表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

逃げる男

作者: 三坂淳一

『 逃げる男 』


第一日目


 僕は混沌とした雑踏の中に居た。


 歩道を、人を乗せたバイクが我が物顔(わがものがお)で疾走して行く。

 歩道の両側には、物売りの屋台がぎっしりと並び、通行人への呼び込みの声で喧騒に満ちている。

 買い求める人が行列をつくって並んでいる人気屋台もある。

 戦後の日本の闇市のようだ、と親父(おやじ)なら言うだろう。

 肉をじゅうじゅうと焼いて売る店、魚のすり身団子を串に刺し、こんがりと焼いて売る店、鯉に似た魚をそのまままるごと、炭火でじっくりと焼いて売る店、蜜柑のような果実を圧搾器で搾って、プラスチックの容器に詰めて売る店、宝くじを売る店、いろんな惣菜をビニール袋に詰めて売る店、CD・DVDを信じられないような廉価で売る店、(くさ)いが美味(うま)いドリアンの剥き(むきみ)を売る店。

 道の両側を占拠し、所狭しと並ぶアナーキーな屋台の群れを見ながら、僕は軽い眩暈(めまい)を覚えていた。

 一種のカルチャー・ショックと言えなくも無かった。

 バンコクの雑踏の中を、僕はキャリーバッグをごろごろと引きずりながら、茫然と歩いた。


 僕は今日、午後の飛行機でスアンナプーム・タイ国際空港に着いた。

 空港ビルを出た時、突然、熱風が僕を襲い、僕は一瞬、立ちくらみを感じた。

 二月という厳寒の成田を発った僕に、バンコクの暑さは強烈なインパクトを与えた。

 気温はゆうに三十度は越えていただろう。

 大急ぎで、着ていたダウンジャケットを脱いだ。

 タクシー・スタンドでタクシーを待つ間、とめどなく、汗が噴き出てきた。

 二月というのに、何というクレージーな暑さだ。

 停車したタクシーの運転手に、ホテルの名前を告げた。

 運転手は困惑したような顔をした。

 どうも、そのホテルの名前は知らなさそうだった。

 そこで、日本を出発する時に、下手なりに書いて準備したタイ語の住所のカードを渡した。

 ついでに、覚えたてのタイ語で、通りの名前と路地の番号を言ってみた。

 下手なタイ語の文字が判読出来たのか、ぎごちない発音が通じたのか、どちらが通じたのかは判らないが、とにかく通じたらしい。

 運転手はホッとしたような笑みを浮かべてから、おもむろに僕の発音を矯正するような口調で、通りの名前と路地番号を繰り返し、ゆっくりと言いながら、車を走らせた。

 高速道路に入る時、運転手が後ろを振り向き、何か言った。

 何を言っているのか、判らなかった。

 運転手の形相が、だんだんきつくなって来た。

 何回か、聴いて、ようやく判った。

 マネー、マネー、と言っていたのだ。

 高速料金に関しては、乗客が払う、というバンコク・タクシーでの乗車ルールを思い出した。

 確か、七十バーツくらい渡せばいい、と観光ガイドブックには書いてあった。

 僕は百バーツ紙幣を渡した。

 一バーツは二円七十銭程度だから、邦貨換算で二百七十円ほどとなる。

 高速道路を二回通り、その都度、運転手は窓から手を伸ばして、料金徴収係員に金を払っていた。

 二回目に払った時、僕になにがしかの紙幣と硬貨を渡した。

 お釣りを返してくれたのだ。

 結構、律儀なものだと思った。

 高速道路は順調だったが、バンコク市内に入った途端、とんでもない渋滞に見舞われた。

 話には聞いていたが、バンコク市内の渋滞振りは凄かった。

 車が全然進まない。

 時折、気紛れに進んでは止まる、その繰り返しが続いた。

 妊婦が産気づき、車の中で出産してしまう、という事故が後を絶たないと言われている。

 そこで、警官に産婆の代わりをするよう、出産補助教育を施すべきだという議論が真面目になされているという話もあるそうだ。

 こんな渋滞の時は、バイクが絶対いい。

 傍らを、バイク・タクシーがびゅんびゅんと軽やかに疾走していくのが随分と癪に障った。

 その上、信号待ちの時間がやたら長く、車がほとんど進まない状況が長く続いた。

 のろのろ、のろのろと車は進んだ。

 でも、タクシーのメーターの料金は情け容赦なく加算されていく。

 僕は気が気じゃなかった。

 でも、ようやく、目的地の近くに着いたらしい。

 運転手が車を歩道に寄せ、あそこだとばかり、五、六十メートル先のところを指差した。

 歩いた方が早い、という身振りも加えていた。

 メーター表示の金額に少し上乗せをした金を払い、僕は降りた。

 

 目指すホテルに着き、チェックインした。

 ロビーに着いた時、日本語で、『いらっしゃいませ』、と言われたのにはびっくりした。

 浅黒いが、しっかりした目鼻立ちのタイ娘が微笑んでいた。

 部屋に入るや否や、僕はすぐ、エアコンの冷房をつけた。

 そして、シャワーを浴びて、汗を流した。

 随分と汗を掻いていたので、快適な気分となり、少し幸せな気分になった。

 幸せというのは、案外安いものだと思った。

 汗をシャワーで流しただけで、幸せな気分になるなんて。

 窓のカーテンを開け、外を眺めた。

まだ、夕暮れにもなっていなかった。

ミニバーを開けてみたら、いろんな名前のビールが何本か入っていた。

 いくらだろう、と僕は思った。

 貧乏性の僕は、料金を確認しない限り、このての飲み物は絶対に飲まない。

 料金表がミニバーの上にあったので、値段を確認したら、日本円に換算して、百五十円ほどであった。

 安心した。

 シンハーという名前の缶ビールを取り出して、飲んだ。

 ギンギンと凍りそうに冷えていて、美味(うま)かった。

 飲みながら、日本を出発する前に、親父と交わした会話を思い出していた。


 「一週間ほど滞在して、発見出来なかったら、帰って来い。もし、見つかったら、首に縄を付けてでも、日本に連れ帰ってくるんだ」

 「しかし、バンコクは大都会だよ、親父。数百万人という人の中から、義兄(あにき)を発見するのは、まあ、不可能だと思うよ」

 「つべこべ、言うんじゃない。本当なら、俺が行きたいくらいだが、そうもいかないから、お前に頼んでいるんだ。ガソリンスタンドの方は休んで、とにかく、バンコクに行って、彼を捜して来い。行方不明のままでは、正輝が可愛そうだ」

 「分かったよ。めんどくさいけど、とにかく、行って来るよ。でも、一週間では心もとないから、一応、二週間くらい、休みを貰うことにする。その代り、費用は全て、親父持ちだよ。いいね」

 翌日、僕は勤務先のガソリンスタンドに出掛け、主任に休暇願いを出した。

 いわゆる、フリーターである僕にさほど期待はしていない主任は、しょうがないな、これだから、フリーターは嫌だ、という顔はしたものの、渋々、許可してくれた。

 但し、期間は二週間、それ以上は駄目、首にするよ、分かったね、と付け加えられた。


 しかし、それにしても、どうして義兄はバンコクに来たんだろう。

 僕は、ビールを飲みながら、失踪した義兄のことを思った。

 真面目な男だったのに。

 失踪する理由は別に思い当たらなかった。

 借金も無さそうだし、借りているアパートの家賃だって、口座引き落としで毎月自動的に払っている。

 銀行口座にいくらあるか、知らないが、姉が死んだ時の生命保険金は息子のため、手つかずに残してあると話していた。

 実際、その金は定期預金にして、親父に預けている。

 さっぱり分からない。

 あれっ、ビールが無くなってしまった。

 もう、一缶だけ、飲むことにしよう。


 義兄の失踪は偶然知った。

 妹が発見したのだ。

 旅行好きの妹はタイ旅行を計画していた。

 微笑みの国よ、素敵じゃない、兄さん、わたし、タイに行きたい、と言いながら、いろいろとタイに関する情報を集めていた。

 日曜日の夜、妹は、タイの首都、バンコクの事情を調べるために、ヤフーで旅行者のブログとか、ユー・チューブで映像を見ていた。

 兄さん、ちょっとこっちに来てよ、これ、お義兄(にい)さんじゃない、と言う妹の真剣な声がした。

 行ってみると、妹はユー・チューブの映像を元に戻して、僕に見せた。

 旅行者が投稿した映像だった。

 プロンポンという繁華街の映像が映し出されていた。

 映像を見て、僕はびっくりした。

 繁華街が映されており、路上を歩く男の顔が写し出されていた。

 痩せぎすの眼鏡をかけた男だった。

 どこかで、見たような顔だと思った。

 兄さん、この人、お義兄さんよ、と妹が少し震える声で言った。

 まさか、と思った。

 しかし、髪が少し伸びてはいたが、どこか神経質な顔をして、カメラの方向に真っ直ぐ歩いて来る男は、義兄のように見えた。

 その後、妹と僕はその映像を何回も繰り返して観た。

 妹が親父とおふくろを呼んで来た。

 その結果、映像に映っている四十絡みの男は義兄と瓜二つだ、という結論に達した。

 映像の日付を見たら、一ヶ月前の日付となっていた。

 確認しておいた方がいいな、と親父が言った。

 そこで、僕が義兄の携帯電話に電話をかけてみた。

 何回か、かけてみたが、全然反応が無かった。

 おふくろが、義兄が住んでいるアパートに電話をかけた。

 通じなかった。


 翌日、月曜日、親父が義兄の勤め先に電話をかけてみた。

 二ヶ月ほど前に退職した、と勤め先の総務担当者は言った。

 義兄は人材派遣会社からの派遣社員だった。

 そこで、親父が人材派遣会社に電話をかけた。

 一ヶ月ほど前から連絡が取れず、困っている、何か息子さんから連絡がありましたか、と逆に訊かれる始末であった。

 次の日、親父が電車に乗って、義兄が住んでいるアパートに行って来た。

 戻って来た親父は疲れたような口調で僕たちに話した。

 アパートはそのままで、引き払ってはいないが、管理人の話では最近姿を見ていないということだった。

 事情を話して、合鍵を使って、管理人立会いの上で、部屋に入ってみたが、寒々とした室内に人が住んでいるような気配はまったく無く、郵便物も溜まっているような状況だった、と言った。

 どうにも心配だ、警察に捜索願いでも出してみようか、という話も出たが、父親の失踪絡みで、子供の正輝が辛い思いをするのは避けるべきだ、もう少し、様子を見ようか、という結論に落ち着いた。

 しかし、親父は結構、せっかちで、数日後、僕に捜しに行ってくれないか、と頼んで来た。

 バンコクまで捜しに?

 冗談じゃない。

 そんな、めんどくさいことは嫌だよ。

 僕は当然尻込みをした。

 でも、三十歳にもなるのに、(いま)だにフリーターで親の(すね)(かじ)っている身では、そう強いことは言えない。

 結局は、親父に説得されてしまい、義兄捜索の旅に出かける羽目になってしまった。


 さて、どうしよう。

 二缶目の缶ビールを飲み終えて、僕はベッドに寝そべりながら、明日からの行動予定を考え始めた。

 とにかく、効率的に動きまわらなければならない。

 何と言っても、持ち時間は限られているのだ。

 二週間しか、無い。

 今、僕は義兄が映像に映っていた地域に居る。

 BTSと呼ばれる高架鉄道のプロンポン駅近くのホテルに居る。

 ここは、バンコクの中で日本人街と言われるところで、バンコク在住の多くの日本人駐在員が暮らしている街だ。

 近くのアソークというところには、日本のツアー会社のバンコク支店もある。

 そうだ、ひょっとすると、義兄もその支店を訪れ、どこかのツアーに参加していたかも知れない。

 明日、その支店に行き、事情を話して義兄がツアーに参加しているかどうか、調べてみよう、と思った。

 参加していたら、義兄は少なくともこのバンコクに居たということが証明される。

 その他、何か新しいことが判るかも知れない。

 しかし、それにしても、どうして義兄は失踪してしまったのか。


 (あね)()が死んで、もう五年になる。

 三十三歳、いわゆる女の厄年で死んだから、生きていれば三十八歳か。

 義兄は二つ違いだったから、今、四十歳。

 職場結婚だった。

 子供は正輝だけで、その正輝は今年で十歳になる。

 姉貴が死んだ時、正輝は五歳で保育園の年長組だった。

 男だけの所帯で、小さい子は育てにくいだろうと、おふくろが心配し、うちに引き取ることとなった。

 僕はそれほど可愛がられた記憶は無いが、孫はとにかく可愛いらしい。

 眼の中に入れても痛くないといった可愛いがりようだった。

 子供をしつけるのは親の責任だが、孫をしつける責任は祖父母には無い、従って、甘やかしていいんだ、と親父は勝手な理屈を言っていた。

 ならば、(しつけ)は、私がしつける、と妹がその役割を買って出た。

 何のことは無い。

 妹は新しい玩具(おもちゃ)を与えられた子供のように、はしゃいでいた。

 その正輝も、今は小学四年生になる。

 義兄と姉貴、それほど、仲がいい夫婦とは思えなかったが、姉貴が死んだ後も、義兄は再婚せず、独りで暮らし続けた。

 僕は何となく、そんな義兄が好きだった。


 また、酒が飲みたくなった。

 男性天国と言われるバンコクの夜とやらも、少し味わいたかった。

 何気なく、テレビをつけたら、日本語が耳に飛び込んで来た。

 NHKの九時のニュース番組のキャスターの声だった。

 便利な時代になっている。

 外国に居ながら、リアルタイムで日本の放送を見ることが出来るなんて。

 日本とバンコクでは、二時間の時差があり、バンコク時間ではまだ、午後七時だった。

 突然、空腹を感じた。

 条件反射とやらで、午後七時は我が家の晩ご飯の時間であり、その時間になると、腹が減ってくるというか、空腹を感じてくる。

 部屋で転がって本を読んでいると、ご飯ですよ、一緒にご飯を食べるのよ、と言うおふくろの甲高い声が聞こえてくる時刻だ。


 僕は、短パンにTシャツというラフな恰好(かっこう)で、ホテルを出た。

 ねっとりとした熱気に包まれるのを感じた。

 夜にはなっていたが、開いている屋台もまだまだ多く、勤務を終えて帰るサラリーマン、或いは、OLと思われる女性が晩ご飯のおかずにするのか、裸電球を()けた屋台の前で足を止め、焼肉とか惣菜を買っていく様子が見受けられた。

 ホテルからプロンポン駅の方角に歩いた。

 信号が設置されている交差点があったが、僕は戸惑った。

 赤信号なのに、車の通行の合間を見て、人が交差点を渡る。

 一方、青信号となり、渡ろうとすると、右手から左折しようと走ってくる車に轢かれそうになる。

 信号はあるものの、人、車共にアナーキーな感じで通行しているのだ。

 少し待って、タイ人と思われる人々がパタパタと渡るのに同調して、僕も慌てて渡った。

 それでも、右折して来る車に危うく轢かれそうになった。

 とにかく、交差点はスリル満点だと思いながら、ようやく、危険に満ちた交差点を何とか渡ることが出来た。

 やれやれと思ったところに、日本風な酒場があった。

 時間帯で、一定料金を出せば、お寿司が食べ放題、という日本語の看板がかかっている酒場だった。

 これは、話の種になると思い、入ることとした。

 暖簾(のれん)を分けて、ガラス戸を開いて入ると、まさしく、日本の古き良き時代の飲み屋の雰囲気があった。

 左手に、長い木のカウンターがあり、中央にはテーブルが三つ、四つ置いてあり、壁には料理の名前を書いた短冊がぎっしりと吊り下がっていた。

 でも、中で働く従業員はタイ人ばかりで、日本人と思われる従業員は居なかった。

 カウンターの中に居る板前も日本人では無かった。

 客は、駐在員と思われる日本人が二、三名ほどカウンターに座って、焼鳥をつまみにして、ビールを飲んでいた。

 僕もカウンターの隅に座り、焼鳥とおでんを注文し、ビールを飲んだ。

 食べ放題のお寿司を注文したら、これはランチメニューで夜はやっていない、と片言の日本語で言われた。

 そう言われてみれば、その時間帯はとうに外れていた。

 昔、どこかのテレビ番組で聞いたような古い演歌がバックグラウンドミュージックとして店内に流れていた。

 親父が飲んだ時、よく鼻歌で唄う演歌も流れていた。

 僕は演歌には思い入れは無いが、飲んでいる時の演歌は心を落ち着かせる。

 しかし、美空ひばりの『越後獅子の唄』が流れてきたのには、思わず、笑ってしまった。

 いくら何でも、古過ぎる。

 でも、歌詞はなかなか良い。

 『わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし ながれながれの越後獅子』

 ふと、義兄のことを思った。

 義兄は二親(ふたおや)に早く死なれ、兄妹も無く、遠い親戚がぽつりといるだけという家族運には恵まれない男だった。

 姉貴と結婚した頃、何かの折、僕に向かって、君はいいね、両親も健在で、兄妹も多く、僕から見たら、本当に羨ましいよ、僕なんか孤児みたいなものだから、と言っていた。

 ふーん、そんなものかな、大勢居るということは煩わしいだけだよ、と生意気な高校生だった僕は当時思っていたが。

 特に、姉貴は弟の僕から見て、苦手な存在だった。

 八歳も違えば、姉というよりは、口うるさい叔母さんみたいな存在になる。

 美人の範疇に入る女だったが、実の弟から見ても、きつい性格で、温和な性格の持ち主である義兄としては、相当我慢するところが多かったに違いない。

 姉貴が死んだ後、結婚話はあったという話だが、再婚する気にならなかったのも、女の代表として、姉貴を意識し過ぎていたのかも知れない。

 もう、こりごりだ、と思っていたのかも。

 さて、もう、思い出に浸るのは止めよう。

 僕には、親父から言いつけられたミッション(使命)がある。

 何としてでも、バンコクに居るなら、義兄を捜し出さなければならない。

 親父ならば、郷愁を誘われる演歌を聴きながら、僕はひそかに決意した。

 絶対、捜し出して連れ戻る。

 可愛い甥の正輝のためだ。


 第二日目


 翌朝、五時に目を覚ました。

 少し、早く目を覚ましたな、と思ったが、何のことは無い、日本なら七時で、いつも起きる時間だった。

 親父が淹れてくれるストレート・コーヒーを飲みながら、朝食のパンを一枚食べて、歯を三分間磨いて、親父とおふくろに、じゃあ、行って来るよ、と一言声をかけて、アルバイト先のガソリンスタンドまで車を走らせて行く。

 いつもの時間、つまり、決まりきった習慣が始まる時間であった。

 しかし、今は違う。

 僕は謎の失踪を遂げた義兄を追跡する私立探偵みたいなものだ。

 そう思うと、何だかわくわくしてきた。

 珍しく、やるぞ、という意欲が湧いてきた。

 めんどくさい、とは言うまい。

 でも、腹が減っていては、(いくさ)は出来ない、とりあえず、朝食をがっちり食べて、捜索のエネルギーを蓄えなければならない。

 で、エレベーターで二階に下りて、ビュッフェ・スタイルの食堂に行った。

 日本人ばかりだった。

 熟年夫婦の観光客の他、バンコク駐在員、出張で来ているサラリーマンといった感じの日本人ばかりだった。

 給仕は全員タイ人だったが、壁掛けのテレビでは日本の民間放送が流れ、オセロの中島知子がどうのこうの、とゴシップ話が語られており、新聞だって、読売新聞が置かれていた。

 一般的なビュッフェ・メニューの他、注文すれば、鮭とか鯖の焼き魚、冷奴豆腐、納豆までが準備されていた。

 インターネットでホテルを探した時、日本人に人気があるホテルと紹介されていたので、何の気なしに、予約したのであるが、これでは、まるで日本のビジネスホテルでは無いか、と思い、少し白けた気持ちになった。

 

 食事の後、部屋でテレビを観て、時間を潰してから、アソークにある日本の旅行会社の支店まで歩いて行った。

 BTS高架鉄道ではひと駅、歩いて二十分というところにあった。

 しかし、朝から、バンコクという街は暑い。

 とても、暑い。

 暑すぎる。

 すっかり、汗を掻いてしまった。

 探す支店が入っているビルを見つけて、中に入り、冷房が利いているのを確認した時は、本当にホッとした。

 支店のドアを開けて、中に入ると、若い日本人の男が迎えてくれた。

 日本人は彼一人で、他は全て、タイ人の男か女だった。

 僕は、一ヶ月くらい前からのツアー参加者の名簿を見せてください、と彼にお願いした。

 当初、彼は渋っていた。

 個人情報云々、といった話で、お見せすることは出来ないということだった。

 僕は彼に事情を話した。

 彼は僕の話を聞いて了解し、戸棚からツアー参加者との契約書類ファイルを取り出して、閲覧を許してくれた。

 ツアー毎のファイルになっており、参加者の氏名、宿泊ホテルの名前、連絡先の電話番号等が参加者毎の契約書類となってファイリングされていた。

 僕は受付のカウンターに座り、調べ始めた。

 僕と同じくらいの齢の彼は根っから親切な男らしく、目を皿のようにしてページを繰っている僕に、コーヒーを持ってきてくれた。

 三十分ほど、調べていたら、アユタヤ観光ツアーの中に、義兄の名前があった。

 筆跡も見覚えのある、四角四面の堅い字だった。

 嬉しかった。

 やはり、義兄はこのバンコクに居たのだ。

 今も居る、かも知れない。

 ホテルの名前と住所、電話番号が書かれてあった。

 しかし、携帯電話の番号の記載は無かった。

 僕は、あった、と小さな声で思わず歓声を上げ、ガッツポーズをした。

 そのホテルは名前から判断すると、キッチン付きのサービス・アパートホテルと思われた。

 そして、住所から見ると、僕が今泊まっているホテルの近くと思われた。

 彼に閲覧のお礼を言い、口笛を吹きたい思いで、その支店を出た。


 急いで、歩いた。

 汗がふつふつと噴き出てきたが、構っている暇は無い。

 一目散に、プロンポン駅の方に向かって、僕は歩いた。

 道端の屋台には目も呉れず、危険に満ちた危ない交差点も何とか切り抜け、歩道を走るバイク・タクシーには何度か驚かせられながらも、僕は競歩みたいな速足で、とにかく、一目散に歩いた。

 泊まっているホテルの手前の路地から百メートルほど歩いたところに、そのアパートホテルはあった。

 豪華な感じがするアパートホテルであった。

 門番も居り、入口にはガードマンと思しき屈強な男も居た。

 ロビーに入り、レセプションに行った。

 どうも、日本人らしい人は居らず、タイ人の男女ばかりだったが、勇気を奮って、英語で話しかけてみた。

 すると、返ってきた言葉は、予想していなかったが、日本語であった。

 僕は苦笑しながら、日本語で、ここに宿泊している人に会いたい、急用があって、日本から訪ねて来ました、というようなことを話した。

 応対してくれた受付の女性は、パソコンの画面を確認してくれた。

 しかし、僕の期待は裏切られた。

 もう、居ない、と言われたのだ。

 二週間ほど滞在したが、二週間ほど前に、引き払ったと言うのであった。

 勿論、それから、どこに行ったのかは承知していない、と付け加えた。

 僕はがっかりして、気が抜けてしまった。

 それまで、張りつめていた心の風船が急速に萎んでいくのを感じた。

 お礼を言い、そのアパートホテルを出る足はとても重かった。

 暑さの中、一生懸命歩いた疲れがどっと出てきた。

 僕はのろのろと歩き、泊まっているホテルに戻った。

 シャワーを浴び、ベッドに寝転んだ。

 暫く、虚ろな心のまま、寝転んでいたが、いつまでもこうしては居られない、義兄がバンコクに居たという事実は掴めたんだ、さあ、これから捜索開始だ、頑張れ、と自分を励ました。

 ベッドから起き上がって、親父に携帯メールを出した。

 バンコクに居た事実は掴めたが、今の所在は判らない、これから、捜索を開始する、期待していてくれ、名探偵より、というメールを出した。

 

 腹が減ったので、何か食料品でも見つけようと思い、ホテルを出て、観光案内書に出ていた、フジ・スーパーという日本人経営のスーパーがある地域に出掛けた。

 BTSプロンポン高架駅の階段を昇降して、反対側の通りに出た。

 少し歩いて、右に曲がると、左手の奥にフジ・スーパーが見えていた。

 スーパーの前には、日本人経営のパン屋もあったが、その脇にカフェがあったので、そこに入ることとした。

 中に入り、サンドイッチとスイカの生ジュースを頼んだ。

 ここも、日本人経営の店と見えて、お客は全て日本人ばかりだった。

 冷房が利いている店の中では、年配の女性が数人、お喋りをしていたし、店の外のテラスでは熟年の男性というか、老人が数人座って、雑談に興じていた。

 客は全員、僕が見た感じでは、旅行者では無く、ここに長期滞在している人のように見えた。

 ふと、女性の話し声が耳に入った。

 『沈没』という耳慣れない言葉が聞こえてきた。

 「この頃、『沈没』した人をやたら見るのよねえ」

 「あらっ、あなたもそう。実は、あたしもそう感じていたのよ」

 「『沈没』と言えば、あそこのフジ・スーパーで働いている、あの若い子。そう、荷下ろしをしている子、よ。あの子も、おそらく、『沈没』組よ」

 「若い子ばかりじゃ無く、中年とか熟年の人も結構居るわよ。ほら、カオサン通り。あそこの、安宿に(たむろ)して、一日何もせず、カオサン通りをただぶらぶらと歩いているという話よ。日本人としては、ちょっと、ねえ」

 「そうねえ、カオサン通り、有名だものね」

 「もっとも、日本人ばかりでも無く、アメリカとか、ヨーロッパの人も結構居るという話よ。カオサン通りに行けば、安く滞在出来るからって」

 「『沈没』。バンコクだけじゃ無く、この頃は、ベトナムのプノンペンとか、マレーシアのクアラルンプールあたりも、『沈没』した人を見かけるという話もあるわよ」

 ふと、義兄も、もしかしたら、今、バンコクで『沈没』しているのかも知れない、と思った。

 女の人たちの話に依れば、『沈没』組はカオサン通りの安宿に屯しているらしい。

 カオサン通りと言えば、観光案内書にも載っかっている国際的なバックパッカーの宿泊所として有名な地区だ。

 話に依れば、一泊、百バーツ(二百七十円ほど)で泊まれるところもあるという話だし、エアコン有りのところでも二百五十バーツ(七百円程度)ほどで泊まれるという話である。

 バンコクに個人旅行で長く滞在するつもりなら、このカオサン通りの安宿は魅力的だ。

 何となく、義兄がそこに(ひそ)んでいるような気がしてきた。


 第三日目


 翌日、僕はカオサン通りに行ってみた。

 ホテルを出て、BTSプロンポン高架駅から電車に乗って、サパーン・タクシン駅に行き、隣接しているサートーン桟橋から船に乗って、プラ・アーティット桟橋で降りた。

 そこから、歩いて、カオサン通りに行った。

 外国人バックパッカーからカオサン・ロードと呼ばれるこの通りは、三百メートルほどの長さの通りでしか無いが、通りの両側にはぎっしりと店舗が並び、僕はまた、軽い眩暈を覚えた。

 セブン・イレブン、ファミマ、マック、バーガーキング、サブウェイ、スタバと言った店舗に交じって、タトゥーの店、タイマッサージの店、CD・DVDの海賊版とかTシャツを売る店など、雑多な店がケバい看板を立てて軒を連ねている。

 また、生絞りのオレンジジュースを売る屋台、ケバブ入りのサンドイッチを売る屋台などもあり、通りは外国人観光客で混雑し、賑わっていた。

 まともには歩けない。

 すぐ、人にぶつかってしまう。

 僕は、人にぶつかっては、エクス・キューズ・ミー、エクス・キューズ・ミーと呟きながら、通りをのろのろと歩いた。

 その無国籍化された風景は僕をなぜか魅了した。

 日本のアメ横と似たような雰囲気があった。

 ここは逃亡する者にとって、さらに逃げ込むのに、おあつらえむきである、とも思った。

 そして、カオサン通りを囲むように、無数の安宿、例えば、百バーツで泊まれるドミトリー、ゲストハウス、このあたりでは五つ星という最高ランクでも二千バーツ(五千円)程度のホテルがぎっしりと軒を連ねている。

 僕はあまりの混雑振りに、言わば、人に酔ったような感じになり、嫌気がさして、本通りを離れ、横道を歩いた。

 ジュースの屋台があったので、覗いてみたら、柘榴(ざくろ)のジュースを売っていた。

 両腕に派手なタトゥーを入れた、いかつい顔のおっさんが柘榴の中身を器用に取り出して、圧搾器にかけて、果汁を搾っている。

 柘榴は種が多く、果汁を搾り取る果物としては適した果物では無い。

 何個も使って、ようやく二百ミリリットルほど搾り、プラスチックの細長い容器に詰めて、氷水が入った冷却槽に入れて冷やして売っていた。

 柘榴には二種類あり、高い方は倍近い値段で売られていた。

 倍近い値段と言っても、二百円程度の値段だった。

 珍しいと思い、高い方を買って飲んでみた。

 濃厚な甘酸(あまず)っぱさがあり、美味(うま)かった。

 飲んでいたら、バックパッカーの日本人の男が近寄って来た。

 美味(おい)しいか、と訊かれた。

 頷く僕の顔を見て、安心したのか、その熟年の男も高い方を一本買った。

 「観光で来ているの?」

 「ええ、そうです。ここは、観光の名所ですから」

 「僕は、タイは三回目なんだけど、このカオサンには今まで縁が無く、来たことが無くってね。チェンマイとか、プーケット見物を主体にしていたから」

 「よく、旅行はされるんですか?」

 「ああ、アジア中心にね。僕は六十五歳になるけど、独身で気楽なんだ。年に何回か、ぶらっと、旅行をしているよ。で、あなた、アンコール・ワットには行ったこと、ある?」

 「いや、まだ、無いです。有名なところですけど」

 「お勧めのポイントだよ。素晴らしい、の一言。是非、行ってみなさいよ。僕、お勧めしますよ」

 彼は、会社を定年退職後、気楽な海外旅行を楽しんでいるらしい。

 まさに、典型的なバックパッカーの恰好をして、大きなリュックサックを背負って、元気にアジア各地を旅している。

 チベットにも行ったことがあるらしい。

 山並みの素晴らしさを語っていた。

 僕は彼の話を聴きながら、ふと、親父のことを想った。

 同じような齢だけど、親父は旅行をしない。

 たまに、おふくろと近場の観光地に行く程度だ。

 もっと、旅行を、海外旅行もすればいいのに、と思った。


 そのおじさんと別れ、また、カオサン通りに戻り、中央にある市場をぶらぶらと見物している時だった。

 雑踏の中に、義兄らしい男を見掛けた。

 もっと、近寄って確認しようとしたが、人が多くて、急いで前には進めないような状況だった。

 焦っている内に、義兄らしい男はふいに姿を消してしまった。

 ようやく、義兄らしい男が歩いていたところに行きつくと、そこは小さな路地となっており、人影は無かった。

 路地から路地に行ったのか、近くの店に入ったのか、暫く、そのあたりを探して歩いたが、義兄らしい男の姿を再び見かけることは無かった。

 残念だ、もう少し速く歩くことが出来たら、見失わずに済んだのに、と僕は息をきらしながら思った。

 急いで歩いたせいか、急に疲れを感じた。

 汗も掻いたので、通りに出て、マックに入り、ハンバーガーとコカ・コーラ・ゼロで昼食とした。

 暫く座っていると、寒さすら感じるほど冷房を利かせたマックの店内で、僕は考えた。

 もう一度、義兄らしい男が姿を消したあたりを捜索してみよう、気が付かなかったが、宿泊するところがあったのかも知れない、明日も来てみよう、徹底的にこのあたりを捜してみることにしよう。

 僕はマックを出て、元の市場に戻り、あの路地周辺を捜して歩いたが、収穫は無かった。


 夕方頃、歩いて船着き場に戻り、船に乗った。

 途中で、『暁の寺』として有名なワット・アルンの大仏塔を船の中から観ることが出来た。

 夕焼けという借景の中で、ワット・アルンの大仏塔は黒く、暮れなずんでいたが、荘厳な風情を醸し出していた。

 何だか、センチメンタルな感情を抱いた。

 と同時に、この風景、どこかで見たような覚えがある、とも思った。

 しかし、思い出せなかった。

 それは、フランス語で云う、デジャ・ヴュ(既視感)という奇妙な体験であったかも知れない。

 

 僕は、疲れた足と重い心を抱いて、プロンポンのホテルに戻った。

 「サワディー、クラッ(こんばんは)」

 僕は朝から晩まで使えるタイ語の万能の挨拶言葉を呟きながら、ロビーに入った。

 「お帰りなさい」

 綺麗な日本語がレセプショニストの女性から返って来た。

 「今日は暑かったです。バンコクはいつでも、暑いんですか?」

 「そうです。日本には四つの季節がありますが、バンコクには二つの季節しかありません」

 その女性は微笑みながら、言葉を続けた。

 「暑い季節、と、とても暑い季節、の二つです」

 僕は笑いながら、エレベーターに乗った。

 部屋に入り、親父の携帯にメールを送った。

 カオサンという観光地で、義兄らしい男を見掛けた、明日、そこをもう一度捜索してみる、という文面でメールを送った。

 返事は期待していない。

 親父は、自分の携帯でメールは読めるけれど、自分ではメールを書けないからだ。

 でも、親父には便利な秘書が居る。

 妹だ。

 妹を通して、僕の携帯か、パソコンにメールをよこす。

 そう言えば、パソコンはまだ開いていない。

 このホテルは、無線LANが走っており、無料だ、という案内を思い出した。

 接続の暗証等はチェックインの時、ホテルから貰ったキーカードの袋に書いてあった。

 早速、パソコンを取り出して、接続し、メールを確認してみた。

 案の定、妹からメールが届いていた。

 読んで、僕は思わず溜息を吐いた。

 義兄が登録していた人材派遣の会社と、アパートの管理人からの情報が記載されていた。

 会社からの情報は、義兄はどうも鬱状態にあったらしい、ということだった。

 一方、管理人からの情報は、この一ヶ月の間に義兄を訪ねて、女性が二回ほど来た、ということだった。

 『鬱』と『女』。

 義兄はややこしい状況にあったのかも知れない、と思った。


 姉貴は五年前、交通事故で死んだ。

 同乗していた車が雪道でスリップして、崖下に落ちたのだ。

 車を運転していたのは、姉貴が派遣社員として勤めていた会社の上司の男だった。

 誰も言わなかったが、姉貴はいわゆる不倫をしていたのかも知れない。

 義兄は姉貴が死んだ後、十年ほど勤めていた会社を辞め、地元を離れ、別な町で派遣社員となった。

 小さな町ではいろんな噂が飛び交う。

噂は当然耳に入るだろうし、好奇心に満ちた視線で見られるのが嫌だったのかも知れない。

 姉貴が死んで、一人息子の正輝をうちで養育することが決まった頃、義兄は僕を飲み屋に誘った。

 縄暖簾がかかった昔風の焼き鳥屋のカウンターに義兄と僕は並んで座り、お銚子でさしつ、さされつ、お酒を飲んだ。

 本来はお喋り好きな僕だったが、その時は、寡黙な義兄に付き合う形で、言葉少なく、義兄に注がれるまま、盃を傾けた。

 不意に、義兄が僕に言った。

 「いろいろ、噂はあるけれど、僕は君の姉さんを信じている。今の気持ちとしては、これから暫くは、僕は独りで生きていこうと思っている。両親が死んで、僕は独りになり、君の姉さんと結婚して、二人になり、正輝が生まれて、三人になったが、結局は、独りに戻ってしまった。大丈夫、僕は独りには慣れているから、何とかやっていけるよ。時々は、正輝にも会えるし、ね。さよならだけが、人生だ、という言葉もあるけど、巡り会うのも、人生だ、と僕は思っている。いつか、君の姉さんを忘れることが出来るようになったら、僕は再婚するかも知れないな。いつになるか、分からないけど」

 義兄の率直な言葉を聴いて、僕は何にも言えず、ただ、お酒を飲むばかりだった。

 その時、義兄は三十五歳で、僕は二十五歳だった。


 第四日目


 翌日も僕は、朝からカオサン通りに行って、義兄を捜して歩いた。

 時々、宿泊所に入り、管理人に義兄の名前を告げ、居るか居ないか、訊ねたが、該当する名前は無かった。

 このあたりの安宿では、パスポートの提示も求められないから、本名で泊まっているという保証は何一つ無い。

 カオサン周辺を歩いていて、予想以上に、日本人の『沈没』組が多いのに気付かされた。

 簡易宿泊所の腰掛に座って、ぼんやりとした表情で、通りを眺めている日本人を何人か見かけたし、ネット・カフェではコーヒー一杯で粘って、画面を眺めている中年の男たちも何人か見かけた。

 観光客かどうかは、服装を見れば判るし、雰囲気でも判る。

 ぼんやりしているか、逆に、異様にギラギラしているか、そのどちらかだ。

 タイの場合、ビザ無しならば、三十日までの滞在しか認められていない。

 それ以上は、不法滞在となり、見つかれば、タイ入管当局に逮捕され、二万バーツ(五万四千円程度)の罰金が科せられ、国外退去となる。

 三十日を越えて、ノービザの観光客はそのままオーバーステイ、つまり、不法滞在者となる。

 そして、その多くが『沈没』組となる。

 中には、二万バーツと帰りの飛行機代ぐらいの金を後生大事に抱え、嫌になるまでタイに居ようという『沈没』者も居る。

 たまたま、警官に捕まっても、賄賂さえ出せば、そのまま見逃して貰えるという、本当かどうかは判らないが、まことしやかな話もある。

 半日、カオサン通りをぶらつき、義兄を捜して歩いたが、義兄らしい男の姿は発見出来なかった。


 午後、戻りがけに、ター・ティアンという桟橋から、渡し船に乗って、ワット・アルンに行き、寺院内部を見物した。

 七十五メートルという高さを誇る大仏塔にも登ってみた。

 下を見ると、怖くなるような急な階段を登って、塔の半分くらいの高さまでは行くことが出来る。

 登ったところはテラスになっており、欄干に凭れながら、眼下を悠然と流れるチャオプラヤー河を眺めた。

 昨年秋の洪水で有名になった、このチャオプラヤー河の水はいつも濁っているようであったが、川幅は広く、ゆうに数百メートルはある。

 ふと、日本に戻った後のことを考えた。

 戻るって、あの日本に?

 お前は面白くも何とも無い日本に戻る、というのか。

 何のために?

 それは、悪魔の囁きに似ていた。

 悪意に満ちていた。

 僕は戻らなければならない。

 親父もおふくろも僕を待っているし、妹だって、僕を待っている。

 ガソリンスタンドの仲間も僕を待っている。

 それに、主任との約束もある。

 二週間以上、休んだら、僕は首にされてしまうのだ。

 首にされたら、今のところ、何のあても無い。

 親父のすねかじりになってしまう。

 今だって、齧っているのに、今度は完璧なすねかじりになってしまう。

 三十歳にもなって、一人前の男として、情けないじゃないか。

 すると、また、悪魔の囁きが聞こえてきた。

 それは、ね、お前が思っているだけなんだよ。

 お前に期待してなんか、していないよ。

 両親、それに、妹だって、お前を頼りない息子、兄だと思っているだけだよ。

 ガソリンスタンドの仲間だって、お前をいなくてはならない男だとは思っていないよ。

 主任はさっさと、お前の代わりを捜すだけさ。

 自惚(うぬぼ)れちゃいけない。

 現実を見ろ。

 今の日本。

 活性化エネルギーが失われた日本に戻って、どうするんだ。

 将来に対する漠然とした不安を抱かざるを得ない日本に戻って、お前にメリットはあるのか。

 現状に対する不満は、必ず、将来に対する不安となる。

 お前だって、先刻承知じゃないのか。

 それなら、いっそ、このバンコクで働く気はないか。

 この活性化エネルギーに満ちた国で働いてみるのも悪くないじゃないか。

 『沈没』じゃ無く、一人前の働き手として。

 つまらない日本から、逃げてみろ!

 逃げて、この混沌とした国で思いっきり働いてみたら、どうだ。

 あれこれ考える僕の雑念にも似た想いをよそに、目の前のチャオプラヤー河はゆったり、ゆったりと、流れていた。


 ホテルに戻った僕は、駅近くにあるエンポリアムというショッピング・モールとデパートが結合したコンプレックス・ビルに行き、そこのフードコートで夕食を食べた。

 百バーツの食券を買ったが、六十バーツのチキンライスで十分だったので、四十バーツの払い戻しを受けた。

 暫く、腹ごなしのため、エンポリアムの店内をウインドウ・ショッピングしながら歩いた。

 テレビかラジオのトーク・ショー、車の展示販売、楽器屋、電気屋、本屋、旅行会社、高級レストランから庶民的なレストランまである広範な食い物屋、肉、フルーツ、生鮮野菜を売っている大きなスーパーもあり、このエンポリアムで全て買い物が間に合ってしまうという構図には驚いてしまった。

 日本にはまだ、このような総合的な何でも有る複合ショッピングセンターというものは無いのではないか、と僕は半ば呆れながら感心した。

 とにかく、途方もないエネルギーに満ちた都市だ。

 こういう都市で、人生を賭けて勝負するか、それとも、ずるずると埋没してしまうか、とにかく試してみるのも悪くない。


 エンポリアムの一階にあるカフェでコーヒーを飲みながら、僕は考えた。

 どうして、義兄は日本を脱出して、このバンコクに身を潜めて暮らすことにしたんだろう。

 経済的な理由は考えられない。

 義兄が失踪しても、アパートにサラリーマン・ローンといった高利貸しの関係者は訪れてはいないようだし、第一、借金しようにも、保証人になってくれる人はうちの親父を除いてはいないはずだ。

 女、か?

 これは、残念ながら、可能性がある。

 管理人の話に出てきた女性の存在、これは馬鹿には出来ない。

 姉貴は昔から面食いだった。

 その姉貴が結婚した相手だ。

 少し神経質そうな顔はしていたが、なかなかのハンサムな義兄だった。

 但し、温和で少し気の弱いところがあったので、もしかすると、まあ、考えたくはないが、悪い女に引っかかってしまい、結婚を求められたとかして、にっちもさっちも行かない状況にまで追い詰められ、いっそ、きれいさっぱり、逃げてやれ、とばかり、日本を捨てたのかも知れない。

 それとも、単に、今の日本という国が嫌になったのか。

 とにかく、ひどい日本になってしまった。

 東日本大震災で、日本中が一致団結し、美しい日本、日本人の復旧、復興に向けて纏まるかなあ、と僕は期待したが、期待は外れ、ますます、袋小路に嵌まってしまったような感じがする。

 義兄は繊細な男だったから、今のくだらない日本に耐え切れなくなって、日本から逃げたのか。

 いや、待てよ。

 派遣先の職場でのパワハラという線は無いか。

 職場って、結局は雑多な人間の集合体であり、結構、嫌な奴が多い。

 僕だって、学校を卒業して折角、正社員として入った会社だったが、結局は職場の人間関係が嫌になって、辞める羽目になってしまった。

 今になってみると、もう少し、我慢していれば何とかなったかな、と思うが、あの時は、勢いもあり、あまり将来のことは考えずに、辞めてしまった。

 親父からは、若気の至りだ、いい会社なのに辞めてしまうとは、馬鹿者、とけちょんけちょんに言われたが、まあ、しょうがない、後の祭りというやつだ。

 いずれにしても、義兄は日本から逃げ出したのだ。

 自殺してしまうよりは、生きているほうが、ずっといい。

 生きるか、死ぬか。

 死ぬか、逃げるか。

 自殺するより、逃げて、生きろ。

 予定調和された面白くない人生、全てが想定内で予測可能な人生から逃げるのもいいだろう。

 ベル・エポック(良き時代)の無い人生。

 デジャ・ヴュ(既視感)だらけの人生。

 捨てて、逃げて、逃げまくる。

 ふと、このような後ろ向きのことを真剣に考え始めている自分に気付き、僕は唖然とした。

 僕は、どうしたんだろう。

 いつの間に、このように考えるようになったんだろう?


 第五日目


 翌日も、僕はカオサン通りに行き、義兄捜索に努めた。

 カオサン通りから大通りにかけて、ホテル街があり、そこを歩いて、捜し回った。

 どうにも収穫が無く、諦めて、カオサン通りに戻った。

 タイ舞踊の仮面を売る店があり、僕は足をとめてぼんやりと、台の上に置かれた仮面を眺めていた。

 緑色の顔の魔王の面を見ていた僕はふと、目を上げた。


 二十メートルほど先、タイ式マッサージと日本語で書かれた看板の脇に義兄が立っていた。

 僕と義兄の眼が合った。

 思わず、義兄(にい)さん、と僕は叫んだ。

 僕の声を聞いて、義兄の顔が凍りついた。

 僕は走って、駆け寄ろうとした。

 その刹那、義兄は傍らの路地に身を隠した。

 僕が人混みを掻き分け、その看板のところに辿り着いた時には、義兄の姿はもうどこにも無かった。

 義兄さん、どこ、どこ、と僕は叫びながら、路地を巡り、捜し廻ったが、義兄の姿を発見することは出来なかった。

 僕は茫然と、入り組んだ迷路のような路地裏に立ち尽くした。

 確かに、義兄だった。

 僕を見て、驚いたような顔を一瞬見せたが、僕が近寄って来るのを見て、逃げるように隠れてしまった。

 どうして、逃げたのだろうか?

 僕には判らなかった。

 はるばる、日本からやって来た義弟である僕を見て、逃げるなんて。

 その疑問は、黒く重い(おり)のように僕の心の中に沈んでいった。

 何だか、泣きたいような気分になった。

 僕は憂鬱な心を引きずりながら、カオサン通りを離れ、桟橋に向かった。

 オレンジの旗を(ひるがえ)して走る船の中で、僕は対岸の赤い屋根のワット(寺院)を眺めていた。

 屋根の端部が大空に向かって、優美に反り返っている。

 空は雲一つ無く、晴れわたり、今日も暑い一日となっている。

 観光客の陽気な会話が飛び交う船の中で、僕は孤独を感じていた。

 何だか、親しい人に見捨てられたような気分を抱いていた。

 ふと、姉貴に死なれてしまった時、義兄はこのような気分を抱いたのかも知れない、と思った。

 どうにも、やるせなかった。


 プロンポン駅を下りた僕の足は、フジ・スーパー近くのカフェに向かった。

 前は、冷房が利いた店内に座ったが、今回は、外のテラス席に座った。

 暑かったが、外の風景を観ながら、お茶を飲むのも、悪くは無かった。

 狭い道なのに、大きな自動車が我が物顔(わがものがお)に通って行く。

 人は器用に、車を避けながら、ひょいひょいと歩いて行く。

 買い物籠をぶら下げた中年の男がフジ・スーパーに入って行く。

 駐在員のバンコク・マダムが数人、お喋りしながら、スーパーから出て、雑踏の中に消えて行く。

 猫がじっと、こちらを見ながら、通り過ぎて行く。

 平和なものだ。

 この平和な世界で、義兄は一生懸命逃げている。

 一体、何から逃げているというのだ。

 日本から逃げて、今は追いかけてきた僕からも逃げている。

 何か、めんどくさいことがあったのか。

 僕はじっと考えていたが、ふと、考えるのもめんどくさい、と思った。

 めんどくさい。

 僕は思わず、笑ってしまった。

 昔、親父から言われた言葉を思い出したのだ。

 親父が若かった頃、親父たちの世代は何でも、モラトリアム世代と言われていたのだそうだ。

 実社会に出る前に過ごす学生時代のような責任発生の無い状態をモラトリアムと言うらしい。

 平たく言えば、社会人となる前の学生という気楽な身分でずっと居たいという気分に満ちた世代をモラトリアム世代と言うらしい。

 つまり、『執行猶予』の時間を長く持ちたいと願う世代ということか。

 大学四年で実社会に出ず、更に、二年間、大学院修士課程まで行ってから就職する人間が激増した時代であったとも云われている。

 「お前たちの世代は、何でも、『めんどくさい・かったるい症候群』の世代と言うのだそうだ。お前を見ていると、俺はそう思う。俺たちの頃は、『モラトリアム世代』と呼ばれたが、お前たちの世代は、『めんどくさい世代』と言うんだ。まったく、しょうがないな。苦労は買ってでもするもんだし、面倒なことも、買ってでも、しろ。逃げるな。一度、逃げたら、おしまいだ。どんどん、逃げ続けることになってしまう。あまり、考えるな。時には、見る前に、跳ぶことも必要なんだ」

 と、親父は僕に説教をした。

 一方的な親父の見解に反発しながらも、当たっていないことも無いな、と思っていたのも事実だった。


 その時、男の声がした。

 声の方に目を向けると、そこに、一人の老人が居た。

 齢の頃は七十歳前後と思われた。

 頭はすっかり禿げていたが、日焼けして精悍な顔付きの老人だった。

 「観光かね」

 「ええ、観光です。同時に、・・・、人を捜しています」

 「人捜し? 『沈没』した人を?」

 「いや、『沈没』しているかどうか、判りませんが。日本から出国して、このバンコクに来て、そのまま、音信不通といった有様で」

 「ふーん、わしには、『沈没』しているように思われるが」

 その老人はタイ在住三十年という人で、この近くで、酒屋を開いて商売している人だった。

 「今、日本はなかなか大変だね。大体、資本主義というのは、諸刃の剣みたいなもので、経済活動を発展させる反面、格差も拡大させるものだ。日本じゃ、今、貧困層の拡大傾向が問題なんだろう。生活苦による自殺も増えているし、弱肉強食のような時代がいつまで続くのかね」

 「閉塞感というんですか。今の日本って、息苦しいですね。政治も経済も、混沌としていて、欲求不満が高まります。僕が探している人も実は、鬱になっている怖れのある人なんです。鬱って、怖いですよ。僕の友人でも、鬱が原因で死んでしまった人もいますので」

 「嫌がらせ、ハラスメント、と言うんだっけ。わしは、モツのハラミは好きだけんど、ハラスメントは嫌いじゃわ。パワハラ、セクハラ、モラル・ハラスメント、みんな、駄目」

 僕は暫く、この老人と話した。

 最後に、老人が笑いながら、僕に言った。

 「まあ、あなたも、このバンコクで『沈没』したくなったら、わしのところに、いらっしゃい。給料はそれほどあげられないけんど、まあ、バンコクで暮らす分には足りるくらいにはあげられるから。不法滞在となっても、わし、ここの警察の幹部とは仲いいんだわ。何とか、なるがね」

 と言って、彼は僕に名刺をくれた。


 老人と別れ、僕は近くのパン屋で、メンチカツとかコロッケが入っている惣菜パンを買って、ホテルに戻った。

 部屋で、缶ビールを飲みながら、パンを齧って夕食とした。

 その後、パソコンを開いて、インターネットを通して、妹に今日の義兄発見のメールを出した。

 送信ボタンをクリックした時に、ふと、僕はめんどくさいことをしているな、と思った。

 あまり、いい感じでは無かった。

 そう言えば、親父から言われるまでも無く、自分は『めんどくさい』ことからは極力逃げていたことに気付いた。

 めんどくさいから逃げる、面倒な事態になる前に何とか理由を付けて逃げる、という行動規範を取っていたことに気付いた。

 折角、苦労して入った会社を辞めた時も、そうだった。

 めんどくさい人間関係が厭になり、会社を辞めることで、逃げてしまった。

 一度、逃げたら、もう歯止めはきかない。

ずっと、逃げ続けることとなる。

 何だか、憂鬱になってきた。

 日本に戻るのも、何だか、めんどくさくなってきた。

 ベッドに寝転んだら、そのまま、朝まで寝てしまった。

 

第六日目


 朝、鶏の声で目を覚ました。

 近所で鶏を飼っている家があるらしい。

 都会の真ん中で、鶏を飼っている。

 このお気楽さがバンコク『沈没』組には堪らない魅力なのかも知れない。

 義弟の僕から逃げた義兄には、気楽な『沈没』から呼び戻され、無理矢理、日本に連れ戻されるということが苦痛以外の何物でもなかったのかも知れない。

 その内、日本が懐かしくなったら、呼び戻されなくとも、自分から帰って来るのだろう。

 そう思うと、僕は気楽な気持ちになった。

 さあ、今はリピーターが多いバンコクに居る、人気のバンコクだ、義兄のことはさておいて、少し観光をしよう、と思った。

 朝食を済ませた僕は、一応、いつものようにカオサン通りに行き、軽く、義兄の姿を探してから、船に乗って、チャオプラヤー河を下り、観光名所のワット・プラケーオ、王宮を見物してから、また、船に乗って河を下り、寝釈迦仏で有名なワット・ポーを見物した。

 ワット・ポーでは、タイの古式マッサージを体験した。

 人探しの捜索バージョンから、物見遊山の観光バージョンへの切り替えはスムースだった。

 人生は短い、楽しむ時は徹底的に楽しむべきだ、と僕は自分の行動を合理化した。

 そして、プロンポンに戻って来た僕はエンポリアムのフードコートに行って、少し早目の夕食を摂った。

 昼時は満員の盛況となる、このフードコートも四時前後の時間帯ではお客の数も少なく、料理人の中には椅子に座って、居眠りをしている者も居た。

 僕の注文で、目を覚ました料理人は少し膨れっ面をしたが、料理の手は抜かなかった。

 タイ飯は全部旨い。

 僕は肉の入った細麺のラーメンを頼んだが、甘辛(あまから)()っぱいスープの味は格別で、汁まで全て飲んでしまった。

 食事の後、店内を見物しながら歩いた。


 驚いた。

 吹き抜け構造になっている店内の反対側の通路を義兄が歩いていた。

 義兄も僕に気付いたらしい。

 義兄は思いがけない行動に出た。

 僕の方に、何と、手を振ったのだ。

 昨日の僕なら、手を振り返して、駆け足で義兄のところに走って行ったはずだ。

 しかし、僕は自分ながら、思いがけない行動を取った。

 何と、義兄に気が付かない振りをして、近くの下りのエスカレーターに近づき、乗ってしまったのだ。

 エスカレーターは一箇所しか無い。

 義兄は僕が気付かなかったと思ったのだろう。

 速足で、僕が乗っているエスカレーターに近づいて来るのが、視界の隅に見えた。

 エスカレーターで降り切った僕は、近くにあった本屋に急いで入り、義兄の様子を窺った。

 やがて、義兄はエスカレーターで降りて来たが、本屋に潜んで様子を見ている僕には気付かず、頭を振りながら、本屋を素通りして、奥に行ってしまった。

 僕の胸はドキドキと高鳴っていた。

 自分自身が咄嗟に取った行動は意外なものであった。

 僕はなぜ、義兄から逃げたのだろう。

 自分自身でも判らない意外な行動であった。

 はるばる、日本から義兄を捜しに来た僕は当然、義兄との再会を喜ぶはずだったのに、どうして、気付かない振りをして、義兄から逃げたのだろう。

 僕は暫く、本屋に隠れ、時間が過ぎ去るのをじっと待った。


 義兄が過ぎ去ってから、三十分ほど経った。

 僕はのろのろと歩き、本屋を出た。

 エンポリアムを出て、ホテルに戻った。

 いつもの女の子が、お帰りなさい、と迎えてくれた。

 僕は部屋に戻り、缶ビールを飲みながら、日本の番組を観た。

 相変わらず、国会のごたごた騒ぎ、原発関連の憂鬱なニュース、オセロの中島がどうのこうのといったゴシップ話、が流されていた。

 今の日本はこんなもんだ。

 帰って、展望も無いまま、正社員の口を探しながら、また、ガソリンスタンドに勤めるのか。

 未来は決して明るくなく、確実に今よりももっと暗くなる。

 めんどくさくて、恋愛も出来ず、年収二百万足らずのワーキング・プアとして、親のすねを齧って、妹に小馬鹿にされながら、二階の六畳間で若隠居同然の暮らしをする。

 義兄に関しては、もう、心配は要らない。

 迎えに来た僕を見て、一度は逃げたものの、日本人旅行者が多く滞在するプロンポンにまで来て、僕を探そうとしていたのだ。

 僕が連れ戻さなくても、もうじき、日本に帰るはずだ。

 さあ、問題はこの僕だ。

 僕はどうしよう。

 どうすればいい?

 逃げる男がいつの間にか、追う男となり、追う男がいつの間にか、逃げる男となってしまった。

 追われる者が追う者となり、追う者が追われる者となる。

 ああ、もう、考えるのがめんどくさくなった。

 僕は、『めんどくさい症候群』の立派な患者だ。

 義兄がいつか、言っていた言葉を僕なりにアレンジして言えば、こうなる。

 さよならだけが人生ならば、また来る春は何だろう?

 巡り会うのも人生ならば、死に逝く者は何だろう?

 どうも、演歌調になってしまった。

 そうだ、今夜は、あそこの店で思いっきり、酒を飲もう。

 『越後獅子の唄』がまたかかるかも知れない。

 『濡れて涙でおさらばさらば、花に消えゆく旅の獅子』

 いっそのこと、影も残さず、形も残さず、完璧に消えてゆきたいものだ。


 ホテルを出て、駅近くの酒場に行った。

 日本人のサラリーマン風の男が数人、テーブル席で飲んでいた。

 ネクタイを外し、そのネクタイを歌舞伎の助六のように、額に巻いている。

 日本の飲み屋でよく見掛ける光景だ。

 僕はカウンターの片隅に座り、モツの煮込みを肴にして、ビールを飲んだ。

 とりあえず、ビールということで飲み始めたが、そろそろ日本酒にしようか、と思った。

 モツ煮込みに、ビールは合わない。

 バンコク滞在も(あと)、一週間となった。

 予定通り、日本に帰ることとなるのか。

 ふと、望郷の念、という言葉が脳裏をかすめた。

 或る作家は、オイル関係のビジネスマンとして長年外国暮らしをしていたが、或る時、日本人酒場で演歌を聴いていたら、ふいに強い望郷の念に襲われ、矢も楯もたまらず、翌日の便で日本に帰った、という話を昔、その作家が何かの雑誌に書いていたのを読んだことがある。

 ハードボイルド派の作家であっただけに、そのウェットでセンチメンタルな文章に、僕は意外な印象を受けた。

 日本って、そんなに魅力がある国なのか。

 でも、望郷の念なんて、僕にはまだ全然無い。

 それなら、望郷の念が猛然と湧き起り、どうしようも無く、日本に帰りたくなるまで、このバンコクに居てみようか。

 日本を見直すことが出来るかも知れない。

 望郷の念、とやらを味わってみたいものだ。

 タイ料理の味のように、甘辛酸っぱい味なのかも知れない。

 でも、『沈没』は嫌だ。

 同じ日本人滞在者から、不潔で汚い粗大ゴミのような目で見られるのは嫌だ。

 めんどくさいことは嫌だが、美しくないことはもっと嫌だ。

 僕は僕の美意識・美学に沿って、生きようと昔から決めている。

 こればかりは、譲れない。

 望郷の念が起こって来るまで、ここで暮らしてみよう。

 でも、親父の目から見たら、木乃伊(みいら)取りが木乃伊になった、と僕を見て嘆くだろう。

 逃げる男を連れ戻す男が、いつの間にか、逃げる男になってしまった、と僕を見るだろうが、気にしないことにしよう。

 僕の人生は僕が決める。

 たった一回限りの人生だもの。


 そんなことをぼんやりと思っているところに、店のガラス戸が勢いよく開けられ、男女のカップルが暑い空気と共に入って来た。

 女は若くて小粋なタイ娘だったが、男のほうはかなり年配の日本人だった。

 どこかで、会ったような感じがしていた。

 見ていると、向こうも僕に気付いたらしく、女の腰を抱きながら、近づいて来た。

 何のことは無い。

 昨日、フジ・スーパー近くのカフェで僕に話しかけて来た老人だった。

 ピチピチした若い女を連れている。

 元気なお年寄りだと思った。

 彼は僕に言った。

 「おう、誰かと思ったら、昨日の若者じゃないか。どうだ。しっかり、飲んでいるか」

 その時、この老人の店で働いてみるのも、いいかな、と僕は思った。

 いつか、親父に言われたように、見る前に、跳んでみよう。

 跳んだ処で、今まで見えていなかった何かが見えてくるかも知れない。

 めんどくさくないことが見つかるかも知れない。


 僕は立ち上がって、彼に言った。

 「明日、おじさんのところに行くつもりでした」

 彼は僕の言葉を聞いて、驚いたように、僕の顔をまじまじと見詰めた。

 暫くして、ニヤリとした。

 微笑みを浮かべたお釈迦様のような顔になった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ