五話目
何かを二、三言唱えた彼女が、自分の右の人差し指で、左の手のひらをなぞる。何でもない動作に見えたそれは、彼女の左手を切り裂いていた。
鎧から切り離された手甲は、鋼鉄の芋虫のように、彼女の足の下でもがき、暴れている。それに向かって、彼女は自分の血のしずくを垂らした。
「虚ろなものに巻きつき絡みつく不快な糸よ、我が血はお前の干渉を許可しない。切れよ解けよ消えよ」
彼女のつぶやきに、手甲から業火が燃え上がった。彼女を包み込むように燃え盛る、青い炎。慌てて駆け寄ろうとしたぼくの肩に、不意に右肩に重みが乗った。サムとミオだ。
「大丈夫です。解呪の返しですが、あんな軽い呪いでは、彼女の髪の先も燃えませんよ」
両手をそろえると、サムたちがそこに飛び降りてくる。先ほどまで弾丸のように飛び回っていたとは思えないほど、ゆったりとした動作だった。
すごいね。サムたちは強いんだな。
「あなたの騎士ですので」
誇らしげに胸を張るサムと、ひくひくと鼻を動かすミオに、ぼくは少し笑った。
「目、覚ましたんだな、ちょうどよかった。こっちもいろいろわかってきたところだ」
炎が消えて現れた彼女に平然と声をかけられて、思わず頭の先からつま先まで見てしまう。サムの言う通りスカートのすそから髪の毛から、ストッキングまで、燃えたところはおろか、焦げたところも一切なかった。
「お目覚めではあるのですが」
困ったようにサムがぼくを見上げ、ぼくも困って彼を見下ろした。
「ご記憶がないそうなのです」
驚いたように目を瞠った彼女は、小さくなるほど、と呟いた。その意味を聞く前に、彼女は続けた。
「じゃあ、あたしのこともわかんないか。あたしは魔女と呼ばれている。お前の味方だ。まあ、判断は任せる」
信じます。
「そりゃありがたいけど、あんまり簡単に信じるのも良くないぞ」
貴女はこの部屋の扉を開けられたし、サムも貴女を信頼しているから。
簡単といわれればそうだけど、一応判断はした。ぼくは、寝室の扉の名前をぽんぽん誰にでも教えるわけはないと思う。
「ふうん、なんかお前、記憶あってもなくても、あんまかわんないな」
笑いながら、魔女はぼくの肩をばしばしと叩いた。
「こんな無礼な人ですが、頼りにはなります。いまは魔法を使えるのは大陸全体でも数十人、彼女は残念ながらその中でも、5本の指に入る力の持ち主ですから」
「残念ながらってどういうことだよ」
そのままですけど、と答えるサムを魔女が睨む。険悪な雰囲気に言い争いが始まるのかと思いきや、彼女はくるりとこちらを向いた。
「ところで、お腹空いてないか?厨房からいろいろ持ってきたんだ」
言われて、胃に手を当てる。そういわれると確かに、空腹を感じた。
「調査に行っていたんじゃないんですか?」
「腹が減っては戦はできぬ」
魔女がくるくると空気を集めるように指をまわすと、白い包みが現れた。中にはパンやチーズやケーキが乱雑に詰め込まれている。
魔法ってすごいんだな。
「名前の力に比べたら、ささいなもんだよ」
ささい、かなあ。どちらもいまのぼくには使えないのだから、しょうがないけど。