孤独
次の日から森上は職場に来なくなった。その二週間後には森下も姿を消した。
試験の不正が田中SMにバレたのではないかと心配していたが何事もなく日にちが過ぎ、大空はホッとすると同時に、また誰とも話さないさみしい職場環境に戻ったんだと実感が湧いてくる。タバコを吸わない大空が一人喫煙室に居ても意味がない。一日中パソコンの前に座っている日々に戻った。森上、森下との会話が楽しかったと感じる。独りよがりの鈴木の話しさえ懐かしく感じる。
孤独感と共に、今の仕事はやはりおかしいんだと振り返る。誰も作業の出来を気にしないし、何をしたらいいのか分からない、自分がしていることが何の役に立っているのか疑問が湧いてくる。今の仕事に遣り甲斐とか生きがいとか全く感じない。
『鈴木さんが言ったようにここはデスマーチなんだ。いや、鈴木さんの説明がそもそも間違いだったんだ』と大空は自分の席で一人、とりとめなく考え、憤りを覚えた。
「お前が間違ってんだろ」
「何言ってんだよ」
突然の怒鳴り声で大空は後ろを振り返ると、三つ先の島で社員同士が取っ組み合いとなっている。その二人を周りが引き離し、どこかに連れて行く。
結合テスト後半に入ってからフロアの雰囲気が少し変わった。社員が頻繁に席を立ち、何かしらの会話をあちらこちらでしている。時折大きな声が聞こえる、フロア全体に険悪なムードが漂うようになった。
『つかみ合いのケンカ? 大の大人がみっともない』
自席でそんなことを考えていると、横で大空を呼ぶ声に気づき顔を向ける。
「大空さんですよね?」
そこには中森が立っていた。中森は、大空とは別の部署だが結合テスト後半に入ってからは共同で試験を行っている。
「はい」
「この試験結果、間違ってますよ」
「え、あ、はい」
中森が持ってきた試験結果の資料は、先日、大空が中森に渡したもので、大空の居る部署が作成したプログラムを大空が試験をして『合格』としたものだった。A四用紙数枚のその資料には試験個所を蛍光ペンで大空が印を付けた。そして中森はその蛍光ペンの上に赤ボールペンで本来あるべき数値を書き込んでいる。大空にも間違いの個所が分かったけど、どうしてその数値になるのかは大空には分からない。
用件の済んだ中森は、もう大空の前にはいない。大空は担当のプログラマの席に行き、中森が持ってきた間違いの個所を伝える。
プログラマはそっけない態度で、
「そこ置いといて」
と返事をする。ぶっきらぼうな言葉に大空は戸惑いを感じながらも言われるがまま試験結果を机に置き自分の席に戻った。
数時間後、プログラマは修正が済んだと言ってきた。その日の内に大空は試験をして試験結果を中森に渡した。
次の日、大空が出社して自分の席に着くなり中森がやってきた。
「直って無いじゃないか」
「え、はい、おかしいなぁ『ちゃんとプログラマに伝えて直したと聞いたのに』」
「昨日、直ったって言ったから信じて他の原因しらみつぶしに調べたんだからな。そのせいでこっちは徹夜だよ。……しっかりしてくれよ」
脱力感に満ちた表情で中森は恨めしそうに大空を睨む。疲労がピークを超えて怒る気力もないように取れる。
「すみません」
大空は、中森に悪いことをしたと正直に謝った。
『プログラマは何で直してないんだ? ちゃんと間違った個所を伝えたのに』
同時にプログラマに怒りを覚える。しかし、そのプログラマはまだ出社していない。十時半を過ぎると漸くプログラマが出社してきた。
「昨日、言った個所また間違えてるんですけど」
大空は、プログラマに近づき、中森から受け取った試験結果を手渡した。
プログラマは試験結果を見ると「ああ」と言っただけで、席に着き、パソコンの電源を入れる。
「午後一には直るよ」
立ち去ろうとしない大空に、プログラマはそう言うと作業を始める。呆れて言葉を失う大空を気にも止めない。
午後一時過ぎ、約束通りプログラマはプログラムの修正が終わったと大空に向かって言う。
大空は『もう間違いは許されない』と試験を始める。しかし、詳細設計書を見ても全てを理解することは大空にはできない。どうしても分かる範囲での試験となってしまう。『二度目だからプログラマもしっかり直しただろう』と安直な考えになってしまう。
「中森さんすみません。直りました」
「ちゃんとテストした?」
怪訝そうに質問する中森に、大空は「はい」としか答えられなかった。
『プログラマも同じミスを何回も繰り返さないだろうし、自分も分かる範囲で十分テストした』
不安を感じながらも大空は自分にそう言い聞かせて心を落ち着かせた。
夕方、中森が大空の席に現れ、
「何度言ったら分かるんだ」
と大きな声で試験結果を机に上に叩きつける。困惑する大空を気にせず、中森は、
「こっちの試験ができないだろ。明日の朝までに絶対直せよな」
と怒鳴りつけて帰っていく。
『また、間違ってたんだ』
大空はプログラマに対して怒りが湧いてくる。中森が大きな声を出したせいで、周りの皆はこっちを見ている。問題の原因となったプログラマもこっちを見ている。大空はそのプログラマに近寄り、
「また、間違ってるみたいですよ」
不機嫌に大空は、中森が置いていった試験結果をプログラマの前に出す。
「どこが間違ってんだ?」
試験結果は見たプログラマの第一声に大空は返す言葉に詰まった。
詰まりながらも、
「……いや、間違ってるから中森さんが怒って来たんじゃないか」
「試験結果に間違っている個所書き込まないと直しようがないだろ」
何度も同じ間違いをおかして悪びれる様子もない。
『このプログラマとは議論が成り立たない』
あまりのプログラマの悪態に憤りを感じ大空は田中SMの席に進み、掛け合ってみることにした。
「サブマネージャ」
「小林くんに相談してみてください」
大空の予想に反して、田中SMは忙しそうにして掛け合おうとはしない。
『田中SMも一部始終を目撃していたはずなのに』
再度、大空が言い寄ると、
「小林くん、ちょっと大空くんの話を聞いてもらえませんか」
と小林を呼ぶ。
厚かましいと言わんばかりの顔つきで小林が近づいてくる。
「ちょっとこっち来いよ」
田中SMの席の横を離れようとしない大空の肩を取り、小林は会議室の方に大空を連れて行く。
誰もいない会議室。
大空は、プログラマのミスで中森の部署に迷惑をかけていることを小林に訴えるが、
「試験するのがお前の仕事だろ」
と大空を責める。大空はテスト項目に無いことで自分では分からないと訴えると、
「テスト項目に無いのならお前の作成漏れだろ」
と大空の不備を指摘する。
大空はムキになり、大空が気づいた詳細設計書の間違いや、何度間違いを指摘しても直らないプログラムの件を指摘する。最後には、鈴木が言った『このプロジェクトはデスマーチで設計書に不備がある』ではないか、説明もなく仕事をしろと言われても、何をしたらいいか分かる訳がないと大空の言い分を通そうと躍起になるが、小林は、
「あの老害(鈴木)が何いったか知らんが、お前の作業なんだからお前がなんとかするしかないだろ。詳細設計書が間違ってるならそこを指摘すればいいし、プログラムが間違ってるならそこを指摘すればいいだろ。それがお前の仕事だろ」
『それがお前の仕事』と言われると大空には言い返す言葉が無かった。
「じゃどうすれば、いいんだよ」
ヤケを起こし乱暴気味な大空の言葉遣いに、
「分からないなら頭を下げて教えてもらうしかないだろ」
と、少し怯みながらも小林は語気を変えずに、冷たく大空を責める。
「「……」」
もう、大空には言葉がない。
しばらく大空を睨むように見ていた小林は、大空が何も言わなくなると、大空を置いて一人で会議室を出て行ってしまった。
『なんで悪者にされるんだ?』
大空は納得がいかない気持ちで一杯だった。しかし、しばらく佇んだあと、それしか解決策がないのなら仕方がないとぐっと堪えて、中森の席へと大空は向かった。
「中森さん。すみません。前回みたいに赤ボールペンで間違いの内容を記入してください」
愛想笑いを浮かべて、頭を下げる大空に、中森は、
「ふざけんな。なんでお前の部署の試験まで俺がしないといけないんだ」
「いえ、そういうわけでは無いんですけど、こっちのテスト項目には無い試験になるので、どうしてもうまくいかないんです」
「なら、詳細設計書見ながらテスト項目作り直せよ」
頑として中森は聞き入れようとしない。仕方が無いと諦め、今度は、プログラマに掛け合ってみることにしたが、試験結果が無いと直せないの一点張りで、いくら大空が「自分には分からないので、お願いします」と言っても聞き入れようとしない。
どうすることも出来ない大空は、自分の席に座り、何かいいアイデアはないかと考えるものの、呆然とただ座っている状態と大して変わらなかった。時間だけが過ぎて行った。気づくと、もう最終電車ギリギリの時間だ、担当のプログラマも帰っている。このままフロアに残っても仕方がない、大空は重く感じる足を動かしフロアを後にした。
アパートに帰った大空は、いつものようにシャワーを浴び、帰り道の途中で買ったコンビニ弁当を食べる。時計は十二時半を過ぎている。朝、七時には起きないといけない。すぐに布団に入り横になるが眠れない。今日の出来ことを考えるとムシャクシャする。明日、中森にどう言い訳しようか考えてしまう。最近、寝付きが悪いが今日は一段と寝付けない。考えまいとしても頭が勝手に最近の出来事を思い出す。何度かウトウトはしたものの、とうとう一睡もできず外が明るくなりだした。
『自分は悪くない』
という気持ちと『どうしよう』という焦りが頭から離れない。
朝の七時半、布団から出ないといけない時間になると、
『だめだ。今日は休もう』
大空はそう決心した。そう考えると気持ちが少し楽になった。鈴木が体調不良を口実によく休んでいた。『残業が多いんだからその分休まないと』と喫煙室でよく口にしていた。
欠勤の連絡をしようと布団の中でモゾモゾと時間を過ごしていた大空は、九時を少し回ると、
『そうだ。もう会社を辞めよう』
そう決心した。
森上や森下も辞めたんだ、鈴木も辞めている。自分だけが続ける必要はない。あの部署はおかしいんだ。
そう考えると気持ちが大分楽になる、布団から起きスマホを手に持ち派遣会社に電話をかけた。電話口に出た受付嬢に、慣れない口調で自分の名前を名乗り、担当の社員へ取り次ぎを頼む。不安はあるもののもうこれしかないと、電話口に出た派遣会社の社員に『今の職場を辞めたい』と大空は伝えた。しかし、その社員は契約期間が終わるまでは居てもらわないと困ると話が噛み合わない。大空も引かない覚悟で『これ以上は心身ともに無理』と告げるが、どう頑張ってもその社員のいいように言い負かされる。
最後には契約期間が終わるまで続けることを約束させられ、その社員との話は終わった。
スマホを置いた大空は頭の中が真っ白になっていた。
その日、何度となく気持ちを入れ替えようと試みたが、契約期間はまだ三ヶ月も残っている。このまま今の状況が続くのだと思うと堪えられないが仕方がない。同じことを何度も考え無意味に一日を過ごした。
昼間少し寝たせいか、深夜になっても眠れる気が全然しない。頭はぼんやりとしているのに目を閉じると頭が勝手に思考を始める。
中森に謝らないといけない、言い訳を考えないといけない、試験方法を考えないといけない、プログラマをなんとかしないといけない、少しは寝ないと体が持たない、……
似たような考えが頭の中を繰り返し廻る。
まだ五時間寝れる。
あと三時間眠れる。
もう一時間しかない、目覚ましで起きれるだろうか。
ああ出勤の準備をしないとけない。一睡も出来なかった。
『行きたくない』
その日、大空は、無断欠勤をした。