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1.魔法喰い、未だ魔法の味知らず

見た目キツくても食べると美味しいものもいっぱいあるよね。

 青年は歩く。雲に隠れた月の下を。

 深い森の枯れ葉積もる斜面を踏みしめて、腰に吊した魔術灯(ランタン)の白い灯りを頼りに、ひたすらに登る。

 額に浮いた汗を、安っぽい麻でできた旅の外套(マント)で拭いて、針葉樹の幹に手をつき、苔生した岩に足を取られぬよう注意を払いながら。


「……ああ、まったくついてない……」


 どこだろうか、ここは……。

 方角を見失って久しい。そもそも鬱蒼としたこの森が悪いのだ。視線を上げても月や太陽の位置すらたしかめられない。


 失敗した。この霊峰シャルナノーグを甘く見ていた。

 迂回する街道を進めば、わずか三日で自宅のある街まで帰れたはずだった。ところが三日もかかるのは面倒に思い、直進して帰ろうと考えた結果がこの有様だ。

 霊峰に踏み込んで、今日で三日目になる。


 無駄だった。まったくの無駄だ。急がば回れ、という諺など存在しない世界に来て数十年、すっかり忘れてしまっていた。


「あぁ……勘弁してくれ……」


 左の腰に吊したショートソードが、やたらと重く感じられる。こんなもの持ってくるんじゃなかった。右手に持った王都産高級ドッグフードのたらふく詰まった巨大な袋は、さらに重い。

 こんなもののために。こんなものを買うためだけに、己は。


 袋からは、なんとも言えない芳しい香りが漂っている。犬がもっとも喜ぶ、まろやかなコクを思わせる肉の匂いだ。


 ……グビッと青年の喉が鳴った。

 左右をきょろきょろと見回す。むろん人影などあろうはずもない。聖なる霊峰ゆえか、魔物の姿もこの三日間は見ていない。

 つまり、誰も青年の所業を止めるものなどいないのだ。

 そう。たとえ畜生の餌に手を伸ばそうとも。


「……」


 袋を開けて手を突っ込み……首を左右に勢いよく振って、強く握りしめた震える空の手を、涙ながらに取り出す。


「人間の……ッ、尊厳……ッ」


 まだだ! まだ捨て去るには早すぎる! 大丈夫! おれはまだ大丈夫だ!


 葛藤。そこには人間としての尊厳を守るための、美しき葛藤があった。


「……尊厳がどうかされまして?」

「うわっ!?」


 跳び上がって振り返ると、そこには場違いな少女がいた。

 枯れ葉の絡んだ長い金色の髪はそれでもランタンの白い光を浴びて輝き、肌は土に汚れてなお、陶器のように白い。

 少女がもう一度同じ言葉を繰り返す。


「尊厳がどうかされまして?」


 鈴を転がすような、穏やかで可愛らしい声をしていた。


「い、いや、な、なんでもない」


 霊峰シャルナノーグを登るには、あまりにも場違いな格好である。

 少女は縁に黒いレースがあしらわれた白のドレスの裾を指先でつまみ上げ、一端の淑女のごとく、にっこり微笑みながら優雅に膝を曲げる。


「ごきげんよう」

「ごきげん……よう……」


 反射的に返事をしてしまったが、誰だこれは?

 登山をするにはあまりに夜深く、さりとて霊峰に住まうにはあまりに豪奢な服装。靴ですら、今から舞踏会に出席するのよオホホ、と(のたま)われても違和感のない代物である。全体的に貴族じみているのだ。


 青年は青ざめながら思った。

 出た……、と。

 霊峰シャルナノーグは古戦場である。今でこそ魔王を討ち、人の治める世となったが、かつてここでは大いなる悲劇があった。


 山岳都市シャルナノーグ――。

 人間世界を蹂躙した魔王軍に、最初に滅ぼされた都市の名だ。


 王都バルモアの王は躍起になってシャルナノーグに取り残された人々を救うため、何度も騎士団を派兵した。だが結局のところ、異界から召喚された勇者によって魔王が討たれるその日まで、この地が魔族の支配領域から脱することはなかった。

 シャルナノーグの住民は、誰も救われることがなかったのである。


 先ほどとは別の意味で、青年の喉がグビっと鳴る。

 つぅと、その額から汗が頬を伝った。


「あの~……」

「はい?」


 心臓から押し出される血液が、耳のあたりでざわついている。

 魔物には散々遭ってきたが、幽霊というものは始めて見る。ここではない世界にいた頃から、この世界に来てからこっちもだ。


 少女はにっこり微笑んだまま、首を傾げて青年の言葉を待っている。

 ずいぶんとおっとりした幽霊だ。それに驚くほどの美少女でもある。

 だが、それがどうした。冗談じゃない。()()()()もう取り憑かれてたまるものか。ただでさえ、己の心臓には忌まわしき呪いがかけられているのだから。勘弁、勘弁だ。

 青年は引き攣った笑みを返す。


「……成仏……したほうがいいと思う……よ……」

「?」


 少女の首が地面と垂直に戻り、逆側に倒された。

 なんということだろう。この哀れなる少女は自らの死にまだ気づいていないのだ。

 青年の黒目と、少女の碧眼が見つめ合い、同時に愛想笑いを浮かべる。


「あ、そうですわっ」


 少女が突然、胸の前でポンと両手を合わせた。


「わたくし、エルディノーラ・ランシールと申しますの」


 ランシール家。たしか、古くから王都に住まう大貴族の性だ。王家とも親しいと聞く。

 お上品な仕草や凝ったドレスから察するに、妙に説得力がある。そんなところの娘が、深夜にこのような霊峰にいることは不自然だが。

 にこにこ微笑んで、少女エルディノーラは青年の反応を待つように微かに首を傾げて。


「…………おれは……ナナヤ……」

「ナナヤ様。わあっ、ステキなお名前。珍しい響きですね。どこのご出身かしら。黒い髪に黒い瞳なんて、とってもミステリアスだわ」


 隠すわけではないが、言ってもわからないのは明白だ。


「遠いところだよ。ずっとね」


 それでもエルディノーラは後ろ手を組んで、胸を張るように上体を前に出し、微笑みながら満足げにうなずいた。


「あら、そうなのですね。それは少し寂しいですね」

「……かもね」


 青年は適当な返事を誤魔化すように、肩をすくめる。

 魅力的な仕草だ。女性らしい女性は嫌いじゃない。特別好きでもないけれど。

 幽霊ではないのかもしれないと、ナナヤは今になって思い始めた。内心で胸を撫で下ろす。

 エルディノーラはナナヤの腰のショートソードに目をやってから、のんびりとした口調で呟いた。


「それでですね、ナナヤ様。実はわたくし今追われる身でして、どうか助けてはいただけないでしょうか」

「……?」


 眉をひそめた瞬間だった。

 少女の背後。斜面下からちらほらと見える、(だいだい)色の灯りに気がついたのは。


 勘弁してくれ……。


ドッグフードの匂いってなんとも言えない魅力があるよね。

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