一章 冒険者と魔法使い
プロローグ
山腹にある〝サイカ〟の里から下って、冠木門に到着。
門柱に屋根はなく、笠木を通しただけの簡素な造り。名にし負う〝サイカ〟の学舎に通じているとは誰も思うまい。竜が首を突っ込む、などという古事から、竜首門などと呼ばれたりもするが、市井人からすれば強ち間違いとも言えない。〝サイカ〟を輩出するとなれば、然く想見するのもむべなるかな。
僕でも感慨深く思うものらしい、雰囲気に酔ってしまい言葉が硬くなっているようだ。
古語時代に設置されたのだろう、厳めしいが周期を閲した枯れた風合いは、優しい心地で目に馴染む。そのまま見上げて、空へと視線を遣って、
「ーーっ」
ふわりと、迷い込んだ白い風。笠木の陰に隠れた純白の翼を追うも、棚引く雲が邪魔をして竜影を確認することは出来なかった。
「どうした、リシェ。『星回竜』でも見っけたかぁ」
後ろから嫌な声が聞こえてくる。悪友ーーと一応、友人の枠に括っている青年。相手に気付かれないよう背後に立つ、という彼の悪趣味に付き合ってやる義理はないのだが。
はぁ、油断した。こちらでは僕の完勝だったのに、最後の最後に遣られてしまった。
「もう門を下るんだから、その語呂が悪い呼び方、止めてもいいだろ?」
元々は「幸運の白竜」と、吉兆の知らせと受け取っていたのだが。陳腐だと言い出してからかってきたエクと勝負して、完敗してしまった。まさか僕より嘘が得意な、もはや嘘で作り上げたような人間が存在しているとは思いも寄らなかった。
星回り、と、竜、をくっ付けて、「星回竜」。何度聞いても間抜けな響きである。
エクが、巷間で『竜患い』との隠語を用いられる類いの者であると知ったのは、認定試験で組まされるようになってからだった。僕は僕で悪目立ちしていたので、彼と同期になってしまったのが運の尽きか。
顔の作りは悪くないのに、総髪で常に嫌らしい笑みが貼り付いているので、胡散臭さが大爆発している。粗悪品しか売り付けない商売人のようである。
「仕様がねぇなぁ。あんまリシェを苛めるとアルンさんに睨まれるからな、ひゃひゃっ、これくらいで許してやるよ」「はいはい。餞別としてありがたく貰っておくよ」「そうかそうか、じゃあ、次に会ったら半分くらい返せよ」「わかったわかった。竜を付けて返してやるよ」
こんなどうでもいい会話もこれで最後かと思うと、名残惜しいーーとかそんなことはまったくない。良くも悪くも、エクは他人の心に踏み込んでこない。敢えてそうしているのだろうが、「竜患い」もここに極まれり。もしかしたら、彼なりの信念なのかもしれない。
もう一度見上げるが、新しい風を見付けたのか白竜は憧憬の彼方へ。
門を下る、旅立ちの日に遣って来てくれた白竜に、長いようで短かった六周期を思い起こそうとして、
「おっ、誰か来たみてぇだな」
エクの声で現実に引き戻される。然し、未だ幻想の最中にあるのかと錯誤に陥りそうになる。
華やかな風が吹いてくる。
見るから貴族であるだろうと思わせる、白を基調としたドレス姿の女の子。
然かし、「幸運の白竜」は彼女を祝福しに来たらしい。って、いやいや、自分に自信がないとはいえ、そこまで卑下することはないだろう。
白竜が転生したのではないかと思えるような白髪の女の子は、左の道から遣って来る。
右の道は、外界へと一直線に繋がっている。左の道は、嫌がらせのように、と言うか、嫌がらせのーーいや、試練の道である。
門へと至る、最初の試練。自らの力で門を潜らなければならない。そう、這ってでも。誰の力も借りず、意思を示さなければならない。
彼女の後ろに師範が追行している。荷物は持っていない。只管に、地を見て歩いて、今にも倒れそうなくらいに疲弊して、すぐそこに門があることにも心付いていないようだ。
「可愛いおべべを着てまぁ、ーー可哀想に」
おべべって、はぁ、エクにとっては見世物のようなものなんだろうけど。
エクを楽しませてしまっている、推察できる事柄が、彼の後ろの言葉に集約されている。
「ーーーー」
険しい道を、ドレス姿で登ってくるなど、正気の沙汰ではない。然しもやは彼女は荷物を背負っていない。そう、可哀想に、女の子はドレスしか着るものを持っていないのだ。
相応の事情があるようだ。服もそうだが、靴も。あんな綺麗な、何より歩き難い靴では、靴擦れを起こしているだろう。
彼女は〝サイカ〟の里に遣って来た。目に留まるだけの才があるということだ。であれば、服や靴に手を加えて歩き易くすることも出来たはず。然し、誇りか、意地か、或いは他の何かか、女の子は苦難の道を自ら選んだ。
きっと、門を潜る際に見せる、彼女の目が教えてくれるはず。
僕が門を潜ったのも、女の子と同周期の頃だった。兄さんとの道行きだったので、独りで遣って来る彼女を見るに付けて、申し訳ない気持ちにさせられてしまう。
エクが真ん中に行って邪魔をしようとしたので、彼を伴って道の端に寄る。
「着いたよ。この門から向こうが、〝サイカ〟の里だ」
師範の、普段とは異なる優しい声に、女の子が顔を上げようとした刹那にーー、
「っ⁉」
閃いた金の瞳が僕を捉えて、右腕が突き出される。門柱の、僕の顔の高さにある部分が、がりっ、と削られる。
師範が彼女の腕をずらしていなければ僕の顔に直撃していたかもしれない。
「ひゃひゃっ、危ねぇ危ねぇ~。いやはや、おっかないお嬢さんだねぇ」
咄嗟に僕の背後に隠れたエクは、背中からひょいっと顔だけ出して、彼女の罪悪感を殊更に刺激する。彼は僕の特性のことを知っているので、盾にしたことは責めないが。
「はぁ。忘れていたよ、リシェ君。君は、そうだったね」
悪友よりもこちらの対処のほうが先のようだ。然も候ず、門を目の前に気が抜けたのか、倒れ掛けた女の子を支えてぇぐっ、
「っ⁈」「ぐぇっ」
……中々に良い拳打をしていらっしゃる。横腹の痛みを堪えながら、体勢を崩した女の子を立たせてあげる。
「今のは、リシェ君が悪いな」「ああ、リシェが悪い。もはや世界の法則だなぁ」
酷いや、二人とも。一応善意でやったんだから、もう少し言葉を濁してくれてもいいだろうに。自分の行動にぽかんとしていた女の子だが、性根が腐っているエクと違って良い子のようだ、僕に謝ろうと踏み出して、
「きゃっ」
足の痛みがぶり返したのか、倒れ込む。今度は助けず、師範に要請する。
「ほら、門を潜りましたよ。早く『治癒』を施してあげて下さい」
今ので足の皮が剥けてしまったのかもしれない。激痛に涙を堪えて、弱音を吐くまいと歯を食い縛っている女の子。
「『治癒』はーー」「ほ~れ、ほ~れ、二重の治癒魔法だ! 食らえ~いっ」
「治癒」を拒もうとした彼女の言葉を遮って、「竜患い」のエクが師範と一緒に治癒魔法を施す。人の嫌がることをするのが大好きなエクだが、このときばかりは止めることはしない。諦めたのか、艶のある白髪の女の子は大人しく「治癒」を受け容れる。
治療を終えて立ち上がった女の子は、僕を見上げて、麦畑を渡る風の心象がある、吸い込まれるような金瞳に猜疑を宿して詰問した。
「あの……、あなたは何者ですか……?」
まぁ、難詰に聞こえてしまったのは、僕の心持ちの所為だろう。
「ふっふっふっ、聞いて驚け! 此奴こそは『神遁』の二つ名を持つ男っ、神すら逃げ出すと言われたその力っ、篤と味わうがいい~~っ!」
馬鹿、もとい天の邪竜は放っておくと厄介なので、しっかりと訂正しておかなければ。
「サナリリス君。これは忠告だ。里で、リシェ君に損傷を与えた、とその類いのことを言ってはいけない。まぁ、君が注目されたいのなら、止めないがね」
注目されない、というのは無理だろう。白竜の祝福を受けたような風付きに、怜悧な意志が垣間見える整った顔。僕のことを抜きにしても、耳目を集めてしまうだろう。
「どうせなら、きちんと訂正して下さい。神水準の逃げ足だ……と?」
ん? 何だろうか、師範が哀れな子羊を見るような目を向けてくる。
「兄は『俊才』。弟は『神遁』。十周期は語り継がれるだろうね。ただ、それは君がやらかさなければ、の話だ」「…………」「何故だろうね。君は普通に見えて、その実イクリア君よりも厄介だった。君が何もしでかさないことを、私は祈っているよ」
おかしいなぁ。そこまでやらかした記憶はーー、うん、少ししかないというのに。
言外に、里には迷惑を掛けてくれるなよ、と忠告、もとい警告をしてくる師範。次いで、彼はエクにも、門を下る教え子に言葉を贈る。
「イクリア君。ーー君は頑張るな。止めても、戒めても無益だろうが、これだけは言っておく。竜にも角にも、始末だけはきちんと付けなさい。そうすれば、三周期以内に、笑いながら死ぬことにはならないだろう」
何やら凄いことを言われているが、僕らと係わり合いになるのはこれで最後なので、心からの言葉なのだろう。エクには無意味だろうが、僕は恩師の言葉に殊勝に耳を傾けることにする。まぁ、ではどうすればいいのかについては、答えを貰えなかったのだけど。
「で、これどーすんだ?」
エクが門柱を指差す。それなりに貴重な竜首門が傷付いている。特性のことを忘れていた僕の所為とも言えるし、魔法を放ったらしい女の子ーーサナリリス、そして咄嗟に軌道を変えた師範の所為だとも言える。
「見なかったことにしよう」
にまにましているエク以外の皆さんは、竜に乗る勢いで僕の提案に同じてくれる。
「六周期、お世話になりました」
エクの頭を掴んで一緒に下げると、語り尽くした師範は、一つ頷いて、サナリリスを伴って里に戻ってゆく。自ら選んだ道でないとはいえ、人生の重要な期間での六周期は、決して小さくない想いを魂に刻んだ。
頭を上げると、女の子が驚いている姿が見えた。彼女の視線を辿ると、黒曜の瞳とがっつりと合ってしまった。……あー、これは駄目だ、逃げられない。いや、逃げ切れるだろうけど、逃げたらきっと、破滅的な何かを齎してしまう気がひしひしと。
「知り合いかしら。随分と仲が良いようですね」
どうやら彼女は、遠くから僕がサナリリスを支えたのを見ていたらしい。そして、横っ腹を打擲されたことには気付いていないようだ。
「あー、何だ、カレンさんよ、知らなかったのか? あの幼女は、リシェの婚約者だぞ」「っ⁈」
殺意、という言葉を目で表現したら、きっとこんな双眸になるのだろう。いや、ちょっと現実を直視したくなくて、余計なことを考えていました。って、いやいや、すでに剣に手が掛かっているので、今すぐ直ちに至急に可及的速やかに誤解を解かなければっ!
「カレン。カレンはエクが嘘吐きだと知っているのに、どうして騙されてしまうのかな?」
心臓がばくばくだが、溜め息を吐きつつ呆れた風を装う。
これは以前から不思議なのだが、冷静沈着な彼女は、時々ころりとエクに騙されてしまう。そして何故か、僕が八つ当たりの対象になってしまうのだ。
「なっ、ななっ、な、何もかも、あなたが悪いのですっ、ランル・リシェ!」
どうにも対処のしようがなく、カレンから目を背けると、予想通り、諸悪の根源であるエクがとんずらこいていた。まぁ、こんな別れ方が僕たちらしくていい。東域に、故郷に帰ると言っていた悪友。もう二度と会うことはないだろうが、エクのことである、ひょっこりと何処かで出くわすことになるかもしれない。どうでもいいエクのことは頭の中からほっぽり出して、今はサナリリスでさえ見惚れた少女のことである。
「というか、何でここにカレンが居るの?」
里では今、お別れ会という名の告白大会が開催中である。門を下る前に、懸想人が最後の戦いに挑んでいる。意中の人に、運命を懸けた決戦に臨む者もいる。ある意味、大会の主役であるはずの彼女が、何故こんなところに居るのだろうか。
「……何で、も何も、あなたは私に挨拶もなく去るつもりだったのですか」「えっと、挨拶は昨日、したよね?」「ーーっ」「って、何かよくわからないけど、ごめんっ、謝るから許して⁉」
カレンは、僕が里に遣って来てから、最初にやらかしてしまった相手である。それ以来、ずっと嫌われたまま、その一件が里に知れ渡って、女性陣からは総すかんを食らってしまった。
「……ランル・リシェ。あなたは私に何か言うことは……ないのですか」
背後の竜。やばい、これは返答を間違えたら地の国へと直行便ってやつだ。余程腹に据えかねたものがあるのか、炎竜の炎を宿したかのように上気している。
「ーーカレンは、何処に向かうか決めているのかな?」「私はお爺様の勧めで北方にーー」「そうなんだ。僕は南方に向かうから、もうカレンの邪魔はしないから、大丈夫だよ」
真っ正直な彼女のことである。僕に謝られるようなことは望んでいないだろう。なぜ彼女に嫌われているのか、最後までわからなかった唐変木だけど、別れの言葉はーーって、何で無言で片手剣を抜いているんですかカレンさん⁉
「ーーランル・リシェ。剣で千回斬られるのと、山麓まで私に同行するのと、どちらをご所望かしら」「ちょ、待っ、カレン! それ、僕に選択肢ないからっ‼」
不貞腐れるように、ぷいっと横を向いてしまった同期の少女。
「知りませんっ。ほら、早く行きますよ!」「これで最後だし、ゆっくり下りようよ」
炎竜だけでなく氷竜も一緒に宿したらしいカレンが、相反する感情がごちゃ混ぜになっているのか、怒るんだか喜んでいるんだかわからない表情をしているのだが。
はぁ、周期頃の少女の心は本当に摩訶不思議である。
これから僕らは〝目〟として、〝サイカ〟に至る為に、日夜研鑽を積んでいかなければならない。然あれど、僕の目的はそれとは異なる。〝目〟がやらないようなことをする必要がある。そうだなぁ、やっぱり冒険者から始めてみようか。
再び、空を見上げる。穏やかな天気だが、もう少しすれば炎竜が喜ぶような熱波が襲ってくる。それまでに、どの団に所属するか決められればいいのだが。先行きの見えない道に、不安と、それに倍する期待が胸に溢れてくる。
爽やかな風に包まれながら門を下って、最初に行うのは、知識と想像力の神サクラニルに、良き旅になるよう祈ることだった。のだが、その前に。まるで僕の前途を予感させるような、出だしからの躓きに、内心で盛大に溜め息を吐く。
「でも、それも僕らしくていいかな」「何か、言いましたか?」
女心と炎竜氷竜。どうやら僕は、左の道に行こうとしているご機嫌な彼女を、説得するところから始めなければいけないらしかった。
*プロローグは手直しする前のものなので、星回竜や白竜について、以後に記述はありません。
一気に投稿してしまったので、本文はルビの位置がおかしくなっています。
おうさまはすごくつよかったので、みんなをまもりました
おうさまはとてもかしこかったので、みんなをゆたかにしました
おうさまはいつもやさしかったので、みんなをえがおにしました
おうさまはずっとただしかったので、みんなをしあわせにしました
でも、おうさまをたすけてくれるひとはいませんでした
でも、おうさまをえがおにしてくれるひとはいませんでした
でも、おうさまにしあわせをわけてくれるひとはいませんでした
でも、おうさまのそばにいてくれるひとはいませんでした
おうさまはひとりぼっちでした
ひとりぼっちのおうさま
おんなのこはおうさまにあこがれました
ひとりぼっちのおうさまになれたらいいなと
おんなのこはなみだをながしました
一章 冒険者と魔法使い
穏やかな風が戻ってくる。肌を焼くような日差しが、名残を振り撒きながら記憶とともに洗い流されてゆく。周期を通して過ごし易い地域なのだが、二巡りか三巡りの期間、体だけでなく心と魂まで削ぎ落とすかのような熱波に襲われる。
「また炎竜様の嫌がらせかの」「早く炎竜の機嫌が直らないかなぁ」
熱波を炎竜に譬えて、諦めにも似た心境で静かに立ち去るのを待つのが、南方の国の人々の流儀というか生活の知恵である。
活気付いた街の気配は、耳を潤して目を楽しませて、心を軽やかにしてくれるもののはずだが。きっと僕の居る場所だけ、炎竜ならぬ氷竜が居座っているに違いない。風に誘われるまま窓の外に、北方に目を向けてみれば、そこには「竜の狩場」を囲う山脈。件の炎竜の塒である北の洞窟があると伝えられている。世界を灼くような炎熱も、炎竜にとっては恵みの炎なのかもしれない。然ても、竜に心を預けるのはこのくらいにしておこう。
部屋の扉は開いていた。室内の窓も開け放たれて、吹き抜ける優しい風は、透明な光を揺らして楽しげですらあった。人の気も知らないで、と愚痴でも零したくなるくらいに。
然し、先がわからないというのは、わずかながら心が躍るのも事実。十六周期という、まだまだ短い人生ながら、結構上手くやれてきた経験から、心中に芽生えたささくれのような湿っぽさを蹴飛ばして室内に入る。奥の机に一人、副団長が座っていた。室外から届けられる街の陽気さとは裏腹な、顰めっ面で書類を捲っている。左右に二つずつ、四つの机があるが、今は誰もいない。それぞれの机の上の、紙や道具の雑多さから看取する。裏方の団員たちは、忙しなく仕事に勤しんでいるようだ。少し待ってみたが、副団長は僕が入ってきたことに気付かない。これはよくあることなので、扉をこんこんと叩く。
「ん? おおっ?」
徐に顔を上げた副団長のオルエルさんが、僕を見咎めて体を仰け反らせる。心配りが足りなかったようだ。そのつもりはなかったのだが、仕事を中断させてしまった。
四十がらみの恰幅の良い男性。元冒険者で、引退してからだいぶ経つと聞いているが、今でも現役の冒険者で通りそうな精悍さと油断のなさが感じられる。
「リシェ君か。どうぞ入って入って」「失礼します」
手招きをするオルエルさんに一礼して、心持ちゆっくりと机の前まで歩いてゆく。
「そこら辺の椅子を持ってきて、座ってくれるかな」「いえ、長い話にはならないでしょうし、このままで構いません」「そうか? それならそれでも良いか」
オルエルさんは、頑是無い子供を見るような険のある表情を向けてきたが、こちらの意図を酌んでくれたのか、手に持った二枚の紙を此れ見よがしにひらひらと振ってみせた。
「さて、昨日で試用期間が終了したわけだが」「ーーはい」
昨日までの散々だった日々が脳裏を過ぎる。然あれど、大凡結果がわかっていたとしても、どこかで期待している部分があることを否定することは出来ない。
「じゃあ、これ」
机の上に紙を一枚、裏向きに置いて差し出してくる。その紙には試用期間中の僕の評価が記されているはずなのだが、なぜか伏せてある。
戸惑う僕の顔を楽しげに眺めたあと、言葉を継ぐオルエルさん。
「見ないほうが良いよ」
いや、その通りなんだろうけど、そんな嬉しそうに言わないで欲しい。僕も見たくはない、見たくなんてないんだけど、そういうわけにはいかない。
事実を事実として認識できない者は愚か者と同じ。里で何度も聞いた言葉が思い出される。これ以上余計なことを思い出さない内に、さっさと捲ってしまうに限る。
晴れた空を見上げるような気楽さで紙を持ち上げる。紙という、四角い小さな世界は、真っ白だった。曇った空よりも綺麗な白で、紙は埋め尽くされていた。
つまり、白紙だった。
「……なんですか、これ」
人生の分岐点で迷子になるかもしれない少年に対して、あんまりな仕打ちではなかろうか。紙の白さよりも澱んだ白い目で見遣るが、オルエルさんは何処吹く風竜。
「その紙にはね、君が予想していた通りのことが書かれるはずだった。でも、すでにわかっていることをわざわざ伝えるなんて、時間と労力と紙の無駄じゃないか」
笑いを堪えている、したり顔のオルエルさんの、何と憎たらしいことか。このまま回れ右して帰りたい気分にさせられるが、何かしら意味があってのことだろうし、この大人気ない副団長にもう少しだけ付き合ってみよう。
「いやあ、ごめんごめん。こっちの気も知らず、リシェ君が素っ気ない態度だったのでね。ちょっとからかいたくなってしまったのさ」
手に持っていたもう一枚の紙を、今度はきちんと表を向けて差し出すと、僕の持っていた白紙を手癖が悪い盗賊のように、ひょいっと回収する。
「えっと、これは?」
紙に書かれている文字は多くない。団の名称「エルネアの剣」の下に、入団を認める、などの文言が続いて、一番下に名前を署名する欄がある。
「えっと、これは?」
うぐっ、恥ずかしい。呆けて二度も同じことを尋ねてしまった。
「下の枠内に『ランル・リシェ』と君の名前を記してくれれば契約は完了。今日から君は、晴れてエルネアの剣の一員だ!」
両手を広げて、如何にもな歓迎の姿勢を取る。胡散臭い、という言葉を人間で表現したら、今のオルエルさんほど相応しいものはないだろう。
「ほら、ここに名前を記してくれればいいだけだから、さあさあ」
僕の手をがしりと握ると、信じられないくらいの膂力で契約書に近付けてゆく。ひ弱そうな見た目と違い、そこそこ鍛えているはずの僕の全力でもまったく抗えない。この人、今でも冒険者としてやっていけるんじゃないだろうか。
「むっ?」
気付いたオルエルさんが動きを止める。机の上にあった契約書がなくなっていた。僕の特性を利用して隠したわけなのだが、彼からしたら突然消えたように見えたかもしれない。
「説明が必要かな」「……そうですね」
オルエルさんは、何事もなかったように居住まいを正して、真摯な眼差しを向けてくる。もはや苦笑しか浮かばない。達者なものだと感心するが、一連の言行で彼の目論見は概ね理解したので、僕のほうから結論を述べる。
「僕は冒険者になりたい。事務や冒険者の支援がしたいわけではないのです」
そう、入団を許されたのは、冒険者としてではなく裏方としてである。入団試験に合格できたのは、オルエルさんの計らいがあったからだった。期待に応えたい気持ちはある。彼の下で働くことに魅力を感じないわけでもない。でも、それではこれまでと同じなのだ。他人が用意してくれた道を、敷いてくれた道を歩く。それは僕には過ぎたものだったけど。選ばなかった可能性を顧みて、後悔はしたくない。失敗して痛苦に呻くかもしれない、辿り着いた場所での不遇に挫けるかもしれない、それでも、他の何もかも一切合切、自分の手で、自分の願いで掴み取っていきたいとーーそう思ってしまった。
「残念だが、リシェ君と組ませた団員たちは、君を理解することも合わせることも出来なかった」「いえ、僕が未熟だっただけです」「見ている分には面白かったけどね。無能、邪魔、存在ごと抹消されろ、などなど種々雑多な君への意見、というか、苦情の数々は」
本当に愉快なとき、人はこのような顔をするのだろう。陰で嗤われるより、目の前で笑われたほうがいい、と思いはするものの、まぁ、実際にやられると、何だろう、気が抜ける。僕に気を使ってくれているように見えなくもないが、白紙に書かれなかった内容をわざわざ口にするあたり、食えない人である。
「惜しいな。私の右腕として働いて欲しかったんだがなぁ。ーー星の巡りは、いつか願いの袂に。とまぁ、そんなわけで、いずれエルシュテルの幸運が訪れるまで待つとするか」
大陸で最も信仰を集める女神の名と箴言を口にして、オルエルさんは交渉、もとい勧誘の話を締め括る。エルシュテルの「エル」は幸運を指し示す言葉。この地域では、人や地名などによく用いられる。「オルエル」や「エルネア」が肖って付けられたものだと知れる。短い間であったが恩顧への感謝と、別れの挨拶をしようとしたところで、
「はい。これを持っていってね」
ぽんっと机の上に封筒が置かれた。ぞんざいな扱いだが、封蝋にエルネアの剣を示す印璽が捺されている正式なものだった。
「彼らは気にしないだろうが、こちらから礼を失するわけにはいかないからね」
「これは?」
封筒を手にして、矯めつ眇めつ眺める。表に「氷焔」、裏に「おっちゃん」の文字。
「ひょえっちゃ……」
思わず口から転び出てしまった奇怪な言葉が、呪いの類いではないと信じたい。いや、もういっその事、副団長は嘘が吐けなくなる呪いに掛かってしまうがいい。などと思うが、そんな限定的な効果を齎すような魔法は、恐らく存在しないだろう。
「ご覧の通り、紹介状だよ」「一応聞いておきますが、ふざけているわけではないですよね」「先方は、私や団の名を覚えていないかもしれない。これが最善の方策なのだよ」
僕の問いには答えず、しれっと説明を加える。
「それと注意事項が一つ。封筒を君が直接渡してはいけない。氷焔の三人を発見した後、誰かに依頼して届けてもらうんだ」「ーー三人?」
疑問が口を衝いて出た。完全にオルエルさんの進行に嵌まっていたことを自覚して、竜にも角にも、容儀だけでも正す。ああ、でも少し疲れてきたので、言葉は崩してしまおう。
「氷焔は、『火焔』と『薄氷』の二人の団じゃないんですか?」
「火焔」と「薄氷」は、二つ名である。二つ名が冠せられる冒険者は、ごくわずかだ。氷焔は、大陸で五本の指に入ると目されている団。他の五指の候補が、複数の団で構成される集団であることに鑑みると、彼らの突出した力の程が窺える。然も、二人はまだ二十歳にもなっていないと聞く。
「そう思っている人は多いけどね。氷焔は、『火焔』と『薄氷』と魔法使いの、三人の団だよ」「魔法使い? あ、いえ、そうじゃなくて、そんなとんでもない団を紹介するとか何考えてるんですか⁉」「大丈夫。氷焔は、いつでも団員を募集してるから。入団しても皆すぐに退団してしまうだけで、何一つ問題なんてないんだよ」
あなたの態度と頭の中身も含めて問題ありまくりです! と叫んでしまいそうになったが、目上で世話になった人相手だと自分に言い聞かせて、ぎりぎりのところで自重する。
「半分は善意で、もう半分は打算と思惑」
半分は善意、もう半分も善意、みたいな人好きのする笑顔を浮かべるオルエルさん。
「僕を使って、何かに利用しようとしている、とかですか?」
それなら理解できる。氷焔と伝手でも作りたいのだろうか。まさか氷焔を団員として迎え入れようとか無謀なことを考えている? いや、それにしては手が込んでいるし、間尺に合わない。まぁ、何にせよ利用されるというのなら、理由くらい知っておきたい。
「警戒してくれてありがとう。でも違うよ。リシェ君はこれから冒険者の最高峰を見に行く。冒険者に向いていない君は、そこで何をして、何を思うだろう。私は、君が冒険者になるのを断念することを望んでいる。そして、諦めた先で思い出す。そういえば、自分の能力を必要としてくれている人がいたなぁ、と」「…………」「早く戻って来てね?」
愛らしい少女のように、ふわりと首を傾げる。様になっているのが、尚更腹立たしい。きっと鏡の前で練習したのだろう。僕も里でやらされた。少女の真似だけでなく、赤子や老人、果ては狂人まで。交渉とは総合芸術である。言葉通り、様々なことを仕込まれた。
「ありがとうございます」
結果だけを見れば、僕に不利益は見当たらない。いや、不利益はある。なんだかんだと言いつつ、オルエルさんは僕の為に骨を折ってくれた。それはとてもありがたいのだけど、またしても僕は自分から手を伸ばして、掴み取る機会を得ることが出来なかった。選択肢があるだけ恵まれているとわかっていても、希求する心を押し留めるには苦痛が伴う。
竜にも角にも、先ずは感謝を。あとは少しの悪戯心を。遣られっ放しはちょっと癪だから。僕は一旦表情を消して、服の下に隠しておいた紙の束を取り出した。
「自然に発覚するよう仕向けるつもりでしたが、紹介状のお礼に直接お渡しします」
「ん? 何かな……っ!」
受け取った紙束を見るなり、目を皿のようにして読み取ってゆく。やがてすべてに目を通したオルエルさんは、剣で身を貫かれたような苦悶の表情を浮かべて、僕を見上げる。
「第一隊隊長、ディスニアの不正の証拠です。あなたなら気付けたはずですが、仲間への信頼が目を曇らせましたか?」
力を抜いて、自然体に。笑顔に薄笑いの成分を二滴ほど垂らして、副団長を見据える。
ちょっと遣り返してやろうかな、という軽い気持ちだったのだが。僕の指摘に、オルエルさんは身を竦ませて硬直する。竜の咆哮を間近で浴びたような驚倒振り。衝撃が心胆を寒からしめたらしく、言葉を発することも出来ないようだ。然も候ず、意想外の効果に、こちらのほうが狼狽してしまう。って、いけないいけない、僕が心を乱してどうするのだ。
この地域で下調べをして、エルネアの剣の入団試験を受けることに決めたのだが、その際にオルエルさんの現況を推察する手掛かりとなる情報があった。冒険者であった彼を、引退せざるを得ない状況に陥らせた事件。ことのあらましは、この地域だけとはいえ、人口に膾炙している。エルネアの剣が台頭して、団としての規模が大きくなってきた頃にそれは起こった。魔物討伐で、想定外の大量の魔物と遭遇したのだ。即断したオルエルさんが殿を務めて、彼を慕う二人の仲間も同調して、団の撤退を成功させた。だが、救出に向かおうと準備を整えた団員たちの許に生きて戻ったのは、瀕死の重傷を負った副団長だけだった。彼が抱えていた二人の仲間は、すでに事切れていた。この事件の傷が元で、冒険者への復帰は敵わず、団を支援する役回りを買って出ることになる。彼には適性があったらしく、以後エルネアの剣をこの地域で最も大きな団に押し上げることになる。
僕が生きてきた周期よりも長く、エルネアの剣に携わってきた彼の心情を理解できるなどと嘯くつもりはない。見えないものを、見えないもののまま俎上に載せる。
空に手を伸ばしても、空には届かない。然りとて、手を伸ばすことを止めてはならない。里で学んだこと。わからないという理由で、知ろうとする努力を怠っていいはずがない。
人が持つ想いの強さを軽んじていたのだろうか。感情を積み重ねた末に、壊してはならない大切なものを作ってしまったのか。未だ立ち直ることが出来ない副団長を見ながら、今回の一件について思いを致す。
エルネアの剣は、オルエルさんと団長、第二隊隊長の三人で立ち上げた団だった。
第一隊隊長に抜擢されるだけあって、首謀者であるディスニアは優秀な男だった。表向きの清廉さと面倒見の良さとは裏腹に、陰では狡猾に不正を重ねていた。そして、自らが犯した罪を団の枢要である三人に擦り付けて、エルネアの剣を丸ごと乗っ取るつもりであった。街の有力者だけでなく、領主とも繋がっていたのだから侮れない。このまま対策を講じなければ、謀略は成功するだろう。ディスニア自身の隠蔽は完璧だった。然し、ばれないと高を括っていたのだろうか、共犯者選びに失敗した。彼の悪事に加担していた者たちの迂闊さと危機感の欠如は、竜に素手で挑むような愚かしいものであった。雑用をしていて気付いた不正の根を辿ると、然したる苦労もなくディスニアに行き着いた。
「先ず領主を牽制しておく必要があります。それは本日中に行ってしまいましょう。次に金銭の出所をーー」「大丈夫。わかっているよ。すべて片付けるのに三日掛からない」
立ち直る切っ掛けにでもなればと、これからの里程を話し始めたところで、オルエルさんは手を上げて遮った。表面を取り繕えるくらいには理知を回復させたらしい。
「そうなのかも知れない、と思ってはいた。ーー君は〝目〟なのか?」
僕を見る目が変わっていた。半ば確信しているようだ。恐れと敬意からだろうか、僕のような若輩に対して同格かそれ以上を相手にするように接してくる。
別段秘密にしているというわけでもないので、あっさりと肯定する。
「はい。でも他の〝目〟のように積極的に動こうとはまったく思っていません」
「そうなのかい? では少しだけ期待させてもらおうかな。恩を売ったつもりが、買わされることになった情けない男だけど、共に働ける日が来ることを願っているよ」
笑顔のオルエルさん。なれど、紙束は激烈な力で握り潰されている。紙束が人間の首であったなら、疾うに命はないだろう。自業自得とはいえ、ディスニアたちに同情してしまう。すでに帰結は定まっている。あとは、どれだけの力で踏み潰すか、それだけだ。
もう一度、感謝の言葉を伝えてから部屋を辞した。
建物を出て、振り返る。この地域では影響力のあるエルネアの剣だが、本拠地は小ぢんまりとしている。冒険者の地位は高くない。不必要な反感を買わない為の配慮だ。
街の喧騒に踏み出そうとして、心付く。いや、これはどうしたものか、失念していた。いい感じで出てきてしまった手前、今更戻って聞きに行くのも躊躇われるし、何より恥ずかしい。嘆息すると、長閑な日和に揺られながら、葉擦れの囁きが耳を擽ってくる。
「……氷焔が今、何処にいるのか聞き忘れた」
穏やかな風は、間抜けな人間にも平等に吹いてくれるのだった。
人の頭を嫌な感じにすっぽり包んでしまえるくらいの長大な鉤爪が、目の前を通り過ぎてゆく。いや、通り過ぎる、なんて生易しいものではない。耳を鋭く刺激する風切り音を発する爪は、何もない空間さえ引き裂いているかのようだ。
胸から腹を覆う安物の革鎧など、子供でも破れるパンケーキのような頼りなさだ。
浅黒い肌、粗末な衣服、短い足、長い腕、豚に似た鼻を持つ獣のごとき顔の人型の魔物。それらの特徴は、地域によって多少の個体差はあるが「人喰い鬼」や「豚人族」、オークと呼ばれている。だが、目の前の魔物はオークの特徴を具えながら、異なる点が二つあった。一つは体躯。大きな個体でも人間よりやや勝っている程度なのだが、「巨鬼」とでも呼べそうな巨躯は、見上げる位置に頭がある。人間の鍛えた体とは違う、生来の獣じみた強靭さが異質な恐怖を抱かせる。
もう一つが鉤爪。鉤爪を具えたオークの話など聞いたことがない。それとあと一つ、付け加えるべき特徴がある。巨鬼たちの胸に赤い塗料らしきものが塗られていた。二本の線と交わる一本の曲線からなる、文様というには単純に過ぎる印のようなものが描かれているーーのだが、そんなことよりも何よりもどうにかならないかと思うのが……。
「臭い‼」
恐らくあの塗料なのだろうが、いったい何を素材にしているのかわからないが、竜にも角にも、臭くて堪らない。文字通り、鼻が曲がりそうな異臭がする。
「ぐあぁあぅ‼」
僕の言葉を解したわけではないだろうが、趣意は伝わったらしい。怨嗟の声を上げながら巨鬼が執拗に追ってくる。大きな人型の魔物は、直線的で単発の攻撃を力任せに放ってくる傾向にある。生来具わった武器を最大限活かすような戦い方だ。然てだに済んでくれればいいのだが、巨鬼は人の術とは違うが、それに似た多彩な攻撃を仕掛けてくる。
こんな凶悪な魔物を倒せるような技量は僕にはない。極力間合いの外で、仕方がないときは片手剣と小盾で防御。剣と盾が壊れないか冷や冷やしながら逃げ回っている。これまで防御ばかり鍛えてきた賜だが、今は逃げ切る以上のことをしなくてはならない。
頃合いを見計らう。態と隙を作って、攻撃を誘う。巨鬼の動きに慣れてきたので、これくらいのことなら可能だ。こちらの思惑通りの攻撃。猛る巨鬼には、樹木の姿が映らない。
「ぐぅうっ⁉」
幹に鉤爪を減り込ませて、軽い混乱に陥る巨鬼から、もう一本樹木を挟んで距離を取る。やっとこ周囲を見渡せる余裕ができる。一息吐きたいが、然てしも有らず素早く視線を走らせる。見通しの良い林の中に、二十体程の巨鬼を捉える。下生えが少なく、見渡しが良いということは、人の手が入っているということ。つまり、近くに人里があるのだ。戦闘開始時に四十体を超えていた巨鬼が半分に減っている。僕が一体の巨鬼と友好的でも優雅でもない舞踊を強いられている間、ずっと巨鬼の怒号や唸り声、悲鳴を耳朶にしていたが、やはり氷焔はとんでもない。
彼らの居場所を確認して、一旦目を閉じる。見る、と一口に言っても見方は幾つもある。例えば、見えている物、全部を見る。視点を定めず、どこも見ない。深く深く、一点だけに集中する。こういったものは、気付かないと一生気付けない。まぁ、見出したところで、役立つことは少ないのだが。目を開いて、空間そのものを認識するよう心掛ける。
意識的に視界に入り込んで心象。俯瞰している、と断言することは出来ないが、今だけは思い込む。脳内で補完、もう一つの視点を作り上げる。こうすると、体が空に向かって引っ張られるような感覚を覚えるのだが、この浮遊感は嫌いではない。そして、もう一歩先に、ここからは能動的に行う。巨鬼を、領域を侵食する色と認識する。数が増えれば色は濃くなる。向かう先に色は流れてゆく。状況を瞬時に判断する為に、里で習った方法。遣り方は様々だが、僕は色彩を用いる方法を好んでいる。
最も色の濃い、あの部分を削り取るように攻撃するのが上策だろうか。
「エンさんっ……」「はっはっはっ、どんどんきやがれっ!」
伝えようとした僕の言葉が空しく途切れる。エンさんは豪快に笑いながら、僕が指示しようとした場所に居た巨鬼を両断する。彼の武器は長剣だが、剣身を魔力で覆うことで、両手剣並みの刃となる。長剣だけでなく、必要とあらば体も魔力で覆うらしい。いや、逆か。魔力の扱いに長けた者でも、戦闘時に体を魔力で覆うのは難しいらしく、況して武器までとなると至難の業。それを平然と熟しているだけでも、「火焔」の人の枠に収まらない規格外の強さに、当惑、というか、困惑する。って、どちらも似たようなものか。
魔力がまったくない僕には知覚できないが、彼らの言葉とこれまで観察した結果から大凡の見当を付ける。僕にとって魔力とは、感覚を伴わない風のようなものだ。実感に乏しい、あやふやなそれは、想像力で補うのが難しい。特に人類最強と思しき氷焔の常軌を逸した魔力に対応しろとか、竜の周期を当てるのと同じくらいの超絶難易度である。
巨鬼の攻撃を素手で軽々と弾いたり、掴んだ鉤爪を圧し折ったりと、あれでまだ全力ではないのだから恐れ入る。エンさんは目前の敵を斬り付けながら、只管前に進んでゆく。
敵を倒したか、反撃があるのか、それら一切を無視して踏破する。敵がある限り止まることを知らない。ただ焼き尽くす火焔。
焔から逃れても、巨鬼に安息はない。火焔の災厄が通り過ぎて混乱の極みにある巨鬼たちに、薄氷の陥穽があることを知らしめてゆく。両手に片手剣、双剣など明らかに常道を無視したものだが、クーさんには関係ない。魔力を纏った剣は軽やかに舞い、風の柔軟さでするりと吹き抜けてゆく。斬り結ぶことすら敵わず、翻弄される巨鬼。薄氷を割るような容易さで命数を散らしてゆく。彼女も歩みを止めない。脅威ではないと判断すれば、それ以上の攻撃を加えることなくエンさんを追ってゆく。
僕も何かせねばと焦るが、巨鬼を牽制する為の投擲用のナイフを手にする間もなく、障害になりそうな巨鬼はクーさんが屠ってゆく。巨鬼にとって魔風と化した「薄氷」は、
「ぅぐっ⁉」
……樹に背中からぶつかった。魔力を纏っているので衝撃を緩和できるはずだが、不意を衝かれたのか、かなり痛そうだ。クーさんの周辺だけ奇妙な静寂が漂う。
「「「「「…………」」」」」
巨鬼たちがどうしたものかと戸惑っている。通常なら好機と捉えて攻撃を加えるのだろうが、竜や魔獣の如く自分たちを屠ってきた相手である。そこは人間も魔物も変わらないらしい。本能に於いても勇気の総量に於いても、それだけではどうにもならない存在を前に尻込みしている。
集中力が必要、偶に失敗することくらいある。とは三日前に聞いたクーさんの言い訳、ではなく、説明に依るところである。魔力の扱いは、エンさんよりクーさんのほうに分があるらしいが、彼女は双剣を用いている。双剣と魔力の操作を統制するのは、どれだけの繊細さを要求されるのか。ときどき見受けられるクーさんの蹉跌もむべなるかな。
「何を見ている」
何事もなかったかのように樹木から離れたクーさんは、居回りに屯していた憐れな巨鬼たちに過剰攻撃を加えていた。彼女が照れ隠しをしている間に生じた間隙に、暗色の小さな塊が入り込んでゆく。黒に近い茶色の外套に三角帽子。散策の序でに立ち寄ったかのような気安さで、魔法使いが巨鬼たちの間をとてとてと抜けてゆく。
巨鬼たちがぎょっとして、迷い込んできた魔法使いを見遣る。魔物でもあの姿には驚くらしい。帽子を目深に被って、大き目の外套を纏った姿に、肌が露出した箇所は一つもない。本当に、何というか、人の形をした塊が移動している感じなのである。五日経った今も、顔すら拝めていない。氷焔の三人目、謎の、若しくは訝しの魔法使いである。
僕の肩くらいの身長。外套でよくわからないが、動きの様子から細身と思われる。
死地に足を踏み入れたとしか思えない状況だが、これは性格とか本性とかを表しているのだろうか、魔法使いは大胆で、巧妙だった。
「ぎいぃあっ!」
戦える仲間がもう自分の周囲にしかいないことを知って、怒りとも悲しみともつかない叫び声を上げる巨鬼。自らを奮い立たせて、衝動のままに魔法使いを攻撃しようとして、既に勘付く。仲間が近過ぎることに。同士討ちを恐れて、魔法使いを攻撃できない。何をするでもなく、ただ歩き回っているだけの小さな塊を、巨鬼たちは攻め倦ねていた。
魔法使いがゆくりなく向かう先を変えて、巨鬼たちの領域から抜け出す。もう陽動する必要がなくなったから離脱したのだと見抜けず、後を追おうと踏み出す巨鬼。その顔は、獲物を仕留められる歓喜に歪んでいた。魔法使いの背後で、鉤爪を振り上げた瞬間、
「あたしのコウに何をしている!」
クーさんは、巨鬼の肩や頭を踏み付けながら、突風となって魔法使いの許まで器用に駆け抜けていった。僕には見えないが、彼女の魔法の効力なのだろう、巨鬼たちの首がぽろりぽろりと落ちてゆく。どうやら本気を出したらしい。
僕と戦っていた巨鬼は、仲間たちの惨状を目に焼き付けて、いや、目を通して魂を焼き尽くされたのか、鉤爪を樹木から抜いた体勢のまま恐れ戦いていた。
ーー敵は無防備である。攻撃しても僕では倒せない。思考終了。
情けないがこれが現実である。氷焔の皆に合流しようと迂回する経路を探していると。
「ぅえ?」
人生最後の言葉が、こんな間抜けなものでいいのかと、混乱する頭が疑問を発するが。直後には、事実だけが頭を埋め尽くす。背後に、もう一体の巨鬼と違って、恐怖ではなく激情に目を剥いている巨体があった。あった、というか、居た、というか、もう鉤爪を振り下ろしている。死の予感や予兆を感じる間もなく、僕の命は刈り取られた。
「ぎやぁぐっ⁉」
……巨鬼の、苦痛に喘ぐ声。不思議なことに、僕の断末魔の叫びではないらしい。
鉤爪は、腕ごと宙に舞っていた。赤よりも黒に近い巨鬼の血が僕の全身を濡らしてゆく。
「あれ? 刈り取られてない?」
助からない一撃だったので、うっかり死んだものと思い込んでいた。って、いやいや、そんなことを考えている場合ではなくてっ! 咄嗟に歯を食い縛って、手を握り締めて足を踏ん張って、ふやけた思考を打擲。即座に見澄ます。
「油断は禁物」「…………」「「ーーーー」」
クーさんのからかうような声が届くが、僕は目を逸らせなかった。二体の巨鬼が僕を見ていた。殺意を通り越した狂気の眼光を放っている。この塵芥の如き人間だけでも殺さなければ死んでも死に切れない(訳、ランル・リシェ)。然く彼らの視線が物語っていた。
また足を引っ張ってしまった。彼らの邪魔にならない、という消極的な目標を自らに課していたが、今日も達成できなかった。などという反省はあと、先ずは空気が欲しい。
「ぜーぜーはぁー、……ふぅ」
息を整えつつ惨状をーー現況を概観する。
動く魔物はいない。僕を追い掛けてきた巨鬼は、エンさんが倒してくれた。仇を討てず息絶えた彼らの無念の表情を思い出して、微かに胸を痛める。
果たせるかな、氷焔の圧勝である。彼らは当然として、僕にも目立った傷はない。四十体を超える巨鬼が無残に倒れ伏す光景は、僕が慣れていない所為もあるのだろうが、心を粟立たせる。正しい行いをすることと、それを当然と思うことは別のことである。二つを同じことだと思い、心を楽にする方法は僕には向いてなさそうだ。
性分かな。と独り言つ。
風が吹き始めて、臭いは多少増しになっている。と言っても、巨鬼の血を盛大に浴びた僕には、あまり効果はない。巨鬼の胸の塗料ほどではないが、彼らの血も相当臭う。
「色男んなったじゃねぇか」
エンさんが巨鬼の血でぐっしょりとなっている僕を当て擦る。などと思ってしまうのは、僕の心が捻くれているからだろうか。然もありなん、僕とは対照的な二人に目を向ける。
「わかっていても、やっぱり狡いですよ」
エンさんとクーさんは、返り血一つ浴びていない。魔力を纏うことで様々な効果が得られるという。身体能力を向上させたり、衝撃を和らげたり、といったことが基本だが、その恩恵は幅広い。魔力操作で臭いや液体の遮断のみならず、防暑防寒も可能であるらしい。
「さっきは助けて頂いて、ありがとうございます」「助け? ーー気にしなくて良い」
お礼を言うと、クーさんは不思議そうな顔をした。彼女からすると、あの程度のこと助けた内に入らないのかもしれない。それに、僕と違って疲れた素振りを見せていない。何より立ち姿が様になっている。僕よりも親指一本分くらい背が高く、すらりとした肢体。冒険者として相応の力強さはあるが、女性らしさを損なっていない。美人、と言っていいが、どちらかといえば、その振る舞いは、格好良い、という部類に入るだろう。
氷焔の三人は軽装である。軽装というか、エンさんとクーさんは、村であれば何処にでもいそうな、素朴で、少しばかり野暮ったい格好である。魔力を纏う彼らは、防具を着ける必要がないので、戦闘では動き易い格好を好む。人前に出るときは、クーさんが仕立てた見栄えの良い服を着る。そして、要人と会うときは、鎧を着用することもあるらしい。戦いから遠ざかるにつれて重装備になっていくのは、皮肉と言っていいものか。
「この魔物には毒があるらしい。付近にいる動物が食べてしまわないよう焼いてしまう」
クーさんは足元の巨鬼に視線を注いでいた。手には、二枚の紙とペン。
見ると、魔法で焼却する為なのだろう、エンさんは「火球」か何かで穿った穴に巨鬼たちを投げ込んでいた。何処へ行ったのか、魔法使いは見当たらない。まぁ、これはよくあること。エンさんもクーさんも気にしていないので、問題ないのだろう。
「何をするんですか?」
何故巨鬼が毒を持っていることがわかったのか気になったが、先ずは卑近な疑問から質すことにした。血だらけだが、魔力を纏ってくれるだろうと、近寄って横から覗き込む。
「これは新種だろう。容貌や特徴を纏めて、組合に報告」「へぇ、上手いですね」
簡単にさらさらっとペンを動かしているように見えたが、巨鬼の輪郭が歪むことなく描かれていた。そして、見る間に特徴を書き込んでゆく。
「鉤爪、根元まで露わに」
言葉少なに命令。どうやら集中しているらしい。
巨鬼の手の形状は、爬虫類に似ている。人の指に当たる、と言っていいのか、鉤爪は猛禽類の特徴があるが、長大な爪を支える為か奇妙に波打ち、硬化しているようだ。だが、柔軟性も具えているようで、思った以上に動く。それは戦いの最中に確認できた。握ったり掴んだり、突き刺して引っ張ったりと、器用に使い分けていた。
爪の根元、内側の皮膚の膨らんだ箇所に触れてみると、殊の外柔らかい。
「どうした、リシェ」「えっと、この膨らみ、歩くとき地面に触れる箇所だと思うんですけど、魔物は二足歩行でした。以前、聞いたことがあるんですが、生き物は皆、昔は鉤爪だったという説があるようです」「ーー続き」「あ、はい。この鉤爪は、新しく獲得したというより、元々あった古の名残が影響を及ぼしたと考えるほうが自然なのかな、と」
感興をそそられたのか、手を止めて僕の話に付き合ってくれる。
「含蓄のある話だが、組合はそこまで求めていない。報告したところで宝の持ち腐れ」「え? 組合は魔物の生態とか調査していないんですか?」「組合の幹部は、現状で問題ないと考えている。手間と資金を浪費してまで、することではないと、自らの功績にはならないと顧みられていない」「ああ、そういうわけですか……」
商人組合や職人組合が「古語時代」の初期に設立されたのと異なって、冒険者組合は百五十周期前と、比較的若い時代に創設された。現在でも冒険者の地位は高くないが、当時は、盗賊より増し、といった程度で、当然組合もないので確度の低い情報しか手に入らず、ずいぶん難儀したことだろう。いや、このような言い方は失礼に当たる。彼らは、その不確かなものにさえ縋って、命を懸けていたのだから。振り返れば竜、という絶望的な状況に追い込まれることも間々あったことだろう。組合を創設した団も、その一つだった。
エルネアの剣と同じく、大量の魔物との遭遇。然し、史を繙くと、エルネアの剣を襲った魔物よりも手強く、凶悪な種族が多かったという。彼らは、仲間の半数を失い、生き残った者の多くも深手を負い、復帰の道は断たれた。
悲劇を繰り返さない為に、彼らは意を決した。順風満帆とはいかず、多くの困難に見舞われたが、彼らは遣り遂げた。然は然り乍ら、元冒険者という門外漢が、組合の運営に長じているはずもなく、外部から雇うことになる。組合の最前で働くのは、多くが負傷して引退を余儀なくされた元冒険者である。今に至るも組合の質が落ちないのは、創設者たちと同じく、彼らの熱意に因るところが大きい。組織とは、存在した瞬間から腐敗する。と里で教わったが、冒険者組合は自浄作用が働いていると言えるだろう。但し、それは現場のことで、百五十周期も経てば骨組みも意義も変容する。組合の運営に携わる幹部に、元冒険者という肩書きを持つ者は殆ど居らず、目的が出世や利益に摩り替わっていたとしても不思議はない。その結果が、向上心に欠ける現状維持、沈滞を招くことになった、と。
「こんなことを言うのもなんですが。氷焔くらいの影響力があれば、働き掛けとか出来ないんですか?」「氷焔には専属の担当がいる。そして、あたしたちに行使できるものがあったとしても、その担当を越えてはいかない。組織とはそういうもの。組合を変えたいというのなら、その担当が天辺まで辿り着くのを待つのが現実的」「はは、世知辛いですね」
自然と乾いた笑いが出てくる。まぁ、交わらない二本の河では、水の質が変わることはない。冒険者は、冒険者でなかった者が上に立つのを、認めはしても信頼することはない。運営の側もそれを承知していて、改善する気は更々ないと。でも、これが二者の丁度良い距離なのかもしれない。近過ぎても、遠過ぎても、何かしらの問題は起こるのだ。
「えっと、ナイフ、ナイフはっと」
手を後ろに回して探る。投擲用のナイフ三本以外に、こちらも安物だが頑丈さが取り柄のナイフを一本装備している。投げナイフは性質上、強度に問題があるし、用途が限られている。まぁ、実戦で使ったことはないし、すぐに回転してしまい目標には刺さらないので、多くの場合、牽制にしかならないのだけど。片手剣を購入した際、残金でも買えたので入手したのだが、僕には向いていなかったのかもしれない。と今更の後悔。
ナイフを手にして、巨鬼を観察する。胸の赤い塗料以外に興味を惹かれるのは、彼らの身に着けているもの。一目して粗末な衣服と断じたが、鉤爪でよくもまぁ作れるものだと感心する。毛皮の他に、蔓や木の皮などで編まれた粗雑な服(?)の隙間に葉や羽が挟まっている。木の板を繋げたものを腰に巻いていたり、染料らしきものや泥で色付けされていたりと、よく見ると、個体それぞれに個性がある。
「ん? 出来ない?」「大きな魔物なので戸惑っていただけです。出来ます」
戸惑う、というよりは、躊躇う、というか、直視したくなくて別のことに着目していたのだが、もう逃げ場はないと、観念の臍を固める。あー、これでもまぁ、見栄を張りたい周期頃の少年なので、男としてなけなしの沽券くらい守っておかないと。
里では動物を狩ったり弱い魔物を退治したり、実地の教練のあと、解剖もやった。人型の大きな魔物だからといって怖じ気付く理由なんてない。いや、嘘です、ちょっと心が萎えています。それを自覚したまま、鉤爪の根元の、皺だらけの皮膚にナイフを突き立てる。
見立て通り、皮膚は硬く、思ったよりも刺さらなかった。そこから、切るというよりは押し開く感じで力を込める。一度では割けず、二度三度と繰り返して、隠れていた妙に生々しい肉の色をした部分を外気に触れさせてゆく。替えは少ないというのに、もう廃棄するしかない服の、汚れていない箇所で、滲んだ血とよくわからない透明な液のような……、って、ひょっとして、これ、毒⁉ いやいや、クーさんは何も言ってないし、きっと毒ではないのだろう。仮に毒だったとしても、食べたり傷口とかから入ったりしなければ、たぶん、きっと、大丈夫……のはず。
「ーーーー」
骨の先端を覆うようにして、そこから爪が伸びている。ここら辺は、構造におかしなところはない。然し、まぁ、何というか、ぶっとくて禍々しい爪である。まともに正面から受けていたら、剣も盾も木っ端微塵だっただろう。ただ只管に防御だけを磨くという、奇特、もとい奇矯な鍛え方をしていなかったら、どうなっていたことやら。
「ん。ーーせい」「……へ?」
クーさんは右手で紙とペンを持って、いつの間に抜いたのか、左手で片手剣を振り上げていた。僕など歯牙にも掛けず、剣を振り下ろして、鉤爪にぶち当てる。ひぃっ、と情けない悲鳴が僕の口から勝手に転び出てくるが、そんなことに気を配っている余裕はない。竜から逃げ出す勢いで、僕は体を横に投げ出した。
巨鬼の血溜まりに飛び込む羽目になる、などと考えたーー半瞬後、僕がいた場所を、巨鬼の手から捥ぎ取られた鉤爪が通過してゆく。人の血とは異なる、見慣れない不気味な黒血に手を突いたが、ずるっと滑って肩から落ちる。
跳ねた血が首と髪の毛に付着して、滴る感触に身慄いする。
「ぐぶっ! 何するんですか、クーさん⁉」「問題ない。魔力を込めて強振」「……魔力が見えない僕にはわからないんですけど」「そんな些事より、教示しても良い」
気持ち悪さを我慢して立ち上がって、クーさんをじと目で見たが、涼しい顔で返してくる。良心的に解釈するなら、お詫びに良いことを教えてやろう、ということなのだろうが。
「お願いします」
提案を即決する。命の危機に瀕したことを些事扱いされたが、いや、勘違いだったわけだけど。氷焔と五日も一緒にいるので、だいぶ慣れた。はぁ、慣れてはいけないような気がするけど、知的好奇心のほうが優先されてしまうあたり、僕も大概単純なのかもしれない。僕の心肝などお見通しとばかりにくすくす笑うと、クーさんが問うてくる。
「この魔物、どうだった?」「強かったです。通常の魔物とは一線を画していました」
含みのある言い方だったので、とりあえず強く印象に残ったことを答えとした。それと、頭に上りそうになる血を、意識して抑えようとする。周期が上の、妙齢の女性と、こうして親しく話す機会は余りなかったので。然も、不意に魅力的な笑みなど浮かべられると、どぎまぎしてしまう。これが交渉などの、明確な目的があるなら繕うことが出来る、とは思うが、ああ、これはもう慣れるしかないのだろうか。里で学んだこととは勝手が違う。
「そう、手捷く屈強。大概のオークと他種族の魔物はそんなに強くない。でも、逆だとしたら、どうだろう? 平常の魔物の強さがこの鉤爪オーク並みで、それ以下の弱い魔物は殆どいないとしたら」「それは……」
現在、この大陸の主導権は人間が握っている。竜や魔獣が人間に敵対でもしない限り、これが揺らぐことはないだろう。魔物が他種族間で共闘するようなことはなかったし、稀に巨鬼のような強い魔物が現れたとしても、この程度の規模ではどうにもならない。
ーー然り乍ら、通常の魔物が巨鬼並みの強さだとしたら。もしそうなら、世界の有様が根本から変わってしまうのではないだろうか。いや、それは早計だと戒める。人や社会には柔軟性がある。巨鬼は強かったが、倒せないほどではない。今回のような四十体ともなれば話は別だが、数体から十体程度であれば、地域の有力な団なら、あと十分に策を施した集団規模なら問題ないだろう。かなりの苦戦は免れないだろうが。
「総じて冒険者は戦士で、魔法使いや神官などは滅多にいない。でも、もし魔法使いの強力な魔法や、神官の『治癒』があったとしたら?」「そうですねーー」
僕の思考が煮詰まったのを見取ったらしく、新たな、設定、と言っていいのだろうか、妄想、いやさ、空想や夢想が捗りそうな条件を追加してくる。
クーさんに促されるまま思惟の湖に沈む。魔法使いは冒険者の団にとって、希少ではあるが貴重ではない。世間的に、魔法使いは研究者であって、戦力になると見られていない。魔力量が多い者なら、魔法を使うのは難しくない。単純な攻撃系の魔法に限られるが、冒険者にとってはそれで十分なのである。冒険者の足手纏いにならない水準の、戦闘に長けた魔法使いは少ない。「大陸最強の魔法使い」との呼び名があるガラン・クンくらいだろうか。仄聞するところによれば、彼以外に冒険者に帯同を要請される魔法使いはいない。
「治癒」の奇跡を施せる神官は、教会では高位の職にある。冒険者と行動を共にするとは思えない。然り乍ら、それらの現実を無視して想見するなら。魔法使いが強力な魔法で攻守を援護して、神官が傷付いた者を次々に癒やしてゆく。戦士のみで構成される団とはまったく様相が異なる。然らば、巨鬼数体くらいなら容易く倒せてしまえそうだ。
魔法使いや神官が所属する団。強大で、凶悪な魔物。ーーどう表現したらいいのだろう。何かが噛み合っていない、違和感のような。本来あるべき姿とはずれがあるような……。
「見てごらん」
クーさんは鉤爪を失った巨鬼の手を指差した。
「この鉤爪オークは、エンの剣を鉤爪で弾いた強い個体。でも、エンより威力の弱いあたしの一撃で、鉤爪は見ての通り。どうしてだと思う?」
「今は弛緩。戦っているときは、鉤爪の周りの肉が、えっと、引き締まっていたから……?」
「その可能性もある。でも、今回は魔力。あたしやエンほどではないが、魔力を纏っていた。五体に一体くらいは、魔力を纏っていなかった。魔力の多寡に個体差がある」
僕が言葉を咀嚼するだけの時間を空けてから、クーさんは続ける。
「魔物が今より強かったら、きっと個体数は少ない。弱いから、その分、数が多い」
それは巨鬼のような通常とは異なる魔物にも当て嵌まるのだろうか。魔力と係わりがある事柄は、どうもその辺りをあやふやにさせる。
「生命は、そこに詰め込めるだけの生命を詰め込む」
大切なものを差し出すように、クーさんは囁く。
「師匠の言葉。生命が入り込める余地があるなら、必ずその隙間を生命が埋める。この林にも生命の隙間はなかった。鉤爪オークはいなくなった。それはどのくらいの余地なのか」
師匠なる人物のことを思い出しているのだろうか。周囲まで暖かくなるような、優しい微笑。普段は、「薄氷」の二つ名の通り、冷静沈着といった風情だが、ひとたび氷が割れれば、その下から、これほどにも豊かな感情が溢れてくる。
「今はここまで。あと二日、一巡りするまで氷焔に居られたら、色々知ってもらう」
教えてあげる、ではなく、知ってもらう。今の話にしてもそうだが、氷焔には何か秘密めいたものがあるらしい。〝目〟ではない彼女がこれほど聡明なのは、師匠という人からの影響が大きいのだろう。もしかしたら、僕らの先達という可能性もあるわけだが。
「はい。あと二日、がんばります」
「こらこら、そんな志が低くてどうする? 二日と言わず、団の一員になっておくれ」
クーさんが破顔する。氷焔として冒険者たちから恐れられているが、実際に接してみれば気のいい人たちである。ただ、強さの基準が市井とは異なるので、身体的には凡人代表とも言える僕などは、気を付けないといけない。いや、ほんと、命が危ういので。
「お~し、終わったぞ~」
巨鬼の躯に火を放ったらしいエンさんが戻ってくる。近くの樹木に火移りしないのは、樹を魔力で覆っているからだろうか。見ると、いつの間にか魔法使いがクーさんの後ろに。いつも通りの定位置である。人見知りのようなもの、とクーさんは言っていたが、こうも警戒されるとちょっと凹む。未だ顔も見られていないし、声も聞いたことがない。然てこそ魔法を使っているところも同様である。実は魔法が使えない、似非魔法使い、なんてことはないと思うが。それとも、何か隠さなければならない理由でもあるのだろうか。
先達の冒険者で、僕より断然役に立っているので、口に出すときは「コウさん」と呼んでいるが、まともに対応してもらえないので内心では「魔法使い」と呼んでいたりする。
魔法使いになる為には、魔法使いに師事するのが一般的である。僕より二、三周期は下の魔法使いが冒険者として活動しているのには、どんな訳があるのだろう。
「で、こぞー。こいつらん名前ぇ、決まったんか?」
こぞー、とは僕のことである。初対面からずっとそう呼ばれている。と言っても見下しているわけではなく、そう呼ぶのが適当だから呼んでいる、そんな感じで悪意はまったくないようだ。エンさんは、クーさんを「相棒」、魔法使いを「ちび助」と呼んでいる。彼なりの愛称なのだろう。つまり、気にしたら負け、というやつだ。
背が高く、愛嬌がある。戦士としては平均的な体躯だが、貫禄がある。相反する性質を内包する不思議な魅力を持った人である。
そういえば、と記憶の片隅で消滅しそうになっていた案件を引っ張り上げる。戦闘開始直後、通常のオークと異なる巨鬼の名称を考えておくようエンさんに命令、というか、頼まれていたのだ。直後に一つ、思い付きはしたが、戦闘中はすっかり頭から抜け落ちていた。僕にとっては命懸けの戦いだったので、そこら辺は差し引いて考えてもらえると嬉しかったりするのだけど。竜にも角にも、ここで更に考える、などという選択肢はない。戦闘のみならず、ここでも裨益することすら叶わないとなると、本当のお荷物でしかなくなってしまう。これまで氷焔に加入した人たちも、僕と似たような心境になったのだろうか。
「胸のところ、赤い塗料で描かれた、印のようなものがあるじゃないですか。それは彼らにとって何か意味のあるものだと思うんです。宗教的なもの、戦意高揚の手段、仲間意識の向上とか。ですので、賢い、という意味を込めて、『人喰い巨鬼』」「おー、いーじゃねぇか。んじゃあ、そんで決まり」「え? 決まりって、どういうことですか?」
見ると、クーさんが完成したらしい巨鬼の絵に上にオーグルーガーと書き込んでいた。
「正式な名称として決定。事前の目撃情報から、対象に名が付いていないことは確認済み。次に鉤爪オークが現れたとき、依頼書などにオーグルーガーと記載される」「…………」
そんな簡単に決めてしまっていいのだろうか。と思いはするものの、命懸けの戦いは、精神にまで疲労を強いていたらしく、異議を唱えようなどという気力が湧こうはずもなく。
「さぁて飯ぃー飯ぃー。こぞーは血ぃ落としてこいよ。近くん湧き水あってよかったなぁ」
ばしんっ、と背中を叩かれたが、痛みはなかった。どうやら魔力を纏ったまま叩いたらしい。僕に付着した血で汚れたくなかったのだろう。
風向きが変わって、咳き込みそうになる。火勢は衰えてきているのだろう。それは、燃えるものがなくなってきているから。じきに焼き尽くされるだろう。生命の痕跡、それさえも辿ることが難しくなっていく彼らに同情するなんて、以ての外かもしれないけど。
エンさんは穴の周辺に「火球」を放って、灰となった彼らを豪快に埋めてゆく。
呆気ないもので、巨鬼の姿はもうない。でも、この場所を離れる前に、偽善とわかっていてもやっておきたいことがあった。
ほんの少しだけ、巨鬼たちの為に祈る。祈りを捧げるなど、僕たちに害された彼らが望んでいるとは思えないから。だから、少しだけ。
振り返ると、魔法使いが居た。とてとてと人型の暗色の塊は二人を追い掛けていった。
見られていたようだ。気恥ずかしいので、何となく頭を搔いて誤魔化す。
「早く戻らないと、またエンさんに僕の分を食べられてしまうかもしれないな」
湧き水と泥で血を落として、服を着替えてから皆のところへ急いで戻った。
三人は焚き火を囲っていた。毎度のことながら僕が姿を現すと、クーさんの後ろに隠れる魔法使い。努めて意識しないよう心掛ける。人に馴れない小動物のような魔法使いに対して、氷焔に加入してから三日間の試行錯誤を経た末に、その結論に至ったしだい。エンさんとクーさんの言葉などを勘案して、魔法使いが接触してきてくれるまで待つのが得策、と相成ったわけだが、二人も無制限に魔法使いに甘いわけではないので、今はそこに期待。
日が暮れ掛かっている。見上げると、小さな空には明るくも暗くもある曖昧な色彩が蟠って。先に染め上がった周囲の闇が、空を絵取るように、夜の支配が棚引いてゆく。
林を抜けた先の、森にある巨岩。今回の依頼では、ここを拠点に活動していた。人里に下りたいところだが、冒険者はあまり歓迎されない。名にし負う氷焔ともなれば、邪険にはされないだろうが、彼らは必要以上に人と接することを好んで、いや、望んでいないようだった。まぁ、十中八九、魔法使いの人見知り(?)が原因なのだろう。ただ、氷焔の言行から他にも理由がありそうだと踏んでいるが、まだ試用期間中なので突っ込んで聞くのは躊躇われる。
森の中だけに、少し肌寒い。焚き火の熱が心地良く肌を撫ぜてゆく。
今日はクーさんの当番らしい。木の棒に生地を巻き付けて、火で炙っていた。複数の棒を器用にくるくると回して、稚気を感じさせる動きは宛ら妖精たちの舞踊といったところ。一般的な硬いパンとは違う、軟らかいパン。世間では好まれていないようだが、いや、そもそも製法自体が伝わっていないという理由もあるが、僕は気に入っている。作り方を教えてもらったので、機会があれば作ってみよう。
「面白ぇな、まったくどーなってんだか」
僕が座ると、エンさんが呆れ顔を向けてきた。いきなりそんなことを言われても、どうなっているかわからないのはこちらの方である。
「リシェが現れてから、エンはずっと魔法を放っていた。手加減なしの全力。一人楽しませるのも癪に障る。あたしも魔法でぐるぐるぎしぎしやってみたが効果は出ていない」
平然と語っているが、彼らの全力とは局地的な災害のようなものである。ただの人間に抗う術はない。ぐるぐる、とか、ぎしぎし、とか軽い表現をしていたが、いったいどんなことをされていたのやら。
クーさんは足元にあった石を拾って、掌に載せた。すると石が弾かれて、僕の顔に直撃する。当たった石は砕けるが、僕に損傷はない。傷付かないとわかっていても心臓に悪い。
「石は魔法で弾いただけ。石自体に魔法を使ったわけではないのに、なぜか損傷を与えられない。これはリシェに魔力がないというだけでは説明がつかない。魔力という概念そのものにも反応しているとしたら……」「魔力量あん俺たちみてぇなんは、周りん奴らん気配とか状況とか、魔力ん感知してんとこあっからなぁ。もー慣れちまったが、最初ぁ死角から突然現れたみてーで、うっかりやっちまうとこだった」
紹介状を、直接渡してはいけない、とオルエルさんが言っていた理由がこれだ。うっかりで殺されたら堪らない。オルエルさんに感謝である。
魔力量が少ない人は、違和感や嫌な気配を感じる程度だが、魔力量が漸増するにつれて、嫌悪感、拒否や拒絶といった悪感情を抱かれるようになる。不幸中の幸い、と言っていいのか、それは初対面のときだけで、二回目以降は一気に軽減されてゆく。相手が慣れると、今度は僕を感知し難くなる。エンさんが言った通り、魔力のない僕は、気配を感じ取るのが難しいらしく、人に驚かれること頻り。魔力がない、というのは、それだけのことであるはずなのだが、どうも僕のそれは、それだけに留まらないようなのである。
魔力がない僕が移動することによる影響。こちらはまぁ、わからなくもないのだが、もう一つ、魔法が効かない、或いは魔力の影響を受けない、ということに関しては、もはやわけがわからない。大抵の人は、幼い頃に地域の魔法使いから魔力検査を受ける。僕を検査した魔法使いは然程魔力感知に長けていたわけではないようで、魔力量が非常に少ないので病気に気を付けてください、という診断だった。病気どころか、風邪一つ引いたことがないので、魔力量が少ないくらいなら、まったくないほうがいい、と思えればいいのだが、事はそう単純なものではない。魔法が効かない、ということは、治癒魔法も効かない、ということだ。大怪我をしても、薬師の治療と自然治癒に頼るしかない。他にも、僕が気付いていないだけで、何かしら問題が発生する可能性は否めない。
「ふふっ、確かに、通知がなかったらどうなっていたか。遠ざけて、排除しなくてはならない敵のような印象を抱く。近付いて攻撃するのを躊躇わせる気味悪さがあるから、先ずは魔法で牽制したくなる」「はっはっはっ、慣れりゃあ薄気味悪さん消えんだけどな」
エンさんは呵呵大笑。いやはや、本当に楽しそうに笑う人である。これも彼の魅力なのだろう。それだけで、何でも許してしまいそうになる。
気味悪いとか薄気味悪いとか、二人とも、赤裸々(せきらら)に事実を語っているだけなのだが、言葉にされると凹む。エンさんやクーさんは魔力量が桁違いなので余計にそう感じるのかもしれない。初対面の相手に良い印象を持たれないことはよくあった。魔法で攻撃されたことも、見えないのでたぶんだが、何度かあった。道の角を曲がると、出し抜けに殴り掛かられたり、子供に泣かれたり動物に吠えられたり。魔力は量の多寡に違いはあれど誰でも持っているものである。でも、僕には魔力がない。不便はあったが、これまで深刻に受け止めたことはなかった。これも僕の個性の一つかな、くらいにしか思っていなかったが。
「こぞー。こぞーん、何で生きてんだ」
……エンさんに哲学的な質問をされてしまった。意想外の事態に戸惑っていると、クーさんが助け舟を出してくれる。
「こら、それではリシェに伝わらない。とはいえ、話してしまって良いものか」
クーさんが悩み始めた。助け舟かと思ったら、実は泥船だったとかは無しにして欲しい。
「いーんじゃねーの? 今日ぁ五日目、最長記録ん並んだんだし、こぞーだって自分のこたぁもーちょい知りてーだろ?」「えっと、はい。お願いします」
二人の会話から、僕の特性の、秘密の一端を知ることが出来るかもしれないと、逸る心を抑えながら、エンさんの勧めを奇貨として真摯に頭を下げる。それが効いたのか、不承不承といった体は崩さないものの、クーさんが向き直る。慌てて僕も体裁を整える。
「世界にはエルシュテルを始めとして幾柱もの神々がいるが、それ以外に創世神と呼ぶべき存在がいる。神々と創世神は同格。ただ創世神は、世界を創る力を持っている。
そして、ここからが重要。あたしたちの居るこの世界は、創世神が創ったものではない。神々の中で、創世神と似た力を持つ神が創った世界。その後、あたしたちの世界を創った神は、他の神々と仲違いしたらしく、この世界から去っていった」
教会の創世神話では、神々が協力して世界を創った、ということなっている。然て置きて、いきなり神話とはどういうことなのだろう。あと、その話は事実なのだろうか。創世に纏わる神話とかされても、話が大き過ぎて頭がついていかない。
「その辺気んすんな、こぞー」
良い時機でエンさんが合いの手を入れてくれる。確かに、ここからが本題ーーかどうかはわからないが、拘り過ぎれば真意を見失い兼ねないので、頭を切り替える。
「この世界は不完全。その一つの結果が、世界の魔力量。創世神が創り給うた世界よりも多量の魔力に満ちている。魔力は世界に、生命に馴染んだ。人の命にまで入り込んでいる」
クーさんは、親指で自分の心臓辺りをとんとんと叩いた。
「エンの、何故生きているか、という問い。この世界では、生命活動に魔力は必須。ずっと多量の魔力に浸ってきた生命は、そうなってしまった。つまり、魔力がないものは、生きていないのと同義。魔力がないのに生きているリシェは、本当なら生きてゆけないはずのリシェは、どうして、どうやって命を繋いでいるのか」
今度は僕の心臓のある場所を人差し指でとんとんと叩いた。焚き火と求知心に揺れる瞳は妖艶さを孕んで、僕の良心を誑かそうとしているのではないかと、危惧の念を抱いてしまう。氷焔と帯同後、負担が掛かっている心臓がまたぞろ煩くなる前に目を逸らそうとしたところで。服を引っ張られたのか、クーさんの上体が微かに前後する。
「ん?」「…………」
どうやら背中に隠れている魔法使いに呼ばれたようで、小首を傾げるクーさん。
「…………」「ほほう」「…………」「それで?」「…………」「ふふっ、それはまた」
魔法使いは、僕には聞き取れない、だけでなく、極力姿を見せないようにしながらクーさんに耳語する。三角帽子の下から、顎くらいは見えないかな、と期待したが、竜の角も尻尾もお預けのようだ。
「コウが言うには、リシェは魔力がないのではなく、魔力を失い続けているらしい。そうなるとあれか。魔力を失い続ける魔法でも使っているのかもしれない」
魔法使いの言葉をおざなりに代弁すると、ぐるりと回転して魔法使いを掻き抱く。然ればこそ、魔法使いに抵抗されていた。拒まれても構わず魔法使いを撫で回して、クーさんの顔が駄目な感じに崩れていた。美人が台無しである。世の少年は、女性に対して幻想を抱くと言われているが、僕の中の憧れに似た何かも、只今崩壊中の幻滅中である。
僕にとって、特性に付随する魔力のことは掛け値なしに重要なことなのだけど。もはやクーさんには路傍の小石ほどにも興味がないことのようだ。
しゅっ。
何かが漏れたような、或いは飛んでいくような音がした。
「今の音って何ですか?」
氷焔と行動を共にしてから、何度か聞いた音だった。音がするだけで、何があるわけでもない。魔法や魔力に関係しているとしたら僕にはわからないことなので尋ねてみる。
「へぇ~、聞こえんのか、そりゃよかった。ありゃ魔力ん放出してんだ。あと二日経ったら、こぞーんやってほしーことん一つだ」
僕の疑問符だらけの顔を一瞥すると、
「俺たちんこと、ちょろっと話してやろう。まー、そん前んーー」
エンさんは、がさごそと後ろの荷物を漁って、見覚えのある封筒を取り出した。そして、自分の手ごと焚き火の中に突っ込んだ。もうそのくらいでは驚かない。魔力で自分の手だけでなく、手紙も覆っているのだ。手紙は燃えず、手もそのまま、火傷を負う様子はない。
「俺ぁ火ん魔法しか使えねぇからなぁ。色々応用鍛錬したんだ。こん魔力ん浸透も苦労した。あー、治癒魔法あんけど、俺んしか使えねぇし、使えんうちにゃ入らねぇな。で、おっちゃん手紙、読むか?」
エンさんは思い付いたことをそのまま話す癖があって、ときどき脈絡がない感じになることがある。ただ、巨鬼との戦いでもそうだったが、野生の勘、と言ったら失礼になるかもしれないが、斯かる会話でも要点や核心を衝いてくることがあるので侮れない。
「いえ、燃やしてしまっていいですよ」
とりあえず、最後の部分に答えた。手紙の文面は気になるが、もう必要のないものである。いや、本音を言うと、読みたい気持ちはある。ただ、読んだ後に自分が後悔する姿をまざまざと思い浮かべることが出来るので、きっと読まないのが正解である。
エンさんが手にする封筒が燃えてゆく。燃え尽きると、それを待っていたかのような時機でクーさんが回転して向き直る。ふらふらの魔法使いは、それでも彼女の後ろにぺたり。
事実を語るのは気が引けるので、日和った発言をしてみる。
「仲が良いですね」「だろうっ! コウにはあたしの子供を産んでもらうんだ‼」
……やばい。まだ普段のクーさんに戻っていないようだ。
子供が欲しいのなら自分で産んでください。と宥めようとしたが、よくよく考えてみるとかなり際どい発言なので、喉元まで出掛かった言葉を無理やり呑み込む。
「じじーん言ってたな。『こん娘ぁできる娘なんだけど弱点多いからなぁ』てな」
「じじー」とは、クーさんの言う「師匠」のことだろう。師匠を尊敬しているらしいクーさんが黙っているはずもなく、壁に当たって跳ね返るように、即座に言い連ねる。
「エンは馬鹿そうに見えて、事実馬鹿なんだが、妙に勘が鋭いところがあるというか、途中をすっ飛ばして答えだけわかるとか、ただの馬鹿なら無視しておけば良いが、そうではないからいちいち考慮に入れなくてはならないので、面倒臭くて堪らない」
悪口なのか、エンさんを評価しているのか、微妙なところである。
さすがは幼馴染み。今の遣り取りでクーさんの浮ついていた言行が収まった。そして、何事もなかったかのように阿吽の呼吸を見せてくれる。
「そろそろ。持ち上げて」「あいよ」
エンさんは下に手を回すと、よっ、という軽い掛け声とともに焚き火を持ち上げた。その間に、窪んだ場所に納まっていた大きな卵形の物体をクーさんが取り出す。卵と言うには歪な形。大きな葉っぱに巻かれて湯気を立てている。美味しそうな匂いがもうもうと。
「これも魔力で覆っていたんですか?」
焚き火の下にあったのだから、本来なら焼け焦げているはず。然し、葉っぱには焦げ一つ見当たらず、緑色のままであった。
「そう、火の熱だけが通るようにしておいた」
クーさんが、包んでいた葉っぱを手で剥くと、ぶわっと蒸気が広がった。
現れたのは肉の丸焼きだった。周りには茸や山菜が散らされている。そして右手を縦に、左手を横に振ると、肉に切れ目が入って、食べ易い大きさになって崩れ落ちた。肉の中には木の実や香辛料を詰めていたらしく、一緒にばらばらと広がっていったが、剥いた葉っぱの端で壁に遮られたように止まった。
「…………」
日常に魔法とか魔力とかが入り込むと、常識というものを忘れてしまいそうになる。
それぞれ信仰する神に祈りを捧げてから、食べ始める。三人は土の神ノースルトフルに、
僕は知識と想像力の神サクラニルに。
「ところで、この肉は、何の肉なんですか?」
聞きながら、パンに肉と山菜を挟んで齧り付く。魔法料理の恩恵なのか、肉汁がじゅわぁと出てくる。表面のかりかりに焼けた食感と肉の柔らかさが舌を喜ばせてくれる。
「だめだ駄目だダメだ考えちゃ駄めダっ!」「これはコウが獲ってきた。ありがたく頂戴しろ。残したらリシェを焼いて喰う」「まー、こりゃ、なぁ、肉擬きみてぇな、もんだ」
二人とも目が泳いでいた。ごめんなさい、どうやら竜の尻尾を踏んでしまったようだ。確かに、美味しいものが普通の見た目だったり、部位だったりするとは限らない。あー、つまり、このとても美味しい肉のようなものは、氷焔の二人をも唸らせる、もとい呻かすほどの、得体の知れないものであると。クーさんが言っていたように、肉擬きは、魔法使いが獲ってきたものである。巨鬼の討伐後、姿を消していたが、まさか魔法より狩猟のほうが得意とか、そんなことがあるのだろうか。
「そーだった、俺たちんことちょろっと話すんだったな。名前ぇなんてどうだ、相棒頼む」
エンさんが露骨にはぐらかすと、クーさんもそそくさと話題に乗っかった。魔法使いは素知らぬ風に、クーさんの後ろでもぐもぐ食事中。ここら辺は三人の中での、微妙な力関係があるのかもしれない。う~む、未だに魔法使いの立ち位置が掴めない。
「あたしたちの先祖の話。ーー二人の男が居た。彼らは親友同士で、同じ頃に子供が生まれた。余程嬉しかったのか、男の一人は子供に過去の偉大な王の名を付けた。すると、もう一人の男は子供に神の名を付けた。二人の男は喧嘩した。
下らないと言えば確かに下らない話。それ以後、なぜか村では凝った命名をするのが当たり前になっていった。始めは娯楽の一種だったが、しだいに本気になっていった、というところか。そうして家系ごとに特徴や決まり事などを作って差別化を図ることで、この命名騒動は落ち着く。あたしの名前、『クグルユルセニフ』にも家系の特徴がある。クグルとユル、ユルとセニフ、そして全て纏めたときの響きが良くなるようにしてある」
エンさんの名前が「エン・グライマル・キオウ」。魔法使いが「コウ・ファウ・フィア」。クーさんも含めて、確かに聞き慣れない響きの名前である。
「こん妙ん名前ぇで、貴族ん子弟だの竜人だの言われっことんあったなぁ」
さぞかし面倒なことだったのだろう。しょっぱい思い出でもあるのか、乾燥させた苦虫に岩塩を塗して噛み砕いたかのように、眉をぐにぐにと顰めていた。
竜人とは、竜と人の間に生まれた者のことで、姿は人間だが竜の力を宿しているという。歴史上、竜人であると名乗り出た者は多くいるが、確定された者はいない。
氷焔の二人を竜人とする、市井人や冒険者の心情がわからないわけではない。斯くの如く誤解が生じるのは、無論、名前だけの所為ではない。彼らの常人を遥かに超えた力がそう思わせる。自分より優れた者がいたなら、その者には特別な何かがあると思いたがる。その者に及ばない、納得できる理由を探そうとする。隔絶した力を持つ、氷焔。彼らが強いのは、竜人であるから。自らを誤魔化すのにこれほど都合の良いものはない。
「実は竜人だった、とかはないですよね?」
ほんの少しだけ、もしかしたら、という気持ちを込めて尋ねてみる。
「ぶはっはぁ! こぞー、面白ぇこと言うなぁ。俺と相棒ぁ、村人一と村人二だぞ!」
「村人一と二としては楽しい人生を歩めている。重畳々々(ちょうじょうちょうじょう)」
彼らは陽気に否定する。嘘を吐いているようには見えない。
残念に思う気持ちが、微かに芽生える。彼らが竜人なら、竜についてわずかなりとも触れることが出来たかもしれないが。竜は今猶、幻想の彼方から現れることはない。
「明日は、この付近の調査の最終日。魔物との遭遇はあるかもしれない。油断はしないこと。明後日は、氷焔に遺跡調査の依頼が来ていたから受諾。謎解きがあるらしいから、リシェに期待しておこう」「……そこで役に立たないと、一巡り丸ごと足を引っ張ってたってことになるので、頑張ります。あとは、明日も足手纏いにならないように、善処します」
明後日の依頼は僕の力を見る為に、若しくは活躍する場を設けようと受けてくれたのだろう。最善と最悪は一昨日の内に考えておけ。里で教わったことだけど、今は勘弁。先のことを考えるより、明日を無事乗り切らないと。それで精一杯である。
「そこまで気んしねぇでいーんだけどな。もー贅沢ぁ言わねぇ、残ってくれさえすりゃいー。戦力なら俺と相棒で足りてんだがなぁ、どーも氷焔くる奴ぁ俺たちん横立つ三人目んなりてえってんがほとんどでな。そんだと三日持たねぇ。こぞーん他、今日まで持ったんは天才だけだったもんなぁ」「天才? その人は、どんな人だったんですか?」
エンさんが渾名を天才とするほどの人物がいることに驚いた。その言葉が甘やかな記憶を呼び覚ます。僕もサクラニルの祝福を一身に受けた「俊才」を知っている。仕方がないとはいえ里を出てから文の遣り取りは途絶えている。兄さんは今、どうしているだろう。
「どんなって言ってもなぁ。三日目にゃ、もーちび助ん話してたしな。こっちからお願いして氷焔入って欲しかったんだがな。まー天才ん俺たちん同じで、冒険者ぁ目的じゃなくて手段だったみてーだし。冒険者ん技術身ん付けて、俺たちん目的違って俺たちん利用できんってわかったら、明日あっさり去ってたなぁ」「…………」
……エンさんの説明に慣れるには、まだ時間、というか、経験が必要なようだ。こんなときは大抵クーさんが補足してくれるのだけど、何故かこのときばかりは我関せずと食事の後片付けを優先していた。片付けが済むと、森には逸早く夜の帳が下りる。
夜営には色々大変なことがあるのだが。その大変さの大部分が、「結界」を張った、で済んでしまうあたり、もはや繊細なのか大雑把なのかわからなくなりそうだ。
見上げると、森の木々の隙間にーー。
寝転がる場所もないくらいの小さな夜空から、月が迷惑そうに焚き火を覗き込んでいた。暗闇と光と、僕たちと影とが揺れて、空と大地の境界線で惑いそうになる。
「……、ーー」
束の間の錯覚が解けて、焚き火に揺らされる星空は薄く、程好い曖昧さで心の懐かしい部分を染めてゆく。炎とともに在り続けた人の、刻まれた太古の記憶なのだろうか。
手を伸ばしそうになって。手を伸ばしたら、きっと笑われるだろうな。そう思えたことが嬉しい。ここにいて、楽しめている。それはきっと、大事なことだろう。冒険者だから、大変なこともあるけど、ここにいるからこそ見えてくるものがあるはず。
僕は、やっぱり空に手を伸ばした。
昨日もしっかりと足手纏いになってしまった。のかどうかは判断が難しい。
多数の小型の魔物に追い掛けられて、只管逃げ回っていた。エンさんとクーさんは、僕を目印に魔法を打ち込んでいた。僕に当ててしまうと魔法が無効化されてしまうので、三歩後ろん狙うんが骨だ、とすべてが終わってからエンさんに得意げに語られてしまった。命の危機を乗り越えて、地面に仰向けになって喘いでいる人間に言うことか、と思ったが、定めし彼の感覚では遊戯程度のもの(ちょちょいのちょい)だったのだろう、う~む、これらの差異については、きちんと話し合って整合性を……、うわ、考えてみたけど、僕とエンさんの間で、そんなものを結べる気がまったくしない。熟と冒険者としての格差の厳しさを感じてしまう。
何故だかわからないが、魔物は樹洞に隠した大好物を喰われてしまった恨みを晴らすかの如く、しつこく執拗に執念深く僕を追い回し続けた。人の気も知らないで、げらげらと笑いながら魔法を連発しているエンさんに魔物を押し付けようと試みたが、魔物たちは暑いのが苦手なのか「火焔」には目もくれず、そんなに僕が美味しそうに見えるのか、ああ、いや、きっと僕の特性の所為なんだろうけど。理不尽だ、と不平を述べ立ててみても、僕の存在自体が、理不尽に不条理を振り掛けた非常識とでも思っているらしい氷焔の皆さんには、とどのつまり面白い見世物でしかなかったと。などとやさぐれている場合ではなく。一応囮としての役割は果たせたので、完全な失敗ではない、と自らを慰撫する。
「ここはもう、竜の狩場に近いのか」
朝日に照らされる壁を見上げた。それは壁のように見えて壁ではなく。いや、人と竜の境目にあって隔てるそれは、確かに壁かもしれないがーー。
「……ん~」
まだ少し眠い、かな。思考が散漫である。知らず知らず、疲れが溜まっていたのかもしれない。欠伸を噛み殺しながら、眠気覚ましにもう一度、ぐいっと空の高さまで見上げた。
城壁のように連なる山々が蜿蜒長蛇の列を成している。
空に聳える、とでも表現できそうな、人の行き来を拒む切り立った山脈。竜の狩場と呼ばれる土地をぐるりと取り巻いている、と伝説は語る。大陸の地図が出回っている今では、楕円の形にぽっかりと空いた竜の狩場を示す空白は、周知の事実となっている。「最古の竜」と冠される、ミースガルタンシェアリ。「始まりの炎竜」「要の真竜」など様々な二つ名を持つ。少々呼び難い名だが、子供でも覚えてしまうくらい彼の竜の伝説は大陸に浸透している。狩場に侵入する人間への対処の煩わしさから、魔物を狩らなくなったと伝えられている。狩場では魔物が跋扈し、二百周期を超える期間、誰も炎竜と見えていない。
久し振りに山脈を間近から見上げたが、幼い頃のような鬱屈したものは湧いてこない。故郷とは場所が違うからかな、と思ってみたものの、面影に揺れることのない静かな心が、それもまた違うのだと、不協和音にも乱れることのない記憶の只中に想う。
最も浅くて、最も深い場所。そこはたぶん、一番重要な何かがあるはずなのに、すっぽりと抜け落ちている。然ればこそ、僕が僕でなくなったかもしれない、手掛かりというか痕跡というか、そういうものが風の儚さで、するりと解けてゆく。
「ふー、やめやめ」
見上げたまま、ぐるりと反対を向く。空は曇っている。これから晴れるのか、雨が降るのか、半々といったところ。エンさんほど鋭くはないけど、里では日課だったので、腕無しの占い師よりは高い的中率である。まぁ、然して誇れるものではない、ということだが。
薪が爆ぜる音が、目覚めたばかりの森に響く。次いで好い匂いが漂ってくる。
冒険者の食事といえば粗末なことが多いが、氷焔の狩猟採集の能力は高く、魔力を用いた調理技術と相俟って毎日の楽しみになっている。意外なことに、いや、然あらじ、謎肉などその兆候はあったが、食材集めに最も長けているのは魔法使いであった。昨日は僕の当番だったので、今日は魔法使いの番である。
匂いに釣られて、そのまま座ると、目の前の光景に、しばし圧倒される。
「豆? ……と木の実」
炒ったのか、煎ったのか、蒸かしたのか、様々に調理された豆が並んでいた。汁物まで豆、豆、豆である。豆は嫌いではないので偶にならいいと思うのだが、はてさて何事か。
「豆はエンの嫌いな食べ物。くくくっ、エンは昨日遣り過ぎた」
邪悪な笑みである。斯くも自然な振る舞いが絵になるのは、素直に羨ましいと思う。僕など演技しても、彼らのような魅力を発揮することは叶わないというのに。って、いやいや、今僕は冒険者なのだから、残念がる理由なんてどこにもない。はずなのだが、長く染まっていた価値観を引っ繰り返すには、それなりの時間が必要なようだ。
「残さず食え。コウの作ったものを残したら、あたしが許さん」
エンさんが昨日何かしたらしいが、思い当たる節はない。でも、ここまでのことをされるのだから、余程のことを仕出かしたのだろう。
「おーせぇすぜぇすのぉたおー」
俺は世界に巣くう絶望のすべてを乗り越えてきた男だ(訳、ランル・リシェ)。絶望、の大安売りである。口内に豆をぎゅうぎゅうに詰め込んで、悟りを開いた賢者のように恍惚としながら、もぐもぐしているエンさんの言葉を勝手に訳してみたが、どうだろう。何だかんだで苦行を熟して、完食するエンさん。クーさんと魔法使い、この二人には逆らえないらしい。普段は奔放な彼が凹んでいる傷ましい姿に、申し訳ないが、ちょっとだけ笑いが込み上げてきてしまう。
「ん?」
ん? あ~、何だ? いつもと何かが違った。焚き火を囲んでいる、それは同じで、エンさんとクーさんも居る、それも同様なのだが、ちょっと待て。……今、視界に異物があったような、交じっていてはいけないものが交じっているような。何かこう、背中が痒くなるような、もうちょっとで手が届きそうな、昨日食べた夕飯が思い出せないような……。
「……、ーーっ⁉」
ぎぎぎぎっ、と錆び付いた螺子が回るような感じで首を回すと、あに図らんや、暗色の塊が置かれて、いやさ、魔法使いが置いてあった、ではなくて、ああっ、惑わされるな、僕、現実を直視するんだ、ーー然う、魔法使い、魔法使いは、クーさんの後ろではなく、僕の横にちょこんと座っていた。外套と三角帽子で、人型の塊なのはいつも通りなのだが。
びくんっ、と見てわかるほど、魔法使いは大きく体を震わせた。そうっと亡霊のように音もなく僕から離れようとして、エンさんとクーさんに力尽くで押さえ込まれる。何やら魔力に依る高度な闘いが発生していたようだが、魔法や魔力を知覚できない僕には、押し合い圧し合いしているだけの茶番劇にしか見えない。擦った揉んだした挙げ句、不如意な結果に、渋々、心ならず、苦渋と辛酸と煮え湯を混ぜ合わせて飲まされた、といった体で、魔法使いは抵抗を諦める。然し、それも長くは続かず、クーさんの背後という安住、もとい安穏(?)の地を失った魔法使いは、落ち着かないのか、居た堪れないのか、小刻みに揺れていた。見続けるのも可哀想だな、と思って、魔法使いの豆料理に舌鼓を打つ 。
「今日で一巡り。約束通り、隠れるのは無し」
クーさんの声音は優しいものだったが、一切容赦はなかった。これまで幾度か見られた光景だが、やはり彼らは、魔法使いに甘いが、甘やかしているわけではないらしい。
「そうだね。コウ、何か話しな」
普段よりも柔らかい調子で魔法使いを促す。すると、切羽詰まったのだろうか、クーさんの言葉を受けて硬直した魔法使いが、ゆくりなく左右に揺れ始めた。
少し右に傾き、もぞもぞ。少し左に傾き、もそもそ。雛鳥のようなたどたどしさ。どうも、外套の中で胸まで上げた手をもそもぞと動かしているようなのだが、人型の塊がやると、怪しさ満天である。魔法使いの心情を表したらしい、謎舞踊を続けること暫し、
「……魔法使いの歴史を、知っていますか?」
三角帽子の下から、風の壁を三枚くらい通したような、くぐもった声が届く。ぼそぼそとした喋り方で、聞き取り難いが、不思議と耳に残る、雨音のような声。普通に話したら、聞き惚れてしまうかもしれない、そんな予感のする、耳を転がる湿っぽい響き。
ーー高い声? 名残に触れて、想見する。耳聡く、音の響きに敏感なので、間違いないような気がする。魔法使いの戦い振りや狩猟採集などの能力から、実際の周期よりも成長が遅いのかと思っていたが、若しや見掛けよりも幼いのだろうか。
初めて耳朶にした魔法使いの声に、竜と鉢合わせしたかのような深い感銘を受けたが。ここで大袈裟な振る舞いをすると、魔法使いが萎縮してしまうような気がして、努めて平静を装いながら、求めに応えるべく頭に鞭を呉れて里で習った記憶を強制的に放出させる。
「魔法使いは、その昔、魔術師と名乗っていました。四百周期くらい前の事です。当時、魔法は未だ神秘的な色合いを帯びた力であり、魔法の研究には相応の知識と金銭が必要でした。魔法、という名称の源流はわかりませんが、この頃から、魔法使い、を名乗る者が現れ始めたようです。魔の術か、魔の法か。呼び名による問題は起こらなかったようです。
魔法に携わる者は賢者として尊ばれ、国に召し抱えられることも多かったとか。そんな時代に、権勢を誇っていた国の王が魔法使いと魔術師、双方を重用していました。詳細は伝わっていませんが、この二者が諍いを起こし、魔法と魔術で雌雄を決することになります。勝負は魔法使いの勝利で終わります。それ以後、魔術師は魔法使いより劣った存在として認知され、人口に膾炙するようになり、魔術師を名乗る者はいなくなったそうです」
滔々(とうとう)と口から流れ出てくれる言葉に安堵する。魔法が使えない僕には関係ないと、魔法の実技だけでなく魔法史もぞんざいになっていたので、冷や汗ものである。自分自身、不思議なことだと自覚しているのだが、どうやら僕は、魔法使いの期待を裏切りたくないらしい。対抗心、克己心、と心情に照らし合わせてみるが然に非ず、僕には魔法が効かないと高を括っていたが、もう一巡りも行動を共にしているのだ、なにがしかの魔法の影響を受けていたとしてもおかしなことはない。などと妄想の域に足を突っ込んでみるも、目の前の暗色の塊が、そこまで能動的なことをしているとは思えない。
「魔法使いに、冒険者のような組合はない。組合か、或いは他の、協会でも学芸でも良い、知識と技能を集約する場が必要だった。それらを共有できないから、魔法は、魔法使い個人の領域で止まり、発展することはなかった。つまり、魔法使いは失敗した。時代が下るにつれ魔法は世俗化し、本来在るべき地位から失墜。魔法使いは、人々から必要とされるが、必要とされるだけ。魔法は、それ自体が有用であるとは見做されなくなっていった。それが現状」「コウさんが話をするんじゃなかったんですか?」「……っ」
巨鬼のときにも感じたが、僕同様、好奇心や求知心が旺盛なクーさんは、うっかり、と言っていいのか、口を挟んでしまい、ありがたいことに補足説明をしてくれる。
魔法使いは三角帽子の下から、じっとクーさんを見ている(?)。エンさんはにやにやしながら傍観者でお楽しみ中。なので、僕も訳知り顔で見守ることにした。
「「「…………」」」「ーーさて、あとは頼む、コウ」
クーさんは一分の隙もない笑顔を浮かべた。どうやら、すべてをなかったことにするらしい。まったくもって、正しい判断である。こういう場合、言い訳を重ねるほど、竜の巣穴の奥に入ってしまうものである。皆の視線が焚き火に戻って、爆ぜた薪が兆しとなる。
「王様と魔法使いと魔術師。この話にはあと一人、登場人物が必要です。それが王妃です」
魔法使いは、ゆっくりと丁寧に喋っていた。変わらず声は小さく、聞き取り難いが。
「それはまた。途端に怪しくなる配役」
醜聞の臭いを嗅ぎ取ったらしいクーさんが軽い調子で茶化す。
「王妃は情の深い方で、一途に王様を愛していました。また、王様も王妃に畢生の愛を捧げました。と歴史では語られています」「うーわ、やっちまったか」
エンさんは即座に反応して、額に手を遣って渋面になった。
「そう。やっちゃいました」
肯定する魔法使い。ああ、そういうことか、とクーさんが述懐する。
……あれ? わかっていないのは僕だけ? まだ、魔法使いも魔術師も登場していないのに、王と王妃が添い遂げたという話に、何があるというのだろう。エンさんとクーさんが速攻で気付いたということは、然して難解なことではないはずなのだが。堅蔵の自覚のある僕ではあるが、いや、生真面目かというと、然しもやは誰も信じてくれないだろうが、って、今はそんなことを考えている場合ではなく。と埒も無い想念に囚われている間にも、貴重な宝物は浪費されて、魔法使いがあっさりと答えを言ってしまった。
「王様。浮気しました」「ーー、……は?」
……はい? それは失念、いや、蓋然性のないものとして始めから思考の埒外だった。
……って、こらっ、王様、権勢とか誇ってたらしい王様っ、何を遣らかしているのか、歴史で語られていないということは、隠蔽したのか? 自らの不義を糊塗したのかっ⁉
「王妃は王様を愛していました。愛し過ぎていました。王様が浮気していたと知ったら、『あなたを殺して私も死ぬ』と言い出し実行するくらいに王様を愛していました。進退窮する王様は、魔法使いと魔術師に相談しました」「…………」
魔法使いの冷静な語り口に触れて、何とか内心の動揺を治める。
王も人の子である。そうとわかっていても、何かもやもやするものがある。
「この難題に魔法使いと魔術師がどのように対処したのかは伝わっていません。ただ、魔法使いは成功し、魔術師は失敗した、と記されています」「そうなると、魔術師は迸り?」
古の魔術師に同情したのか、軽く首を傾げながらクーさんが質すと、魔法使いの三角帽子が上下したので、たぶん首肯したのだろう。
世に知られる、魔法使いと魔術師の対決、など存在しなかった。在ったのは、浮気の隠蔽の可否、ではなく、成否。どこで誤謬、或いは改竄や捏造が生じたのかはわからないが、魔術師が哀れである。魔法使いは、彼の者に手を差し伸べなかったのだろうか。
「魔術師と名乗っていた人たちは、それ以後、魔法使いと呼び名を変えただけで、凝りが残るようなことはなかったようです」「失敗した魔術師ぁどーなったんだ?」
今度は、エンさんが興味深げに尋ねる。ある意味、魔術師の歴史に幕を下ろすことになってしまった、悲運なのか悲嘆なのか、失意の魔術師は、その後どうなったのだろう。
「魔術師の消息は不明のままです。ただ、この魔術師の子孫に一人、ある方面に名の知れた方がいます。呪術師の祖とされる、ソラタス・クラスタール。呪術の基礎を築いた方です」「ソラタス・クラスタール、か。初めて聞く」
僕も初耳だった。クーさんが知らないということは、魔法使い独自の知識。同じ師から学んでいるようだが、いや、蓋しくも師に当たる人物は複数居るのかもしれない。
「クラスタールさんの責任というのは可哀想ですが、彼の存在は魔法使いよりも過酷な道を呪術師に歩ませることになります。クラスタールさんは魔法使いでした。そして、呪術の基礎を築き上げました。つまり、魔法の基礎を学んだ者が、その先の選択肢の一つとして選ぶのが呪術なのです。ですが呪術師たちは、彼を魔法使いではなく呪術師として崇めました。魔法の基礎を学ぶことなく、いきなり呪術に手を付けるという正道を外れた行いが定着してしまいます。成果を残せる者は少なかったでしょう。呪術師の特徴として、一つの呪術を子々孫々まで追求する傾向があります。そうして積み重ねた呪術は、ときに大きな力を発揮することがあります」
話し終えた魔法使いは、僕から体の向きを逸らして、そのまま沈黙。置物と化す。
魔法使いに疲労した様子はない。人と話すのを厭わしく思っている風でもない。饒舌に語られた魔法関連への造詣が深いことに驚かされる。と同時に、訝しむ。クーさんもそうだったが、魔法使いの知識は、里で教授されたことを、今代の知的水準の範疇から外れている。然も、開けっ広げに知識を開示しているとなると、彼らの真意は那辺にあるのか。
「おーし、今日ん元気んいってみよーっ!」
話は終わり、とばかりにエンさんが飛び上がるように立ち上がった。
ーーもう一巡り経つのか。色々有り過ぎて、一瞬で過ぎ去ったような試用期間の出来事を思い返そうとするが。まだ終わっていない、と自らを戒める。目的地はそう遠くないが、日が高いうちに辿り着く為に、拠点にしていた大岩を引き払って朝早く出立した。
今日は、街道を通って遺跡の近くまで行くことになっている。竜の狩場の、東の山脈に沿って北上してゆく。狩場の近くだからといって、魔物の襲撃が多いわけではない。山脈を越えて魔物が遣って来るはずもないのだが、隔てた山の向こうに魔物が犇めいていることを思うと、心理的な圧迫が生じて、知らず知らず敬遠してしまうものらしい。竜の狩場と外界とを繋ぐ南にある通路や、東にある細い通路でも、魔物と遭遇する頻度は変わらないらしいが、道の先に魔物が、炎竜がいるという事実は、やはり軽くない。
行き交う人の数は、主要な街道に比べれば微々たるものだが、それでも人目があることに変わりはないので、エンさんとクーさんは、彼女のお手製の、見栄えのする服を着ていた。一目で上等とわかる作りで、落ち着いた雰囲気を醸している。樹木の心象を想起させる意匠がそれとなく施してある。彼らの故郷の、恵みの象徴でもある大樹を模したものらしい。魔法使いと僕は、いつも通りの格好である。通り過ぎる人々がエンさんとクーさんに目を惹かれて、次いで後ろにいる僕たちに胡乱げな視線を投げ掛けてくる。僕は普通にしているつもりなのだが、どうやらこの明らかに怪しい魔法使いと同列に見られているらしい。魔力がないことによる弊害と思いたいが、魔法使いと並ぶことで、いつもより悪化していないことを願ってやまない。
周囲に人目がないことを確認して、街道から外れて森へ入る。氷焔に加入してから一巡りの間、殆ど森を彷徨っていたようなものなので、人の世界が恋しくなるかと思いきや、森に入って安堵するとは、これは良いことなのか悪いことなのか、と素朴な疑問を抱く。森とは、本来人が恐れるべき場所で、氷焔と居る安心感から混同、というか、錯誤してはならない。まぁ、エルネアの剣に所属していたときの、森での失態や、見張りの際に植え付けられた恐怖を払拭できるなら、悪いことではないのだろう。
今回もエンさんとクーさんが先導してくれている。然てこそ本当に便利である。魔力を纏った二人は茂った森の中を、街道を歩いていたときと変わらず、すいすい歩いてゆく。彼らの作ってくれた道を僕、魔法使いの順で追ってゆく。そう、殿は魔法使いで、僕は護られる位置にある。自分が未熟なことはわかっているが、こうしてお荷物になっている現状に、甘んじたくはないが受け容れなくてはならない、などと内心を捏ね繰り回してみるが、上手くいかない。焦っても仕方がないと、それでも焦ってしまうのは、若さ故か。ああ、いや、なんか爺むさいことを考えているような。老人の心を持った少年と、少年の心を持った老人と、二人の交流を綴った童話があるが。里では師範が、人の本質とはここにある、と絶賛していたが。それはどうなのだろう、と今に至るもあまり理解できていない。
いけないいけない。ただ後を追って歩くだけなので、集中力が散漫になっている。何も出来ないなら、すべてを任せてしまったほうが効率がいいのだろうが、周期頃の少年の心はそんなに容易くは出来ていない。自分は特別な存在であると、そんな幻想は疾うに捨て去っているものの、焦りに似た衝動が突き上げるのを、完全に抑え込むのは難しい。
そんなこんなで悶々(もんもん)としていたが、目的地まで然程時間は掛からなかったので、適度な反省、といった感じの自己嫌悪に陥るだけで済んだ。この程度なら、毎度のことなので、さっさと忘れてしまうに限る。得手不得手がはっきりとしている僕などには、忘却の技術、いやさ、能天気な思考回路は必要不可欠なものである。
森から続くなだらかな坂を上ってすぐのところに、穴がぽっかりと空いていた。穴は大きくないので、屈んで入らないといけない。辺りには人の足跡などの痕跡がある。比較的新しく、そして数が多いので、訪れた者たちが大所帯だと知れる。
荷物を置いて、必要なものを取り出してから、「結界」が張られる。三人とも魔法を使った素振りを見せていないが、すでに張られているのである、たぶん。これで荷物に触れられるのは魔法を無効化できる僕と、大陸最強の魔法使いと目されているガラン・クン並みの魔力を持つ者だけである。洞窟に魔物はいないらしいので、身軽さを優先してナイフ以外の武器防具類は置いていくことにした。魔法使いはいつも通り、エンさんとクーさんも軽装で剣だけを装備している。
「遺跡の本来の入り口は、崩落で塞がっている。洞窟を抜けていかないと辿り着けない」
クーさんから洞窟内の地図を渡されたが、見るなり僕は呻いた。
「うわ……、何ですかこれ」
魔法使いが見たそうにしていたので、お腹の辺りまで地図を下げた。
「文句は、地図の製作者に。杜撰な仕事、酷いのは認める」
やれやれ、とばかりに手を広げてクーさんが嘆息する。地図の順路通りに進んでいったら確実に目的地に到着することは出来ない、と断言できるような代物だった。入り口付近はまだ増しだが、奥に進むにつれて、いかにもなやっつけ具合になっている。洞窟の中では距離感や方向感覚が狂いがちだが、それらの初歩的な過ちをしっかりと詰め込んでいる。
「元々この遺跡は、『黄金の秤』という冒険者集団が探索。難航していたらしく、あたしたちに支援要請。もし黄金の秤と出くわしたら、彼らの手伝いを優先」「手伝い、ですか?」「この遺跡にあるのは財宝だけだから、彼らに呉れてやって構わない。余計な騒動を生む必要はない」「財宝だけ? 別の進入経路があって、すでに遺跡は探索が行われていたとかですか?」「違う。魔力探査」「魔力……探査、ですか?」
今日の天気の話でもするように、クーさんが簡単に答える。因みに、今の天気は朝から変わらず、生憎の曇り空である。滲んだ汗を攫ってくれる強めの風が吹いている。風の匂いと、掌の乾燥具合から、雨の気配を感じ取る。帰る頃には降られるかもしれない。
空を望めば、ゆくりなく雲間から風に祝福された竜の囁きがーー風竜の尻尾が覗いたような気が……。あ~、いや、白昼夢を見ている場合でも、思考を背けている場合でもなく。
魔力探査、と言うからには、魔力で遺跡を探査したのだろう。どれだけの精度があるのかわからないが、財宝しかないと確約できるあたり、その探査能力は反則の水準である。
「遺跡の入り口に碑文があるらしい。出鱈目な文字の配列で、いかにも解いてくれと言わんばかりの謎掛け。今回は、その碑文を解明したという事実が伝われば良い」「まー、そーゆーこった。俺たちゃ荒事専門に見られてんとこあんからな、誤解、なんかどうかしらんが、そーゆーん解いておかねーとな」「その誤解を只管築き上げてきた男が何を言う」
じと目でエンさんを見るが、その追及は厳しくない。その誤解に至る原因に自分も関与してしまっている、という自覚がクーさんにもあるのだろう。彼女は、続けて今日の方針と組み分けを手早く語った。
「えっと、どうしてこうなるのでしょうか?」
僕の横に魔法使いが立っていた。懐かないとわかっている小動物が隣にいるようで、何とも居た堪れない気分になってくる。遺跡の中と外に分かれて調査することになったのだが、然てしも有らず、って、あ、いや、疑義を抱くなど魔法使いに失礼である。中は僕と魔法使いで、外はエンさんとクーさんである。決定事項である。
「これが均衡のとれた分け方」
てっきりクーさんは魔法使いと組むのかと思っていたが、この組み合わせに残念がっている様子はない。二人は僕たちを置いて、悠々と坂を上ってゆく。
「こぞー、気ぃつけろよー」「リシェ、滑り易い場所もある。転倒に注意」
去り際、二人から心配されてしまった。僕はそんなにも危なっかしく見えるのだろうか。いや、その自覚がないわけではないが。二人が魔法使いに声を掛けなかったということは、それだけ信頼が厚いのだろう。仕方がないというか事実を見詰めろというか、まったくもって僕とは雲泥の差である。新人の指導は任せる、と二人は魔法使いに役割を課しているのかもしれない。僕は差し詰め魔法使いの人見知りを改善する為の道具、いやいや、余計な詮索はなしだ。う~む、不味いな、氷焔と接してきた一巡りの間の、自分の駄目っぷりに卑屈になっているのだろうか。おいで~おいで~、とオルエルさんが笑顔で手招きしている姿を幻視してしまったが、同じく幻視した竜の尻尾で、ばこんっ、と弾き飛ばしてやる。ああ、ほんと、切り替えないと。
洞窟の入り口から中を覗くと、そこには何が潜んでいてもおかしくないと思わせる真の闇が蟠ってーーいなかった。拳大の光の球が、僕の前方に一つ、僕と魔法使いの間に一つ、魔法使いの後ろに一つ、出現した。どうやら、角灯は要らないようである。とはいえ、何があるかわからない。事前に用意した最低限の装備、角灯にロープ、筆記用具や食料などを持参するとしよう。心配性かもしれないが、僕は冒険者として未熟なのだから、用心を怠ってはならない。もしかしたら、魔法使いも外套の下に色々と所持しているのかもしれないが、外から見る分には手ぶらの魔法使いに鑑みると、もう少し余裕を持たないといけないような気にもなってしまう。これが経験の差なのだろうか、落ち着き払っている魔法使いが羨ましい、というか、見習わなくては。
あっ、そういえば、魔法使いの魔法を見るのは初めてだ。
「ありがとうございます。コウさん」「……はい」
僕がお礼を言うと、もぞもぞ魔法使いが、ぼそぼそ声で言った。と言ってしまいたくなるくらい、魔法使いはいつも通りで。これは、未だ僕が警戒されているから、などとは思いたくないが、暗色の塊からそれらの機微を読み取るのは難しい。
「……周囲の警戒は私がします。リシェ……さんは地図を読み解いて、先導してください」
というわけで役割分担は決まった。それと、ちょっと、いや、それなりに、若しくはそこはかとなく、嬉しかったりしてるわけなんだけど。ああ、いや、何を言っているかというと、そこのところは僕も不思議に思うんだけど。……ふぅ、初めて名前を、たどたどしくではあるが、呼ばれたからといって、心を躍らせるなんて、僕はどうかしてしまったのだろうか。若しや、これが魔法使いの手練手管? 素っ気無い態度を取り続けて、僕の気を引こうとしているーーなどということはないと思うが。こうして気にしてしまっていること自体が、この謎塊の術中に嵌まっているなんてことが……ん?
……ん? あれ、何かが、……ちょっと待て。何か変じゃないかと思いつつ、洞窟の中に入って、案外歩き易い地面の感触を確かめながら、二十歩進んでから違和感の正体に気付く。……遅過ぎである。むぐぅ、頭が鈍っている、というより、冷静さを失っているということか。はぁ、洞窟の中は涼しいし、頭を冷やすには丁度いいだろう。
「何で僕は魔法が見えて……」「工夫しました。わずかな成功例の一つです」
僕の言葉を遮って、説明する魔法使い。これまでよりも声の調子が明るく、三角帽子の下にはきっと誇らしげな顔があるはず、と思わせるような魔法使いの物言いだった。
「なるほど……」
魔法使いと話す良い機会だと、言葉を続けようとしたが、選択に迷ってしまった。
魔法の素人である僕に、門外漢から褒められて嬉しいだろうか。お礼はさっき言ったから、繰り返すのは態とらしいかもしれない。そうして考え込んでいる間に、沈黙がずしりずしりと、一歩、また一歩と、歩くごとに重くなってゆく。逡巡、というか、煮え切らない、というか、躊躇している内に機を逃してしまった。
僕の葛藤など露知らず、洞窟の闇を払う三つの「光球」は丁度良い距離を保ったまま、のほほんな感じでふよふよと帯同している。里で習った魔法についての、うろ覚えの知識に依ると、魔法使いが行使している魔法はかなりの集中力を必要とするはずである。魔力量の多寡はわからないが、熟達した技術を持っているらしい。氷焔の三人。卓越した力の持ち主たち。よくもまぁ、村という狭い範囲にこれほどの資質を持つ者が集まっていたものである。或いは、彼らが「じじー」「師匠」と呼ぶ人の教えが優れていたのだろうか。
「えっと、次はこっちか」
洞窟は、人が歩くのに適した大きさで、人工的な、本物の洞窟を知らない人間が造ったらこうなるのではないか、という不自然さで。どうやら、魔法、或いはそれに類する方法で造られたもののようだ。始めは幾度か間違えたが、この地図の製作者の癖らしきものを把握したあとは、問題なく進むことが出来ていた。ここまで、戦いの跡などはない。魔物は出没しないという情報に間違いはないようだ。順調な道行きとは逆に、会話は弾んでいない。弾むどころか、べしゃりと潰れてしまっている。どんな危険が潜んでいるかわからないので、無駄話をするわけにはいかないがーー。
「あっ」
ちらりと魔法使いを見て、あることに心付く。この疑問を放置しておくと、夜眠れなくなること請け合い、といった種類の、とても気になる事柄だったので率直に聞いてみることにした。はぐらかされないよう魔法使いを正視する。
「コウさん、杖は持っていないんですか?」
魔法使いといえば杖である。杖を持たない魔法使いなど、魔法使いではない。そう断言してもいいくらい、世間的には心象が固まっている。今まで気付かなかった僕もどうかしているが、そこは魔法使いの風変わりな姿と行動に気を取られていたから、と自分に言い訳してみる。いや、そんなことよりも何よりも、今は魔法使いの答えである。
「……はい。荷物になるので、置いてきました」「……えっと、本当に?」「……はい」
そんな理由でいいのだろうか。魔法使いに杖は必需品、必須で必要不可欠で不可分なものかと思っていたが、そうではないらしい。それとも、この魔法使いが例外なのだろうか。
魔法使いでなくとも、魔力量が多い者は、初歩の攻撃魔法などを行使することが可能。翻って、魔法使いでない彼らは杖を持っていない。その事実からすると、実は杖ってあんまり重要じゃないんだろうか。杖は媒体である、と里で習ったが、う~ん、駄目だ、わからない。魔法に関しては饒舌な魔法使いのことである、聞けば答えてくれるだろうか。
「ん? 到着したのかな」
歩きながら惟ていると、先行する「光球」の明かりが、洞窟の輪郭を淡く縁取っていた。見ると、その先が薄暗くなっている。少しだけ、歩を緩めながら歩いていくと、果たして大きな空洞、いや、広場といった趣のある空間に出た。
仕方がない、か。目的地に着いたようなので、杖なしの魔法使いという、忽せには出来ない問題について、魔法使いに答えを求めるのは後回しである。
「割りかし、綺麗な場所ですね」
綺麗、と言うと御幣があるだろうか、時の浸食が、摩滅や劣化ではなく、重ねられた情趣のようなものとして表れている。静謐、というのは斯かる情景を差すのだろうか、と考えて、それを踏み荒らそうとすることに、禁忌に触れるような罪悪感めいたものが湧いてくる。それは、悪くない気分だった。冒険者ーー冒険とは、冒と険とは、難所や困難を突き進み押し切る、と言葉遊びみたいなものだが、僕が望んでいた、見たかった情景。
正面に崩れた跡があって、瓦礫で塞がれている。遺跡の入り口とされていた場所だろう。隙間から垂れ下がっている植物の根が、奇しくも永い時を侵食する生命の力強さを教えてくれる。右手に祭壇らしきものがある。その奥の壁には、掠れているが「聖語」が記されている。凝った造りではないが、周期を感じさせるものだ。然ればこそ、洞窟は「聖語時代」に造られたものらしい。魔物がいないのも、なにがしかの効果あってのものだろうか。
そして、問題の碑文である。祭壇の右側にある石碑に「古語」で刻んである。この空間は、差し詰め「祭壇の間」と言ったところか。積み重なった瓦礫の隙間から水が染み出して、大きな教会くらいの広さの床が水に浸かっている。水位は脛辺りで、然して深くはないが、浅くもない。水は透き通っていて、疎らな石が敷き詰められた床に危険物の類いは転がっていない。靴を脱いでいっても大丈夫だろうか。できれば濡れた靴で帰りたくないので、居回りを観察していると、祭壇の間に満ちていた水が一瞬で凍り付いた。
「おっ、……凄い」
水の表面だけでなく、水底まで完全に凍っている。冷気などで冷やしたのではなく、水自体に作用を及ぼしたようだ。その性質に、より深く浸透するような魔法は、俄魔法使いには不可能なことだ。技術、と言い換えてもいいが、心象を重ねて、理解と確信があって、魔法は成立する。里で、そのようなことを師範が言っていた記憶がある。あ~、魔法関連にもっと真剣に取り組んでおけば良かったと後悔するが、竜にも角にも、先ずは訝しの魔法使いに感謝である。
「ありがとうございます」「……はい」
然ても、見事な魔法である。今日は惜しげもなく魔法を使ってくれるので何だか嬉しい。魔法を使う瞬間が見られなかったのは残念ではあるが、また機会はあるだろう。滑らないよう慎重に氷上に下りると、足下の氷が、水に戻った。そう、一瞬で、完全凍結していた氷の広場が、巧まずして在るべき姿に、まるで妖精に悪戯をされてしまったかのように。
どぼっ、と足が水に浸かってしまう。拡がっていく波紋が、妙に規則正しくて、魔法を無効化した僕の異質さが際立つようで、思わず空を見上げてしまう。って、そうだった、ここは地下で、僕の心を慰めてくれるはずの空はなく、石で組まれた天井が「光球」の淡い光に揺れていた。天井も、床と変わらない装飾。やはり、この特徴は聖語時代のものだ。現代とは異なる、魔力の運用を極めた時代。と現実から目を逸らすのもそろそろ限界で。
「…………」「…………」
これは僕の特性の所為で、僕が悪いわけではないのだけど。などという言い訳を了承してもらえるだろうか。靴が濡れてしまったが、然てこそこれは誰の所為でもないのである。
「…………」「…………」「…………」「…………」
魔法使いは身動き一つしていないが、頬を膨らませた子供みたいな雰囲気が伝わってくる。どうやら、僕に魔法を無効化されたのが、かなり悔しかったらしい。恐らく、「光球」同様に何らかの対策を施していたのだろうが、僕の特性の前に、打ち砕かれてしまったと。まぁ、起こってしまったことを、とやかく言っても始まらない。始めなくてはならないのは、別のこと。遣るべきことを頭に刻んで、気を引き締める。
「コウさん。後ろからではなく、一緒に碑文を見てみませんか」
自分に出来る最高の笑顔を浮かべて、魔法使いを誘ってみた。
随分と後回しになってしまったが、魔法使いと親睦を深めなくてはならない。きっとエンさんとクーさんは、それを望んで僕と魔法使いを組ませたはず。普通に会話できる程度には仲良くなりたいな、と目標という名の願望を心に掲げる。
「…………」「……っ」「…………」「ーー、……」「…………」「ーーっ」「…………」
戸惑う魔法使い。右へもぞもぞ。困惑する魔法使い。左へもそもそ。呻吟する魔法使い。右へもそもそ。葛藤する魔法使い。左へもぞもぞ。
僕がそう見えているというだけで、魔法使いが苦悩しているかどうか定かではないが。とりあえず、魔法使いの謎舞踊が終わるまで待ってみる。暗色の謎塊ではあるが、こうして小動物を眺めるような心地で観察すると、可愛げがあるように見えてくるから不思議である。あ、結論が出たようだ。魔法使いのもそもぞが終わって、祭壇の間に静寂が戻る。
「っ⁉」
ぃっ⁈ ……驚愕のあまり喉から飛び出しそうになった悲鳴の欠片を、口を閉じて必死に我慢した後、ごくりと飲み下した。心臓の音が只管煩いが、今はどうでもいい。
魔法使いが隣に居た。ゆくりなく隣に居た。なにをいっているのかわからないかもしれないが、なにかいわないとわからないのであえていってしまうのだが、って、待て、僕、ここは一つ、冷静に、慎重に、精確に……。
ーーそうなのだ、魔法使いは、気付けば僕の隣に居た。いつものように、とてとてと歩いてくるのかと思いきや、瞬きよりも早く僕の隣に移動していたのだ。お負けに、水面に立っている。然なめりと思っていたが、僕の予想以上に、魔力の扱いに長じているようだ。状況から察するに、魔法で移動したのだろう。
いや、この近距離を移動するのに、魔法を使う必要なんてーーとそこまで考えて思い至る。この場合は、心理的な距離か。僕と魔法使いの距離は、普通に歩けば三歩でなくなってしまう、細やかなものだ。然りとて、人と歩み寄る為の、心の距離は人によって異なる。魔法使いにとって、この小さな距離は、思った以上に大きかったのかもしれない。
わざわざ魔法を使わなくては縮められないくらいに。
人の心は感覚で捉えなさい。里でそのように教える師範もいた。理屈で考えると上手くいかない、とも。過去の恋愛遍歴を交えて話すのには辟易したが。
ここで余計なことをして、すべてを台無しにするわけにはいかない。僕は何も言わず、魔法使いと一緒に碑文まで歩いていった。
石碑は立派なもので、高さは魔法使いの身長の倍といったところ。横幅は、僕が両腕を広げたくらい。魔法使いの三角帽子が少し上を向いていた。碑文を見ているようだ。
クーさんが言っていたように、碑文の文字はそのままでは意味を成さないものだった。
「コウさんは、古語が読めるんですか?」
「……はい。師匠に習いました。古い文献を読むには必要でしたので」
日常生活に古語は必要ない。識字率の低いこの大陸で、古語を読めるというのはそれだけで特別なことである。
「そうなんですか。では、解けたら教えてください。待ってますので」
「……リシェさんは、解かないのですか?」
魔法使いの声音に非難の色が混ざっていた。
……失敗した。はぁ、これは不味い、誤解させてしまったようだ。仲良くしようと行動した途端にこれである。場を和ませる為に、努めて明るく振る舞う。
「えっと、ごめんなさい。言い方が悪かったですね。碑文の解読は終わったので、コウさんが終わったら答え合わせをしよう、という意味です」「ふぇっ⁉」
魔法使いが驚いて、僕に向き直る。声が裏返ったのだろうか、耳にちょっと響いた。
惜しい。もう少しで魔法使いの顔が見えたのに。顎の先がちょこっと見えただけだった。
「……もう解いたのですか?」「はい。ですので、お待ちしています」
じっと見ていると、魔法使いの気を散らしてしまうかもしれない。僕は碑文から視線を外して、祭壇を観察している振りをすることにした。
このくらいでは今までの失態の汚名返上はできないかもしれないが、一先ず安心、と胸を撫で下ろす。ここでも醜態を晒したら、氷焔にいるのが心苦しくなっていただろう。
先程よりは穏やかな沈黙が流れて、前触れもなく魔法使いが振り返った。いや、前触れはあった。五歩分、くらいの差で、僕の耳にも届く。洞窟から複数の足音が響いてきた。
「黄金の秤の人たちかな」
碑文の解読は済んだし、依頼は完遂できたらしい。欲を言えば、魔法使いと会話が続いていたので、黄金の秤の人たちには、もう少し遅い登場をお願いしたかったが。
警戒心の感じられない、無造作な足音は徐々に大きくなって、やがて洞窟から姿を現す。風体のよくない、五人の男たちだった。どこか荒んだ空気を纏い、目には濁った淀みがある。剣は鞘から抜かれている。魔物と遭遇でもしたのだろうか。いや、間違えようもない。彼らの目には敵意が宿っていた。
頭の後ろから背中に、小さな痛みが走る。異常事態に呼吸が浅くなる。
だが一瞬で切り替える。この程度なら、時間を掛けなくても平静を装うことが出来る。
「よぉ、氷焔の御二人さん。ご苦労様~」
先頭にいた背の高い男がおどけてみせると、他の団員たちから野卑な笑声が転び出て、遺跡内に反響する。明らかな非友好的な態度。しかもこちらを侮っている。「火焔」と「薄氷」のいない氷焔など、相手にならないといった風情である。
「んぁ、……そこの餓鬼、どっかで見たような」
どうやら気付いたようだ。彼らは、僕を見ても違和感や嫌悪といったものを生じなかった。それは、面識があるということだ。どうせなら、気付かなければいいものを。まぁ、僕の特性と相俟って、悪目立ちしてしまったのだから仕様がないか。
「ぶははっ、エルネアの剣にいた役立たずの餓鬼じゃねぇか!」「ぷはっ、あの変な奴かよ!」「ああ、そーいやぁ居たなぁ、そんなの、いつの間にか消えてんだよなぁ」
背の高い男の言葉で全員が思い出したのか、一斉に嘲弄する。然ても、聞き苦しい、もはや騒音水準である。エルネアの剣にいた頃から粗野で短慮な様子は見られたが、今はそれ以上である。エルネアの剣を追い出される過程で、何かあったのかもしれない。
ーーこれは逃げ一択かも。クーさんが言っていたように、面倒事に巻き込まれる必要はない。彼らが姿を現す前から、というか、この祭壇の間に着いたときに逃走の手段は考えてある。先ず考えるのがそんなことなのはどうかと思うが、これも性分である。最悪の場合を想定しておくことの重要性を里で教示されたが、想定し過ぎて師範に呆れられたこともある僕なので、これはもう矯正は不可能なのかもしれない。いや、今は過去を顧みて、沈んでいる場合ではない。問題は、彼らがここで何をしているのか、ということである。
エルネアの剣の乗っ取りを企み、オルエルさんに手酷く遣られたであろう元団員。彼らは僕たちを氷焔と認識して、尚且つ悪意を持っている。彼らの目的は一先ず措くとして、問題は人数である。これだけの知小謀大、仕切っているのはディスニアだろう。いや、侮ってはならない。他人の使い方がお粗末なだけで、彼自身は有能なのだ。彼らは、外部の団とも共謀していた。多くて五十、ディスニア周辺だけなら二十といったところか。
これは、黄金の秤の団員たちに警告を発しなければーーいや、希望に縋ってはならない。然く甘い考えは捨てよう。氷焔に依頼したのが黄金の秤であるなら、彼らもまたディスニアに加担していると考えるのが自然である。
黄金の秤は、冒険者集団である。あ、……ああ、しくじった、彼らの団員数を聞いていなかった。仕方がない、然したる猶予はないし、四十~六十と見積もっておこう。
「……っ!」
ぐぅ、……これは慮外。いや、予想できたことだ。洞窟から新たな足音が聞こえてくる。然も、至近。男たちの下らないお喋りで、気付くのが遅れた。
「早いな。もう着いてたのか」
鋭い風貌の、どこかエンさんを思わせる戦士然とした男が現れる。元エルネアの剣の男たちのような、ちゃらけた雰囲気など微塵も感じさせず、彼らに一瞥をくれると、
「ーーつぁっ!」
造次顛沛にも僕を捉えて、魔法を放ってきた。
僕には見えないが、男の挙動と周囲の反応から、間違いないだろう。エンさんが言っていた、魔力量が多い者には薄気味悪く見える、ということの帰結。即ち、最も警戒しなくてはならない相手だということ。然し、僕にとっては好都合でもある。
男の声が祭壇の間に響くと、彼の後ろから四人の男が飛び出してきて、即座に剣を抜く。
彼らに見覚えはないので、黄金の秤の団員なのだろう。平均的な冒険者の装備だが、僕に魔法を行使した男だけ装備の質が一段上だった。
「副団長、いきなり何を……」「油断するな! 全員、戦闘態勢!」
聞く者を従属させるに足る威勢がある。副団長と呼ばれた男が水面に下りると、追随した黄金の秤の四人が僕たちを半包囲する形で対峙する。
「相手は氷焔だぞ。『火焔』と『薄氷』がいないからといって、甘く見るな!」
未だ状況を飲み込めていない元エルネアの剣の五人に、叱責が飛ぶ。残念ながら予想は的中。とどのつまり彼らは共謀。僕らに対して、敵意があるのは確実となった。
「ち、違いますぜ、副団長。その餓鬼はエルネアの剣に入ってた餓鬼で、無能ですぐ辞めさせられた奴ですぜ」
背の高い男が、自分より周期の若い黄金の秤の副団長に下手に出て言い訳を始めるが、澱んだ空気を薙ぎ払うかの如く、遠慮仮借なく一喝される。
「馬鹿が! 今のが見えなかったのか! 俺の魔法を一顧だにしなかった。防ぐ必要すらないってことだ。資料は渡したはずだ。慥か、ランル・リシェ、だったな。奴は氷焔に加わって、すでに一定期間が経っている。これまで入った奴は三日と持たなかったのにだ」
警戒を緩めることなく口早に話すと、副団長は確認するようにゆっくりと言葉にした。
「それと、今気付いたが、奴がエルネアの剣に所属していた時期と、お前たちが追い出された時期がーー符合してるんじゃないか?」「正解です」
相手の気を引く為に、余裕を漂わせながら拍手をする。男たちが惟る前に、答えを差し出して誘導する。黄金の秤の副団長の推測を利用する。
「僕の名は、すでに知っているようですね。あなたの名を教えていただけますか?」
この場で名を尋ねるということは、相手を認めたということである。相手の闘争心を抑えるには、有効なはずである。相手が十人となると、逃走は難しくなる。いや、僕だけなら、逃げ切るのは可能であったりする。僕の特性は、遁走と相性がいい。然り乍ら、今回は魔法使いが居る。魔法使いを抱えて逃げるのは、最後の手段としたい。時間を稼げば、魔法使いが事態を好転させる魔法を使ってくれるかもしれない。ちらりと窺うと、静かに佇んでいる魔法使いの姿。微動だにしない謎塊から、何一つ看取することは出来なかった。
僕が徒手であることを慮ったのか、剣を収めて、副団長は威儀を正す。
「俺は黄金の秤の副団長、エルジェス・ザーツネル」
あに図らんや、誠実さを感じさせる穏やかな口調が、逆に青年の精悍さを引き立たせる。虚を衝かれて気後れしそうになるが、ザーツネルの名乗りを、表に兆すことなく鷹揚に構えて受ける。ふぅ、竜にも角にも、会話には応じてくれるようだ。
場が落ち着く、いや、膠着と言うべきか。見澄ますと、黄金の秤の団員は皆若かった。元エルネアの剣が三十代なら、黄金の秤は二十代。ザーツネルは二十半ばといったところか。黄金の秤の団員には、胆力を感じさせる気風があるが、彼らの現状が関係しているのだろうか、男たちの周囲にだけ止まない雨が降り続いているような心象を抱く。これは留意しておいたほうが良さそうだ。
「ザーツネルさん。あなたの推測通り、僕はオルエルさんに依頼されてエルネアの剣の内情を探っていました。ははっ、無能扱いされるのは、新鮮で結構楽しかったですよ。僕の演技も捨てたものではありませんね」
嘘も方便である。薄笑いを浮かべて、元エルネアの剣の五人に、順繰りに視線を巡らす。
「その様子だと、オルエルさんにこってり絞られたようですね?」「お、お前っ! 俺たちがどんな目に遭ったと思ってんだ!」「ひいぃ、し、死ぬほど、だったんだぞ⁉」
矢庭に、喚き立てる彼らであったが、声の強さに比べ、怯えを宿した眼光は弱々しいものだった。彼らの姿に、オルエルさんが紙束を握り潰していた様を思い出す。
「さあ? どんな目に遭ったとしても、自業自得以上のものではないと思いますが」
僕が対処すべき相手はザーツネルなので、彼らの非難を一蹴して黙らせる。
「そんな些事よりも。この碑文の謎解きの答え、知りたくありませんか? 今回の依頼は碑文の解読。先に終えておきたいのですが」
「もう解いたのか。それにこの期に及んで、依頼のことかよ」
ザーツネルは苦笑を浮かべるが、目にはより強い警戒の色が塗り重ねられる。
「ランル・リシェ、だったな。一つ尋ねるがいいか?」「ええ、何なりと。ザーツネルさん」「あんたは、〝サイカ〟か?」「いえ。僕は、〝目〟です」
短い遣り取り。然れど、居回りの雰囲気が一変する。
「へぇ、あんたほどの奴が〝目〟なのか。いったい〝サイカ〟ってのはどんな化け物なんだかな」「僕の兄が〝サイカ〟です。僕は兄に到底及びません」
彼らに碑文が見えるよう横に二歩移動して、然りげなく魔法使いに近付く。
「解き方は単純です。先ず五文字ずつ区切り、一番目と五番目の文字を入れ替える。次に三つずつ区切り、一番目と三番目。最後に二つずつ区切り、入れ替える」
説明を始めると、全員の視線が僕に集まった。こんな状況でも静かに聞いてくれているのがちょっと面白い。場違いながら、笑みが零れてしまう。
「十番目の文字が六番目に移動。六番目が四番目に、四番目が三番目。つまり、最大でも七つしか移動しません。狭い範囲でしか入れ替えが行われていない。全体を見渡せば、文章に出来そうな箇所が散見できる。意味のわかる文章にしたら、どうすればその文章になるかを試し、あとは全体に適用できるか確認する」
簡単でしょう、と同意を求めてみるが、頷いてくれる人はいなかった。
「ははっ、簡単とは言ってくれるものだな。古語すら読めない俺たちには正解かどうか確かめることも出来ないってのにな」
ザーツネルを始め、全員疑ってはいないようだが、答えに相応するものを提示する必要があるようだ。では、その流れのなかに組み込んでしまおう。憶測も交えて語ることになるが、遺跡に関してなら、彼らの歓心を買う為にも披瀝してしまって構わないだろう。
「この遺跡ですが、最低でも三つの勢力が使用しています。先ずは、この遺跡を造った人、若しくは人々。多少薄れて、見難くありますが、壁に記された聖語を散見することが出来ます。聖語時代の中期、七百~八百五十周期前、今に残る遺跡や洞窟の多くがこの時代に造られました。聖語とは、力ある言葉、とされ、言葉自体に魔力が宿っていたようです。後世には『呪文』などと呼ぶ人もいますが、今や完全に失われてしまった言語です。
次に、石碑を立てた人々です。人々、と断定するのは、この碑文が合い言葉のような役割を果たしているからです。古語時代の人々にとっては、然程難しくない、切っ掛けさえあれば解ける程度のもの。恐らく、古語時代に会合か何かで使用されていたのでしょう。宗教的なものか、寄り合い所のようなものだったのか。そして、最後に。
この遺跡には、財宝があります。現在では解くのが難しい、謎掛けの碑文ですが、古語時代では解くのが容易となると、古語時代の人々がここに財宝を隠すような無用心なことをするはずがありません。つまり、最後に遺跡を使用したのは、古語が廃れた後、ということになります。盗賊か、貴族か商人か、この場所が最近まで発見されなかったということは、何かしら偽装が施されていたのでしょうね。それを、四勢力目となるかもしれない、あなたたちが偶然発見することになりますが、碑文は解けず、然し諦めるのも惜しい。
そこで今回の謀略を思い付く。ただ、元エルネアの剣と共謀していることから、主導しているのは、あなたたち黄金の秤ではないように思えます。とはいえ、こうして現実に策動している以上、咎無し、というわけにはいかないでしょうが。僕としては、下っていただいて、元エルネアの剣の人々を懲らしめるのに協力して欲しい、ところですが」
手を汚すのも面倒臭い、とばかりに振る舞って、仲間割れを狙って唆してみるが、そう簡単にはいかないようだ。彼らにも、彼らなりの事情があって事に及んでいる。罪を犯すと、一線を越えてしまった黄金の秤の面々。打算を働かす、その素振りすらなかったということは、ザーツネルの懐柔に難渋するのは目に見えている。然らば方針転換、かな。
「……とんでもないな。ここに着いてから、大して経ってないってのに、碑文の解読だけじゃなく、財宝の有無までわかっちまうのか。ーー実は、団長には内緒だが、場合によっちゃあ、あんたを黄金の秤に引き入れようと画策してたんだが、黄金の秤じゃあ、あんたを飼えそうにないな。猛獣なら未だしも魔獣や竜の類いではこっちが喰われちまう」
随分と買い被られたものだが、僕の手管に巻かれてくれているのだから、利用しない手はない。祭壇まで移動して、解読した内容にあった、何の変哲もない対角線上の二箇所を同時に押し込んでみる。すると、どういう仕掛けだろうか、聖語時代か古語時代のものかわからないが、祭壇横の壁が勝手にずれて地下へと続く階段が現れた。
「「「「「ーーーー」」」」」
碑文の解読が正解であることをあっさり証明すると、隠し階段を見る男たちの目に強い光が宿る。冒険者なら、心が沸き立たないはずがない。たとえこんな状況であろうとも、それが冒険者というものなのだろう。魔法使いはどうかな、と視線を向けてみると、不自然な感じで、ゆる~りとそっぽを向かれてしまった。これは、ちょっとどうなのだろう、いや、今は魔法使いの心情を追究している場合ではない。
「さて、僕たちに十人。では、エンさんとクーさんには何十人充てたのですか?」
こちらから情報と成果を差し出したので、次は相手に求めてみる。これまでザーツネルと黄金の秤の男たちを観察してきたが、元エルネアの剣の男たちとは明らかな違いがあった。僕の推量が正しければ、彼は答えてくれるだろう。
「あっちは八十だ。もっとこっちに回しておけば良かったと後悔してるところさ」
ザーツネルたち黄金の秤の団員には、どこか諦めにも似た、投げ遣りで暗い雰囲気が付き纏う。僕は、もう一歩踏み込んでみることにした。
「氷焔を討って名を上げる。それをしなくてはならない苦境。ディスニアたちと手を組んでいるとなると、黄金の秤も何か失態を演じましたか?」「お察しの通りさ。もう組合からの依頼は受けられない。団長は決断した。俺たちは付いて行くと決めた。それだけさ」
ザーツネルの言葉に、黄金の秤の団員たちはそれぞれに苦いものを噛み締めていた。
已むに已まれぬ事情があったのだろう。然りとて、それが免罪符になるわけがない。他者の犠牲の上に、自らの利益を築くなど。許容などできないし、していいはずがない。
自分が甘いということはわかっているが、こんなことで一々妥協していたら、永遠に兄さんの居る場所には辿り着けない。
ーーもう十分かな。ふぅ、あとは、戦わずに退けるよう誘導できればいいのだが。
「こちらに十というのは論外として、あの二人に八十というのは少ないのでは?」
「氷焔は魔物退治、討伐が主で、対人戦闘は苦手という噂がある」
その風聞は初めて耳にする。そういえばエンさんが、荒事専門に見られている、と言っていた。そして、誤解を解く、とも。氷焔と行動を共にしてから、魔物としか戦っていない。それに必要以上の、他者との接触を避けていた節がある。だからといって、人類最強とも謳われる「火焔」と「薄氷」をどうにか出来るとは思えないが。
「さっきも言った通り、後がないのでな。高い金を払って魔法使いを一人雇った」
「魔法使い、ですか?」
嫌な予感がした。いや、予感ではない、もう確信に近い。高額で雇うような魔法使いなど一人しか思い浮かばない。
「ガラン・クン。大陸最強の魔法使い、と呼ばれる男だ。あの男が言うには、氷焔の魔力を封じることが出来るそうだ。それなら、俺たちにも勝ち目があるとは思わないか?」
言葉とは裏腹に、ザーツネルに勝ち誇ったところはない。忸怩たる思いに晒されているのか、未来どころか明日のことさえ考えられない、切り取られた今日を生きるしかない世捨て人のような、自嘲的で投げ遣りな笑みを浮かべている。
その顔が魔法使いに向けられて、凍り付いた刹那に、
「ーーっ⁉」
彼は不自然に水面に叩き付けられた。
「なっ⁉」
始めは、何が起こったのかわからなかった。ザーツネルだけでなく、僕と魔法使いを除いた、すべての男たちが倒れていた。って、呆気に取られている場合じゃないっ!
「「「っ」」」「「「!」」」「「「っ⁉」」」「四人っ‼」
僕は、一本の棒のようになって、指一つ動かせず固まっているザーツネルに駆け寄って、足と腕を掴んでぐるりと半回転させた。水が気管に入ったのか、苦しげに咳を繰り返している。硬直しているのは、体の表面だけで、内側までは効果が及んでいないようだ。残りの三人も手早く裏返す。よしっ、これで溺れることはない。僕が触れて魔法は無効化されたはずだが、男たちは未だに硬直したまま。連続して魔法を行使しているのか、僕の特性に打ち勝つような効果があるのか定かではないが、今は、そんなことは後回しである。
「コウさん‼」
僕はこの事態を引き起こしたであろう魔法使いに怒気をぶつけた。彼らは僕たちを害する気であっただろう。筋違いだということはわかっているが、人の命を蔑ろにすることは許せない。いや、なぜだかわからないが、魔法使いにはそんなことをして欲しくない。
「……相手に……気付かれないように……先ず探査を……」
魔法使いは周囲の現況などまるで気にしていなかった。僕の言葉など耳朶の端にすら届かず、何事かをぶつぶつと呟いていた。
僕は魔法使いの肩に手を掛けて、こちらに振り向かせようと……、
「え……?」
呆然とした。
体の中にあった、重みのない、それでいて重要な何かが。触れられそうにない、透明な殻のようなものが周囲に放たれる。天井を透過して、更に拡がる。拡がる。拡がるーー。
これは……、何を見ている? 何を感じている? 僕は、知覚している、のか?
ここに居ながらに、ここに居ない。地表に出て、止まらない。森の木々を抜けたところで、知る。透明な何かが覆っている。これに触れてはならない。相手に気付かれる。手前で止まって、横に拡がる。呼吸、はしているのだろうか、息苦しくて、頭も心も、何もかもが追い付かなくて、罅割れていく感触だけが、妙に冴え冴えしくて。
森の、樹が動物が虫が草が岩が、意識の表層部分をぎちぎちと削り取る。これは、見ている、探している、気を抜けば掻き混ぜられる、内側から魂を引き剥がされかねない、恐怖、などという言葉では足りない、圧倒的な喪失感に気が狂いそうになる。
森を、大気を翔けて、断絶された透明な壁に行き着く。あれは「結界」だ。
その先に、その先に。
エンさんとクーさんーー。小さな人影。だが間違えようはずもない。
「エン兄、クー姉……」
か細い声が漏れた。見知らぬ土地で迷子になって、不安と恐怖に怯えた子供の、今にも泣き出しそうな。遠くへ行き過ぎた視界に重なったのは、魔法使いの感触。
然う、これは魔力、魔法なのだろう、魔法使いの魔法が僕を掻き混ぜる。僕は僕であり、魔法使いであり、だからわかる。魔法使いは、止まらない、止まるはずがない。
水面に水滴が落ちた。いや、落ちたのは魔力の塊、魔法使いを中心に、波立つ。淡い黄金色の粒子。波は魔力の地平に刻む。洞窟の構造を一瞬で把握する。地上に戻る最短の経路を残して、不必要なものは消し去る。
魔法使いがこれから行くべき道に手を翳す。地表へと至る一本道を風の渦が取り巻く。
「……っ」
引き裂かれるような予感がして、伸ばされた魔法使いの手首を掴んだ。と同時に、視界が爆ぜる。魔法使いが宙を舞って、気付けば、洞窟の中に飛び込んでいた。
「ぃぎっ⁉」
ぐっ、何がどうなってーー。ぼんやりと明るい視界の中で、僕と魔法使いの感覚が重なるが、僕自身の知覚も纏わり付くように実感する為、世界の有様に齟齬が生じる。
ふわりとした一瞬の静寂。より深く重なって、僕が……、あやふやになってゆく。
ーー風に示された道をゆく。大風に揺られる、今にも千切れそうな木の葉のように、散々に振り回される。魔力で覆っているのだろうか、魔法使いの細い手首は、僕が力の限り掴まっているはずなのに、びくともしない。
現実の視界と、魔法使いの魔法に因る感知とが混同されて、何もかもがごちゃ混ぜになってしまいそうな……。だか、ここで踏ん張らなければ、一巻の終わり。先程からがんがんと打ち鳴らされている僕の本能なのか何なのかわからないものが、神経を蝕みながら、体の遥か奥過ぎてもはや知覚することも敵わない、生命を構成するに不可欠な感じのものを、竜の咆哮のような圧力で、ただ只管に撒き散らしてゆく。
……いや、もう自分でも何を考えているのかまるでわかっぐぶっ⁈
「ぶぎぃっ⁉」
痛っ、くぅ、振り回されて魔法使いにぶつかったが、魔力の有無なのか、僕だけが一方的に損傷を受けたようだ。今のは魔法使いだったが、これがもし周囲の壁だったら……。
「……ぅっ」
這い寄る恐怖さえ風に撒き散らされる、そんな決死行ーー。
魔法使いがわずかに三角帽子を傾けて、
「……邪魔」
服に付いた埃を払うような無感動さで、僕を捨てた。
掴んでいた手が弾かれる。魔法使いは、くるっと手首を捻っただけなのに、いや、これは魔力なのか。って、ちょっ、まっ、死っ! 死にますから⁉ こんな速度でっ、書き損じて丸めた紙屑のようにっ、ぽい捨てざれ、だらっじにまず、がら‼ がらっ⁈
「…………」
……くふぅ~。奇跡である。これを奇跡と呼ばず、何と呼ぶ。僕の意思とは無関係に、しっちゃかめっちゃか彷徨い捲っていた両手が、魔法使いの踵と脹ら脛に引っ掛かった。
「すべっ、すべ!」
なれど、脹ら脛に掛かった手が滑る。ぐぅっ、この細くて柔らかくて滑らかな感じの足は、何でこんなにもつるっつるなのか! 駄目だっ、このままではまた放り出される⁉
「ーーーー」
ーーはふぅ~。二度目の奇跡。もう一生分どころか、三生分くらい使い果たしてしまったかもしれない。もはや頭では考えていない。滑りそうになる手をあえて放して、外套を掴むと、魔法使いの足に巻き付ける。本来ならこんな芸当は不可能だが、洞窟が曲がり角だったので、魔法使いの足をぎっちりと抱え込むことに成功した。
「くぅっ!」
安堵する間もなく、視界が白に染まった。その白は、暖かい。
風景が一変した。地上に出たのだ。っていうか、森の上を飛んでいる。まだ死地にいる。ここで振り落とされたら、やっぱりきっとたぶんけっきょくあんのじょう、人間の形じゃないものになってしまぶぅっ⁉ って、今度はっ、急降下ーー。
当然、予告なく行われたその行動に、僕が対応できるはずもなく。
須臾、垣間見る、樹中に風の蟠り。あそこに落ちればーー。
「とうぅどぎぃ御あに於いぃてぇ、がのぉぢ恵の実のぉ~」
然もあれ、サクラニルに祈りつつ、魔法使いの足から手を放す。そして、直後に心付く。知識と想像力の神に祈ってどうする、ここは幸運の女神エルシュテルにーー、
「ぎぃぇっ」
祈る間もなく、やんちゃな風に翻弄されたあげく樹木の枝や葉に迷惑を掛けながら、目に見える景色がわやくちゃだが、視界が晴れたときには地面をごろごろ転がっていたので、命を拾ったことだけはわかった。重傷ではない、と信じたいところだが、背中と横っ腹、あと腿の辺りが、鋭い痛みのあとの、疼痛と痺れの度合いから、まともに感覚が機能していないような現状では予断を許さないと、出来る限り損傷箇所を庇う。
いったいどれだけ転がったのか、最後に横倒しになって止まると、水中から見上げたかのように世界は覚束ず、ぐらついていた。揺れていようが、震えていようが、今は関係ない。僕は目眩に耐えながら膝立ちになって。
ーー息を呑んだ。いや、もっと鋭い、引き裂くものが体内に侵入する。魂が凍えた。
「あ……あ」
エンさんとクーさんが、うつ伏せになって倒れていた。僕が居たのは、なだらかな坂の上で、ここで何が起こったのか、見渡すことが出来た。……出来てしまった。
右は肘から、左は肩口から。ある筈のものがなかった。意識を失っているらしいクーさんの両腕が途中からなくなっていた。だが、今すぐ手当てをすれば助かるかもしれない。
それが告げる。もう助からないと。もう一人は。
エンさんは十数本の剣に体を貫かれていた。矢も何本か刺さっている。虫の息だ。どう足掻いても助からない。だのに、圧倒的な絶望を前にしても、彼の双眸には強い意志が宿っていた。あんなになっても意識を失っていない。
「ディスニア‼」
僕は、エルネアの剣の、嘗ての第一隊隊長の名をーー生まれて初めて憎悪を込めて人の名を呼んだ。喉が焼けるような僕の絶叫に、振り返る口髭の男の顔には、嘲るような笑みが貼り付いていた。灼けるのは、喉だけではない、頭も体も何もかも炎熱に炙られる。
「氷焔の残りの二人か。十人では足りなかったか」
卑しめる、いや、貶めようとしているのか、エンさんを刺し貫く剣の一本を、ぐりぐりと動かして弄ぶ。傷口を甚振られるエンさんは、呻き声一つ上げない。もう痛みを感じていないのかもしれない。
十人程の冒険者が二人を囲むように立っていた。ディスニアの横に並んでいるのは、黄金の秤の団長だろうか。副団長のザーツネルと同じく、苦々しいものを顔に刻んでいる。
「もう良いでしょう。『火焔』を嬲る必要などありません」「それにしても恐ろしいな。一人も殺すことなく、これだけ倒すとは。油断か? それでも勝てると傲慢なことを考えていたか? くくっ、お前たちは自分たちの甘さに殺されるのさ」
その物言いから、この計画を主導したのがディスニアだと知れる。
彼らの周囲には、数多くの人間が倒れている。ザーツネルは八十と言っていたから、七十か。倒れ伏す者たちの中に、一見して重傷と思しき者はいない。
「……エンさんは、クーさんは、殺していない。お前たちはここまでのことをしたのか!」
ーー怒りを自覚せよ。里で習ったことだ。どれほど怒りを抱えようと、冷静さを失ってはならないと。だが思う、鬩ぎ合う、怒り、などという言葉では足りない、体を食い破ろうとする、これを、どうにかなんて出来るものか。未だ目眩は治まっていない、然あれど、衝動のままに立ち上がる。その勢いで、体の中の痛いくらいに響き渡る、情動なのか情念の炎なのか、爛れたものが零れてしまいそうになる。
まるで自身が炎竜になったかのような、制御不能な熱に浮かされて、脈動して弾けそうになるーー間際に、氷竜が僕に覆い被さる。……そんな幻想を抱いてしまうくらいの、凍える事実に、猛っていた炎は完膚無きまでに消沈する。
氷竜の牙は抉る。不可視のそれは、僕という存在の真ん中にあった怒りの源泉を噛み砕いて、引き攣れるような痛みで糊塗する。
……気付いた。気付いてしまった……。
考えまいとしても、勝手に形を成して、告げてゆく。
何故遺跡に、ディスニアが居る。それは、僕が不正の証拠を渡したからーー。
氷焔は、何故黄金の秤から依頼を受けた。それは、僕が氷焔に居続けたからーー。
「あ……れ? 僕の所為か……」
事実と事実が重なって、そこにあるのは、やっぱり事実、なのだろうか。
道に転がっている嘘や偽りなど、人の為に用意された優しさに過ぎない。僕が歩いてきた道には、何があったのか。振り返ってみても、ぐちゃぐちゃでよくわからない。怒りで鈍麻していた痛みがぶり返して、猶かし思考を乱れさせる。
ディスニアの不正を見逃せばよかった? 氷焔に入らなければよかった? この結末を迎えない為にはどうすればよかった? わからない。わからない。黄金の秤の依頼を受けなくても、彼らは別の方策を用いただけ。つまり、結果は変わらない? ディスニアを見逃せば、被害者が変わっただけ。そのほうが損失は軽微で済んだ? わからない。わかりたくない。わからない。これが、用意された、与えられただけの道を歩いてきた、怠惰な僕への報いだというのか。
「……ふぁ……あぁ」
声が聞こえる。僕の口から勝手に出たのかと思ったが、口は閉じたままだ。
答えを求めて、ぐちゃぐちゃな頭が、楽になれる場所を探して勝手に持ち上がると、僕の傍らの魔法使いが、二人を、そこに用意された冷たい現実を、直視していた。
顔を上げて、三角帽子で隠すことも忘れて、戦慄いていた。
初めて見た、魔法使いの面差し。ただ一点に、緑に、引き込まれた。
透き通るようでいて、深い濃緑の瞳。ただただ、惹かれてしまう。そんなことをしている場合ではないと頭では分かっていながら、翠緑の瞳を美しいとーー。
「ああぁあぁああああああああああぁぁああああああああああああああああああああああ」
ーー世界が頭を垂れた。
眼前で起こった、それに、薄っすらと思った。
声が溢れた。何もかもが魔法使いから、溢れた。
「ぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁ」
雲で覆われていた空に、一国が丸ごと入ってしまうくらいの巨大な穴が空いて、周囲の雲が有り得ない速度で渦を巻いている。大地が震えている。いや、ここにある何もかもが畏怖している。魔力を感じることが出来ないはずの僕の全身がひりつく。エンさんとクーさんの居回りにいた男たちが、魔法使いの尋常ではない魔力なのか魔法なのか、薙ぎ倒されて、剰え衝撃で弾け飛ばされる。嵐で折れ飛んだ小枝のように地面に散らかった彼らは、この世ならざるものを目にしているのか、恐慌を来す。
「ひっ、無数の火の球が!」「氷がっ、空一面に⁉」「あぁ、た、竜巻があっちにもこっちにも‼」「ぃい、岩が! 串刺しにされちまうぞ⁉」「世界が、世界が崩れるっ‼」
天は揺らぎ、地は裂け、大気は鳴動する。見えない僕でさえ、これほどの天変地異を目の当たりにしている。彼らには、世界の終焉の如き惨状が展開されているのかもしれない。
「ガラン・クンは⁉」「駄目だ! 泡噴いてるっ‼」
黄金の秤の団長の問いに、近くにいた者が声高に叫ぶ。
「慌てるな! 魔法使いを攻撃しなさい!」「むっ、無理だ! 見ろ、魔法使いの隣にいる奴っ、あの魔力の発生源にいるのに顔色一つ変えてない。あいつも化け物だ‼」
気丈にも指示を飛ばす黄金の秤の団長の鋭い声に、情けない姿を露呈しながら喚くディスニア。右往左往という言葉は、今の彼らの為にあるようなものだ。
……然ても、化け物扱いされてしまった。立て続けに起こった事態に、理性も感情も追い付かず、突っ立っていただけなのだが、精神の均衡を崩し始めている彼らには、そう見えるらしい。
ふと、視線を感じた。
何気無しに顔を向けると、エンさんと目が合った。彼の顔が微かに動いて、伝える。
僕の横を。ただそれだけの為に、命の欠片を費やす。
横に居るのは魔法使い。
……まだ考える力は残っているらしい。エンさんの命の灯火を理解してしまう。
「ーーーー」
もう声にならないのだろうか、慟哭、いや、茫然自失となった魔法使いは、想いのすべてを、魔力に、魔法に、託して、縋っているのだとしたなら。
暴走、しているのだろうか。感覚に乏しい体は、まだ僕に従ってくれるので、魔法使いの許へと、わずかな距離を、隙間を、一歩一歩縮めながら、魔力の奔流に抗いながら。
激甚たる魔力の所為なのだろうか、揺らめく透明な障壁のようなものが、魔法使いの姿を歪めている。……この小さな体は、不条理を、理不尽を、あってはならない星回りを、受け止め切れず、世界に撒き散らしている。
熱いのか、痛いのか、寒いのか、近付くほどに強くなって、心細いのか、寂しいのか、
切ないのか、混ざり過ぎてわからないのに、足だけは焦がれるように動いて。
辿り着いた先で、凭れ掛かるように魔法使いを後ろから抱き締める。
「ああ、これは酷いな」
魔法使いに触れていると、僕にも魔法が知覚できる。なぜかはわからないが、どうやらそうなっているらしい。
未だ世界が壊れていないのが不思議である。見上げれば、竜巻に巻き上げられた人がいる。割れた地に姿を消してゆく。金色の、眩しいもので魔法使いの周囲が満たされている。これが魔力なのだろう。思っていたより、ずっと綺麗だ。
僕に出来ることは何だろう。痺れて、磨耗して、単純な生き物になってしまったような、少ない欠片を集めて考える。
このまま持ち上げて、後ろにでも倒れれば、魔法使いは正気に戻るだろうか。
魔法使いを持ち上げる為に、更に深く掻き抱いて……、
「ふゃあ……」
……あに図らんや、可愛い声が聞こえた。それと、これはなんだろうか、右手に柔らかいものが。鈍り切っているはずが、触れた場所から、生暖かい優しい心地を伝えてくる。
というわけで、確認してみる。
ない、と言えないくらいには、ちゃんとある。
「ふぇっ、ぅん、やあぁ……」
今にも泣き出しそうな、羞恥心を湛えて溢れ出しそうな、罪人に決定した僕の良心を抉る、まだ幼さの残る愛らしい顔の魔法使い。華奢な体、外套は捲れて、素足が見えている。素朴な服、スカート……、ん? スカート? ーーそれは女性が着るもののはず……。
「……、ーー」
ーーやっぱり、綺麗な翠緑の、吸い込まれそうな深緑の瞳。隠しているなんてもったいない。などと現実逃避をしていると。
ぼひゅっ。
魔法使いの体から空に向かって、色付いた大きな塊が放たれた。魔力の放出、というエンさんの言葉を思い出した。慥か、僕にやって欲しいことの一つだと言っていた、かな。
「ーーっ!」
魔法使いがぎゅっと身を固くすると、世界を埋め尽くすほどのーーと思ったけど、それは僕という存在が小さ過ぎたからそう感じただけで、実際には、城一つ丸呑みできそうなくらいの、巨大な火球が直撃して。いや、それだけでもとんでもないことなのだけど、いやはや、もうわけがわからなくなっていたけど、竜にも角にも、僕だけを撥ね飛ばす。
然したる痛みはないが、魔法は確実に僕に影響を及ぼしている。恐らく、強大過ぎる魔力が、魔法が、僕にも届いたのだ。これまで触れることも、感じることさえ出来なかったものが、僕の体を、心を、刺激して、ものぐさでぐうたらに過ごすだけだった僕の内の何かを目覚めさせようとする。
魔力がない、のではなく、魔力を失い続けている、と魔法使いは言った。
失うより、もっと多くのものを与えられたなら、それはどのような帰結を齎すのだろう。
これは、嬉しいのだろうか。体の中の暖かなものが、自然と笑みを形作らせて。
「えいっ!」
見ると、魔法使いが怒った顔で手を振り下ろしていた。
怒った顔と言っても、どこか微笑ましい感じのするもので。
何か感じた。空から何か。
思い当たるものが、のんべんだらりと怠惰を囲って働かずにいた口から漏れる。
「『星降』……」
理解した、間際にーー。
星が降ってきた。と認識するや否や。
巨大な岩と地面に挟まれて、世界が混濁する。
「おごぎごぎゃごごぎゃでぐおでばべなぎゃすべるんで」
最後に魔法使いに謝罪の言葉を述べたが、たぶん伝わっていないだろう。
人生の幕引きのように、ぷつり、と視界が闇に染まった。