2.魔法喰いとお嬢さま
魔法喰いはいつもテンションが低い。
霊峰の闇に浮かぶ橙の灯りは、なかなかの速さで迫ってきている。どうやら追われているというのは本当のことらしい。
魔術灯ではない。魔術灯ならば灯りは白く映る。追ってきているのは、二桁ほどの炎の橙だ。油のランタンか、松明といったところだろう。
美人局。そんな懐かしい言葉が脳裏に浮かぶ。
なぜならエルディノーラは、相も変わらず緊張感のないのんびりとした口調で、にこにこしながら話していたのだから。
どこをどう見ても逃亡者の態度には見えないのだ。
「あの~、ナナヤ様は剣士なのですよね?」
ナナヤの腰に吊されたショートソードの柄を眺めながら。
「……これは護身用というか、装備してるだけで悪い人が寄ってこないから持ち歩いてるだけだよ。だから剣士じゃない。剣は習ったこともないし、できれば抜かなきゃならないような事態もご免被りたい」
「あらら。では魔術師か賢者でしょうか?」
今度はナナヤの指に嵌められた魔法のリングに視線を向けながらだ。
ぼ~っとしているようでいて、意外にめざとい。
「魔法は一応使えるけど、そっちも初歩の初歩だけだよ。ファイアとか、アイスとか、そんなもんしか使えない」
一般的に、この世界の魔法は三段階に分かれている。
最もメジャーな火属性で言えば――。
すべての基礎となる初級魔法ファイア。素養さえあれば、一般人でも使えるものは少なくない。
魔術師による複合術式でファイアの炎を膨らませ、且つ推進力を与えられた中級のファイアボール。
さらに賢者の編み出した属性複合術式により発生する、大魔法ファイアストームなどがある。
ナナヤに使用できるものは、ファイアのみだ。
つまりはせいぜいが薪に火をつけるのが早くてうまい。元いた世界であれば、野外バーベキューには重宝されそう。その程度のもの。
――本来ならば、だが。
「それに、魔法はもう長い間使ってない。今でも使えるかどうか」
頬に手をあてて、エルディノーラが眉を寄せる。
「困ったわ……」
緊張感がまるで伝わってこないところを見ると、追っ手とやらもそれほど危険ではなさそうだ。察するに、大貴族ランシール家の家出娘を召し使いたちが追いかけている、といったところだろうか。
幸いここは霊峰。聖なる山ゆえ魔物や魔族はいない。熊などの少々危険な雑食獣ならばいるだろうが、よほど運が悪くない限りは出くわすことはないだろう。
「てなわけで、できることなら他をあたって欲しい。おれじゃ戦力にならないよ」
面倒だ。そう思った。
そんなことよりも、今は一刻も早く我が家に帰り着き、泥のように眠りたい。それに早くドッグフードを持ち帰らなければ、あいつがまた怒り出す。
こちとらもう、道に迷っている場合ではないのである。
いや、しかし。待て、待て。ちょっと待て、自分よ。
「キミ、エルディノーラって言ったっけ?」
「はい?」
「シンドウの街までの道はわかる?」
「ええ。概ねの方角でしたら。わたくしもそちらにお伺いするつもりでしたの」
そのドレス姿でか。
徒歩。しかも街道を通らずに霊峰を歩いて越えようなどと、もはや正気の沙汰ではない。ましてやランタンすら持っていないとくれば、どうやってここまで来られたのか不思議なくらいだ。この嬢は、よほどの世間知らずか怖いもの知らず、もしくはその両方だ。
そこまで考えてから、己もまた霊峰を甘く見ていたことを思い出し、内心悶絶する。
だがまあ、それでも。
追っ手とやらから連れて逃げてしまえば、未成年者略取の犯罪となるのはこの世界でも同じこと。安易に手を差し伸べるには、少々世間的なリスクが高すぎる。
ましてや貴族のお嬢など以ての外だ。下手をすれば一国を敵に回しかねない。
面倒。とにかく面倒だ。
「一応聞くけど、キミは何から追われてるの?」
「今追いかけてきている方たちのことですか?」
松明の橙は、もうすぐ近くにまで来ている。
いっそこのまま追いつかせてやったほうが、エルディノーラにとっても世の中にとってもよい気がした。街までの方角は、追っ手から聞き出せば済む話だ。
わざと時間をかけてみる。
ナナヤはあきれたように腰に両手をあてた。
「あたりまえだろ。他に何がいるんだ」
「あの人たちでしたら、奴隷商の方々に雇われた暗殺者ギルドの方たちですけれど……」
びゅうと夜風が吹いて、エルディノーラが浮かんだ金色の髪を片手で押さえた。木の葉の擦れる音だけがざわざわと響く。
「………………なんて?」
「奴隷商人の傭兵です。ご職業は暗殺者です。人数は十五名ほどです」
最重要事項を箇条にして淡々と告げるエルディノーラとは対照的に、ナナヤの顔が歪んだ。
「それ、ホントのことなら大問題じゃないの……」
「ほんとですよ。え? え? 信じてくださらなかったのですか?」
昨今、王都バルモアに出没するようになった人さらいの話は、三日離れた場に位置する平和なシンドウの街にも伝わってきている。被害者は主に王都で暮らす若い娘らだ。
ナナヤはもう一度視線を斜面下へと向けた。
橙の灯りはもうすぐそこだ。深夜でなければ、すでに見つかっていてもおかしくはな……い…………って。
ナナヤは自分のランタンに視線を落としてから、真顔で尋ねる。
「エルディノーラ、キミのランタンは?」
「捨てました。位置がばれちゃいますので」
ふぁ~~~っく!
おそらく手遅れだろうが、ランタンの灯り、ライトの魔法を消す。
濃い闇の中で、エルディノーラがにっこり微笑むのがかろうじて見えた。
「ありがとうございます」
「い~え~……」
ナナヤはうつむき、額に手をあてる。
やってしまった。どうやら追っ手とやらをおびき寄せてしまったのは自分らしい。
だが妙だ。ならばエルディノーラには、ランタンぶら下げて深夜に霊峰を登るマヌケを囮にして、自分は安全に逃走するという選択肢もあったはずだ。
なぜそれをしなかったのか。考えられることは二つ。
おれをどうにかして巻き込みたかったか、もしくは善良なるマヌケが人さらいと接触しないよう、注意喚起をしにきたかだ。
「……キミはどっちだ?」
「何がです?」
にこにこ。エルディノーラは無邪気な笑みを浮かべている。対するナナヤは、げんなりしていた。
巻き込みたかったのだとしたら追っ手が奴隷商だなどと教えるメリットはないし、救おうとしてくれたのだとしたら、すぐにランタンの灯りを消せと教えるだろう。
「ん~……?」
わからん。まったくもってわからん。この娘が何を考えているのか。あるいは何も考えていないのかもしれないけれど。
いずれにせよ――。
シダ植物を蹴散らしながら腐葉土を踏みしめる音と、松明の灯りがナナヤとエルディノーラの周囲に広がり、二人を闇から照らし出す。
「あぁ、囲まれてしまいましたね」
「……そのようで」
――もう手遅れだ。
ぽんこつお嬢さまはいつも脳天気。