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あれは確か日曜の夜だったと思う。
家で那美の作った夕食を食べて、ひめと遊んでた時だった。
ひめは猫嫌いな俺に何故か纏わりついてくるから
仕方なく時々相手にしてやってた。
週末には滅多に鳴ることの無い携帯電話が鳴って
誰だろうと思って着信番号を確認したけれど、まったく知らない番号だった。
しつこく鳴るので仕方なく出てみると、それは久しぶりに聞く女の声で
しかもその声は震えてて・・・泣いてるのか?
どうしても放っておけなくて 俺は那美に適当に言って
夜の町で飲みつぶれてるであろうその女、『 京子 』の所に向かった。
来て欲しいと言った店にはもうすでに京子の姿は無くて
あちこちと店の子に尋ねながら、三軒目でやっと捕まえた。
「あれ、来たの?」
まるでさっき泣いてたのが嘘みたいに笑顔で陽気に言いやがるから
頭に来て帰ろうかと思ったけど、そうは言ってもかなり酔っ払ってたし
ここまで来たからには理由も教えてもらわないと納得できないと思って
俺は京子の横に座ってビールを注文した。
「お前なぁ、いい加減にしてくれよな。明日仕事なんだぞ、俺 」
「だったら帰れば?いいよ、私は。一人で飲むし・・・」
「何があった?」
京子はしばらく何も言わないで、黙ってブランデーを生地のまま煽ってた。
どうせやめろって言ったところで聞きゃしないだろうと
俺も横で黙って飲んでたら、京子がぽつりぽつりと話始めた。
聞けば結婚した相手の親と、どうしてもうまくいかなくて離婚したと言う。
子供は自分が引き取って育てるって言ってた。
簡単に離婚なんかすんなよって言ったんだけど、逆に怒って簡単じゃないよって言われた。
きっと辛い思いをたくさんしたんだろうと思った。
それからは子供の話とかこれからの仕事の話とか、そんな他愛も無い話をして時間が過ぎていった。
「送っていくから。実家だろ。子供、親に預けてんのか?」
「いい・・・一人で帰れるから。今日はごめんね。ありがと。来てくれて・・・」
「置いて帰れないだろ。そんな酔ってて。いいから来い」
俺は無理やり京子の手を取って車に乗せた。
しばらくは窓の外を見てたけど、よく見たらどうやら泣いてるみたいで
だけど俺は何もしてやれない。
この時、俺の脳裏を掠めたのは女房ではなく
彼女の方だった。
泣いてる京子を見てみない振りをして、黙ったまま家の近くまで送って行ったけど
そんな姿、子供には見られたくないからと言って
京子は俺の車を降りてまたどっかに行こうとしてた。
仕方なく俺も車を路肩に止めて二人で夜道を少し散歩した。
「あれからいろんな事が変わっちゃったんだね。なんかさ、私、浦島太郎みたいになってるよね。夜の世界でさ」
「当たり前だろ。もう戻れねーよ。あの頃にはさ」
「はは、だよね。私、どうしたらいいんだろね」
俺に答えを求めたわけじゃ無いとは思うけど、やっぱり何も言える訳もなくて
京子がどんな思いでこんな事になったのかなんて想像もできゃしない。
「とりあえずはまた、働かなくっちゃね」
「子供いるんだから、昼働いた方がいいんじゃねーか?」
「だけど昼間の仕事ってしたこと無いからねぇー。私にできるかな」
そういえば前に聞いたことがある。
京子の父親は働かない男で、酒飲みの博打打で女遊びばっかりしてるらしく
母親は生活費を稼ぐために昼も夜も働いて体を壊してしまったって。
そんな母親に少しでも楽させてやりたいからって
高校卒業と同時に水商売の世界に入ったって言ってた。
昼の仕事じゃ食べていけないって。
そんな父親でも自分にはすごく優しいから嫌いにはなれないんだよって
お母さんも全部分かってて別れないんだからおかしいよねって笑って言う京子に対して
金で苦労したことの無い俺はある意味、尊敬に近いものを感じた。
アルバイトじゃなく本職として、そんな若い年から家族を養うためにこの仕事を選んだ京子の気持ちを考えたら
俺は本当に気楽に生きてきたんだなって、あの時そう思ったんだ。
「ところでさ、まだ付き合ってるの?彼女」
「いいじゃねぇか、どっちでも」
「もしかして・・・別れちゃった?」
「今でも健気に待つ女、やってくれてるよ 」
「そっか。悪い人だね。吉永さんもさ」
「自分が一番よく分かってるから、お前が言うなって」
「そう思うなら私みたいな後腐れの無い女にしといたらいいのに。あの子はそういう意味じゃ純粋すぎるからさ」
遊びで彼女と付き合ってるんじゃないって言ってやりたかったけど
既婚者の俺が何を言ったところで、他人から見たらきっとただの浮気にしか思われないだろう。
人に説明して分かってもらえるようなことじゃないから。
「ねぇ、吉永さんさ、私の事どう思う?」
「何だよ・・・どうって・・・・・」
「私のこと、好き?」
嫌いだったら来ねぇよって言ってやりたかったけどやめた。
だからって恋愛感情があるっていう訳じゃないから。
こんなとこ彼女に見られたら絶対泣かれるなって思うと、途端に早く家に帰りたくなった。
彼女との約束を思い出したから。
週末は家に居て欲しいっていう彼女の願い。
それは那美に対するせめてもの罪滅ぼしだということはわかってた。
彼女はそういう女だから。
「俺、帰るわ。お前も早く戻れよ」
「ちょっ!吉永さん!」
後ろから呼び戻された声に振り返らずに答えた。
「・・・俺、そんな気ないからさ」
そのまま何も聞かず何も言わず、俺は車に戻りまっすぐ家に帰った。
本当は京子の事が心配だったけど、こんな俺に何かしてやれる訳でもない。
だけど京子からの呼び出しはそれからも頻繁にかかってきた。
その度に酔っ払っててぐだを撒き散らす。
来てくれないとどっかから飛び降りるよって言ったりすることもあった。
そんなの冗談に決まってるって思ってても、やっぱり気になって結局迎えに行ってしまう。
土曜も日曜も関係なく連絡をよこしてくる京子。
正直言ってそうしょっちゅうだと、さすがに俺も疲れてきてた。
それも俺の仕事が終わる時間を見計らってかけてくるから
彼女と会える時間が確実に減ってしまってた。
そしてそんな俺のおかしな行動に、彼女も薄々何かに気付き始めてるみたいだった。
京子が知り合いには会いたくないって言い張った。
自分の事をみんなが笑ってるに違いないからって。
被害妄想もいいとこだって思ったけど、酔って泣いて電話してくる京子を放っておくことはできなかった。
しばらくすればきっと落ち着いてくるだろうからと思ってた。
彼女には毎日電話はしてたし、京子がちゃんと仕事見付けて普通の状態に戻ったら
その時には彼女にすべて話をしようと思ってた。
きっと分かってくれるって信じてたから。
でも実際は、だんだんそうもいかなくなってた。
京子が俺を、本気で誘ってきたから。
マジなのか、ただ寂しいだけなのか、本意がわからない。
だけど女に抱いてくれないかって言われて、断るのは本当に申し訳ないと思った。
そりゃ普通の男なら勿体無いって思うんだろうけど
俺は京子を抱く気はさらさらなかった。
友達だからこうして傍にいるんだと説明したんだけど
京子にとっては恥をかかされたという思いだったんだろう。
執拗なまでに俺を誘惑してきた京子が本当に悲しくて・・・・・
こんな女じゃなかったのにって思うと悔しくて・・・・・
死んでしまいたい・・・・・
そう口走った京子を見捨てることができなかった。
元の男勝りの気の強い京子に戻るまで
せめて少しでも傍にいてやろうと思った。
そんな時、仕事中にノブから電話がかかってきて
その日の夜会えないかって言われた。
京子が何処かで飲んだくれてるとしたらまた迎えに来いと言われるだろう。
早い時間なら会えるとノブに言った。
そして仕事が終わってすぐにノブに連絡して居酒屋で待ち合わせた。
もしかしたら彼女を連れてくるかもしれないとちょっと心配したけど
ノブは一人でやってきて、話があるからと言って隣に座った。
「何だよお前、改まってさ」
「達也、今女いるか?」
「いるだろ一人。おまえに預けてるのが」
「それ以外にだよ」
彼女に何か言われたんだと直感でわかった。
こいつは俺と違ってあんまり恋愛には興味がない。
昔っから定規で線ばっかり引いてるやつだから。
それが彼女の事で俺に何か言いにくるなんてな。
もしかして本格的にまずいかなって思った。
ちょっとだけ、ノブに預けた事を後悔した。
本当の事を言わないと彼女を失ってしまう気がしたから
ノブにだけは全部本当の事を話した。
「お前、それ香織ちゃんに何で言わないんだ?」
「京子とのこと、あいつ昔疑ってたからな。変な誤解されてもな」
「お人よしもそこまでいくとアホだな。だいたいさ、死ぬって言うやつに限って長生きするもんだぞ」
「ほっとけ。でも言うなよ。あいつ気にすると思うから」
「言わねぇよ。っていうか言えるかよ。あんなに寂しそうにしてるのに」
「悪いな、迷惑かけて・・・・・」
「それがさ、迷惑とは思えないから・・・困ってるんだけどなぁ」
こいつ・・・・・・・なんつった?
どういう意味だ・・・・・・・・・・・
「・・・・・冗談だよな・・・ノブ」
「まじかもな、案外。ただ俺も、今はお前の事は言えないけどな・・・・・」
「さっさと結婚しちまえよな。まったく・・・・・勘弁してくれよ」
「残念ながら俺はお前とは同じラインにも立ててない。少なくとも今はな」
ノブはマジだ。
長い付き合いだからそれぐらいわかる。
彼女に本気で惚れ初めてるってことぐらい。
この時、俺はノブに、少しだけど怒りを覚えた。
「香織ちゃんさ、お前の事ばっかり考えてるぞ」
「悪いと思ってる。だけどノブ、俺は・・・」
「なぁ達也、彼女の幸せって、考えたことあるか?」
「・・・何が言いたい?」
「いや・・・・・考えるのにはいい機会かもなって思っただけ」
「ノブは考えたことあるのかよ。あいつの幸せってやつをよ」
その時、案の定俺の携帯が鳴った。
着信は京子で、出ようか出まいか悩んでたら切れてしまった。
「じゃ俺いくわ。またな」
「おい・・・ノブ・・・・・」
呼び止める俺に背中向けたまま手を振って、ノブは行ってしまった。
そのあとすぐに俺は彼女に電話して家に向かった。
京子のことはその日だけは無視することにした。
携帯電話の電源は落として・・・。
会って不安そうにしてる彼女を抱きしめた。
そうしていながらもノブの意味深な言葉が気になって、つい考え込んでしまった。
彼女が俺に、自分の事飽きたのかって聞いてきた。
そんなはずはないだろうって言って、久しぶりに思う存分彼女を抱いた。
こんなに不安な気持ちにさせてしまって、いっそ全部話してしまおうかと思ったけど
相手が京子だということもあってどうしても言えなかった。
だけど・・・やっぱり話しておくべきだった。
まさかあんな風に俺と京子が二人で居るところを
見られるとは思っても無かったから。
完全に俺のミスだった。
彼女を良く連れて行く店なのに、京子を連れて行ってしまった。
ここのママなら京子の話を聞いてくれると思ったからだった。
俺が止めるのも聞かずに店を飛び出して帰ってしまった彼女を追いかけようとして京子に止められた。
「行かないでよ。お願いだからさ、一人にしないでよ」
「悪いけど俺、行く。ごめんな、京子」
「行ったらあの子にあることないこと言うかもしれないよ。彼女ってなんでも信じるからね。それでもいいの?」
悪魔のような言葉を天使のような顔で言ってのける女。
俺が黙って京子の顔を睨み付けてると
少しの間を置いてママが言った。
「京子さん、今日は私と飲まない?いいじゃない。こんな人いなくても」
「・・・ふふっ、確かにね。冗談よ。行ってあげて。きっと誤解してるからさ」
それから車をぶっ飛ばして彼女のアパートに行った。
でも 彼女はまだ帰ってなくて、もしかしたら居留守かもしれないと思って呼び鈴を鳴らしたけど
どうやらそうじゃなくて、俺は玄関の前に座り込んだ。
どこに行ったんだろうか。何て話そうか。
そんな事ぼんやりと考えてたら、しばらくして彼女が帰ってきた。
彼女は俺の顔も見ようとしないで早く帰れって言った。
完全に疑ってて俺の話を聞こうともしない。
そのうち泣き出してしまって・・・・・。
その時何を言っても、きっと無駄だと思った。
言い訳にしか聞こえないに決まってる。
たとえ関係はないにしろ、京子と二人で会ってたのは事実なんだから。
それだけでも
彼女を悲しませるには十分だったから。