8.魔法喰いは案外短気
空から襲い来る半竜人が、右手の爪を振り下ろす。
竜の爪は、生半可な武具では受け止めることさえできない。いや、爪だけではない。鱗も骨も、優れた武具の材料として高値で取引される希少価値の高い部位だ。
ゆえに、かいくぐる。
ひゅっと鋭い音がして、ナナヤの毛先を掠めた爪が通り抜けた。遅れて暴風が吹き荒び、ナナヤの前髪を激しく揺らす。
「ほう……?」
そう漏らした半竜人が、爪を躱して体勢を低くしているナナヤへと向けて、今度は左手の爪を足もとから空へと振り上げるように薙ぎ払った。
だが、ナナヤは半身をずらしてそれを躱す。危なげなく。それも、ポケットに両手を入れたままだ。
青狼マオが半竜人を指して「手強い」と言ったように、決して遅い速度ではない。並大抵の騎士や戦士では反応すらできずに鎧ごと両断されるだろう。けれど、ナナヤにとっては避けられないほどの速度ではない。
背の高い半竜人が上から睨めつけながら呟いた。
「なるほど。魔王ヴァルフィナを殺しただけのことはある。小虫のわりにはずいぶんとすばしっこい。いや、小虫ゆえにか」
「小虫って……」
同時に背後に跳んで距離を取る。
ナナヤが眉根を寄せて呟いた。
「おれは戦いたいんじゃない。少し話をさせてくれないかな」
「貴様はヴァルフィナを殺した。人間風情が、【魔王の魔力】を得た魔族のあいつを殺したのだ。どうせ卑怯な手を使ったに決まっている。毒でも盛ったか? それとも言葉巧みに籠絡したか? この卑怯者の人間め。我には貴様と交わす言葉などない」
その言葉を皮切りに、ナナヤの表情が消えた。
気に入らない。気に入らないのだ、その認識は。だから態度を変えた。
「キミは【魔王の魔力】を得る前のヴァルフィナにさえ勝てなかったんだってね」
ぴくり、と半竜人の頬が引き攣った。
「尊大に振る舞ってはいても、案外大したことないんだな。竜族ってのは」
飄々と告げるナナヤに対し、半竜人の男が凄まじい形相となった。
「なんだと、貴様……ッ。我が一族を愚弄するか……ッ!」
「怒るってことは図星か」
端からその様子を不安げに見つめていたエルディノーラが、隣に行儀よくお座りをしている青狼に問いかけた。
「ねえ、マオ様。ナナヤ様はどうして怒っておられるのかしら」
青狼は答える。
エルディノーラには聞き取れないはずの、魔力にのせた声で。
あきれたように。けれども、どこか嬉しそうに。
『まったく、ナナヤめ。仕様のないやつじゃ。おまえは誰のために戦っておる』
「ああ、ですが、どうしましょう! 竜族と人間が喧嘩だなんてバカげてます! 勝てるわけがありません! ……な、なんとかしてお止めしないと、ナナヤ様が殺されてしまいます」
エルディノーラは不安げに指を噛み、周囲を見回す。
何もない。誰もいない。もっとも、何かがあったとしても、誰かがいたとしても、かつて旧き神々とさえ争った絶大なる力を誇る竜族を相手に、何ができるものか。
咆吼轟けば空と大地は紅蓮に染まり、比類無き硬度を誇る爪は巨人の骨をも引き裂く。魔族並みの魔力を生まれながらに保有し、その知識は人類の有史以前からの記憶を持つと言われている。
それが空の覇王、竜族だ。
「わたくしがお止めしないと……っ! わたくししかいないのだからっ! うーんっ、よし! 頑張ります!」
ぱんっ、と両手で頬を挟み込んで、エルディノーラは顔を上げた。
『こらこらこらこら、待たんか』
とてとてと走り出そうとしたエルディノーラの破れたスカートを、青狼マオがぱくりと咥えて引っ張った。
「きゃあっ」
昨夜霊峰にて裂かれたスリットが開き、大腿部まで露わにしたエルディノーラが慌てて手で押さえる。
「お、お放しくださいませ、マオ様! 遊んでいる場合では――」
『だから、待てと言うに。おまえが行っても足を引っ張るだけじゃ。心配いらん』
そうこうしているうちに、ナナヤと半竜人の打ち合いは始まっていた。
頸に薙ぎ払われた爪を屈んで躱し、振り下ろされたもう片方の手の爪を、指同士を絡めるようにして受け止める。
ずん、と大地が鳴った直後、石畳が割れてナナヤの足もとの地盤が深く沈み込んだ。
「何っ!? 我が一撃を受け止めただと――ッ!?」
「へえ。軽いな~、竜族ってのは。ヴァルフィナの平手のほうがよっぽど痛かったな」
「……貴様ッ」
蹴り上げられた竜脚を肘で受け止めて側方へと足を滑らせ、追撃の爪を掌で上に押し上げるように、するりと去なす。
「遅い」
「な――ッ!?」
人間風情、そう侮っていた半竜人の腹を、ナナヤが突き放すように蹴った。
「ぬおおおおおっ!?」
半竜人の男が両足で石畳の大地を引っ掻きながら、半壊した噴水に背中を打ちつけて跳ね上がり、背中から転がった。
噴水から吹き出る水が、雨のように半竜人へと降り注いでいる。何が起こったのかわからない。そんな表情をしていた。
たったの一蹴り。まさに一蹴。それだけで判明する力の差。
エルディノーラもまた彼の竜と同じくして目を丸くし、口をぽかんと開けたままその光景を眺めていた。
「ああ、でも、おれが蹴っても破裂しないんだから、その鱗だけは大したもんだよ。見た目は薄汚いけど、騎士鎧よりは遙かに硬いみたいだ」
ナナヤは彼女の視界の中を堂々と歩んで横切ってゆく。尻餅をついた状態の半竜人の前へと。そうして立ち止まった。
睥睨する。弱き人間の男が、強き竜族の男を。
「……おれと交わす言葉はないって言ったな。ああ、そうだね。よくわかった。対話に応じる気がないやつを相手に話をするのは時間の無駄だった」
冷徹な瞳で、腰砕けとなった空の王者を見下して。
魔法のリングを薬指に嵌めた右手を持ち上げる。
「ま、待て……」
「嫌だね。なんだかもう面倒になった。ああ、いや、最初から面倒だったか」
薬指を中心として、炎の魔法を示す橙の魔力が暴力的に渦巻いてゆく。
どくん、どくん、どくん。
鼓動を一つ刻むたびに倍々計算でそれは膨れあがり、魔力を可視するものにとっては発狂するほどの大きさへと近づいてゆく。
発動前からすでに日暮れの空を紅蓮に染めて、第二の太陽であるかのようにさらに膨れあがってゆくのだ。
「……消し飛べ」
その段に至って、ようやっと半竜人は飛び起きた。
ナナヤに背中を向けて必死の形相で駆け、跳躍と同時に肉体を軋ませて背中の翼を巨大化させ、人の形状をしていた肉体を、数十倍の質量を持つ頑強なる鱗で覆われた大蜥蜴のような肉体へと変貌させる。
巨大な竜の姿へと――!
ナナヤが橙の魔力の核を右手でつかむ。初級魔法ファイアには、推進力が備わっていないためだ。
そうして足を上げ、大きく振りかぶって、空へと逃れてゆく竜の背を目掛けて――。
「おぅぅりゃああ!」
投げた。
魔力は炎へと変質し、太陽となって逃げる竜を背中から呑み込む。
真夏の炎天下よりも強い炎の橙が、シンドウの街の空を真っ赤に染めた。
それは遙か三日離れた距離にある、王都バルモアからも観測できるほどの光であったという。