朱に交わる
鈴木の言ったことは正しかった、少なくとも大空にはそう感じられた。
「休憩どお?」
鈴木が大空の席の後ろで声をかけて通り過ぎる。
しばらくして大空は作業を中断し、鈴木が向かった喫煙室へと歩いて行く。大空はタバコは吸わない、しかし、喫煙室で鈴木と会話することが職場での息抜きとなっていた。
「そもそも、上がバカなんだよ」
喫煙室に誰も居ない時は鈴木の独壇場となる。大空か黙っていてもお構いなしに気ままに喋る。
「設計が出来てないのに、プログラムが出来るわけがないだろ!?」
「設計できてないんですか?」
「元請けは下請けに丸投げ、下請けは、またその下請けに丸投げしてんだよ。出来るわけがない」
鈴木が言うことは断片的で理解し難く、仕事に対する姿勢もいい加減、とても尊敬できるものではない。しかし、基本設計の段階からこのプロジェクトに関わっているという鈴木は、此処でのやり方をよく知っていた。不信感を抱きつつも、他に頼るあてが無い経験の乏しい大空にとって、いろいろ教えてくれる鈴木は苦痛を取り除いてくれる唯一の存在になっていた。
あの日、鈴木に初めて声をかけられたあと、自分の席に戻っても憂いは晴れずにいたが、沈みながらも、気力を振り絞って大空と同世代と思われる派遣社員に質問をしてみた。しかし、返ってくる言葉は「担当が違うから……」、「自分もよく分かってない」と大空を鬱にさせるものばかりだった。一日中考えたが、そもそも考えるだけの材料がなく途方に暮れるしかなかった。次の日、結局、鈴木に聞きに行くことにした。
「あの、質問してもいいですか?」
「え、あー、いいよ」
鈴木の席の後ろに立ち、唐突に声をかけたが鈴木は笑顔で向かえてくれた。
テスト項目の選定方法を質問すると、鈴木は、共有サーバーのフォルダーを指して、
「このファイルの内容を真似ればいいよ」
と教えてくれる。鈴木のパソコンのマウスを借りて、そのファイルを開け、内容を読んでみた。
『アプリケーションを起動し、終了する。異常終了しないこと』
『照会ボタンを押下。照会サブ画面が表示されること』
『計算ボタンを押下。計算結果が正しいこと』
など、単純な動作が書かれている。
「こんなのでいいんですか?」
書かれていることがあまりにも当たり前なことで、わざわざ書くのがバカバカしくなる内容だった。
「ちょっと休憩いこうか?」
大空の質問には答えず席を立った鈴木は、大空を喫煙室の方へ誘い、歩き出す。
初めて入る喫煙室、室内には椅子は無く、風変わりなテーブルが六つ置かれている。鈴木は奥の誰も居ないテーブルに行くと、タバコに火をつける、テーブルの中央には窪みがあり縁からタバコの煙が吸い込まれていく。室内が煙たく感じないのはこのテーブルのおかげのようだ。奥の壁には自動販売機と無料の給茶機がある、鈴木に勧められ大空は無料のお茶を紙コップに注いで、鈴木のいるテーブルに戻ってきた。
鈴木はタバコを一服吹かし、口を開く、
「作成者の欄見た?」
「いいえ」
「あのファイル、小林くんが書いたんだよ」
「そうなんですか?でも、あんなテスト項目で品質が保証できるんですか?」
「正社員があの程度なんだから派遣社員の俺らにあれ以上の物を期待する方がどうかしてるだろ」
大空は、検査基準について聞いたのに。『噛み合わないことを言う人だ』と大空が思い黙り込んでいても、鈴木はお構いなしに自分の意見を続ける。
「それに、デスマーチになると、みんな忙しくなるから情報が末端に降りてこないんだよ。だから、小林くんも、実際どういうテストをしたらいいか知らないんだろうね。でも、何かテスト項目書かないといけないから無理やり書いてんだよ」
「設計書見たら分かるんじゃないんですか?」
「設計書なんか当てにならないよ。コロコロと仕様が変わってるから」
その後も、鈴木は鬱憤ばらしのようにIT業界のことを話すが、主観的で飛び飛びに話すその内容に大空はついていけなかった。
大空は、鈴木の独りよがりの話をそっちのけに、本当にあんなテスト項目でいいのか考えていた。鈴木の話が一段落したのを見計らって、
「あのテスト項目だと、単体テストの意味がないですよね?」
「意味が無くても、『言われた通りやりました』でいいんだよ」
「他の派遣社員はどうしてるんですか?」
「さあ、大抵は派遣会社ごとに固まって、それぞれ対策をねってるとは思うけど、どこもいい加減な内容を書くことしかできないよ。あとで、共有サーバーに上がってる派遣社員のファイルを見てみるといいよ」
大空は、昨日、他の派遣社員にも疎まれていると感じたことを思い出し、
『本当に知らなかったんだ』
だからあんな返事しかできなかったんだと納得し少しホッとした。
その日以来、大空の勤務態度は変わった。
朝、出勤して自分の席に着き、一人で昼食をとり、また自分の席に座って黙々とディスプレイを眺める。夜、一人、二人と派遣社員が帰り始めたら同じ時間帯に帰る。今までは、この繰り返しだった。会話らしい会話は誰ともしていなかった。しかし、鈴木と話すようになり、勤務時間帯に頻繁に鈴木と休憩を取るようになった。昼も鈴木と一緒に食べる。
大空は、あまり周りを見ていなかった、気にはなってもジロジロと見ることに気後れがした、しかし今は、鈴木の席の後ろで質問しながら他の派遣社員の作業態度を見たり、喫煙室からガラス越しにフロア全体の雰囲気をぼんやり眺めたりする。
初めて鈴木に声をかけられた日、掴みどころのない話をする鈴木とはあまり関わり合いたくないと感じた、今でも鈴木とはジェネレーションギャップを感じるし、話している内容が大空が生まれる前の内容だったりして、まったく興味が湧かない、それでも、職場では鈴木が頼もしく感じ、鈴木の言ったことは正しかったんだと感じる。
鈴木は鈴木で、大空以外に親しく話ができる人がいない様子で、親切というより鈴木自身の話し相手が欲しかったのだと思う。
大空は、喫煙室のガラス越しに仕事をする社員を眺めながらそんなことを考えていた。
ふと、ある疑問に気が付き、タバコを吹かす鈴木が居るテーブルに戻る。
「今、やってる作業なら一日二、三時間で十分なのにどうして派遣社員の皆は、あんなに遅くまで残業してるんですか?」
ここ数日、鈴木から教えてもらったように、小林のテスト項目を真似て、大空もバカバカしくなるような単純なテスト項目を書くことにした。他の派遣社員のファイルも見てみたが、小林が書いている内容と大差はなかった。
「スケジューリングとか線表管理とか偉そうなことは言っているが、田中SMの仕事って結局は、作業を均等割りすることなんだよ。それで、作業が遅れる人がいれば、進んでいる人に遅れた人の仕事を押し付ける。だから誰も早く帰れないんだよ」
いや、その説明はおかしい!大空はそう感じた。
「自分に割り当てられた仕事を二、三時間で終わらせて、遅れている人の仕事をその後二、三時間で終わらせれはうまくいくじゃないですか?」
「大空くんも言ってたじゃないか『こんなテスト項目意味ないですよね?』って、……俺らがやってることに意味なんか無いんだよ」
鈴木は、何かと投げやりな態度で話す。
そして、大空は、時折、相手の目を見たまま考え込む、その仕草は相手に威圧的な態度として取られてしまう。
鈴木は、急にニタついた顔になり慌てた様子で、
「小林くんが二年近く経験してきたことを、短時間で俺らに説明しても分かるわけないってのが分かってるんだよ。大体、小林くん自身も分かってないみたいだし……。だから他の人に合わせるのが一番なんだ」
と話す鈴木を大空は好きにはなれなかったが、
「ああ、なるほど」
と慣れない愛想笑いを浮かべて話を合わせた。
鈴木は、タバコの火を消し喫煙席を出ようとする。大空も空の紙コップをくず箱に入れて、鈴木の後に続いた。
喫煙室から戻り、自分の席に大空が座ると、近づいてくる田中SMと目が合った。
休憩が多いことを注意されるのかと狼狽え目が泳いでいる大空の態度には興味は無いと言わんばかりの、普段と変わらない田中SMは、
「ミーティングコーナに会社の人が来てるらしいよ」
と手短に用件を伝え、自分の席に帰っていく。
『会社の人?』
ホッとすると同時に、パッとしない言葉に疑問を感じつつも、今座ったばかりの椅子から立ち去り、ミーティングコーナに顔を出した。
衝立の端から大空が顔を出すと、目が会うなり、椅子に腰をかけたまま人材派遣会社の社員が、大空に声をかける。
「調子の方は如何ですか?」
「……」
どう答えていいか分からない。突っ立たまま何を言おうかと考えている大空をよそに、その社員は、話を続ける。
「大空さん、先方様にとても気に入られていますよ。もう三ヶ月、契約を継続したいと言われてるのですが、いかがですか?」
大空が、ここに勤務し始めてから二ヶ月と半月が経っていた。
大空には思いがけない話だった。
「何もしてないように思うんですが……」
大空はそう言いながら徐に向かい側の椅子に座る。
「そんなことはないですよ。初めてお会いしたとき、実務経験が無いと大空さんから聞いた時は心配してたんですが、十分先方様に喜ばれています」
『先方様?田中SMのことなのかな?今まで何一つ満足に仕事してないのに?』
その社員はカバンから契約更新書を取り出し、大空にサインを求める。特に断る理由も思いつかない、大空は言われるがまま契約更新にサインをした。
大空かサインし終わると、その社員は笑顔で、
「今後ともよろしくお願いします」
と一方的に大空にあいさつをして早々(はやばや)と席を立って帰りだす。大空はぼんやりとその社員を見送った。