぐりと撫で回した。というか、撫で回すだけでは飽き足らず、みーの角を掴んで前後左右に、更にぐるぐると回しているが、大丈夫なのだろうか。はぁふぁー、と歓声を上げているみーの姿からすると問題ないようだが。
羨ましい……。いや、羨ましいのは、角ぐるぐるではなく、みーの頭を撫でたらきっと気持ちいいだろうな、という純粋な好奇心から来るもので。……別に、他意はないですよ。
「ーーーー」
僕は、ゆっくりと息を吐いて、頭を切り替える。条件は整った。
それでは、済ませるべきことを済ませてしまおう。
「ミースガルタンシェアリの言い様。現在の、竜の狩場の所有者はみーということになる。ならば、やるべきことは一つ」「皿食らわば毒までって心境でやってやれー」
やはりというべきか、それは今に至る提案をした僕の役割であるらしい。
クーさんが覚悟を決めろと迫る。国を造るつもりなら、どんな困難だろうとやってみせろ(訳、ランル・リシェ)、というエンさんの励ましの言葉が後押しする。
「みー様。竜の狩場に国を造ろうと思っているのですが、造ってもよろしいでしょうか?」「さーう、なんかつくるのかー、みーちゃんてつだってやるのだー!」「…………」
許可だけでなく、助勢まで簡単に得られてしまった。みーに断られる可能性は低いと思っていたが、これほどあっさりと了承されるとは。みーの言葉を借りるなら、ぷしゅー、って感じで体から力が抜けてしまう。ああ、そういえばそうだった。みーを見ていて、わからないことがあったのを思い出したので、聞いておかなければ。
「また同じ間違いをしたくないので知っておきたいんですが、みー様は男の子と女の子、どっちなんですか?」「……また?」
僕の失言に気付いたコウさんが、疑惑の眼差しを向けてくる。
「…………」「…………」
気が抜けていたところだったので、コウさんのことを男だと思っていた過誤を臭わす発言をしてしまった。どう言い繕ったものか頭を悩ませていると、
「むーう、にんげんおとことおんながあるみたいー? みーちゃんどっちなのだー?」
みーがコウさんに尋ねたので、一先ず彼女の追及が止んだ。
「この大陸にいる竜の殆どは幻想種なのです。幻想種と魔獣種の竜は、一個で完全な生命。伴侶や子孫を必要としてないのです。
……あの、言い伝えでは、そのときが来れば……なるみたい……なのです」
コウさんは、重要なところをもごもごと、耳まで赤く染めながら誤魔化した。
そこで恥ずかしがられると、こちらまで居た堪れない気分になってしまう。三角帽子で、きゅっと顔を隠す仕草は、破壊力抜群である。
「つまり、今んとこちみっ子ぁ男でん女でんなぁて、好きんやつ出来りゃ、男でん女でんなれんっつぅことか」「さーう? よくわからないけど、よくわかったのだー。そーゆーことならこたえはひとつー。こーにみーちゃんのこどもうんでもらうんだぞー!」
どうやら、すりすりが余程気に入ったらしい。コウさんに抱き付いて頬を、というか体ごとすりすりしている姿は、大きな猫のようである。
「むむっ! それはいかんぞ、みー。コウにはあたしの子供を産んでもらうんだ!」
「わーう、そーなのかーしょうぶなのだー、みーちゃんまけないんだぞー」
みーは楽しそうにぐるぐると腕を回していた。見様によっては、負けることをまったく考えていない余裕の態度と受け取れないこともない。
「くっ! いいだろう、その勝負、受けて立つ!」
勝ち目のない勝負に挑むクーさん。……そういえば、僕がコウさんを男だと思った理由の一つは、クーさんが彼女を溺愛していたからだ。同姓であることに理解がないわけではないが、あの状況では間違えたとしても、……いや、これは言い訳か。
みーは雄でも雌でも、いやさ、男の子でも女の子でもない。いや、だからどうしたということもないのだけど、ではどういうわけかと聞かれると困ったことになるかもしれないと思うこともあるのかもしれないが。……うん、保留にしよう。
わからないものは、わからないままに、ゆっくりと付き合っていけば、自然と心に降り積もってゆく。そうして新たな関係は築かれていくのだ。といい感じに先送りにしてみたが、この胸のもやもやは何なのだろう。
「リシェさん、竜の狩場の地図を持ってると言ってたのです。見せてなのです」
コウさんは、二人の会話を黙殺して、僕に要求してきた。要求というより、実際はお願いといったところなのだが、コウさんの妙に冷めた表情を見ると、命令という表現が一番しっくりとくる。コウさんの生い立ちと、魔力と魔法について知った今では、以前とは意味合いが異なってくる。まぁ、これは、僕がどうこうというよりも、コウさんの側の問題なのだろう。僕に対して、どう接したらいいのか模索しているのかもしれない。弱いところを見せたくなくて、強気に振る舞っているようだが。
慣れないことはしないほうがいいですよ、と助言したいところだが、意外に勝ち気なコウさんのことである、意固地にさせてしまうか、子供らしい反発心から僕を毛嫌いするようになるかもしれない。う~む、これは不味いなぁ。みー同様、コウさんにまで謙るというか、阿るというか諂うというか、状況的に良くないような。
然し、他に良案が思い付かないのも事実。戦略的に已む無し、と僕は一も二もなく駆け出して、荷から目的のものを取り出すと、一目散で舞い戻った。
「やっとちび助ん怖さぁわかる奴んできたかぁ。うんうん」
同志が出来たことを喜ぶエンさん。僕の肩を叩く姿が切実さを孕んでいて、邪険に扱うことは出来そうにない。でも、このまま何もしないとコウさんの信用を失い兼ねない気がするのだが。然り乍ら、何も良い考えが浮かばないまま、僕は地図を石の卓に置いた。
「さーう、これなんなのだー?」
みーは、初めて見るのだろう、黒のインクで描かれた絵地図に目を輝かせた。
「えっと、みー様、これは竜の狩場の地図で、竜の狩場を小さくしたら、こうなりますよっていうのを表したものです」
「むーう、むむむむーっ。これちがうぞー、ここのちずとかいうのじゃないのだー」
みーは手を拱いて、砂糖と塩を間違えて入れた料理を口にしたときのような顰めっ面に、いや、膨れっ面のほうが近いだろうか、生じた違和感を上手く説明できないようで、円を描くように体をぐらぐらと揺らしていた。みーを見詰めるコウさんも、みー同様に小さく揺れているのが面白い。コウさんは、これまで周期が下の子供と接したことがなかったのかもしれない。こうしてすぐに仲良くなれるみーとの邂逅は、天の配剤だったのか。
「リシェ。この地図、描き直すが構わない?」「それは構いませんけど。直すって、どうするんですか?」「見ていればわかる。そういうことだから頼む、コウ」
無言で頷いたコウさんは、膝の上のみーを気遣いながら、卓に置かれた地図に両手で触れた。いずれかの魔法を使うのだろう。僕が魔法を知覚するには、彼女に触れないといけない。でも、今はそんなこと出来そうな雰囲気ではないし、諦めるしかないかな。
考え込んでいたみーが興味津々、卓に乗り出そうとしたところで、クーさんが後ろから二人に覆い被さって、コウさんの集中を乱さないよう指を立てて、しー。コウさんとクーさんを交互に見たみーが、自分のお口を両手で押さえて、こくこく。自然にみーと触れ合っているクーさんを羨ましがって、もとい微笑ましく眺めていると、卓の上の地図に異変が生じた。地図に描かれた竜の狩場の、周囲の枠や山脈、北の洞窟、草原や森が震えだしたのだ。そして、一斉に、整然と動き出した。
うわっ、これは……。生き物のように動く黒の線や塊は、ちょっと気持ち悪いかも。
故郷の森で見た、寒期の終了と同時に雪の上に湧いてくる、たくさんの黒い小虫が蠢いている様を思い出して、肌が粟立つ。
「おーう、やまーやまーかわーかわー、きーわっしゃわっしゃーくさーぼーぼー。ふぁはぁ、みーちゃんのおうちなのだー。なんかでっかいけど、きにしたらまけなのだー?」
然したる時間は掛からなかった。みーが戯れている合間に、卓には描き直された地図があった。ふむ、然てしも舌足らずなみーなわけだが、竜だからなのだろうか、みーの声音は不思議と耳に心地良い。子供のきんきんした声は、ときに不愉快に感じることもあるが、どうしたわけか、みーの声はするりと僕の中に入ってくる。人間とは声質が違うのだろうか。「人化」とは、どこまで人を模したものなのか、俄然興味が湧いてくる。
然あれど、今は絵地図のことである。僕が描いた元の地図では、竜の狩場は南北に長い楕円形だったが、新しい地図は、楕円というには歪な、端っこを動物にでも齧られたような、円とは呼べそうもない形になっていた。狩場を囲う山脈は、ただ山を示すだけの簡素なものだったが、今は比べ物にならないくらい精緻に描かれている。平原の森や川、草地や荒地など、一見しただけでわかる親切な作りに改善されていた。
「わーう、これー、これなのだー、みーちゃんいるの、ここなんだぞー!」
コウさんにちゃんと美味しい料理を作ってもらえたみーはご満悦である。砂糖と塩どころか、食材すら間違えていた僕の料理が不味かったのも道理である。
「リシェがさっき言った。竜の狩場を小さくしたら、こうなる」
クーさんの言葉が追い討ちを掛ける。
僕が文献や証言を頼りに製作したのと異なって、コウさんは魔法を行使して実際に知覚した竜の狩場を、そのまま紙に写した即ち正確な地図というわけである。いや、いいのだけど。地図を作った僕の苦労が水の泡と消えたわけではない。作る過程で得られた様々な情報は、価値を失うことはない。と強がりを言ってみる。これらは、最初からわかっていたことである。コウさんの魔法がなければ、国を造るなど遥かなる竜。始めから頼り捲る気満々なので、これくらいで一々へこたれている場合ではないのだ。
「先ずはエンから。何でも良い」「おう! そーさなぁ、……んじゃあ、風だ!」
阿吽の呼吸で、問いに答えるエンさん。省略された言葉が多くて、僕には意味がわからなかったが、コウさんが正解を教えてくれる。
「みーちゃん、どっちから風が吹いてきますか~?」「ふーう、こっちからこっちふくのだー、びゅーびゅー。あっついとき、ひゅーひゅーここからむこうふくんだぞー」
クーさんがみーの説明を聞きながら、地図に風向きを書き込んでゆく。周期を通して、西から東に風が吹いて、熱波が訪れてからしばらくは、北から吹くらしい。
「風上には、臭いの元となるようなものは設置、敷設しないほうが良いか」「次ぁ、水!」
エンさんが水の流れを体で表現すると、みーも一緒になって謎舞踊の開始である。
「みーちゃんは炎竜なので、水のことはわからないですか~?」「みーう? みーちゃんとこみずないのだー。でもー、くーのみずみずなあわあわんっ、きもちいいんだぞー」
炎竜だけに、水がなくても生きていけるのだろうか。そもそも、みーは何を食べて生きてきたのか。やばい、竜に対する興味が尽きない。
「狩場の中央を流れる川があるが、水量はそこまで多くない。周囲を山に囲まれているのだから水は豊富なはず。あとは地下水を調べる必要があるか」「水は、私に当てがあるの。十分な供給量を確保できるの」「ならコウに任せるとしよう」
水に関する問題はあっさりと解決した。治水をコウさんが一手に引き受けてくれるのはありがたい。重要な課題の一つが片付いた。任せてしまっていいようだ。
「こぞー、竜の狩場んどこん国造っか決めてんか?」
「はい、中央よりも南の竜道に近い場所に、竜の国の中心である竜の都を置こうと思っています。あとは、竜の都を囲うように、それぞれの用途にあったーーそうですね、竜に肖って、水竜とか風竜、雷竜などの地名にしてもいいかもしれません」
僕は、持ってきた紙の一枚を南の竜道の上辺りに置いた。これは僕なりに試行錯誤して作り上げた竜の都の予想図である。里での友人の提案や意見も加えて、練りに練ったーー。
「こりゃ、いらねぇな」「必要ない」「お城は、要らないのです」
都なのだが、いきなり三人から駄目出しされてしまった。
「王を頂く場所として、何かしら特徴のある施設にする必要はあるかもしれない。山脈が城壁代わりになっている。城を造る意義がない」「あとぁ、そーだなぁ、面白ぉねぇなぁ。これ、ふつーん都じゃねぇか。どーせなら、竜ん形とかんすりゃいーんじゃねぇか?」「そうすると、都の地区の名は竜の心臓や竜の尻尾、竜の右腕、竜の首とかになるのか。自由に出来るのなら、遊び心を入れるのは悪くない。コウ」
クーさんが肩に手を置くと、頷いたコウさんが地図に触れる。先程と同じように、僕の都の予想図が動きだして、竜の形に変化した。今のは、クーさんが竜の姿を心象、コウさんが紙に写したのだろう。コウさんが凄いのはもう十分過ぎるくらい実感したが、高度な魔法に何気なく対応しているクーさんも、現状の魔法水準を大幅に凌駕している。
魔法のことに気を取られていたが。竜の都の予想図を手直ししていいか、尋ねてさえもらえなかった。いや、この程度の敗北感で凹んでいる場合ではない。やることは山積している。駄目出しの百回や千回……は心が持たないので、十回くらいでお願いします。
次は何かと、やや怯えながら心構えをしていると、何かを思い出したのか、エンさんがぽんっと手を叩く。むぐぅ、本当に仲が良くて羨ましい、みーが真似をして、ぽやんっと両手を合わせと、コウさんが差し出した手に、ぱんっ、次いでクーさんと、ぱんっ、……そして、僕のほうには見向きもしなかったとさ。差し出した僕の手が寂しそうです。
「んー、んっんっ、そーだなぁ、やろーと連絡とっか」「ファタ、か。あたしとエン、あとリシェで良いか。コウとみーは、ファタに気取られないようにしておくこと」
エンさんの言う「やろー」とは、ファタという人のようだ。二人の声色や語感から、油断ならない相手、といった印象を受けるが。
「みーちゃん~、これから組合の人とお話をするので、私と一緒に静かにしていましょうね~」「はーう、むずかしーけど、みーちゃんがんばりゅりゅー。やわやわしてるのだー」
みーはくるっと回転して、コウさんに抱き付くなり、すりすり。そこから首の下に潜り込むように移動すりすり。擽ったいのか、コウさんが悶えそうになるのを我慢していた。
みーは静かだし、目の保養になるし、ここは彼女に耐えてもらうとしよう。
「ぅ…これまでぇの『遠見』は、点と点をぉ結ぶだけ……だったのですぅ……。それを線で繋いで、魔ぁ……力内に非……ぁ魔力性質を線状に織り込むことで、魔力の介在しぃ…ない像を結んでみたのでぇす……っ」
魔法のことになると、負けず嫌いを大いに発揮するコウさんである。挑戦的な、ともすれば仇敵でも見るような眼差しを僕に向けてくる。擽ったいのを我慢しながらでなければ様になっていたかもしれないが、みーと戯れながら言われても、滑稽を通り越して、もはや可愛らしいだけである。彼女の説明は、難しくてちんぷんかんぷんだが、成果に期待するとしよう。コウさんは「遠見」、いや、彼女の意気を酌んで「遠観」と呼ぶとしよう。
卓の上にコウさんとみーを隠してしまうくらいの、長方形の黒の平面が現れる。
「やーい、やろー、今ぁいーか?」「エンさん? 問題ありません。繋げてください」
落ち着いた感じの若い男の声が即答した。刹那、黒の平面が二十歳くらいの男の姿に変わった。白を基調とした服は、組合に所属する者が着用するものである。意匠の凝った作りから、地位がそれなりに高い者だと知れる。
笑っているような、困っているような。笑っているようで笑っていない、笑っていないようで笑っている。印象が定まらない、微妙な表情を顔に貼り付けていた。
「ファタ。今、そちらであたしたちはどうなっている?」
挨拶もなく、クーさんは本題に入った。
「第一報が入ったというところですか。エンさんは死亡、クルさんは虫の息。フィアさんの魔法がとんでもない、ということは、じきに伝わるでしょうね。黄金の秤と元エルネアの剣以外にも、あれだけの規模ですから、遠目とはいえ目撃した者はいますし。まぁ、それはさておき。エンさんとクルさんの無事な姿が確認できて良かったです」
淡々と話す人である。感情を読み取らせない為に、あえて抑えた物言いをしているのだろうか、氷焔の無事を喜んでいるようには見えず、また安否を気遣っている風でもない。礼儀や付き合い、言葉の上だけのもので、まったく心が籠もっていない。
「リシェ。こいつは、コル・ファタ。冒険者組合の人間で、氷焔を担当している。利害が一致した、ということ。ファタは、氷焔を出世の糧にし、あたしたちは、ある程度事情を知っているファタに便宜を図ってもらう。まったく信用できない、それ故に信用できる」
クーさんに促されて、僕は自分の役割を把握した。
「自らの利益を最優先にする方というわけですか。必要がある内は利用し、なくなれば裏切るなり切り捨てるなりする。その判断基準が明確であるが為に、信用でき得る、と。氷焔にとっても都合が良いーー」
姿勢を正し、心持ち顔を上げる。目線を定めず、相手を見透かすような老練さを演出する。ファタという人には、多少上から目線で接したほうが良い結果を得られそうだ。
「「…………」」
……コウさんとみーが、誰だこいつ、とでも言いたげな、驚きと不審を綯い交ぜにした視線を投げ掛けてきた。いや、コウさんは遺跡の祭壇の間で、僕の演技を見ていたはずなのだが。心が痛いので、もう少しだけ視線に乗せた嫌悪感を薄めてください。
「あなたが、ランル・リシェ、ですか。今も氷焔に在るということは、侮れない方のようですね。それで、用向きのほどは?」「俺たちん無事ってーこと広めておいてくれ。あと、竜の狩場ん関すん依頼あったら、それんくれ」「身を隠したいというわけですか? フィアさんの力が知れた今となっては、これまでと同様の依頼を打診するわけにはいかないでしょうね。それこそ、裏に潜ることを考慮しないといけないかもしれません。それと、竜の狩場の依頼ならありません」
然しもの彼も、僕たちが居る場所が竜の狩場だということまでは推察できないようだ。
「需要がないというわけですか。竜の狩場へ、手を出せない、現況を知ったところで、役立てようがない。とはいえ、彼の竜に対する人々の情念が失われることはありません。なら、ファタさんに竜の狩場の調査依頼を捏ち上げてもらいましょう」
僕は偽善者の笑顔で、決定事項としてファタさんに伝えた。それを断ることが出来ない彼は、仕様がなさそうに頭を掻きながら了承した。
「やれやれ、エンさんだけでも厄介だというのに、余計な手合いが増えて、益々肩身が狭くなりますね」「あたしよりエンが厄介というのは、わからなくもないが、聞いていて良い気はしない。ずけずけと核心を突いてくる馬鹿がいけ好かない、というところは同意する」「了解しました。それでは、ミースガルタンシェアリとの邂逅の報告を待っています。他に、要望があれば聞いておきます」「リシェ。これから必要になることを要請しておくと良い。あ、然う然う、言い忘れていたが、そこの童顔は、三十を超えている。そこの、おじさんは、三十を超えている」「…………」
クーさんがファタさんの周期を強調すると、人形のような笑みを貼り付けたまま、彼は沈黙した。僕にはまだわからないが、三十路というのは男として何かしら郷愁めいたものを抱かせるのかもしれない。取って付けたような彼の表情に変化はなかったが、見えないはずの背中から哀愁が漂っているのが伝わってきた。どうやらクーさんは、ファタさんのことが嫌いなようである。悪意、とまでは呼べないものの、不快感を隠していない。
僕は頷いて、頭の中に纏めておいた事柄を紙に箇条書きにしてゆく。書き終えて、顔を上げると、ファタさんが紙を手にしていた。ひょっとして、と思い当たって、コウさんに視線を向けると、……どうしてなのだろう、睨まれてしまった。頬を膨らませた顔は、コウさんの真似をしてふっくりほっぺたのみーともども可愛らしいのだが、いや、今はほっこりしている場合ではなく、魔法のことである。どうやらコウさんの魔法で、僕が書いた文章は、ファタさんが持つ紙に複写なのか転写なのか、同一の文章が模写されていたらしい。高度過ぎて、どんな魔法を使ったのか、まったくわからない。
「問題ありません。情報を集めるだけのようですね。収集するのは私ではありませんし、氷焔が必要としていると言えば、確度の高いものが得られるでしょう」
表情一つ変えずに他者に丸投げとは、なかなかにいい性格をしている。氷焔と反りが合わないのも頷ける。
「そ」
すると、何かを言い掛けたファタさんの姿が前触れもなく消えた。コウさんが「遠観」を解いたようだ。どうやらコウさんは、行動で示したらしい。エンさんやクーさん同様、要不要を判断したなら、コウさんも容赦がない。
「八か九か? よーもまーそんな覚えてられんなぁ」
エンさんは、箇条書きにした要望書を覗き込んで、眉を顰めた。
「そんな嫌そうな顔しないでください。これでも最低限に止めておいたんですから」
竜の狩場に国を造ろうとしているのを、悟られるようなことは先ず有り得ないと思うが、関連を疑わせるようなものは条項に加えなかった。狩場の外で事前に準備しておかなければならないことを含めて、もう一度練っておく必要があるだろう。
然て置きて、ファタさんとの遣り取りで、別に聞かなければならないことが発生してしまった。いや、聞かなくてもいいことなのかもしれないけど、気になって仕方がないので、心の健やかなるを願って、迅速に質しておこう。
「えっと、クーさんは、クルさん、と呼ばれていましたよね。それと、コウさんのことは、フィアさん、と呼んだほうがいいのでしょうか?」
クーさんには、「クー」と呼ぶと良い、と言われたのでそのまま呼んでいた。振り返ってみれば、クーさんが「コウ」と呼んでいたので、自然と僕も「コウさん」と呼んでいたのだが、もしかして馴れ馴れしかったのだろうか。
「あたしを『クー』と呼ぶのは、コウと師匠だけ。リシェに呼ばせたのは、願掛けのようなもの。氷焔に残って欲しい、という願いを込めて。改めて言うが、リシェに遣って欲しいことがある。師匠の話の通り、コウの感情に溜まった魔力を放出する為に『やわらかいところ』に触れる必要がある。あたしとエンでは、もう役を果たし難くなっている」
言わんとするところはわかる。エンさんとクーさんは、近過ぎるのだろう。
みーは、コウさんの懐に入って、受け容れられている。これは、コウさんの心情に大きく左右されるのだろう。エンさんとクーさんとみーは「家族」という括りに入っているので、彼女の心を揺らすことはあっても、それが響くのは深い場所、或いは系統の異なる範囲であるが為に、目的の「やわらかいところ」に触れられない。抽象的ではあるが、間違っていないように思える。感情に感情で触れる。定めし僕は揺らす側で、コウさんは揺れる側なのだろう。受け手のコウさんの心情によって、如何様にも変化する。彼女がそれを自覚しているかどうかわからないが、制御は出来ていない、と見るべきか。魔法使いとして隔絶した力を持っていたとしても、所詮十三、四周期の子供なのだ。多感な女の子の心が、枯れ果てることなく今も瑞々(みずみず)しい輝きを放っているのは、「やわらかいところ」対策としては不都合ではあるが、いや、好都合なのかな? まぁ、対策云々は無しにして、人としての有様からすれば、真に良き兆候と言えるのではないだろうか。
内側よりも外にあり、外側よりも内にある。そんな場所にいる者が適任なのだろう。そして、それが僕の、今の立ち位置である。家族ほど近くないが、他人ほど遠くない。あとは、僕が異性であるということも効果的なようだ。周期頃の女の子の心をやんわりと撫でるには……、あ、いや、言い方がちょっと露骨過ぎたので言い直そう、風に触れて解ける少女の心の欠片を拾い集めるには……と、って、駄目だ、駄目過ぎる、どうやら、周期頃の少年の心のほうが耐え切れなくなって、暴走してしまいました。これはもう、尻尾は隠れなくてもいいので、竜にも角にも、隠れられる場所が欲しい。と付近を見回していたら。
「てぇーわけん、やってみよーかー。こぞーんちび助ん目ぇー見て、ちび助ゃこぞーん目ぇー見ろー。ずっと見てん奴ぁ勝ちってことだーっ! あとぁー、ちみっ子ぁちび助ん背中ぁ移動だー」「ひゃーう、こーのせなかもぐもぐーなのだー」
コウさんの脇から外套に潜り込むと、彼女の背中を登っているらしく、外套がもぞもぞ動いて、コウさんが外套を緩めたのだろうか、彼女の頭の後ろから、ぽんっとみーが顔を出す。炎竜の守護を受けたコウさんを確認すると、エンさんは僕の頭をむんずと掴んで、引き摺るようにコウさんの前に連れてゆく。コウさんに同じことをすれば、逆撃されるかもしれないので、僕を標的にするのはわかるのだが、ここのところ僕の扱いが雑になっている気がする。いや、雑というより、遠慮する必要がないと思われているような。もしかしたら、それは仲間として受け容れられつつあることの兆しなのかもしれない。
コウさんは勝負を嫌がるかと思いきや。深く考えずに決めたのだろうが、エンさんの遣り様は上手かった。目を見ることくらいなら、と思わせて、みーを焚き付ける(みーにおうえんさせる)ことで、彼女の負けず嫌いなところも押さえてある。畢竟するにコウさんと見詰め合うことと相成るわけだが。真剣な面持ちで僕を見返している、幼さを残した顔が近くにある。
……これは、近い。もう少し距離を取ってもいいのではないかと思うが、勝負に没頭しているコウさんは意に介していないようだ。コウさんのことを「コウさん」と呼んでいることの是非を答えてもらっていないので、後々の関係構築の為にも知っておきたかったのだが。機を逃してしまった。
「むう、さすがん見んだけじゃ勝負つかねぇかぁ。んじゃあ、ちび助ん魔法、こぞーん言葉攻め、やっていーぞー」
僕が意識を逸らしている間に、焦れたエンさんが難易度を上げてきた。女の子とこんな間近で目を合わせるなど初めてで、盛大に恥ずかしくて、気を紛らわせていたというのに。焦点が定まって、コウさんの瞳に吸い寄せられてしまう。
不味いな、と思った。でも、遅かった。何故こんなにも、翠緑の輝きに惹かれてしまうのか、最後の足掻きで考えようとして、ーー失敗した。僕には魔法が効かないというのに、魅了される。よもや、魔力がないからこその……。
「こぞーからだー。何も言わんかったら、負けんなんぞぉー」
危ういところで、エンさんの声に引き戻される。
いや、言葉で攻めろと言われても、女心に疎い僕にはそんな技術などない。とはいえ、黙っているわけにはいかないので、思ったことをそのまま口にすることにした。
「綺麗、ですね」
赤裸々に言葉にしたからだろうか、自然と微笑みを浮かべることが出来た。
「ふぁ……っ」「ふぁはぁ⁉」
驚くべき変化だった。とはいえ、一瞬のことだったので、はっきりとはわからなかった。コウさんは魔法で、「転移」で逃げ出して、次いで、ぼひゅっ、という音が大岩の反対側から聞こえてきた。みーの瞳と同じ色に染まった彼女の顔が、目に焼き付いている。魔力放出が成功したようで何よりである。勝負も、僕の勝ちである。ただ、勝負に勝ったというよりも、コウさんを苛めてしまったようで、竜が乗っかったかのように心が重い。
周章していたからだろうか、若しくは恥ずかしさが振り切れてしまったからなのか、自分の姿を仔竜に見せまいと、コウさんは「転移」でみーを残して行ってしまった。慥か「転移」は、触れている人間も一緒に移動させると、何かで読んだ記憶がある。みーを伴わなかったのは、コウさんの技量が優れているのか、はたまたみーが竜だからなのか。
「むーう? みーちゃんのなか、むりゅむりゅ、なんかへんなのだー」「むむっ、いかんぞみー。みーまでリシェの無遠慮な笑顔に絆されることがあってはならないのだー」
みーを抱き締める口実が欲しかったのだろう。クーさんは、みーの口調を真似ながら、コウさんが座っていた席に素早く移動して、炎竜の確保に成功するが、
「ぎゃーう、ちがうのだー、これ、みーちゃんのじゃないぞー。よくわからないけど、よくわからないのだーっ。みーちゃんのじゃないのだー!」
みーが駄々を捏ねたので、対応に大童。暴れる炎竜もまた格別なのか、じたばたするみーを、笑顔の上に笑顔を振り掛けたような、ちょっとあれな感じの笑顔で堪能中のクーさん。いや、まぁ、事実を語るのは、というか、本心を披瀝するのは、さすがにどうかと思ったので。暴れるみーの手やら肘やら足やらが体に当たっているが、幸せそうなクーさんは、とりあえず視界の外にやっておく。然ても、今、最も心を砕かなくてはならないのは、手遅れなクーさんのことではなく、みーのことである。見ると、否定したいけど否定し切れない、そんな曖昧なものに揺さぶられて、噴火間近の火山のような顔になっていた。
「やうやうやうやうやうっ、みーちゃんはみーちゃんなのだーっ!」
みーは、自分の内の、これまで生じたことのない感情を待て余しているのだろうか。クーさんに、無遠慮な笑顔、と言われて、そこまで言わなくても、と思ったが、みーの中を「むりゅむりゅ」にさせてしまうくらい不細工な笑顔をしていたのだろうか。演技していない素の自分を否定されたようで、ちょっと哀しくなってくる。
「ぼわぁ」
ゆくりなく気の抜ける声がした。ほんのり膨れ上がるような、ほんわか笑顔を連想するぽかぽかな感じなのだが、みーの声だと認識するよりも前に、視界が炎で埋め尽くされた。はたと思い出す、遺跡でコウさんが僕に放った「火球」の真っ赤な炎。みーの炎は、更に紅くて、鮮明で、どう言ったらいいのだろう、純粋な炎のようだった。
陶然とした心地で炎に巻かれる。炎の中からみーが見える。大っきなお口を開けて、火炎を僕に吹き掛けている。子供の形で失念していたが、みーが炎竜だったことに思い至る。
「こ~ら、みー。人に向かって炎を吐いたら駄目だぞ~。コウとリシェになら良いが、他の人は死んじゃうから気をつけるんだぞ~」
ちゃっかりとみーを膝の上に乗せて、駄目な感じで抱擁していたクーさんが、優しくみーの頭を叩いていた。息吹を吐いているからなのか、みーの体に文様が浮き出ていた。
見ると、クーさんは顔に汗を掻いていた。属性の相性の悪さにもめげず、身を削ってでも欲望に忠実であろうとする彼女は、ある意味、天晴れ、と言うべきか。はぁ、治癒魔法が使えるとはいえ、見ているほうが冷や冷やするので、もっと自分を大切にして欲しいところだが。コウさんならいざ知らず、僕が言っても無駄だろうなぁ。
「ちみっ子ん息吹ん無傷たぁ、やっじゃねぇかこぞー。俺だって、そこそこ焦げちまうってーのん。ほーれ、ちみっ子、そんくれーしとけよー」
みーの炎は、コウさんの炎より綺麗だったけど、威力は弱かった。いや、これは質の違いだろうか。みーの炎は、対象を焼くことに特化しているのかもしれない。
「あーう、わかったのだー、ぼわぁっ」
どうやら、一回では気が晴れなかったらしい。再度、先程より強火の火炎に襲われる。
炎の中から見上げる空は、とても赤かった。