七章 侍従長と魔法使い 中(文字制限で残りを後半に)
南の竜道の入り口に、シアとシーソ、それとサキナの三人が居た。それから、僕らを見咎めた王様代理がこちらに遣って来るのが見える。あ、双子も来るようだ。
煩くなる前に、シアと打ち合わせをーー。
「ゆうべは、おたのしみでしたね(あっちっち)」「ーーっ!」「……?」
僕を嫌っている節のあるシーソの、皮肉なのだろうか。言葉の意味が理解できたらしいシアが慌てふためき、そんな純真純情少年をサキナが不思議そうに見ている。
「ふふっ、興味があるようでしたら、私が手解きしてあげますわ」
またぞろ悪戯っ娘なレイが微笑むと、シーソはつつつっとシアの後ろに隠れた。
「……あれ? こんなに怯えたシーソは、初めて見るんだけど……」
いつも通りの無表情に見えるが、シアにはシーソの感情の機微がわかるらしい。僕には感じられなかったが、レイが魔力を解放するなどしてシーソをからかったのかもしれない。
「それで、シア様。三人いるということは、連絡要員でしょうか?」
「はい。魔法団団長の魔力温存の為にも、緊急でない連絡は僕たちが担当します」
それぞれ手に小旗を持っている。城街地に居たころの合図を改良したものらしい。大役を任されて、やる気を漲らせたサキナが請け負う。
「ずっとれんしゅうしたので、大じょうぶです。ぼくたちが伝えます」「ここ、すいりょくきゅうの、れんらくもう、みじかいぶん、それと、いちからじゅう」「項目を事前に準備しておきました」「あ、これです。見てくださ……」「だめ、まつ」「って、サキナ⁉」
一、同盟国と交渉中。二、南の竜道に撤退開始。三、侍従長が裏ーー。
重要度の高いものが、若い数字になっているのだろう。三番目は、途中までしか見えなかったが、いったい何て書いてあったのだろう。然てこそもう手遅れなわけだが、シアが抵抗しようとして、美人過ぎる異性(?)を相手に手を拱いていた。
「ふふっ、これらの項目を選ぶとは、中々に見る目があるのですわ。『卓見』の称号を呉れてやるので、創案者は手を挙げるのですわ」「わー、やっぱりシーソはすごいんだね」
さて、そんな興味深いもの、レイが見逃すはずがない。サキナから奪い取ったシアから、あっさりと強奪して、しげしげと目を通す。犯人はこの中に居る、などという台詞は必要なく、まったく悪気のないサキナがシーソを褒め称す(みーつけた)。
「中央にあの娘の師匠で、あら、シャレンとかいう娘は『火焔』ではなく『薄氷』のほうに配置されているのですわ」「エンさんの側だと、やる気以外のものまで溢れてしまうと、老師が判断したんだろうね。魔力の浪費が激しいとかかな」「ということは、私は左翼ですわね。ふふっ、子供たちの誰が、私と一緒に戯れてくれるのですわ」
竜の生殺しならぬ竜が生殺し、だろうか。あー、レイ、甚振るのもほどほどにね。
竜に睨まれたギザマルのようなシアは、むりょくなシアはわるいシア(訳、ランル・リシェ)、というシーソの無表情攻撃で、可哀想に、身振り手振りで少女に謝っていた。
「サキナ、いっしょうの、おねがい、はいち、かわるがせいかい」「うん、いい……わっ」
サキナの厚意も空しく、一瞬で背後に回ったレイが、シーソを日用品が詰め込まれた頭陀袋のように無造作に小脇に抱える。そこへ、到頭カレンが遣って来てしまう。
「何をしているのですか?」「ふふっ、小娘も抱えられたいのでしょうが、残念。私の細腕では、小娘は重過ぎて、腕が砕けてしまうのですわ」
ああ、何かもう、滅茶苦茶だなぁ。どんな魔法を使っているのか、いや、氷竜の能力かもしれない。そのほうが効果的だと判断したのか、カレンの反応を確かめることなくスナは振り返って、石畳、草地と関係なく、地面を滑っていった。
「ひゃっほーぃ、ですわー」「いーやー、いーゃー、ぃーぁー」
遠ざかっていくシーソの声が哀れである。然し、スナは無敵だなぁ。と現実から目を逸らしてみる。だが、脅威を目の前に、遠ざかりそうな現実を、吸い寄せて呑み込む。
……苦い。然かし、これが現実の味か。いや、妄想はこれくらいにしておこう。
「いつも綺麗だけど、化粧をすると、また印象が変わるね」「っ! おっ、お世辞などいりませんっ」「ははっ、お世辞が言えるほど、僕の語彙は多くないよ」「…………」
あれ? 怒ったのだろうか、カレンが黙り込んでしまった。今回彼女は王様代理なので、魔法使いの格好をしている。フラン姉妹は逆に、スーラカイアの双子であることがわかるように、化粧はしていない。幸福の象徴としての双子を演出してもらう。
「あのおねいさんは、もう戻ってきませんよねねん」「あのおねいさんは、おーさまより怖い気がするるん。とギッタが言ってます」「こわーい、くわーい、けぶかーい」
どうやら、僕への嫌悪より、生存本能(?)のほうが勝ったらしい。カレンの後ろに隠れて、レイをおっかなびっくりといった体で眺め遣っている。おべっかなのか、おどけているのか、人間水準最強存在を斯かる言行に駆り立ててしまうとは、罪な氷竜である。
余談だが、炎竜より氷竜のほうが毛深かったのは事実である。まぁ、氷竜のほうが体表面を覆う部分が多かったということなのだが。やっぱり寒いところに住んでいたからかな。
「シア様。呪術師はどうしました?」「……みー様を操ったときの反動が残っていたようで、『風吹』の訓練が終わったあとで、倒れました。百竜様との約束を守る為に、ぎりぎりまで頑張ったのだと思います」「エルタスは竜信仰というわけでもないのに……はぁ」
「風吹」部隊の訓練中にエルタスから聞き出したことを、後でザーツネルさんから教えてもらっていた。予想はしていたが、得られたものは少ない。彼は利用されたが、利用した者、或いは利用した者たち、のことについては頓着していなかったらしく、資金と情報さえ貰えればどうでも良かったらしい。支援が始まったのは、人々が竜の国への移住を終えた頃。生まれてからずっと魔法のことばかりで、世間の事情には疎いんじゃないかな。というのがザーツネルさんの見立てである。
実力と才能はあるが、その迂闊さと世故の暗さは、王様以下か。と面倒を掛けてくれた呪術師に酷い評価を下す。……周囲が見えなくなるというのは、魔法使いの特性なのだろうか。それだけ魔法が魅力的、ということなのかもしれない。
「来ました……」
シアが、固い声で誰ともなく呟く。レイがあっさりと左翼に行ってしまったので、間近であるとは思っていたが、すでに至近に、いや、実際にはまだ距離があるのだ、咫尺千里で遠くに見える、くらいに思っておいたほうがいいか。
「サキナ。これをクーさんに、宰相に渡してください。急ぐ必要はありませんが、確実に渡してください」「あっ、はいっ! ぜったいにわたします!」
紙を二つ折りにしてサキナに渡すと、急がなくていいと言ったのに、全力疾走である。
「では、僕らも行きますか」「今、何を渡したの?」「えっと、見ての通り、紙だけど」「そうではありません。紙に書かれている内容、若しくは紙に何かを包んだのか、ということを聞いているのです」「えっと、何も書いていない紙を二つ折りにして、何も挟まずに渡したんだけど」「……ふざけているのですか」「……シア様、助けてください」
戦いの機運がカレンを昂らせて、過敏にさせているのだろうか。少し考えれば、わかることだろうに。そこで意外に落ち着いて見えるシアに振ってみたのだが、どうだろう。
「ーー僕たちは、中央に五人で向かいますが、サキナは右翼に一人で向かいます。その間、同盟国の兵の姿が見えます。……サキナの恐怖が緩和できればと、重要な役目を与えて、気を紛らわそうとしたのだと、思います」「えっ、あの、その……うぅ、シア様は冷静でいらっしゃるのですね。大変お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ございません」
焦慮を自覚したのか、至らない自分を恥じて罰するように、頭を下げる。ああ、気持ちはわかるが、まだ普段の冷静さは取り戻せていないらしい、頭を下げられる側からすれば堪ったものではない。シアにとって、先達、目標であり、知に優れ、武に優れる。コウさんの役に立ちたいと願っている少年には、クーさんと同様にカレンも眩しく映るのだろう。糅てて加えて、周期が上の異性、美人、出自などなど、感情面でも少年の心を掻き乱す要因には事欠かない。真面目である、という点では、良い師弟関係になりそうだが。
「や、あっ、冷静とかそういうことじゃなくて、外地に居たときは周りはぜんぶ敵だったし、生きる為に戦わないことが目的だったし、何も見えないから、それをするしかなくて、今はこうしてやることがわかってるし、それがフィア様の、う……」
「ーー生きる為に戦わない?」
カレンが問うが、ああ、これは駄目か。てんぱっているシアには無理そうだし、時間的な制約に鑑みて、僕が代わりに説明したほうが良さそうだ。
「城街地で、子供たちが大人たちに危害を加えていたら、大人たちは許さなかっただろうね。戦わず、相手を傷付けない。傷付けられても、反抗しない。そうすることで、見逃してもらっていたんだ。そうすることが、自分たちの身を守ることになる。生きていくのに必要な分だけで、多くは奪わない。情報を集め、同情でもなんでも利用して、環境に於ける居場所の確保を、生存の為の条件を模索し、そうなるように仕向けるーー」
ん、不味い。思考に深く嵌まって、言葉に配慮がなくなっていた。すると、人生に疲れた老人のような眼差しを僕に向けて、シアがこんなことを言った。
「侍従長を反面教師にすればいいと教わりました。大いに役立っているので、感謝です」
ちょ、ちょっと待って、待ってくださいなっ! そこのシアさん、それ、誰に教わりましたか⁉ って、いやいや、正しく人生を生きる為の最優先必須条項の一つ、みたいな言い方をしないでください。ぐぅ、うう~む、元々シアは、コウさんにとって僕が有害であると思い、嫌っていたのだと思うが、ここのところ王様とは無関係に僕のことを忌避しているような感がある。あ、あ~、あれかな、心理的な恐怖を緩和する為の処方として、竜の民を嗾けたとき、シアを傀儡に、と炎竜も氷竜もないことを言ったが、王弟は未だ根に持っているのだろうか。周期が上の同性には幾人か理解してくれる人がいるので、下にも一人くらい居てくれると嬉しいのだけど。とかそんなことを思うのは贅沢なのだろうか。
「フィア様と同等の忠誠を、シア様に捧げます」
自分とは違う境遇で生き抜いてきた少年に、真っ直ぐな少女は衒いのない言葉で誓う。
「カレン。三寒国側にダニステイルの方々が居るのが見えるかな?」
このままではシアがまた大変なことになるので、確認がてら気を逸らそうと試みる。
「……見えません」「むっ、見えない」「むむっ、中々やるのだ。とギッタが言ってます」
カレンだけでなくフラン姉妹をもまやかし晦ますとは、これが纏め役の力なのだろうか。
「『ダニステイル、あそこにいるのに、いないいない……』……とシーソが言ってました」
演技や真似をするときは、恥ずかしがってはいけない。と最初に教わった基本中の基本を、少年に伝えるかどうかで悩む。恥ずかしがるのは、恥ずかしがる振りをするときだけ。いないいないりゅう、と幼児向けのあやし言葉を最後まで言えなかったシアには、酷だろうか。まぁ、可哀想なのでそれ以上の追及は避けて、シーソの言葉を訳してみようか。
「あそこに移動するまでは感じ取れたけど、止まったら感知不能、ということかな」
二人は、もうダニステイルが待機する方角を見ていない。僕も自然とそうなる。
中央の部隊に到着して、正面に視線を向ける。
南の竜道からなだらかな坂道を下ってきて、「風吹」部隊が陣取っている辺りから、登るに一苦労、下るに注意を要する急峻な坂が続く。僕たちの居る中央の直線的な道と、左翼の蛇行した道は山腹の街道に繋がっている。山麓の街道の捷路として利用されてきたが、魔物の襲撃の懸念から使用頻度は低かった。ミースガルタンシェアリを頂く竜の狩場の正面口として扱われていたので、畑や家屋を建てるのは憚られたのだろう、実に見晴らしの良い景色となっている。正面、と呼べなくなる辺りから、針葉樹の林が広がっている。人が立ち入ることの少ない狩場近くの土地の利用方法は、周辺国の何処もが同じだった。
エルネアの剣の本拠地から竜の狩場の山脈が見えたように、南に集落や街が点在しているのが確認できる。あのときは、こちらから見下ろすことになるなんて、夢にも思っていなかった。山腹の街道に視線を戻すと、サーミスール、クラバリッタと続いて、針葉樹の林の陰から、最後にキトゥルナの軍勢が。ここが平野でなくて良かった。上から見下ろしている分、その全容が把握できる分、軍というものの恐怖を若干でも軽減できる。今のところ、「風吹」部隊に大きな動揺は見られない。
鞘に納まった三本の剣が交差している、サーミスールの国旗。鞘の赤色と青色、黄色にはそれぞれ意味があるらしいが、うろ覚えで、慥か武の誉れ高い彼の国らしく、質実剛健といった感じのものだったはず。次に、クラバリッタの国旗。こちらの意匠は珍しくない。羽ばたいた竜の姿である。ただ、その色は黒ーー竜の国で言うなら、暗黒竜。然あれど、歴史的な綾あって黒色になっているだけで、実際には水竜が描かれているらしい。
奇妙な静けさの中、まんじりと見遣っていると、最後にーー。
「青?」「青、のようね」「キトゥルナの国旗は、軍馬のはず……?」「寡聞にして知りませんが、若しや『厄介者』個人の旗なのかもしれません」「……私戦のつもりなのか、ただの目立ちたがりなのか」「周囲の悟ったような様子から、後者なのでしょうね」
何とも彼ともいえない気分にさせられるが、竜の角は大切なので、こちらも掲げなければならない。目配せをしてカレンに伝えると、フラン姉妹を従えて最前に立った彼女は威風堂々と右手を挙げる。呼応して、「風吹」三部隊で竜の国の、グリングロウ国の、正式ではないが、竜の民の誰もが認めるところの、旗がお目見えする。
竜の国側で歓声が沸く。そして、同盟国側ではーー。
一番多い反応は、戸惑い、だろうか。僕たちの目的は、相手を倒すことではなく、追い返すことにある。ならもう、クーさん発案の、いや、意匠自体はすでにあったものの流用だが、この旗ほど相応しいものはないのかもしれない。
雨の気配を孕まない、薄い雲が途切れて、竜の国の陣容を照らす。
ーー何という「みー様日和」なのか。旗が掲げられるや否や、空まで笑顔になってゆく。暖かな日差しと和毛を擽るような風に翻る、白地に赤で描かれた、満開笑顔のみー。
然う。竜の国の名物、竜饅に捺された焼き印。
「みー様印」として竜の民に親しまれて、愛されている、
どででんっ。
てな感じの、この異質なほどに天晴れな「炎竜旗」に、同盟国側の兵は声もないようだ。
「「「「「…………」」」」」「「「「「!」」」」」「「「「「?」」」」」「「「「「ーーーー」」」」」
さて、基本は六十人、七列である。部隊の中央に、交代や連絡用の間を取っているので、一列三十人が二組。前衛に三列、中衛に二列、後衛に二列。前衛の前二列が正面を、中衛と後衛が上空からの攻撃に対処。前衛後列が、主に上空からの攻撃に対する「風吹」行使の間隙を埋める。カレンが考案した、この支援列は大いに機能して、訓練の際の模擬戦闘でも効果を発揮したらしい。緻密で正答のある分野での彼女の手腕は見事である。補佐に前衛を任せて、指揮官は中衛後衛部隊と、必要があれば補佐に指示を出す。更に、カレンが指示する部隊は、一列が四分割されていて、細かな調整が可能とのこと。他の二部隊は、そんな面倒なこと出来るか、と当然の反応で、基本形のままである。いや、基本のままでも、指示にはかなり神経を磨り減らすことになるだろう。長引かせず、最良は勿論、衝突する前に交渉の席に着くことだが。
「こちらが攻撃してこないことを見越していますね。大岩を用意しておけばーー」「はいはい、物騒なことを言わない。同盟国の兵を油断させる為にも、その美貌で彼らを魅了しておいてくださっ⁉」「サン、ギッタ。遣るのなら、見えないようにね」
僕の不用意な発言に、抓ってきた双子。どこを抓られたかは秘密だが、カレンのお墨付きを得て、更なる手管で僕を苛む。遣るのなら、が双子には、殺るのなら、に聞こえていなかったことを祈ります。
こうして緩んだ場面を見せたので、戦いの予兆、雰囲気に硬くなっていた竜の民の表情が和らいでゆく。翻って、同盟国はというと。老師の魔力量では、竜の国を「結界」で囲うことは出来ない。会議での発言ははったりなので、竜の国の現状はある程度漏れていると考えていい。同盟国が有利、とでも伝わっているのだろう、彼らの表情に悲壮感はない。
あとは同盟国にとっての気懸かり、翠緑王とミースガルタンシェアリ。魔法使いは病で倒れたが、「始まりの炎竜」とも「要の真竜」とも呼ばれ、名を轟かす希代の竜が健在なのである。ミースガルタンシェアリが人の諍いに介入することはない。そう考えていたとしても、最後の最後、もっとも深いところの不安が消えることはない。それが、薄っすらと彼らを覆う沈鬱なものの正体なのだろう。だが、はたと風向きが変わる。同盟国の兵たちの重たい空気に、暗い風が紛れ込む。
正体を見極めようと目を凝らすと、奇妙なことに気付いた。
「ランル・リシェ。同盟国の兵があなたを見て、戦々恐々としています」
呆れるようにカレンが答えを教えてくれる。失念していた、というか、忘れていたわけではないが忘れていた、つまり、忘れたままでいたかった。僕の特性、魔力がないことに因る影響の一つ。初対面の相手に、奇異に映ったり、違和感や嫌悪などを抱かせたりする。竜の国の殆どの人は、「窓」ですでに僕の姿を見ていたので、ここしばらくこういった反応に触れることがなかったので、いや、僕自身に対するあからさまな悪感情と拒絶は受けていたので、良い意味でも悪い意味でも気にせずにいられた。彼らとはだいぶ距離があるので、影響は少ないのだろうが、別の要因が助長させる。
はぁ、そうだった。こちらも忘れたままでいられればなぁ。彼らが恐れるのは、翠緑王と炎竜だけではなく、侍従長である僕も含まれているのだった。
違和感の源泉は、同盟国の兵の視線。皆僕を見ているのだ。まぁ、その内の何割かは、そのまま隣に立つカレンに移って、薫風のように澱を吹き払って冴えさせてゆく。
「王様代理の役目の一つは、女性特有の和やかな雰囲気で相手の意気を挫くこと。だから、無遠慮に眺めてくる男たちが居たとしても、睨み返したら駄目だよ」「心配などいりません。里でも、私の作り笑いは評判が高かったでしょう」「…………」
ここで余計なことを言って、カレンを動揺させるのは本意ではないので、頷きがてら見澄まして、頭の中で両陣を俯瞰する。
「風吹」部隊の間には、個々の部隊が二部隊を同時に攻撃できないだけの(相手が部隊を分ければ別だが)、射程を考慮した距離を取ってある。これは、相手もこちらに合わせて、それぞれの「風吹」部隊の正面に布陣してくれることを前提にしていたが。事前の予測通り、同盟国側は協調する様子を見せず、部隊ごとに行動するようだ。
潮目が変わる。と思って、海を見たことがないのに、この言葉を使うのは適切でないような。などと考えている自分の胸に手を当てて、殊の外冷静であることを確認する。これまでなら危難に際して自身を偽る必要があったが、これは、成長した、と言っていいのだろうか。いや、違うか。今は、僕一人ではなく、皆がいるから。今は、そう思っておこう。
「風吹」三部隊に正対して、三国の陣が整う間際を狙って、予定通り指示を出す。
「カレン。交渉の申し入れをーー」「全軍っ! 突ぅ~げぇ~きぃぇっ、ごほっ、ぐほっ」
ーーっ、……あのっ、厄介者めがっっ‼ 大声を出し慣れていないのか咳き込む「厄介者」に向かって、危うく罵倒の言葉を投げ付けてしまうところだった。
この時点での交渉の望みは薄いとは思っていたが、まさか試みそれ自体を潰されるとは。予想の範疇ではあるものの、腹の底のもっと下の辺りから怒りが込み上げてくる。だが、こうなった以上、切り替えなくてはならない。「厄介者」は紛う方なく厄介者だったと、事実を確認できたということで満足しておくとしよう。
右翼のキトゥルナの部隊が、竜のお尻に潰されたギザマルの悲鳴のような「厄介者」の裏返った掛け声に、鬨で応じる。「厄介者」と違い、こちらは竜の咆哮の如き威勢である。
「さぁっ、栄光あるキトゥルナの英雄たちよ! あの可愛い旗を奪い取れぇ~!」
後方の馬上から「厄介者」が兵を鼓舞する。と言いたいところだが、ところどころで笑いを堪えている兵の姿があることから、効果は芳しくないようだ。
……これは何かの戦法なのだろうか。弓矢などの牽制もなく、「厄介者」を除いたキトゥルナのすべての兵が突撃してくる。常道を排したこの遣り口も、彼の仕業なのだろうか。
見ると、クラバリッタとサーミスールは静観の構え。「厄介者」がこちらの手の内を曝け出すように動いてくれるのだから、それまで両部隊が傍観するのは必定。
「クラバリッタとサーミスールは、性急に動くことはないだろうから、一旦左翼に行ってくる」「そうね。『智将』は弓兵でこちらを試すような……っ、ふふっ、うふふふふっ」
カレンが突如上品に笑い始めるが、戦いの空気に呑まれておかしくなったわけではない。
如何にも上級貴族といった風袋の初老の男性ーーダグバース卿。将としての精悍さと洗練された振る舞いを併せ持つ「智将」が、王様代理に向かってにこやかに手を振ってくる。 心を竜にして、カレンは極上の笑顔を「智将」とクラバリッタ兵に撒き散らす。
あ~、何も聞こえない何も聞こえない。カレンに魅了された兵の賞賛と、双子の反発は聞こえなかったことにして、居回りに焦燥が伝わらないくらいの駆け足で、後方に下がる。
「準備しておいたよ」「ありがとうございます、老師。あとはよろしくお願いします」「よろしくされても困るのだけどね」「里長からカレンを任されているんでしょう。ちゃんと働いてくださらないと、弟子だけでなく多方面からお叱りが来るかもしれませんよ」
老師が察して用意してくれていた汗馬に乗って、彼の反駁を振り切るように走り出す。
キトゥルナに対して、「風吹」の有効範囲ぎりぎりのところで、エンさんは「風吹」部隊に放出を命じる。先手で突撃してきた騎馬の足が鈍って、再度の放出で騎馬が引き返してゆく。相手に衝撃を与えるのが目的なら、まだ威力が割れていない「風吹」を、引き付けてから放つべきであるが、今回は両陣営に犠牲者を出さず、同盟国に退いてもらうことが本旨となる。クーさんやカレンと違い、ディスニアたちの捕縛に向かったエンさんは、戦術水準での打ち合わせや摺り合わせをしていないのだが、斯様に適切に対応してくれるので助かる。まぁ、逆にああしろこうしろとエンさんを縛り付けると暴走してしまう危険があるので、彼には自由に振る舞ってもらうのが最適だと学習している。
騎馬は無駄だと悟って、キトゥルナの全兵が徒歩である。ここからは、「風吹」部隊の前衛を任されているフィヨルさんの出番である。弓矢などの攻撃はないと判断して、僕は部隊の後方から中央の間を前衛まで走らせて、中衛に遊牧民が居たので馬を預ける。途中、レイの玩具になっていたシーソが両頬を抓られながら無表情で僕に手を振っていたので、もう少し手加減してあげてね、と愛娘に苦笑を向けておいたが、効果の程は期待できない。
「一列目、右。足を掬ってあげなさい。二列目、頭を抑えて、中央を這い蹲らせなさい」
躊躇逡巡とは無縁の、果断な指示。隙を見せて、兵を呼び込んでから吹き飛ばしたり、密集しようと試みる相手の邪魔をしたりするなど、いつもは冷静で物静かな印象があるフィヨルさんだが、あに図らんやその指示は過激で粘着質で、遠慮がない。中衛後衛を担当しているザーツネルさんが、手持ち無沙汰を紛らわせようと話し掛けてくる。
「昔、性格が悪かった頃は『からりとした陰湿者』とか呼ばれてたこともあったな。黄金の秤を率いてからは、何やら一念発起したみたいで影を潜めてたんだが、再発したかな」
フィヨルさんの活躍を二人で観戦していると、キトゥルナの用兵に疑義を抱いたのか、ザーツネルさんが尋ねてくる。
「あいつ等、何で馬鹿正直に正面から突っ込んでくるんだろうな」「たぶん、『厄介者』は正面から戦うことこそ王者の戦法、とか思っているんでしょうね。迂回とか挟撃とか要撃とか、あと奇策を用いるのは、卑怯者のやることだと勘違いしているんでしょう」
こちらとしては有り難いのだが、左右からの分散攻撃などの対抗策を練っていた僕たちとしては、歯噛み、とまではいかないまでも、何というか、もやもやする。そんな僕の不満そうな顔を見て、エンさんがかんらかんらと笑う。
「はっはっはっ、こぞー、辛辣だなぁ。何だ、羨ましーんか?」「……どこをどう聞いたら、そう思えるんですか」「はっはっはー、俺ぁ羨ましーぞ。あんな後ろん踏ん反り返ってーんに、他ん奴らぁ全員突撃突撃突撃ぃー(どっかんなとっかん)だぞ。俺なんか、さぼったら誰ん付いてきやしねぇってんに」「『厄介者』の場合は、父王である『堅硬』の威光が大きいですね。兵としては、キトゥルナ王が溺愛している、出来れば自分たちも期待したい、いずれ現キトゥルナ王のようになってくれるーーそんな複雑な心情から従っているんじゃないかと」
見ると、中央のクラバリッタ、左翼のサーミスール、共に「風吹」部隊の把握が済んだようで、攻撃を開始していた。
「こちらはエンさんに任せます。あと一つ、お願いがあります。僕が中央に戻る際、竜の国の侍従長であることがわかるよう名前を呼ぶなりして同盟国に認識させてください」「ん? ようわからんが、ようわかった」「あとは、エンさんの好きに、遣りたいように遣ってください」「おうっ、んじゃあ、さっさく遣っとすっかねぇ」
あとはザーツネルさんが、エンさんとフィヨルさんの手綱を上手く握ってくれるだろう。馬に跨がると同時に、部隊の最前でエンさんが張りのある馬鹿でかい声で呼び掛ける。
「くぉ~らぁ~、そこん後ろん、う~ら~な~り~‼」「むむっ、うらなりとは、若しや余のことか⁉ 貴殿は『火焔』などと称せられているようだが、別に羨ましくなどないのだからなっ!」「んなこたぁ知らん! だいてぇおめぇーずりぃーぞ。何もしてねぇんに周りから助けてもらいやがって! 俺なんてなぁ、さぼってたら誰んついてきやしねぇぞ! だいたいなぁ、なぁーんで俺ん一番働かなきゃなんねぇーんだー‼」「むゅむっ⁉」
エンさんの魂の叫びが木霊して、奇妙な声を上げた「厄介者」と、キトゥルナの兵だけでなく、同盟国すべての兵の動きを一時停止させた。
これは慮外、時間短縮の為に前衛部隊の前を駆け抜けてしまおう。
「だいてぇあれだ、あのこぞー‼」「侍従長~、侍従長が戻られるぞ~!」
びしっと僕に指を突き付けたらしいエンさんと、彼の手落ちを補完して、僕の役職を連呼してくれるザーツネルさんの声が後ろから聞こえてくる。
「こぞーんひでぇぞ! こぞー休んだくせん、こん国造ってんときから俺にゃ休みなんて一日もねぇ。それんだ、『お前が担当してんとこが一番忙しいんだ、馬車馬みたいに働きやがれ』なんて血ん涙んねぇ、全竜が泣いた! ってくれぇだ、俺んさぼらせろーー‼」
エンさんの特大爆発。……そういえば、エンさんには休みを上げていなかったかもしれない。王様と宰相には、適度に休日を用意しておいたのだが、両団長のことは失念していた。まぁ、老師のほうは適当にさぼって、もとい休んでたんだろうけど。意外に、やるべきことは熱心にやる好漢は、妹たちと竜の民の為に身を粉にしてくれていたらしい。
エンさんの大音声は、対角線上のサーミスールまで届いたらしく、両陣地の一万二千個くらいの目ん玉が、冷血どころか無血涙侍従長に突き刺さってくる。だが、突き刺さるべく迫ってきたものはそれだけではなかった。
「放てっ!」
中央、クラバリッタからの一斉射撃。
手を振り下ろした格好の「智将」と。僕に向かって放物線を描いてくる数百の矢を追って、空に視線を遣れば、実際の脅威よりも空々しく感じる、それでいて、まるで悪意ある空間そのものが迫ってくるような、光を反射しながら、線を引いてーー、初めて見る、感じる光景が、視界を埋める。矢は、矢である。本来の意味など、それ以外にはない。ただ、それが人を殺めることを目的として射られたのだということが、命じられたということが、与えられた役割通りに機能しているということが、一瞬、僕の魂を凍えさせようとするが。脳裏を過ぎった、スナとの、温かかった情景が僕を緩めて。
矢が、見上げそうになった中空より遥かに下の、最高点に達したところで。
僕は、ばっと勢いよく左の掌を突き出す。
きぃぃん。
束の間、戦場に氷の華が咲く。純粋過ぎる巨大な氷柱が割れるような音がして、すべての矢が破砕される。矢の残骸がきらきらと、氷の粒子に紛れて舞い散ってゆく。
「あれはっ、竜人掌! いや、違うぞ、あれこそはっ、氷華竜人波‼ ひぃっ……っ⁉」
邪竜侍従長の眼差しで睨んであげたら、中央後方待機の妄言竜撃隊長は、頭隠して角隠さず。微妙に隠れ切れていないギルースさんのことは、あとで筆頭竜官に告げ口である。
然ても、驚いた。この馬は誰が用意したのだろう。遊牧民の長老か、老師の見立てなのか。ここまで乗ってきたが、竜馬と呼ぶべき優れた速さに乗り心地。先程のエンさんの大声にも泰然とし、矢に怯えることもなかった。何より、僕を怖がっていない。基本、動物に怯えられるか嫌われかするので、僕からすると天佑と言うべき贈り物だ。
この竜馬なら大丈夫だろう。というか、僕のほうが我慢できなくなってきたので、
「よしよし」
首筋を撫でる。この程度のこと、造作もない(訳、ランル・リシェ)。と応じると、素早く実行してくれる。軽速歩で手綱を放して、「智将」にシーソを参考にした無表情を向ける。周囲の騎士たちがダグバース卿を護ろうと、彼の前に立ちはだかろうとして、腕の一振りで部下の掣肘を払う。
大した人だ。僕(が頼んでおいたスナ)が矢を滅した様は見ていただろうに、静かな、見定めるような眼差しを返してくる。彼は「智将」と呼ばれているが胆力も相当なものだ。
「シア様。この竜馬をしばしお願いします」「……はい」
もう一度撫でてから、「氷華竜人波」をーーではなく、「氷絶」を目撃して若干引き気味のシアに預ける。戦況は見えていたので、大凡は把握している。短く尋ねる。
「カレン。どう?」「一度、防ぎ損ねたわ。矢が三本、軽傷一と、肩を射抜かれた方が治癒魔法を施されています」「……大丈夫?」「竜の民の命が私の双肩に掛かっているのです。この程度のことで冷静さを失っ、四、五列、三、四! 六、七列、二、三! ギッタ!」
話の途中で、カレンの指示が飛ぶ。クラバリッタから飛来する矢を細分された「風吹」部隊が吹き飛ばして、ギッタの合図で追撃の矢を三列目が吹き払う。そして、間を置くことなく、数本の矢が飛んでくる。そう、たった数本の矢が飛んでくるだけなのだ。だが、たとえ数本であろうと、見過ごすことなど出来ない中央「風吹」部隊は、律儀に対応しているのだった。その都度、本数や軌道、方向を変えてくるので、カレンは手を焼く、というより、神経のほうが先に焼き切れてしまいそうで心配になる。涼しい容貌とは裏腹に、好戦的な面があるので、何か手を打っておく必要があるかもしれない。
ダグバース卿がにこにこふりふり、カレンがにこにこにこふりふりふり、クラバリッタの半分、六百程の兵がにこふり。こちらとしては都合が良いが、何だかなぁ。
「くぉ~、カレン様の笑顔はお前たちには遣らんわ~!」「くぃ~、貴様ら~、地面に顔を擦り付けて歓喜の涙を流せ~! とギッタが言ってます」
三百人くらいが、スーラカイアの双子に手を振り返す。ちょっと多くないか? 幼い女の子に罵倒されて喜……げふんっげふんっ、いや、娘や孫を可愛がるとかそんな感じの人たちなのだろう。すると、残りの四百はーー、と考えて、妙な恐怖を覚えたので速攻で世界の果てまで投げ捨てた。それと、サンがカレンの名を思いっ切り叫んでいたが、クラバリッタの兵たちは、彼女が翠緑王かどうかには余り興味はないようだ。どちらかと言うと、名を知られてしまった王様代理の、少女の心持ちのほうが心配だ。
見ると、左翼でエンさんが単独で特攻を仕掛けていた。魔法剣ではなく、強烈な「風吹」の風で吹き飛ばしている。「風吹」の使い過ぎだろうか、或いは「風吹」の制御が出来ていないのか、逆流した風は軋んで牙を剥き、体を傷だらけにしながらも、尚前進を止めない。風は豪放な男の血を孕んで、血風となってキトゥルナの兵を襲う。
「その意気や見事なり! 余の剣で倒される栄誉を噛み締めながら逝くがよい‼」
「厄介者」が怪気炎を上げるが、周囲の騎士たちがこぞって止めに入ってくる。エンさんは構わず進撃を続けて、両者の距離が縮まってゆく。成り行きを見守るだけの時間は僕にはない。エンさんなら何とかしてくれると信じて、クラバリッタに視線を転じる。
「勝たなくとも良い。でも、僕たちが失態を犯せば、その限りではない。というところかな。『奴らと戦うなんて、考えただけでぶるっちまう』と会議で言っていたけど、精兵があのまま最後まで動かないでいてくれると助かるんだけどね」
カレンは、指示の合間に僕を一瞥する。他にも、もっと何かを言って欲しそうな顔だ。
「もし、駄目そうになったら、一旦下がって。相手が向かってきたら、戻って吹き飛ばす。クラバリッタは中央に陣取っているからね、前後の駆け引きくらいならしてもいいよ」
言葉の選択を間違えたのだろうか、ご機嫌斜めの王様代理。
「えっと、はい、これ。何でも、は無理だけど、大抵のことなら、ね」
故郷を離れるときに三つ持ってきた内の二つ目を渡す。反射的に受け取ったカレンは、小さな木片ーー誓いの木を見て。僕を凝視して、こくこく頷いた。って、爛々と輝く黒曜の瞳が、何だか凄く怖いんですけど。僕を苛める為の許可証を得たのが、そんなに嬉しかったのだろうか。うぐっ、胃の中に釘が迷い込んだような痛みを発するが、きっと気の所為に違いない。理由は不明だが、気力を回復させたらしいカレンからそそくさと離れる。
「右翼へ行ったら、サキナに連絡させるので、老師の許で待機をお願いします」
シアに告げてから竜馬に跨がる。老師の姿がない、が言い直す時間も惜しい。
少年が真剣な顔で頷くのを見てから。一番の激戦区に、サーミスールに対する右翼の「風吹」部隊に向かって走らせる。雨霰と飛び来る矢を避ける為、部隊の後方、交代要員の待機する場所まで大回りする。彼らに竜馬を預けて、居回りを気遣っている余裕などない、全力に近い速度で駆けてゆく。
「三列以外、放射! 前列、連続放射、三列放て!」
矢継ぎ早に指示が飛ぶ。凛としたクーさんの声と、それに応える「風吹」の悲鳴のような風鳴りが、部隊の士気が落ちていないことを教えてくれる。
「事情がわかる方、報告を」
部隊の後方に辿り着いて、焦らせないようゆっくりと、だが強い調子で命令する。
「へ、へい! 娘っ子は、重傷者を治癒してるとこで、待ってるのが五人……、あ~、治癒済みが十人くらい、だったっけか?」「ああ、確かそんなところだ。あと、魔力が尽きて、今のところ交代したのが三十人くらいだが、これからまだ増える」「たくっ、いってぇどんだけ矢がありやがんだ! この数は異常だぞぉっうっ⁉」「「「「っ⁉」」」」
彼らの報告を聞きながら、僕は折れない剣を抜いて、振る、というよりは、払うという感じで、樋の付近で流れ矢を弾き飛ばす。
ーーっ、……はぁ、上手くいって良かった。もし失敗していたら、シャレンの首か後頭部辺りに突き刺さっていただろう。静かに息を吐いて、剣を鞘に収めると、うわ、今頃心臓が鳴り始めて、全身が嫌な感じにぞわぞわして掻き毟りたくなってくる。だが、我慢我慢。僕がそのつもりになれば同盟国に勝つのは簡単、と高言した手前、居回りで吃驚する負傷者と同様の反応をするわけにはいかない。
「シャレンさん、あと何人治せるか、希望的な人数ではなく、現実的な人数でお願いします」「……残りの魔力量から、二十…人、くらいだと思います」
周囲の状況が気になるだろうに、集中力を途切らせることなく、シャレンが気丈に答える。治癒待ちは五人、治癒済みが十人。それと交代が三十人。これから魔力を切らす者は増えてゆく。交代要員を使い切るのと、シャレンの限界とどちらが早いだろうか。
「サキナ。シア様に連絡を。十五、と伝えれば相手は了解してくれます」「は、はいっ!」
心配そうに見ていたサキナだが、自分の役割を思い出したのか、旗を持って駆け出す。
老師なら、すぐにファタを、いや、すでに手配しているかもしれない。或いは、ファタに中央を任せて、自身が右翼に遣って来るかも。ーーこの先を見据えて、老師に委ねてしまうことに決める。僕が余計なことを考えずとも、弟子たちの為に動いてくれるだろう。
「皆さん、傷を負っているところーー」「皆まで言わなくてもわかってるって。譲ちゃんは俺たちが護ってやるよ」「ま、そういうこった、娘っ子がやられちまっちゃ、俺たちゃ治してもらえなくなっちまう」「ほら、侍従長、ゆっくりしてる暇なんてないぞ、さっさと行った行った!」「序でにちゃっちゃと終わらしてくんな!」
危機的な状況で精神が高揚しているからなのだろうが、皆の温かい言葉や誰もが役割を果たそうとしている姿に胸が熱くなってくる。この戦いは、王様を護る為の、竜の民を護る為の、そして炎竜を護る為のものでもあるのだ。胸に滾った炎の余波で焦がれたとしても、炎竜の加護なら、何もおかしなことはない。
全力で駆けて、クーさんの横までーーそしてそのまま前に歩き出す。
「クーさん、指示を出して、付いてきてください」
矢の豪雨が止んだ。彼らの矢が尽きたわけではないし、僕が姿を現したからでもない。
サーミスールの指揮官、ドゥールナル卿が手を振り上げていたからだ。
僕が一人で、いやさ、クーさんが追い付いたので、二人で坂を下っていくのを見咎めて、彼は攻撃命令を下さず、腕を横に、待機を命じると、一人で、いや、もう一人いる、あちらも二人で坂を上ってくる。
「あたしたちに何があっても動くな。厳命はしたが、ずっと攻められ、責められっ放しで鬱憤が溜まっている。効果は不十分……ふぅ」
神経を磨り減らす様な指示を繰り返して、精神的な疲労はかなりのようだが、もう一踏ん張りしてもらわなくてはならない。とはいえ、この先は肉体言語的なものなので、鬱憤を晴らすには丁度良いかもしれない。溜まり溜まったものを吐き出してもらおう。
「これまで対人の鍛錬をしてきて、エンさんは力試しの機会がありましたが、クーさんにはありませんでした。ドゥールナル卿が突撃させようとしていた精兵百五十程。全員、倒してもらえますか? ああ、勿論、一人も殺してはいけませんよ」「交渉の為の時間稼ぎ、か。あたしが倒し切る前に交渉を終わらせたら折檻」「えっと、善処します」
交渉が纏まるなら、折檻くらい……、うん、頭の端っこ辺りで覚えておくとしよう。
「左翼、キトゥルナは沈静」「中衛後衛や交代と予備は、魔力を消費していませんが、右翼への救援は差し向けなかったようですね。エンさん、良い判断です」
援軍を送れば、戦闘が続く、という心象を与えてしまう。右翼が瓦解したら撤退しなくてはならないが、援軍によってそれを回避するのは、僕たちの目的に合致しない。
「それもリシェが交渉を纏めれば、の話。……にしても、あれは、不味い」
クーさんの声が、本当に不味いものを食べたようなものになる。振り返って確認してみたら、老師に叱られたときのような表情をしているのかもしれない。僕に当て嵌めてみれば、宛ら里長や兄さんに叱られたときか。まだ距離があるというのに、彼の姿がくっきりと浮かび上がる。これ以上先に行くなと、乾いた風が邪魔をして、二の腕から首、背中辺りまで、雷竜にくっ付かれたかのようにぴりぴりして、不快な汗が滲む。
「師匠、というより、以前会った〝サイカ〟の里長に近い。あんな傑物と遣り合うなんて大変だなリシェ。ーーがんばりゅう~、がんばりゅう~」「……ありがとうございます」
クーさんなりの精一杯の応援なのか、みーの真似をして発破を掛けてくれる。
会議でドゥールナル卿のことを「怖い人」などと評していたが、そんな優しい、生易しいものではない。
初めて里長の前に立ったとき、すべてを見透かされているような怖気を覚えた。里長は敵ではないとわかっていたから、その程度で済んだ。だが、甘さなど微塵もない、厳しい、などという言葉では足りない、果ての大地の、人を拒絶する荒々しさのような、踏み入れてはならない禁忌と、畏敬が混在する衝動が頭を鈍らせようとする。「怖い人」と断じたのは、この老境の将と実際に見えたことのない者だろう。その威圧に、竜を幻視したが、痛みを訴える肺腑に空気を詰め込んで実像を捉える。エンさんと同じくらいの体躯に、戦士として鍛えられた鋼の肉体の存在が、鎧の外からでもわかる。
声を出そうとして、声が出せないことに気付く。真っ白になった、いや、待て、思い出せるはずだ、そうじゃない、何で忘れているわけでもないのに、思い出さないとーー。
歩いて五歩の距離で、ドゥールナル卿が僕を見据えていた。そして、緊張とざわめきが。
「ーーーー」
僕が左腕を横に、「風吹」部隊を制すると、併せてドゥールナル卿も左腕の一振りで、サーミスール兵を鎮める。状況を理解した瞬間、炎竜の炎よりも激しい怒りが滾る。
「馬鹿な⁉ 僕が行使できる最強の魔法だぞ! なぜ無傷ぐぉっ、おぐぅああぁあぁぁ」
ごっ。とドゥールナル卿の左拳が、鉄拳と冠するしかない壮絶な一撃が、彼の隣にいた少年の頭に落ちる。
この痴れ者が‼ と面罵し掛けた言葉が、儚く僕の中で崩れ去る。と、そこで気付く。ドゥールナル卿の横に侍る少年に、見覚えのあることに。はぁ、どれだけ余裕がなかったのか、ドゥールナル卿の威容に囚われて、周囲が見えなくなっていた。
周辺国への挨拶回りのとき、サーミスールの城壁に現れた従者らしき少年は、僕の見立て通り、過たずドゥールナル卿の従者だったようだ。呑まれ掛けて、いや、呑まれてしまっていた意識が平常を取り戻す。どうやら少年に感謝しなければならない、……いや、感謝したくないが感謝を、いやいや、やっぱり駄目だ、なんだろう、この従者の少年に感謝したら負けのような気がする。
やけに静かだと思って、確認すると、中央の攻撃が止んでいた。少年の一連の愚行がそうさせたのかもしれない。理由は何でもいい、利用できるものなら、すべてを利用する。この相手には、それでも足りないのだ。
「サーミスールの騎馬、百五十の精鋭に告ぐ! 我が竜の国の宰相、『薄氷』のクグルユルセニフが尋常の勝負を申し入れる! 名誉と誇りを以て、これを受けられたし!」
真に無礼の極みであるが、一方的に開始を宣言させてもらう。応じて、双剣を掲げたクーさんが、僕とドゥールナル卿の横を駆けていくが、彼は一顧だにしない。その様は、僕らの小狡い企みを、歯牙にも掛けていないように見えるのだが。
これを受けねば恥となる。ドゥールナル卿の薫陶を受けていれば、斯様な思考に至るかと思ったが、的中する。経緯はどうあれ、正面から挑まれたのであれば、これを叩き潰さなくてはならない。武の誉れ高きサーミスールであれば、むべなるかな。
「馬上では不利だ! 相手はあの『薄氷』、全力で迎え撃つぞ!」
隊長らしき偉丈夫が即断すると、気勢を上げて、全員が迅速に行動する。
「時間稼ぎ、だけではないようだ。『薄氷』とやらは、勝つ気でいるか」
一人目と斬り結んだクーさんを眺め遣って、相好を崩す。戦士が戦士を認める、そんな好意的なものが表情に浮かんだが、それも一拍。向き直ったときには、再び裂帛の気配に打たれる。……のだが、少年が未だに喚いているので、気配が緩んでしまう。
「いじゃぁいぃ、……うぅ、師匠の愛が痛い……。あ? あ~、ーーああ、あれは無理だ。良くて百二十、サーミスールの、我らの勝ちです」
壮絶な割れるような痛みから、慣れているのだろうか、割りかし短時間で立ち直った従者が断言する。不愉快なことに、クーさんは勝てないだろう、という僕の見立てに近い。
「見所はあるし、才もある。まさか常識を刷り込むのがこれほど難しいとは、この周期でも学ぶべきことはあるものだ」
……ドゥールナル卿の苦労が偲ばれる。都合の悪い部分だけは聞こえていないらしい。ドゥールナル卿に褒められて、素直に喜ぶ少年。
目論見通り、と言っていいものか、竜にも角にも、キトゥルナとクラバリッタの部隊は様子見からか停止して、交渉に持ち込むことは出来た。交渉相手は当初想定していたダグバース卿ではなく、ドゥールナル卿になったが、竜と出るか魔獣と出るか。
心を落ち着けようと、幾つかの方法を試したが、上手くいったとは言えない。この交渉で纏められなければ、撤退を選択しなくてはならない。いや、完全にそうと決まったわけではないが、再交渉の目はなくなるだろうし、ここが背後の竜であることは変わらない。
改めて、ドゥールナル卿を見定めようとする。
老境にあるが、矍鑠という言葉が霞んでしまうほど、英気と気概に満ちている。揺るぎない周期がそのまま皺になっているかのよう。ふと、こんな風に周期を取れたら、と引き込まれそうになる。僕のような、揺れ捲りぶれ捲りの、蹉跌が形になったような人間でも、彼のように至る道が残されているのだろうか。
だが、不思議だった。この弛まぬ巌のような御仁に、慣れ親しんだものを感じるのだ。同じ匂い、というのだろうか、この実直さはーーうん、嫌いではない。
「何故、あの時機で下ってきた」
造次顛沛、実際に意識が躓きかけたが、あらゆる意思を総動員して、焦燥を心の内に隠したまま、ドゥールナル卿の問いに答える。だが、それだけでは彼に対抗できそうにないので、いきなりだが核心を突いて、少しでも有利な状況になるよう試みる。
「麾下の精鋭部隊を突撃させようとしていたからです。あのーー魔法部隊を」
「っ⁉ なぜ貴様がサーミスールの国家機密ぐぉっつぁぎゃあぁああああおぅっ」
鉄拳。先程より手加減が少ない。見ているこちらまで痛くなってきそうなので、直視は避ける。ドゥールナル卿が目線で促してくるので、答え合わせをする。
「各国への表敬、というには荒っぽかったですが、サーミスールを訪れたときのことです。そちらの従者と、警備隊長が、ああ、今はあの魔法部隊に所属しているようですが、二人は『結界』を用いました。攻撃系の単調な魔法と異なり、『治癒』や『結界』には、半周期以上の修練が必要だと聞いています。特に親しいとは思えない二人が『結界』を使っていたとなれば、魔法部隊の存在に思い至ったとしても不思議なことではないでしょう」
見ると、警備隊長と思しき顔傷の男が、丁度クーさんに倒されたところだった。
僕に炎の息吹を浴びせてくれたみーには感謝である……のか? あ~、いや、感謝はしておこう。あそこで息吹がなければ、彼らは「結界」を使わず、サーミスールの魔法部隊の存在を気取ることは出来なかったのだから。
「他にも感付いた者がいたようだ。貴卿の指示ではなかろう。大した戦術眼だ。部隊を突撃させたとして、成算はあったかどうか」
ドゥールナル卿が感心して、視線を坂の上に向ける。釣られて振り返ると、右翼の「風吹」部隊の横に竜撃隊が突撃できる態勢を整えていた。エンさん? いや、これは……。
ドゥールナル卿の称えに陰は感じられない。これから友好を築こうとしている相手である、出来る範囲で手の内や内情を明かしておこう。
「あれは老師の仕業ですね。竜の国の魔法団団長。魔法団と言っても、部下は魔工技術長官である、あのスーラカイアの双子の姉妹。他に、治癒術士と呪術師が加わる可能性があります。現在の我が国の魔法の要は、翠緑王であり、そして、翠緑王のみで事足ります」
過渡期、と言っていいのだろうか。まだ三国だが、国家に深く魔法が入り込んでいる。魔法使いは、その閉鎖性や秘匿性から魔法を発展させることが叶わなかった。組合を立ち上げていれば状況は変わっていたかもしれないが、そのような奇特な人々は現れなかった。
だが、そこに国家が係われば事情は変わる。武器の優位性を確保する為に職人を囲うように、魔法使いを支援、或いは使役することになるだろう。恐らく、国家の許で魔法は技術や技能を獲得していくことになる。大陸の魔法使いの、個々の生活は一変するだろう。
「彼の国に加え、魔法使いの王さえ現れる。やはり、時流というべきか」「……ストーフグレフ国のそれに、心付いていたのですか?」「あれ程の異質な勝利だ、当然調べさせた。拾い上げた断片から確信し、対抗策を講じはしたがーー、あの王はわからぬ」
アラン・クール・ストーフグレフ王。やはり彼の王の心胆は、ドゥールナル卿をしても量れぬものらしい。そんな相手に遣らかしてしまったことが脳裏を掠めるが、スナにお願いして氷漬けになっていてもらう。今は、百竜の炎が、瞋恚の静かな火が必要である。
「ストーフグレフ王は、魔法を、魔法部隊を気取られぬよう用いました。ですが、あなたは、ーー衆目に晒されても構わないとお考えか。その結果齎される災禍に思いが至らぬわけではないでしょう」
単純な攻撃魔法とて、数が揃えば恐ろしい火力となる。魔法部隊の存在が公になれば、その有用性と優位性に気付いた国から急き込むように取り込んでいくだろう。そうなれば、戦争の形態も意義も変えてしまうかもしれない。この大陸が魔法で満たされるのに、どれくらい掛かるだろう。魔法という力として、新たな方向性を見出した炎は、大陸を焼くだろう。下手をすれば、四度目の大乱の引き金になるかもしれない。
そんなこと、許されるはずがない。コウさんの魔法に頼っておきながら、魔法の都合の悪い面だけ否定するような考えだが、現況に鑑みてこれしか方法がないーー。
「わしが手を振り下ろしていたら、どのような帰結になるか」
質すドゥールナル卿に、僕は何も言えなくなってしまった。彼の目には、悪意の欠片もなく、真摯に憂えている姿に、僕の内に熾った炎が霧散してゆく。答えられず、無様に立っているだけの僕を嗤うでもなく、ドゥールナル卿は淡々と述べてゆく。
「魔法部隊の存在が知れ渡ることになろう。各国こぞって新設することになる。つまり、皆同等の力を得るということだ。然る後、キトゥルナ、クラバリッタと共に、ストーフグレフに協定乃至条約の策定を申し入れることになる。同盟国とストーフグレフ国を中心に規程を定めてしまうのだ。魔法部隊を持つのは構わない、だが、使用した際には罰則を科す。或いは、もう少し緩くても構わない。自国内の使用は許可、六名以下の人員であれば可。厳しくするのなら、国家が魔法使いとして雇えるのは二十人までとし、戦争への投入を禁じる。ここらは各国の駆け引き次第だろうが、すでに草案は用意してある。各国から選出した魔法使いで、大陸の条約違反を取り締まる組織を創設することも案の一つだ」
諄々(じゅんじゅん)と諭すドゥールナル卿。僕の理解が追い付くまで時間を空けてくれるが、そうと見て取るや、容赦なく先に進んでゆく。
「ストーフグレフ国、サーミスール国、そして竜の国。情報というものは、必ず漏れる。隠して、隠して、隠し続けて、隠し切れなくなったとき、魔法を求める者たちを抑えることが能うか? 力に気付いた者から、手にした者から使ってゆけば、取り返しのつかぬ連鎖に陥ることもあろう。それから条約を締結しようとしたところで、手遅れになるやもしれん。火を撒くことと、火が撒かれることは異なる。力と意思在る国が火を撒くは、その責務を果たす為であると考えはしないか?」「…………」
何という浅慮か。何一つ、一片の言葉さえも、返すものはない。対策も考えず、ただ災禍を先延ばしにするだけの愚策を、その結末まで見通して練っていた相手に、得意げになって語っていたのだ。どれほどの未熟を曝け出せば気が済むのか。これほど恥ずかしく居た堪れない、今すぐ居室に帰って毛布を被って世界から隔離されることを大歓迎してしまう、そんな消え入りたい、逃げ出したい誘惑に駆られるが、彼の目が、ドゥールナル卿の眼差しがそれを許してくれない。上に立つ者の怠惰を見逃してなどくれない。
このまま膝を突いて、頭を垂れたら、どんなに楽なことだろう。
「まだ時はある。話しておこうか」
クーさんとクラバリッタの精鋭の戦い、いや、決闘と言うべきか。三十人程倒したーー彼らからすれば倒された光景に目を向けて、切り出してくる。
「エクリナス様のことは、聞き及んでおろう。幼少の砌、わしは教育係に任ぜられた。優秀過ぎる部下は使い辛かったのだろうな、わしとしても、人を育てることに興味がなかったわけではない故、引き受けることにした。あの御方は、不器用だが努力を怠らぬ、誠実な、聞き訳が良過ぎて子供らしくない子供であった。父王の為に、兄に裨益せんと、どうすれば良いか考え、わしに一切の優しさを排除した厳しさを求めた。わしは求められるままに、エクリナス様にわしの持つすべてを注ぎ込んだ。
『ドゥールナルは、教育係に任ぜられた恨みから、エクリナス様をいびり殺すつもりだ』などと、噂が立つ程に教化と鍛錬を課したが、あの御方は泣き言一つ零さず、終には、わしのほうから限界を超えても求め続けるエクリナス様を止めねばならなかった。
『止める代わりに昔語りをしろ』とあの御方の我が侭ともいえぬ、唯一の我が侭だった。眠りに就かれるまでの短い間、わしの詰まらぬ過去を楽しげに聞いておられた。恐れ多いことだが、わしはエクリナス様を孫のように思うておる。若き頃には得られなかった、忠誠を尽くそうと思える主君を、この周期になって得られるとは。この老い耄れの残りの命は、あの御方の為に使おうと、エクリナス様が王になられたとき、隊長の任を受託した。
わしは見てきた。王となられた兄の為に、懸命に尽くすエクリナス様の姿を。王になられてからは、私心など、欲さえ捨て去り、民に寄り添わんとする姿を。その御姿に、生来の気質に、噂に惑わされていた者たちは蒙を啓かれ、心が晴れてゆく。
今や兆しておる。やがて、王都に、サーミスールに響き渡り、自らが如何に恵まれているか気付くであろう。これほどに善き王を頂いていることを誇りに思うであろう」
熱を帯びてきていたドゥールナル卿の昔語りが中断して、彼の視線が僕を捉える。それは非難なのか諦観なのか、混じって濁って凝ったものが目に宿っているようだった。
「竜の国の侍従長ランル・リシェーー貴卿のことだ。エクリナス様にとって、貴卿は紛う方なき英雄であった。竜の狩場に国を造るという偉業を成し遂げ、不可避と思えた城街地との衝突を回避。然も、それを成したは、まだ周期浅き少年であるという。
『名もなき、ただの少年でさえこれだけのことが能うのだ、王である私が諦めるわけにはゆかぬ』ーーそう仰い、あの御方は顔を綻ばせた。あの御方の、あのような自然な笑顔をわしは初めて見た。恥ずかしきことだが、その笑顔を引き出すことの出来なかった自らを省み、貴卿に妬心さえ抱いたものだ。『悪質』やら『悪逆の繰り手』やらの二つ名も、彼の名声を妬んだ者の流言に過ぎぬと、傾倒振りを諌めるか悩んだものだ」
あ、いや、ちょっと待ってください、二つ名が悪い方向(?)に変化しているんですけど。いや、同盟国からの嫌われっぷりからすると、これでも増しなほうなのかな。
そしてドゥールナル卿は、世界の真理を解明した、といった風情で断言した。
「だが、その二つ名は相違なきものであった」「…………」「あの御方は、待っておられた。焦がれていた、と言い換えても良い。英雄の来訪をーー」
法外な事実に虚を衝かれるが、ドゥールナル卿の話は終わりではなかった。
「〝サイカ〟、ボルン・カイナスとの会合後、何故三国の王に謁見を求めず、竜の国に帰還したのだ。知っておるか? カイナス三兄弟は、城街地との衝突が避けられたことを王に告げた。それは、結果的に事後報告となった。事前の報告であっても、結果は変わらなかったろう。だが、王の頭を越えて行われたそれは、どれだけの軽視を、無礼を、侮蔑を抱えれば行えるのか。同盟国にとっての最重要課題を、取るに足らぬものと蹴飛ばす。
〝サイカ〟は争わず、とあるように、実情〝サイカ〟は国の内にあって、外にあるようなものだ。国の問題を、外で決められ、一方的に終結を告げられる。これに気を良くする王などおるまい。糅てて加えて、エクリナス様には、貴卿への憧憬があった。事が終わったあと、その報を耳にしたあの御方は、どれほどの苦渋を籠めて、この言葉を発したか」
ドゥールナル卿と、まだ見ぬサーミスール王の姿が重なる。
「『王とは、これほど軽んじられなければならないものなのか』」
静かな口調で吐露する言葉が、じわりじわりと僕の心を抉ってゆく。
「ーーあのような御姿も初めてだった。憎しみと怒りに顔を歪められ、物に当たるなど。王たる振る舞いではない。だが、それをお止めすることなど、どうして出来ようか」「…………」「貴卿の咎はそれだけではない。ボルン・カイナスとの会合から城街地の民の移住までを、竜の国の都合のみで行ったことだ。貴卿は考えたことがなかったか?」
問われるが、頭は麻痺しているのか、上手く機能しない。もとから僕の答えなど期待していないのか、ドゥールナル卿は僕の瑕疵を更に述べ立てる。
「ストリチナ同盟国とは、元は十二国であったものを三国に併合することで成された。それは、三国が九国を抱えるということだ。嫌な言い方をするなら、三倍の敵を自国に引き入れたようなものだ。外から見れば、戦果ばかりが目に付こう。火種を燻らせたまま、国を形作るは容易なことではない。だが、三国は遣り遂げた。
城街地も、その為の方策の一つ。先ずは同盟国の民に、同盟が与える利益を示さねばならん。元九国が抱えていた、まつろわぬ人々を引き受け、戦禍だけでなく治安の回復。それと同時に、城街地を国の系統に取り入れ、同盟国の利益とする。二竜を追って、捕まえられたのは片方だけだったが。問題は、逃げたもう一竜だ。竜とは、城街地ーー現在の竜の民のことではない。先程言った、火種のことだ。
奴等は、城街地との衝突を利用するつもりであった。周期を経て、ようやっと民も同盟国を受け容れたというに、一度得た栄光とはここまで人を腐らせるものか。もはや民の心は離れ、騒乱を撒き散らすだけだというのに、現状では満足できぬのか。
奴らのことを、まったく理解できぬわけではない。然し、今ある秩序を乱そうとするなら、看過することなど出来ぬ。その芽が、芽吹く前に刈り取る。そして、三国で連携して事に当たるよう、以前から協議を重ねてきた。それを乱したのが貴卿だ」
僕の咎を明らかにして、無知と、顧みることのなかった愚かさを断罪する。
「竜の国の都合で動かれ、同盟国は協調を乱された。結果、わし等は間に合わなかった」
心臓が跳ねる。ここまできて、漸く理解する。僕が何をしたのか、何もしなかったから、引き起こされたことを。聞きたくなかった、耳を塞ぎたかった、そんなこと知らなかったと、逃げ出したかった。でも、もう遅い、何もかも遅過ぎる、遅過ぎたのだ。
「同盟国に火種は撒かれた。燃え盛り、火炎はストリチナ地方を焼き尽くすやもしれん。そうなれば、何万、何十万もの民が死ぬことになる。それはすべて、貴卿の軽挙が原因だ。いやさ、同盟国の三王はこう思っているやもしれぬな。ストリチナ地方を戦渦に陥れる為の、竜の国の侍従長の謀略だと。どうだ? 策が嵌まり、近隣国を乱し、満足か?」
感情を排して問い掛ける、ドゥールナル卿の表情が見えなかった。見えないのは、僕が項垂れていたから。でも、見えていたとしても、心の弱い僕には、直視できなかったかもしれない。これは何を護る為の戦いだったのか。始める前から失敗しているではないか。
コウさんの顔が、思い描かれる前に遠ざかってゆく。もう掴めない、彼女の笑顔を思い出せない。みーと百竜が、じっと僕を見ている。何も言っていない、ただその目が語っているだけだ。竜の国を共に造ったエンさんとクーさん、エルネアの剣に黄金の秤に、見知った人々すべてが、僕を置き去りに、何もない場所に行ってしまう。
彼らに向かって伸ばした手は、嘗て幾度も空に向かって伸ばした、その手は、何を希求して、どんな場所に辿り着きたくて、夢見たものだったのか。
ーー暗い。何もなかった。ドゥールナル卿も、「風吹」部隊も、同盟国の兵も、すべてがなくなった。消えて、聞こえなくて、僕自身がなくなって、感覚も欠落して。
足下に地面なんてなくて。落ちてゆく。踏み締める大地がないのに、どうして立っていられるのか。突如、重みが掛かる。どこに乗っかってきたのかもわからない。
数万人の命? 数十万の命? 体に圧し掛かってきたのか、心に積まれていったのか、ただただ重たくて、僕の何もかもが消し飛んでしまう。だのに、おかしい。体に力がまったく入っていないのに、どこにも何もないのに、僕は倒れていない。
「〝サイカ〟は膝を突かず。私たちは〝サイカ〟ではないけれど、自らの行いから目を背けてはならない。最後まで立っていることが、最後まで見続けることが、最低限の義務だ。私の弟子なら、そのくらいのことわかっていると思っていたけれどね」「……まだ弟子になった覚えはありません」「ははっ、それは悪いね。私のほうは、もう弟子だと思っているから、疲れも厭わず『転移』で遣って来たというわけさ」「……弟子弟子詐欺ですか」
ああ、ごめんなさい。と心中で謝っておく。先程僕の心を通り過ぎていった人々の中に老師の姿はなかった。知らず知らず、頼っていたからだろうか。甘えていた、などとは思いたくないが、師匠とかいう存在を暗に認めて、別枠として扱っていたのかもしれない。
因みに、スナが現れなかったのは、ああ、その、こんなことを言うのは恥ずかしいのだが、もう家族のようなものだからである。スナがどう思っているかはわからないが、氷竜が心から望まない限り、愛娘を手放す気なんてない。まぁ、その前に、氷竜を幻滅させたら、胃袋ーーがあるのかどうかわからないけど、喰われて魔力にされてしまうだろう。
スナには助けてもらってばかり。今も、スナに幻滅されるくらいなら、死んだほうが増しだ、と僕は少しおかしくなっているのかもしれないが、とりあえず、自分の足で立って、自分の頭で考えるだけの気力を与えてくれる。
「そういうわけで、ちょっとばかり弟子の尻を叩きに来たってわけさ」「……貴様、グリン・グロウか‼ 否、孫……息子か? まぁ良い、叩き潰してから洗い浚い吐かせてやる」
顔見知りなのか、親の敵とばかりに気色ばんだドゥールナル卿が長剣に手を掛けるが、
「相変わらず、気に入らない人間は姓名で呼んでいるのかな。今は、ドゥールナル卿とか呼ばれているのか? お前さんの驚いた顔が見られるのだ、長生きはするものだな」
老師の飄々(ひょうひょう)とした、軽い態度と述懐が、抜き打ち寸前の、老将の手を止めさせる。
ちっ。とドゥールナル卿が舌打ちをする。僕も驚いたが、そんなことが起こるなど天地が引っ繰り返っても有り得ないと思っていたのか、従者の少年が心の底からおったまげて、そのまま後ろに倒れて、坂道を転がり落ちてゆく。誰も彼の心配をしない中、老師は僕の弟子入りを確定したらしく、君付けを止めて、出来の悪い弟子に教示してくれる。
「さて、リシェ。この糞馬鹿真面目な男が、国に火種が撒かれているというのに、こんなところで油を売っている暇があると思うかい?」「えっと、それは……」「黙れ、この糞馬鹿不真面目な男が、今頃現世に迷い出て、不貞の積み増しをするか」
この二人、仲が悪いように見えて、実は仲が好いのだろうか。いや、僕とカレンの間柄に似ているような気がしたが、やっぱり勘違いかな。
「だいたいその格好は何だ、若作りにも程がある。魔法使いの様相が破滅的に似合っていない」「えっと、実は、老師は色々ありまして、体の中はぼろぼろみたいで、ああしていないと動くのも困難みたいで、魔法は治癒術士の親友から教わったみたいですけど……」
なぜか僕が言い訳する羽目になっているが、って、うわっ、不味いっ、ドゥールナル卿の目が、師匠が憎けりゃ弟子まで、になっている。
「まぁ良い。今は、聞くことは一つだけにしてやる」「何かな?」「何故スースィアを連れて行かなかった」「ーーーー」
尋ねるドゥールナル卿の言葉には、長い周期が横たわっていて、僕には到底及びも付かない感情の縺れがあるように感じられた。
スースィアとは、亡くなった里長の伴侶であり、カレンの祖母。先程感じたドゥールナル卿の印象が、連想させる。やはり、そうなのだろうか。
「それは、お前さんのほうこそだろう。知っているぞ、里から出たとき、スースィアはお前さんを頼って、身を寄せていたのだろう」
二人の、炎を噴き出す前に爆発してしまったかのような感情の発露を、このままでは両陣に不審を撒き散らし兼ねないので、無理やり間に入って止めようと試みる。
「貴様はーー」「ドゥールナル卿! ちょっと、ちょっとだけ待ってください!」「何だ‼」「ぅひっ、えっと、その、ドゥールナル卿とスースィア様は、兄妹、ですよね?」
僕の問い掛け、というか、確認に、老師が間抜けな声を零す。
「……は? ーー、……は?」「ーー貴様っ、初対面の小童ですら気付くものを、妬心に塗れて、現実さえ見えておらなんだか!」「……やっ、ちょっと待て! 全然顔が似ていないではないか!」「似ておらん兄妹なぞ、掃いて捨てるほどおるではないか、自らの不見識を棚に上げるでないわっ!」「ふぐっ……」
お互い炎の吐き過ぎでやばいことになっている。ここは一度涼んでもらうことにしよう。
「ドゥールナル卿。中央の『風吹』部隊の指揮官を御覧ください。里長の孫であり、竜の国の侍従次長である彼女の名は、カレン・ファスファール。スースィア様の孫です。カレンにとって、あなたは大伯父、あなたからすると大姪になります」
意表を衝かれたドゥールナル卿は、僕の言葉のままにカレンを眺め遣って甘心する。
「そうかーー、面影があるな。……指揮官ということは、やはりお転婆なところも似てしまったということか」
ドゥールナル卿の視線を承知したらしいカレンが、にこやかに手を振る。ああ、明らかに何かを勘違いしているようだ。カレンは、祖母であるスースィア様のことを尊敬していた。この事実を伝えれば、彼女は思い出話を聞きに、サーミスールを訪れるかもしれない。
「リシェ。それは止めたほうが良いと思うよ。この堅物は、大姪のカレンとサーミスール王を結び付けようとか画策しているからね」「当然だろう。これほどの良縁、然う然うありはしない。王は、政務に感けて、そちらの方面に疎くなっておられるからな、機会を逃してなるものか」「……お前さんは、少し変わったなぁ。それもそうかーー」
四十周期。僕の生きてきた時間の二倍と半分くらい。懐古、などと軽く言ってしまっては失礼になる。老師の眼差しは、どこに旅立っているのか、若々しい顔に古びた面差しが宿って、見えたことのない老師の、本当の姿を幻視する。
「改革に賛同せず、離れたお前さんに、わからないのは当然だが。里を離れてから三周期後、改革に向けて動き出すときには、すでに死病に侵されていた。どうせ長くない命、改革で使い果たしてしまおうと思ったが、私は生き残り、あいつは恋人も腹の子も遺して、魂を散らした。あいつは、私の命も救った。あいつから託された治癒魔法の深奥が、私だけでなく、コウを、翠緑王を生かした」
今僕が居る、この場所に至るには多くの人の係わりが必要だった。コウさんを生かした老師、そして老師を生かす為に治癒魔法を授けたらしい親友の治癒術士。人の綾というか、そこにスースィア様との別れが含まれていたとするなら、複雑、というのは違うか、無常、というか、……駄目だ、まだ歩き始めたばかりの僕では、到底表現のしようがない。
感慨に浸っているのか、二人を見ていて、違和感をーーそう、これは里長と老師が再会したときに感じたのと同じものだ。あのときは、喉まで出掛かっていたが、答えに辿り着けなかった。然し、里長、ドゥールナル卿と二人続けば、幾らなんでも違和感の正体に気付く。というか、何故今まで気付かなかったのか。見た目と思い込みというのは、案外強く人を惑わせるものらしい。まぁ、これも老師の所為だ、と責任転嫁する。
僕と違って、一度で心付いたドゥールナル卿に、軽く頭を下げる。どうやら秘匿してくれるらしい、目礼で返してくれる。
「そうか。やはり、貴様はスースィアを連れて行くべきだったのだ」「…………」「死病だ何だとほざくが、現にこうして貴様は生きている。独り善がりで先に手を放したのは貴様だ。死ぬまで後悔して、短い余生を生きると良い」
言葉では非難しているが、口調は穏やかなものだった。察した老師も反駁せず、過去の過ぎ去った情景に思いを致しているようだった。
「はっ、はぁ、どぅ、ドゥールナル様、……ふぃ、つ、連れてまいりました」
もう戻ってきたのかと見てみると、従者の少年に三人の騎士が同行していた。彼らは何かを運んでいるようで、ドゥールナル卿の横にゆっくりと慎重に置いた。
「同盟国に不法入国した故、こうして捕らえたわけだが、処罰をどうしたものかと迷っておる。どうも、命令されているわけではなく、自律しているよう感じられるが」
纏めて縄で縛られている六体のミニレムが、処罰と聞いて、いやんいやんと首を振って、足をばたつかせていた。あ、何だかちょっと可愛い。
「不法入国……とは、彼らは何をしたのでしょうか? 彼らは働き者なので、何か遣らかしたのなら、その弁済に労働力として提供することを考えますが」
事が事なので下手に出てみると、憤慨したらしいミニレムたちが、足でばしばしと地面を叩き始めた。あ、何だかちょっとむかつく。
「ああ、彼らがしたことといえば、建物の出入り口から出られないように、棒を使い扉を封鎖したり、厩を破壊してすべての馬を逃がしたり、川を大岩で塞き止め、街道に水を溢れさせて通れなくさせたり、領主の館を全焼させたりとーー」
申し訳ございませんっ‼ とファタ考案の究極の謝罪体勢に移ろうとしたところで、
「まったくもって、天晴れな働き振りであった」
ドゥールナル卿の賞賛の言葉が、僕の心胆を氷竜の息吹水準で体ごと凍らせる。
え、は? えと、何ですと? 見ると、深く刻まれた皺は、優しい形を作っている。ドゥールナル卿に頭を撫でられて、ミニレムたちがでれでれである。彼が部下に合図すると、縄が解かれて、ミニレムたちがドゥールナル卿に次々とくっ付く。凄く懐いているように見えるのだが、一体何があったのだろうか。働き振り、ということは、彼らの損害になっていない? いや、でも……。と考えていると、これは困っているのだろうか、ドゥールナル卿がミニレムに体を攀じ登られながら直立不動の体勢で説明してくれる。
「先に述べたが、わし等は間に合わなかった、それは事実だ。貴卿の思惑はどうあれ、三国の足並みが乱された。然もありなん、他者に振り回されながらで上手くゆくはずもない。
そこに現れたのが彼らだ。反乱の兵を建物に閉じ込めたり、騎士の馬を逃がしたり、街道を封鎖して敵軍の合流を防いだり、敵の首魁と目されていた領主の館を焼き、資金源を断ったりと、四大竜の如き活躍振りであった。わし等が駆け付けると、右往左往した敵がおり、そして周囲には彼らの姿が。そうして、事情を知ったというわけだ」
ドゥールナル卿が手を振って合図すると、騎士たちが手分けしてミニレムを彼から引き剥がして、ミニレムに外衣を羽織らせてゆく。見るからに仕立ての良い暗色の外衣には、ドゥールナル家の紋なのだろうか、雄々しき鷹の意匠。
「不法入国故、彼らの功績を表立って賞することは出来ん。そこで、わし個人が、感謝の意を籠めて、ミニレム殿に友好の絆として贈らせてもらう」
感激したミニレムが、再びドゥールナル卿にくっ付こうとするが、それを邪魔する者が現れる。然なきだに面倒だというのに、もう勝手に遣っていてもらおう、従者の少年とミニレムたちの、どうでもいい戦いの幕が切って落とされる。
「然して、貴卿はどうする? 竜にも角にも、グリン・グロウは後でサーミスールに強制召喚するが、貴卿のことは、あの御方から何も託っておらん」
またぞろ一触竜発の二人。さっそく老師が噛み付く。
「ーーお前さん、場合によっては本気で竜の国を潰すつもりだったろう」「無論だ。グリングロウ国などという戯れた名の国など、塵一つ残さず消滅させるが本懐」「サーミスール王に惚れ込むのは良いが、王可愛さに爺が発奮しても恥ずかしいだけだぞ」「貴卿、カレン・ファスファールに言伝を頼む。貴女の祖母に横恋慕した不貞者がおる、絶対に気を許してはならぬ、と」「くくっ、心配いらないさ。彼女には、すでに意中の相手が居るようだよ」「然かし。どうやら生かしておくわけにはいかぬようだ」「ちょっ、勘違いするなっ! 私ではない!」「それこそ心配いらん! 間違いであったとしても一向に構わぬ。天の国でスースィアや親友に千回謝ってくるが良い!」「こらっ、弟子、助けないか!」
ぼろぼろの体を、治癒魔法の系統(?)で無理やり動かしている老師は、「懐剣」の本領を発揮できず「結界」で防いでいるが、ドゥールナル卿の膂力に任せた剣戟で「結界」に罅が入ってきている。そう長くは持たないだろう。ミニレムと遣り合っていたはずの従者の少年がドゥールナル卿に加勢する。ミニレムはどうしたかというと。少年と引き分けたらしい彼らは、老師ではなくドゥールナル卿に味方して、「結界」をがしがし攻撃していた。……あー、さすがに可哀想なので、老師に竜の尻尾を出すことにする。
「ドゥールナル卿。サーミスール王、クラバリッタ王、キトゥルナ王に拝謁の機会を賜り、この度の一件の説明に伺いたく存じます」「ーー三王に貴卿の言葉は届けよう。だが、託けるだけだ。王が聞き入れるかどうかは知らん」「それで十分です、感謝を。三王の意思とは関係なく、僕のほうから会いに行くので、その旨もお伝えください」
この一件を長引かせるくらいなら、迷惑になろうと押し掛ける。面倒な思惑や策など巡らせる間など与えない。その気概でドゥールナル卿を半ば睨み付けるように見遣ると、
「はははっ、良いだろう、承った。然様な向こうっ気は嫌いではない」
快闊に請け負ってくれる。従者の少年の首根っこを掴んで「結界」から引き剥がすと、何事もなかったかのようにミニレムも「結界」から離れて。一列に並んで、ドゥールナル卿に、ぺこり。軽く頷いた彼に、別れを惜しむように、とぼとぼと僕の前まで歩いてくる。
「老師。『窓』をお願いできますか?」「はいはい、やっておくよ」
助けてあげたのだから、ちゃんと働いてくださいね。と弟子が目線で脅すと、渋々と従ってくれる師匠。根負けしたのと、あとは少しの感謝から、師として慕うかどうかは措いて、師匠として認めてあげてもいいような気がしないでもないので、まぁいいだろう。
「風吹」部隊や交代予備の頭上に「窓」を開いて、老師が声を抑えて終結を宣言する。
「さて、昨日から続くこの騒ぎは終了です。予備、交代要員、部隊と、漸次竜の国に帰投、ではなく、帰還、いやさ、帰宅するように。良いですか、今は騒いではいけません、相手を刺激してはいけません。静かに、整然と、です。騒ぐのは、竜の湖に着いてからです。 ああ、あと動けそうにない弟子二人を幾人かで迎えに行ってやってください。ーーちょっとだけなら、うっかり触ってしまっても問題ありません」
余計なこと言わないでください。ほら、近衛隊の人たちが誰がクーさんを迎えに行くかで揉めているし、別の意味で、誰がエンさんを引き取りに行くかで黄金の秤隊が揉めています。まぁ、誰でもいいので、傷が深そうな団長のほうは、早く回収してあげてください。
「サーミスール王、エクリナス様のご機嫌は如何でしょうか?」「覚悟をしておけ、としか言えん」「そうですか。では、時間を置いて、冷静さを取り戻していただいたほうが良いかもしれません。キトゥルナから赴こうと思います」「賭け、だな。この度の顛末で、冷静になられるか、若しくは拗らせるか。あのように癇癪を起こしたエクリナス様は始めてだ。ただ只管に、直向きであられた王が、溜め込まれていた感情を吐き出す機会を得たと喜ぶべきか」「……、ーーはぁ」
まだまだ前途多難であることを、彼の表情から予見する。
「貴様! 竜の国の侍従長、ランル・リシェだということは先刻お見通しだ! よく聞けっ! 誇り高き僕の名ぼぁっ、ぎゃぁあああぁ~」「さっさと戻り、帰り支度をせよ」
蹴飛ばされて転がり落ちる従者の少年の悲鳴が合図だったなどと、まったく締まらないことこの上ないが。深刻ではない、ただの騒乱の終了を告げるには、相応しかったのかもしれない。「風吹」部隊が退き始めると、クラバリッタの「智将」が、ダグバース卿と精兵たちが王様代理に最後の挨拶をして退いてゆく。もうやけくそなのか、カレンはクラバリッタ兵に愛想良く満開笑顔を振り撒いていた。クラバリッタの後退を見て、キトゥルナが、続いてサーミスールが、戦史に載ることはないだろう、この奇妙な戦いの余韻を響かせながら、それぞれ帰途につくのだった。
折れない剣は、天を指し示す。石が地に落ちる、然様な自然の法則に遵ったかのような振り下ろし。切っ先が、大地に蟠る萎びた風に語り掛ける。小さな綾を生み出す。それは連動して、巻き込みながら、集束する。一条の光芒が大地を疾走り、それは魔力の奔流に、巨大な閃光となって、立ちはだかる高嶺を両断する。一拍遅れて、妙に冴えた、音と衝撃が駆け抜けてゆく。余韻が消え去らぬ内に、折れない剣を鞘に収める。
厳しい山々に、馬車が行き交える程の大きな道ができる。南の竜道も、きっとこのようにして造られたのだろう。違いと言えば、南の竜道の壁面が焼かれて溶けたような断面であるのに対して、薄く氷を張ったようなざらっとしたものであること。
「……あ、あの、これは……、そ、そうでした、名前を、この道の名前を付けてください」
未だ、目の前の出来事に震撼しながら、街の代表者が提案してくる。
ーー街は割れていた。鉱石や山の恵みなど、豊かな産物があるが、その立地から外に運び出すのに一巡りの期間が必要だった。だが、山を掘って隧道を造れば、半日で済む。推進派と、手間と費用、実現性の乏しさからの反対派。二派の対立は激しくなるばかり。
それを竜耳が捉えて。答えを差し出す。手間も費用も掛からず道が開通するなら、二派に否やはない。そこで今回の仕儀となったわけである。
ぶふーっ。とちょっと満足気な鼻息。「隠蔽」で周囲の人々には見えていないが、絶大なる魔力で山を真っ二つにした氷竜は、高つ音に降り注ぐ陽光に冷気を散らしながら、優美で艶やかな威容を存分に見せ付ける。いや、スナからしたら、普通にしているだけなのかもしれないが。見る者を虜にするだろう美しき愛娘を、皆に見せてやりたい……、と親心がむくむくと湧いてきたが、うん、今は僕だけの娘でいいかな、と甘心する。
「名前ですかーー。そうですね、では、スリシナ街道、とでも名付けますか」
スナの中に僕が入る、というか、スナの代わりを僕がした、という意味を込めて、そんな名称にしておく。目の前の光景にやっとこさ順応し始めたのか、さんざめく人々。面倒なことに巻き込まれない内に、さっさと退散してしまおう。
「王都に向かうところですので、これで失礼いたします」「おっ、お待ちを、お礼をっ!」
スナが近付いてきたので、何気ない振りでその足に乗ると、一気に上空に舞い上がる。あ~、これは下で見ていた人は、吃驚しただろうな。
ぶぅ~っ。と何やら不満気な鼻息。ひょいっと投げ上げられた僕は、差し出された頭の上に必死でしがみ付く。この手荒な対応は、不満度の大きさを示しているようだ。
「どうどう」「……馬ではないのですわ」「そうだね。竜なら、というか、僕の可愛い娘なら、ちゃんと説明してくれるだろうな~、と期待してるんだけど」「人間の指で三本分、狭かったのですわ」「ん? ああ、さっきのスリシナ街道のことか。南の竜道と比べて、ということなら。ーー慥か、炎竜は竜の中では最高火力の持ち主だったかな。それに匹敵するのだから、スナが凄いのか、或いは東の竜道の狭さに鑑みて、ミースガルタンシェアリが手加減していた可能性もあるわけ……かな?」「ふふっ、面白い解釈ですわ?」
藪蛇かと思ったが、もう遅かった。藪に隠れていたのは蛇ではなく竜、いやさ、藪に隠れられない竜の頭と角が、あと序でに、それはもう楽しげにぶんぶん振られている尻尾が、僕の命運がすでに決していることを教えてくれていた。
少年は舞い降りる。
そこに不可思議を見出すだけの余裕を、人々は持ち合わせていなかった。
この地域でのユミファナトラ大河の氾濫は珍しいことではない。人々は知らないだろうが、その氾濫が肥沃な大地を生み出している、という説を耳にしたことがある。だが、今回はいただけない。収穫前の作物。当然、長雨の時期を避けているのだが、これもまた人々の与り知らぬことではあるが、今回は上流での突発的な豪雨が原因だった。領民は即座に対応したが、水竜の息吹が如き濁流に、終には堤が切れる。
逸早く察した領主が、領民の命には代えられぬと、退避を命じていたが、時すでに遅し。
ーー領主は見た。向かう先に現れた、やや頼りない容姿の少年を。ここらでは見掛けない服を着ている。竜をあしらった意匠が、それとなく散見される。このような危急の折だというのに、少年に目を奪われる。彼は、静かに腕を伸ばして、殿の領主に掌を向けた。
少年の涼やかな面に、降り積もった雪の純白を宿した瞳に、領主は確信する。その対象は自分ではない、と。こうして領民を救えなかった男が、あの清澄な眼差しに映るはずがない。であれば、少年の冷ややかな瞳は何を映しているのか。そも、少年はこの窮地に、何故立ち尽くしているのか。ぞくり、と領主が少年の意図に身慄いしたとき、情景は鳴る。
「『氷雪の理(センス オブ スノーアイス)』」
立ち止まってはならぬというのに、少年の横を駆け抜けた領主は、本能の内から生ずる予感に抵抗しきれず、儘よと振り返る。
それは、磨き抜かれた白い風に見えた。違う、とその瞬間を見届けた領主は、自らの間違いを正す。白銀の疾き風は、結果に過ぎない。視界を歪めるほどの、圧倒的なーー、世界の果ての大地には、このような極寒の応えが人々を阻んでいるのだろうか。
濁流の、耳障りな音が途切れる。やがて人々は、その異変に気付き、理解が及ばず、現出した絶景に見入るばかり。
恐ろしいほどの美しさ。その言葉に相応しい光景を、領主は初めて目にする。その情景の中に、少年が居たからこそ、成り立っていたものなのかもしれない。
迫り来る、あらゆるものを呑み込む水の暴虐は、静寂を飾り立てる脇役だったかのよう。 表面は薄い氷。その中は水。膜のような薄氷が、白風に運ばれて、ユミファナトラ大河の流れを覆ってゆく。「薄氷の隋道」、だろうか、純度の高い氷のようで、まるでそこには何もないかのような透明な様は、人の意識さえ惑わせるようだ。
ぱきっ、と音がする。何故だろうか、それに危機感を抱くことはなかった。
薄氷が割れて、水が噴出したかと思うと、水はそのまま凍り付いて、穴を塞ぐ。凍った水が造り出したのは、氷の華。ぱきっ、ぱりんっ、とあちこちで氷花が咲き乱れる。
「『氷竜絶佳』」
少年の声に、領主は幻想の領域から抜け出す。間に合わない、と領主はわかっていた。それでも、と。すでに手を下ろした、竜の衣を纏った少年に、感謝の言葉を投げ渡す。
届いただろうか。「飛翔」なのだろうか、もはや空の高みにある少年に向かって。領民と共に、千の感謝をこの地に刻み、伝えていこうと領主は誓うのだった。
「ひゃふっ、中々良かったのですわ、父様」
お気に召してくれたようで僕も嬉しいです。と表面は取り繕うが、無ー理ー、むりっ、ムリですっ。ぐぅあっ、恥ずかし過ぎる。これまで色んな演技をしてきたけど、これは最高に恥ずかしい、恥ずかしまくり、というか、恥ずかし祭りっ。いや、落ち着け、僕。
恥ずかしさが振り切れてしまったので、見掛けた領主らしき男性に代わってもらいました。何というか、彼の視点で眺めて、自分を客観視というか誤魔化しをして、羞恥心を減じさせようとしたのだが、上手くいったか定かではない。演技や技名は、スナの要望である。スリシナ街道の一件で、少しだけお冠の娘を宥める為、「涼やかな氷の少年」を演じたわけだが、うん、やっぱりこういうのは僕に合ってない気がする。
「風吹」部隊と同盟国が撤退したあと、ドゥールナル卿に告げた通り、サーミスールを最後に、先ずはキトゥルナに赴く予定だったのだが。ふと気配がして振り返ると、そこには超特急の笑顔満開の愛娘。嫌な予感しかしなかった。
では、「飛翔」でキトゥルナに向かいます。託けの件、よろしくお願いします。とスナに持ち上げられる前に、ドゥールナル卿に伝えられたのは幸いだった。
スナは、父様と遊ぶ、と言っていたが、正確には、父様で遊ぶ、である。
忙しさに感けて娘を蔑ろにしていた父親には、逆らう権利などあろうはずもなく。キトゥルナに続いて、クラバリッタでもスナの玩具の僕である。
近付くクラバリッタの王城を見ながら、竜の景色で心を癒やすのだった。
「『吹雪』『治癒』『吹雪』『治癒』『吹雪』『治癒』『吹雪』『吹雪』っと、『治癒』『治癒』『吹雪』『治癒』『吹雪』『治癒』『吹雪』『治癒』『吹雪』『治癒』『吹雪』『治癒』……」
「あ、あの~、そろそろ許してあげても良いような気がしないでもないような気が……」
村長が控え目に、村人たちの総意を、魔獣に怯えるような声音で伝えてくる。
そうですね。僕もその意見に大賛成です。すると、僕も彼らも待ち侘びていた人たちが遣って来る。警備兵を連れた、近隣の街の代表者だろうか、年嵩の男性を先頭に五人ばかりが駆け寄ってくる。……まだお達しはないので、無慈悲に続ける。
「『吹雪』『治癒』『吹雪』『治癒』『吹雪』『治癒』『吹雪』『治癒』『吹雪』『治癒』」
「おっ、お願いだぁ~、この邪竜から助けてぐれぇ~っ」
哀れな盗賊の頭は、遣って来た警備兵に縋り付いて懇願する。
「……ふ、ふむ。そこな竜の国の役人らしき少年よ、そのくらいにしてやっては如何かな」
身形の良い代表者の男性が、低姿勢で提案してくる。
体に傷は残っていないだろうが、心のほうは、そうはいかないようだ。いや、正しくは精神や神経のほうかな。五十人からの盗賊たちは立ち上がることさえ出来ないでいる。
彼らは、一帯を荒らし回っていた野盗で、その手口は残忍さを増していったが、領主の及び腰と責任逃れから、中央への兵の派遣要請が為されていなかった。有能過ぎる竜眼と竜耳は、村を襲う寸前の盗賊たちを、狩る者、から、狩られる者、に立場を入れ替えた。
真に遺憾ながら、拷問、という言葉が一番しっくりとくる。「吹雪」で痛め付けて、「治癒」で回復する。あとはそれを繰り返すだけ。とはいえ、野盗らの蛮行によって、多くの死者も出ているそうだから、これらの罰ですら彼らには生温いと言える。
「おほんっ、事情は心得ましたが、取り調べを行いたいので御三方、ご同行を願えますでしょうか」「あなた方が、僕たちを捕らえるのは無理ですし、牢屋に抛り込まれても、周辺一帯を更地にしてから抜け出すことになるでしょう。ですので、設備のある王都まで連行するのがお互いにとって最良であると愚行する次第であります」「……ふむ、確かに一理も一利もありますな、竜も納得でございます」「では、馬車の荷台に乗せてもらいます」
領主に通じている者らしく、事なかれ主義に靡いてくれる。後から遣って来た馬車に乗り込んで、名乗ることなく逃亡に成功ーーだったらいいなぁ。スリシナ街道に「氷雪の理」と続いているので、この「災厄の治癒術士」と併せて、侍従長の仕業だと特定されてしまうかもしれない。僕、レイ、エーリアさんの順で馬車に乗り込んでゆく。
「空の旅は一時中断だね。こちらのほうが話し易いし、丁度良いか」
エーリアさんは、荷物の間に程好い隙間を見つけて、板張りの床に座り込む。見た目よりも随分と逞しい人のようだ。彼とは、クラバリッタで再会して、仔細は後程ということで、同行することになった。師匠であるボルンさんは、疾うに発ったとのことだった。
「父様、早く座るのですわ」「よっと、はい、おいでスナ」「むふふー、たうっ、ですわ」
胡坐を掻いた僕の上半身に向かって飛び込んでくる。みーがコウさんにするように、すりすり甘えると、背中が痒かったのだろうか、背面すりすりをしてから、僕の上に落ち着く。レイの「幻影」を、いや、スナの魔法はもっと高度なようなので、「幻覚」と名付けようか。「幻覚」を解いたらしく、子供になったスナの姿を、エーリアさんは興味深そうにしげしげと眺め遣る。視線が合うと、やおらスナが恩着せがましく放言する。
「父様が、乗せてやれ、と言うから乗せてやったのですわ。本当なら、二人目の足での竜掴みでしたのに、初めての余韻に浸る間も十分に娘に呉れてやらないなんて、あてつけがましい父様ですわ」「あれ? 二人目って、一人目は僕のことじゃないよね。他にも誰か運んだことがあるのかい?」「ひゃふっ、父様、嫉妬ですわ? 嫉妬なのですわ?」「そりゃねぇ、可愛い娘が、実は男とすでに触れ合っていたなんて聞いたら、父親としては気が気じゃないよ。あ~、到頭娘も反抗期か」「心配しなくても、竜掴みなんて物の数には入らないのですわ。それだって、父様の関係者、伯父だから運んでやったのですわ」
んふ~、と可愛らしい鼻息。拗ねたのか、強めに後頭部を僕に打ち付けてくる。
「って、兄さん?」「ほう、すでにスナ様と接触していたなんて、さすがニーウ」
兄さんを竜掴み……? いや、スナにしては破格の待遇なのだし、勿論、怒るつもりなんてないけど、いやいや、兄さんへの傾倒はほどほどにと、うん、今は娘を大切にしよう。
「あの娘が魔法球を渡していましたし、父様の兄なので、気紛れというやつですわ」
あれ? そこまでスナが知っているということは、何度も翠緑宮に忍び込んでいるということだろうか。そうなると、コウさんがそれを察知できないとは考え難い、のか?
「う~む。コウさんが係わると、スナが苛めっ竜になっちゃうのは、どうしたものかな」「なるほど。魔法球を使わせなければ、翠緑王の意図を挫ける、ということか」「ええ、そこら辺、コウさんは抜けているところがあるので、魔法関連に関しては、もっと老師に目を光らせて欲しいところなんですけど」「なら、スナ様を相談役に据えては?」「ん~、それはどうでしょう。王様の氷竜嫌い、ではなく、苦手意識は相当なものですからね」「それに翠緑王の近くには、炎竜様がいらっしゃる。となると厳しいか」
話に一段落つくと、エーリアさんは懐から取り出して、差し出してくる。
「というわけで、はい」「それでは、拝見いたします」
その手紙は、〝サイカ〟であるボルンさんからの推薦状。彼の弟子であったエーリアさんを竜官に推す旨が記されている。
「承りました。竜の国は人手不足ですので、こちらからお願いしたいくらいです。というわけで、お願いします。どうか、竜官となって、竜の国を守り立ててください」
これまでと同じ様に、頭を下げてお願いをする。今に至るも思い知らされる、一人では何も出来ないのだ。誠意だけでは足りないが、先ずは示せるものは示さなければならない。
「〝サイカ〟に至ることが第一の目標だけれど、偽りなく竜の国の為に尽くすことを、ここに誓わせてもらうよ。ーー善き出逢いに、善き願いを。善き絆に、善き人生を」
エーリアさんは、エルシュテルを信仰しているらしい。幸運とは、日々の正しき行いの上に訪れる。そういった箴言が多くあるのが、エルシュテルの特徴である。ただ、敬虔な信徒であると、困ったことになるかもしれない。神々は地上に干渉していないのだから。まぁ、そこは〝サイカ〟に至ろうとしている者として、弁えてもらえるだろう。シアと同様に、彼には多くのことを知ってもらうことになる。
「さて、打ち明け話をしようか。大変だったね、リシェ君。クラバリッタでの懇談のとき、あれは炎竜様だったのか、最後まで話を聞かず帰ってしまったからね。同盟国内の不穏分子について調べていた資料を渡せなかった」「あのときは、みー様のことだけではなく、少しでも早く城街地の人々を竜の国に招き入れるべきだと躍起になっていましたから。周りが見えていなかったと反省しています」「ははっ、あそこで話を聞いて、同盟国と協調していれば、そもそも今回の騒動は起こらなかったかもしれない。同盟国に竜が加担しているかもしれないと、そんなことまで考えていたなんて。事情を知らないと、そう思っても仕方がないのかな?」「ぐぅ、それならそうと、後から手紙でも何でも、教えて下さっても良かったんですよ?」「そこはボルン様がね。あの方は、君が気に入ったようで、可愛い教え子は竜に乗せろ、ということで、御自分の計画を変更された。あのときも話したけれど、カイナス三兄弟は同盟国から離れたがっていた。そして、同盟国内の反乱分子の存在は好都合だった。〝目〟を使って調べ、彼らを同盟国に捕らえさせることで、役目を終え、去るつもりだった。が、ここで思わぬ支障が生じた。そう、リシェ君、君だよ」「えっと、僕……? あのとき何かしましたっけ?」「リシェ君、というか氷焔、君たちは早過ぎたんだ。ボルン様の予測を上回り過ぎた。城街地に翠緑王が訪れた、その翌日から移住が始まるなんて。『遠見』の魔法だったか、ボルン様も聞いたときには度肝を抜かれていたよ。他にも、反乱分子が混乱を狙って、移住者を襲撃しようとしたのだが、事あるごとに『火焔』が現れ、然もばったばったと魔物を倒している魔獣の如き姿を見せられて、萎縮してしまったそうだ」「そこでまた、ボルンさんの計画が狂ったわけですね」
これは、エンさんは知っていて、やっていたのだろうか。いや、どちらでもいいか。竜にも角にも、彼には休みを上げよう。この悪行に関しては言い訳はできないのだから。
「〝サイカ〟は争わず。それを知らない反乱分子は、カイナス三兄弟を旗印にしようと企んでいたようだ。利用するだけ利用して、傀儡にするなり処分するなり、とずいぶん安易な計画だったようだけれど。律儀なボルン様は、予定が狂って時間がないというのに、きちんと引き継ぎを済ませてから、這う這うの体で逃げられてゆかれたよ。師匠からの最後の教えか。一つ歯車が狂うと、全体に影響を及ぼすことがある、と」
一つ知らないだけで、一つ間違えただけで、辿り着く場所が変わることもある。今から思えば、どうしてそんなことを、と思うが、実際に行動していたときには、それが最良であると信じて決断していた。ちょっとだけわかるような気がした。これまで歴史を学んで、どうしてこんな行動を取ったのだろう、とか、こうすれば良かったのに、とか思うことがあったが。今回の僕のように、知らないこともあっただろうし、必要以上に考え過ぎることもあっただろう。大切なものをその手に、零れてしまうこともあるだろう、新しく手に入れることもあるだろう、それでも尚、彼らは決断してきたのだ。
「個人的なことなど話せないことは幾つかありますが、それ以外はすべて知ってもらおうと思っています」「里長の孫娘、慥かカレン・ファスファールだったか。彼女には明かしていないのかな?」「カレンは、先ずスーラカイアの双子から秘密を、信頼を勝ち取ってからですね。それと、正しい行いが正しい結果を生むわけではない、ということを、もうちょっと学んでからでないと、怖くて教えられません」「ははっ、何だ、真っ直ぐで良い娘のようじゃないか」「そうですね。僕は嫌われているので、先達として指導してあげてください」「そうか、先達か。自らの欠点として、感情が激するところがあることは自覚しているから、これからは律していかないと。さて、王都まで二日くらいか。馬車で荷物のように揺られるなんて、冒険者になったようで、少しばかり胸が弾んでしまうね」
あらら。静かだと思ったら、小さな寝息を立てていた。まぁ、事務的な話で詰まらなかったのかもしれない。彼は、僕にとっても先達である。サーミスールの王都に到着するまで、時間はたっぷりとある、有意義な機会となること請け合いである。乾燥して少し砂っぽいが、スナの冷たさが心地良い、まったくもって穏やかな好き日和であった。
この二日間が致命的であったことを、只今身に沁みて感じているところです。
「憑かれているのか」
会って早々、ドゥールナル卿が僕の顔色を見て尋ねてきたのだが。いや、たぶん、僕の聞き間違い。彼は、疲れているのか、と聞いてきたのだろう。僕の背中にくっ付いて「隠蔽」で隠れているスナは、ドゥールナル卿の言葉が壷に入ったのか、大笑いしているので、憑かれています、とも、疲れています、とも言えなかった。
「鍛錬は欠かしていなかったのですが、クラバリッタでは一人で行うしかありませんでした。ドゥールナル卿の部隊の鍛錬に交ぜていただけるとありがたいのですが」「覚悟があるのなら、参加は認めよう。高つ音まで立っていられたら、わしが相手をしてやろう」
意気投合して、エーリアさんとドゥールナル卿は部屋を辞していきました。城を探索してくるのですわ、と父親を見捨てて窓から飛び出していったスナは、今も戻りません。
「クラバリッタを発ったと知って、晩餐の用意をしていたというのに、来ない、と思ったら、翌日も、更に翌々日も、連絡も寄越さず、勝手に予定を変えるのは、竜の国の流儀というわけか、そうだな、何もしなかったし、何も教えてくれなかった、はっ、確かに、私は見向きもされないくらいの、弱小王かもしれないが、あ、ごめん、居たの気付かなかった、と言われるくらいの、詰まらない男かもしれないが、そも、最初にサーミスールに来るかと思ったら、最後、それならそれで悪くないと、思ったが束の間、噂だけは届く、山をばかっ、河をぱきっ、各地で武勇伝を作って、サーミスールの問題を片付けたことには、感謝しなくもないが、わかっているだろう、この度の君の失態は、その程度で償えるようなものではない、君の英雄的行為を実際に目にすることが出来なかったは、別に残念などということは微塵もないのだが、そもそもそれを言うのなら、すべての始まりであるーー」
「…………」「ーーーー」「…………」「ーーーー」「…………」「ーーーー」「…………」
弛まなき王。王となってからも、不平不満を一切口にせず、その愚直なまでの誠実さに、多くの者が心を打たれ、サーミスールの興隆の兆しを疑う者はなく。
人々は待ち望んでいた。王を称える言葉が、城下で語られ始めている。
エクリナス・アルスタ・サーミスール王。民に慕われる最高の王となることを疑っているのは、この大陸で僕だけかもしれない。いや、まぁ、そんなことはないんだろうけど。
二つ音に王城に着いて、一悶着あったあと(のひえひえ~)、応接間に通されたのが三つ音。それから現在、窓の外の太陽が山の陰に沈んでしまいそうです。あ、沈んだ。
第一声から今に至るまで、「降り積もる愚痴」と二つ名を捧げたいくらいの、ねちねちし過ぎてねっちゃりんこな粘着質具合である。
室内の状況がわかっているのか、確認もなく、ドゥールナル卿が入ってくる。
「エーリアさんは、一緒ではないのですか?」
この機会を逃してなるものか、と食い付きそうになる心と体を、なけなしの精神力で制御して、尋ねる。
「伏したまま立ち上がれない腑抜けなのでな、置いてきた。帰りに拾ってゆくが良い」
これは、しこたま扱かれたようだ。ドゥールナル卿の表情から、エーリアさんがかなり気張ったことが窺える。あとで迎えに行って、介抱してあげないと。
「王よ、そろそろ今日はお開きにぃっ⁉」
国中の不満を集めたようなエクリナスさんの顔が、恐らくこれが普段の彼の表情なのだろう、ドゥールナル卿の異変で真剣な面持ちに一変する。ありがたい、手伝ってくれるようだ。ただ、もう少し穏便な方法を選択して欲しかったけど。
ドゥールナル卿の顔が強張って、竜でも背負っているかのような危懼に揺れる。
「どうしたのだ、ドゥールナル」「王よ、背中に、何か見えまするか」「いいや、私には何も見えない」「……竜、か。矢を防いだはーー、氷竜……?」
あの騒乱で思い知らされたが、本当にドゥールナル卿の深淵の如き洞察には恐れ入る。彼だけでなく、里長や兄さん、ボルンさんや、老師……も一応入れておこうか、彼らはいったいどれだけ高みにいるのだろうか。下から見上げるだけでは、本当のところはわからないのかもしれない。今回の一件で、彼らの知恵の一端に触れることが出来た。収穫、と言っていいのなら、僕にとっての最大の収穫は、それだったのかもしれない。と浸っていると、スナが僕を見ていることに気付く。こくり、と首肯、許可を出す。
「初めまして、ではありませんが、初めまして、と言っておきますわ。ランル・リシェの娘でスナと申しますわ。見抜いたドゥールナルにはご褒美をあげますわ」
「隠蔽」を解いたスナは、ドゥールナル卿の頬にすりすりしながら、頭を撫で撫でする。彼は竜の気配を感じ取っているのだろうか、「竜の祝福」を受けても、一向に気を緩める様子はない。反応がないので飽いてしまったのか、ドゥールナル卿の肩に登って、卓に跳躍。音もなく着地したあと、エクリナスさんの膝の上に、ぽすんっ、と傾いて落ちる。
「ーーっ⁉」「むふー、ちょっと鍛え過ぎですわ。父様くらいの弾力が丁度良いのですわ」「……ドゥールナルに鍛えてもらっているから。そうすると、余計なことを考えず、よく眠れるのだ」「何をしているのです、早く頭を撫でるのですわ。下手糞だったら引っ掻いてやりますわよ。心して撫でると良いのですわ」「ぅっ、で、では……」
竜の頭を撫でるのは初めてなのだろう、いや、子供の頭を撫でたこともないのかもしれない。腫れ物に触るように、未知の体験に心を躍らせる少年のように、サーミスール王の心中は、色々と鬩ぎ合っているようだ。然ればこそ、青年の機微を、スナは満喫中のようである。これでまた、スナに貸しが出来てしまった。僕には成す術もなかったサーミスール王を、こうも容易く懐柔してしまうとは。スナは無敵で不敵です。
「子の扱いが問題ないようなら、次は王妃です。竜の国に正式に申し込みましょうぞ」
ややうんざりした口調で、でもスナを撫でる手は止めず、エクリナスさんが答える。
「またか、その件に関しては断ったぞ。私は未熟者故、今は王の務めを果たしたい。そも、逢ったことのない女性と、サーミスールはそこまで切迫しているわけでは……っ!
いいや、そうでもないな、ランル・リシェよ、私には妹がいる。周期は十八と二つ上だが、問題はなかろう。サーミスールと竜の国の友好の為にも、是非受けてくれ給え」
エクリナスさんの笑顔が、ぐぐぐっと深くなる。高過ぎて売れなかった品を強引に売りつけようとする商売人の顔だ。否やを言わせない為の用心棒だろうか、ドゥールナル卿が野太い笑みで脅しを掛けてくる。
「ーー王妹で、十八で嫁ぎ先が決まっていないのは、どのような理由からなのでしょう?」
「……受け容れてくれないのなら、最低でもあと三日、私の愚痴に付き合ってもらうことになるわけだが」
って、愚痴だという自覚があったんですか。何という卑怯で姑息な手を打ってくるのか。あの「降り積もる愚痴」を三日も聞き続けるなど、到底耐えられるものではない。
「ランル・リシェよ、心配はいらぬ。エルナース様は竜章鳳姿、一笑千金、沈魚落雁、明眸皓歯、羞花閉月のお方。貴卿も気に入ろう」「ドゥールナル卿……、それ全部、容姿に関する言葉です。そこに品行方正 文質彬彬を加えることは出来ますか?」「……わずかに、ほんのわずかにお転婆やもしれん」「…………」「似た者同士、という言葉があろう」
これはやばい。炎竜に削り氷を食べさせるくらい、やばい。いや、みーなら普通に食べそうな気がするが。って、現実から目を逸らしている場合ではない。二人の目が、本気以外の何物でもない。このままでは、なし崩し的に強制婚約させられてしまうかもしれない。こうなったら、最終手段を用いるしかない。氷竜に沸騰した竜茶を出す気分で尋ねる。
「スナ、母親とか欲しかったりするかな?」「エクリナスにドゥールナル。蓋し父親の義務とは、娘を可愛がることで、伴侶に現を抜かすことではないのですわ。氷竜の玩具を誑かそうとするなんて、サーミスールを氷漬けにして欲しいという催促をされていると理解するのが適当なのですわ?」「「「…………」」」
あー、何だろう。思惑通りだというのに、僕の背中まで冷や汗でひゃっこくなっているのは何故なのだろう。寝た竜を起こさず、という箴言があるが、竜の片親、も追加しておいたほうがいいだろうか。どんな意味かは、歴史の闇に葬られた、ということで。
「竜にも角にも、私は竜の国に行くぞ」「……はい?」「私はずっと働き詰めだった。今回のことで、サーミスールは落ち着こう。休みの口実には好都合だ」「えっと……」「歓待しろ。これは竜の国の侍従長の義務だ」「その……」「まさか、断るとでも」「いえ、サーミスール王のご来訪を心よりお待ち申し上げております」「ーーふんっ」
色々あったが、これで水に流してくれるということだろうか。いや、氷で固めておいてくれる、のほうが正しいだろうか。来訪の際には、サーミスールのお菓子を持参することを勧めておこう。みーに託けて、友好も、ということで。
ぽいっ、とされました。
「エルルが寂しがっているでしょうから、会いに行って来ますわ~」
「おおっ! ぐぇげっあだだだあだだあだだ~だっ……」
くっ、だったったったぐぅおおお~、……ふぅ。とまぁ、悲鳴と苦痛の声を上げたのがエーリアさんで、心中で留めておいたのが僕です。これも、慣れの差だろうか。翠緑宮手前で減速したスナがきりもみ。必死でしがみ付く僕たちを、頭の一振りで屋上に落として、一つ音と半分くらいだろうか、完全に姿を現している太陽の光を浴びながら、竜書庫の方角に飛び去っていったのだった。
「で、こんなところで何してるんですか、エンさん」「あ~、何してっか、てーか、そりゃこっちん台詞ってぇか」「ずいぶん歯切れが悪いですね。ああ、シャレンですか?」
エンさんが顔を顰める。困っている、というより、困惑している、という感じか。まぁ、似たようなものだが、僕の推測は正しかったようだ。
「……リシェ君。君は何故無傷なのだろうか?」「あはは、何度も経験しているので。それよりも、怪我はありませんかエーリアさん」「折れてはいないと思う。半分は、サーミスールのお土産、筋肉痛の所為だね」「そうですか、では治癒術士を呼んだほうがいいかもしれませんね。おーい、ミニレムやーい!」
ひょこっと一体、屋上に顔を出して、這い上がってくる。あ、ドゥールナル家の紋をあしらった、いかした外衣を纏う魔法人形、「六形騎」の一体である。と他のミニレムと区別する為、名付けてみたが、六形貴とか六戦騎のほうが良かっただろうか。
「近くにシャレンが居ると思うから、呼んできてください」「ちょっ、こぞー⁉」
わっしゃわっしゃと両手を振ると、ミニレムはひょいっと屋上から飛び下りていった。
「というわけで、先ずはシャレンのことから聞きましょうか。騒乱の翌日から、やはり症状は現れたんですか?」「まぁな。それん聞き付けやがったちび助ぁ、部屋まで這って来てな、おちびん治した? ってぇか、痛くねぇよんした? で、ちび助ゃ、腹んとこから真っ二つん折れてなぁ、布巻いて紐ん縛ってぐるんぐるんして部屋ぁ抛り込んで来た」「えっと、聞くのは怖いんですけど、中身は出なかったんですか?」「ああ、石みてーん硬かったから、幾つか破片散っただけだな」「シャレンは、もう快復しているんですか?」「ちび助ん来んまで少し時間あったかんな、疲弊して起きんのん三日掛かった」「それで、苦しむシャレンに付き添って、約束、もしたんでしょうね。約束の内容は、一緒に出掛ける、といったところでしょうか。で、約束を反故にしようと、はしていないでしょうが、どうしたらいいか迷って、屋上に逃げてきた、と」「……おいおい、こぞー、どーした? 調子いーときん、じじーみてぇんなってんぞ」「まぁ、僕も成長しているということで。あれだけ失敗して、何も変わっていないんじゃ、余りのことに一巡りくらい寝込んでしまいそうです」「……ぎろり」「あはは、声に出して言わなくても大丈夫です。ちゃんと僕も反省しました。隊長たちと協議して、都合を付けるようにしますから」
最初の仕事はエンさんの休日の調整だろうか。然ても、今は別のことを尋ねないと。
「エンさんに一つ確認です。コウさんと逢ったのは、幾つのときでしたか?」「ん? 気付いたんか」「はい。老師の容姿に惑わされました」「十、だったっけか。ああ、あんときゃ、ちび助ゃーお姉ぇーさんぶってたな。すぐん立場ぁ逆転したけどな」
然もありなん、知識があって魔法が使えても、寝床から出られず、老師との二人暮らしでは、人付き合いなどの経験値はまるで足りていなかっただろうから。
「……これが竜の国での日常なのかな。竜官として遣ってゆけるか心配になってきたよ」
うつ伏せから、自力で仰向けになったエーリアさんが、エンさんに目礼する。
「ん? 拾いもんか」「はい。あとで枢要を集めて報告、ということになるので、そのときに紹介します」「いつからやんだ」「高つ音を予定していますが、シャ……」「エン様!」
シャレンの難詰めいた声に振り返ってみると、背中に女の子をしがみ付かせたミニレムが屋上に上がってくるところだった。それに留まらず、わらわらわらわらと、序でにあと三つくらい、わらわらわららんわらんわらんと、ミニレムが屋上に這い出してくる様は、宛らギザマル大発生のようである。
「男気溢れるミニレムたちは、当事者を逃がしてはくれないようですよ」
百体を超えたミニレムがエンさんを取り囲んでいる。うわぁ~、まだまだ這い上がってくる。いつの間に、シャレンはミニレム使い、或いはミニレムの親玉になったのだろう。
「シャレン。見ての通り、エンさんは逃げられないから。もう『治癒』を使っても大丈夫なら、こちらのエーリアさんを治してもらえますか」
まったく眼中になかったらしいエーリアさんに気付いて、竜魔法団隊長(仮)であるところのシャレンは、ほどほどの胸を反らせて請け負ってくれる。
「あっ、はい。グロウ様に言われています。一日に一回か二回くらいなら大丈夫です。爆発も、十回に一回くらいになったので、問題ありませんっ」「ちょっ、ちょちょ、ちょっと待っていただきたいっ、爆発とは何のことかな⁉ かなっ! かなっ?」
コウさんより幾分大き目の胸の前で、ぐっと両手を握って自らの成長を誇るシャレンと、今すぐ竜の国から逃げ出さんとばかりに慌てふためくエーリアさん。まぁ、しばらくすれば、彼も慣れる、もとい馴染むだろう。
「高つ音からの予定でしたが、五つ音からに変更ーー」「七つ音からでお願いします!」「最初から飛ばすと、エンさんが壊れそうなので、六つ音で」「うぅ~、わかりました」
不承不承甘心してくれるシャレン。「竜饅事件」のときは、瞳に澱んだものが見えたけど、今は爛々と輝いて、紫晶の瞳には濁りも曇りも見当たらない。
「って、おいっ、決定か! 事項か? 事案か! 発生か⁉」「あー、はいはい、落ち着いてください、エンさん。今回、シャレンは頑張りました。だから生贄、ではなく、ご褒美があってもいいじゃないですか。女の子の細やかな願いを叶えて上げられないほど、この世界が無慈悲ではないことを、是非竜騎士団団長に証明してもらおうと、いえ、証明してください」「くっ、じじーん二人たぁ、くそー、こぞーもじじーんなっちめぇ~っ」
負け犬の遠吠えがミニレムと共に去ってゆく。
「ーーあ、老師を呼んできますので、もうしばらく待っていてください」
エンさんとのお出掛けを前に、負傷者を其方退けにしてしまったシャレンを叱るべきか悩むが、エーリアさんの言葉で、今回は許してあげることにする。
「大丈夫。爆発しないのなら、幾らでも待つから。ここで日向ぼっこしているよ」
……もしかしたら、爆発に嫌な思い出でもあるのかもしれない。シャレンが立ち去って、清々しいまでの笑顔だった。さて、六つ音までに確認や事後処理を行っておかなければならない。まだまだやることが多い。でも、すっきりと眠る為にも、出来る限り、今日中に済ませられるものは済ませてしまおう。
ぐっと気合いを入れて執務室にーーではなく、老師を探しに階段を下りていくのだった。
「お初にお目にかかります。サリストス・エーリアと申します。若輩者ではございますが、ご指導ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます」
過剰に過ぎず、非の打ち所のない挨拶。きっと、侍従長が連れてきた人物、ということで、不審がられないよう振る舞っているのだろう。好青年振りが功を奏して、皆の反応は悪くないようだ。円卓の用意された末席に座って、容儀を正す。ダニステイルの纏め役と同じく、補佐の席はない。エーリアさんのほうは、いずれ補佐の席は埋まるだろうが。
今回の顛末を聞きたいのか、殆どの枢要が顔を出している。ゆっくりと落ち着けたほうが良いだろうと思い、炎竜の間ではなく風竜の間に参集してもらった。
「エーリアさんには、なおざりにしていた事柄から当たってもらおうと思います。竜の国が落ち着いたら取り掛かろうと段取っていましたが、早いに越したことはありませんから」
「具体的には、どのようなことを?」
オルエルさんが皆を代表して尋ねてくる。こういう役回りは、筆頭竜官のオルエルさんか、長老方の代表という立場のバーナスさんと定まってきたようだ。僕としては、斯かる会議で、侍従長が宰相どころか王様の役割を兼ねるような立場は御免被りたいのだが。
「今回、使者を立てることが敵いませんでした。そういった儀礼や国としてあるべき人員の育成、つまり、国としてきちんと体裁を整えるということですね。他に、例えば、勲章。種類は他国を真似てもいいですが、意匠は竜の国仕様にしないと。あと重要なのは、外交や法、条約など、重要な公文書、議事録の保管。今はまだ使っていませんが、地竜の間にも必要ですね。エーリアさんには、先ず洗い出しからやってもらう必要があるようです」
一旦話を切って、内容が皆に浸透するのを待つ。その間に、物静かな王様をちらと見る。
コウさんは、顔色が悪い、というよりは、精彩を欠いている、というところか。老師によると、見た目や運動機能に問題はないが、魔力体のほうは乱れたままなので、魔法の使用は厳禁だそうだ。風竜の間に歩いて遣って来たし、三角帽子を落としたときは手で拾っていた。通常ならそれが当たり前のことなのだが、何だか新鮮な感じがした。
「では、僕からの報告を。キトゥルナ、クラバリッタ、サーミスールと、同盟国を順繰りに、挨拶と、それから誤解や行き違いを解消してきました。和平なり交流なりは、次回訪れる方にお願いします。というわけで、キトゥルナにはエンさんが行ってください。
『厄介者』がエンさんの薫陶を受けて、『心得者』に変わったようです。元々資質はあったようですので、民は安堵し、キトゥルナ王も大層喜んでおられました。キトゥルナに行けば、たぶん一番良い勲章が貰えるんじゃないですかね」
「うぅわ、行きたくねぇー」
「ああ、シャレンを同行してもいいですよ。竜の国は、魔法使いの国と思われていますし、そうですね、シャレンを正式に竜魔法団隊長に任じましょう」
エンさんのそれは半舷、自業自得というものだろう。それとなくクーさんの表情を窺ってみるが、特に変化はない。下世話なことなので、これ以上は踏み込まないほうがいいだろう。まぁ、兄さんから手紙が来たら、返信に見たままを報告しておくとするかな。
「サーミスールには、クーさんですね」「『風吹』部隊の指揮を執っていた。已むを得ない」「いえ、自覚がないのかもしれませんが、クーさんは戦っているとき、……えっと、良い部分が目立っています。今回、奇跡的に転びませんでしたし、サーミスールの兵から『戦乙女』と呼ばれて、崇められていました」「っ、お……乙女⁉」「他にもありますよ。剣の姫とか舞姫とか、あと竜の乙女とか」「ひっ、行かないっ、行かないからな!」
近衛隊の補佐の後ろに隠れて、駄々っ子のように完全拒否のクーさん。二人の説得は、いや、三人か五人になるかわからないが、それらは日を改めてするということで、最後に。
「クラバリッタは、カレンをご指名です。これは説明は要りませんね。あと、フラン姉妹も同行してください」
予想していたのだろう、カレンは嫌な顔こそしなかったが、苦虫を三匹くらい噛み潰したあと、悟られないよう必死に我慢している表情だった。そんなカレンにくっ付いた双子は、彼女の護衛兼親友(?)を買って出るが、先方からの希望は、姉妹も含めてである。
「あたしたちはカレン様の護衛! 言われなくても即同行!」「仲良し姦し全開で、男なんて即退散! とギッタが言ってます」「いえ、クラバリッタはフラン姉妹もご指名です。あっかんりゅう、とか、お尻ぺんぺん、とか……好評だったようですよ」「…………」「……。とギッタが言ってません」「変に畏まらず、向こうでも自然に振る舞ってくださいね」
二人一緒に、あっかんりゅう、をしてきた。僕の琴線には触れないが、これを可愛らしく感じる人がいるだろうことは、何となくだがわかる。ぐるりと見回してみれば、何人かが顔を逸らしたのがその証左だろう。と、視界の端で、ちょこんっ、と顔が現れる。扉が少しだけ開いて、炎髪がふよふよ振られて、角のリボンもふりふりして、炎眼はきょろきょろと誰かを捜している。僕の視線に気付いて、皆が振り向いたとき、
「はーう、いたのだー、こーこーこー」
若草色の外套を翻して、駆け出してくる。閉じた目には涙が溢れて、一生懸命に……って、目を閉じながら走ってくる⁉ と注意する間もなく、炎竜は大跳躍。
そして、喜びと驚きと焦燥を綯い交ぜにした表情で抱き留めようとするコウさんの目前で、クーさんが後ろから炎竜を確保。
「たーう、みーちゃんっ、はぁふぁっ」「こーら、みー。コウは今、魔法の使用不可。そのままの勢いで突撃突貫したら怪我させてしまう」「やうやうやうやうやうっ、こーこーこー」「こらこら、暴れないーー、……ていっ」「みゃーう、くすぐったいのだー、ぺろぺろりんってたべられちゃうのだー」「くふっ、ふやふや~、もうもう~、でへでへっ」
いや、最後のは駄目だろう。久し振りに、クーさんが駄目な方向に壊れている。炎髪に顔を突っ込んでぐりぐりしたら、って、駄目ですよ、そんなところに手を、あ、何擦り付けているんですかっ。あ~、もう、最近宰相もご無沙汰のようだから、もう少し炎竜成分を補給させてあげたいところだが、お預けを喰らっている王様が可哀想なので、そろそろ答え合わせといくかな。
「ほら、クーさん。フィア様が、待て、のし過ぎで涎を垂らしてしまいそうなので、そろそろ百竜を放して上げてください」「よ、涎なんか垂らさないので……す?」「むひむひ~、ん、……百竜?」「そーなんか? おっ、ほんとーだ、りゅーじゃねぇか」
半信半疑だった人々は、エンさんの見立てに納得したものの、当惑しているようだ。
「くははっ、エンの鼻さえ誤魔化したが、絆の深さ故か、主を騙すには至らなかったか。主の愛情の深きこと、我の魂が打ち震えておる」「えっと、盛り上がっているところ悪いんだけど、愛情云々ではなくて」「言わずもがな。少しは浸っても良かろうに。して、斯様に……」「ランル・リシェ! 如何様にして見破ったのか、答えなさいっ!」
カレンが嘴を突っ込んでくる。らしくもなく、いや、そうでもないか、僕の不誠実さを追及したいのか、……ん? まさか答えが早く知りたい、とかじゃないよね。
カレンは竜に好かれ易い性質でも持ち合わせているのだろうか、百竜が企んだ顔でちょっかいを出そうとしていたので、面倒なことにならない内に、彼女の要望に応える。
「先ず、一つ目が、時機です。風竜の間に入ってくる時機が、意図的、と判断できるものでした」「そうさな。事実、扉の外で入る時機を竜耳で窺っておった」「二つ目が、扉の外側に誰も居なかったことです。みー様は、フィア様が風竜の間に居ることを知らないはずなので誰かに尋ねたことでしょう。糅てて加えて、みー様は病み上がりです、心配して誰かが一緒に付いてきたとしても不思議ではありません」
僕は右の掌を差し出すように前に出して、そこに二つの事象の心象を載せて、上下に軽く振ってみせる。
「どちらか片方であれば、気に留めなかったかもしれない。ですが、二つ重なれば、重みを増し、事実の匂いを醸し、偽りの欠片を零していきます。あとは全体像に嵌め込めば、大まかな判断に至る、というわけです」
すうっ、と重みが増した掌を下げて見せると、何故だろうか、室内が静まり返ってしまった。なので、とんっ、とクーさんの手から逃れて床に下りた百竜の着地の音がはっきりと聞こえた。百竜は「飛翔」で移動して、コウさんの膝の上に向かい合って座った。
「我が友よ。みーだと、先の我のように行動したであろうからな、気を利かせて体を持ってきてやった。感謝するが良い」「ひーちゃん、ありがとうなの」「む……?」
百竜は、みーに体の主導権を譲ろうとしたのだろうが、遅かった。
コウさんは、百竜をやわらかに抱き締めて、みーにいつもするように、頭を、背中を撫でてあげる。驚いた百竜だが、為すがままに友の手を、優しさを受け取る。やがて、百竜の瞼が閉じられて。半瞬後、ぱちっ、とくりくりの炎眼が開いて、コウさんを映したと同時に、もう二度と離すもんかと、ぎゅぎゅぎゅぎゅぎゅ~~っと体全体でしがみ付いた。
「こーこーこー、なんかよくわからないけど、もーよくわかったのだー、こーがいるのだー、みーちゃんはみーちゃんでこーはこーなのだー、こーこーこー」
「みーちゃん、大丈夫ですよ~。私はここに居て、みーちゃんもみーちゃんですよ~」
目の端に涙が溜まっているみーを、コウさんはあやすように抱き締める。みーは匂いで、感触で、心で魂で、すべてでコウさんを、世界で一番の居場所を感じているようだった。
みーはエルタスに操られた。それは、どれだけの恐怖だったのだろう。他者に体を操られるなど、考えただけでも怖気立つ。操られていた間の記憶はあるのだろうか。
自我が失われるかもしれない。それは、死と同義の恐怖を齎すだろう。もう二度と、コウさんと会えないかもしれないと、心を蝕んだかもしれない。百竜は、エルタスを許したようだがーー、あ、そうだ、エルタスは……、と、そうだった、竜の休憩所で管理人をやっているのだった。ぐっ、みーの恐怖を竜倍返しにするのは後に取っておくことにしよう。
室内の空気が柔らかくなった。コウさんとみーが居るだけで、部屋の匂いや明るさまで変わったかのような心地良さ。長老方や年配の方の中には涙する者もいる。号泣している遊牧民の皆さんのことは見なかったことにする。
「さて、では本題です。残りの問題、と言ったほうが正しいでしょうか。敵、についてです。呪術師を唆した、支援していたのは、主に城街地に関係して食い物にしていた連中で、同盟国からの離反や転覆を狙っていました。竜の国が係わることで、城街地を利用できず、移住時を狙って混乱を撒き散らそうとするもエンさんに阻まれ、呪術師を使って竜の国に報復というか嫌がらせ、出来るなら利用しようと企んでいたようですが、竜の国で問題が起こっている頃には、同盟国によって彼らは一網打尽になっていたようです」
ミニレムの大手柄について語りたいところだが、不法入国と相殺する形で不問になっているので、陰の英雄たちとして竜の国と同盟国の一部で語り継がれることになるだろう。
皆色々と思うところはあるだろうが、すでに終わった事柄として消化しようとしているようだ。捕らえられた者の中には城街地出身の者もいるが、それは皆もわかっているだろう。わざわざ、掘り返して波風を立てることはない。
「こちらのほうは、皆さんの予想通り、と言ったところでしょうか。蓋然性のあったものが、同盟国と、それと竜の国で蠢動していた」
ここで話が終わったのなら、楽だったのだが、まだ先がある。
「そして、もう一つの敵についてです。呪術師に疫病を発症させ、竜の国で蔓延させようとした大悪人。これは、先の敵とは別口であることが判明いたしました」
風竜の間が静まり返る。義憤や猜疑を孕んだ沈黙が場を重くする前に、言葉を継ぐ。
「みー様が大広場に遣って来たとき、フィア様は後手に回っていました。すでに起こりつつある事態への対処なのですから、それも已む無き、と思っていましたが、それでも疑念は払拭されませんでした。そう、もしかしたら、敵、はフィア様と同等の力を持っているのではないか、と。ですが、それは現実的ではないような気がしました。そこで別の可能性を模索したところ、情報に精通した者、フィア様の周辺に居る者なら……」
「やっぱりか! 怪しいって思ってたんだ! 敵は侍従長だ!」
サーイがびしっと指を突き付けて、僕を糾弾する。ちょっと待った、何で周囲の人々は、なるほど、とか、そうだったのか、とか、やっぱり、とか同調しているんですか。
「千回抓られたくなかったら、黙っていてください」「や、その、でもな……」
僕がまだ笑っている内に静かにしたほうが身の為ですよ、と笑みを深くしてあげると、サーイは及び腰になって、言葉を濁した。南の竜道での適切な対応などで見直したところだったのに、内心での呼び捨てはまだまだ続きそうだ。
「キトゥルナからクラバリッタへ向かう際、嵐だったので迂回しました。始めは迂回のつもりでしたが、疫病のことが気に掛かったので、現地に赴いてみました。その結果、残念なことがわかりました。まさか……、まさかあなたが犯人だったなんて、騙されましたよ老師。何故、このような謀りをしてまで……、何が目的だったんですか!」
サーイに倣って、びしっと指を突き付けて、老師を糾弾する。
「くっくっくっ、ばれてしまっては仕方がないね。そう、これは、竜の国乗っ取り計画の一環だったのだよ! くっくっ、あーはっはっはっはっはっ」
老師が哄笑すると、皆が意外そうな、そんな馬鹿な、とか、有り得ん、とか口々に老師を擁護する言葉の数々。……僕との反応の差に、涙が出そうです。いつの間に、こんなにも信頼を勝ち得ていたんですか。これが周期の功というやつなのだろうか。
「じじー、とーとー頭いかれたか」「師匠。弟子に迷惑を掛けるのは止めてください」
エンさんとクーさんは、呆れ顔で師匠を窘める。コウさんは気不味そうな顔で、何かを誤魔化すように、みーをぎゅっと抱き締める。
「あはは、そう言ってやらないでください。老師は僕に弱みを握られて、逆らえない状況にあるんですから、ーーしばらくは」
スースィア様の一件は、弟子には、特にカレンには話して欲しくないようだったので。寸劇に付き合ってくれたら聞かなかったことにする、ということで合意。
足を延ばして、というか、翼を広げて、スナと一緒に周辺五国の該当の場所で調査、及び当該地の古竜に聞き取りを行った。スナに頼んで渡りを付けてもらったのだが、にべもなく断られてしまった。癇癪を起こしたスナを宥めながら、竜の国グリングロウ国から来た、と告げると、前言を翻して面会を許可してくれたのだ。そこで彼の竜は、老師と面識があることを教えてくれた。そのことを老師に尋ねると、そうか、とだけ彼は答えて。陽に当たった古い書物のような横顔に、言葉を継ぐことが出来なくなってしまった。
老師で一段落したので、皆の心の準備も出来ただろうか。いや、逆に安堵してしまった感があるが、さて、竜の角の天辺に触れるとしよう。
「フィア様に勝てるのは、フィア様だけ。以前、僕はそんなことを考えました。周辺の人間で一番怪しいと思えた老師は、犯人ではありませんでした。そうなると、残ったのは、一人だけです。皆さん、思い出してください。竜の民が体調を崩したとき、その原因を、疫病であると断言したのは誰だったでしょうか」
僕の問いに、一人、また一人と、嘘吐きな女の子に、顔が向けられてゆく。
「調べるまでもなかったのですが、変に駄々を捏ねられても面倒なので、言い逃れが出来ないくらいには裏を取ってきました。それと、これは皆さんが知らないことですが。対策の施されていない、竜の強過ぎる魔力は毒になる、と僕は以前フィア様から教示していただきました。仔竜であるみー様は、日常での属性の発露など、抑制が苦手ですので、フィア様が魔法で庇護、補助を施していました。
ですが、ここで予想外のことが起きました。みー様が呪術師に操られて、巨大化してしまったのです。呪術師は、竜の魔力が毒になることがあるという事実を知らず、盛大に竜の都に振り撒きました。フィア様は、何とか抑えようとしましたが、みー様の力を限界まで酷使した呪術師の前に手を拱いてしまいます。みー様を傷付けまいとして、手加減しなくてはならなかったのも一因ですが。そして、ここからが重要です。
王様は、嘘を吐きました。何故嘘を吐いたのかは、もう説明の必要はありませんね。あとは皆さんが決めてください。嘘吐きな王様をどうするのかをーー」
引き延ばしても憶測を紛れ込ませるだけなので、最後まで一息に語ってしまう。
コウさんの不審な態度と、疫病の有無で、大凡の筋書きは見えたのだが。始めは、みーの魔力が、人々を苦しめることになった原因であることを、隠蔽か糊塗すべきかで迷った。だが、このような問題は先延ばしにしたところで、いつか出てくるのだ。
竜の民を信じることにしたーーと言っても、ちょ~と、まだ早いんじゃないかな、と僕の心が妥協に傾いて、折衷案みたいなことになったのだけど。
「どうする、と聞かれても……、どうするのだ?」「みー様の為を想われて嘘を吐いたのだし、問題はないのではないか」「毒だとしても、原因は呪術師で、フィア様は全員を『治癒』なさった」「竜にも角にも、みー様は悪くない」「結局、侍従長が悪いということか」
概ね、こういう論調になるだろうことはわかっていた。誰も王様と炎竜の瑕疵を責める者はいない。いや、最後、誰が言ったのかわからなかったが、皆が賛同していることまでは、予想していなかった。って、そこのカレン、あ、エンさんも、こらっ老師、何でしたり顔で頷いているんですか。エーリアさん、先達なら笑ってないで助けてください。然ても、コウさんは、と見てみると、どうやらこちらはこちらで、それどころではないようだ。
コウさんの両手が持ち上がって、若しや謎舞踊に突入か、と思ったが。
むずむずっとした顔で、怖ず怖ずと、みーの心の内を表すように手がふわふわと漂って、でも大切な人を離したくないから、むぎゅっとコウさんの服を掴んで、魔法使いと仔竜は絆を結わえる。でも、離したくない、大切だから、大好きだからこそ、みーは勇気を振り絞って、炎眼に真炎の輝きを宿して、必死に訴える。
「あーう、こー、わるいことしたら、みーちゃんわけわからんちんで、こーもないてたのだー。うそついたらだめだって、こーにおしえてもらったんだぞー。よくわからないけど、よくわかったのだー。みーちゃんみんなにめーわくしちゃったら、ごめんなさい、こんどはちゃんとするのだーっ!」「ふぇぐっ⁉」
がばっ、とみーが椅子の上で立ち上がると、みーを抱えて同時に立ち上がろうとしていたコウさんの顎に、みーの竜頭が、ごんっ、と直撃する。然のみやは不屈の闘志、というか、みーにこれ以上情けない姿を見せられまいとする教育係と保護者の矜持からか、ぶみゅっ、という竜の尻尾で弾き飛ばされたギザマルのような声を漏らしながら踏み止まる。
「みーちゃんっ!」「おーう、なのだー!」「皆さん!」「みなみなー!」
行儀が悪いが、この際は仕方がない。でも、竜の国らしいといえば、竜の国らしい。
二人は椅子から卓に飛び移って、仲良く二人並んで、
「ごめんなさい! なのですっ‼」「ごめんなさい! なのだーっ‼」
同時に、深々と頭を下げた。
そして、……下げ過ぎたみーが、そのまま前のめりに床に落っこちる。
「ふぁ⁉ みーちゃんっ‼」「ぐおおぉ、みー様ぁーー‼」
魔法厳禁のコウさんと、補佐席に座っていたデアさんでは到底間に合うはずもなく。
ごちんっ、と痛そうな音がする。……というか、みーは「飛翔」が使えるので、落下を免れることが出来るはずなのだが。う~ん、まだ突発的だったり偶発的だったりすると魔法が間に合わないのかな。竜も卓から落ちる、とか言いたいところだが、「人化」の状態での過誤なので竜の失態は見なかったことにしよう。
「ぎゃーう、みーちゃんつよいこりゅーのこなのだー。あーう、こー、そーなのだー。みんなにも、ごめんなさい、するのだー、ふぁひゅ?」「みーちゃんは、良い竜ですよ~。撫で撫でしちゃうのです~。ーー今すぐ『遠観』を……、師匠っ、繋げてなの!」
盛り上がる二人の炎に、水を、いや、ここは氷と言っておこうか、冷気を吹き掛けて、中火くらいになってもらう必要がある。さて、ここで僕が考えておいた折衷案なのだが。
必ずしも、すべてを明かす必要はない。ミースガルタンシェアリが世界に還ったことを秘密にしているように、取捨は必要なのだ。竜の毒のことを知った竜の民の反応、そして、そのことを知って悪用する者が出るかもしれない。それらのことを勘案すると、対応は自ずと定まってくるが、正しいと言える選択ではないので、心苦しい。だが、その苦しさを忘れず、責任を背負う覚悟を持たねばならない。
老師も僕と同じ結論に至ったのか、コウさんの要請に応えず、欠伸を噛み殺している。
「今回のことですが、謝罪は病を得た、呪術師以外の三人と、その家族にしておきましょう。フィア様、みー様、早いほうが良いでしょう。これから向かっていただけますか?」
僕は、用意しておいた地図をコウさんに渡す。地図には、対象の三人が住んでいる場所と、詳細な情報が端に記載されている。
「さーう、いっくのだー! いますぐはやくまっすぐにーなのだー!」「ちょ、ちょっと待ってなの、みーちゃんっ、リシェさんに……」「はーい、行ってらっしゃいませ~」
みーに引っ張られて、扉の外に消えていくコウさん。何か言いたいことがあったようだが、まだすべての必要な欠片は揃っていないので、コウさんが戻ってきてからである。
「クーさん。みー様がいるから大丈夫だとは思いますが、護衛をお願いできます……か?」
頼もうとクーさんの席を見たら、蛻の殻。すでに彼女は扉の前に居て、何だ? という風に振り返ったので、何でもありません、と頭を下げておいた。
「さて、あとは細々としたことを。それと、何かしら報告がある方はお願いします。風竜の間では不適当だという方は、今日はまだやることがあるので、明日以降に執務室まで来てください。ああ、あと、エンさん。面倒だから早く終われ~、てことでしたら、サーイさんを連れて先に仕事に戻っていてもいいですよ」
他人を陥れようとした人間には、罰が下って当然である。それと、エンさんはシャレンとのお出掛けで、気苦労とか心労とかが溜まり溜まっているかもしれないので、存分に暴れて、発散しておいてください。
「だとよ。体鈍ってんだろーから、ちょいと鍛えてやんよ。心配すんな、動けなくなん程度しかやんねーから」
その場で飛びあがると、曲芸師のようにくるくる回転しながら円卓の真ん中に、そしてサーイの後方へ。二歩で辿り着くと、襟首を掴んで無理やり引き摺ってゆく。
「ぎゃーっ、この邪悪竜侍従長めっ、おぼえてやがれ……」「僕が相手をしてあげてもいいですよ。でも、僕はエンさんと違って、優しくは出来ないと思いますけど」「…………」「逝ってらっしゃい」
残念。僕を選んでおけば、サーイは魔力を纏えないので、仕返しが出来ただろうに。
「えっと、シア様、王様代理をお願いします」
頼んでみると、なぜか素直に従ってくれる王弟。王様の温もりが残っている椅子にーーは座り難かったのか、その場で卓に両手を突いて、深刻な表情で僕の行状をあげつらう。
「それでは侍従長に伺います。スリシナ街道、『氷雪の理』、『拷問事件』について、詳細をお願いします」「ちょっ、『拷問事件』って、初耳なんですけど! というか、何でもう知ってるんですか⁉」「サーミスール王のエクリナス様が親切に連絡してくださいました」「…………」「竜の国に悪影響があるかもしれないので、全部吐いてもらいます」
そうして皆さま活き活きと、尋問という名の、吊し上げが始まったのだった。