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激流

 親とはうまくいっている。

 べつに実家を出たいという気持ちは無い、しかし勤務先まで片道二時間は遠すぎる。派遣契約の更新が済んだ今を絶好ぜっこうの機会と考え、片道五十分程度で通勤ができる場所にアパートを借り一人暮らしを始めた。古びた二階建てアパート、鉄骨むき出しの階段を歩くと建物自体が揺れているのではないかと感じるほど貧相な作りだ。初めての一人住まい、引っ越しの日、目を潤ませ「元気でね」って言う母の顔を見て、こっちが恥ずかしくなった。でも嬉しかった、思い出すと今でも名状めいじょうしがたい気力が湧いてくる。


 「それでは、今日から単体テストの後半となります」

 田中SMサブマネージャの声が、注意散漫ちゅういさんまんとしている大空の耳に届く。

 今は、進捗報告会の真っ最中。大空は、落ち着いた態度で座っている、職場の雰囲気に慣れたというのもあるが、テスト項目の作成が遅れることなくスケジュール通り無事完成し、今日から単体テストの後半になるのも知っている。後半は、テスト項目に沿って製品ソフトウェアの試験を行う。と鈴木から聞いていたからだ。

 進捗報告会のあと、単体テスト初日のときと同じように、田中SMサブマネージャからいくつかの説明があったが、終始、大空の気持ちは緩み気味だった。

 説明が終わり、会議室から出る大空は鈴木に声をかける、

「鈴木さん、メインフレームへの接続方法教えて下さい」

「ああ、いいよ」

 大空の質問に、鈴木はいつも笑顔で教えてくれる。IT業界の経験年数が長いだけあって何でもよく知っている。鈴木は、

「昔は専用の端末からじゃないと接続できなかったんだけど、今はパソコンからも接続できるから便利になったよなぁ」

 と独り言を言いながら、パソコンのターミナルアプリを起動し、手際よく大空に説明した。一通りの設定が終わると、

「ちょっと休憩いこうか?」

 と喫煙室に誘う。大空としては、初めて使うメインフレームという物に興味があり、このまま作業を進めたかったが、「はい」と答えて、鈴木の後に続いた。

 大空はいつものように、無料のお茶を紙コップに注ぎ、テーブルでタバコを吸う鈴木に近寄りたずねた。

「これからする単体テストの試験ってどうすればいいんですか?」

 たった今、田中SMサブマネージャから説明を受けたばかりだが、田中SMサブマネージャの説明は難しすぎる。というより曖昧で大空には理解できない内容だった。

「テスト項目の右側に『合否』ってらんがあるだろ」

「はい。たしかありました」

「そこに、合格って書けばいいんだよ」

「ははは、鈴木さんはいつもそうなんだから」

 大空はもう慣れたものだった。本気とも冗談とも思えない鈴木の話に合わせて自然に愛想笑いができるようになっていた。鈴木も一層ニタついた顔になり、なごやかな空気が漂う。

 大空は、テスト項目を思い出して、

「『照会ボタンを押下。照会サブ画面が表示されること』とかは、動かせば分かるので、『合格』『不合格』って試験できるんですけど、『計算ボタンを押下。計算結果が正しいこと』とかってテスト項目があるじゃないですか。正しい計算結果ってどう調べるんですか?」

「だから、合格って書くんだって」

 笑いながらそう言った鈴木は、笑顔が消えた大空の顔から心境を察知し、鈴木も真顔になって話を続ける、

「『計算結果が正しいこと』、『仕様に準ずること』、『設計書記載の基準を満たしていること』など、げると切りがないね。仕様書や設計書を見れば、試験の方法が分かるかも知れないけど、大抵はテスト項目を書いた本人が何をしたらいいか理解できなくて、そういう曖昧な書き方になってんだよ。大空くんもそうやって書いてきただろ?」

「書いた本人も分かってないようなものを試験することなんか出来ないですよね?」

「試験のしようがないから、合格って書くしかないんだよ」

 いつになく真顔で話す鈴木を見て大空は、冗談ではないことを理解した。

「もし、『不合格』のテスト項目に『合格』って書いたら、後で怒られませんか?」

「そのときは、認識が足りませんでしたって言い訳して謝るしかないよ」

「納得いきません」

 大空は納得ができない。テスト項目を作成したときは、バカバカしいと思いながらもそれは考え方の問題として納得したが、今回は明らかに不正な行為だ。大空は鈴木を睨むような視線で凝視したが、鈴木も今回は引かなかった。真顔でタバコを一服吹かし、

「小林くんに聞いても小林くん自身が分かってないだろうし、田中SMサブマネージャに聞いてもうまく煙に巻かれるだけだと思うよ。……あと、俺以外のヤツに聞くのはいいが俺がこんなこといってたとは言わないでくれよな」

 そう言い終わるのが速いか、タバコの火を消しドアに向かうのが速いか、鈴木は一人喫煙室から出て行ってしまった。

 大空は悩んだ。自分の席に戻っても鈴木の考え方がおかしいとしか思えなかった。試験をしていないテスト項目に『合格』と記入することにメリットがあるとは思えない、そして、それ以上に、その不正がばれ、誰かに怒られている自分を想像するとたまらなくいやな気持ちになった。

 大空は、分かるテスト項目はしっかり試験をして、分からないテスト項目は自分なりに調べ、それでも分からない時は誰かに聞きに行こうと心に決めた。


 実際、試験が始まってみると、画面のハードコピー、入力データの作成、結果データのダンプ出力と作業は多く、試験結果としてプリントアウトされるA四用紙は随分ずいぶんな枚数になった。

 プリントアウトされたA四用紙の試験該当個所に蛍光ペンで印を付ける作業を毎日続けていると段々だんだん試験をしているんだと錯覚してくる、自分が不正をしているという感覚が薄れていく。そして、毎週行われる進捗報告会では、田中SMサブマネージャは進捗率しか聞かない試験の品質など誰も気にしていないんだと感じるようになった。

 最初は、不正に『合格』と記入することに抵抗を感じていたが、結局、試験方法が分からないテスト項目には『合格』と記入した。小林にも田中SMサブマネージャにも試験方法を聞きに行くことはなく、二ヶ月間行われた単体テストの試験は何事もなく終了した。


 喫煙室に入り鈴木はタバコに火を点ける、大空は紙コップにお茶を注ぎ、鈴木の居るテーブルに向かう。もう習慣のようになっている。

「明日からの結合テストは、どうすればいいんですか?」

 もう、田中SMサブマネージャの説明など大空は聞いていない。と言うより、進捗報告会のあと、結合テストの説明をする田中SMサブマネージャは、淡々たんたんと概要を話し、次に各自かくじが担当する個所かしょとスケジュールを話す。それだけしか説明しない、実際の作業手順については何も説明しない。作業手順を聞きたいと感じても、大空を除く全員が黙々もくもくと配られた資料に目を向ける。はたから見れば、資料を見ながら田中SMサブマネージャの話をまじめに聞いているように見えるが、本当はどうなのか大空には分からない。その沈黙を破って、大空一人だけが、淡々と話す田中SMサブマネージャに質問をする行動はかなりの勇気が必要だ。

 ほうけた面持ちでタバコを吹かした鈴木は、大空の質問に反応して、気怠けだるそうに口を開く。

「単体テストのときと同じだよ」

「同じなら単体テスト、結合テストと分ける必要がないですよね?」

「違うとしたら、単体テストは、部署内で行うテスト。結合テストは、他の部署と共同で行うテストってとこかなぁ」

「他の部署と共同?」

「やることは一緒だって、テスト項目作って、そのテスト項目に沿って試験をする。『合否』欄には合格と書くってね」

 鈴木は、目線を大空に向け、いつものようにニタついた顔になる。

「もう、鈴木さんは」

 愛想笑いする大空の中に今の状況を楽しんでいる大空がいた。喫煙室には、他の部署の社員も居て、大きな声では話せないし、笑えないが、これはこれで楽しいと感じるように大空はなっていた。


 そんな他愛もない会話があった数日後のこと。

「皆さん、課長席の前に集まって下さい」

 ニコやかな笑顔を漂わせた田中SMサブマネージャの掛け声に、部署のメンバーがゾロゾロと窓際まどぎわの課長席の前に集まる。メンバーは皆、いつものように暗い顔で私語を楽しもうとするものは誰も居ない。

「今日から新規参入してくれる四名です。それでは向こうのかたから自己紹介をお願いします」

 初めて見る四人が順番に自己紹介をしていくが、大空は自己紹介など聞いていなかった。同じ部署といっても会話する相手は決まっている。それに、契約社員の入れ替わりは激しく、短い人は一週間もしないうちに居なくなる。契約社員が参入するときは、今日みたいに課長席の前でメンバー全員を集めて自己紹介をするが、辞めるときは突然居なくなる。

 大空が気がかりなのは、三日前から鈴木がこの職場に顔を出してないことだ。三日前は、体調不良を理由にして欠勤しているのかと考えていたが……。

 大空の嫌な予感が的中した。


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