七章 侍従長と魔法使い 前半
七章 侍従長と魔法使い
「千竜賛歌」にするかな。塒に帰った竜たちに、心を預けたままではいられない。
逸早く現実に、いやさ、日常に回帰した僕は、さっそく諸国に対する言い訳を考えていた。日常と非日常の境目とは何処なのか。コウさんの罅割れた土塊のような肢体に、不謹慎にも思ってしまった。支えを失ったように、在るべきものを失ってしまったかのように、倒れてくる少女を受け止めようとして、クーさんに割り込まれる。僕の視界に入るように移動してきてくれたので、接触を回避することが出来た。
「コウは弱っている。リシェが触れると、何かしら問題が発生するかもしれない」
最愛の妹を優しく抱き留めて、楽な姿勢にしてあげながら説明してくれる。
自分の特性に傷心する暇などなく、焼け爛れるような痛みが胸を衝く。目を逸らしてはならない。艶やかな髪が、萎れるように色を失って、泥で汚れたような混濁した白色になって。見えていないのかもしれない。髪の色と同じ様な白の瞳が、薄っすらと明いた瞼から覗いている。土気色、などという言葉では足りない。もはや人の肌とは思えない、出来の悪い人形のようで、生気の溢れていた面影はなく、顔には二本の痛々しい裂け目ができて、余りに細々とした呼吸が、辛うじて生きていることを知らせてくれるが、こんな姿になっても生きていることに人々がどうのような……、と思い至って仰ぎ見る。
「窓」の数が減っていた。コウさんが魔法を維持しているとは思えないので、老師が引き継いでいるのだろうか。その老師は、弟子であり娘でもある少女を触診すると、彼女の濁った瞳を凝視した。それに応じたのか、コウさんが微かに頷く。
「ぁああ、シャレン……、シャレン!」
静寂を破って、少女の母親が駆け寄る。穏やかな呼吸に戻っていたシャレンが目を開くと、雨粒のような涙を零しながら、張り裂けんばかりの喜びに顔を歪ませて、娘をひしと掻き抱く。当のシャレンは自身が置かれた状況を理解できていないのか、目を丸くしていた。母親の歓喜の声を契機に、男性と老婆の許にも人々が集まって喜びを分かち合う。
「あ……、母様、母様っ!」
コウさんの現状、正しくは惨状、を目にしたシャレンが、母親の腕の中から抜け出して。一刻も早くと、這い寄るように近付いて、王様の横で、かくんっ、と体から力が抜けて座り込んでしまう。
四人分の病を自らに「転移」させて、その結果として齎された現実に直面して、その一端を担ってしまった少女と、そのような行いを完遂させてーー完遂できてしまった少女と。
「し…匠……、どう…なの……?」
声が嗄れて、いや、枯れて、錆び付いて。そう言いたくなるくらいの……。優しい風、と譬えたこともあるコウさんの、耳に心地良い響きが、掠れて濁って不明瞭で。薄く開いただけの口から漏れ出る。
「問題ないよ。魔法は成功した。彼らの澱は、すべて取り払われた」
シャレンを触診、というか魔力診断(?)したらしい老師が成功を請け合う。
「でもっ、でもっ! 王様が、フィア様がっ!」
「……だ…丈夫…なのです。私…は、このくらい……へ…ちゃら、なのです…。すぐ…に、治るの、です。シ…レンさん……や、皆さん…が無事…で、良かったの、です……」
きっと微笑んだのだろう。引き攣ったようにしか見えなくとも、確かに伝わった。シャレンが堪らず、コウさんの手を取ると、罅割れた肌の欠片が、ぽろぽろと地面に落ちた。
優しく。優しく、握り締める。伝え切れないものを、少しでも、精一杯、知って欲しくて、受け取って欲しくて。人から外れた少女の無残な様に、目を背け、本能的に身を引いた大人たちを余所に、身動ぎ一つせず、何一つ取りこぼさないようにと。
「こんな、私に……、触れてくれて……ありが…とうなのです。私なんか…を心配してくれて、……ありがとう…なのです。私と、一緒にいてくれて……ありがとうなのです」
閊えが解消されてきたのとは逆に、意識は朦朧としてきたようだ。コウさんは、自分が何を言っているのかわかっていないのかもしれない。
「師匠、クー姉、エン兄……、あとは…お願いなの。魔法球を『転送』するの……」
コウさんの瞼が閉じられると、ことん、と彼女の外套の隙間から何かが零れ落ちた。見ると、それは拳大の透明な球だった。コウさんが言及した魔法球なのだろう。
こと、ことっ、ことん、ことことんっ。って、幾つ出てくるのか、まるでギザマル大繁殖のようだ。もはや、かちゃ、とか、がちゃっ、とか押し合い圧し合いしながら漸増して、外套から湧き出てきている。
「お前ぇら、踏んだら危ねーから、動くんじゃねぇぞ!」
エンさんの注意喚起に、一応の落ち着きを取り戻す竜の民。と、すっかり意識から除外してしまっていたが、百竜は「半竜化」を解いたのか、「人化」の状態に戻って、コウさんが産んだ、もとい「転送」させた魔法球の乱痴気振りを楽しげに眺めていた。
ぱりんっ、と実に小気味良い音がした。音はすぐ近く、然う、僕の足下から響いたのだが。どうやら、僕に触れた魔法球が、僕の特性によって破壊されたようだ。こんなことになると思っていなかったのか、コウさんは僕の特性への対処はしていなかったらしい。
竜に百回罵倒されて、一巡りくらい悪夢を見るといいのです(訳、ランル・リシェ)、とどんよりとしたコウさんの白い目が語っていた。ぱりんっ。いや、最後の力を振り絞って。ぱりぱりんっ。わざわざそんなことを僕に伝えるなん。ぱっぱぱんりりんっ。て無駄なことをす。ぱりばぎぃぎゃらりんこっ……。……やっとこ音が途絶える。
「「「「「…………」」」」」
竜の民の皆さんが、盛大に魔法球を破壊していた僕を白い目で見ています。いや、これは僕の所為ではないんですよ、と言ってみたところで聞き入れてもらえないのは明白なのだが。老師が「結界」を張ってくれたみたいで、今は僕の足元に魔法球は近寄ってこない。
「よっと、そりゃっ、ん~、風だな」
エンさんの言う通り、風だった。彼は魔法球を拾って、魔力を込めて、上空に向かって魔法を発動。球からは、強い風が吹き出したのだった。ーーそう、それだけ。あー、ん~、それだけ? ときどき遣らかしてくれる王様だけど、まさかこんなときにまで遣っちゃったんだろうか。まぁ、竜にも角にも「風吹」とでも名付けておこうか。
離れていてはわからないくらいの、微かな寝息を立てている。コウさんが眠りに就くと、魔法球の「転送」も終了したようで。その数は、優に千を超えているだろう。
「クー。コウを翠緑宮に運んでやりなさい」「はい。行くよ、コウ」
クーさんが抱え上げようとして、シャレンがコウさんの腕を抱え易いように整える。少女に微笑みかけてから、魔力を纏ったのだろう、近くの建物の壁まで跳ぶと、そのまま壁を駆け上がってゆく。大広場周辺には人集りが出来ている。建物の屋根伝いに走っていったほうが早いのだろう。
「御参集の皆さま。現在、翠緑王の魔法を引き継いでいますが、私の魔力容量が少ない為、『窓』の数が減じております。『窓』に来られない方、聞き逃した方には伝達をお願い致します。……魔法団団長で、氷焔の師匠でもある私が、翠緑王に代わり、報告致します」
老師が『窓』に向かって呼び掛ける。意図して名乗らなかったようだが、まぁ、老師の周期にそぐわない若々しい容姿に触れられるのも厄介なので、それは良しとしよう。然ても、報告とやらの内容である。魔法球といい、突然の報告といい、いったい何が進行しているのか。これだけの魔法球を必要とする事態、というだけで嫌な予感しかしないが。
「翠緑王は、係る事態に際し、竜の国に『結界』を張り、侍従長を伴い、交渉の場を設ける予定でした。然し、翠緑王の快復まで猶予することは罷り成らぬ情勢下にあります」
老師はゆっくりとした明瞭な発音で、竜の民に語り掛けてゆく。それから一呼吸空けると、必要なもの以外を削り落とした言葉で、事実を淡々と語るのだった。
「我が国の東、ストリチナ同盟国。南のサーミスール、中央のクラバリッタ、北のキトゥルナ。各国、千三百程度、三国併せ、四千弱の兵力が南の竜道方面へ行軍中。明日、二つつ音にも布陣が完竜。よって我々は、翠緑王抜きで、これに対処する必要があります」
火が点くな、と思って、身慄いした。竜の国の八割以上は、城街地出身である。彼らが嘗て住まわっていた三国が、為政者の失政と貴族等の我欲で運命を打擲されて、終にはその地さえ追われることとなった、その由ある国々が。刻まれた理不尽と諦観と絶望とーー、何もかもが転化される。竜の国の生活で、忘れられただろうか、取り戻すことが出来ただろうか、こんな短期間では閲する周期の癒やしを享受すること能うはずがない。
ーー火は、より大きな火で誤魔化してしまえばいい。そんな薄汚れた炎を滾らせるというのなら、みーのように僕が喰らってやろう。僕は知っている、本物の炎竜の火炎を、あの衝動を。それに比べたら、人の情念の炎に焼かれることなど、何するものぞ。
「翠緑王の意を解せぬ者は、この一件に係わることを許さない! ここは何処だ! あなたたちは何者だ! ここは竜の国、グリングロウ国であり、ここに居るのは竜の民だ!」
体の内にある熱いものを、言葉とともに吐き出す。
何だか心地良い。胸に痞えていたものを燃や(ほうげん)して、すっきりした所為なのかもしれない。ここまで言ってしまったのだから、序でに煽ってしまおう(もっともえてしまえ)。
「それとも、翠緑王の言葉を、都合良く、もう忘却の彼方に捨て去ってしまったのですか? 王は竜の民を助ける、その代わりに、弱い自分を助けて欲しい。
翠緑王は、自分の意思で決して、望んで竜の国に遣って来ることを求めた。くははっ、王様のことをまったく理解っていないあなたたちには、何も期待しません。これから僕一人で同盟国を撃退してくるので、皆さん、どうぞ不貞寝して吉報をお待ちください」
人を小馬鹿にするような軽薄な一礼をする。お負けで、「窓」を見上げて、薄笑いを浮かべてあげると、城街地出身者だけでなく、殆どの竜の民が爆発暴発自爆した。
「がーっ、大人しく聞いてりゃ、好き放題言いやがって!」「あんたみたいな人でなしに言われなくったって、わかってるに決まってるでしょ!」「あれは邪竜じゃ! みー様にも百竜様にも近付けちゃなんね!」「おとーさん! あのわるものやっつけて!」「おうっ! あとで父さんが打ん殴……説教してやる!」「生贄だ! 侍従長を同盟国に引き渡しちまえ!」「滅! 侍従長、滅!」「「「「「!」」」」」「「「「「⁉」」」」」「「「「「っ」」」」」
誹謗中傷罵詈雑言按図索駿阿諛追従横行闊歩眼中無人気随気儘傲岸不遜阿鼻叫喚なんでもござれそうござれ、と変なものも交じってしまったが、万を超える人々の面罵は、もはやただの騒音か、雑音でしかない。つまり、理解不能、判別不能ーーならば無いも同じ。
まぁ、あれだ、成功は、した。同盟国に向かうはずだった荒ぶる感情を、僕に振り替えることで、理性とか平常心とか、そういうものを竜の民が取り戻してくれれば、過去最高潮に嫌われることになってしまった僕の心の問題以外は、……はぁ。なんだろうなぁ、もう笑うしかない状況だと、思考まで無気力に侵食されてしまうものらしいーー、……。
「……、ーーはふぅ」
みーが一竜、みーが二竜、みーが三竜、……あぁ、たくさんのみーがわらわらと……っ!
ここは天の国か⁉ ぐぁっ、ちょっと待て、正気を保て、僕! 夢の国に旅立っている場合ではない。だいたいスナがいないんじゃ片手落ちじゃないか! って、ちっがーう、いや、違わないけど、違う! あ、いやいや、百竜のことを忘れたわけじゃないからね。
「えっと、百竜様」「我と主の仲ではないか、様、などいらぬ」「……じゃあ、百竜。皆さんを取り鎮めてくれるとありがたいんだけど」「然して、主も酔狂よな、嫌いではないがな」「あとでお菓子を上げる、とかでいいのかな?」「菓子はみーに呉れてやるがよい。我は別のものを所望する」「……何をでしょうか」「くははっ、然ば、主が決めればよい」
遊ばれている、とわかっていても、どうしてか気後れしてしまう。スナのように深甚なようで、みーのように稚気を感じさせる百竜に、胸の奥がぞわぞわしてしまう。
そんな僕の戸惑いを知ってか知らずか、先程も向けられた、優し過ぎる笑顔で僕の心を焦がすと、老師を一瞥して、「窓」を見上げる。「窓」に百竜が映し出されたことを知った竜の民が、百竜の気配に、威厳に、波が引くように喧騒が遠ざかってゆく。
「我が友に添うてくれる好き者共よ。我もそなたらを好ましく思うておる。ふむ、だが事態は逼迫しておるようでな、早々に行動にて示さねばならん。我の全権は侍従長に委ねる故、そなたらも少しは主の言葉に耳を傾けてやるがよい」
言葉の終わりに、みーを彷彿とさせる、にんまり笑顔で竜の民に贈り物。
「百竜様っ!」「きゃー!」「なんと麗しい」「竜の国の守護竜様じゃ!」「炎竜様に乾杯!」
竜の民の心を丸ごと攫っていった百竜だが、翻って僕のほうは更なる窮地に追い込まれる。何をか言わんや、後の祭りである。百竜が僕の味方をしてくれるというので、竜の民の嫉妬とか嫉みとか妬みとか、殺意とかが突き刺さって、凄く痛いです。そろそろ心が折れそうな、いや、折れてもいいんじゃないかと思うのだが、コウさんと百竜の期待を裏切るわけにはいかない。……あれ? コウさんは僕に期待してくれている、のかな?
いや、もう考えないことにしよう。これ以上気分が沈んでもいいことなんてない。
「魔法球『風吹』は、魔力を込めることで発動します。魔力量が多い方、使い手が千二百程度に、交代要員として五百~六百程、あと竜地に居る方で魔力量に自信のある方を、予備人員として三百程希望します。これから大広場にて志願者の魔力量を計測します。七つ音より『風吹』の放出訓練の開始。深つ音までに竜の湖に移動。早朝、同盟国より先に陣を敷きます。大広場と竜の湖付近には、用のない方以外は近付かないようお願いします。
ぐっすり寝て、魔力を回復してもらう為、南の竜道と大路、中路に寝具を用意します。竜の湖周辺の方は、一晩だけお貸し願います。自分の物だとわかるように、名前なり布なりを縫い付けて、運んでください。すでに係の者が向かっているので、指示に従うようお願いします。現時刻を以て、南の竜道と東の竜道を封鎖いたします。通行を希望する方は、お手数を掛けますが、今日中に翠緑宮にいる侍従長まで申し出てください。
竜地付近の乗合馬車は、予備人員を乗せて竜の都まで。そこで乗り継いで竜の湖まで向かってもらいます。それ以外の乗合馬車は、指示があるまで通常通りでお願いします。
枢要は一旦、翠緑宮に。組合長に要請したいことがあるので、同じく翠緑宮に参集願います。会議の様子は、『遠観』の『窓』で皆さんに伝達します。それまでお待ちください」
老師に目配せをすると、「窓」が一斉に消えた。魔力量の問題なのか、コウさんと同じというわけにはいかないようだ。それはともあれ、次は現時点で出せる指示の優先順位を。
「長老方、三国の内情に詳しい者を数名、翠緑宮に同行をお願いします。それまでに、混乱が生じないよう城街地出身の竜の民に配慮をお願いします。大広場と竜の湖での炊き出し、大広場での憚りの確保、竜の湖での仮設。必要な人員や物資の運搬など、オルエルさんの部署で対応してください。部隊は三つに分けます。先ず中央の部隊長にカレン。補佐にフラン姉妹。隊長と補佐は、『風吹』部隊に指示が出せるようになってもらいます」
「替え玉ということね。……フィア様の代わりなんて務まるかしら」
カレンが僕の企図するところを過たず察してくれる。子供っぽいコウさんと違ってカレンは美人だから、同盟国の兵士のほうで補完してくれるから大丈夫。と言おうとしたが、これまでの失言の数々が脳裏を掠めて、喉まで出掛かったところで自重する。
「うぐ~、面倒くさいけど、やってあげないこともないのです」「むぐ~、しち面倒くさいけど、やらないわけにはいかないわけでもないのです。とギッタが言ってます」
コウさんに含むところのある双子だが、竜の民を護らんとする彼女の想いに触れて、根本的なところは変わらないようだけど、譲歩してくれただけでもありがたい。
「暫定ですが、右翼にクーさんと近衛隊の補佐二名。左翼に、エンさんとーー、補佐にフィヨルさんとザーツネルさんが就いてください。……エルネアの剣隊は、遊撃、というか即応の『竜撃隊』として、左翼か中央の後方に陣取ってもらうつもりです」
ギルースさんが不満を口にしようとしていたので、先回りして塞いでおく。竜、を名称に交ぜると、何となく強そうで格好良いような気がするわけなのだが、エルネアの剣隊の皆さんが騙されて、もとい気に入ってもらえたようで何よりです。
他には……、と漏れがないか確認していると、見知った者がいることに気付いた。
竜書庫にいた商人風の男だった。仮に断られたとしても問題ないか、ということで、彼に走り寄って話を持ち掛ける。上手くすれば、時間短縮になるはず。
「これから竜の国の外に行くのでしたら、先程の竜の宴、『千竜賛歌』という千年に一度の、竜の宴を見ることが出来た私たちは幸運だ、という噂を流してください。他国は、あの出来事の答えを求めています。おかしな流言が拡がる前に、彼らが納得できるだけのものをこちらから差し出します」「ははっ、そりゃいいや、乗った! それで、他には何かあるかい?」「そうですね、もう一つ。これからストリチナ同盟国と交渉、或いは小競り合い、若しくは騒動があるかもしれませんが、大したことは起こらないだろう、とそれとなく伝えてください」「大したことにはならない、のか?」「どうにもならなかった場合は、撤退して南の竜道を封鎖するので、大きな衝突は起きない予定です」「了解。竜書庫を利用できなくなるとか勘弁だからな」「報酬は奥書庫で少しだけ便宜を図る、と」
僕が悪い顔をすると、男はごくりと唾を飲み込んだ。そして、振り返るなり、
「おっしゃー、お前ら! モーガル商会はーーっ」「「「竜より早くが信条です‼」」」
部下らしき人たちを引き連れて、大路に向かって大爆走。高つ音のミニレムのように一列になって、すいすいと人込みの間を抜けてゆく。もしかしてあの商人、魔力を纏っているのかもしれない。実は、有名な商人だったりするのだろうか。
「千竜賛歌」の件は商人組合に依頼しようと思っていたのだが、竜の橋渡し、とはこのことか。あとは、モーガル商会の件を老師に伝えて、呪術師の対処と、黄金の秤隊を魔力検査の要員として残しておくかな。「遠観」で連絡してもらう為、老師の許へ向かうと、先客がいた。周囲のことなど目に入っていないのか、一直線に駆け寄る。
「あの、あたしにも出来ることが、……何でもいいですから、フィア様の為になるのなら何でもしますから! お願いしますっ!」
想いが先走ったのか、支離滅裂な調子になっているが、シャレンの言いたいことはわかる。詰め寄られた老師は、その眼差しの強さと純粋さに頬を緩めるが、敢えてしゃがんで目線を合わせるようなことはせず、立ったまま首を振って突き放す。
「君は、病を得た。それは、寡少な魔力量に起因するもので、君自身にも心当たりがあるでしょう。快復はしても、体力は失ったまま。安静にしていなさい」「お願いします! 何も出来ないなんて、何もしないなんてっ、そんなこと駄目なんです!」
シャレンは、必死になって老師に懸け合う。命の恩人であるコウさんに報いたい、という気持ちはわかる。だが、どうもそれだけではないような切実なものが感じられる。意固地、と言ってしまったら、それまでだろう。シャレン自身わかっていないのかもしれない。
でも、何一つ納得できない、一つたりとも認めることなんて出来ない。シャレンの潔癖なまでの実直さに、見ている者の心は揺さ振られる。子供が抱く正義感とは、未熟ではあっても間違いではない。ときに、子供ではない者たちの頑なさを打ち砕くことさえある。
「ん? ん~、んー、んっ、むむむんっ⁇」「ーーっ」
場の空気を読まず、或いは読んだからなのか、エンさんがしゃがんでシャレンと顔を合わせる。稍あって、頬を紅に染めて顔を逸らそうとした少女の頭を、がしりと掴んで、無理やり自分のほうに向かせる。……可哀想に。あわわわ、な状態で、耳まで真っ赤にして混乱の極致にある女の子が逆上せ上がる直前に、彼は僕に質してきた。
「こぞー、目、何色ん見える?」
質問の意図はわからないが、エンさんのことである、何かしらの意味があるのだろう。僕は見たままを、正直に答えた。
「赤茶色です」
もっと正確に言うと、濁った赤茶色だが、それは竜足、いや、蛇足というものだろう。などと思っていると、何故だろうか、居回りが軽くざわめく。見ると、シャレンと母親は驚いた表情で、エンさんは心得顔、他の人は戸惑ったり訝しんだりと、波紋が広がった。
「その……、娘の瞳は、生まれたときからずっと紫色です」「宝石みてーで、きれーだな。ほれ、じじー、俺じゃ中んことまでわかんねぇ、確かめてやんな」
皆が紫色に見えているということは、シャレンの瞳は魔力の影響を受けている、ということになる。とはいえ、彼女の様子から、瞳自体に力があるわけではなさそうだが。
「ほほう、然かし。そうと言われて視なければ、気付くことも出来ないほど閉じられているが、ーーこれは中々、私の魔力量の倍以上はありそうだね」「え……」「っ!」
老師の、先程とは逆の見解に、シャレンは、驚く、というより、困惑の色合いのほうが強く、それらの感情の内にわずかに閃いたものは、怒り、だろうか。魔力量が多いと言われて、喜ぶのならわかるが、どうして斯かる心持ちになるのだろう。母親の表情も、吃驚というよりも苦渋の成分を多く含んでいるように見える。
老師の倍というと、どのくらいの魔力量なのだろうか。五~十ガラン・クンくらいかな。コウさんという例外を除けば、この大陸では最強水準なのではないだろうか。
「その魔力があれば、フィア様の助けになるのなら、お願いしますっ! 魔力を使えるようにしてください! 今何も出来なかったら、あたしはあたしが許せないんですっ‼」
猜疑、というべきか。老師の言葉を信じたいが、信じられない。シャレンは、相反するものが渦巻き、自らに生じた複雑なものを振り切って、形振り構わず老師に詰め寄る。
「リシェ君。治癒術士は、何人いたほうが良いかね?」
老師は意外なことを、いや、どちらかと言えば、不穏なことを聞いてきた。
エンさんやクーさん、ギルースさんや他にも、治癒魔法が使える人が居るかもしれないが、彼らは治癒術士ではない。治癒術士とは、称号であり資格のようなもので、自分だけでなく他者を治癒できる者のことを示している。僕が知っている治癒術士は、身近な人では老師とコウさん、里長と兄さんだけである。あと、地域の魔法使いと、里にも幾人か居た。ああ、それと、ファタもそうだったか。運悪く、ファタは野暮用で国外に出ているので、今は老師しか使い手がいないが、無論多いに越したことはない。
「老師一人なら、中央の後方で三部隊を担当してもらうことになるでしょう。治癒術士二人なら、部隊の合間の後方、或いは一人を重篤の部隊に、もう一人を二部隊の担当に。
ーー望むべくんば、それぞれの部隊に一人ずつ、治癒術士が三人いることですが」
「そういうわけだね。治癒術士が一人増えるだけで、戦局水準での違いがでる。シャレンさん、私なら君を、明日までに治癒術士にすることが出来ますーー」
風を引き裂く、そう譬えたくなる、簡捷の抜き打ち。直前までその兆しさえ窺えなかった、容易いようで、その実、有り得ないくらいの技巧の一撃を老師の首元で受け止める。
「決めるのはあなたです。図らずもコウが言った通り、責任は自分でしか取れません。ですが、それは一人前が言える台詞で……」「っ! くそじじー、止めやがれ!」
エンさんが腕に力を込め、老師の喉に赤い線ができる。老師は、エンさんを一顧だにせず、弟子の脅しなど何処吹く風竜と、シャレンに選択を迫る。
「こぞー、邪魔すんな」
エンさんの、熱を孕んだ底冷えする声に、射竦められそうになる。師匠が悪ければ弟子まで、って、まだ弟子になってないけど、いや、エンさんだって弟子だけど、いやいや、そういう場合ではなく、この構図は不味い。ストリチナ同盟国との対立を前に、竜魔法団団長と竜騎士団団長、侍従長が揉めている姿を見せるのは得策ではない。
「エン様!」「……は?」「お願いします、エン様っ! あたしがやりたいんです、あたしがしたいんですっ! 誰の為でもなく、自分の為にも!」「むぐ、……仕方ねぇなぁ」
様付けの、聞き慣れない呼び名に呆けた隙に、というのは可哀想か、シャレンの一途さに押し切られてしまうエンさん。妹に弱いのは知っていたが、女の子にも弱かったようだ。
まぁ、そもそも、うっかり体が動いてエンさんの剣を止めたが、僕の手には殆ど衝撃はなかったので、あれは抜き打ちではなくて。周囲からはそう見えなかったかもしれないけど、僕がただ出しゃばっただけ、という恥ずかしい一幕だったわけなのだが。
物怖じせず、言い切ったシャレン。一途どころか頑固と言っていい、眩しいまでの強さは、どこかコウさんを感じさせる。周期頃の女の子とは皆、こんな炎竜のような熱さを抱えているのだろうか。
「明日までに魔力を解放し、治癒魔法を会得するには、嘗て私がやったように、その身に大量の魔力を受け容れる必要があります。明日一日は、魔力を定着させることが出来ますが、その翌日からは許容以上の、乱れた魔力の毒に侵されることになります。コウが魔法を使えるようになるまでの三日……、いえ、二日の間、 呻吟することになるでしょう」
老師は逡巡せず、シャレンに差し出す。覚悟と責任という、言葉にするには軽く、実行するには重い、それらの本当の意味を試すかのように。
「罪を犯し、処刑される男がいた。呪いを受け、三日間耐え切れば、罪は許され、自由を手に出来る。その提案に男は乗り、呪いを受けた。そして、十を数える間もなく、呪いを解いてくれと、男は懇願した。
ーー君が受ける代償とは、そういう類いのものです。嘗てのコウほどではないとしても、あの娘と同じ水火の責め苦に、その身を蝕まれることになります」
……エンさんが実力行使をしてでも老師を止めようとした理由が、これか。
然し、怖いもの知らず、竜に喧嘩を売る、という言葉は今のシャレンの為にあるようなもの。少女は怯むことなく老師を見返して、覚悟の程を示す。
老師は、コウさんを生かした。だが、それは同時に、永い痛苦に塗れた生を少女に歩ませることにもなったのだ。そこに、どれだけの懊悩があったのか、若輩の僕には到底想像が及ぶところではない。彼はその手で、また一人、少女を誘うことになる。
責任は、当人以外に取ることは出来ない。然はあれど、苦しい。そこに僕も係わっていて、何も出来ないということがわかっていて。無力であることを、噛み締める。
「御母堂、先程言いそびれましたが、シャレンさんは一人前ではなく、あなたの庇護下にあります。あなたが認めないのであれば、シャレンさんがどれほど懇願しようと、施すことはいたしません」
老師の言葉を聞くなり、座り込んでいる母親の許に膝を突いて、正面から眦を決するシャレン。母親の表情の変化を、どう捉えればいいのかわからなかった。葛藤していたことは一目瞭然だが、娘の成長を喜ぶ、というより、まるで自らの運命を悟ったかのような、どこか険のあった女性の顔が解れてゆく。見た目よりも若いのではないかと思っていたが、これが彼女の本来のものなのだろうか、シャレンを見詰める柔和な面差しは、二十半ばと言っても通るほどの。ーーだとするなら、母親は幾つでシャレンを産んだのだろうか。
服に隠れて見えなかったが、母親は首に何かを掛けていたようで、外したものを両手の上に載せて、シャレンに差し出す。魔力付与の品なのだろうか、見たことがない色艶のまっさらな紐に、銀製の紋章のような細工物が括り付けられている。これは、定紋……、魔法紋だろうか。魔法使いの家系に、そのようなものがあると聞いたことがあったが。
「これは……、ザグケルンとシースライア。ーー良いのですか、紋を晒してしまって」
魔法使いにとって魔法紋を見せることは、何かしらの不利益を伴うようだが。老師の驚きの半分は、家系のほうに向けられているようだ。
「老師。ザグケルンにシースライア、二つの名称に心当たりがあるのですか?」
「ああ、両家とも魔術師の時代にまで遡ることが出来る名家だね。魔法使いの界隈では、一目置かれる存在だった。これらを含めた名家には、組合の結成や運営が期待されていて、もしそうなっていれば魔法使いの歴史が……、いや、今はそのようなことは関係ないね。ただ、私が山奥に引っ込むことになった頃からか、両家の名はとんと聞かなくなったが」
老師が視線で促すと、母親は重い口を開く。
「……はい、仰る通りです。ザグケルンとシースライアは、後継に恵まれず衰退していきました。名家の矜持と魔法への執着が、両家を結び付けます。復権を願い、両家はそれぞれの秘宝を、魔法具を持ち合い、魔法適性のある子を生そうとしました。……生まれたシャレンは、両家の期待とは裏腹に、微弱な魔力しか具えていませんでした」
「二家が衰退したというのは確かなようだね。実際には成功していたというのに、それに気付けないとは。皮肉、と言うのは酷だが、彼らには相応しい末路かもしれない」
らしくなく、随分きついことを言う、と思ったが、老師の言葉で心付く。
「失敗の象徴でもある私たちは、両家から追放をーー、着の身着のまま、捨てられました。ですが、秘宝を失った両家に、再起の道はないでしょう。私たちで……、終わりです」
母親はすべてを了解した上で礎になろうとしたのかもしれない。或いは、最後の犠牲者に。恐らく、今のシャレンと同じかそれ以下の周期で二家の命運を担う決断をしたのだ。
やはり、と暗澹たる気分になる。二家は魔法具を用い、母体に魔法的な処置を施してシャレンを生ませたのだろう。シャレンと母親が追放されたということは、母親は魔力異常か障害かで、副作用か後遺症か、子供が産めない体になった。まだ子が儲けられるのなら、二家が母親を手放すはずがない。糅てて加えて、シャレンは人質のような扱いを受けていたはず。まだ幼き子供に法外な術を施す奴らである。そのくらいのことはするだろう。
一族の命運を懸けた二家の悲願は果たされなかった。その身を差し出して、尽くした母子を、自らが成した結果を、正視できなかった二家に、老師が唾棄するような言葉を投げ付けるのは当然である。形は違えど、魔法的な試みによって人の運命に介在した責任を背負い続けてきた彼からしたら、許せるものではないのだろう。
「「「「「…………」」」」」
まだ立ち去っていなかった人々や、「風吹」の魔力計測に駆け付けた人々が苦悶に顔を歪める。目を閉じて必死に耐える者、怒りに震えて拳を握り締める者、乾いた表情でただ涙する者、……竜の国に遣って来た者で、何かを抱えずにこの地を踏んだ者は少数だろう。
傷は、永遠に癒やされることはない。覆い隠して、見ることの、触れることの回数を減らしていくだけ。人は慣れてしまう。誤魔化すことに、偽ることに、諦めることに、心を鈍らせることに。空に手を伸ばすことを忘れてしまう。
竜の民が気付き始めている。目を離せなくなる。それが何か理解できないから、向き合うのを恐れてしまうのか。現実を知らない子供と、突き放してしまえばいいのか。晒された痛みに、揺るがず決然と、穏やかとさえ言っていい少女の……。これは、母親への思慕なのだろうか。僕には、シャレンの底に渦巻くものの正体はわからない。
ただ、わかることが一つ。
ーー翠緑の瞳。記憶と心の中の、大切な場所にあるものと符合する。赤茶色の瞳が、あのときの少女の瞳と、同じ輝きを放っている。
母親は、二家の魔法紋を握り締めると、まるで命を籠めるように大きく息を吸った。
ああ、彼女はシャレンの母親なのだ。自然とそう思える、少女と違わぬ輝きを宿して。
そこに居たのは、紛う方なき魔法使いであった。
「心象こそが魔法の根源。魔法は自らを映す鏡。わかりますね、シャレン。目を背けることは許しません。あなたは、ザグケルンの子であり、シースライアの子です。あなたが魔法を望むのであれば、ザグケルンとシースライアの血に因らなければなりません。
偽りは魔法を歪めます。自らを求めることこそが魔法の起源です。それが、ザグケルンとシースライアが掲げて、終には手に入れることが出来なかった初源です。道を閉ざさないことがあなたの役目であり、ザグケルンとシースライアを生かすことが、あなたを生かすことになります。目を背けてはなりません。歩みを止めてはなりません。
シャレン、今一度問います。あなたはザグケルンであることを、シースライアであることを、私の娘であることを、魔法使いであることを、受け容れることが出来ますか」
魔法使いは手を緩めて、再び魔法紋を差し出す。
捨てられて、竜の国に行き着くまで、抱いたものは後悔なのか怨嗟なのか。きっと違うのだろう。魔法紋を持ち続けたことが、尊くも痛切な誇りを際立たせている。
魔法使いと、魔法紋と、そこに重なる過去の情景に、シャレンは震えながら二度、三度と言葉を詰まらせて。これほどの激情をどこに隠して、溜め込んでいたのだろう。もう塞き止めることなんて出来ない、感情が、想いが、少女を染め上げる。
「あたしは、憎い! 母様をこんな目に遭わせたあいつ等なんて、焼き尽くしてやりたい! あたしの中にあるこの汚らわしい血を全部抜き取って、ぶちまけてやりたい! ……でも、でもっ、あたしは母様の子供です! 誇り高き『胚胎の魔法使い』の子供ですっ!」
呻くように自らの体を両手できつく抱いて、爪を立てる。血を吐くように、本当にそうなればいいのに、とシャレンの内心の哀哭が伝播してきたかのよう。吐き尽くして、絞り尽くして、そうして残ったものが何だったのか。シャレンの表情に、その答えがあった。
「あたしは……、あたしはザグケルンとシースライアの子、シャレン・ザグレイア!
この醜き名とともに生きることを誓う! 両家が求めて届かなかった初源を得て、亡き者にすることがあたしの使命……っ。……ぁぅ、あ、あたしは、シャレン・ザグレイアはぁ! 治癒術士になって、母様を絶対に治してみせます‼」
涙に塗れたシャレンは、その衝動さえ踏み躙って、言葉にしたくても出来なかった、遥かな底に閉じ込めていた誓いを、希求を解放した。刹那、幻聴だったのだろうか、いや、確かに感じた。完膚なきまでに打ち砕かれて、世界に飛散する欠片たちの残響を。
「っ!」「うっ?」「わ、何だ⁉」「肌がぴりぴりする」「ん?」「え? どうしたんだ?」
周囲の竜の民が、シャレンに呼応して呱々(ここ)の声を上げた魔力の顕然に騒然とする。
魔力解放だったのだろう。僕には魔力は感じられないけど、それを疑うことはなかった。
魔力が解けたことに差し響きがあったのか、僕の目にも正しく映る。確かにエンさんの言った通り、宝石のような紫晶の瞳。もしかして、これらの強き輝きは、魔力量の多い人間に特有のものなのだろうか。
「母様!」
シャレンは、堪らず母親に抱き付く。彼女の魔力属性なのだろうか、風のようでもあり水のようでもある緩やかなものが母娘を包み込んでいる。母親は、懐かしいものに触れるように、優しいものを壊さないように、胎動の気配を絡め取って、娘を優しく撫ぜる。
母親の病とシャレンの寡少な魔力。病がうつることを危惧して、過度の接触を避けていたのかもしれない。ともすれば、シャレンが生まれ落ちたその瞬間から。
「ーーシャレン。負けてはなりませんよ」「はいっ!」
まだ道の半ばにある新しき魔法使いに、魔法使いは一言にすべてを籠めて言祝ぐ。僕にはそう聞こえたし、きっとシャレンを最も喜ばせ、奮起させる言葉だったに違いない。
認められて、自分が選んだ道を歩み始める。シャレンに、コウさんの姿が重なる。あのとき僕も、歩き始めた。コウさんに差し出して、僕自身で選び取って、ーーあとは、僕はいったい誰に認めて欲しいと思っているのだろう。
シャレンが母親から離れて、老師の許に向かうと、成り行きを見守っていた百竜が、すたすたと歩いてゆく。向かう先は、呪術師。「千竜賛歌」の後から、呆けた顔で微動だにしなかったエルタスは、百竜に睥睨されてうっとりとした顔をすると、頭を下げて両手を前に出して、地に手の甲をつけた。って、何でこの呪術師は、初恋を自覚した少年のような甘酸っぱさを醸しているのか。まぁ、竜にも角にも、彼の行為が示すものは、完全服従。命をも差し出す覚悟がある、ということだが、これは謝罪というより、忠誠を誓っているように見えなくもない。
「そなたは、我が友に二度助けられたが、自覚はあるか」「ぁうよぉわぅ、あれで、あの『千竜賛歌』というもので治癒していただけたこと、ことならばわかっているであります」
エルタスは、百竜の問いにきょどりながら即答するが、その姿が卑屈で痛々しい所為なのか、炎竜の勘気を被る。百竜は無言で、エルタスの頭を、ふみっ、とする。
「あ、あぅあ、百竜様っ」「何ぞ?」「そ、そのでなのですが、その柔らかなおみ足で、もっと強く踏んでいただけないかと愚考したしだっ……」「少う黙っておれ」「っ、ありがとうございますのであります⁉」
ああ、なんかもう、見たくないなぁ。百竜に強く、ふみふみっ、とされて、地面と接吻したエルタスがとっても嬉しそうで、って、そこのデアさん、何を羨ましそうな顔をしているんですか。竜の民の皆さんも呪術師の痴態に辟易……ん? いや、幾人かがデアさんと同じ様な顔をしているんだけど、あ~、止めよう、人の趣味や嗜好をとやかく言うものではない。僕だって、百竜のやわらかいところ……ごふんっごふんっ、何でもありません。
「そなたはコップの中の水のようなもの。竜の湖が竜の……ふむ、譬えが良くないか。そなたは、大樹の細き根っ子のようなもの。大樹が揺れねば、根っ子が大樹に影響を及ぼすこともできよう。然るに、所詮木っ端に過ぎぬ故、細き根っ子だけで大樹は支えられぬ。勘違いしよう根っ子は、憐れに弾け飛ぶであろうよ。それ故、我が友は疾くそなたを物理的に、魔法的にみーより引き剥がし、事なきを得た。そなたは我が友に恩義があろう」
コウさんの魔力解放には、斯かる企図があったのか。
あの傍迷惑な行為は、みーを助けることを優先した王様の短慮からきたもので、もっと上手くやる方法はあっただろうに。と先にそんなことを考えた僕を許してください。
「はっ! 百竜様の下知に、この身を捧げる所存であります!」「……斯様でも良いわ。主は、そなたに魔法使いとして注力することを望んでおる。一切怠らず、一切背かず、務めよ。我の機嫌を損なってくれるな」「炎竜様の炎に誓って焦げても燃えてみせますっ!」
用は済んだと、或いはもう見るのも嫌になったのか、百竜がこちらに顔を向けたので、
「えっと、百竜は大丈夫?」
曖昧な、気遣いの言葉を発してみる。
「ふむ。主の期待に応えたくはあるが、みーは魔力の水簾にて盛大に竜の都に振り撒きよった。然して我も、我が友に持ってゆかれてすっからかん。幾日か静養を欲するところ」
疚しい、ということではないが、言外の願いをあっさりと看破されて、気不味い、というか、恥ずかしい、というか。スナのときもそうだったが、自分の浅知恵の程を思い知らされる。斯くて、治癒術士の三人目を期待したのだが、ぺよんっと竜の尻尾にすげなくあしらわれる。いや、違う違う、僕が勝手に期待しただけなんだから、竜の尻尾は好い尻尾。
「ふふっ、では私が手伝いをして差し上げるのですわ」
……ですわ? あー、う~ん、何というか、聞き覚えのある、というより、もう一度聞きたかった、涼しげな声が響いて。僕とエンさんで、やっとこ抉じ開けた人集りが、ものの見事に裂けてゆく。
竜の民が空けた花道を、凱旋した英雄のような威風で歩いてくるのは、誰あろうスナだった。愛娘の姿を見た瞬間、体の中に湧き上がってくるものに身を委ねそうになったが、同時に感じた違和感のほうに無理やり意識を向ける。
竜の民の視線が、明らかに僕とは違う位置に向けられている。彼らの視線は概ね、もっと上の二箇所に。成人女性で言うなら、顔と胸に注がれているようだ。そして、男性陣のだらしない顔に、女性陣の羨望の溜め息と、悔しげな嫉妬混じりの視線。
……どうやら、絶世の美女が現れたようだ。お負けに、胸元が大胆な衣装を着ているのだろう。「幻影」かと思ったが、美女に触れたらしい男の反応や振り撒かれる匂いへの反応などから、「幻影」よりも高度な魔法が使われていると推測する。
「初めまして、私はリシェ家の者で、レイと申しますわ。お見知りおきを」
スカートの裾を持って、優雅に挨拶をする。
……ますわ? ……これは、高貴な人間の話し方を真似ているのだろうか。ん~、多少方向性を間違っているような気がしないでもないが、まぁ、それが何であれ様になってしまうのは、スナの周期の功……げふんっげふんっ、いや、スナが周期のことで怒るほど狭量ではないと思うが、僕の娘であることだし、余計なことを考えるのは控えておこう。
「いいのかい、レイ? 出てきてしまっても」「ふふっ、身内が困っているのですもの、リシェの心に寄り添うくらいのことはしてあげますわ」
可愛いスナ、改め、淑女のレイ。ということで、レイの思惑なのか遊戯なのか、申し出自体はとてもありがたいので、乗らせてもらう。
「リシェの為ですもの、私が三人目の治癒術士として、力を貸してあげるのですわ」
僕たちの会話を解せなかった人々が、レイの明瞭な承諾に沸き立つ。百竜に続いてレイとあって、僕への嫉妬もいや増しているわけなのだが。ああ、これが氷竜の試練なのだろうか。僕の愛娘は、ちゃんと可愛がってあげないと、拗ねてしまうのかもしれない。
「……ふぅ」
これで一段落かな、と思ったら甘かったようだ。
「エン様!」「……何だ?」「あたしは、シャレン・ザグレイアです」「そりゃ、さっき聞いたな」「名前で呼んでください!」「……や、そのな、なんちゅうか願掛けみたいなもんでな、嫁んなる奴以外呼ばねぇよーにしてんだ、おちび」「わかりました! 今は、おちび、でいいです。でもいつか絶対あたしの名前を呼ばせてみせますっ!」「……ぅぐ」
魔力解放の熱が回って、興奮冷めやらぬ所為なのか、シャレンは公衆の面前で大胆な告白をする。エンさんが気迫に圧されて、たじたじである。先程の仕返しだろうか、にしし、と彼の行状を揶揄するように笑った老師は、向き直ってダニステイルの纏め役に尋ねた。
「竜地の、暗黒竜の練魔場の使用許可をいただけるでしょうか」
「ーー構いません。私も竜の民、魔法を求める者に、門戸を開きましょう」
表情には出さなかったが、わずかな遅滞から纏め役の心の内が垣間見える。老師の言葉には、言葉の意味以上の何かがあったのだろうが、魔法に疎い僕にはわからない。
コウさんからダニステイルについて大まかな説明をしてもらったが、今は下手なことは言わないほうがいいようだ。老師は、纏め役に一礼すると、無造作に抱えられてあたふたするシャレンを気遣うことなく、暗黒竜の方角に「飛翔」で飛んでいった。
「はぁ、あとで怒られんなぁ」
よくわからないことをエンさんが呟くと、ふらりと百竜の体が揺れて。エンさんが受け止めようとして、転と回った百竜が彼のお腹の辺りに手をついて、そのまま後ろに跳んだ。その先には僕が居て、百竜の背中がふわりと僕との境界線を失わせる。
「すまんな、エン。今はこちらのほうが良い」「おう、りゅー、気んすんな」
眠たそうな百竜に、気軽に応えるエンさん。触り心地はみーと同じで、いや、そんなことは当たり前……、いや、当たり前ということもないのかな。ああ、いや、百竜の突然の行動にどぎまぎして、ちょっと頭が茹だっているかもしれないが。
どうしたものかと戸惑っていると、百竜の顔が動いて。視線を絡めたスナ(レイ)と百竜は、ただ見詰め合ったまま、何事もなく両竜が同時に興味を失う。そして、投げ遣りな感じでカレンを一瞥すると、「浮遊」だろうか、すうっと浮き上がって僕と顔の高さを合わせて。
「主よ、我を孕ませよ」「……は?」
言葉の意味が頭に浸透したときには、左頬に柔らかな感触がーー。
「くははっ、斯様な冗談を繰る程度には、主を気に入っておる」
名残惜しそうに反対の頬を撫ぜると、百竜は地に降りて、僕の胸に倒れる。
「……悪くない。我が眠るまで…抱き締めておれ……。これ…は……命令だ……」
命令を果たす間も与えられず、百竜の寝息が聞こえてくる。
カレンが凄い目で睨んでいるし、スナは氷点下の冷たい眼差しだし、慙愧に堪えないことだが百竜との約束は完全無欠に反故としないといけないようだ。
「先に部屋に帰るのですわ。リシェ、あまり待たせると、お仕置きしますわよ」
こちらはこちらで、誘爆しそうな秋波を送ってくると、竜の民の視線を釘付けにしながら悠々と去ってゆく。予想通り、またぞろ皆さんが侍従長苛めを開始する。
「くぅ、また侍従長かよ⁉」「人の敵、竜の敵め!」「焼かれろぉ!」「だ、大丈夫だ、レイさんは身内らしいし、まだ好機が」「これはきっと世界のほうが間違っているのだ!」
ああ、もう、どうしたものやら。まぁ、やることは決まっているので、ひとつひとつ片付けていくとしよう。先ずは、目覚めたらみーに戻っているだろう百竜なみー(えんりゅう)を、起こさないようゆっくりと抱えて、デアさんの許まで歩いてゆく。
「デアさん、これを。これがあれば『結界』を越えられます。北の洞窟にみー様を寝かせたら、起きるまで護衛をお願いします。風竜で食料や必要なものを揃えて向かって下さい」
僕はみーをデアさんに託して、居回りから見えないように竜の雫を彼の目の前に持ってゆく。そして彼のポケットに滑り込ませて、……去ろうとしたが、一応忠告しておく。
「早期の回復を願っての祈りで、手を握ることは許しますが、それ以外の場所を触ってはいけませんよ?」「ふっ、不埒者な不届き者のふしだら不審者の不全侍従長め! わっ、わ、我の信仰を、軟弱侍従長の脆弱精神と比較すること、如何にもけしからん!」
ここまで否定されると逆に怪しく見えてしまうのだが、信仰心を拗らせたデアさんなら、こんなものだろう。竜が眠っている間はその属性の発露がある、というようなことをコウさんは言っていたが、彼女が施した対策は今も機能しているようだ。
「ちょーと待てぇ、こっちこーい」「あ、あの、侍従長に……」
伝令だろうか、僕を見咎めて走って来ようとした若い警備兵が、横からエンさんに掻っ攫われる。程なくしてエンさんに丸め込まれたのか、報告を終えた警備兵が去ってゆく。
「おーい、おっちゃーん」「エン殿、何か?」「おっちゃんとこん竜騎士、竜の首辺りん今すぐ集められっか?」「エルネアの剣隊を? 至急ということなら、半分くらいは」
オルエルさんと密談、というには大きな声なので、内容の骨子以外は大凡の判断がつく。
「てーわけだ、こぞー。こっちゃーこっちでやっとくから、こっちゃー気んすんな。夜くれぇにゃ戻ってくん」「了解しました。そちらのことは、すべてお任せします」
何のことやらさっぱりだが、エンさんが遣ると言ったからには、遣ってくれるのだろう。エルネアの剣隊を半分持っていかれるのは辛いが、こういうときのエンさんの勘は、過去の経験上、捨て置くには危険の度合いが高過ぎる。
勘、というより、直感の類いか。直感というのは、拾い上げることが出来ない情報を繋ぎ合わせたもの。エンさんの嗅覚が鋭いのは実証済みである。
さて、あとはザーツネルさんに呪術師のことを頼んで、バーナスさんに南の竜道に向かったサーイのことを伝えて、……翠緑宮に戻りながらカレンに小言(?)を、フラン姉妹に侮言とか憎まれ口とかを叩かれて。
……はぁ、疲れたなぁ。雨が降らなければいいけど。手の湿り気を確認する。一度だけ、遠くのどんよりとした曇り空に嘆息してから、僕は行動に取り掛かるのだった。
顔を突き合わせて、とまではいかないが、なるべく近い距離のほうがいいだろうと、円卓のある風竜の間ではなく、大きな卓のある多目的用の部屋を使用することにした。卓の真ん中に、南の竜道を中心に描いた地図が置かれている。目的に適ったこの地図は、繋ぎ合わせたまっさらな紙に、クーさんがさらさら~と書き込んだものである。特徴が出ていて見易い上に、今回最も重要な南の竜道の入り口からの、坂道の傾斜が一目でわかるようになっている。老師に出逢わなかったら、クーさんはどんな人生を歩んでいたのだろう。などと妄想しそうになって、上座の位置に……って、あれ?
「シア様は?」「見越した『王弟の懐剣』さんが、『おかざりいらない、こっちてつだう』と言って連行していきました」「引き止めては……」「竜のことは竜に任せよ、という言葉があります。総力を注ぎ込むのですから、役に立てる場所で尽力するのが一番です」
カレンににべもなくあしらわれる。それと、すでにシーソから無下にされていたと。
王様代理としてシアに仕切ってもらおうかと思っていたのに、先手を打たれてしまったようだ。然てこそ宰相にお願いするのが順当か。と考えたわけなのだが、こっちもか。
「何してるんですか、クーさん」「あたしのことは気にしなくて良い」
そう言われても困るんですが。補佐の二人を前に立たせて、隠れるように、というか、隠れている。過去の経験上、というやつを先程エンさんに用いたが、今度はクーさんに用いなければならないようだ。挨拶回りのときの、高過ぎる、速過ぎる、と同じ種類かな。
「大広場くらいの人数であれば問題ないけど、何万もの竜の民の前では恥ずかしい、とかそういうことですか?」「違わない、かもしれない」「そもそも、『遠観』が行使されていたんですから、状況は同じでしょうに。ーーん? えっと、まさか大広場のときは『窓』の向こうから、たくさんの人に観られている、ということを失念していた?」「ひぎゅっ」
普段との相違も魅力的、ということらしく、可愛い宰相に近衛隊を始めとした女性陣がでれでれである。
「さっき、そのことに気付いたみたいで。大丈夫です、クル様は私たちがお守りします」
ほくほく顔で勇ましいことを言われても、まったく説得力はありません。皆さん、クーさんを囲んで、わいわい楽しそうである。もういいや、彼女たちの士気向上の為にもクーさんには愛玩動物になってもらおう。然し、どうせなら会議の終了まで気付かないままでいてくれればいいのに。微妙なところで残念っぷりを発揮してくれる宰相様である。さすがは王様の姉。
他意はないが、今回は平均周期が高目である。コウさん、シア、シーソ、エンさん、フィヨルさん、ザーツネルさん等の若手が居らず、……あ、サーイもいなかったか。ギルースさんと副隊長、あとは、老師を若手に含めるのは、実周期的にちょっと無理があるかな。
ある程度事情を知った人間が仕切ってくれると、余計な気を回さなくて済む分、かなり楽になるのだが、致し方ない。こんなことになるなら、筆頭竜官であるオルエルさんにもっと事情を打ち明けておけば良かった、と後悔するが然に非ず、ただでさえ忙しい彼に心理的な負担まで掛けるのはよろしくないので、結局現状は変わらなかったということか。
「竜ほど時間に寛大でない僕たちには、余裕さんや退屈さんは仲良くしてくれないので、今すぐ始めさせてもらいます」「「「「「…………」」」」」
場の空気を解そうと、前時代的な言い回しをしてみたのだが。スナもレイもいないというのに、どうしてこんなに寒いのだろう。まぁ、然てしも有らず何もなかったことにして進めさせてもらうとしよう。
「先ず、三国の内情について、長老と参集した方々に語っていただきます。その後、『遠観』を発動して、会議を始めます。では、北のキトゥルナからお願いします」
キトゥルナの城街地の長老であった竜官と、後ろの面々に軽く頭を下げる。
「そうじゃの。キトゥルナは、同盟国の中では一番安定している国じゃな。キトゥルナが併合した国々は、戦うことなく降ったので恨みが少ない。現キトゥルナ王は、『堅硬』の異称が冠されるほどの手堅さを持つ名君で、民からの信頼も厚い。じゃが、不安定さがないわけではない。如何に『堅硬』とて、こればかりは仕方あるまい」
王といえども、その力と影響力には限りがある。王とは、ただの代表者である、と掲げている国さえある。政治の形態や兵力から、どうしても限界があるのだ。それらは、王権の脆弱さが起因することが多い。王は、貴族の協力を得なければ、兵を揃えることすら出来ない。当然貴族は、門地の為にこれを利用する。無論、国の有様はそれぞれで、こんな単純な図式がすべての国に適用されるわけではない。それ故、王の資質に依るところが大きくなる。代表格がストーフグレフ国、大陸中央の覇者アラン・クール・ストーフグレフ王で、この賢君に逆らう者は、繁栄を享受するラカールラカ平原の人々から、「愚者」の称号を与えられるほどだという。ここまでくると、彼が殆ど表に現れないのは神秘性や幻想を纏う為ではないかと勘繰ってしまう。ちょうど悪評を撒き散らした僕とは反対に。
それから、長老が連れてきてくれたキトゥルナの内情に詳しい竜の民に話を聞く。
「王として優れた方なんですが、父親としては逆で、姫君しか生まれない中、やっとこさ生まれた男子として、甘やかされて育ったのです。王子は、悪い人ではないのですが、自分が天才であることを、王になるべき器であることを疑っていないのです」「世間の評判は『三国一の厄介者』。今回は、王子に手柄を立てさせようと、指揮官にしたんじゃろうなぁ」「先程の情報だと、ストリチナの動乱を乗り越えた精兵を帯同しているみたいですね。王子が出張ってくるので、それはそうなんでしょうが。ただ、古参の兵や貴族を重用しているので、新参者には出番がなくて鬱憤が溜まっているかもしれませんけどね」
話の中にあった、情報、というのは、国外の提供者により齎されたものである。
キトゥルナで行軍を目にした、ある商人は、竜の国に向かうと直感して、危険を冒してクラバリッタやサーミスールの陣容を探ってきたのだ。翠緑宮の表口で、サーイに渡されたという竜札を見せられて、すぐさま執務室で話を聞くことにした。
彼は商売敵に騙されて金策中だったらしく、商人の勘というやつだろうか、金の生る木を発見して無我夢中で実の収穫に励んでいたという。嘘は吐いていない。僕とカレンの意見が一致したので、報酬として竜の雫を五個渡すと、涙ながらに抱き付いてきて、まぁ、その姿からこちらを騙す意図はないと確信できたわけだけど。その後、抜け目のなさは商人らしく、竜の国の侍従長と知己を得たのを奇貨として、僕と直接取り引きの管を作って、同盟国との騒動が収まるまでは翠緑宮に逗留ということになった。堅実な商売ではなく、賭け事のような取り引きをする商人がいると聞くが、彼もその一人なのだろうか。
「次は、中央のクラバリッタですね。バーナスさん、お願いします」「ふむ。キトゥルナ王が『堅硬』なら、クラバリッタ王は『豪胆』といったところか。あけすけな御仁で、自らの感情を優先して、そこが浅薄に見えることもある。それ故、慕われるか嫌われるかのどちらかになる場合が多い。何をするかわからない、という点では、この王が最も危うい」
続いて、クラバリッタの内情について聞く。
「キトゥルナの指揮官が『三国一の厄介者』なら、クラバリッタの指揮官は『三国一の智将』だな。騎士団団長のダグバース卿が率いるのは、歴戦の猛者。追い返す、という作戦には賛成、奴らと戦うなんて、考えただけでぶるっちまう」「同盟国の中では、クラバリッタの貴族が一番性質が悪いんでさ。特に王を嫌ってる連中は、俺たちを利用するだけして、城外地と同盟国に楔を打った首班みてーな奴ばらで、他の二国と繋がって何か悪さするんじゃないかと噂があったんでさ」
優れた王に、〝サイカ〟のカイナス三兄弟。「厄介者」は措くとして、優れた将に勇敢な兵。これだけ揃っていても、騒動の種には事欠かない。王の権限拡大か、国力の増強か、どうすれば国を豊かに出来るのか、〝サイカ〟でさえ明確な答えは持ち合わせていない。
「最後に南のサーミスールですね。お願いします」
「おうさ。先ず知っておいて欲しいことがあるんじゃが、サーミスール王のエクリナス様は、外地と同盟国の諍いを避ける為に、最後まで尽力して下さった。わし等とも何度も会うて、解決策を模索しておられたのじゃがなぁ」
長老が残念そうに嘆くと、追従して後ろに控えていた人々が発言する。
「エクリナス様は別格として、キトゥルナ王やクラバリッタ王に対しても反意があったわけではない。失敗こそしたが、城外地を造った王らの試みに悪意があったわけではなし」「ふぅ、結局俺たちは、同盟国の民にはなれなかったんだな。本来の同盟国の民に、認められることはなかった」「こちらの将は、ドゥールナル卿だ。エクリナス様の教育係だった人で、ストリチナ地方の出身ではないということで部隊長より上の地位を固辞していたらしいんだが、エクリナス様達ての願いで直属の騎士隊長になることを受け容れたそうだ。老将と言っていい周期だが、言うなれば『三国一の怖い人』だ」
「怖い人」とは、また妙な評価である。厳格で規律とかに煩いのか、野放図に処罰を乱発するような居丈高な人物なのか。挨拶回りのときの、サーミースールの警備隊長の様子から、信頼の置ける人物であるような印象を受けたのだが、実際はどうなのだろう。
それと、様々な噂が付き纏う、サーミスール王。長老を始め、竜の民にこれだけ慕われているのだから、サーミスール王は彼らと親身に、真摯に向き合って、城街地の問題をどうにか出来ないかと苦慮していたのだろう。エクリナスが王になった経緯を知っているだけに、彼の懐の深さや誠実さに心を打たれる。
前王は、エクリナスの兄で、その優秀さと魅力溢れる人柄から、「私より好く治めるだろう」と父であった王から、二十歳で王位を譲られた才気の人物である。実際彼は、ストリチナ地方の動乱で、内政だけでなく戦場でも勇名を馳せ、希代の王としての才覚を見せ付けた。だが、平定の為の最後の戦いで彼は非業の死を遂げる。
それは、一本の矢だった。将兵の誰もが、勝利を確信したとき、ーー王を貫いた。
然し、それは不運というだけでは、収まりがつくものではなかった。矢は後方から、味方から放たれたものだったのだ。恐らくは、ただの射損なった矢だったのだろう。だが、希代の王を失った民は、感情に凝りを残すことになる。そして、口さがない者が噂を流す。
その矢は、王弟のエクリナスが放ったものだった、と。そもそも、補給部隊を指揮していたエクリナスはその場にいなかったのだが、捌け口を求めていた民に、そういった事実が顧みられることはなかった。果たして、貴族も流言を利用してエクリナスを軽侮し、王の権威は失墜した。似た(?)境遇のエクリナスに同情したくなるが、王としての決断をして兵を放った以上、敵と見做さなくてはならない。
さて、会議を始める前の、確認をしておこうか。
「そうでした、伝え忘れていました。『千竜賛歌』の後、竜の国に『結界』を張ったので、外部への魔法による伝達は行えず、同盟国に情報が漏洩することはありません」
何気ない風を装って、平然と嘘を口にする。そうとわからないように見澄ます。上座の位置にいるのは、僕とカレンだけなので、この場に居る全員の顔が見える。
「カレン、どう?」「あちらの、職人らしい方が該当するかと」「うん、僕も同じかな」
僕とカレンの遣り取りの意味に、最初に気付いたのは、その職人風の壮年の男だった。先程、クラバリッタの内情を語ってくれた者の一人だ。彼の不自然な態度が、間違いでなかったことを知らせてくれる。
「あなたは、同盟国と通じていますね?」「は? いきなり何を言ってるんでさ⁉」
ちょっと演技が大げさだな、と男に駄目出しをする。心に疚しいことを抱えた者の特徴がよく出ている。時間も押しているので、さっさと終わらせてしまおう。
「ご存知の通り、竜の国では諜報活動を禁じていません。ですので、そのこと自体を罪に問うようなことは致しません。なれど、嘘を吐くのであればその限りではありません」
そこまでしなくていい、と制止する間もなくカレンが剣を抜いて、ぴたり、と男に照準を合わせる。美人が怒ると怖いですよね、と以前も同じ様なことを考えたが、枢要たちが気圧される。嘘が嫌いなカレンの本気を感じ取ったのか、男は観念したようだ。
「はぁ~、どうして俺がそうだとわかったんでさ?」「先程、僕は情報の漏洩の心配はない、と言いました。通常なら、この措置を喜び安堵するところですが、あなただけが都合が悪いといった体で眉を顰めました」「ソーン、お主、我らを裏切ったのか!」「バーナスさん、落ち着いてください。彼は、元城街地の知り合いから頼まれて、情報を流していたのでしょう。それは、竜の国に支障が出るものではありません。そういう意味では、彼は運が悪かった。この会議に呼ばれてしまったのですから」「は? それはどういう……」
冷静さを欠いたバーナスさんは、答えに繋がる道を見失ってしまったようだ。
その程度のこと、見抜くのは容易い。と失望を醸す為、軽く目線を下げて、物足りない、といった感じのやや消沈した表情を作る。間違えたところで然して問題ないということで、可能性の高そうな理由を捏ち上げてみたが、男の表情から正答だと知る。あとは彼が、自身の内で常識やら何やらを捏ね繰り回して、勝手に答えを作り上げてくれるだろう。
「侍従長……あんた、本当に恐ろしい奴だったんだな……。それで、俺は竜の国からの追放ですかい?」「先程言った通り、諜報活動は罪ではありませんし、運が悪かっただけなので、以後も竜の国に居て構いません」「……はぃ⁉」「ああ、でも、こうしてばれてしまったからには、その知り合いとは手を切ってください。二度同じ過ちを犯した場合は、国外追放か地下に行ってもらいます」「ち、地下? あ、そのだな、俺は竜の国が気に入ってるんでさ! 追ん出されないなら、何でもしまさぁ!」
カレンが不服そうに剣身で僕の足を叩いてくるが、男が心から喜んでいる様を見て、甘心してくれたようだ。僕から学ぶところがあると、こうして拗ねたような態度を取ることがある。コウさんもそうだが、どうして二人とも僕に対して攻撃的、というか、暴力的なのだろう。未だに謎なのだが、やっぱりあれかな、僕が全面的に悪いのだろうか。
「皆さん、ありがとうございます。必要な情報の共有は成されたということで。それでは、会議を始めたいと思います。老師への連絡をお願いできますか?」「暫しお待ちを」
ダニステイルの纏め役は目礼して、部屋から退出していった。魔法を行使している姿は、極力人に晒さない、というのが彼らの掟のようなものらしい。発現した魔法自体は、そうではないらしいが。纏め役が戻ってくると、部屋の中央に「窓」が開いた。
そして「窓」に映った老師の後ろで、どごんっ、と何かが爆発した。
「ふう、まったく、堪え性のない。爆発は三回に一回までにしておきなさい」
「は~い~」
老師は、一旦「窓」から離れて、奥に消える。シャレンを「治癒」しに向かったらしい。
「はぁ、シャレンの魔力属性は、尖ったものが多くてね、こち……」「へ~ゆ~」「会議の間は休憩していなさい」「みゃんの~、あやしの本いはこめやらなのれう~」
再度の爆発。シャレンのやる気が空回りしているようだ。「爆焔の治癒術士」とか二つ名が付かないように、老師の奮闘を期待しています。
「準備が整ったら、もう一つ『窓』を開くから、それが開始の合図だよ」
言い終えると、「窓」に映っていた老師の姿が、僕に切り替わる。
ん~、「窓」に映っている自分というのは、鏡とはまた違った趣がある。「窓」の自分を見ていると、何故だか不安な気持ちになってくるので、卓の地図を見ながら開始を待つ。
「皆さま。会議の準備が整いましたので、『窓』に参集願います。しばらくしたら始めますので、近くにいる方に声をお掛けください」
部屋に「窓」が開いたので、竜の民に呼び掛ける。「窓」の数は、だいぶ減って、数百というところか。怪我人がゆっくりと歩いていくところを心象。「窓」に辿り着けるだけの時間を置いて、一礼してから始める。
「会議を始めます。先ずは、ストリチナ同盟国の目的です。彼らは、なぜ竜の国に遣って来るのでしょうか。兵力は四千弱と少なく、本腰を入れた数ではありません。それでも、三国がそれぞれ兵を出し、固有の、或いは共通の目的の下に行動を共にしています」
聴いている者の中には、子供や老人もいる。ゆっくりと話すことを心掛けるよう手本となるべく、明瞭に、落ち着いて語ってゆく。
「それは、竜の国を欲してのことではないのかの? 竜の国が完成したから横から掻っ攫ってやろうとか」「外地と同盟国は、諍いが不可避とされるとこまでいったじゃろう。奴らからすれば、わし等がいつ攻めてくるか気が気じゃないんだろうさ」
先ずは我々から、ということだろうか、元城街地の長老方が意見を述べてゆく。
「そんな短絡的なことでは動かん、と言いたいところだが、同盟国の民の恐怖を無視できぬのやもしれんな。已むに已まれず、ということはあるかもしれん」
感情的になりそうな話題に白熱されても困るので軌道修正をする。この話題は十分。遠ざける為、竜の国の行動指針と、それと同盟国の思惑まで踏み込んでしまおう。
「先ず考えられるのは、交渉を優位に進める為の示威行動です。竜の国を攻めない、その代わりに有利な条件を呑め、と。では、彼らが攻めてこないかというと、そう言い切ることは出来ません。理由の一つは、フィア様の『風吹』です。フィア様は、実際に同盟国が行動に出るだろうと『風吹』を残され、同時に『風吹』があれば今回の一件を収拾できるとお考えになっていたのでしょう。僕たちの目的は、同盟国と交渉することで、その為に、竜の国を攻めるのを諦めさせることにあります。
そこで、筆頭竜官であるオルエルさんにお伺いします。あなたが同盟国の為政者の一人であるとしたなら、竜の国を陥落させることを是としますか?」
「ああ、それはないな。竜の国の大まかな成り立ちは知れ渡っているし、グリングロウ国を制圧するのは危険過ぎる。仮に、フィア様をどうにかすることが出来たとしても、竜の国にはミースガルタンシェアリ様が御座す。炎竜様が人の争いに介入することはないでしょうが、竜の国は炎竜様と盟約を交わすことで使わせていただいている土地。フィア様だからこそ、炎竜様と盟約を結ぶことが出来た。同盟国にそれが可能だとは思えない」
これまで同盟国と係わりの少なかったオルエルさんなら、状況が読めているだろうと思ったが、正しかったようだ。ミースガルタンシェアリが存命だと思っている人たちには、今の説明で得心してもらえるだろう。
次に、具体的な戦術を説明することになるのだが、その前にやっておかなければならないことがある。心理的な負担を軽くすること。通常なら統制の為に、逃亡脱走を防ぐ為に、となるのだが。目的が異なる「風吹」部隊には、冷静に、正常に行動してもらえるよう心を砕かなくてはならない。その為に、有効な手段なら用いないわけにはいかない、とわかっていても、毎回こんな遣り方でいいのかなぁ、と不安、というか草臥れてしまいそうだ。
「同盟国との戦いですが、勝とうと思えば、簡単に勝てます。僕がすべてを殲滅すればいいだけの話ですから」「「「「「ーーーー」」」」」「「「「「…………」」」」」
そんなこと出来るはずがない! とそういった類いの反駁や罵倒を期待したのだが。唇の端を上げて失笑した僕を、皆さんの目が教えてくれます、そこに宿った感情は様々ながら、誰も彼も、僕の言葉を疑っていないようです。……嬉しいけど、悲しいです。
初めは、侮られない為に、自らを誇大に見せる為に。途中からは、何もしなくても(?)悪評が広まっていったわけだが、斯くも役立つときがくるとは、何が幸いするかわからないものである。犠牲を出さないよう策は練るつもりだが、これは戦い、戦闘であり命の遣り取りであり、どうやったところで恐怖は消せない。僕とて、里での模擬戦闘と氷焔での魔物との戦い、……竜饅事件で皆に追われた経験があるだけ。僕自身のことはどうしようもないが、竜の民の心の負担を軽くする方法があるのなら、実践しておかなければならない。畢竟、「風吹」の統制が取れて、延いては使い手の損亡を減らすことに繋がる。
だからといって、やる気に満ち溢れていても困る。そこで、詐術……と自分で言っていれば世話ないが、これまで何度もやってきたことを。なるべく嘘を吐かないように嘘を吐いて、皆さんに誤解と勘違いをしてもらう。
「相手を殲滅するだけなら、フィア様でも出来ます。でも、フィア様は、優しい、と言うより、甘い、ですからね、僕と同じことは出来ません。そのとっても甘いフィア様ですが、甘々なのは竜の民に対してだけではありません。同盟国の兵に対してもです。
そろそろ、あなた方にも理解していただけたと思いますが、フィア様は、僕たちの王様は、強くて、優しくて、甘々で、ーーそして、弱い。もし竜の民に犠牲が出たとしたら、王様は自分の所為だと思うでしょう。それは同盟国の兵とて同じ。自分が造った竜の国が原因で、大きな不幸が生まれてしまったら。脆い王様は、耐えられるはずがありません。
弱々で、軟弱で、思い込みが激しくて、すべての罪を背負おうとするくらい、要領の悪い王様は、幼き心と魂を痛められ、老師の家に引き篭もってしまうことでしょう。
そうなったら、どうなることやら。竜の国は僕が王様にーーああ、いえ、違いますね、シア様を傀儡に、遣りたい放題ではないですか。フィア様という枷がなくなるわけですから、そうですね、先ずはこの大陸の制覇でもしてみますか」
とまれ、これは冗談として、と続けるところだったのだが、老師の嫌がらせなのか、部屋の真ん中にたくさんの「窓」が現れて、竜の民のありがたい言葉を届けてくれる。
それは、余りにも熱烈で、頭と耳がおかしくなりそうなので、割愛させてもらいます。
実は、コウさんや僕を持ち出すまでもなく、あとスナに頼ることなく、勝つだけなら簡単に、いや、簡単と言うのは言い過ぎだが、目的に適う物があるのだ。然う、それは「風吹」。「風吹」の風は、相手を近付けさせず、遠距離の攻撃を防ぐ。つまり、相手の攻撃は当たらず、こちらの攻撃は当たる。そんな反則的な代物なのだ。……たぶん、コウさんは、あの王様は、その可能性に心付くことなく、ただ相手を追い返すことだけを目的に「風吹」を作ったのだろう。当然、老師やカレンは気付いているだろう。他にも気付いている人がいるかもしれないが、それを竜の民に悟られてはならない。敵を完膚なきまでに叩き潰せる。その誘惑に駆られて、方針転換を迫られても困る。いや、これは竜の民を侮り過ぎだ。王の心を知った彼らが、それを求めるとは思えない。それでも、これは僕の弱さなのだろうが、不安の芽を刈り取っておかなければ、安心して事に当たれない。
「窓」が二つに戻ったので、余計な雑念がまたぞろ這い出さない内に始めてしまおう。
「急坂を上り切った先の、なだらかな傾斜に布陣します。そうすることで、弓矢や投擲による攻撃を正面と上方からの二種類に絞ることが出来ます。そこでですが、同盟国はどのような陣を敷くと思いますか? 各国の兵力は、騎馬百~二百、残りは歩兵のようですね」
カレンがうずうずしているようだったので、卓の下で、別の人に発言させます、という意味を込めて、軽く手を振った。先ずは、僕たち以外の人がどう考えているのかを知りたい。それはときに、策を補強するものになったり、思ってもみなかった欠点を炙り出したりする。カレンの真っ正直さは、多様さを提供してくれることが少ないので、今回は黙っていてもらうのだが、あんまり抑えつけておくと、彼女も爆発するからなぁ。
「三軍が纏まることはあるかの?」「それはなかろう。『厄介者』が居るし、『智将』は己の意のままにならぬ兵を求めはすまい」「敵は『風吹』のことを知らぬのじゃ、こちらの戦力は竜騎士二百と思うとるはず。舐めて掛かって、お互い邪魔しないよう、三軍の間の距離を空けてくるじゃろう」「『智将』が奇策を弄するなら、『厄介者』を中央に持ってくるかもなぁ」「あるか? 普通、というか、基本通りなら、『厄介者』『智将』『怖い人』だろう」「こちらが三部隊ですから、そうなりそうですね」
これまで発言を控えていた補佐の人たちも加わって、議論百出。良い傾向である。
カレンに合図して、竜棋の駒を用意してもらう。竜棋とは、竜を模した駒で、交互に取り合いをしていって、ミースガルタンシェアリを先に取った、というか倒したほうが勝ち、という遊戯である。〝サイカ〟や〝目〟に、竜棋の愛好家は多い。カレンは滅法強く、里の竜棋大会では二位であった。因みに僕は、彼女に無理やり出場させられて二回戦で敗退。
カレンは、坂の上のなだらかな場所に炎竜の駒を三つ並べて、坂の下に水竜の駒を三つ並べる。そして、両軍の間の三寒国方面の端に風竜の駒を置いた。
「ここに伏兵を配置しておくべきです。この部分に、下からでは見え難い窪みがあります。時機を見て、奇襲を仕掛ければ相手を撃退することも叶うでしょう」
そこは、不測の事態に対応できる、とか、撤退の支援に最適、とか言って欲しかった。もしかしたら、敢えて好戦的な物言いをして、それを否定させるーーそんな役割を買って出てくれたのかもしれないが、……うわぁ、違った、カレンの目は本気だ。
「ふむ。それでしたら三百程、ダニステイルが引き受けましょう」「……よろしいのですか?」「私たちも竜の民。国の危機に、貢献できればと思います」「では、お任せします」
伏兵の存在が、部隊の心理的な負担を減らしてくれるなら、有用だろう。そこまで見越して引き受けてくれた纏め役。もっと積極的に係わって欲しいと願うが、彼らの事情がそうさせてくれない。譲歩して踏み込んでくれた、それだけでもありがたい。
「当初の想定通り、左翼部隊長に竜騎士団団長、黄金の秤隊を配置。中央部隊長に侍従次長、比較的魔力量の多い使い手を配置。右翼部隊長に宰相、近衛隊を配置。交代要員と予備は、矢の届かない距離に。三寒国側にダニステイル。翠緑宮に筆頭竜官、竜の国の重要拠点に長老方。概ね、こんなところですが、意見のある方はいらっしゃいますか?」
皆が沈黙で応える。無いようなので、締め括りをつける。
「では、最後に。これらの策が失敗し、交渉が決裂した場合は、撤退して南の竜道を封鎖します。彼らがそのまま引き上げてくれれば良し。そうでなかったら、フィア様の快復後、フィア様と僕で交渉に赴きます。その際は、彼らに少しばかり痛い目に遭ってもらわなくてはならなくなりますが。出来れば、そうはなって欲しくないですね、誰の為にも」
最後に御為ごかしの言葉。それでも、誰の為にも良い結果が齎されて欲しい、と願う。
「依頼していた竜の国の旗は間に合わない。これで良ければ、敷布にでもあたしが描いて、三部隊分用意しておく」
「窓」が閉じると、しゃっきりした宰相が提案してくる。今更ではあるが、余りの豹変振りに、二言三言文句を言って遣りたくなってくるが、旗の図案を見せられた瞬間、そんなもやもやしたものは吹き飛んでしまった。僕だけでなく、室内にいる皆が息を呑む。
ーーこれは、良いのだろうか。ああ、でも、僕たちの目的からすれば、良いような、というか、好いような気がする、かな? んー、でも、相手にとってはどうなんだろう。
沈黙は肯定、と受け取ったクーさんは、図案を仕舞って次の提案をする。
「あとは、使者」「クーさんは、使者の作法を老師から習っていたりしますか?」
意外そうな顔をして、首を振るクーさん。そう、ここら辺の事情は、係わりのない者には必要ないので、人口に膾炙することはない。ちょっとばかり、面倒を含んでいるのだ。
「三度目の大乱の際、使者は必ず殺す、という蛮行が罷り通ったことがありました。そこで有志の国々が、使者を殺してはならない、という規定を発案、条約の締結などに腐心しました。旗についてもそうですね。戦闘、交渉、休戦、降伏など、地域によって異なっていた信号を統一しました。そうした理性を取り戻す行いは、大乱終結を早めました。
使者を立てるとして、その役を熟せるのは、僕とカレンと老師ということになります。向こうで留め置かれる蓋然性があるので、僕たちが任に当たるわけにはいきません」
儀礼や国家間の取り決めなど、竜の国が安定したあとで枢要に覚えてもらおうと思っていたのだが、予定通りに進まないのは世の常か。
「これから慌ただしくなりますが、竜の民に不安を抱かせないよう余裕を持った言行を心掛けてください。難しい顔をするくらいなら、無理にでも笑ってください。そうですね、それは、みー様の笑顔を思い出せば、自然と出来ることでしょう。王様の笑顔も可、です」
見本を示す為、みーの満開笑顔を思い出して、にかっと笑ってから、皆に頭を下げた。
順調、というありがたい報告である。兎の登り坂、風竜の飛翔、炎竜の焼却……ではなく、燎原、も変かな、みーの焚き火、くらいにしておこうか。とそんなことを妄想するくらいの余裕はあるが、現実逃避に使えるほどではない。細々としたところで、問題がないわけではないが、それらは、努力とか気力とか体力とか、現状の竜の民には有り余っているものを使って解決できるものだった。
王様の為に、みーの為に、百竜の為に。そして、竜の国の為に、竜の民の為に。それが自分の為でもあると、そう思って懸命になってくれている竜の民には、感謝の言葉もない。
「風吹」部隊は乗合馬車で南の竜道に向かい、竜の湖での受け容れ態勢は整っていると連絡があった。里程の半ばといったところだが、さて、僕にとってはどうなのだろう。
「えっと、カレン。呼んでないんだけど」「私は侍従次長です。その職責の主なところは、侍従長の補佐であると記憶していますが、間違いだったかしら?」
結果的にそうなっただけで、別に除け者にするつもりはまったくなかったのだが。
「風吹」の放出訓練は恙無く終了して、すでに八つ音を過ぎている。どこで嗅ぎ取ったのか、竜の湖に向かっているはずのカレンが押し掛けてきて、正当性を主張中。フラン姉妹は、扉の外だろうか。さすがにこの面子では、カレンに随伴するのは遠慮したようだ。
「はぁ。多忙な中、参集いただき、ありがとうございます。進捗に問題がある方がいなければ、休息を多く取る為にも、さっそく始めさせてもらいます」
一拍置いて、発言する人はいないようなので、本題に入ろうとすると。
「この中に私が交じっているのは、よろしいのですか?」
いきなり躓かせてくれたのは、ファタだった。相変わらず、童顔で常に笑っているような顔で、本心が読み難い人である。野暮用ーー組合との出向等に関する話合いーーを済ませて、予定より早く戻ってきたところを捕まえて、もとい捉まえて。帰着の報告をせず、浮いた時間を休息に充てようとしていたので、超過労働を強制というか強請。
明日は治癒術士の交代要員として。もしシャレンが間に合わなかったら、三人目として協力をお願い(きょうよう)するつもりである。
「謙遜しなくてもいいですよ。組合の幹部として、この大陸の多くの事情に通じているファタさんの知恵をお借りしたくて、お呼びしたのですから。逆に言うと、裨益するに値しないのなら、竜の国の保証を得られなくなる可能性が無きにしも非ず、と」
こくこくと、笑顔で焦りながら低姿勢、という器用なことをやってくれる雷守。彼には竜地の一つ、雷竜を任せてある。現在は、冒険者組合の仕事は少ないので、僕の使い走りのようなことをやってもらっている。そこで気付いたのだが、彼は人を使うのがとても上手い。その分、自分がさぼろうとするので、ときどき発破を掛けてやる必要はあるが、この若さで組合の幹部にまで上り詰めたのは伊達ではない。
侍従長の執務室に来てもらったのは、オルエルさん、バーナスさん、ファタ、……とカレン。老師と纏め役にも参加して欲しかったのだが、老師からの定時連絡でそのことを伝え忘れてしまった為、今回は特別な助言者に出席を依頼しました。
「あら、小娘。気が利かないのですわ。お負けなのですから、お茶ぐらい淹れるのですわ」「……小娘、とは私のことでしょうか?」「ふふっ、心外といった顔。どうやら、小娘であるという自覚はあるようですわね。それでいてその感情を呑み込めないとは、小娘であることの証左。これからも小娘と呼ばないと、あなたに失礼であると理解しますわ」「っ‼ っ⁇」「ねぇ、リシェ。あの凶悪な邪竜の目をした小娘が怖いですわ」
僕の隣に座ったレイが、殊更にカレンを煽る。遊び甲斐のある玩具を見つけたようなものだろうか、カレンには悪いが、スナ、じゃなかった、レイには役不足なのだから、早々に飽きてくれるといいのだけど。僕は、見えないレイを心象、見当を付けて右手で頬を。右の肘で隠すようにして、左手でスナの頬を、むにゅ、と摘んで。
「レイ。そういうのは、時間がある別の機会でお願いします」「ふふっ、リシェのお願いなら聞かないわけにはいかないのですわ」「うー、へっと、あいあとう」
頼んでみると、むにゅむにゅ~、と僕の頬を摘み返してくる。僕にはスナに見えているわけだが、レイに見えている人たちからすると、いちゃついているように見えるらしく、視線で人を殺せる水準のカレンだけでなく、他の方々もレイが喜びそうな、それはもうひゃっこい目をしておられます。この空気はもう変えられそうにないので始めてしまおう。
「先程の会議では語りませんでしたが、呪術師や疫病、それらに係わっているかもしれない、敵、について。それと、同盟国の思惑について。忌憚のない意見をお願いします」
竜の民の前では口にしないほうが有益と判断した事柄である。意見を聞きたい、ということもあるが、僕一人で抱えるには後に与えるかもしれない影響が大き過ぎるので、言い方は悪いが、共犯者的な仲間が欲しい。
「普通に考えるのでしたら、同盟国の戦略の一つ、となるのでしょうが」「外地という利権を失った貴族共が腹いせにやっているのやもしれぬな」「ただ、これだけ大掛かり、下手をすれば自分たちにも被害が及ぶような、際どい策を採るとは思えませんが」「そうなると、やはりそうなってしまうのかのう。背後で、竜の国と同盟国の共倒れを狙っている勢力が居るや否や」「考えたくないですね。ストーフグレフ国の介入なんて……」
バーナスさんとファタが、敵となりそうな相手を挙げてゆく。
……ストーフグレフ? あれ、何かを失念しているような。……紙に、青年に渡して?
ぶわっ。
「ーーっ⁉」
思い至った瞬間、全身から溢れて、意識が遠退きそうになる。ぐぅあ、気持ち悪っ。体の全部から汗が出ている。息苦しくなって、周囲に悟られないよう、呼吸を早くする。
初めて知った。衝撃が大き過ぎると、人間の体ってこんな風にもなるのか。首元に手をやってみると、べちゃっ、と音がした。気付かれないよう、顔の汗を袖で拭う。
ーー僕の勝ちです。そう書いた紙を、ストーフグレフ国の青年に渡した。あのときは、最良の方法であると思ったが、何という碌でもないことをしてしまったのか。ストーフグレフ王からすれば、王でも大臣でも、将でもない木っ端役人から、礼儀を弁えない、無礼極まりない、ただの書き殴った紙を渡されるのだ。怒ったかな? 怒ったよね? まさかファタが口を濁した、その先が、実現するなんてことがあるのだろうか。
「あとは、南方の国々ですかな。竜の国を突いて、同盟国とストーフグレフ国の均衡を危うくしようとしているのかもしれない」「南は不安定ですから。ストーフグレフ国に同盟国を打破させて、彼の王の庇護を受けようと画策している、などということはあるのでしょうか?」「出身地を悪くは言いたくないけど、う~ん、南は纏まりがないからね。そこまでの大望を抱くかどうか、まぁ、彼らは野心だけは竜並みなんですけど」「ええ、そのようですね。お祖父様から『未熟者は近付いてはならん』と厳命される程ですもの」
オルエルさんとカレンが他の穴を埋めてゆく。ふぅ、いや、ストーフグレフのことも、起こり得る可能性の一つに過ぎない、と今は考えることにしよう。
「ランル・リシェ。〝サイカ〟のカイナス三兄弟のことで何か聞いていますか?」
「特には。戦略ならまだしも、戦術水準で口を出されるのは、指揮官が嫌がるだろうね。従軍はしていないだろうし、ボルンさんが竜の国にちょっかいを出すとも思えない」
出来れば進攻自体を止めて欲しかったが、裏を返せば彼らでも止めることが出来ないくらい同盟国の意志が固かったということか。
皆が考えに沈んで、大切な時間の砂粒が少しずつ減ってゆく。だいたいそんなところだろう。他に意見はないようだ。そして、今の状況で採れる対策など限られている。だが、その他に忽せに出来ないことが一つ。それについて聞きたくて皆に集まってもらったのだ。
「同盟国に勝ち目はない。僕はそう思っていますが、彼らは攻めてきました。そこでお聞きします。同盟国が勝つとしたなら、どのような手段を用いたときでしょう?」
聞くと、お互いが顔を見合わせるように、牽制というか消極的というか。
「はは、これは私から言ったほうが良いようですね」
頬をぽりぽり掻きながら、言い淀んでいたものの、ファタが口を開く。さっきの僕の脅し(?)が効いているらしい。
「竜の民を捕らえて、人質にして、脅迫ですね。理由は何でも。保護と嘯くも、不法入国を捏ち上げるも、幾らでも手段はあります。私も、これまでフィア様を見てきたからわかります。あの方は、たかが数人の命と引き換えに、統治権を差し出し兼ねない。以前であれば、そのような愚行、鼻で笑っていたでしょうね。ですが今は、私には見通すことは困難ですが、グリングロウ国にとって分水嶺であるような気がします」
ファタの所感に、皆が重たいもの抱えて押し黙る。
「兄さんは、自分であれば竜の狩場に国を造らないと言っていました。そこで、先程の呪術師の一件から考えていました。竜の国が抱えている潜在的な危険は何だろうかと」
畢竟、どこまでいっても、この問題は付き纏うのだ。それが特別で、重要で、大切であるが故に、切り捨てることなど僕たちには出来ない。してはならないのだ。
「レイ。ストリチナ同盟国に竜が加担、いえ、協力している可能性はあるかな」「っ!」「ーーっ」「⁉」「…………」
レイ以外の四人が、その可能性にまったく思い至っていなかったのだろう、四大竜の咆哮を間近で浴びたような、青天の霹靂、いや、まだ起こっていないのだ、寝耳に雷竜、か。
ん? いや、これは……。笑顔のまま沈黙しているファタはーー、まさか予測していた、のか? 見様によっては、あ~、ん~、どうだろう、僕の勘違いかな。
「ストリチナ地方の名の由来は、古竜のストリチナ、水竜に因っているのですわ。人が思うほど、竜は人に関心はないのですわ。ただ、竜の狩場の借用、盟約と『千竜賛歌』、嘗てないほどに人への興味が疼いていることは確かですわ」
「えっと、言い忘れていましたが、レイは昔から竜と人の係わりについて研究しているんです。僕が知っている限りですが、最も竜に造詣が深い氷竜だと思います」
レイの耳新しい話に、不自然でないよう補足、というか補完する。
「ふふっ、リシェ家の者、と言えば甘心して頂けると思いますが、あの娘より竜に詳しいとの自負はありますわ」「疑うわけではありませんが、どうしてそんなにも竜に精通していらっしゃるのかしら?」「あら、さすが小娘。その程度のことも聞かなければわからないなんて、いったいこれまでどれだけリシェに迷惑を掛けてきたのか、考えるだけで胸が痛みますわ」「…………」「リシェの出身地がどこか、それだけで必要な欠片は揃っていますわ。『知恵の極』、『冠絶なる荒魂』など異称は数知れず、根源たる魔力を綾なす至高の主、氷竜ヴァレイスナから授けて頂きましたわ」「ヴァレイスナ連峰の、竜……?」
ああ、自画自賛が凄いですね。いや、言っていることは間違いじゃないと思うんだけど、自分で言うのはどうなんだろう。ふむ、やっぱり人と竜の感性は異なっているのだろうか。
種が違うのだ、異なっているのは当然。これまで大きな齟齬がなかったのは、たぶん、スナのほうで僕に合わせてくれていたのだろう、あ~、いや、どうなんだろう、スナは自然体のように見えるし、みーや百竜に鑑みて、ただの嗜好の違いかな?
それらは機会があれば確かめるとして、もう一つの懸念を質す。
「人に関心はなかったとしても、ミースガルタンシェアリ様に関してはどうかな? 盟約を交わしたとはいえ、竜の狩場を使用していることに悪感情を抱く竜はいると思うかい?」
「あの水竜は、よくわからないのですわ。何を考えているのか、若しくは何も考えていないのか、今のところ、塒に隠って動く気配は見せていませんわ。
悪感情を抱く竜がいるか、という疑いですが、何とも言えないのですわ。竜のそれは、人とは尺度が異なりますわ。道端に、蹴り易そうな石が転がっていたから、蹴ってみた。その程度のうっかりで、人の国など滅びてしまうのですわ」
うっかりで滅びたら堪らない。でも、昔から石を用意したのは人間の側だったのだろう。人の歴史には、竜に対して好意的でなかったり好戦的であったり、そうした記述は枚挙に暇がない。彼らの殆どは、竜の関心を引き出すことも敵わなかったわけだが。
「呪術師のときのように、竜が操られてしまう、という懸念はあるのでしょうか」
レイの気配に感ずるところがあったのか、オルエルさんの態度が上位者を前にしたような改まったものになる。それはバーナスさんやファタも同様で、レイに呑まれている。
「あれはみーが仔竜で、未熟だからですわ。竜が人如きに操られるなど、竜の角汚しにも程があるのですわ」「レイ~?」
駄目だよ、地が、本音が出てるよ~。と演技に支障を来してしまったレイに、それとなく仄めかす為に、今度は耳をこりこりする。ん、あれ? 気に入ったのかな。お返しに、僕の耳をこりゅこりゅしてくるレイは、随分とご機嫌な様子。レイは、僕との接触を好んでいるような気がしていたが、間違いではなかったようだ。
「竜も赤面する二人は置いておいて、最悪の想定をしておきますか。仮に、同盟国が竜の守護を受けていたとして、対処方法はあるでしょうか?」
羨ま……、もとい呆れたオルエルさんがこの場での最高位として、先に進めてくれる。
「ふむ。姫様、みー様が臥せっておられるとなると、あとは侍従長に出張ってもらわねばなるまいて」「バーナス殿……、その、侍従長御一人では荷が勝ち過ぎているのでは……」
氷焔と里の関係者以外で、あとレイを除いて、一番僕に詳しいだろうオルエルさんが諌めようと試みてくれるが、効果は薄いようだ。
他者の力であろうと、自分の為に使えるのなら、自分の力と変わらない。そんな風に割り切るのに、罪の意識を感じるのは、相手がレイ(スナ)だからだろう。それでも、竜の国の命運に係わるかもしれないのなら、尋ねないわけにはいかない。
「レイ。竜が遣って来たとして、僕なら対処が可能かな?」
僕は父親失格である。娘を危険に晒すことを、就中竜と対立させてしまうことを、それらを天秤に掛けて、選んでしまった。本当に、自分の至らなさに腹が立つ。
「そうですわね。リシェでしたら、一竜を追い返すことは出来ますわ。二竜で劣勢、三竜以上では遁走をお勧めしますわ」「あ……、えっと、……複数の、竜?」
レイが僕に力を貸してくれる。安堵した瞬間、突き落とされる。
竜は群れない、とはよく聞く言葉だが、必ず一竜で動く保証なんてない。どうしてそんな簡単なことを見落として、想定していなかったのか。ぐぅ、僕は……。詰めの甘さを思い知らされる。失敗した、なんて本当は軽々しく口にしたくないんだけど……。
ふと、遠ざかっていく背中が見えた。そうだ、今はまだ追い付けないのだ。積み重ねていくしかない。そうしていつか、兄さんの横に並べる日を、確かな目標に据えたのだ。
上手くいく保証なんてあるはずない。竜の狩場に遣って来たとき、ミースガルタンシェアリと交渉しようと頭を悩ませていた。畢竟、力で勝てないのであれば、それ以外を使うしかない。今度こそ、竜と交渉する破目になるかもしれない。だが、まったく成算がないわけではない。僕自身、未だわかっていないことだが、スナの存在が証明してくれている。
がちゃ。と不意に執務室の扉が開いて。
冒険者時代を彷彿とさせる筆頭竜官の怒声が轟いた。
「今は重要な会議中だ! 確認ぐらいせんかぁっ‼」「ぅひっ」
伝令なのだろう、慌ただしく部屋に入ってきた竜騎士が、氷竜と雷竜にくっ付かれたかのように身を縮こまらせる。彼は、慥かエルネアの剣隊の隊員。まだ二十半ばくらいと若そうなので、四十から三十が主流のエルネアの剣隊では新米なのだろう。固まってしまった彼に、再びオルエルさんの叱責が飛ぶ前に、強張りを解すような柔らかな言葉で促す。
「見たところ、急ぎのようですね。報告をお願いします」「あっ、はいっ、だ、団長がオルエルさんと侍従長を呼んで来いと言ってました!」「僕とオルエルさんだけですか? 皆で向かったほうが良いですか?」「え? それはどうなのかなぁ」
報告することで頭がいっぱいいっぱいで、それ以外のことは疎かになっていたらしい。常に考えることを放棄してはならない、とはいえ、それで報告の内容がお座なりになってしまっては元も子もない。業を煮やしたオルエルさんが彼に歩み寄って、直接聞き出す。
「バーナス殿、ファタ殿、時間に余裕がないようでしたら、持ち場に戻られてください」
順繰りに見た後、僕に視線を向けてきたので、頷いて了承する。会議の本旨は達成できたと言っていい。共通認識を得て、レイの意見から洗い出しも出来た、かな。
「ここで除け者にされると気になって、おちおち眠ってられんでな」「それは確かに。エンさんがわざわざ……、む? もしかして『風吹』の訓練が嫌で、ーーいや、彼だし……?」
心付いて、ファタが疑心暗竜になっている。「風吹」の訓練が嫌だったのは確かだろう。ただ、細かな指示が必要となる任務はエンさん向きではないので、初めからフィヨルさんとザーツネルさんに任せるつもりだった。部隊の指揮官と、それと戦士として、自由に動けるようにしておいたほうが彼の長所を活かせるだろう。
「では。炎竜の間のようです、向かいましょう」
全員が扉に向かう。ああ、付いてくることがわかっていたから、オルエルさんは二人に尋ねなかったのか。執務室を出て、僕の右に並ぶカレンと、左で腕を絡めて体を密着させるレイ。スナに見えている僕には、父娘の微笑ましい光景なわけだが、他の人々にとってはそうではない。前を歩く男性陣は我関せずと傍観を決め込み、女性陣(?)は、いや、もう風竜のように風に乗って大らかな自由な心で俗世の煩わしさのすべてを……、はい、無理でした。凡俗な僕には、短いはずの炎竜の間までの距離が遠く遠く感じるのだった。
ーーというか、カレンは気付いていない? 扉の横で仲良く並んで眠ってしまっているサンとギッタのことはいいのだろうか。見ると、何だかんだで有能なファタが点数稼ぎ、ではなく、気を利かせて、使用人に指示を出しているところだった。
炎竜の間である謁見の間には、エンさんとエルネアの剣隊、こちらも呼び出されたのだろう、クーさんが居た。そして、彼らが取り囲んでいる、冒険者らしき風体の男たち。人数は三十弱といったところか、後ろ手に縄で縛られて、座らされている。
「エン殿っ、これはいったい!」
矢も盾も堪らず駆け寄るオルエルさん。古傷が痛んだのか、体勢を崩して顔を歪めるが、そんなものはお構いなしにと、エンさんに詰め寄る。
「詳細は、伝えていなかったんですね」「そりゃなぁ、おっちゃん言ったら、自分も行くっつって、聞かんかったろーしなぁ」「確かに。そうなっていたかもですね」
大広場での、二人の密談というか話し合いを思い出しながら確認してみると、至極全うな答えが返ってきた。捕らえられていたのは、因縁深い、見知った者ばかり。
「何だ? 副団長も居たのかよ。どうなってんだ、こりゃ」
薄汚れた格好に、頬がこけた顔には疲労の色が濃く表れている。エルネアの剣の本拠地で見掛けたときは颯爽とした貴族のような雰囲気を醸していたが、今では良くて盗賊の親玉、といったところか。髭は伸び放題、獣染みた体臭からこれまでの生活の程が窺える。
エルネアの剣を乗っ取ろうと企み、露呈し逃亡し、再起(?)の為、遺跡で氷焔を襲撃したディスニアと、その仲間たちの末路だった。いや、僕たちにとっては末路と受け取れるかもしれないが、彼らにとってはどうなのだろう。
捕縛された彼らの、殆どが項垂れて、精も根も尽きた、といった体である。
「ギルースさん。彼らは昨今の情勢に疎いのですか?」「そんな感じだなぁ。まー、尋問はオルエルと侍従長に任せるつもりだったしな」「ということは、ギルースさんが竜の国の、竜騎士団の隊長だということを、彼らは知らないんですか?」
項垂れていたむさ苦しい男共が、一斉に顔を上げて、嘗ての団長を凝視する。
「序でに、こちらのオルエルさん、竜の国の筆頭竜官です。竜官、というのは、他国での大臣に相当します。要は内政で、王様、宰相に次ぐ、三番目の地位ということになります」
追加情報を上げると、皆目を真ん丸に、あんぐりと口を開けた。
「何だよ侍従長~。それ俺が言いたかったのに~」「本人が言うより、第三者が言ったほうが信憑性が増しますから。彼らの驚いた顔が見れた、ということで満足してください」
僕とギルースさんで戯けて見せたが、聊かも眼光を緩めることのないオルエルさん。効果はまったくないようだ。彼が暴発する前に、真相とやらを聞くとしよう。
「それで、彼らは何をしに竜の国を訪れたのですか?」
「はっはっはっ、北の洞窟行って、竜退治だー、はっはっはっ」
これはまた、エンさんらしいざっくりとした説明である。笑ってはいるものの、理由が理由だけに、投げ遣りな感じではあるが。然ななり、まぁ、大凡のところは了解である。失地を挽回、現状の打破を狙って、一発逆転の暴挙に出たのだろう。
北の洞窟の「結界」は、竜の雫ーーそれも北の洞窟にある竜玉でないと通ることが出来ない。竜の実や竜茶、樹液の森などの「結界」は、竜の雫を砕いた欠片を持った者のみが通過できる。竜の雫は高価な宝珠である。管理者や採取者に、失せ物や盗難、強奪などの危険が及ばない為の処置である。
竜を倒す以前に、竜と見えることさえ叶わない。然も、彼らは知らないが、ミースガルタンシェアリはすでに世界に還っている。場当たり的なのだろうが、破綻しまくった計画である。五十人くらい居た仲間たちの数が減っているのも、むべなるかな。
「ギルースさん。彼らが、この時期を選んだ理由、背後関係、東の竜道からでしょうが、被害状況は?」「偶然で~、単独で~、軽傷二、ってとこだなぁ」「……真っ白ですか。もう尋問も必要ないようですね」
同盟国や諸勢力と関係があるわけでもないのに、何故こんな面倒なときに遣って来るのか。彼らが企んだ悪事よりも、手間を掛けさせて時間を浪費させられたことに対して怒りが湧くが、事はエルネアの剣隊の士気に係わる。心を砕かないわけにはいかない。
僕は、竜騎士を見回してから、再度ギルースさんに尋ねる。
「エンさんの扱きの成果があったようですね」「あ~、そりゃ俺たちも意外だったなぁ。まさかこんなに差があんとはなぁ。団長様様ですわ」
エンさんの教練で竜騎士は全員魔力を纏うことが出来るようになっている。その成果は思っていたよりも絶大で、彼らはディスニアたちに重傷を負わせることなく捕らえてしまったのだ。嘗ては技量に差はなかっただろうに、境遇だけでなく力の程でも見せ付けられて、失意どころか絶望に身を焦がしたのかもしれない。同情はしないが、哀れだとは思う。
そして、厄介な、困った問題が残っている。コウさんが不在の中、彼らに処遇を下さなくてはならない。先延ばしにするなら、翠緑宮の地下の牢獄に入っていてもらうことになるが、この火急の折に、余念を引き摺ったまま事に当たるようなことは避けたい。
「あのときの小僧か。お前は竜の国とやらの、何なんだ? さっきから偉そうにしてるが」
偉そう、という言葉に少なからず衝撃を受ける。いやいや、場を仕切っているように見えたかもしれないけど、冷酷侍従長や薄情侍従長を演じているわけではないのだから、その検分には異議がある。
「先程、ギルースさんが口にしたように、僕は竜の国の侍従長で……?」
答えようとしたが、あからさまに顔を背けた怪しい人物に心当たりがあったので、問いに問いで返す。まぁ、何となく予想はつくのだが。
「あそこの彼、二十歳くらいの周期の若者は、どこで拾ってきたんですか?」「ああ、あいつか。街道から外れたところで、三人の怪しい男に追われていた。男たちは俺たちを見て退いた。何か遣らかして追われていたみたいだったから、付いてくることを許した」
面倒臭そうに答えるディスニア。これが地なのだろうか、ある意味、冒険者らしくなったというべきか。
「ん? こぞー、知り合いでもいんのか?」
僕の瑕疵、というだけでなく、コウさんにも係わりのあることなので、出来れば明かしたくないのだが、王様の兄姉には知る権利がある。罪悪感でじくじくと爛れるが、彼女が傷付くことを容認してしまった僕の罪は許されるものではない。
「竜の国が完成して、挨拶回りが終わったあと、間者や密偵などの人々に竜の国を案内して回ったときのことです。彼は、フィア様の心臓を一突きにしました」
……痛い。事情を一瞬で解したクーさんは、僕の首を後ろから斬り落とす。はずだったが、使用しているのは魔法剣なので、血が出る程度の傷ができただけである。
「ひぃぃっ、やっぱり、化け物だ! だいたい、何で心臓を抉られて死なないんだよ! ふざけんなよっ」「はぁ、やっぱり気付いていなかったんですね。仕方がないといえば仕方がないですが。あれは、フィア様を模した魔法人形です」
こんな嘘がクーさんに通用するはずはないが、僕に危害を加えようとすれば嘘がばれるかもしれない。それは得策ではないと、なけなしの理性が仕事をしてくれたらしく、攻撃を止めてくれる。その代わり、というか、今度は、というか、エンさんが魔法剣で僕の足の、小指の辺りを突き刺す。……痛いです。狙ったのだろうか、爪の根元に直撃、涙が出そうになるくらい痛いです。竜にも角にも、王様の姉と同様に攻撃はそれで止めてくれる。
ああ、さっさと終わらせて、塗り薬を塗りたいなぁ。と嘆いていたら、レイがいつの間にやら手にしていた塗り薬を、僕の首と穴の開いた靴の隙間から、ぬりぬりしてくれる。絶世の美女の登場に、自分たちの境遇も忘れて、ディスニアたちが粘っこい視線を向けてくるので、僕の大切な愛娘に集まってくる視線を殺伐侍従長の眼光で黙らせる(くじょする)。
「ーー若輩の身で、こんなことを言うのは気が引けますが。逃げて逃げて、まだ逃げますか? 責任逃れや言い逃れをする前に、自らを顧みてください。戦うことを前提にしない逃げは、破滅を背負って歩き続けるようなものです。あなたはフィア様を弑することが戦うことだと思っていたのかもしれませんが、それは違います。あなたは、戦うべき相手を間違えています」「っ! じゃあ、だったら、誰と戦えばいいってんだよっ!」「僕は、フィア様ほどお人好しではないので、答えしか求めない者に差し出すものは持ち合わせていません」「ーーっ、……っ」
睨み返す気力があるのなら、その源泉が何であるかを探って欲しいところだが、凝り固まった今の有様では無理だろう。彼が未来で、味方でもなく敵でもないものと戦う手段を手に入れられると、サクラニルに祈っておこう。
「……魔法人形」
後ろでカレンが呟いた。どうやら、気付いたようだ。呪術師を追い掛けたとき、角を曲がると影も形もなく、カレンの魔力探査にも引っ掛からなかった。あの呪術師が魔法人形であったら、それらも可能。魔法人形を作成したときならいざ知らず、完成後の、魔法的な偽装を施してあるだろう魔法人形の正体を、まだ技巧的には未熟な双子が見抜けなかったのはーー、いや、ここはエルタスの技量を褒めるべきだろう。魔法人形を人型に作成するのは、すでにある雛形を覆す、心象的にかなり難しいことのはずだから。
「何にせよ、先ずは彼らによって、命の危機に晒されたエンさんとクーさんの意見を聞かないといけませんがーー」
先程から気になってはいた。オルエルさんやギルースさんのような含みを、二人からは感じないのだ。何というか、まるで人事のような関心の薄さだ。
「あー、やっぱこぞー、誤解してやがったか」「えっと、誤解ですか?」「あんときゃ、剣ぐさぐさでわかんなかったかもしんねぇが、俺たちゃ死なねぇしな」
エンさん独特の言い回しを理解するのは、今回は無理そうなので、クーさんに翻訳、いやさ、説明をお願いすると、彼女は自身の心臓の辺りを指でとんとんと軽く叩いた。
「あたしたちのここには、コウは気付かれていないと思っているようだが、魔法が仕込まれている。恐らく、命脈が尽きる一歩手前で、『凍結』のような、もっと高度な魔法だろうが、発動するのだろう。そういうわけで、死を免れることは了承済み。痛くはあったが、あの程度の痛みならコウと付き合い始めてから幾度も体験している」「あー、それん、もーひとつあんなぁ、相棒、頼む」「リシェは、あたしたちが殺され掛けていたからコウが暴発したと思っているのだろうが、それは勘違い。コウはあたしたちが死なないことはわかっていた。あの娘が耐えられなかったのは、ーー人が人を傷付けていたから。自分は劣った者として、人に憧れを抱いていたあの娘の幻想を打ち砕いたから。コウは優し過ぎる。そして、世界はそうではなかった。今更言っても詮無いことだが、人の悪意から遠ざけ過ぎた」「今、ちび助ん一人んすんわけにゃいかねぇかんな。ちび助にゃ、さっさと一人前ぇんなって、こんな弱さ(まほう)無くせっといーんだがなぁ」
これだけ想われるコウさんと、これだけ想うことが出来る二人と、どちらが幸せなのだろう、と無意味なことを考える。他人の幸せに順位を付けてどうするのか。
ああ、駄目だなぁ。勘違い、そう、ただの勘違いなんだけど。僕は最初から、勘違いしたまま。それで、わかった気になっていた。コウさんの、優しさの源泉を履き違えていた。王様は、弱々で、ダメ駄目のだめっ娘さんだった。王様が、「王さま」を演じていたことはわかっていたはずなのに。王様の下手糞な演技に騙されてしまった。
海に立っている気分だ。ようやく立っている場所が海だと気付いて、どぼんっ、と落ちる間抜け。遥かな底の深海どころか、海であることにすら気付いていなかった。遭難した僕を助けてくれる者はいない。いや、助けなど断る。僕は、自力で向かわなければならない。どこかにあるはずの陸を、いやさ、果ての果ての水底まで潜っていってしまおうか。
「で、どーすんだ、こぞー」
エンさんが現実に回帰させてくれる(つうこんのいちげき)。手前勝手な罪悪に浸る間も与えてくれないらしい。
「えっと、そうですね。竜の国で働いてみますか?」
エルネアの剣隊の面々が気色ばむ。もはや凶悪犯と言っていい激烈な面容のオルエルさんを手で制して、続ける。
「職場は、地下です。そこでの仕事は、竜の民の役に立ちます。ですが、竜の民はあなたたちの存在を知りません。誰かの為に働いても、感謝されないどころか、気付いてさえもらえない。それでも人の為に尽くそうとする、その意思が持てるのなら、これまでの生き方と違う生き方が出来るのなら。贖罪でも、或いは刑罰でもいい、自分を誤魔化しても構わない。三周期、人の為に尽くすことが無意味かどうか、確かめてきてください」
念頭に、王さま、のことがあったのは間違いない。女の子がなりたいと望んだ、その欠片だけでも触れてくるといい。はぁ、これは八つ当たりなのだろうか。
さっそくギルースさんが、思ったことをそのまま口にする。口は災いの元、という至言は、彼の辞書には載っていないらしい。
「ぶぅーぶぅー、侍従長甘いぞー、三十周期くらい打ち込んどけー。序でに侍従長も打ち込まれろー」「……一番の被害者であるはずのエンさんとクーさんが、特に気にしていないのですから、あとはエルネアの剣の皆さんの一存、ということになるのですが」
僕の提案に、竜騎士すべての視線がオルエルさんに集まる。
「ディスニア、立て」「…………」
よろよろと頼りなげに立ち上がると、のっしのっしと無造作に近寄った筆頭竜官は、まともに殴るのも馬鹿らしいとばかりに、固めた拳の甲でディスニアの頭を払った。それだけで、彼は地面に叩きつけられて、玉座のある段差まで転がってゆく。
「地下に行って来い」「……ああ、そう…するよ……」
応えて、意識を失ったようだ。異論のある者は炎竜の間になく、沙汰する。
「フィア様が快復なさるまでは、牢屋に留め置いてください。翠緑宮はオルエルさんに任せることになるので、以後の処置もお願いしてよろしいですか」「ーー問題ない」「では、皆さん、自らの持ち場に向かってください。南の竜道に行かれる方は、休息を取る為にも、早々に出立をお願いします」
銘々に動き始める。ざわついているが、静かに重みの加わった、どこかふわつくような空気。皆、ひたひたと、近付いてきていることを実感しているのか。戦の前の雰囲気とはこんなものなのだろうか、と考えて、埒も無い、と切り捨てる。
歩き出そうとすると、レイが僕の背中を突いてきた。
……深つ音までに南の竜道に辿り着くのを、僕は諦めた。
居室に戻ると、たしったしっ、である。
笑顔炸裂のスナは、早く寝床に座れと手で敷布を叩いて催促してくる。否やはあろうはずもなく、腰掛けようとすると、僕の体がぐる~りと回転する。どすんっ、と落ちてから、状況を把握する。スナが僕の体を小枝のように後ろに投げ捨てて、僕のお腹の上に、ふにゅっ、とぺったり座り込んだのだ。柔らかくて冷たいお尻の感触が気持ちいい……、って、いやいや、そんなことをしみじみと感じている場合じゃない。といっても、現況が理解できないので、詮ずるところスナに尋ねないといけないわけなのだが。あ、その前に、あと一つだけ。お願いですから、ちゃんと着いてください。直接接触だと色々と悩ましいので。
「えっと、スナ。何をしていらっしゃるのでしょうか」
僕のお腹に座って、身を乗り出したスナは、僕の右頬を二本指で、こしこし、している。ほんのり冷たくて、もっと擦って欲しいと思わなくもないが、それにしてはこしこしの指が心持ち強めなのは何故なのだろう。僕の視線に気付いたスナが、若干忌ま忌ましそうに、
「消毒ですわ」
不思議なことを言う。ほんのりの冷たさが、ほんのりの暖かさを思い出させる。スナが擦っている場所は、百竜の唇が触れたーー口付けの、炎竜の温もり。
「ひゃぐぅ、とりあえずはこれで良いですわ。良くないけれど、良いのですわ。物理的にも、魔法的にも、あの熾火の痕跡は取り除いたのですわ」
氷竜の涼しさで炎竜の熱を振り払うと、氷竜の優しさが左頬に。
心理的に、だろうか、心に残っていた痕跡の上に、新たな痕を刻んでゆく。
「勝利を約束する、氷竜の接吻ですわ。これで父様は、愛しい娘の為にも勝つ以外の選択肢はなくなったのですわ」
覆い被さってくる娘に。食べられてしまいそうだ、と思って、それも悪くないかな、と身を任せてしまった僕は、末期症状なのかもしれない。そんな少年の心を弄んで、妖しの氷竜はご満悦のようだ。そのまま僕の上に倒れて。ちょうどスナの口が僕の耳元にあって。
「父様に、初めてを捧げますわ」
耳と心を擽ってくる。
「私に乗る、初めての父親。余りの栄誉に身震いして、ひゃっこくなると良いですわ」
竜が人を乗せるのは、特別なことなのだろうか。みーからはそんな感じは受けなかったが、仔竜と古竜では閲した周期と魂の重みが異なるのかもしれない。
「父様が後から向かわれることは、私が伝えておいてあげますわ。竜と違って、人は軟弱で貧弱で脆弱なのですから、ゆるりとおやすみなさいな、ですわ」
スナの冷たさが導いてくれる。今日は一日、色んなことがありすぎた。疲れていることは自覚していたが、こうして体から力を抜くと、思っていた以上に疲労が蓄積していたことが、手足の先の痺れや、小さな痛みを伴う重くて据わりの悪い頭に、思い知らされる。
「…………」
上手くいく。上手くいかなければ、撤退する。撤退すれば、上手くいく。上手くいく。
頭の中でぐるぐる回って、訳が分からなくなってくる。僕は駄目な父親なので、すっきりと眠る為に、娘に協力してもらおうと思う。これだけ力を貸してもらって、未来でちゃんとお返しできるか不安になってくるけど、……ああ、そういえば、誰かに甘えようなんて考えたのは、そうして実際に甘えるのは、何時振りだったかな。
「んー、スナ、ちょっと目を見せてもらえるかな……」「あら、何ですわ?」
沈んでいくような感覚。眠りの誘惑に逆らうことなく。あと少しだけ瞼を開いておく。
「……コウさんの翠緑の瞳も、……みー様の炎眼も…綺麗だけど……」
僕の瞳を覗き込む淡碧眼に、僕が映っている。
「……スナの…氷眼が……一番優しくて……」
僕の瞳にもスナが映っているのかと思うと、何故だか無性に嬉しくなる。
「僕は大好きかな」
僕は、ちゃんと笑えているだろうか。良かった、最後だけは、確かな言葉で。
スナの瞳が「半竜化」したみたいに、複雑な光彩で。ああ、これは魂なのだろうか、一番深いところまで、すとんっ、と落ちてきて。馴染んでしまったものは誰のものなのか。
「ひゃんっ⁉ ひゃふ……ぁな、何ぞ世迷い言を吐きよるのじゃっ、父様の分際で! ふしだらな父様じゃ、わしの心を掻き乱すなぞ……、すわっ寝逃げするでないっ、穴という穴に氷をしこたま打ち込んでやろうぞ!」「…………」「ーー! ーーっ⁉ っ……」
……残念、最後まで聞き取れなかった。目を閉じてしまったので、スナの一面を堪能することなく、でも心の中はスナだら(いたずらっこな)け(スナ)で、ゆっくりと手放していったのだった。
夢の続きだと思いたかった。空にある湖に落ちてゆく。地面には、逆さの氷竜。薄靄に揺蕩うなだらかな光に照らされた威容は、炎竜に勝るとも劣らない、どっぼーん……。
実際には、ばっしゃーん、という感じだったのだろうか。頭から落っこちた、早朝の竜の湖は、遊泳に向いていない冷たさである。先ずは慌てない。水面がどこかわからかったので、力を抜いて居回りの確認をしていると、ぷかりと顔が空気に触れた。そのまま顔を出して、仰向けの体勢でのんびりと手足で水を掻く。寝巻きで、靴は履いていない。里は水が豊富で、泳ぎも一応習得済みなので、溺れることはないのだけど。
「……どうやって、あんなとこに落っこちやがったんだ」
見上げると、サーイが居た。彼だけでなく、二十人くらいが不審者まっしぐらな僕に注目している。思ったよりも静かだった。「風吹」部隊は、陣を敷く為にすでに出発したようだ。ぽつりぽつりと寝具を回収しに来ている竜の民の姿が見受けられる。
転落防止用の柵に掴まって、固定するようにしながら腕の力だけで登ってゆく。体を持ち上げたまま、腕の外側で、柵の棒を押すようにするのが骨だ。
「あら、リシェ。湖で目を覚まそうとするなんて、気が利いてますわね。ほら、着替えを持ってきてますわ。早く上がってくるのですわ」
レイがころころと笑う。氷の淑女の登場に、サーイを始め、朝っぱらから男連中の情けない顔を拝む破目になる。そして、毎度の嫉妬の嵐。
ああ、うん、何となく、いや、そこそこ覚えている、かな。氷竜の意趣返しなのだろう。僕の安眠の為に、愛娘を利用させてもらったのだから、湖に落とされるくらいのことは甘んじて受け容れよう。見ると、仮設の指揮所だろうか、あれを使わせてもらうとするかな。
「着替えに利用させてもらっても問題ありませんか?」「…………」「商人に竜札を渡したのは、良い判断でしたよ」「……誰もいねえから、使ってもいいんじゃねえか」
了承を得たので、中に入って出入り口の留め紐を解いて、布を下ろす。
「着替えさせてくれたんだね」
それが世界の理である、とばかりに、一緒に付いてきたスナに尋ねる。侍従長用の制服を着たまま寝てしまったが、その服はきちんと折り畳まれて、スナの手の中にある。
「心配はいらないのですわ。父様のは、じっくりことことねっとりさらさら、隅々までひゃっこくしてあげたのですわ」「服は『浄化』してくれたんだね、ありがとう」
ここは平常心。寝巻きの中は何も着いてなかったが、心を乱してはスナの思う壺である。
スナは、樹液を入れた水をーー最近では「竜水」と呼ばれているそうだがーー寝起きの僕の為に用意してくれる。スナが顔を逸らしている間に、さっさと着替えてーー。
転、転(くる~り)。と素早く半回転したスナは、じっくり僕のものを眺めて、ゆっくりと半回転して元に戻ったのだった。……うん、もういいや、のんびり着替えよう。
「人間の戦いは、相も変わらず、ややこしいですわね」
コップを受け取って、一気に飲みやる。然く喉が渇いているのは緊張の所為だ、などと思いたくはないが、事実は事実として受け止めねばなるまい。
「うん、そうだね。結局、同盟国が攻めてきた理由の本当のところはわからず終いだったし。彼らも、僕たちが戦う本当の理由はわからないのかもしれないね」
……ふぅ、またか。軽く頭を振って、体と心の強張りを解そうと試みる。然てまたスナが竜水を容器から注いでくれる。容器を卓に置くと、とことこと僕の周囲を回る。
「ここは態と服を乱れさせて、娘に直してもらう場面ですわ。まったく、いけずな父様ですわ」「布陣は順調なのかな?」「私たちが着く頃には完竜してますわ。同盟国とやらは、行軍速度も変えていませんし、父様の想定通りになりそうですわ」「聞くのは怖いけど、ーー竜はいるかな?」「娘をたんと可愛がるのですわ」
愛娘のご要望通り、抱え上げて、人に見られたら言い訳できないくらい、ぎゅっとする。
もう喉は渇いていない。氷竜の優しさで潤っているから。情けない父親でごめんなさい。
「活動中の竜はいないのですわ。父様は考え過ぎですわ。あの男ーー伯父の存在に囚われ過ぎていますわ。まったく、父様は娘を嫉妬させて、どうするつもりですわ」
伯父? って、ああ、兄さんのことか。
スナの言いたいことはわかる。身の丈に合った範囲で物を考えろ、ということだろう。兄さんに触発されて、更に高く、手を伸ばそうとしている。でも、今の僕では、届く場所は限られているのだ。考えたところで答えが出ないのなら、一旦捨ててしまえばいい。
「えっと、何をしているのかな?」「出発は、派手なほうが縁起が良いのですわ」
僕の後ろに回って、肩車するように頭を股の間にぐいっと突っ込んでくる。
「ひぃぎっ!」
スナの竜頭に叩き付けられそうになるのを、歯を食い縛って耐える。眼下で仮設の指揮所が、スナの羽ばたきの颶風で撒き散らされている。
見上げれば、もう空はそこにあって。見下ろせば、竜の湖が掌で隠せてしまう。僕はスナの角まで歩いていって、再び竜の景色に心を奪われる。
あれは、氷の粒なのだろうか。いや、冷気かな。羽ばたく度に、光に囁く綿毛のような氷の粒子を風の名残に散らしている。
「あら、見なくても良いのですわ?」
スナの頭の上で、うつ伏せになって額を付ける。
「うん。こんなにも綺麗なものを見ていると、瑣末な地上の出来事に、現実に、還ってこれないような気がしてね。スナを感じていようと思うんだ。難点は、こうしてスナを抱き締めているようで、実際には、ただ引っ付いているだけでしかないということかな」
目を閉じて、懐かしさに触れると、音が響いた。
これはスナの情景。スナを形作る、すべてのもの。
「ひゃふ、擽ったいですわ」「僕も擽ったいから、おあいこだね」
ぶふー、と盛大なスナの鼻息の音が聞こえてくるのだった。